高橋政知

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たかはし まさとも
高橋 政知
生誕 1913年9月4日
福島県福島市
死没 (2000-01-31) 2000年1月31日(86歳没)
東京都港区
死因 心不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
職業 実業家
活動期間 1939 - 2000
肩書き オリエンタルランド代表取締役相談役
任期 1995 - 2000
前任者 川﨑千春
後任者 森光明
加藤康三
取締役会 京成電鉄
三井不動産
千葉県
配偶者 高橋弘子(妻)
太田政弘(父親)
太田タミエ(母親)

高橋 政知(たかはし まさとも、1913年9月4日 - 2000年1月31日)は、日本の実業家である。

来歴・人物

福島県福島市生まれ。1961年オリエンタルランド専務として入社。1978年8月に第2代同社社長に就任する。千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉を担当した後、「東京ディズニーランド」の建設のために、ディズニー社との交渉などを担当する。その後、世界初の「」をテーマにしたディズニーパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現に大きな役割を果たした。東京ディズニーシーが完成間近となった2000年1月31日心不全のため東京都港区の病院で死去。享年86。故人の遺志により、葬儀は近親者のみで実施され、後日オリエンタルランドによる「お別れの会」が開かれた。

生い立ちと妻・弘子との出会い

福島県福島市にて太田政弘・タミエ夫妻の次男として生まれる。父・政弘は、旧制一高から東京帝大へ進み、貴族院議員まで勤め上げた内務官僚である。内務官僚時代には原敬に厚遇され、そのことが警視総監や福島県知事、台湾総督などを歴任することにもつながっていった。

政弘が福島県知事在職中、後妻であるタミエとの間に次男として生まれたのが「政知」であった。「政知」とは、父・政弘の「」と知事の「」から一字ずつもらい、付けられたものである。

父・政弘はかなりの酒豪としても知られ、政知は学生時代から父に酒の手ほどきを受けていたという。また、六尺二十貫という体躯からも想像できるように、喧嘩も強く、いつも政知に喧嘩の極意を言い聞かせていたという。後に政知を特徴付ける酒の強さ、負けん気の強さは、すでにこの頃から養われていた。

第一東京市立中学山形高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部へと進んだが、戦争の影が政知のすぐ近くまで忍び寄ってきていた。1939年に大学を卒業後、父に反発する形で、理研コンツェルンの創始者である大河内正敏が経営する理研重工業に入社する。

入社の翌年には、当時富士製紙の専務に就いていた高橋貞三郎の一人娘・弘子と見合い結婚。婿養子として高橋家に入り、「太田」から「高橋」に改姓した。かなりの資産家だった高橋家には数多くの見合い話が持ち込まれていたが、弘子の目に留まったのは政知だった。一方、政知自身は、自分を政治家の娘と結婚させたがっていた父親の機先を制するために、太田家に持ち込まれていた十数枚もの見合い写真のなかから一番の美女を選んだという。そのあまりの美貌さに妹は驚き、見合いの失敗を確信するほどであった。

高橋夫妻は、上海にあるフランス租界で暮らしていたが、政知はそこで赤紙を受け取り、一路ラバウルへと向かう。一緒に出発した輸送船三隻のうち、無傷でラバウルに到着できたのは、政知が乗った「平安丸」ただ一隻だった。残りの二隻は、アメリカ軍からの攻撃を受け、大きな被害を受けていた。このようなところにも、高橋の「強運」があった。戦後はオーストラリア軍の捕虜となるも、無事に復員した。

「酒豪の交渉役」として

戦後直後の就職難のため、思うような就職先を見つけることができなかったが、日本石油(現在の新日本石油)の特約店だった富士石油販売に役員として招かれることになる。この比較的小さな特約店での仕事の中で、高橋は当時三井不動産で取締役業務部長を務めていた江戸英雄と出会う。江戸は高橋に「オリエンタルランド」という会社を紹介した人物である。江戸は高橋と違い小柄だが、度胸の良さと懐の大きさを感じさせる人柄で、二人はすぐに意気投合し、よく酒を酌み交わした。

「オリエンタルランド」が設立されたのは、1960年7月11日のことである。千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として、三井不動産・京成電鉄・朝日土地興業(船橋ヘルスセンターの運営会社で、後に三井不動産に吸収合併)の三社による出資で設立された。

当時、この会社の社長を務めていたのは、川崎千春。「日本にディズニーランドを持って来よう」という、当時としてはとてつもない夢物語を打ち立てる人物である。1958年1月、「京成バラ園」で販売するバラの買い付けへと出かけたアメリカで、その3年前にオープンしたばかりの「ディズニーランド」に出会い、深い感銘を受けたのが川崎であった。その後、川崎は、この夢と魔法の国に対して強い情熱を傾けていくこととなる。

高橋は江戸の紹介で、この会社に「浦安漁民との漁業補償交渉」を目的として入社した。高橋の酒豪ぶりを知り尽くしていた江戸が、漁民との交渉役に適任である旨、川崎に紹介状を書いたのである。入社時の役職は「専務」であった。

この会社で高橋は、上澤昇加賀見俊夫といった、その後共に「東京ディズニーランド」や「東京ディズニーリゾート」の実現に尽力する人々と出会うのである。

高橋が入社した当時、オリエンタルランドは名だけの会社だった。社屋はおろか専用の部屋も与えられず、京成電鉄本社内の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が、「本社」であった。社員わずか三名、実働部隊は「高橋」ただ一人という状態だった。

補償交渉は難航が予想されていた。気性が荒い海の男が相手であることに加え、当時の浦安の漁業組合が二つに分裂していたことも、オリエンタルランドにとっては逆風だった。そんな状況を見ていた江戸は、相手の心をしっかりと掴むことのできる人間として、大酒を酌み交わし、腹を割って話し合うことが出来る交渉役を必要としていた。高橋はまさにこの「交渉役」にピッタリな人物だった。旧制高校から東京帝大に進んだエリートにもかかわらず、虚栄心や驕り高ぶることは一切無く、いつでもどんな人に対しても一人の人間として、常に水平な目線を保ちながら対話をすることができたと伝記では書かれている。

直接漁民の家を訪ねていっては、次々に交渉をまとめていく高橋。それに加え、連日連夜は漁業組合の実力者を高級料亭に招待しては、酒を酌み交わし、交渉を続けていった。最初から一流料亭に招待したのも、高橋の誠意であった。そんな高橋に多くの漁民達がほれ込むようになった。

「東京ディズニーランド」の実現のために

高橋の必死の交渉が実り、浦安沖の漁業補償は無事に決着した。川崎の命を受けた高橋は、早速千葉県に掛け合い、埋め立て後の遊園地用地約330万m2の払い下げを申し込んだ。ところが、当時の千葉県知事であった友納武人は驚き、「ディズニーランド」でさえ約83万m2なのだからといって納得しなかった。困った高橋は、なんとか約250万m2の土地を払い下げてもらうということで知事を説得し、話をつけた。ところが、それを知った川崎はひどく不機嫌なのである。川崎は、高度経済成長による所得の向上でレジャー施設の人気が高まってきたことに備えて、その周辺にホテルなどの宿泊施設を建設したいと考えていたのだ。

結局、オリエンタルランドは県の依頼を受け、商業地も含めた約380万m2の土地を払い下げてもらうことが決まった。実は、当初県は埋立地のうち約130万m2を住宅地として売り出す予定だったのだが、「埋立地で地盤が悪い」との前評判が立ってしまい、買い手がつかなかった。泣く泣くオリエンタルランドにその分の土地を購入してもらうよう求めてきたのである。

埋立地の払い下げにも見通しがたった後、高橋が直面したのは、資金の手当てだった。当時のオリエンタルランドは名ばかりの弱小企業であったことに加え、土地がまだ出来上がっておらず、担保も無かったことから、どの銀行も融資には難色を示した。そこで、埋め立て工事を県から委託してもらい、完成した土地を担保にして資金を借りようと考えた。

この請願を千葉県議会に提出したところ、承認をもらうことができたが、県庁の担当者が首を縦に振ろうとしないため、高橋が友納知事に直接交渉に出かけることとなったが、この交渉は決裂した。前例がないことを理由に頑なに拒否する知事に対して、高橋は知事を怒鳴りつけ、知事室を立ち去った。高橋の気の強さを象徴するような話だが、周囲は困惑した。この状況を見ていた川崎が知事と高橋の間に入り、仲直りの席が設けられることとなった。最初は気まずい空気が流れていたものの、二人が同じ東京帝大法学部の出身で、同じ時期に同じ教授から憲法民法の指導を受けていたことが分かり、一気に和解することとなったという。

当初、高橋は、自分は「浦安漁民との漁業補償交渉」のために入社したのであって、「交渉が終了した時点でお役御免だ」と考えていたが、状況は一変する。アメリカ国外では史上初となるディズニーパークが「千葉県東葛飾郡浦安町」に建設されることが正式に決定すると、ディズニー社との交渉が開始されることとなった。しかし、権利関係にはかなり厳しいと言われるディズニー社との交渉は一筋縄ではいかなかった。川崎はかなりイライラしていた。そんな中、オイルショックの煽りを受け、京成電鉄の経営が傾き始め、融資していた銀行団から圧力がかかった。

本業である鉄道事業へ専念するよう銀行団から求められた川崎は、オリエンタルランドの社長を降りざるをえなかった。高橋は川崎のかわりに社長に就いたが、決して順風満帆のスタートではなかった。

準備作業は少しずつ進められていった。1977年3月には正式名称が「東京ディズニーランド」に決定、同年7月にはパーク内施設の協力企業(スポンサー)誘致活動が開始される。

ディズニー社との交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥っていた。そんな状況を持ち直したのが高橋である。高橋自身は川崎に比べ、ディズニーランドへの思い入れはそれほど深くなかった。ディズニーランドの日本への誘致について、熱く語る川崎を見た高橋は、イメージが湧かず、本気かどうか疑ったそうである。あくまでも自分の仕事は埋め立て事業を成功させることであって、ディズニーランドは自分の仕事ではないという気持ちの方が強かった。だが、埋め立て事業に携わる中で、浦安のこの土地に愛着を持ち、浦安のこの土地に国民の幸福に寄与するものを作りたいという思いが強くなっていった。だからこそ、反対勢力には猛烈に反抗し、「事業家としてやるべきことはやる」という意地もあった。ディズニー社の人間から、「日本人は優柔不断だ」と思われることにも我慢がならなかった。

その後、ディズニー社とオリエンタルランドとの間で基本契約を取り交わしたのは、1979年4月30日のことである。ディズニー社の首脳が来日してから、すでに4年5か月が経過していた。そのときの様子を写した写真には、握手を交わす高橋とカードン・ウォーカー社長(ディズニー社・当時)の間にミッキーマウスの姿があった。

東京ディズニーランドの建設工事は、基本契約締結から1年半が経過した、1980年12月に着工を迎えた。当初1,000億円を予定していた総事業費は、なんと1,800億円まで膨れ上がっていった。しかし、高橋は、金に糸目はつけず「本物」を造るよう、担当スタッフを鼓舞激励した。結果から見れば、これはテーマパーク成功に必要な経営者の姿勢でもあった。目先の工事費を惜しんでも、出来上がるのは貧弱なものに他ならない。高橋はその点をよく心得ていた。もちろん、建設費は膨らんでいき、関係者からの批判も高まっていったが、高橋は一歩も引こうとはしなかった。ディズニー社から派遣されてきた人間たちが納得し、快く仕事ができるよう、全面的に矢面に立った。その一方で、「ディズニー社の人間」だからといって気を使うことも無く、言いたいことは自らどしどし言う、こういった攻守のバランスがしっかりととられていたことも、ディズニー社との良好な関係を保つことができた理由のひとつだった。

1983年3月には、「東京ディズニーランド竣工式」が執り行われた。そして、4月15日には2万6,000人もの入園客を迎え、「グランドオープニングセレモニー」を開催することとなった。川崎が、1958年1月に「ディズニーランド」というものに出会い、強い感銘を受けて以来25年の歳月が経過していた。当時相談役に就いていた川崎は、長年の夢が叶った喜びを隠すことができず、涙ぐんでいた。それを見た高橋も、感激の面持ちだった。

「パーク」から「リゾート」へ

1970年代に立て続けに発生したオイルショックの後の、緩やかな経済成長期に開業したこの「テーマパーク」は、「余暇をいかに楽しむか」を考える余裕が出てきた日本人の心をつかみ、初年度は1036万人もの入園者を数えた。その後、「つくば科学博」の開催による相乗効果で入園者数を伸ばしたほか、バブル景気の影響で全国各地に建設された遊園地の中でも強い独自色を発揮し、着実に入園者数を増やしていくのであった。また、その入園者数に甘んじることなく、「永遠に完成しない場所」というウォルト・ディズニーの考え方をコンセプトとして、様々な分野において改善の手を加え続けていった。

高橋が社長として陣頭指揮をとっていた矢先、1988年4月に妻・弘子が心臓病で倒れた。公私混同を徹底して嫌っていた高橋は、会社には迷惑はかけられないと同年6月25日付で会長職に退き、三井物産及び日本興業銀行出身の森光明に後を譲り、毎晩病室に泊り込んでは、そこから会社に通う日々が始まった。高橋は、これが妻へのせめてもの恩返しだと考えていた。

政治家への政治献金など、会社から出しにくい金は全て高橋の自腹だった。それを可能にしたのは、妻・弘子の実家である高橋家の財力である。書画・骨董が無くなっていくのを黙って見守っていた弘子。おしどり夫婦として知られていたが、さすがに、東京・渋谷にあった邸宅を売却されたときには、そんな弘子でも怒ったという。現在、その邸宅は、ニュージーランド大使館として利用されている。

1986年1月、ディズニー社はオリエンタルランドに対して、舞浜地区全体の開発を目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案してきた。オリエンタルランド社内での検討の末、1988年4月15日に開かれた東京ディズニーランド開園5周年の記者会見の席上で、当時、会長に就任したばかりの高橋が「第2パーク構想」について発表、周囲はその向上心に驚いた。

その後、バブル景気の崩壊、ディズニー社との「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」をめぐるすれ違いと多額の違約金の支払い、ディズニー社との長期間にわたる議論などを経て、「東京ディズニーランド」に次ぐ第二のディズニーパークである「東京ディズニーシー」を始めとして、「イクスピアリ」、「ボン・ヴォヤージュ」など、現在の「東京ディズニーリゾート」を形作る施設の全体像が見え始めてきた。

1992年1月9日に後任の森光明が心筋梗塞で急死した。亡くなる前夜には、銀行関係の新年会に元気な姿で出席していたため、高橋もショックの色を隠しきれなかった。その後、高橋が社長職を兼務していたが、同年6月23日付で千葉県庁出身の加藤康三が社長に就任し、高橋の側近として「東京ディズニーリゾート」の実現に向けて努力していく事となる。そして同年には高橋の必死の看病もむなしく、愛妻・弘子も死去した。高橋の落胆ぶりは、周囲が直視できないほどであった。

1995年6月、高橋は相談役に退き、加藤康三が会長に、当時副社長を務めていた加賀見俊夫が社長に就任した。

「舞浜地区開発」「東京ディズニーリゾート計画」が着実に進む傍らで、高橋の体は着実に弱っていった。1999年の年末には、工事現場を見回るくらいであったものの、体調は急速に悪化していった。死の3日ほど前に「東京ディズニーシー」の工事状況を説明され、パーク中央にある「プロメテウス火山」の出来具合に満足そうにうなずいていた。

2000年1月31日、高橋は静かに息を引き取った。心不全だった。ディズニーランドとは切っては切り離せない、86年の生涯であった。生前、高橋は親族だけによる静かな見送りを望んでいたが、会社への貢献度の大きさからオリエンタルランドは社として「お別れ会」を企画した。その中で、加賀見は天国の高橋に対して、東京ディズニーリゾートの成功を固く誓った。

2001年9月4日、折りしも高橋の88回目の誕生日となるはずだったこの日、世界初の「」をテーマにした「ディズニーパーク」である「東京ディズニーシー」、そしてそのパークと一体型となったホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」がそろって開業した。高橋をはじめとした、多くのオリエンタルランドの社員たちの努力が、ついに実を結んだのであった。

東京ディズニーランドにあるワールドバザール「タウンセンター・ファッション」2階のショー・ウインドーに、「Office OF LEGENDARY CREATIONS」と記されているところがある。これは、1993年4月15日に、開園10周年を記念して記されたものである。直訳すると「伝説的創造のオフィス」、創立者の名前には「MASATOMO TAKAHASHI」の名前。隣のウインドーには、英語で「夢を追い求め、実現した人」と記され、高橋の後世に残る偉業をたたえている。なお、ディズニーパークで、記念として建物に名前が記された日本人は、高橋が初めてである。

参考文献

  • 『ディズニーランドという聖地』能登路雅子・岩波書店1990年・ISBN 4004301327
  • 『ディズニーリゾートの経済学』粟田房穂・東洋経済新報社2001年・ISBN 4492554254
  • 『海を越える想像力』加賀見俊夫・講談社2003年・ISBN 4062117223
  • 『東京ディズニーランドをつくった男たち』野口恒・ぶんか社2006年・ISBN 4821150654