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{{中華人民共和国}}
 
'''周 恩来'''(しゅう おんらい、[[1898年]][[3月5日]] - [[1976年]][[1月8日]])は[[中華人民共和国|中国]]の[[政治家]]。[[字]]は翔宇。[[中華人民共和国]]が建国された[[1949年]][[10月1日]]以来、死去するまで一貫して[[政務院総理]]・[[国務院総理]]([[首相]])を務めた。[[毛沢東]][[中国共産党中央委員会主席|共産党主席]]の信任を繋ぎとめ、[[文化大革命]]中も[[失脚]]しなかったことなどから「不倒翁」([[起き上がり小法師]])の異名がある。[[1972年]]に、日本国首相の[[田中角栄]](当時)と[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に調印したことでも知られている。
 
  
妻は[[鄧穎超]]、子女は[[孫維世]](養女・文化大革命で迫害死)、[[李鵬]](養子・のちに国務院総理)。
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'''周 恩来'''(しゅう おんらい、[[1898年]][[3月5日]] - [[1976年]][[1月8日]])
  
== 生涯 ==
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中国の政治家。
=== 生い立ち ===
 
周恩来は[[江蘇省]][[淮安]]の[[官僚]][[地主]]の家に生まれた。周恩来が13歳となった[[1911年]]、[[辛亥革命]]が起きる。翌[[1912年]]、[[清朝]]が崩壊し、[[中華民国]]が建国された。[[1913年]]、周恩来は[[天津市|天津]]の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。
 
  
=== 日本留学 ===
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字は少山,伍豪。
南開中学卒業後の[[1917年]]に、[[大日本帝国|日本]]に[[留学]]。日本語の習得不足により[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]と[[東京高等師範学校]]の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校([[法政大学]]付属学校)、[[明治大学]]政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。
 
  
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また[[日比谷公園]]や[[靖国神社]]、[[三越呉服店]]や[[浅草]]など、各所を積極的に見てまわっている。[[1918年]][[5月1日]]には[[靖国神社]]の大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」。また[[6月2日]]にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。同年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月については記録もなく、よくわかっていない。苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。
+
天津の南開中学を経て 1917年日本に留学。帰国後,南開大学に入り,五・四運動に参加し,逮捕投獄された。出獄後,進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなり,20年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,22年入党。 24年帰国し,党の広東省委員会書記となり,黄埔軍官学校政治部主任代理を兼任。 26年中山艦事件で逮捕。北伐が開始されると上海に潜入し,27年北伐軍に呼応する労働者の蜂起を指導したが,蒋介石の上海クーデターで逮捕され,武漢に脱出。国共分裂後,南昌暴動に参加。 28年モスクワで開かれた六全大会に出席,31年江西ソビエト区に入り政治局主席団の一人に選ばれ,軍事部長を兼任。 32年第1方面軍総政治委員,34年から革命軍事委員会副主席 (主席は朱徳) を兼ね,同年長征に参加。 36年 12月西安事件が起ると,党代表として蒋介石に内戦停止,[[国共合作]]を約束させる一方,蒋の生還に努力し,抗日民族統一戦線の結成を可能にした。日中戦争勃発後は国民政府の軍事委員会政治部副部長 (部長は陳誠) などの要職について,国共間の折衝の任にあたり,国民参政会の党代表団の一員でもあった。一方,党内では政治局副主席,革命軍事委員会副主席の要職にあった。 46年国共の武力衝突を避けるため,[[G.マーシャル]][[張群]]と三人委員会をつくり,同年の政治協商会議には党代表団長として政権の民主化に尽力。 49年の中華人民共和国成立後は政務院 (のち国務院) 総理兼外交部長となり,総理は 76年の病死まで,外交部長は 58年陳毅に譲るまで,それぞれ 27年間と9年間の長期にわたってつとめた。 69年の九全大会では中央委員,中央政治局委員,中央政治局常務委員会委員に選出され,73年の十全大会でも再選,副主席の筆頭に選ばれた。この間,50年の中ソ友好同盟相互援助条約,54年ジュネーブ会議中国代表団主席,55年バンドンにおける第1回アジア=アフリカ会議,56~57年[[ハンガリー]]をはじめとする 11ヵ国歴訪など,中国外交の中心をになった。文化大革命の激動期ののち,71年の国連復帰,中米接近,72年アメリカの [[R.ニクソン]]大統領の訪中と米中共同声明 ([[上海コミュニケ]] ) 発表,日中国交正常化と,柔軟外交を推進した。林彪事件ののち影響力が上昇したが,73~74年の「批林批孔」運動では,江青グループから攻撃を受けた。 76年1月病死時の主要な公職は,党中央委員会副主席,中央政治局常務委員会委員,中央政治局委員,国務院総理,人民政治協商会議全国委員会主席。
 
 
船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。[[河上肇]]の著書で初めて[[マルクス主義]]に触れ、[[京都大学]]でその講義を聴講もしている。[[1919年]]4月に帰国し、[[南開大学]]文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる[[五・四運動]]が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。[[東京日日新聞]]の[[神近市子]]記者のインタビューを受けたという、従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。
 
 
 
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ZhouEnlai.jpg|thumb|180px|1917年の周恩来
 
A stone monument Zhou Enlai once learned here the site of East Asian Higher Preparatory School Jimbocho Aizen Park Chiyoda-ku Tokyo Japan.jpg|石碑「周恩来ここに学ぶ」東京都・神保町
 
Premier Zhou 1919.jpg|1919年の周恩来
 
南开大学开学纪念照.jpg|1919年9月25日、南開大学開校記念写真。最後列の左端が周恩来
 
Premier_Zhou_1924.jpg|黄埔軍事学校での周恩来
 
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=== 共産主義者として ===
 
[[1920年]][[フランス]]の[[パリ]]に留学する。[[労働党 (イギリス)|労働党]]の研究のために[[イギリス]]に渡り<ref>このことはこの当時まだ周恩来が共産主義者ではなかったことを示している。[[小倉和夫]]『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』([[中央公論社]]〈中公叢書〉、[[1992年]])に詳しい。</ref>、[[エディンバラ大学]]に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念し<ref>勤工倹学で留学した学生には中国政府から奨学金が下りる約束であったが、実際はほぼ全てを役人に横領されている。</ref>フランスに戻る。その後[[中国共産党]][[フランス]]支部を組織し、[[ヨーロッパ]]総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、[[李立三]]や[[鄧小平]]、[[陳毅]]、[[朱徳]]など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。[[第一次国共合作]]が成立した[[1924年]]、周恩来は帰国し、孫文が創立した[[黄埔軍官学校]]の政治部副主任となった。ちなみに校長は[[蒋介石]]であった。翌[[1925年]]、五・四学生運動時代の恋人[[トウ穎超|鄧穎超]]と結婚した。
 
 
 
[[1926年]]、周恩来は[[上海市|上海]]に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の[[北伐]]軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、[[国民革命軍]]の[[南昌起義|南昌蜂起]]を朱徳と共に指導した。[[1931年]]、[[江西省]]の[[瑞金]]に[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時中央政府]]が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、[[長征]]に妻と共に参加した。[[遵義会議]]では自ら[[自己批判]]をし、[[毛沢東]]が主導権を掌握するのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。
 
 
 
=== 西安事件 ===
 
周恩来の名が世界に知られるようになったのは、[[1936年]]の[[西安事件]]での活躍であった。これは当時「'''安内攘外'''」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の[[張学良]]と西北軍の[[楊虎城]]が[[西安]]で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求め、蒋が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に蒋の釈放を提案した。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。
 
 
 
=== 日中戦争・国共内戦 ===
 
[[日中戦争]](支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として[[重慶市|重慶]]に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。日本が中華民国を含む連合国に対して降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続け、[[双十協定]]を結び、国民党の[[張群]]や米国の[[ジョージ・マーシャル]]とともに{{仮リンク|軍事調処執行部|zh|军事调处执行部}}(三人委員会)も設立した。しかし、これは物別れに終わり、[[国共内戦]]が始まった。
 
[[File:Zhang,_Marshall_and_Zhou.jpg|left|thumb|250px|[[張治中]]、[[ジョージ・マーシャル]]、周恩来]]
 
 
 
内戦に勝利した共産党は、[[1949年]][[10月1日]]、[[中華人民共和国]]を建国した。<!-->その際に「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言している。<--><!-->この発言は本当に周恩来のものなのですか?<-->なお、中国共産党政府は日本人戦犯(捕虜)の思想改造を行った上で、戦争犯罪について判決を出したいと考えていたが、それをいかにして行うか、計画があったわけではないようだ。ただし、日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来の理想主義が色濃く出ている。撫順管理所の孫明斎所長、金源副所長、曲初副所長らが『覚醒』のなかの論文で述べており、また部下によれば、周恩来は東北人民政府の公安部に対し、「外部に対して厳重に警護し、戦犯たちの安全を確保する。一人の逃走者も、一人の死亡者も出さず、内部は緩やかにし、殴ったり、人格を侮辱したりしない。彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」とまず指示したという<ref>【『戦争と罪責』野田正彰(岩波書店、1998年)】</ref>。
 
 
 
その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている<ref>中国網日本語版2010-11-18 </ref>。管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反­発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎し­みの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが'''周恩来'''の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。
 
 
 
元戦犯たちが日本に帰国し[[中国帰還者連絡会]]を結成した。そして、その代表団が[[日中国交正常化]]後に再び訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。「今度、日中両国の間に国交が回復(実際は国交正常化)したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」。
 
 
 
また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、[[満州国]]皇帝の[[愛新覚羅溥儀]]や[[蒙古聯合自治政府]]主席の[[デムチュクドンロブ]]などが周恩来から特赦と役職を与えられている。
 
 
 
=== 総理就任と外交政策 ===
 
中華人民共和国の建国後、周恩来は[[国務院総理]]([[首相]]に相当。建国当初は[[政務院総理]]と称していた)に就任し、[[1976年]]に死去するまで27年間この地位にあった。また、[[1958年]]まで[[中華人民共和国外交部|外交部長]]([[外務大臣]])を兼任し、外交政策を主管した。
 
 
 
[[File:Nasser and Chou-En-Lai n Egypt.jpg|thumb|left|300px|周恩来とエジプトのナセル大統領]]
 
周恩来は[[1954年]]の[[ジュネーヴ協定|ジュネーヴ会議]]に中華人民共和国代表として出席し、[[第一次インドシナ戦争]]休戦の実現に尽力し、その間に[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相と会談して[[平和共存]]・[[内政不干渉]]などの[[平和五原則]]を発表し、周恩来によるネルーへの提案で中印友好の証として[[ナーランダ大学]]に[[玄奘三蔵]]の舎利が分骨されることとなった<ref>{{cite web|url=http://www.tjwh.gov.cn/shwh/lywh/tjly/lssj/xzlg.htm|title=玄奘灵骨移供印度那烂陀寺|publisher=天津市文化メディア局|accessdate=2018-03-13}}</ref>。翌[[1955年]]には[[インドネシア]]の[[バンドン]]で開かれた[[アジア・アフリカ会議]](バンドン会議)に出席して中印の平和五原則は[[平和十原則]]として[[アジア]]・[[アフリカ]]諸国共通の理念となり、[[新中国]]が反[[植民地主義]]の立場にある[[第三世界]]であることを世界にアピールした。同会議の出席者だった[[アラブ諸国]]の団結を掲げる[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領と親交を結んで[[エジプト]]はアフリカで初めて中国を国家承認する国となってアフリカ諸国歴訪でも真っ先に訪れた<ref name=people18629>{{cite web|url= http://cpc.people.com.cn/GB/85037/8516212.html |format=|title= 周恩来总理与非洲国家领导人的深厚感情|publisher=[[人民網]]|accessdate=2018-06-29}}</ref>。また、アフリカ独立運動の父とされる[[ガーナ]]の[[クワメ・エンクルマ]]大統領は周恩来に特注<ref>{{cite web|url= http://history.mofcom.gov.cn/?experience=lwxzdzelzl |format=|title= “老外经”心中的周恩来总理|publisher=[[中華人民共和国商務部]]|date=2014-05-12|accessdate=2018-06-28}}</ref><ref>杨明伟; 陈扬勇. 周恩来外交风云. 解放军文艺出版社. 1995. ISBN 9787503306907. p.357</ref>して贈られた[[人民服]]を愛用<ref>{{cite web|url= https://rastafari.tv/dr-kwame-nkrumah-visits-emperor-haile-selassie/ |format=|title= Dr. Kwame Nkrumah Visits Emperor Haile Selassie I|publisher=RasTafari TV|date=2016-02-12|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.globalresearch.ca/african-union-in-the-21st-century-55-years-on-the-challenges-ahead/5641943 |format=|title= Africa Liberation Day and the Struggle against Imperialism. The African Union in the 21st Century|publisher=Global Research|date=2018-05-26|accessdate=2018-06-29}}</ref>してエンクルマは訪中と同時にガーナで[[クーデター]]が起きた際も周恩来から国賓待遇された<ref name=people18629/>。同会議直前には会議に招待されなかった中華民国([[台湾]])による周恩来暗殺作戦とされる[[カシミールプリンセス号爆破事件]]が起きている。インドネシアの[[スカルノ]]大統領とは「北京=ジャカルタ枢軸」と呼ばれる関係を築き、スカルノは[[国際連合]]の非加盟国でつくる「第二国連」を構想して[[:en:CONEFO|新興勢力会議]](CONEFO)を結成した際に中国は[[アラブ連合共和国]]とともにCONEFO本部建設の最大支援国となっており<ref>{{cite web|url=http://jakartagreater.com/ganefo-conefo-lembaran-sejarah-yang-terlupakan/|title=GANEFO & CONEFO Lembaran Sejarah yang Terlupakan|publisher=JakartaGreater|date=2015-10-25|accessdate=2017-04-15}}</ref>、インドネシアも中華民国と[[イスラエル]]を[[1962年アジア競技大会]]で参加拒否して[[新興国競技大会]]を開催するなどアラブ諸国や中華人民共和国と連携し、スカルノ失脚直前には中華人民共和国はインドネシアに[[核開発]]協力を持ちかける<ref>{{cite web|url=http://www.sankei.com/world/news/160602/wor1606020032-n1.html|title=毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光|publisher=[[産経新聞]]|date=2016-06-02|accessdate=2017-05-24}}</ref>までの蜜月ぶりだった。
 
 
 
中華人民共和国と[[ソビエト連邦]]との対立([[中ソ対立]])が激しさを増すと、中華人民共和国は[[アメリカ合衆国]]や日本との国交正常化を求めるようになった。周恩来は総理として両国との交渉を管掌した。日本とは[[高碕達之助]]との合意で[[LT貿易]]を行い、[[日本社会党]]と[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の元[[内閣総理大臣]]である[[片山哲]]<ref>{{Cite web
 
|url=http://www.pekinshuho.com/ztjl/txt/2008-08/05/content_138428.htm
 
|title=中日両国の50年間のスポーツ交流史を振り返って
 
|publisher=[[北京週報]]
 
|date=2008-08-05
 
|accessdate=2016-11-05
 
}}</ref>や[[石橋湛山]]と緊密な関係を築き<ref>{{Cite web
 
|url=http://j.people.com.cn/n/2015/0317/c94473-8864267.html
 
|title=周斌さんの回想録「私は中国の指導者の通訳だった」日本で出版
 
|publisher=[[人民網]]
 
|accessdate=2015-03-17
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|url=http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-02/15/content_99498_5.htm
 
|title=周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって
 
|publisher=[[人民中国]]
 
|accessdate=2016-11-05
 
}}</ref>、[[1959年]]には中国建国10周年慶祝訪中団団長の片山と会見して石橋と日中国交樹立を呼びかける共同声明を発表している。
 
 
 
[[1971年]]にはかねてから中国共産党の[[一つの中国]]政策を支持しきたインドやエジプトなどアジア・アフリカの[[非同盟]]諸国、ソ連と[[東ヨーロッパ]]などの[[東側諸国]]、米ソと並ぶ[[国連安保理常任理事国]]でもある[[イギリス]]や[[フランス]]などの一部の[[西側諸国]]や当時の[[ウ・タント]][[国連事務総長]]<ref>[http://walterdorn.net/163-u-thant-buddhism-in-action U THANT: BUDDHISM IN ACTION]</ref>からの賛成も得て[[アルバニア決議]]が[[国連総会]]で可決され、中華人民共和国は国連に加盟して中華民国を国連と関連の国際機関から追放させることに成功し、アルバニア決議に反対していた日米も中華人民共和国との国交樹立に動くことになる。
 
 
 
[[File:ZhouNixonBanquet.gif|320px|thumb|left|[[ニクソン大統領の中国訪問]]を歓待する周恩来]]
 
[[1972年]]2月、[[アメリカ合衆国大統領]][[リチャード・ニクソン]]の[[ニクソン大統領の中国訪問|訪中を実現]]させ、アメリカとの国交正常化交渉を前進させた(アメリカ合衆国と中華人民共和国との[[米中国交正常化]]が実現したのはニクソンの[[共和党 (アメリカ)|共和党]]政権と交代した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジミー・カーター]]大統領と[[鄧小平]]の間の[[1979年]]のことである)。
 
 
 
同年1月に日本も当時の[[佐藤栄作]]総理が中華人民共和国との国交正常化を目指すことを演説で述べ<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-1-4.htm (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説]</ref>、周恩来への親書を託した密使を[[香港]]に派遣して北京訪問の希望も伝えてきた<ref>{{cite web|url=http://www.people.com.cn/BIG5/guoji/14549/2620729.html|title=日本前首相披露中日交往過程中的另一面|publisher=[[人民網]]|date=2004-07-06|accessdate=2017-10-10}}</ref><ref>[[NHK BS1]]スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」2017年9月24日</ref>。なお、アルバニア決議が採択された際に[[自由民主党幹事長]]の[[保利茂]]は訪中する[[美濃部亮吉]][[東京都知事]]に書簡を託すも周恩来は佐藤政権への不信感から斥けていた<ref>{{cite news |title= 日中関係打開めざした「保利書簡」  「いぶし銀の調整役」保利茂(7) |publisher=日本経済新聞 |date=2011-10-30 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/|accessdate=2017-04-15}}</ref>。同年9月、現職総理では初めて訪中した[[田中角栄]]と数度にわたる交渉に臨み、[[日中共同声明]]に調印して日本との国交正常化を実現した。調印式で交わした田中総理との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。[[日中国交正常化]]には当時の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]政権だけでなく、国交正常化前に派遣されていた[[日本社会党|社会党]]、[[公明党]]、[[民社党]]<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002800226 日本民社党訪中団中国中日友好協会代表団共同声明]</ref>といった野党と[[永野重雄]]ら経済界の訪中団なども貢献した<ref>武田晴人 『高度成長 シリーズ日本近代史(8)』 岩波書店〈岩波新書(新赤版)1049〉、2008年、196–199。ISBN 9784004310495</ref>。「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と公言したことで日本のマスコミから賞賛されたが、近年明らかにされた外交文書では[[アメリカ合衆国国務長官]][[ヘンリー・キッシンジャー]]に対し「日本の台頭は米中両国の脅威である」などと話していたことが明らかになっている。
 
 
 
周の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。また、その人柄からニクソンやキッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。
 
 
 
=== 文化大革命 ===
 
[[文化大革命]](プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、[[走資派]]([[実権派]])のレッテルを張られた[[劉少奇]]らの[[粛清]]に協力した。文革勃発時に有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日[[紅衛兵]]を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵の[[スパイ]]」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。
 
 
 
その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が[[北京市|北京]]の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また[[紫禁城|故宮]]を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣して阻止した。[[興教寺 (西安市)|興教寺]]など数々の[[文化遺産]]を紅衛兵から保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば[[1968年]][[8月26日]]、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。
 
 
 
しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の[[養子縁組|養女]]であり[[俳優|女優]]であった[[孫維世]]の悲劇がある。孫維世は毛沢東の妻である[[江青]]の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われる。江青の差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。遺体の頭頂部には大型の釘が打ち込まれているなど拷問の痕跡が発見され、これを見た周恩来は検視を要求したが、「遺体はすぐに火葬する」と告げられたという<ref>「傳聞[[江青]]曾讓刑事犯在強光下剝光孫維世的衣服、進行輪姦、犯人強姦得逞可以減刑」(楊中美『紅朝艷史─毛澤東的女人』、214頁)とも伝えられている。</ref>。しかし、周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する「ソ連修正主義者のスパイ」という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言<ref>中国共産党中央党校理論研究室副主任であった[[:zh:阮銘|阮銘]]が[[1994年]]に著した『旋轉舞台上的周恩來』に「在查證『四人幫』的罪行中、發現那些文革中慘遭迫害的冤案、在逮捕令上幾乎都是周恩來的簽名、包括逮捕他自己的乾女兒孫維世」とある。</ref>も残されている。
 
 
 
転機となったのが[[1971年]]の[[林彪]]失脚([[林彪事件]])であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の[[暗殺]]を計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。[[ソビエト連邦|ソ連]]に逃亡する途中に搭乗機が[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]で墜落し死亡した。これが契機となって[[鄧小平]]が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
 
 
 
更にその後、周恩来は江青ら[[四人組 (中国史)|四人組]]との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。[[1975年]]には[[国防]]・[[農業]]・[[工業]]・[[テクノロジー|科学技術]]の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
 
 
 
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。
 
 
 
=== 死去 ===
 
[[1972年]]に[[膀胱癌]]が発見される。その後も休むことなく職務を続けたが、病状は悪化の一途をたどった。[[1974年]][[6月1日]]、北京の解放軍第305病院に入院。だが、病室でなおも執務を続けた。1975年1月の第4期全国人民代表大会第1回会議では、病身を押して、国務院総理として政治活動報告を行う。同会議において総理に再選。しかし、同年秋から病床を離れられなくなり、ついに[[1976年]][[1月8日]]、周恩来は死去した<ref>周恩来の治療について何らかの圧力によって最善が尽くされなかったことは周恩来の主治医張佐良が、自著『周恩来・最後の十年』で記している。たとえば周恩来の癌の手術は完全には行われなかったし、抗癌剤治療も行うことが出来なかった。主治医はその原因については、明確な記述を行っていない。また作家[[ユン・チアン]]が執筆した『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東|マオ]]』では、「毛沢東が治療の妨害を行った」と記述されている。ユン・チアンがインタビュー・リストにこの主治医を載せていることは注目に値する。かつて中国共産党中央文献研究室で周恩来の伝記の編纂作業に携わり、[[1989年]]の[[六四天安門事件]]を受けてアメリカ合衆国へ渡った[[高文謙]]が、渡米後に著した『周恩来秘録』でも同じ結論が出されている。</ref>。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]が起こった。また、その遺骸は本人の希望により[[火葬]]され、遺骨は[[飛行機]]で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の[[トウ穎超|鄧穎超]]と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には[[宋慶齢]]も参列した。
 
 
 
== 評価 ==
 
=== 外国人による評価 ===
 
[[ファイル:Kissinger Mao.jpg|thumb|300px|left|写真中央が周恩来、右は毛沢東、左は当時[[国家安全保障問題担当大統領補佐官|アメリカ大統領補佐官]]だった[[ヘンリー・キッシンジャー]]]]
 
1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。
 
 
 
国連事務総長だった[[ダグ・ハマーショルド]]は「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。
 
 
 
[[カンボジア]]国王[[ノロドム・シハヌーク]]は[[カンプチア王国民族連合政府]]として北京に亡命していた時期に[[ポル・ポト]]をカンボジアの指導者に推す[[康生]]と対立もしていた周恩来と親しくし、シハヌークは周恩来を「私よりよっぽど王族らしい」と評している。
 
 
 
『周恩来伝』を書いた[[ジャーナリスト]]のディック・ウィルソンは、周恩来を[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]や[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]と比較し、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。
 
 
 
また、[[1954年]]以来[[チャーリー・チャップリン]]とも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、[[1952年]]から[[スイス]]在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「[[黄金狂時代]]」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。
 
 
 
[[日本]]でも周恩来に傾倒した著名人は多く、日本人70名が寄稿した文集『日本人の中の周恩来』がある。
 
 
 
しかし、周恩来とインド訪問など<ref>[http://dalailama.com/gallery/album/0/33 Photo Gallery | The Office of His Holiness The Dalai Lama]</ref>で活動をともにした[[ダライ・ラマ14世]]は毛沢東をその振る舞いから「革命の真の偉大な指導者」と評した一方で、周恩来は「大変ずる賢いと思った」<ref>{{Cite web|publisher=[[日本記者クラブ]] |title=ダライ・ラマ14世会見記 |accessdate=2016-06-14|url=http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00022415/ }}</ref>とその強かさを評している。
 
 
 
=== 中国人による評価 ===
 
[[鄧小平]]は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、周の没後ジャーナリストに対しては以下のように語っている<ref>矢吹晋『毛沢東と周恩来』。 </ref>。
 
 
 
「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は[[徴農制度|下放]](地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」
 
 
 
== 逸話 ==
 
* [[清国]]最後の皇帝であり、その後[[満州国]]の皇帝となったため、中華人民共和国の建国後には一時戦犯となった[[愛新覚羅溥儀]]を、[[満州民族|満州族]]の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に推薦した。下層階級の出身者が多く、教育、教養程度が低く、伝統、古典文化に拙い者が多い当時の共産党幹部の中では、珍しく日本やフランス留学の経験もあり、[[士大夫]]の名家の出であった周恩来は廃位後の溥儀の不遇を哀れんでいたとも言われている。
 
* 溥儀の弟の[[愛新覚羅溥傑]]に対しても親切であった。[[1954年]]に日本にいる溥傑の長女の[[愛新覚羅慧生|慧生]]からの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子([[嵯峨浩|浩]]と2人の娘)との文通を認めた。また、[[1960年]]に溥傑が釈放された際も、当時まだ日本と中華人民共和国の国交がなかったにもかかわらず、浩の訪中を歓迎した<ref>王效賢「[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm 溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮]」『人民中国』。</ref>。
 
* 中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、軍政両面で実権を手に入れて[[軍師]]のような立場になろうとした野心家の[[林彪]]に対して、周は[[丞相]]のような古来の中華帝国の形式に則る「皇帝に従属する[[中国の宰相]]」という実直なスタンスを生涯貫き通した。1950年代からの第三世界との連携、1970年代に実現した国連加盟や日米との国交正常化の最大の功績者は周であるが、これらの首脳対話の場面においても周はあくまで毛沢東を中国サイドの主役として立て続けた。だが、毛は周を最後まで信用せず、林彪事件後は[[謀反]]を企んでいると思い込んでいた。周死去の報を聞いた毛沢東は、祝いの花火を打ち上げ上機嫌であった。
 
* [[1939年]]に[[落馬]]事故に遭って以来、右腕が不自由になり、以後物を書くときは不自然な体勢になった。
 
* 建国後北京の有名な料理店で店員間で起こった揉め事の仲介人をかって出ている。双方の言い分を聞いてから「どっちも悪いことがわかった」と言った。なぜかと尋ねる店員たちに対して「お前さんたち、お客さんに料理を出してあげていないじゃないか」と答えたという。
 
*[[1964年]][[2月27日]]、[[セイロン]]訪問時に、周恩来を乗せた車が踏切を渡ろうとした時に停止信号を無視して突っ込んできた急行列車とあわや衝突しそうになった事がある。この時に周恩来の乗った車の一台前の車は列車と接触事故をおこした。そして周恩来を乗せた車は急ブレーキをかけて踏み切りの数メートル手前で停止し、その目の前を猛スピードで急行列車が通過して事なきを得た。セイロンはすぐに周恩来へ深く謝罪すると共に鉄道省の責任者を更迭した。
 
*:
 
*中国東北地区方正(ほうまさ)地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し「[[ファイル:方正地区日本人公墓A096229.jpg|サムネイル|右|方正地区日本人公墓]]方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、あの文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。
 
*1972年の国交正常化で田中使節団を迎える時、周恩来は新潟出身の田中首相、香川出身の大平外相、鹿児島出身の二階堂官房長官のために、軍楽隊に新潟の佐渡おけさ、香川の金比羅船々、鹿児島のおはら節を演奏させた。
 
*田中角栄総理が北京を訪問する前、周恩来総理が田中総理についていろいろと調べるように部下に指示した時「田中角栄首相にはいろいろ女性問題がある」と週刊誌を集めて報告した部下がいた。周は「中国と日本が歴史的な和解をしようとしているんだ。そういう話は何の関係もない」と叱りつけたという。
 
*日中国交正常化のため尽力していた日中覚書貿易事務所代表で当時日中唯一の窓口となっていた[[岡崎嘉平太]]と初めて会った時に周はこう言ったという。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです、恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」岡崎は周恩来の印象をこう語っている。「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。周「じゃあ、あなたが兄だ」。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったという。
 
*民間レベルでの日中貿易協定を結ばせた[[岡崎嘉平太]]の行動は日本国民や右翼団体の反発を招いた。息子の彬は父親について中国へ行き初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきたという。「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」
 
*日中国交正常化の際には田中角栄総理が北京を訪問する2日前、周恩来は[[岡崎嘉平太]]をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と言ったという。
 
*[[犬食|犬肉料理]]をこよなく愛したとされる。一方で、周はもともと犬食を嫌っており(「戦争中、犬食好きな仲間によって周辺から集められた仔犬を使って出された犬肉料理に、周は怒って手を付けなかった」)、のちに[[金日成]]や[[ホー・チ・ミン]]を[[人民大会堂]]へ招き宴会を行った際、給仕された料理に犬肉が使われていると知らず「大変良い味(''很好,很好,味道不错呀!'')」と答えたことの言質をとられてこの逸話が広まったとの意見<ref>[http://www.chinanews.com/cul/2010/12-13/2716933.shtml 中国新聞社(チャイナニュース) 2010年12月13日記事]</ref>がある。
 
 
 
== 雨中嵐山 ==
 
[[ファイル:周恩来雨中嵐山碑.JPG|thumb|240px|嵐山公園にある雨中嵐山の詩碑]]
 
周恩来が、日本留学時に[[京都]]の[[嵐山]]で失意のうちに作った「'''雨中嵐山'''」の[[詩]]を刻んだ[[石碑]]が、[[嵐山公園 (京都府)|嵐山公園]]([[亀山公園 (京都市)|亀山公園]])内にあり、現在では日中友好の[[シンボル]]、[[中国人]][[観光|観光客]]の観光スポットとなっており、中国[[要人]]が[[関西]]を訪問した際も大抵ここを訪問する。碑文は[[廖承志]]中日友好協会会長が、[[日中友好条約]]締結時の[[1978年]]に[[揮毫]]したものによる。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
==著書邦訳==
 
*周恩来語録 秋元書房, 1972.
 
*周恩来日本を語る [[米谷健一郎]]編. 実業之日本社, 1972.
 
*周恩来・中国の内外政策 [[森下修一]]編訳. 中国経済新聞社, 1973.
 
*周恩来選集 森下修一編訳. 中国経済新聞社, 1978.9.
 
*[[矢吹晋]]編、鈴木博訳『周恩来「十九歳の東京日記」―1918.1.1~12.23』[[小学館文庫]],1999
 
 
   
 
   
== 参考文献 ==
 
*金鐘編、松田州二訳『人間・周恩来 紅朝宰相の真実』([[原書房]]、2007) 33篇の評論集、香港で出版。
 
*[[高文謙]]、[[上村幸治]]訳『周恩来秘録 党機密文書は語る (上下)』([[文藝春秋]]、2007/[[文春文庫]]、2010)
 
*張佐良、早坂義征訳『周恩来・最後の十年 ある主治医の回想録』([[日本経済新聞出版社]] 1999)
 
*ディック・ウィルソン、田中恭子・立花丈平訳『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』([[時事通信社]] 1987)
 
*金冲及主編、劉俊南・譚佐強訳『周恩来伝 1949-1976』(上下、[[岩波書店]]、2000)、オンデマンド版2013
 
*金冲及主編、[[狭間直樹]]監訳『周恩来伝 1898-1949』(上中下、京都阿吽社、1992-93)
 
*[[ハン・スーイン]]、川口洋・川口美樹子訳『長兄 周恩来の生涯』([[新潮社]]、1996)
 
*[[矢吹晋]]『毛沢東と周恩来』([[講談社現代新書]]、1991)
 
*[[鳥居民]]『周恩来と毛沢東 周恩来試論』([[草思社]] 1975)、オンデマンド版1999
 
*[[毛里和子]]・[[増田弘]]監訳『周恩来 [[キッシンジャー]] 機密会談録』(岩波書店 2004)
 
*[[日本放送協会|NHK]]取材班『周恩来の決断 日中国交正常化はこうして実現した』([[日本放送出版協会]] 1993)
 
*[[ユン・チアン]]/[[ジョン・ハリディ|ジョン・ハリデイ]]、[[土屋京子]]訳『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]] (上下)』([[講談社]] 2005/講談社+α文庫 2016)
 
*[[小倉和夫]]『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』([[中央公論新社|中央公論社]]〈中公叢書〉 1992)
 
*周恩来記念出版刊行委員会編『日本人の中の周恩来』(里文出版、1991) 70名の文集。
 
 
==関連文献==
 
*周恩来と日本 苦悩から飛翔への青春 王永祥,高橋強編著 周恩来鄧穎超研究会訳. 白帝社, 2002.11.
 
*毛沢東と周恩来 中国共産党をめぐる権力闘争「1930年~1945年」 トーマス・キャンペン [[杉田米行]]訳 三和書籍 2004.2.
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Wikiquote|:zh:周恩来|周恩来{{zh icon}}}}
 
{{Commons&cat|Zhou_Enlai|Zhou_Enlai}}
 
* [[愛新覚羅溥儀]]
 
* [[愛新覚羅溥傑]]
 
* [[エドガー・スノー]]
 
* [[池田大作]]
 
* [[LT貿易]]
 
* [[カシミールプリンセス号爆破事件]]
 
* [[吉野作造]] - 周恩来は吉野の「[[民本主義]]」に感動し、彼の家まで押し掛け面会を求めた。
 
* [[松本亀次郎]] - 留学時、周恩来は松本の下で[[日本語]]を学んだ。
 
* [[第一天安門事件]]
 
* [[毛沢東の私生活]] - 周恩来も多く触れられている。
 
  
 
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2018/8/16/ (木) 11:27時点における最新版

Zhou Enlai.jpg
周恩来
各種表記
繁体字 周恩來
簡体字 周恩来
拼音 Zhōu Ēnlái
和名表記: しゅう おんらい
発音転記: チョウ・エンライ
ラテン字 Chou En-lai
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周 恩来(しゅう おんらい、1898年3月5日 - 1976年1月8日

中国の政治家。

字は少山,伍豪。

天津の南開中学を経て 1917年日本に留学。帰国後,南開大学に入り,五・四運動に参加し,逮捕投獄された。出獄後,進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなり,20年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,22年入党。 24年帰国し,党の広東省委員会書記となり,黄埔軍官学校政治部主任代理を兼任。 26年中山艦事件で逮捕。北伐が開始されると上海に潜入し,27年北伐軍に呼応する労働者の蜂起を指導したが,蒋介石の上海クーデターで逮捕され,武漢に脱出。国共分裂後,南昌暴動に参加。 28年モスクワで開かれた六全大会に出席,31年江西ソビエト区に入り政治局主席団の一人に選ばれ,軍事部長を兼任。 32年第1方面軍総政治委員,34年から革命軍事委員会副主席 (主席は朱徳) を兼ね,同年長征に参加。 36年 12月西安事件が起ると,党代表として蒋介石に内戦停止,国共合作を約束させる一方,蒋の生還に努力し,抗日民族統一戦線の結成を可能にした。日中戦争勃発後は国民政府の軍事委員会政治部副部長 (部長は陳誠) などの要職について,国共間の折衝の任にあたり,国民参政会の党代表団の一員でもあった。一方,党内では政治局副主席,革命軍事委員会副主席の要職にあった。 46年国共の武力衝突を避けるため,G.マーシャル張群と三人委員会をつくり,同年の政治協商会議には党代表団長として政権の民主化に尽力。 49年の中華人民共和国成立後は政務院 (のち国務院) 総理兼外交部長となり,総理は 76年の病死まで,外交部長は 58年陳毅に譲るまで,それぞれ 27年間と9年間の長期にわたってつとめた。 69年の九全大会では中央委員,中央政治局委員,中央政治局常務委員会委員に選出され,73年の十全大会でも再選,副主席の筆頭に選ばれた。この間,50年の中ソ友好同盟相互援助条約,54年ジュネーブ会議中国代表団主席,55年バンドンにおける第1回アジア=アフリカ会議,56~57年ハンガリーをはじめとする 11ヵ国歴訪など,中国外交の中心をになった。文化大革命の激動期ののち,71年の国連復帰,中米接近,72年アメリカの R.ニクソン大統領の訪中と米中共同声明 (上海コミュニケ ) 発表,日中国交正常化と,柔軟外交を推進した。林彪事件ののち影響力が上昇したが,73~74年の「批林批孔」運動では,江青グループから攻撃を受けた。 76年1月病死時の主要な公職は,党中央委員会副主席,中央政治局常務委員会委員,中央政治局委員,国務院総理,人民政治協商会議全国委員会主席。


中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
政務院総理から移行
国務院総理
1954年 - 1976年
次代:
華国鋒
先代:
設置
政務院総理
1949年 - 1954年
次代:
国務院総理へ移行
先代:
毛沢東
全国政治協商会議主席
1954年 - 1976年
次代:
鄧小平
先代:
設置
外交部長
1949年 - 1958年
次代:
陳毅
 Flag of the Chinese Communist Party.svg中国共産党
先代:
林彪
(単独の副主席)
中央委員会副主席
(党内序列2位、副主席筆頭)
1973年 - 1976年
次代:
華国鋒
(第一副主席)
先代:
設置
中央委員会副主席
1956年 - 1966年
劉少奇、周恩来、朱徳
陳雲林彪(1958年 - )
次代:
林彪
(単独の副主席)


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