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[[ファイル:Merovingian dynasty.jpg|thumb|left|300px|メロヴィング朝フランク王国]]
| 出典の明記 = 2016年10月
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'''メロヴィング朝'''<br>
| 脚注の不足 = 2015年4月
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(メロヴィングちょう、{{lang-fr-short|Mérovingiens}}, {{lang-en-short|Merovingian dynasty}}, {{lang-de-short|Merowinger}}
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[[ファイル:Merovingian dynasty.jpg|thumb|300px|メロヴィング朝フランク王国]]
 
'''メロヴィング朝'''(メロヴィングちょう、{{lang-fr-short|Mérovingiens}}, {{lang-en-short|Merovingian dynasty}}, {{lang-de-short|Merowinger}})は、[[ゲルマン人]](西ゲルマン)である[[フランク族]]の支族の[[サリ族]]が築いた[[フランク王国]]における最初の王朝である。
 
  
メロヴィングの名は、始祖[[クロヴィス1世|クロヴィス]]の祖父[[メロヴィクス]]にちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。
 
 
== 建国と改宗 ==
 
[[フランドル]]を支配していた小国の王[[クロヴィス1世]]([[465年]] - [[511年]]、位[[481年]] - 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、[[481年]]、メロヴィング朝を開いた。[[496年]]、クローヴィスは[[カトリック教会|カトリック教徒]]であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していた[[アリウス派|アリウス派キリスト教]](異端宗派)より家臣4,000名とともに正統派の[[カトリック教会|アタナシウス派キリスト教]](カトリック)に改宗した('''クロヴィスの改宗''')。これによって王国は崩壊した[[西ローマ帝国]]貴族の支持を得、領内の[[ローマ]]系住民との関係も改善された。[[506年]]に[[西ゴート王国|西ゴート]]を{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé}}で破り、その王[[アラリック2世]]を戦死させ、[[イベリア半島]]へ駆逐。王国の版図を広げた。
 
 
===クロヴィス1世===
 
'''メロヴィング家'''のフランク族支配を確立したのは、[[キルデリク1世]]とその子[[クロヴィス1世]]である。
 
 
キルデリク1世の時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは[[496年]]カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な[[従士]]も改宗した。[[トゥールのグレゴリウス]]によれば、[[508年]]に[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の司教[[レミギウス]]によって洗礼を授けられて改宗したという見方が有力となりつつある{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|p=20}}{{Sfn|Ian Wood|1995|p=48}}。
 
 
[[フランク王国]]はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官[[シアグリウス]]がほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた([[ソワソン管区]])。[[486年]]にクローヴィスはシアグリウスと[[ソワソン]]付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは[[491年]]に[[テューリンゲン人]]を服属させ、[[496年]]に[[アレマン族]]と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。[[507年]]には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、[[アキテーヌ]]を支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。[[511年]]の死の直前には[[オルレアン]]で[[公会議]]を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|p=21}}。
 
 
== 分裂 ==
 
 
[[ファイル:ClovisDomain japref.jpg|300px|right|thumb|分割後のメロヴィング朝フランク王国([[600年]]ころ)]]
 
[[ファイル:ClovisDomain japref.jpg|300px|right|thumb|分割後のメロヴィング朝フランク王国([[600年]]ころ)]]
クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した。メロヴィング朝の分割は、王国を王の私的な財産と考えて行われたわけではなく、あくまでメロヴィング家の世襲財産として行われていたと見るべきである。したがって王の数だけ世襲財産の「持分」が存在したのであり、資格のある王が一人になれば世襲財産はその人物に集中する{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|pp=22-23}}。
 
 
[[6世紀]]から[[7世紀]]にかけての間に各分王国では徐々にそれぞれの貴族層が固定化され、それが地域的なアイデンティティにつながっていった。高まる各王国の自立性は、後述するクロタール2世の統一を最後に、メロヴィング朝を分裂へと導いていくのである。{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|p=28}}
 
 
===クロタール===
 
クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残った[[クロタール]]が死ぬ頃([[561年]])<ref>{{Cite book|和書|author=A・ティエリ|year=1992|title=メロヴィング王朝史話|publisher=岩波文庫|pages=P.35}}</ref>には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、[[ユスティニアヌス1世]]により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。
 
 
===再分割===
 
クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男[[シギベルト1世]]には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男[[グントラム]]にはブルグントの支配が任された<ref>{{Cite book|和書|author=A・ティエリ|year=1992|title=メロヴィング王朝史話|publisher=岩波文庫|pages=P.37}}</ref>。
 
 
三男[[カリベルト]]には王国西部を、末子[[キルペリク1世]]には王国北西部の[[ベルギー]]地方が与えられた。
 
 
[[567年]]にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国は[[ノルマンディー]]地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。
 
 
===クロタール2世===
 
[[613年]]、王国は[[クロタール2世]]により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。
 
 
==== 教会政策 ====
 
[[614年]]パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と王権の教会への妥協であり王権の衰微であるという見解がある。ピレンヌは前者の見解を取る。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。
 
 
クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的[[ガリア・セナトール貴族|セナトール貴族]]を支持基盤としていた王妃[[ブルンヒルド]]に反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており{{Sfn|長谷川博隆|1985|loc=徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,pp111-112}}、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した{{Sfn|長谷川博隆|1985|loc=徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,pp111-112}} {{Sfn|H・I・マルー|1996|pp=460-462}}。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布した[[ロワール川]]以北のフランキア地方では、[[640年]]までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた{{Sfn|長谷川博隆|1985|loc=徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,pp111-112}}。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる。
 
 
ゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、[[590年]][[聖コルンバヌス]]によって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである<ref>{{Cite journal|和書|author=徳田直宏 |title=コルムバヌス修道院運動--メロヴインガー・フランクの政治史的・教会史的転換期に関する一考察 |date=1971-03 |publisher=名古屋大学文学部 |journal=名古屋大学文学部研究論集 |naid=40002780956 |pages=65-102 |ref=harv}}</ref>。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている{{Sfn|長谷川博隆|1985|loc=徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,p145}}。
 
 
H・ヴィエルツボルスキーの研究は教会会議に参加する司教のローマ名と非ローマ名の割合は7世紀を境に大きく変化したことを明らかにしている。それによれば、6世紀前半には出席者はほぼ全員がローマ名であったが、6世紀後半になると非ローマ名の割合が増加し、7世紀に入ると非ローマ名の割合はさらに急激に伸びて約半数を占めている。{{Sfn|長谷川博隆|1985|loc=徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,p145}}。
 
 
7世紀には、次第に分割された分国(地域)の宮宰に権力が移っていく。この状況下で[[アウストラシア]]の[[カロリング家]]をはじめ[[ネウストリア]]、[[ブルグンド]]三分国(地域)の宮宰の台頭は著しいものがあった。
 
 
== 王朝の終焉 ==
 
7世紀後半から王国の行政および財政を取り仕切る[[宮宰]](きゅうさい, major domus)に実権が移ってゆく。[[714年]]から宮宰に就任していたカロリング家の[[カール・マルテル]]は教会から没収した土地を家臣たちへ与えて軍を再編<ref name=S155>柴田 他、p. 155</ref>。その後、[[732年]]には[[イベリア半島]]から領内に進攻してきた[[イスラム帝国]]の[[ウマイヤ朝]]軍を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]において破り、西欧キリスト教世界に対するイスラム勢力の進出を食い止めた<ref name=S155 />。[[751年]]にマルテルの子、[[ピピン3世]](小ピピン)が[[ローマ教皇]]の支持を得て[[カロリング朝]]を開いたことで、メロヴィング朝は終わった<ref>柴田 他、p. 157</ref>。
 
 
==文化 ==
 
のちの[[カロリング朝]]と違って、'''メロヴィング朝'''では多数の教養ある俗人が政府内に存在した。ピレンヌは次のような人物を列挙する。テウデベルト1世の寵臣であったアステリオルスおよびセクンディヌスは修辞学に秀でていた<ref>{{Cite book|和書|author=H・ピレンヌ|year=1993|title=ヨーロッパ世界の誕生|publisher=創文社|pages=191p}}</ref>。おなじくテウデベルト1世に仕えたパルテニウスもローマで教養を身につけた人物であった。クロタール2世の王室財務官をつとめたカオールのデシデリウスも雄弁術やローマ法に精通していた<ref>{{Cite book|和書|author=H・ピレンヌ|year=1993|title=ヨーロッパ世界の誕生|publisher=創文社|pages=192p}}</ref>。
 
 
=== 識字率===
 
{{要出典範囲|date=2017年1月|7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりは[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]の宮廷が大きな影響を及ぼしていた。}}
 
 
=== 地方行政における司教 ===
 
{{要出典範囲|date=2017年1月|メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。}}
 
 
== 経済 ==
 
{{出典の明記|date=2016年11月|section=1}}
 
王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。[[6世紀]]からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏は[[アイルランド島|アイルランド]]までは含んでおらず、アイルランドは[[イベリア半島]]を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた。この時期のブリテン諸島は東部がブルトン的・アングロ・サクソン的で、ガリアや[[北海]]と結びついていたのに対し、西部はケルト的であるという著しい対照をなしていた。このころイベリア半島の[[タラゴナ|タラコ]]は、西地中海交易の拠点カルタゴと深く結びついて、[[ジブラルタル海峡]]を越えてアイルランドまで続く大西洋岸の交易網の基点となっていた。このアイルランド交易は5世紀後半に顕著となる。西ゴート族のイベリア占領にもタラコはほとんど影響を蒙ることなく、4〜5世紀の間西地中海の交易拠点であり続けたが、東ローマ帝国による地中海再征服の影響で[[5世紀]]半ば頃から徐々に衰退に向かった。
 
 
== 国王の一覧 ==
 
* 初代:[[クロヴィス1世]](在位481-511)
 
* 2代目:[[クロタール1世]](在位558-561) 領土拡大、再統一
 
* 3代目:[[クロタール2世]](在位613-629)
 
* 4代目:[[ダゴベルト1世]](在位629-639)
 
* 5代目:[[クロヴィス2世]](在位639-658)
 
* 6代目:[[クロタール3世]](在位658-673)
 
* 7代目:[[キルデリク2世]](在位673-675)
 
* 8代目:[[テウデリク3世]](在位679-690)
 
* 9代目:[[クロヴィス4世]](在位690-694)
 
* 10代目:[[キルデベルト3世]](在位694-711)
 
* 11代目:[[ダゴベルト3世]](在位711-715)
 
* 12代目:[[キルペリク2世]](在位715-721)
 
* 13代目:[[テウデリク4世]](在位721-737)
 
* 14代目:[[キルデリク3世]](在位743-751)
 
 
== 系図 ==
 
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{{familytree | | | | | | | | MER | | | | | | | | | | | | | | | | | |MER=[[メロヴィクス]]}}
 
{{familytree | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | | | | | | | CI1 | | |CI1=[[キルデリク1世]]}}
 
{{familytree | | | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | | | NN1 |y| CL1 |y| CF1 | | AUD |~|THE  | |NN1=名前未詳|CL1=[[クロヴィス1世]]<br>フランク王|CF1=[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]<br>ブルグント王女|AUD=アウドフレダ|THE=[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]<br>東ゴート王}}
 
{{familytree | | | | | | |!| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | | | | | TH1 | | CLM | | CH1 | | CT1 | | | | | | | | | | | | |TH1=[[テウデリク1世]]<br>ランスの王|CLM=[[クロドメール]]<br>オルレアンの王|CH1=[[キルデベルト1世]]<br>パリの王|CT1=[[クロタール1世]]<br>ソワソンの王<br>全フランクの王}}
 
{{familytree | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|-|v|-|-|^|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | }}
 
{{familytree | | | | | | TB1 | | CA1 | | | GUN | | | SI1 |y| BRU |7| AUD |y| CP1 |y| FRE | | | |TB1=[[テウデベルト1世]]<br>ランスの王|CA1=[[カリベルト1世]]<br>パリの王|GUN=[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]]<br>オルレアンの王<br>(ブルグント王)|SI1=[[シギベルト1世]]<br>ランスの王<br>(アウストラシア王)|BRU=[[ブルンヒルド]]<br>西ゴート王女|AUD=アウドヴェラ|CP1=[[キルペリク1世]]<br>ソワソンの王<br>(ネウストリア王)|FRE=[[フレデグンド]]}}
 
{{familytree | | |,|-|-|-|(| | | |!| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | | |:| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | THD | | EMM | |BER  | | CH2 | |HER  |~|ING  | | |L|~|~| MEV | | CT2 | | | | |THD=[[テオデバルド]]<br>ランスの王|EMM=エンマ<br>=ケント王エアドバルド|BER=ベルタ<br>=ケント王[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト1世]]|CH2=[[キルデベルト2世]]<br>アウストラシア王<br>ブルグント王|ING=イングンド|HER=[[ヘルメネギルド]]<br>(西ゴート王子)|MEV=メロヴィク|CT2=[[クロタール2世]]<br>フランク王}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | |,|-|-|-|(| | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|(| | | | | | | | | }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | TB2 | | TH2 | | | | | | | | | | | | | | DA1 | | CA2 | | | |TB2=[[テウデベルト2世]]<br>アウストラシア王|TH2=[[テウデリク2世]]<br>アウストラシア王<br>ブルグント王|DA1=[[ダゴベルト1世]]<br>フランク王|CA2=[[カリベルト2世]]<br>アキタニア王 }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|(| | | |!| }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | SI2 | | SI3 | | | | | | | | | | CL2 | | CLP | |SI2=[[シギベルト2世]]<br>アウストラシア王<br>ブルグント王|SI3=[[シギベルト3世]]<br>アウストラシア王|CL2=[[クロヴィス2世]]<br>ネウストリア王<br>ブルグント王|CLP=キルペリク<br>アキタニア王}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | |F|~|~|~|[| | | |,|-|-|-|v|-|-|-|^|-|-|-|.| | }}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | |CHI  | | DA2 | | CT3 | | CI2 | | | | | | TH3 | | | | | |CHI=(養子)<br>[[キルデベルト養子王]]<br>(宮宰[[グリモアルド1世]]子)<br>アウストラシア王|DA2=[[ダゴベルト2世]]<br>アウストラシア王|CT3=[[クロタール3世]]<br>ネウストリア王<br>ブルグント王|TH3=[[テウデリク3世]]<br>フランク王|CI2=[[キルデリク2世]]<br>アウストラシア王 }}
 
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{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | CL3 | | CP2 | | CL4 | | CH3 | | CT4 | | | |CL3=[[クロヴィス3世]]<br>アウストラシア王|CL4=[[クロヴィス4世]]<br>フランク王|CH3=[[キルデベルト3世]]<br>フランク王|CT4=[[クロタール4世]]<br>アウストラシア王|CP2=[[キルペリク2世]]<br>ネウストリア王<br>アウストラシア王}}
 
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{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | CI3 | | | | | | DA3 | | |DA3=[[ダゴベルト3世]]<br>フランク王|CI3=[[キルデリク3世]]<br>フランク王}}
 
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{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | TH4 | |TH4=[[テウデリク4世]]<br>フランク王 }}
 
{{familytree/end}}
 
 
== 神話と伝承 ==
 
# メロヴィング朝の始祖は、海神の末裔である<ref>『クローヴィス』p. 21.</ref>。
 
# {{要出典範囲|メロヴィング朝の始祖は、[[トロイ]]の王族の血を引く云々|date=2015年4月}}。
 
# メロヴィング朝の始祖は、[[ナザレのイエス]]と[[マグダラのマリア]]の子の血を引く云々<ref>『[[レンヌ=ル=シャトーの謎]]』{{要ページ番号|date=2015年4月}}</ref>。
 
# {{要出典範囲|メロヴィング朝の末裔には、44人もの[[アメリカ合衆国大統領]]がいる|date=2011年4月}}。
 
 
{{-}}
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|last=ティエリ|first=オーギュスタン|authorlink=オーギュスタン・ティエリ|others=[[小島輝正]]訳|title=メロヴィング王朝史話 上|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|date=1992-08|isbn=978-4-00-334611-2}}
 
* {{Cite book|和書|last=ティエリ|first=オーギュスタン|others=小島輝正訳|title=メロヴィング王朝史話 下|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|date=1992-10|isbn=978-4-00-334612-9}}
 
* {{Cite book|和書|last1=ベイジェント|first1=マイケル|authorlink1=:en:Michael Baigent|last2=リー|first2=リチャード|authorlink2=:en:Richard Leigh (author)|last3=リンカーン|first3=ヘンリー|authorlink3=:en:Henry Lincoln|title=[[レンヌ=ル=シャトーの謎|レンヌ=ル=シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説]]|publisher=[[柏書房]]|series=叢書ラウルス|date=1997-07|isbn=978-4-7601-1443-6}}
 
* {{Cite book|和書|last=ミュソ=グラール|first=ルネ|authorlink=:fr:Renée Mussot-Goulard|others=加納修訳|title=クローヴィス|publisher=[[白水社]]|series=[[文庫クセジュ]] 831|date=2000-08|isbn=978-4-560-05831-2}}
 
* {{仮リンク|レジーヌ・ル・ジャン|fr|Régine Le Jan|label=ル・ジャン, レジーヌ}} 『メロヴィング朝』 加納修訳、白水社〈文庫クセジュ 939〉、2009年9月。ISBN 978-4-560-50939-5。
 
* H・I・マルー 『教父時代』2、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史〉
 
* Ian Wood (1995). The Merovingian Kingdoms, 450-751. Longman.
 
* 長谷川博隆 『ヨーロッパ—国家・中間権力・民衆—』名古屋大学出版会、1985年。
 
* 柴田三千雄 他編 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Merovingians}}
 
* [[フランスの歴史]]
 
* [[カロリング朝]]
 
 
{{Normdaten}}
 
  
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[[フランク王国]]前半期の王朝 (481~751) 。サリ族の首長[[メロービス]]の名による。5世紀末の[[クロービス1世]]がガリア全域を支配する統一的なフランク王国を建設したときに始るが,彼の死後,領土は4子に分割され,その後も分裂や内紛を繰返したので,国家の実権は[[宮宰]]の手に移った。特にカルル・マルテルがツール=ポアティエの戦い (732) でサラセン人の侵入を撃退してから権威を確立。その子[[ピピン3世|ピピン]] (小ピピン) はローマ教皇の承認を得て国王ヒルデリヒ3世を廃してみずから即位し (751) ,ここにメロビング朝は滅び,[[カロリング朝]]となった。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:めろういんくちよう}}
 
{{デフォルトソート:めろういんくちよう}}
 
[[Category:フランクの王朝]]
 
[[Category:フランクの王朝]]
 
[[Category:メロヴィング家|*]]
 
[[Category:メロヴィング家|*]]

2018/8/30/ (木) 23:34時点における最新版

メロヴィング朝フランク王国

メロヴィング朝
(メロヴィングちょう、: Mérovingiens, : Merovingian dynasty, : Merowinger

分割後のメロヴィング朝フランク王国(600年ころ)

フランク王国前半期の王朝 (481~751) 。サリ族の首長メロービスの名による。5世紀末のクロービス1世がガリア全域を支配する統一的なフランク王国を建設したときに始るが,彼の死後,領土は4子に分割され,その後も分裂や内紛を繰返したので,国家の実権は宮宰の手に移った。特にカルル・マルテルがツール=ポアティエの戦い (732) でサラセン人の侵入を撃退してから権威を確立。その子ピピン (小ピピン) はローマ教皇の承認を得て国王ヒルデリヒ3世を廃してみずから即位し (751) ,ここにメロビング朝は滅び,カロリング朝となった。



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