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'''メソジスト''' (Methodist) とは、[[18世紀]]、[[イングランド|英国]]で[[ジョン・ウェスレー]]によって興された[[キリスト教]]の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム ('''Methodism''') に生きた人々、および、その運動から発展した[[プロテスタント]][[教会 (キリスト教)|教会]]・[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]に属する人々を指す。日本では美以教会とも言われていた。
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'''メソジスト''' (Methodist)  
  
== 特色 ==
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キリスト教のプロテスタント諸教派の一つ。 18世紀にイギリスで,国教会の牧師であった [[J.ウェスリー]]を中心に [[C.ウェスリー]],G.ホイットフィールドらによって起された実践的な福音主義運動に由来する。その名は断食など厳格な禁欲的生活方法 methodを要求したところから,オックスフォードの学生らがたわむれに命名したものであるが,その傾向はイギリス国教会の伝統に基づく。またオランダの[[アルミニウス派]]からの影響も指摘される。全世界に信者を数える。
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まった。規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の[[組会]]、また、信仰のレベル別の[[バンド・ミーティング]]を重視した。このため[[軍隊]]や[[学校]]と相性がよく、[[ミッションスクール]]や[[病院]]の建設、[[貧民救済]]などの[[社会福祉]]にも熱心である。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える[[日曜学校]](教会学校としてキリスト教教育を施すように時代とともに変化した)や、当時の流行歌に歌詞をつけ、口語による平易な[[讃美歌]]を普及させたのもメソジスト教徒が中心であった。概して上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。
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1873年(明治6)日本に伝来。
メソジスト運動の原動力となったのは、「[[確証の教理]]」で、この「信仰の確証」はメソジスト運動を特徴づけるものとなった。当時の形骸化した[[イングランド国教会]]からすれば、メソジストのこの「聖霊の証し」の強調は狂信主義とも思えたので、彼らはメソジスト運動を、他の理由と相俟って、妨害しようとした。
 
 
 
教会自体に軍隊組織を採用した[[救世軍]]や「聖潔」(きよめ)を強調する[[ホーリネス運動]]、聖霊の働きを強調する[[ペンテコステ派]]などもこのウェスレアン・メソジスト運動の流れである。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 連合王国(英国)での歴史 ===
 
==== イングランド ====
 
メソジスト運動のそもそもの始まりは、イングランド国教会の教職であったジョン・ウェスレーが、[[モラヴィア兄弟団]]のクリスチャンと接触し、それまでの形式的な信仰から、いのちの溢れる信仰に導かれたことにある。人々は、輝いて生きるようになったウェスレーに魅せられて、指導を求めてきた。ウェスレーは木曜日の夜を定めて、これらの人々との交わりの時、指導の時を持った。これが人数が増し加わるにつれて、[[メソジスト・ソサエティ]]が作られ、その組会のために[[信徒伝道者]]が立てられ、彼らの巡回によって、[[イギリス帝国|大英帝国]]全体に感化を及ぼしたメソジスト運動へと展開していった。
 
 
 
このように実際の運動を支えたのは、信徒の立場にあって労した説教者たちであった。[[植民地]]アメリカでのメソジストの働きも信徒によって始められた。それで18世紀の英国で始まった信仰覚醒運動から生じたメソジスト系の諸教会は、もともと信徒運動という性質の強い教会であった。
 
 
 
当初はジョン・ウェスレーをはじめとするごく少数のイングランド国教会の司祭たちによって指導され、聖職者がほとんど参加していなかったため、信徒の説教者を用いたことから、これを認めない国教会と対立し、激しく迫害された。神学的には国教会と同じく[[ローマ神学]]を継いでいるが、上記の信徒による自立的な宗教活動を教義的に支えるため、プロテスタント諸派の中でも特異な[[聖霊論]]をもつ。
 
 
 
イギリスにおけるメソジスト運動は、主に中下層階級の市民や軍人を対象とした大衆運動として展開されながらも、ウェスレーという強烈な個性の存在によって、禁酒禁煙や几帳面な生活様式を要求するなど、爆発的な信徒数に結びつくにはほど遠い、厳格な[[ピューリタン]]的な要素を含んだ運動であった。
 
 
 
==== ウェールズ ====
 
[[ウェールズ]]では[[ジョージ・ホウィットフィールド]]らの[[カルヴァン主義メソジスト]]が広がり、[[ウェールズ・メソジスト・リバイバル]]が起った。
 
 
 
=== アメリカでの歴史 ===
 
メソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、[[アイルランド]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ドイツ]]などに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団である。ちなみに、一番多いのは[[バプテスト教会]]である。[[信条]]としては[[ルーテル教会|ルター派]]に近く、悔い改めによる救済を強調する。[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]の説いた[[予定説]]的な考え方はとらない。
 
 
 
これゆえ、[[ヨーロッパ大陸]]におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と[[改革派教会]]は、イングランドと米国ではメソジスト派と[[長老派教会|長老派]]にほぼ重なる。
 
[[ファイル:Protestantbranches ja.svg|thumb|center|540px|[[プロテスタント]]諸教派([[聖公会]]、[[アナバプテスト]]を含む)の系統概略]]
 
 
 
これが新大陸アメリカに宣教され、まだ[[西部開拓時代|開拓時代]]の西部へと急速に広がっていく過程において、その性質をかなり変貌させていく。教派の通称にもなっていたメソッド(謹厳な生活方式)は二の次にされ、ウェスレーの説いた教義のある部分と大衆運動という側面が強調されていった。すなわち、救いは罪の自覚とともにすでにあるものとして体験されるという[[スピリチュアリズム|スピリチュアル]]な喜びと、その喜びに基づいて、この現世において[[神の王国|神の国]]を実現しようという強烈な社会変革意欲であった。こうして、開拓時代のアメリカで宣教に当たった説教者たちの多くは、専門教育こそ充分に受けてはいないが、熱烈な信仰心をもち、[[社会事業]]へのバイタリティにあふれた人たちであった。1828年米国[[メソジスト監督教会]]より、教会政治の意見の相違によりメソジスト・プロテスタントが分離独立した。1843年奴隷問題を巡って、ウェスレアン・メソジスト教会が分裂した。ウエスレアン・メソジスト教会は、その後、他の教会と合同し、現在はウエスレアン教会となっている。米国の[[南北戦争]]では教会自体も南北にわかれて戦った。メソジスト監督教会は1854年南北に分裂し、北部にはメソジスト監督教会、南部には南メソジスト監督教会が組織された。1939年再合同し、1968年Evangelical United Brethrenとも合同し、現在の合同メソジスト教会 ([[:en:United Methodist Church|United Methodist Church]]) となった。[[ジョージ・W・ブッシュ]]元大統領夫妻が熱心な信者である。
 
 
 
また、1860年アメリカ北メソジスト監督教会から、アメリカ[[自由メソジスト教会]]が分離した。
 
 
 
=== 日本での歴史 ===
 
日本ではカナダ・北米教会による宣教から[[青山学院]]、南メソジスト監督教会による宣教から[[関西学院]]が生じた。[[日本メソヂスト教会]]は、[[日本基督教団]]設立と同時にこれに参加した。他には[[日本自由メソヂスト教団]]、[[日本フリーメソジスト教団]]、[[東京フリー・メソジスト教会]]などが存在する。これらは米国系のウェスレアン・メソジストである。
 
 
 
[[1873年]]米国[[メソジスト監督教会]]が宣教師を派遣し、[[横浜市|横浜]]、[[東京]]、[[長崎]]、[[函館市|函館]]を伝道の拠点とした(美以教会)。[[本多庸一]]が弘前でメソジストに改宗し、やがて本多を中心として[[1884年]] 日本年会を組織した。神戸を中心として西日本に伝道していた[[アメリカ南メソヂスト監督教会]](南美以教会)と静岡を中心に伝道していた[[カナダ・メソジスト教会]]が[[1907年]]に合同して、[[日本メソヂスト教会]]が誕生した。
 
 
 
[[1881年]]に米国メソジスト・プロテスタント教会本部が日本における教育及び伝道事業を開始した。その結果、[[学校法人横浜英和学院|横浜英和女学校]]と[[名古屋中学校|名古屋英和学校]]、それから横浜第一、第二、第三美普教会、その後平塚、茅ヶ崎、伊勢原に会堂を建設した。横浜に続き、名古屋に伝道事業を開始し、1897年名古屋第一(広路)教会、第二(中京)、第三(熱田)、続いて静岡、浜松と東海道沿いに伝道事業が進められた。その後日本美普(みふ)教会になり、1939年管理が米国本部より邦人に引き継がれた。
 
 
 
[[1895年]]アメリカ自由メソジスト教会が[[柿原正次]]を日本自由メソジスト教会日本初代監督に任命して日本に派遣した。続いて、[[1896年]]河辺貞吉がアメリカ自由メソジストから日本伝道の責任者に任命されて日本に派遣された。[[河辺貞吉]]らが淡路島で伝道活動を始めた。8年間淡路島で伝道活動をして、大阪や兵庫でも活動した。[[1903年]]アメリカ自由メソジスト教会は最初の宣教師として、マチウソン夫妻、ヤングレン夫妻を日本に派遣した。[[1908年]]伝道者の育成のために大阪伝道館(現: [[大阪キリスト教短期大学]])を設立した。
 
 
 
[[1940年]]自由メソジスト教会、[[日本ナザレン教団|日本ナザレン教会]]、[[日本同盟基督教団|日本同盟基督協会]]、[[世界宣教団]]が日本聖化基督教団を結成する。総理に[[土山鉄次]]が就任した。[[1941年]]日本基督教団の成立に伴い、日本聖化基督教団が第8部に、日本メソヂスト教会と[[日本美普教会]]が第2部になる。戦後8部の構成団体は日本基督教団を離脱したが、第2部の多くは日本基督教団に留まっている。
 
 
 
戦後に、[[日本自由メソヂスト教団]]が日本基督教団から独立し(1952年創立)、1970年以降のいわゆる「教団問題」により1984年そこから[[日本フリーメソジスト教団]]が分離する。また、戦後来日した北米自由メソジスト教会引退教師の伝道により、[[東京フリー・メソジスト教会]]が誕生した。
 
 
 
また、[[本多庸一]]によって改宗しメソジスト教会の伝道師になった[[中田重治]]によって[[ホーリネス運動]]が起こり、その結果ホーリネス派の諸教会が誕生した。日本ホーリネス教会の教職であった[[蔦田二雄]]を中心にして生まれた[[リバイバル・リーグ]]と呼ばれる[[超教派運動]]は、18世紀のメソジスト運動を日本において再現しようとするものであったが、1943年に始まった軍閥政府の教会弾圧によって中断を余儀なくされた。1945年に創設された[[イムマヌエル綜合伝道団]]は、その流れを継承する教派の一つで、神学的にはメソジストの系列にある。
 
 
 
また、英国メソジストから生まれた[[救世軍]]が、ライト大佐によって[[1895年]]から日本で始まった。日本での働きが開始されてまもなく、[[山室軍平]]が入隊し、後に日本人最初の士官として任命された。日本救世軍の自立を成長のために貢献した。日本では、災害の[[寄付|義捐金]]募金活動、出獄人保護事業などの社会事業を行った。
 
 
 
== 教育機関 ==
 
メソジスト派のミッションスクールとしては、日本では[[青山学院大学]]・[[関西学院大学]]が著名であり、同じく東アジアの[[韓国]]にある名門女子大学の[[梨花女子大学校]]もメソジスト派宣教師によって設立されている。本国の米国においては[[リトル・スリー]]と評されるリベラルアーツカレッジの名門[[ウェズリアン大学]]や、総合大学としては[[南メソジスト大学]]・[[アメリカン大学]]等が著名校であり、[[ボストン大学]]もメソジスト派の牧師によって設立されている。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[メンデル・テイラー]]『伝道の歴史的探究』[[福音文書刊行会]]
 
* ケアンズ『基督教全史』[[聖書図書刊行会]]
 
* [[マーティン・ロイドジョンズ]]『[[栄えに満ちた喜び]]』[[いのちのことば社]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Methodism}}
 
* [[日本自由メソヂスト教団]]
 
* [[日本フリーメソジスト教団]]
 
* [[東京フリー・メソジスト教会]]
 
* [[ジョン・ウェスレー]]
 
* [[ジュリアス・ソーパー]]
 
* [[ホーリネス運動]]
 
* [[イムマヌエル綜合伝道団]]
 
* [[救世軍]]
 
* [[アルミニウス主義]]
 
* [[エレン・グールド・ホワイト]]
 
* [[津田仙]]
 
  
 
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メソジスト (Methodist)

キリスト教のプロテスタント諸教派の一つ。 18世紀にイギリスで,国教会の牧師であった J.ウェスリーを中心に C.ウェスリー,G.ホイットフィールドらによって起された実践的な福音主義運動に由来する。その名は断食など厳格な禁欲的生活方法 methodを要求したところから,オックスフォードの学生らがたわむれに命名したものであるが,その傾向はイギリス国教会の伝統に基づく。またオランダのアルミニウス派からの影響も指摘される。全世界に信者を数える。

1873年(明治6)日本に伝来。





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