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− | 正しくは罰を免じたのであって,罪を免じたのではない。[[カトリック神学]]では,罪とその結果である罰とが区別され,前者は改悛によってゆるされるが,後者は罪がゆるされたのちも,罪のゆるしを前提になんらかの善業によってしか相殺されない。 | + | 正しくは罰を免じたのであって,罪を免じたのではない。[[カトリック教会|カトリック神学]]では,罪とその結果である罰とが区別され,前者は改悛によってゆるされるが,後者は罪がゆるされたのちも,罪のゆるしを前提になんらかの善業によってしか相殺されない。 |
善業には祈り,断食,献金などがあり,古代教会ではたとえば 40日間の断食というように課せられていた。のちに善業間のいわば振替えが考えられ,たとえばある日数の断食の代りに特定の祈り,または一定額の献金で罰が相殺されるようになった。 | 善業には祈り,断食,献金などがあり,古代教会ではたとえば 40日間の断食というように課せられていた。のちに善業間のいわば振替えが考えられ,たとえばある日数の断食の代りに特定の祈り,または一定額の献金で罰が相殺されるようになった。 |
2018/7/29/ (日) 13:06時点における最新版
贖宥状 Ablassbrief,Beichtbriefの日本における通俗的な訳。
正しくは罰を免じたのであって,罪を免じたのではない。カトリック神学では,罪とその結果である罰とが区別され,前者は改悛によってゆるされるが,後者は罪がゆるされたのちも,罪のゆるしを前提になんらかの善業によってしか相殺されない。
善業には祈り,断食,献金などがあり,古代教会ではたとえば 40日間の断食というように課せられていた。のちに善業間のいわば振替えが考えられ,たとえばある日数の断食の代りに特定の祈り,または一定額の献金で罰が相殺されるようになった。
中世にはこの考えがさらに広く解釈され,あたかも罪を改悛しなくとも献金さえすれば罰がゆるされるかのように説く説教家が現れ,聖堂建築などを目的とした「贖宥状の販売」ともいえるような濫用が発生し,これがルターの宗教改革のきっかけとなった。