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セルヒーイ・ヴァスィリキーウシクィイ | |
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生誕 |
1854年10月7日 ウクライナ、イジューム |
死没 | 1917年10月8日 |
国籍 | ロシア帝国 |
著名な実績 | 画家 |
運動・動向 | アカデミック派 |
セルヒーイ・イヴァーノヴィチ・ヴァスィリキーウシクィイ(ウクライナ語: Сергі́й Іва́нович Василькі́вський セルヒーイ・イヴァーノヴィチュ・ヴァスィリキーウシクィイ、1854年10月7日 - 1917年10月8日)は、近代ウクライナの画家である。ウクライナの自然や農村の風景、そしてコサックの歴史と伝統をそのテーマとしている。
概要
セルヒーイ・ヴァスィリキーウシクィイは1854年10月7日にスロボダ・ウクライナのイジュームに生まれた。1861年、彼は家族とともにハルキウに移住し、そこで美術を習い始めた。1876年から1885年までロシア帝国のペテルブルク美術アカデミーの風景科で勉強し、移動派に強い影響を受けられた。1883年、故郷ウクライナを訪れて多数の風景画を描いた。彼の作品は高く評価され、ヴァスィリキーウシクィイは国外留学が許された。1886年以降、画家はフランスのパリで暮らし、イギリス・スペイン・イタリア・ドイツ・南アフリカを旅行しながら修行した。海外経験を重ねたヴァスィリキーウシクィイは、1900年にアカデミーを離れ、ウクライナの美術を発展させるためにペテルブルクからハルキウに移住した。
1917年、画家は、ハルキウに大きな「国立美術博物館」が創立されるよう願い、自らの1340点の画像と財産を「スロボダ・ウクライナ博物館」に渡した。同年10月、ヴァスィリキーウシクィイは3000点余りの作品を後世に残し、死去した。しかし、第二次世界大戦中にそれらの作品は多く失われ、現在500点ほどしか残されていない。
ギャラリー
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チュマクの道
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ウクライナの風景
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コサックの屋敷
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ウクライナの春
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- Sergiy Vasylkivskiy- Silska vulycia.jpg
農村の路
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近辺
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見張中
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ウクライナ・コサックの連隊長
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マゼーパ時代の大砲隊のコサック
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コサックの軍事書記
- Sergiy Vasylkivskiy- Banduryst z clopchykom.jpg
ウクライナのコブザール
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コサックの長老
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ザポロージャ・コサック
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ザポロージャ・コサック
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越ドナウ・シーチのザポロージャ・コサック
参考文献
- Огієвська І. Сергій Іванович Васильківський. — К., 1980. (ウクライナ語)
- Безхутрий М. С. І. Васильківський. Нарис про життя та творчість. — К.,1954. (ウクライナ語)
- Сергій Васильківський: Альбом. — К.,1987. (ウクライナ語)