「ジョルジュ・ギンヌメール」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(ページの白紙化)
(タグ: Blanking)
 
1行目: 1行目:
{{基礎情報 軍人
 
| 氏名      = ジョルジュ・マリ・リュドヴィク・ジュール・ギヌメール
 
| 各国語表記 = Georges Marie Ludovic Jules Guynemer
 
| 生年月日  = [[1894年]][[12月24日]]
 
| 没年月日  = {{死亡年月日と没年齢|1894|12|24|1917|9|11}}
 
| 画像      = Ww guynemer 01.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 渾名      =
 
| 生誕地    = {{FRA1870}}、[[パリ]]
 
| 死没地    = {{BEL}}、ポエルカペル南方
 
| 所属政体  = {{FRA}}
 
| 所属組織  = [[フランス空軍]]
 
| 軍歴      = 1914 - 1917
 
| 最終階級  = 空軍[[大尉]]
 
| 指揮      =
 
| 部隊      =
 
| 戦闘      = [[第一次世界大戦]]
 
| 戦功      =
 
| 賞罰      = [[レジオンドヌール勲章]]
 
| 除隊後    =
 
| 廟        =
 
}}
 
'''ジョルジュ・マリ・リュドヴィク・ジュール・ギヌメール'''(Georges Marie Ludovic Jules Guynemer, [[1894年]][[12月24日]] - [[1917年]][[9月11日]])は[[第一次世界大戦]]のフランスの[[エース・パイロット]]である。
 
  
戦闘機パイロットとしての経歴を通してコウノトリ部隊(Escadrille des Cigognes, Les Cigognes)として知られる第3飛行中隊に属し、搭乗機には個別マークとして"Vieux Charles"(“老シャルル”)の文字を記入していた。フランス空軍第2位の54機の撃墜記録をもつが、1917年ベルギー戦線で戦死した。
 
 
== 生い立ち ==
 
1894年12月24日、フランスの[[パリ]]に生まれる。ギヌメール家は軍人の名門で、父はポール・ギヌメール。イヴォンヌとオデットという2人の姉がいる。生まれつき病弱のため少年期は学校へ通うことができず、兵役にも2回はねられている。
 
 
== 戦歴 ==
 
[[1914年]]航空隊に入隊。当初は整備兵として配属された。
 
[[1915年]]6月、第3飛行中隊(MS.3)に配属される。MSの略号は、当時この部隊が[[モラーヌ・ソルニエ]]機装備であったことを示す。ギヌメールは翌月、[[モラーヌ・ソルニエ L]]型機で最初の戦果を挙げた。この時ギヌメールが搭乗していた機体は、マケドニア戦線に転属した飛行士シャルル・ボナールが以前に使っていたもので、ボナールは機体に自らの使用機であることを示すため"Vieux Charles"(“老シャルル”)と書き入れていた。"Vieux"とあるのは、ボナールより若い同名の整備員がいたためと言われる。ギヌメールは験を担ぎ、その後、機体を乗り換えてもこの名と、機番「2」を記入し続けた。
 
 
1915年12月、部隊は[[ニューポール]]機に機種改変され、N.3と改称された(当初[[ニューポール10]]、後に[[ニューポール 11|11]]、[[ニューポール 17|17]])。より運動性の優れた戦闘機に乗り換えたことでギヌメールはスコアを伸ばし、[[1916年]]2月に撃墜数が5機とエースになり、1916年末には撃墜数が25機になった。1916年に、ギヌメールに最新鋭機[[SPAD (航空機メーカー)|スパッド]][[S.VII (航空機)|S.VII]]の初期量産機が優先的に与えられた。後に部隊全体もスパッド機装備となり、Spa.3となった。
 
[[ファイル:SPAD VII Guynemer Le Bourget 01.JPG|thumb|left|250px|ル・ブールジェに展示されている、ギヌメールが使用した数機のスパッドS.VIIのうちの1機。排気管の下に"Vieux Charles"の名、胴体に部隊章のコウノトリと機番2が記入されている]]
 
 
[[1917年]]には大尉になり、コウノトリ部隊の指揮者になった。1917年7月末にはフランスで最初の50機を撃墜したパイロットになった。
 
 
1917年6月6日、後のドイツ2位のエースである[[エルンスト・ウーデット]]機と1対1の戦いを繰り広げたが、ウーデット機の機関銃が故障したのを見て、ギヌメールは手を引いた(ギヌメールの機銃も故障したためとの説もある)。この出来事は映画「華麗なる飛行機野郎」でも語られるシーンがある。
 
 
常に連合国トップエースであったギヌメールにはすでに与えられる勲章もなくなり、戦死をおそれた軍部は再三後方勤務を薦めたが、彼は軍人である父に「全力を尽くしていないのなら何もしないのと同じです」と語り、きっぱり転属を断った。
 
 
1917年9月11日朝、部下1機を連れ哨戒飛行中、単機で飛行するドイツ軍偵察機を視認し追撃するが、上空から数機のドイツ戦闘機に襲い掛かられた。部下はからくも逃れたが、その時には空中にギヌメール機は見当たらず、そしてついに基地にも帰還しなかった。最後の乗機はスパッド[[S.XIII (航空機)|S.XIII]]、シリアルS.504、機番2であったとされる。ドイツでは、ギヌメール機を撃墜したのは第3中隊(Jasta 3)所属のクルト・ヴィッセマン中尉であったと発表された。ギヌメール機は皮肉にも墓場に墜落、ドイツ軍により死亡が確認されたが、イギリス軍の砲撃で遺体を運び出せず、砲撃後は何もかもが消えていたとも言われる。国民的人気のあったギヌメールの喪失について、当時のフランスでは「ギヌメールはあまりにも高く飛びすぎて降りてこられなくなった」と語られた。
 
 
ギヌメールはプライドが高く気性の激しい性格で正面攻撃を得意とし、撃墜数54機はこの時点で連合軍のトップエースであり、人気者だった。冷静沈着な精密機械と評された[[ルネ・フォンク]](最終的には彼が連合軍トップエースとなった。ギヌメール戦死の知らせを聞くと仇討ちに出撃、その日撃墜した機体が偶然にもギヌメールを撃墜した機体だった)も撃墜数は超えても人気を超える事はできなかった。
 
 
== 交友関係 ==
 
[[SPAD (航空機メーカー)|スパッド]]社の設計士ルイ・ベシュローとは個人的に親しい間柄で、スパッドS.VIIをもとに37mmモーターカノンを装備した重戦闘機スパッド[[S.XII_(航空機)|S.XII]]型機はギヌメールの発案の元に製作された。1916年末、N.3(当時)指揮官であったフェリックス・ブロカード大尉はギヌメールを「もっとも輝けるコウノトリ」と賞賛した。
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.wwiaviation.com/aces/ace_Guynemer.shtml Georges Guynemer's career described at WWIAviation.com]
 
* [http://www.firstworldwar.com/bio/guynemer.htm Georges Guynemer - "Who's Who" at FirstWorldWar.com]
 
* [http://www.acepilots.com/wwi/fr_guynemer.html Georges Guynemer - "a beloved French Ace" at Acepilots.com]
 
* [http://www.theaerodrome.com/aces/france/guynemer.php Georges Guynemer page at theaerodrome.com]
 
 
{{DEFAULTSORT:きんぬめえる しよるしゆ}}
 
[[Category:フランスのパイロット]]
 
[[Category:第一次世界大戦期フランスの軍人]]
 
[[Category:第一次世界大戦のエースパイロット]]
 
[[Category:第一次世界大戦で戦死した人物]]
 
[[Category:1894年生]]
 
[[Category:1917年没]]
 
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]
 

2018/9/23/ (日) 12:11時点における最新版