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| 本名 = ローゼマリー・マグダレーナ・アルバッハ(Rosemarie Magdalena Albach)
 
| 本名 = ローゼマリー・マグダレーナ・アルバッハ(Rosemarie Magdalena Albach)
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| ジャンル = 映画
 
| ジャンル = 映画
 
| 活動期間 = [[1953年]] - [[1982年]]
 
| 活動期間 = [[1953年]] - [[1982年]]
| 配偶者 = [[:en:Harry Meyen|Harry Meyen]] (1966-1975)<br>Daniel Biasini (1975-1981)
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| 配偶者 =  
| 著名な家族 = David Christopher Haubenstock (1966-1981) 息子 <br />
 
[[:en:Sarah Biasini|Sarah Biasini]] (1977-) 娘
 
 
| 公式サイト =  
 
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| 主な作品 = 「プリンセス・シシー」3部作 「ルートヴィヒ」「夕なぎ」「サン・スーシの女」
 
| 主な作品 = 「プリンセス・シシー」3部作 「ルートヴィヒ」「夕なぎ」「サン・スーシの女」
 
| 備考 =  
 
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'''ロミー・シュナイダー'''(Romy Schneider、[[1938年]][[9月23日]] - [[1982年]][[5月29日]])は、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]出身の女優。当時の[[西ドイツ]]、[[フランス]]の映画界で活躍した。出演した映画の数は60本を超える。
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'''ロミー・シュナイダー'''(Romy Schneider、[[1938年]][[9月23日]] - [[1982年]][[5月29日]]
  
== 来歴 ==
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[[オーストリア]]・[[ウィーン]]出身の女優。当時の[[西ドイツ]]、[[フランス]]の映画界で活躍した。出演した映画の数は60本を超える。
祖母・両親共に俳優で、15歳の時に母親の出演作でデビュー。
 
 
 
映画『[[プリンセス・シシー]]』3部作([[1955年]] - [[1957年]])でお転婆な[[バイエルン王国]]公女、のちの[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|シシー]]を演じてアイドル的な人気を得る。そして、「シシー(Sissi)」はそのまま彼女の愛称にもなった。
 
 
 
[[1958年]]の『恋ひとすじに』で共演した当時無名の[[アラン・ドロン]]と恋に落ち婚約。その後、[[ハリウッド]]に進出し、第21回[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)]]を受賞した『枢機卿』で[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)]]にノミネートされ、国際的に認められるようになった。また、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『ボッカチオ'70』『ルートヴィヒ』や[[フランツ・カフカ]]原作/[[オーソン・ウェルズ]]監督の『審判』、[[マルグリット・デュラス]]原作/脚本の『夏の夜の10時30分』などにも出演し、高い評価を得た。しかし、アラン・ドロンとは[[1964年]]に別れる結果になってしまう。
 
 
 
その他にも[[ウディ・アレン]]共演作品や[[クロード・ソーテ]]監督作品などで活躍するが、私生活においては2度の結婚も離婚に終わり、14歳の息子を事故で亡くすなど不幸が続き、[[1982年]]に[[心不全]]で亡くなった。
 
 
 
ドイツで彼女の生涯を描いたTVムービー『[http://www.imdb.com/title/tt1210101/ Romy]』([[2009年]]放映)が、ロミー役に[[ジェシカ・シュワルツ]]([[:en:Jessica Schwarz |Jessica Schwarz ]])、他[[トーマス・クレッチマン]]らの出演で制作された。[https://www.youtube.com/watch?v=GBVK4FihaMw]
 
 
 
=== 生立ち ===
 
[[Image :Rosa Albach-Retty.jpg|thumb|ロミーの祖母・[[:en:Rosa Albach-Retty|ローザ・アルバッハ・レッティ]] (1874-1980) 1902年]]
 
[[File:WP Magda Schneider.jpg|thumb|ロミーの母・[[:en:Magda Schneider|マグダ・シュナイダー]](右) 1937年]]
 
祖母・[[ローザ・アルバッハ・レッティ]] ([[:en:Rosa Albach-Retty|Rosa Albach-Retty]]) はウィーンのブルク劇場で活躍した大女優であり、その息子で父・[[ヴォルフ・アルバッハ・レッティ]]([[:en:Wolf Albach-Retty|Wolf Albach-Retty]])も舞台・映画で活躍した俳優であった。<ref name="佐々木6-8">佐々木、pp.6-8</ref>母・[[マグダ・シュナイダー]]([[:en:Magda Schneider|Magda Schneider]])は[[ドイツ]]・[[バイエルン]]・[[アウクスブルク]]の出身。芸能には縁のない家庭の生まれであったが女優を志し、地方の舞台から1930年代に映画に進出、[[1932年]]の「[[恋愛三昧]]」(独・日本未公開)のヒットで映画女優としての名声を確立した<ref name="ユルクス14">ユルクス、p.14</ref><ref name="佐々木8-10">佐々木、pp.8-10</ref>。「恋愛三昧」はのちに娘ロミーと[[アラン・ドロン]]のコンビで[[リメイク]]され、2人が恋に落ちるきっかけとなった{{#tag:ref|「恋愛三昧」は題名まではついたが、当時の[[内務省 (日本)|内務省]]の検閲を通らず、日本では公開されなかった。<ref name="日野82">日野、p.82</ref>|group=#}}。
 
 ヴォルフとマグダは[[1933年]]に映画で初共演後、9本のドイツ映画で共演し人気コンビとなる<ref name="佐々木321">佐々木、p.321</ref>。共演作を重ねるごとに2人の仲も密になり、[[1937年]]に結婚<ref name="佐々木10">佐々木、p.10</ref>。翌年ロミー(ローゼマリー)が、[[1941年]]に弟ヴォルフィ(のち[[医師]]となる)が生まれた<ref name="佐々木16-19">佐々木、pp.16-19</ref><ref name="ユルクス12">ユルクス、p.12</ref>。
 
 
 
ロミーはオーストリア国境に近いドイツ・バイエルンの[[ベルヒテスガーデン]]近く・シェーナウの屋敷で、撮影や舞台で不在がちの両親に代わって母マグダの両親に育てられる<ref name="佐々木10-11,18">佐々木、pp.10-11,p.18</ref>。[[ヒトラー]]の山荘・[[ベルクホーフ]]、[[ケールシュタインハウス]]のすぐ近くであった<ref name="佐々木100,220">佐々木、p.100,220</ref><ref name="ユルクス82">ユルクス、p.82</ref>{{#tag:ref|幼少期、ロミーはナチス高官の子供たちのおやつに招かれ、その中にヒトラーの側近・[[マルティン・ボルマン]]の子供たちがいたこともあったという<ref name="佐々木21">佐々木、p.21</ref>。|group=#}}。ロミー5歳の[[1943年]]に父ヴォルフに愛人ができ<ref name="佐々木21">佐々木、p.21</ref>、両親は[[1945年]]に離婚するが、母マグダが[[ナチス]]、ヒトラー寄りの姿勢をとっていたことも離婚理由の1つであったらしい<ref name="佐々木21,221-223">佐々木、p.21,pp.221-223</ref>。{{#tag:ref|ヒトラーはマグダのファンだったことがあり<ref name="佐々木15">佐々木、pp.15</ref><ref name="ユルクス14">ユルクス、p.14</ref>、マグダがベルヒテスガーデンの山荘でヒトラーや愛人の[[エヴァ・ブラウン]]と親しげにしているカラー映像が現存している。[https://www.youtube.com/watch?v=j2xD6j7wezA]<ref name="佐々木222-223">佐々木、pp.222-223</ref>|group=#}}
 
 
 
地元の小学校を卒業後、オーストリア・[[ザルツブルク]]近くの[[カトリック教会|カトリック]]系の女子[[寄宿学校]]に進む<ref name="佐々木22-24">佐々木、pp.22-24</ref><ref name="ユルクス15">ユルクス、p.15</ref><ref name="ザイデル34">ザイデル、p.34</ref>。お転婆で自立心が強くしばしば問題児扱いされた生徒だったようだが、自身の血筋を早くから意識していたらしく学校劇では才能を発揮、すでに将来の夢を女優に定めていた<ref name="佐々木24-28">佐々木、pp.24-28</ref><ref name="ユルクス15-18">ユルクス、pp.15-18</ref><ref name="ザイデル35-52">ザイデル、pp.35-52</ref>。絵が得意だったロミーは「お芝居の世界で成功しなかったら、装飾美術をやろう」と日記に記している<ref name="佐々木31">佐々木、p.31</ref><ref name="ザイデル46">ザイデル、p.46</ref>。
 
[[ファイル:Romy Schneider 1955.jpg|サムネイル|1955年「プリンセス・シシー」]]
 
 
 
=== 『プリンセス・シシー』 ===
 
[[1953年]]、14歳で寄宿学校を卒業。ほどなく母マグダ・シュナイダーの主演映画『[[再び白いライラックが咲いたら (映画)|再び白いライラックが咲いたら]]』に出演する話がもち上がり、カメラテストに合格、マグダの娘役でドイツ映画界にデビュー。このデビュー作のみ、ロミー・アルバッハ=シュナイダーの名を使っている<ref name="佐々木34">佐々木、p.34</ref><ref name="ユルクス20-21,242">ユルクス、pp.20-21,p.242</ref>。<ref name="佐々木31-34">佐々木、pp.31-34</ref><ref name="ユルクス18-19">ユルクス、pp.18-19</ref><ref name="ザイデル54-77">ザイデル、pp.54-77</ref>{{#tag:ref|この後、マグダ・シュナイダーの映画出演作のほとんどは娘ロミーとの共演作である<ref name="佐々木200">佐々木、p.200</ref>。|group=#}}(以下、「ドイツ」は当時の[[西ドイツ]]、「[[ベルリン]]」は[[西ベルリン]]のこと)
 
 
 
順調に役がつき、3作目の『[[女王さまはお若い]]』で主役の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]役に抜擢される<ref name="佐々木35">佐々木、p.35</ref><ref name="ユルクス26">ユルクス、p.26</ref>。翌[[1954年]]、同じ[[エルンスト・マリシュカ]]監督でオーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]を演じたオーストリア映画『プリンセス・シシー』が大ヒット。全ヨーロッパで2500万人を動員し<ref name="佐々木43">佐々木、p.43</ref>、ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。{{#tag:ref|日本では『プリンセス・シシー』は[[1959年]]に当時の[[明仁|皇太子]]御成婚記念映画として封切られたが、興行的にふるわず、2・3は公開されなかった<ref name="佐々木44,322">佐々木、p.44,322</ref>。|group=#}}しかし、固定化された(ロミー曰く)「お粥みたいにくっついて離れない」<ref name="佐々木52">佐々木、p.52</ref>“ロミー・シュナイダー=シシー”のイメージは生涯にわたってロミーを苦しめることになる。
 
 
 
これ以降、ロミーのドイツ、オーストリアでの出演作の役は大衆向け娯楽作の甘い無害な歴史ロマンスのヒロインや清純な乙女といったものばかりになり、女優としての成長を望むロミーはしだいに苛立ちを感じるようになる<ref name="佐々木44">佐々木、p.44</ref><ref name="ザイデル141-164">ザイデル、pp.141-164</ref>。しかしステージママ化した母マグダと継父の実業家[[ハンス・ヘルベルト・ブラッツハイム]] ([[:de:Hans Herbert Blatzheim|Hans Herbert Blatzheim]]) (莫大なロミーのギャラを自身の事業に投資していたが後に破産<ref name="佐々木127,132-133">佐々木、p.127,pp.132-133</ref><ref name="ユルクス60,107-108">ユルクス、p.60,pp.107-108</ref><ref name="ザイデル377-378">ザイデル、pp.377-378</ref>)は[[1956年]]『[[若き皇后シシー]]』、[[1957年]]『[[ある皇后の運命の歳月]]』とロミーをシシーの続編に出演させた。後に「『シシー・Ⅱ』の出演が決まったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった」<ref name="ザイデル145">ザイデル、p.145</ref>とまでロミーは語っているが、嫌々演じたというのに、この2作も大ヒットしてしまう<ref name="佐々木46-53">佐々木、pp.46-53</ref>。
 
 
 
母と継父は『シシー・Ⅳ』への出演もロミーに強要しようとしたが、20歳のロミーは目の前にギャラとして100万[[マルク (通貨)|マルク]](現在<!--いつ?-->の6億円くらい<ref name="佐々木323">佐々木、p.323</ref>)を積まれても首を縦には振らなかった<ref name="佐々木57">佐々木、p.57</ref><ref name="ユルクス33,61">ユルクス、p.33,61</ref><ref name="ザイデル377">ザイデル、p.377</ref>。
 
 
 
「私はシシーなんかじゃない。分かっていたのは私だけ。役として演じはしたけど、私は夢のようなお姫さまとは似ても似つかない人間だった」<ref name="佐々木46">佐々木、p.46</ref><ref name="ザイデル203,322">ザイデル、p.203,322</ref>
 
[[File:Ein Engel auf... 1959.jpg|thumb|200px|[[1959年]]独仏合作映画『Ein Engel auf Erden』(日本未公開)]]
 
 
 
=== アラン・ドロンとの出会い フランスへ ===
 
[[1958年]]、母マグダの出世作『恋愛三昧』のリメイク『[[恋ひとすじに]]』(仏・伊合作)で無名のアラン・ドロンと共演。{{#tag:ref|このときのロミーのギャラは7500万旧フラン、ドロンはわずか30万旧フランだった<ref name="佐々木63">佐々木、p.63</ref>。|group=#}}ロミーは[[フランス語]]が話せず、ドロンも[[ドイツ語]]が分からなかったうえ、ロミーはドロンを悪趣味で気障な男だと感じ、ドロンはロミーを胸くそ悪いやつだと思い、初対面の2人のお互いの第一印象は極めて悪かった<ref name="佐々木62-63">佐々木、pp.62-63</ref><ref name="ユルクス47-48">ユルクス、pp.47-48</ref><ref name="ザイデル205">ザイデル、p.205</ref>{{#tag:ref|ドロンは唯一「イッヒ・リーベ・ディッヒ(愛してる)」のドイツ語のみは覚えてきていた。<ref name="佐々木63">佐々木、p.63</ref><ref name="ザイデル205">ザイデル、p.205</ref>|group=#}}。しかし[[パリ]]とウィーンで行われた撮影の間に2人の映画の中での恋は本物となる。ドロンはロミーの無垢・純粋さに、ロミーはドロンの無鉄砲さ・反逆精神に惹かれた。お互いの中に自分にないものを見出したのである<ref name="佐々木64">佐々木、p.64</ref>。
 
 
 
「シシー」イメージ以外の企画がないドイツ映画界への幻滅と、何かと干渉しようとする母・継父への成長したロミーの反抗も重なり、翌[[1959年]]ロミーはパリのドロンのもとへ出奔、同棲する<ref name="佐々木66-67">佐々木、pp.66-67</ref><ref name="ユルクス51-53">ユルクス、pp.51-53</ref><ref name="ザイデル209">ザイデル、p.209</ref>。体裁を気にしたロミーの母・継父との妥協策として59年3月、ロミーとドロンは[[スイス]]・[[ルガーノ]]で婚約をマスコミに向け発表するが<ref name="佐々木68-69">佐々木、pp.68-69</ref><ref name="ユルクス55-56">ユルクス、pp.55-56</ref><ref name="ザイデル212-213">ザイデル、pp.212-213</ref>、ドイツと家族を捨て、清純な乙女・お姫さま女優というファンのイメージを裏切ったロミーは、これ以後ドイツのマスコミには裏切り者扱いされ、その確執は彼女の死まで解けることはなかった。
 
 
 
ドロンは[[ルネ・クレマン]]監督『[[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]]』(1960年)で一躍脚光を浴び、スター街道を駆け上っていくが、ドイツでの人気が落ちたロミーは逆に仕事が減ってゆく<ref name="佐々木69-73">佐々木、pp.69-73</ref><ref name="ユルクス53">ユルクス、p.53</ref><ref name="ザイデル215">ザイデル、p.215</ref>。
 
 
 
[[1960年]]秋、『[[若者のすべて (映画)|若者のすべて]]』(1960年)に主演したドロンが[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督をロミーに引き合わせたことが転機となる<ref name="佐々木74-75">佐々木、pp.74-75</ref><ref name="ユルクス58-59">ユルクス、pp.58-59</ref><ref name="ザイデル217-219">ザイデル、pp.217-219</ref>。ヴィスコンティは自身が演出する舞台『[[あわれ彼女は娼婦]]』([[ジョン・フォード (劇作家)|ジョン・フォード]]作)への出演をロミーに依頼。まだ初歩のフランス語しか話せないロミーが、パリの大劇場で、しかも初舞台を踏むというのは無謀とも言えたが<ref name="佐々木76">佐々木、p.76</ref><ref name="ザイデル219">ザイデル、p.219</ref>、{{#tag:ref|母マグダに反対されたロミーはこう答えたという。「お節介はやめてよ。いつどこで、どんな風にだろうと、自分の好きなように破滅してやるわ」<ref name="佐々木77">佐々木、p.77</ref><ref name="ザイデル220-221">ザイデル、p.220-221</ref>|group=#}}ロミーは昼夜を徹してフランス語の猛特訓を受け、厳しいヴィスコンティの演出に耐えた<ref name="佐々木76-79">佐々木、pp.76-79</ref><ref name="ザイデル219-229">ザイデル、pp.219-229</ref>。そして[[1961年]]3月からの[[テアトル・ド・パリ]]での舞台で、ロミーはドロンと愛し合う兄妹を演じる。舞台そのものは賛否両論であったが、ロミーの演技は高く評価され、ロミーは初めて女優としての充足感を得る<ref name="佐々木79-81">佐々木、pp.79-81</ref><ref name="ザイデル233-237">ザイデル、pp.233-237</ref>。
 
 
 
続いて同じヴィスコンティ監督によるイタリア映画『[[ボッカチオ'70]]』(第3話「仕事中)に主演。夫と寝るごとに金を要求する妻、というセクシーな役で、ヌードシーンが話題となる<ref name="佐々木83">佐々木、p.83</ref><ref name="ユルクス64">ユルクス、p.64</ref>。続く[[フランツ・カフカ]]原作『[[審判]]』([[1962年]])では監督も務めた[[オーソン・ウェルズ]]と共演。ウェルズ演じる弁護士の看護婦兼秘書兼愛人のような女、というこちらもドイツ時代とは対照的な官能的な役を演じる<ref name="ユルクス80">ユルクス、p.80</ref>。
 
 
 
『ボッカチオ'70』が[[アメリカ]]でも好評で、[[コロンビア映画]]社と契約<ref name="佐々木97">佐々木、p.97</ref>、[[カール・フォアマン]]監督『[[勝利者 (1963年の映画)|勝利者]]』(1963年)で[[ハリウッド]]に進出。[[オットー・プレミンジャー]]監督『[[枢機卿 (映画)|枢機卿]]』([[1963年]])では[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)]]にノミネートされ、実父のヴォルフ・アルバッハ・レッティとも共演をはたしている<ref name="佐々木103">佐々木、p.103</ref><ref name="ユルクス80">ユルクス、p.80</ref>。
 
 
 
しかし、婚約者のドロンとは忙しくなるにつれすれ違いが重なり、ロミーが『[[ちょっとご主人貸して]]』(1963年)をハリウッドで撮影中に破局<ref name="佐々木107-110">佐々木、pp.107-110</ref><ref name="ユルクス83-86">ユルクス、pp.83-86</ref><ref name="ザイデル253-264">ザイデル、pp.253-264</ref>。{{#tag:ref|ロミーによると「帰国すると、メッシーヌ通りの家は空だった。バラの花束が置いてあり、小さなカードが添えてあった。<ナタリーと[[メキシコ]]へ行く。では。アラン>」<ref name="佐々木108">佐々木、p.108</ref><ref name="ザイデル380">ザイデル、p.380</ref>。|group=#}}ドロンは[[1964年]]8月、[[ナタリー・ドロン]]と結婚する。続く『[[何かいいことないか子猫チャン]]』(1964年){{#tag:ref|[[ウディ・アレン]]のデビュー作である(脚本・出演)|group=#}}も成功したとはいえず<ref name="佐々木113">佐々木、p.113</ref>、ロミーはヨーロッパに戻った。
 
 
 
=== 結婚と出産 ===
 
[[1965年]]4月、継父が出資したベルリンの商業ビルの完成セレモニーに出席した際、ドイツの舞台演出家・俳優の[[ハリー・マイエン]]([[:en:Harry Meyen|Harry Meyen]])と知り合い、恋愛関係となる<ref name="佐々木118-120">佐々木、pp.118-120</ref><ref name="ユルクス97-98">ユルクス、pp.97-98</ref>。マイエンには舞台女優の妻がおり、[[マルグリット・デュラス]]原作/脚本の『[[夏の夜の10時30分]]』(1965年)で演じた愛欲と三角関係をロミーは現実にも生きていた<ref name="佐々木121">佐々木、p.121</ref>。
 
 
 
ロミーが妊娠したため、[[1966年]]5月、マイエンの離婚が成立{{#tag:ref|ロミーは慰謝料の20万マルク(現在<!--いつ?-->の1億~1億4千万円<ref name="佐々木326">佐々木、p.326</ref>)を支払っている<ref name="佐々木122">佐々木、p.122</ref><ref name="ユルクス103,137">ユルクス、p.103,137</ref>。|group=#}}、2人は共演した[[テレンス・ヤング]]監督『トリプルクロス』(1966年)撮影中の1966年7月、南仏の[[サン=ジャン=カップ=フェラ]]で正式に結婚。ロミーは妊娠4ヶ月だった<ref name="佐々木124">佐々木、p.124</ref><ref name="ユルクス103">ユルクス、p.103</ref><ref name="ザイデル270">ザイデル、p.270</ref>。
 
 
 
1966年12月、ベルリンで息子ダーヴィット・クリストファーを出産。彼こそがロミーの幸福のすべてとなる<ref name="佐々木128">佐々木、p.128</ref><ref name="ユルクス103">ユルクス、p.103</ref><ref name="ザイデル284">ザイデル、p.284</ref>。以後しばらくロミーはベルリンで育児に専念する。のちマイエンの仕事の関係で[[ハンブルク]]に転居<ref name="佐々木146">佐々木、p.146</ref><ref name="ユルクス130">ユルクス、p.130</ref>。
 
 
 
ロミーがマイエンと結婚したのはドイツの舞台に立ちたいという願望も理由の1つであったが<ref name="佐々木122">佐々木、p.122</ref><ref name="ユルクス108">ユルクス、p.108</ref><ref name="ザイデル279-280,294,306,315-316,343">ザイデル、pp.279-280,p.294,306,pp.315-316,p.343</ref>、ロミーと結婚後のマイエンはことごとく舞台演出の仕事に失敗する<ref name="佐々木146-147,149,158">佐々木、pp.146-147,p.149,158</ref><ref name="ユルクス126-127,130">ユルクス、pp.126-127,p.130</ref>。ロミーが出演するはずの舞台プランも全て流れてしまい、他の演出家の元での舞台出演にはマイエンの私情で反対されることが重なると<ref name="佐々木122">佐々木、p.122</ref>、しだいにロミーはマイエンに幻滅を感じるようになる。<ref name="佐々木133">佐々木、p.133</ref><ref name="ザイデル330-331">ザイデルpp.330-331</ref>
 
[[File:Romy Schneider in Max et les Ferrailleurs.jpg|thumb|left|1970年「はめる/狙われた獲物」]]
 
 
 
=== フランスのトップ女優へ ===
 
2年近く映画界から離れ<ref name="ザイデル292,297">ザイデル、p.292,297</ref>、忘れられかけていたロミーに突破口を与えてくれたのは、かつての恋人アラン・ドロンだった。ドロンは[[ジャック・ドレー]]監督『[[太陽が知っている]]』([[1968年]])の相手役にロミーを指名<ref name="佐々木135">佐々木、p.135</ref>、。映画は撮影中に発生した[[マルコヴィッチ事件]]の話題性もあって、ロミーにとって久しぶりのヒット作となり、ロミーは劇的な[[カムバック]]を果たす<ref name="佐々木138-139">佐々木、pp.138-139</ref>。
 
 
 
翌[[1969年]]、『[[すぎ去りし日の…]]』ではじめて[[クロード・ソーテ]]監督とコンビを組む。この作品はかつての婚約者との共演やスキャンダルといった呼び物がないにもかかわらずヒットし<ref name="ユルクス127-128">ユルクス、pp.127-128</ref>、続くソーテ監督『はめる/狙われた獲物』([[1970年]] 日本未公開)では男たちを手玉に取る娼婦を演じてこの映画も成功<ref name="佐々木152">佐々木、p.152</ref>、ロミーはフランスで70年代を体現する女優と目されるようになる<ref name="佐々木145">佐々木、p.145</ref>。[[1972年]]、[[ジョセフ・ロージー]]監督の『[[暗殺者のメロディ]]』で再度ドロンと共演。  
 
 
 
[[1972年]]、ヴィスコンティ監督が映画において、初めて史実に近いエリーザベトを描くことに成功した大作『[[ルートヴィヒ (1972年の映画)|ルートヴィヒ]]』でかつてそのイメージにつきまとわれ、[[トラウマ]]ともなった皇后エリーザベトを再び演じ、名匠ヴィスコンティが絶賛するほどの美しさと演技を見せた<ref name="佐々木161">佐々木、p.161</ref><ref name="ユルクス134">ユルクス、p.134</ref>。{{#tag:ref|エリーザベト皇后の真実の生涯を映画化する企画がヴィスコンティとの間に持ちあがったが、実現はしなかった<ref name="佐々木162">佐々木、p.162</ref><ref name="ユルクス286">ユルクス、p.286</ref>。|group=#}}
 
 
 
またこの年にはクロード・ソーテ監督の『[[夕なぎ (1972年の映画)|夕なぎ]]』で、[[イヴ・モンタン]]と共演。2人の男の間でどちらを取るとも決められず、また決めるつもりもなく、男達のもとを去る強い女・ロザリーを演じて『ルートヴィヒ』と並ぶ生涯の代表作の1つとする<ref name="佐々木162-164">佐々木、pp.162-164</ref><ref name="ユルクス138">ユルクス、p.138</ref>。
 
 
 
しかし、フランスでのロミーの成功に反比例するかのように夫マイエンとの仲は冷却化する<ref name="ユルクス129">ユルクス、p.129</ref><ref name="ザイデル330-333">ザイデル、pp.330-333</ref>。マイエンは仕事がうまくいかない憤りやロミーの成功への嫉妬からアルコールと薬物([[バルビツール酸系]]の催眠薬であり[[鎮痛剤]]の[[オプタリドン]])に溺れるようになり、夫婦関係の苦悩からロミーもこの頃からオプタリドンを使用するようになる<ref name="佐々木147">佐々木、p.147</ref><ref name="ユルクス109-110,138">ユルクス、pp.109-110,p.138</ref>。1972年、ロミーとマイエンは遂に別居。ロミーは息子を連れてフランスに居を移した<ref name="佐々木174-176">佐々木、pp.174-176</ref><ref name="ユルクス140-142,156">ユルクス、pp.140-142,p.156</ref>。
 
 
 
[[1973年]]、[[ピエール・グラニエ・ドフェール]]監督『[[離愁 (1973年の映画)|離愁]]』、[[フランシス・ジロー]]監督『[[地獄の貴婦人]]』に主演。「地獄の貴婦人」でのロミーは金のために躊躇なく人を殺し、その死体を硫酸で熔解し処分、[[自慰]]シーンまであるというドイツ・シシー時代のロミーからは考えられないような役で<ref name="ザイデル337">ザイデル、p.337</ref>、しかもドイツ人役であることも加わり、故国ドイツからは「ずっとそっちに行ってろ!戻ってくるな!」といった内容の手紙がわんさと寄せられた<ref name="佐々木183-184">佐々木、pp.183-184</ref><ref name="ユルクス158-159">ユルクス、pp.158-159</ref><ref name="ザイデル341">ザイデル、p.341</ref>。
 
 
 
「私は女優である。シシーだって私とは何の共通する部分もなかった。私はシシーとは別人だったのと同様、この主人公とも別の人間である」<ref name="ユルクス160">ユルクス、p.160</ref><ref name="ザイデル334-335">ザイデル、pp.334-335</ref>
 
[[File:Romy Schneider BW.jpg|thumb|200px|ロミー・シュナイダー 1971年]]
 
 
 
=== 2度のセザール賞 ===
 
[[1974年]]、[[アンジェイ・ズラウスキー]]監督『L'important c'est d'aimer』(日本未公開)で金のために[[ポルノ]]まがいの映画に出ざるをえない落ちぶれた女優を演じる。演出についての意見の相違からくるズラウスキーとロミーの対立などから、撮影現場は荒れに荒れたが<ref name="佐々木187-191">佐々木、pp.187-191</ref><ref name="ユルクス161">ユルクス、p.161</ref><ref name="ザイデル336">ザイデル、p.336</ref>、この映画でロミーは第一回[[セザール賞]]主演女優賞を獲得<ref name="佐々木229-230">佐々木、pp.229-230</ref><ref name="ユルクス161">ユルクス、p.161</ref>、文字通りフランス映画界のトップ女優となる。
 
 
 
翌[[1975年]]の、ナチに凌辱されたうえ、[[火炎放射器]]で焼き殺される人妻を演じた[[ロベール・アンリコ]]監督『[[追想 (1975年の映画)|追想]]』はフランス全土で336万人を動員し、ロミーの後半生では最大のヒット作となった<ref name="佐々木208">佐々木、p.208</ref>。この1975年7月ロミーとマイエンは正式に離婚。息子ダーヴィットの親権はロミーが持った<ref name="佐々木226">佐々木、p.226</ref><ref name="ユルクス136-143,179">ユルクス、pp.136-143,p.179</ref>。そして74年夏頃から交際していた<ref name="佐々木195-199">佐々木、pp.195-199</ref><ref name="ユルクス162-163,166-170">ユルクス、pp.162-163,166-170</ref>個人秘書の[[ダニエル・ビアシーニ]]と1975年12月にベルリンで再婚<ref name="佐々木227-228">佐々木、pp.227-228</ref><ref name="ユルクス184">ユルクス、p.184</ref><ref name="ザイデル353">ザイデルp.353</ref>。マイエンはロミーより14歳年上だったが<ref name="ザイデル270">ザイデル、p.270</ref>、ビアシーニは逆に11歳年下だった<ref name="佐々木166">佐々木、p.166</ref>。再婚時ロミーは妊娠5ヶ月だったが{{#tag:ref|このときヴィスコンティが遺作『[[イノセント]]』([[1976年]])の出演を依頼したが、ロミーは断った。<ref name="佐々木227">佐々木、p.227</ref>|group=#}}、その年の大晦日に流産してしまう<ref name="佐々木228">佐々木、p.228</ref>。
 
 
 
[[1976年]]、ピエール・グラニエ・ドフェール監督の『[[限りなく愛に燃えて]]』で[[ギリシャ]]を舞台に[[革命家]]との愛を貫こうとする外交官夫人を演じた後、[[ハインリヒ・ベル]]原作『雪に咲いたバラ』([[アレクサンドル・ペトロヴィッチ]]監督、日本ではTV放映のみ<ref name="佐々木361">佐々木、p.361</ref>)に主演。ロミーのドイツ映画への出演は、アラン・ドロンとの出会いによりフランスへ移って以降の後半生では、事実上この1本のみである。映画の興行成績や批評は芳しくなかったが、ロミーは[[1977年]]の[[ドイツ映画賞]]([[ローラ賞]])の最優秀女優賞を受賞した<ref name="佐々木237-238">佐々木、pp.237-238</ref>。これはドイツで受けた初めての、そして唯一の賞だった<ref name="ユルクス198-199">ユルクス、pp.198-199</ref>。
 
 
 
1977年『雪に咲いたバラ』の撮影後、再び妊娠していたロミーは南仏・[[ラマチュエル]]に家を購入、出産に備える<ref name="佐々木239-240">佐々木、pp.239-240</ref>。1977年7月、第二子サラ・マグダレーナを出産<ref name="佐々木241">佐々木、p.241</ref><ref name="ユルクス214">ユルクス、p.214</ref><ref name="ザイデル364">ザイデルp.364</ref>。
 
 
 
[[1978年]]、ロミー&クロード・ソーテ監督コンビの最後の作品となった『[[ありふれた愛のストーリー]]』でシングル・マザーとして出産を決意するヒロインを演じ、2度目のセザール賞主演女優賞に輝き<ref name="ユルクス223">ユルクス、p.223</ref>、またイタリアでは[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]を受賞。ロミー・シュナイダーの女優人生の頂点であったが、以後この受賞によって責任を強く自覚しすぎてしまい、自分を追いつめてゆく結果にもなる<ref name="佐々木253-254">佐々木、pp.253-254</ref><ref name="ザイデル367">ザイデルp.367</ref>。この年4月、前夫のハリー・マイエンが絶望と失意の中、アルコールと薬で身を持ち崩し自殺<ref name="佐々木255-257">佐々木、pp.255-257</ref><ref name="ユルクス110,223-228">ユルクス、p.110,pp.223-228</ref>。この頃から次第にロミーの周囲にも暗い影が漂いはじめる<ref name="佐々木269">佐々木、p.269</ref>。
 
 
 
=== 崩落 ===
 
[[1979年]]、フランスでのロミーの過去の納税義務が問題となったことを発端にフランス[[国税庁]]から莫大な額の[[追徴課税]]を受け、ロミーは事実上[[破産]]してしまう<ref name="佐々木261-263">佐々木、pp.261-263</ref><ref name="ユルクス173-174,200-208">ユルクス、pp.173-174,200-208</ref>。若くしてスターになり、金銭には無頓着でいつも人任せにしていたロミーは大きなショックを受け<ref name="ユルクス73,143,166,240">ユルクス、p.73,143,166,240</ref>、年齢を重ねることへの不安も重なり、動揺した彼女はしだいに自分自身や女としての自分の魅力にすら疑いを持ち始め、精神的にも肉体的にも不安定になり、アルコールと薬に手を出すようになる。同時に夫・ビアシーニとの間もギクシャクし始める<ref name="ザイデル375,">ザイデルp.375</ref>。ビアシーニによれば「80年代の初め、明らかにロミーは変わってしまった」<ref name="佐々木263-264">佐々木、pp.263-264</ref>。
 
 
 
[[1980年]]、フランシス・ジロー監督『[[華麗なる女銀行家]]』の時にはすでに、撮影中の出番の合間はトレーラーに引きこもり、一部の気の許せるスタッフにしか会おうとしなかった<ref name="佐々木266-267">佐々木、pp.266-267</ref>。あるカットでクローズアップを何度も撮り直したとき、ロミーはこう言ったという。「ねぇ、はっきり言いなさいよ。このおばさん、まだきれい?」<ref name="ユルクス246">ユルクス、p.246</ref>
 
 
 
皮肉にもこの映画は成功し、ロミーの魅力はまた高く評価された<ref name="佐々木267-268">佐々木、pp.267-268</ref><ref name="ユルクス245-246">ユルクス、pp.245-246</ref>。
 
 
 
ロミーは仕事でも私生活でも自信喪失に悩まされ、「私が50歳になるころ、あなたはようやく39歳。私が60歳になるころ、あなたはようやく49歳。うまくいくと思える?」といった発言を繰り返すロミーに年下の夫のビアシーニは徐々に苦痛を感じるようになる<ref name="佐々木245,275">佐々木、p.245,275</ref>。またオプタリドンの常用により自制心を失い、激しい不安の発作と被害妄想を繰り返すロミーにビアシーニは疲れはててゆく<ref name="佐々木276">佐々木、p.276</ref>。
 
 
 
[[マルチェロ・マストロヤンニ]]共演の『Fantasma d'amore』([[ディーノ・リージ]]監督 1980年)の撮影中、ロミーが現場アシスタントの[[ロラン・ペタン]](その後『[[TAXi]]』などの映画[[プロデューサー]]として活躍、ペタンもロミーより10歳年下だった<ref name="佐々木276">佐々木、p.276</ref>)を愛人としたことで<ref name="佐々木276">佐々木、p.276</ref><ref name="ユルクス248-249">ユルクス、pp.248-249</ref>、夫婦間の亀裂は決定的なものとなり<ref name="佐々木246,278-279">佐々木、p.246,pp.278-279</ref><ref name="ユルクス253-258">ユルクス、pp.253-258</ref><ref name="ザイデル376,379,383">ザイデルp.376,379,383</ref>、[[1981年]]3月、2人は離婚を決意、10月に正式に離婚する<ref name="佐々木330,371">佐々木、p.330,371</ref>。
 
 
 
1981年5月、[[腫瘍]]のため、ロミーは右の[[腎臓]]を摘出する手術を受け、右腹には手術による25cmの傷跡が残る<ref name="佐々木283">佐々木、p.283</ref><ref name="ユルクス277">ユルクス、p.277</ref>。
 
 
 
継父のビアシーニになついていた息子のダーヴィットは母の新しい愛人を拒絶し、母に反抗した。母の元を離れ、継父とその両親と暮らすようになり、苦渋と絶望が母ロミーの胸をさらに痛めつけることになった<ref name="佐々木284-288">佐々木、p.284-288</ref><ref name="ユルクス218-219,251-252,254,256-257">ユルクス、pp.218-219,251-252,p.254,pp.256-257</ref>。
 
 
 
1981年7月5日、14歳のダーヴィットはたまたま留守だったビアシーニ両親宅の垣根を飛び越えたとき、足をすべらせ、鉄製の鋭い角棒に身を貫いて無残な事故死を遂げた<ref name="佐々木288-289">佐々木、pp.288-289</ref><ref name="ユルクス278-279">ユルクス、pp.278-279</ref><ref name="岸216">岸、p.216</ref>。4時間に及んだ手術の後、医師が小声で伝える。「遺憾ながら…」。その瞬間、ロミーの叫びが病院の廊下に響き渡った。ビアシーニが回想する。「何という叫びだったろう。金属のようにカン高い、絶望の叫び。私がこれまでの全生涯で耳にした、最も痛ましい声だった」<ref name="佐々木289">佐々木、p.289</ref>
 
 
 
数日後の葬儀はアラン・ドロンが手配した<ref name="ユルクス279">ユルクス、p.279</ref>。何百通という悔やみ状が届いたが、その中には[[フランス大統領]]・[[フランソワ・ミッテラン]]のものも混じっていた<ref name="ユルクス280">ユルクス、p.280</ref>。黒い大きなサングラスをかけ、実弟に抱きかかえられたロミーの映像が残っている<ref name="佐々木289">佐々木、p.289</ref>。[https://www.youtube.com/watch?v=RqlgyFDVxns]
 
 
 
=== 『サン・スーシの女』 ===
 
ロミーがナチに追われ夫と共に殺害される女性と現代の女性の2役を演じた遺作・『[[サン・スーシの女]]』{{#tag:ref|ラスト近くにわずかに登場するだけだが、[[ジャン・レノ]]のデビュー作である。|group=#}}([[ジャック・ルーフィオ]]監督)の撮影はダーヴィットの死後3ヶ月の1981年10月にベルリンで開始された。何度もロミーの病気や息子の死で撮影開始が延期されたが<ref name="佐々木283,284,291">佐々木、p.283,284,291</ref><ref name="ユルクス264,277">ユルクス、p.264,277</ref>、その企画の段階からロミーが関わり<ref name="佐々木281-282">佐々木、pp.281-282</ref>、自身が演じることにこだわった、楽しみにしていた役であった<ref name="佐々木284">佐々木、p.284</ref><ref name="ユルクス276">ユルクス、p.276</ref>。
 
 
 
息子の死にうちのめされ、心身ともにボロボロの状態だったが、ロミーにとってはカメラの前に立ってしゃにむに働くことだけが、自分に納得のいく唯一の治療だった<ref name="ユルクス281">ユルクス、p.281</ref>。劇中、ロミー演ずるエルザが引き取る少年・マックス役の[[ウェンデリン・ウェルナー]]{{#tag:ref|ウェンデリン・ウェルナーは以後映画に出ることはなく、数学者となり[[2006年]]に[[フィールズ賞]]を受賞している<ref name="佐々木298">佐々木、p.298</ref>。|group=#}}との共演をロミーは不安に感じていた。死んだダーヴィットを思い出すからである<ref name="佐々木294">佐々木、p.294</ref><ref name="ユルクス283">ユルクス、p.283</ref>。したがってロミーとウェルナー少年との間は始めよそよそしいものだったが<ref name="佐々木294-295">佐々木、pp.294-295</ref>、撮影が進むにつれ、少しずつ改善されていった。ウェルナーとのカットを全て撮り終えたころ、ロミーは少年を自宅に招き、[[亀]]のお守りをプレゼントした<ref name="佐々木297-298">佐々木、pp.297-298</ref>。マックスがヴァイオリンで『亡命の歌』を弾き、エルザに微笑みかけるクリスマス・ディナーのシーンでは、痩せやつれたロミーのために何度もドレスの寸法を直さねばならず、最初のテストの時から感情を昂ぶらせたロミーはすぐに泣き崩れてしまった。何度も同じことが繰り返され、苦心の末ようやくカメラに収めることができたという<ref name="佐々木297">佐々木、p.297</ref>。撮影はパリ、[[ノルマンディ]]と続き1981年12月末に終了した<ref name="佐々木298">佐々木、p.298</ref>。撮影終了後、ロミーは娘のサラ、ロラン・ペタンと共に[[セーシェル]]に旅行する<ref name="ザイデル387">ザイデル、p.387</ref>。帰国後の[[1982年]]3月、ロミーはパリから西へ40km、[[イヴリーヌ県]]の小さな村[[ボワシー・サン・ザヴォワール]]の古い田舎屋敷を購入し{{#tag:ref|ロラン・ペタンはロミーの死後結婚し、2人の子供と一緒にそのままこの家に住み続けた<ref name="ユルクス317">ユルクス、p.317</ref>。|group=#}}、新居改修完了までの仮住まいを[[パリ7区]]バルベ・ド・ジュイ通りの[[アパルトマン]]に据える<ref name="佐々木299">佐々木、p.299</ref><ref name="ユルクス6-7,290">ユルクス、pp.6-7,p.290</ref>。
 
 
 
4月14日の『サン・スーシの女』の封切りを控え、ロミーもプロモーションに参加、[[フランス国営テレビ]]のインタビューにも答えている<ref name="佐々木300-303">佐々木、pp.300-303</ref>。[https://www.youtube.com/watch?v=SFj8ZqlqxhA]
 
 
 
『サン・スーシの女』はパリ地区で51万人、フランス全土で196万人の観客を動員した<ref name="佐々木303">佐々木、p.303</ref>。次に出演する映画は、アラン・ドロンと共演のサスペンス映画『L'un contre l'autre』(「対決」 ピエール・グラニエ・ドフェール監督)になる予定で、1982年6月1日から撮影が開始されるはずであった<ref name="佐々木304">佐々木、p.304</ref>。
 
 
 
=== 突然の死 ===
 
1982年5月28日夜、ロミーはロラン・ペタン、およびペタンの知人夫妻と、[[モンパルナス]]で食事を共にした<ref name="佐々木308">佐々木、p.308</ref>。バルベ・ド・ジュイ通り11番地のアパルトマンに歩いて帰宅後、ロミーは「手紙を書くから先に寝ていて」<ref name="岸217">岸、p.217</ref>と翌5月29日1時半頃ペタンを先に寝かせた。その後、正確な時刻は不明だがペタンは目を覚まし、ロミーがそばにいないことに気づく。ロミーはリビングの肘掛椅子で眠っており、ペタンは起こさないよう苦労して、ベッドに運んだ<ref name="佐々木308-309">佐々木、pp.308-309</ref>。
 
 
 
朝7時半、虫の知らせで急に目が覚めたペタンはロミー・シュナイダーが死んでいることに気づく。ペタンは[[パニック]]になったが、救急車も[[心臓マッサージ]]ももう何の効果もなかった。寝室には空になった[[バルビツール]]催眠薬の容器、居間にはやはり空になったワインの瓶があった。[[検視]]の結果[[外傷]]はなく[[自然死]]と診断され、[[司法解剖]]は行われなかった。死因は[[心不全]]、死亡推定時刻は朝5時<ref name="佐々木308-310">佐々木、pp.308-310</ref><ref name="ユルクス5-7">ユルクス、pp.5-7</ref>。
 
 
 
葬儀は6月2日、アラン・ドロンの手配でボワシー・サン・ザヴォワールの教会で行われ、親友の[[ジャン=クロード・ブリアリ]]、6回共演している[[ミシェル・ピコリ]]、[[ロマン・ポランスキー]]などフランスの多くの映画人が参列したが、ドイツからの参列者は身内以外は殆どなかったという<ref name="ユルクス39">ユルクス、p.39</ref>。遺体は故国ドイツに戻ることなく、ボワシー・サン・ザヴォワールの墓地に息子ダビットと共に埋葬されている<ref name="佐々木311-312">佐々木、pp.311-312</ref><ref name="ユルクス39">ユルクス、p.39</ref>。墓碑には ロミーの本名「ローゼマリー・アルバッハ」と生年・没年月日のみが記され<ref name="ユルクス243">ユルクス、p.243</ref>、息子の死を信じたがらなかったロミーへの心づかいか、息子ダーヴィットには没年月日が記されていない<ref name="佐々木313">佐々木、p.313</ref><ref name="ザイデル386">ザイデル、p.386</ref>。
 
 
 
ドロン自身はマスコミの騒ぎを避けるため葬儀を欠席し、6月14日に墓前で別れを告げた<ref name="佐々木312-313">佐々木、pp.312-313</ref>。ロミーの遺児[[サラ・ビアシーニ]]([[:en:Sarah Biasini|Sarah Biasini]])は近年女優として活動している<ref name="佐々木330">佐々木、p.330</ref>。
 
 
 
[[1984年]]、フランス映画界の将来有望な若手女優に贈られる[[ロミー・シュナイダー賞]]<ref name="HP">http://french.rose.ne.jp/history/festival_etc/romy_schneider.html</ref>{{#tag:ref|若手男優に贈られる[[ジャン・ギャバン]]賞(1981年 - 2008年)および[[パトリック・ドベール]]賞(2008年 -)と提携関係にある。|group=#}}が創設された。[[1999年]]、フランスの世論調査会社CSAの調査ではロミー・シュナイダーが「今世紀最高の女優」に選出される(2位が[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、3位が[[マリリン・モンロー]]、男優トップは[[ジャン・ギャバン]])<ref name="佐々木372">佐々木、p.372</ref>。[[2001年]]、時の[[ロシア大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]は英国[[BBC]]の取材で、好きな女優は誰かと訊かれ、ちょっと考えてからロミー・シュナイダーの名を挙げた<ref name="佐々木375">佐々木、p.375</ref>。[[2009年]]春、フランスの[[ネットプレス]]・「ネチズン」が実施した調査でも「史上最高の女優」に選出されたのはロミー・シュナイダーだった(2位以下は、[[シモーヌ・シニョレ]]、[[アニー・ジラルド]]、[[ミシェル・モルガン]]、[[エヴァ・ガードナー]]、[[イザベル・アジャーニ]]、[[メリル・ストリープ]]、[[オードリー・ヘプバーン]]、[[ジュリア・ロバーツ]]、[[キャサリン・ヘプバーン]]など)<ref name="佐々木375">佐々木、p.375</ref>。
 
[[File:Boissy-sans-Avoir Tombe Romy Schneider.JPG|thumb|upright|フランス イヴリーヌ県ボワシー・サン・ザヴォワールのロミーと息子ダーヴィットの墓]]
 
 
 
== 人物 ==
 
*かつてロミーはアラン・ドロンに「人生で何をしたらいいか分からない。みな映画のなかでやってしまった」と語った<ref name="ユルクス316">ユルクス、p.316</ref>。
 
*[[母語|母国語]]の[[ドイツ語]]に加え、[[フランス語]]と[[英語]]が使えた。また、苦手だったがイタリア語で演技することもできた<ref name="佐々木97,274">佐々木、p.97,274</ref><ref name="ザイデル249-250">ザイデルp.249-250</ref>。
 
*極度のあがり症で<ref name="佐々木130">佐々木、p.130</ref><ref name="ユルクス108,262">ユルクス、p.108,262</ref>、特に新しい映画の撮影初日には、不安感から遅刻することが多く<ref name="佐々木208-209,273">佐々木、pp.208-209,p.273</ref>、重要なシーンの前などでも緊張のあまり閉じこもって出てこないことがあった<ref name="佐々木267">佐々木、p.267</ref>。撮影中にワインやシャンパンを飲み不安を和らげようとすることも多かった<ref name="佐々木189">佐々木、p.189</ref><ref name="ユルクス113,246">ユルクス、p.113,246</ref>。
 
*一時的にでも恋愛関係になった男性には、共演者では『[[モンプチ わたしの可愛い人]]』の[[ホルスト・ブッフホルツ]]<ref name="佐々木50-51">佐々木、pp.50-51</ref><ref name="ユルクス47-49">ユルクス、pp.47-49</ref><ref name="ザイデル207">ザイデルp.207</ref>、『ストライカー/愛と栄光のフィールド』の[[リチャード・ハリス]]<ref name="佐々木149">佐々木、p.149</ref><ref name="ユルクス129">ユルクス、p.129</ref>、『離愁』の[[ジャン=ルイ・トランティニャン]]<ref name="佐々木174">佐々木、p.174</ref>、『L'important c'est d'aimer』の[[ジャック・デュトロン]]<ref name="佐々木192-194">佐々木、pp.192-194</ref><ref name="ユルクス126">ユルクス、p.126</ref>がいる。他にも俳優[[クルト・ユルゲンス]]<ref name="佐々木53">佐々木、p.53</ref><ref name="ユルクス35,47">ユルクス、p.35,47</ref>、[[ブルーノ・ガンツ]]<ref name="佐々木169">佐々木、p.169</ref><ref name="ユルクス117,139-140,158">ユルクス、p.117,pp.139-140,p.158</ref>、指揮者の[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]<ref name="佐々木53">佐々木、p.53</ref><ref name="ユルクス47-48">ユルクス、pp.47-48</ref>、西ドイツ首相の[[ヴィリー・ブラント]]<ref name="佐々木132">佐々木、p.132</ref><ref name="ユルクス125-126,160">ユルクス、pp.125-126,p.160</ref>などとも噂があった。
 
*[[ミヒャエル・ユルクス]]は自著で、ロミーは[[両性愛者]]であり、同性の愛人に[[マレーネ・ディートリヒ]]、[[ココ・シャネル]]、[[シモーヌ・シニョレ]]などを挙げているが<ref name="ユルクス37-38,119-123,124-125,313">ユルクス、pp.37-38,119-123,124-125,p.313</ref>、元夫のダニエル・ビアシーニはこれを否定している<ref name="佐々木322">佐々木、p.322</ref>。
 
*1971年、ドイツにおける[[刑法]]218条([[妊娠中絶]]・[[堕胎]]を禁止する法律)に反対する嘆願書に署名し、中絶経験があることを公に認めた<ref name="佐々木154-155">佐々木、pp.154-155</ref><ref name="ユルクス64,131">ユルクス、p.64,131</ref>。
 
*演劇学校で学んだことがなく、現場叩き上げだったロミーは、「才能は、習得できるものではない。もし才能があるなら、細かい技術はおのずと身についてくる。舞台でどう動くかとか映画でいかに話すか、などということは」<ref name="佐々木199">佐々木、p.199</ref>という考え方を持っていたため、[[アクターズスタジオ]]系の俳優や、その構築的な演技手法とは終生そりが合わなかった<ref name="佐々木115-116,258">佐々木、pp.115-116,p.258</ref>。
 
*パーティなどでしばしば同席したことのある[[岸恵子]]はロミーの印象について、「美しい眼をしていた。美しい眼と、静かな、感動的な表情をたたえる美しい顔をしていた。それに反して、躯全体の風情がガサツで重ったるかった。そこここのパーティや晩餐会で隣り合わせた彼女にも、たくましさや、芯の強さは感じても、たおやかな幽美さがあまりにもなさ過ぎた。でもアニー・ジラルドや、カトリーヌ・ドヌーヴにはない、生の女のコクのようなものがあった。」と自著に記している<ref name="岸218">岸、p.218</ref>。
 
*インタビューでは、好きな監督・映画人にオーソン・ウェルズを、尊敬する人にルキノ・ヴィスコンティを挙げている<ref name="岸216">岸、p.216</ref>。ロミーはヴィスコンティを「[[師匠]]」と呼び<ref name="佐々木226">佐々木、p.226</ref>、『ボッカチオ'70』のとき贈られたヴィスコンティの母の形見の指輪を常に指にはめ、大切にしていた<ref name="佐々木84,201-202">佐々木、p.84,pp.201-202</ref><ref name="ユルクス183,214">ユルクス、p.183,214</ref><ref name="ザイデル240-241">ザイデルpp.240-241</ref>。
 
*身長161cmと小柄であった。
 
 
 
[[Image:CL コクテール(カクテル) P6022969.JPG|thumb|200px|Cocktail コクテール(カクテル)一重咲きながら華麗さが人気のつるバラ。このバラは1982年にフランスのメイアンによって作出。同年に没した彼女に捧げられた。]]
 
 
 
== 主な出演作品 ==
 
{| class="wikitable"
 
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!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考
 
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| 1953 || [[再び白いライラックが咲いたら (映画)|再び白いライラックが咲いたら]]<br />''Wenn der weiße Flieder wieder blüht'' || エフヒェン ||デビュー作
 
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| 1954 || [[女王さまはお若い]]<br />''Mädchenjahre einer Königin'' || [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] ||
 
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| 1955 || [[プリンセス・シシー]]<br />''Sissi'' || [[エリーザベト (オーストリア皇后)|シシー]] ||2009年2月13日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー』
 
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| 1956 || [[若き皇后シシー]]{{#tag:ref|今まで「プリンセス・シシー3部作」で日本で上映されたのは1作目の「プリンセス・シシー」のみで、第2作・3作は日本未公開だったが、2009年2月に[[LaLa TV]]で初放映。|group=#}}<br />''Sissi - Die junge Kaiserin'' || [[エリーザベト (オーストリア皇后)|シシー]] || 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート2 若き皇后』
 
|-
 
|rowspan="2"|1957 || [[モンプチ わたしの可愛い人]]<br /> ''Monpti'' || アンヌクレール ||
 
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| [[ある皇后の運命の歳月|シシー ある皇后の運命の歳月]]<br /> ''Sissi - Schicksalsjahre einer Kaiserin'' || [[エリーザベト (オーストリア皇后)|シシー]] || 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート3 運命の歳月』
 
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|rowspan="3"|1958 || [[制服の処女 (1958年の映画)|制服の処女]]<br />''Mädchen in Uniform'' || マヌエラ・フォン・マインハルディス ||
 
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| [[恋ひとすじに]] <br />''Christine'' || クリスティーネ ||
 
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| [[セクシーガール]] <br /> ''Die Halbzarte'' || ニコル ||
 
|-
 
| 1960 || [[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]] <br />''Plein soleil'' || フレディの連れ || カメオ出演<ref name="佐々木338">佐々木、p.338</ref>
 
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|rowspan="2"|1962 || [[ボッカチオ'70]] <br />''Boccaccio '70'' || プペ || 第3話「仕事中」
 
|-
 
| [[審判 (映画)|審判]] <br />''The Trial'' || レニ ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1963 || [[勝利者 (1963年の映画)|勝利者]]<br /> ''The Victors'' || レジーヌ ||
 
|-
 
| [[枢機卿 (映画)|枢機卿]] <br /> ''The Cardinal'' || アンネマリー ||
 
|-
 
| 1964 || [[ちょっとご主人貸して]]<br /> ''Good Neighbor Sam'' || ジャネット ||
 
|-
 
| 1965 || [[何かいいことないか子猫チャン]] <br />''What's New, Pussycat'' || キャロル・ウェルナー ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1966|| [[夏の夜の10時30分]]<br /> ''10:30 P.M. Summer'' || クレア ||
 
|-
 
| トリプルクロス<br /> ''Triple Cross'' || 伯爵夫人 ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1968 || 地獄のかけひき<br /> ''Otley'' || イモジェン ||
 
|-
 
| [[太陽が知っている]]<br />''La Piscine'' || マリアンヌ ||
 
|-
 
|rowspan="3"|1970 || 夜明けの舗道<br /> ''My Son My Lover'' || フランチェスカ ||
 
|-
 
| [[すぎ去りし日の…]] <br />''Les Choses de la vie'' || エレーヌ ||
 
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| どしゃ降り<br /> ''Qui?'' || マリナ ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1971|| ストライカー/愛と栄光のフィールド<br />''Bloomfield'' || ニラ || 日本ではビデオ発売のみ<ref name="佐々木327">佐々木、p.327</ref>
 
 
 
|-
 
| はめる/狙われた獲物<br />''Max et les Ferrailleurs'' || リリー || 日本ではビデオ発売のみ<ref name="佐々木327">佐々木、p.327</ref>
 
 
 
|-
 
|rowspan="3"|1972|| [[夕なぎ (1972年の映画)|夕なぎ]] <br />''César et Rosalie'' || ロザリー ||
 
|-
 
| [[暗殺者のメロディ]]<br />''The Assassination of Trotsky'' || ジタ・サミュエルズ ||
 
|-
 
| [[ルートヴィヒ (1972年の映画)|ルートヴィヒ]] <br /> ''Ludwig'' || [[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]] ||
 
|-
 
|1973 || [[離愁 (1973年の映画)|離愁]]<br />''Le Train'' || アンナ ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1974|| ロミー・シュナイダーの 情事<br />''Un amour de pluie'' || エリザベート || 日本ではビデオ発売のみ<ref name="佐々木327">佐々木、p.327</ref>
 
|-
 
| 地獄の貴婦人<br /> ''Le Trio infernal'' || フィロメナ ||
 
|-
 
|rowspan="2"|1975|| ''L'important c'est d'aimer'' || ナディーヌ || [[セザール賞]] 主演女優賞 受賞
 
|-
 
| [[追想 (1975年の映画)|追想]] <br /> ''Le Vieux fusil'' || クレール ||
 
|-
 
|1976|| 限りなく愛に燃えて<br /> ''Une femme à sa fenêtre'' || マルゴ・サントリーニ ||
 
|-
 
|1977|| 雪に咲いたバラ<br />''Gruppenbild mit Dame'' || レニ || 日本ではTV放映のみ<ref name="佐々木361">佐々木、p.361</ref>
 
|-
 
| 1978 || [[ありふれた愛のストーリー]] <br />''Une histoire simple'' || マリー || [[セザール賞]] 主演女優賞 受賞
 
|-
 
| 1979 || [[華麗なる相続人]]<br />''Bloodline'' || エレーヌ・ロフ=マルタン ||
 
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|rowspan="2"|1980 || [[華麗なる女銀行家]]<br />''La Banquière'' || エンマ・エケール ||
 
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| [[SFデス・ブロードキャスト]]<br />''Death Watch'' || キャサリン || 日本ではビデオ発売のみ<ref name="佐々木329">佐々木、p.329</ref>
 
 
 
|-
 
|1981|| 検察官<br />''Garde à vue'' || シャンタル || 日本ではビデオ発売とTV放映のみ。邦題が『レイプ殺人事件』『検察官』『検察官/レイプ殺人事件』等複数存在する<ref name="佐々木329">佐々木、p.329</ref>
 
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| 1982 || [[サン・スーシの女]]<br />''La Passante du Sans-Souci'' || エルザ/リナ ||
 
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|}
 
  
 
== 注釈 ==
 
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== 参考文献 ==
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*日野康一編 『ロミー・シュナイダー/ラヴェンダーの香り、慕情のひと』 シネアルバム (55) [[芳賀書店]]、1977年
 
**ロミーは生前、この日本語の本をバッグに入れ、ボロボロになるまで自分のカタログがわりに使っていたという([[文藝春秋]]編 『わが青春のアイドル/女優ベスト150』 p.465、日野の回想より。([[文春文庫]]、1990年))。
 
*[[岸恵子]] 『巴里の空はあかね雲』[[新潮文庫]]、1987年(自伝的エッセイ。初版[[新潮社]]、1983年)
 
*『ロミー・シュナイダー/恋ひとすじに』 レナーテ・ザイデル編、[[瀬川裕司]]訳、平凡社、1991年
 
*ミヒャエル・ユルクス 『ロミー・シュナイダー事件』[[平野卿子]]訳、[[集英社]]、1996年
 
*佐々木秀一 『ロミー/映画に愛された女 女優ロミー・シュナイダーの生涯』[[国書刊行会]]、2009年
 
 
 
== 関連文献 ==
 
*[https://web.archive.org/web/20081116192606/http://www.wien.info/article.asp?IDArticle=15271 日本語版ウィーン市観光局公式サイト] - 「宮廷家具調度品博物館」の案内で映画『プリンセス・シシー』の事も紹介されている。
 
*[http://www.sissi.de/filme/index.php 映画『プリンセス・シシー』記念公式サイト]{{de icon}}
 
*[http://www.romy.de/ Romy Schneider Archiv](ドイツ語、英語)
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Romy Schneider}}
 
*{{allcinema name|41439|ロミー・シュナイダー}}
 
*{{Kinejun name|7108|ロミー・シュナイダー}}
 
*{{IMDb name|0002769|Romy Schneider}}
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
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[[category:オーストリアの女優]]
 
[[category:オーストリアの女優]]

2018/9/24/ (月) 23:35時点における版

ロミー・シュナイダー(Romy Schneider、1938年9月23日 - 1982年5月29日

オーストリアウィーン出身の女優。当時の西ドイツフランスの映画界で活躍した。出演した映画の数は60本を超える。

注釈


出典



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