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{{参照方法|date=2012年12月}}
 
'''マニエリスム''' ({{lang-it-short|[[:it:Manierismo|Manierismo]]}} ; {{lang-fr-short|[[:fr:Maniérisme|Maniérisme]]}} ; {{lang-en-short|[[w:Mannerism|Mannerism]]}}) とは[[ルネサンス]]後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、[[盛期ルネサンス]]と[[バロック]]の合間にあたる。イタリア語の「マニエラ([[:wikt:it:maniera|maniera]]:手法・様式)」に由来する言葉である<ref name=colorver>{{Cite|和書|author1=美術出版社|author2=美術出版社編集部|author3=藤原えりみ|author4=高階秀爾|title=西洋美術史: カラー版|publisher=美術出版社|edition=7|date=2008-02-10|isbn=4568400643|ncid=BA60025262|page=93}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author = [[ヤマザキマリ]] |year = 2015 |title = ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論 |publisher = [[集英社]] |page = 101 |isbn = 978-4-08-720815-3}}</ref>。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた<ref name=colorver />。
 
  
==概念==
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'''マニエリスム''' ({{lang-it-short|[[Manierismo]]}} ; {{lang-fr-short|[[Maniérisme]]}} ; {{lang-en-short|[[Mannerism]]}})
=== 成立の経緯 ===
 
[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]に代表される盛期ルネサンスの成果は圧倒的であり、芸術は頂点を極め、今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]はミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)」を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家に対して、現在の作家が優れていると説いた。
 
[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]][[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、ミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠たちは古典的様式を完成させた。これをヴァザーリは普遍的な美の存在を前提とし、「最も美しいものを繋ぎ合わせて可能な限りの美を備えた一つの人体を作る様式」として、「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と定義づけた。
 
  
1520年頃から中部イタリアでは前述の巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し、「マニエラ」は芸術作品の主題となった。その結果盛期ルネサンス様式の造形言語の知的再解釈が行われ、盛期ルネサンス様式は極端な強調、歪曲が行われるようになった。一方で古典主義には入れられなかった不合理な諸原理を表現する傾向も表れるようになった<ref name=leprotobaroque31>{{Cite|和書|author1= Brill, Paul | author2 = Goya, Francisco | author3 = Greco | coauthors = 愛知県美術館, 東武美術館, 横浜美術館, 横浜美術館学芸部|title = バロック・ロココの絵画 : ヴェネツィア派からゴヤまで リール市美術館所蔵 |publisher = 朝日新聞社 | date = 1993 | ncid = BN09889898 |page=31}}</ref>[[フィレンツェ]]におけるマニエリスムの発生は、[[1512年]][[ジュリアーノ・デ・メディチ]]の追放とそれによる[[メディチ家]]のフィレンツェへの復帰、それらの社会的な緊張感の発生と芸術家への発注数の増加<ref>[[#ハウザー 1990b|ハウザー 1990b]] , pp. 274-275.</ref>、[[ミケランジェロ・ブオナローティ]][[ラファエロ・サンティ]][[ローマ]]への移動によって起きたフィレンツェの伝統からの解放をハウザーは挙げている<ref name=1990b275>[[#ハウザー 1990b|ハウザー 1990b]] , p 275.</ref>。またこの変化の中でマニエリスム様式の模範を作る重要な役割を果たした芸術家としてハウザーは[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]を示している<ref name=1990b275/>。
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盛期[[ルネサンス]]と初期[[バロック]]の間の,イタリアを中心とした全ヨーロッパの芸術様式をさす美術用語。語源はイタリア語の「マニエラ」manieraで,個人の様式,手法を意味した。[[レオナルド・ダ・ビンチ]],[[ミケランジェロ]],[[ラファエロ]]・サンツィオらの先人たちの手法を学び,感情表現に新しい領域を開こうとして生まれたもの。その特色は人体表現において顕著で,誇張された肉づけ,引き伸ばし,様式化した姿勢や派手な色彩などが認められる。代表的作家には,『美術家列伝』Le vite de'
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pi<img border="0" title="" src="http://media.japan.eb.com/bolj2/letter/a4/a460_16.gif"> eccellenti architetti,pittori,et scultori italiani(1550)の著者ジョルジョ・[[バザーリ]],画家フランチェスコ・[[パルミジャニーノ]][[ブロンジーノ]],ヤコポ・ダ・[[ポントルモ]],[[ロッソ・フィオレンティーノ]],彫刻家[[ジャンボローニャ]],建築家バルダッサーレ・T.[[ペルッツィ]]などがいる。イタリアのマニエリスム美術はヨーロッパ各地に伝わり,フランスでは[[フォンテンブロー派]]が生まれ,プラハでは皇帝[[ルドルフ2世]]の治下にバルトロメウス・[[スプランヘル]]らが活動し,スペインでは[[エル・グレコ]]が独自の宗教美術をつくりあげた。
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しかし、17世紀の{{仮リンク|ピエトロ・ベッローリ|en|Giovanni Pietro Bellori}}はミケランジェロの「マニエラ」の模倣者たちを非難し、やがて型にはまった生気の欠けた作品という評価が支配的となった。この考え方は19世紀まで引き継がれ、マニエリスムは1530年頃からのローマやフィレンツェにおける絵画の衰退を意味する言葉として扱われた{{sfn|八代|1965|p=308}}。
 
 
その後[[1956年]]に[[オランダ]]の[[アムステルダム]]にて催された『ヨーロッパ・マニエリスムの勝利』などをきっかけとして<ref>{{Cite|和書|author=美術検定実行委員会| title = 美術検定過去問題集:四択マークシート| publisher = [[美術出版社]]| date = 2008-07|isbn=978-4-568-24024-5|ncid=BA88611716|page=186}}</ref>、20世紀ドイツにおけるドイツ表現主義や抽象主義の隆盛により{{sfn|八代|1965|p=309}}、マニエリスムも独立した表現形態であり、抽象的な表現に見るべきものがあるとして再評価されるようになった。
 
 
=== 定義 ===
 
[[ハンガリー]]の芸術社会学者であるアーノルド・ハウザーは、自著の中でマニエリスムの定義に関する重要なものとして{{仮リンク|ウォルター・フリートレンダー|en|Walter Friedländer}}の研究に触れている<ref>[[#ハウザー 1990a|ハウザー 1990a]] , p 28.</ref>。フリートレンダーはマニエリスムを根本的に反古典主義的なものであると定義し、加えて逆説的な形式でのみその問題を語ることができるものであるとしている<ref>[[#ハウザー 1990a|ハウザー 1990a]] , p 31.</ref>。またマニエリスムの研究で知られている美術史家の[[マックス・ドヴォルシャック]]はマニエリスムの本質を精神性であるとしており<ref>[[#ハウザー 1990a|ハウザー 1990a]] , p 35.</ref>、ハウザーはこれに加えてこれが世界を形作るだけではなく捻じ曲げる要素としての働きをしたとしている<ref>[[#ハウザー 1990a|ハウザー 1990a]] , p 36.</ref>。
 
 
==特徴==
 
[[File:Angelo Bronzino - Venus, Cupid, Folly and Time - National Gallery, London.jpg|thumb|alt=Angelo Bronzino 001|[[アーニョロ・ブロンズィーノ|ブロンズィーノ]]《愛のアレゴリー》(1540 - 1545年)。マニエリスムの特徴として、寓意が含まれた作品として挙げられる。]]
 
マニエリスムは、盛期ルネサンス芸術の明快で調和の取れた表現とも、バロック芸術の動感あふれる表現とも異なった特有の表現として位置づけることができる。
 
 
=== 絵画 ===
 
;諸原理の抽象化
 
:遠近法、短縮法、明暗法などが抽象化されている<ref name=leprotobaroque31 />。
 
;巨匠の個人的様式の誇張的模倣
 
;歪められた空間
 
:消失点の高低を極端に設置した遠近法、奥行きが閉ざされ平面化された空間などが挙げられる<ref name=leprotobaroque31 />。
 
[[File:Parmigianino - Madonna dal collo lungo - Google Art Project.jpg|thumb|left|[[パルミジャニーノ]]《長い首の聖母》(1534 - 1540年)。聖母の抱いているイエスを見ると、身体が強く引き伸ばされている。]]
 
;蛇状体「フィグーラ・セルペンティナータ」
 
:曲がりくねり、引き伸ばされた人体表現が使われている<ref name=leprotobaroque31 />。
 
;明暗のコントラスト<ref>{{Cite web|title=美術用語詳細情報 マニエリスム|publisher=[http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/ 徳島県立近代美術館]|year=2006|url=http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=138|accessdate =2016-07-18|archivedate=2016-07-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160718095954/http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=138}}</ref>
 
{{clear}}
 
 
=== 建築 ===
 
古典主義では同じ大きさの柱を並べるのが一般的であったが、[[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ|ヴィニョーラ]]は、古典的形態要素を自由に組み合わせ大胆な平面の建物を設計し、[[アンドレーア・パッラーディオ|パラディオ]]は[[ファサード]]の列柱の柱を大小混在させた。盛期ルネサンスまでの芸術作品は教会や広場など公共施設に置かれることが多かったが、マニエリスム期の作品の多くは宮廷などの閉じたサークル内で鑑賞された。また様々な寓意をちりばめた理知的、晦渋な作品が好まれた。
 
 
=== その他 ===
 
元々は16世紀美術に対する概念であるが、現代美術([[シュルレアリスム|シュルレアリスト]]の作品など)にマニエリスムと共通する性格を認め(例:ホッケ「迷宮としての世界」)、広義に用いる場合もある。
 
文学においても、[[グスタフ・ルネ・ホッケ]]の『文学におけるマニエリスム』が[[1959年]]に出版されるなど<ref>{{Cite journal|和書|author=三宅雅明|title=詩におけるマニエリスムとT・S・エリオットの詩 : その二|journal=大阪府立大学紀要|volume=20|pages=104-111|publisher=[[大阪府立大学]]|location=大阪|date=1972-03-30|url=http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/12120/1/2009201740.pdf|issn=04734645|naid=40000306450|accessdate=2016-07-31|page=106}}</ref>、美術のみならず影響を及ぼしていることが分かる。
 
== マニエリスム期の作品 ==
 
{{see|マニエリスムの芸術家}}
 
 
== マニエリスム手法を採用した作品 ==
 
*[[ポストモダン建築|ポストモダン]]の建築家・[[磯崎新]]の代表作[[つくばセンタービル]]はマニエリスム的な作品になっている。
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Citation|和書|author=アーノルド・ハウザー|translator=[[若桑みどり]]|title=マニエリスム 上巻―ルネサンスの危機と近代芸術の始源|publisher=岩崎美術社|series=美術名著選書|volume=12|edition=8|date=1990-02-10|isbn=978-4753410129|ref=ハウザー 1990a}}
 
*{{Citation|和書|author=アーノルド・ハウザー|authorlink=アルノルト・ハウザー|title=マニエリスム 中巻―ルネサンスの危機と近代芸術の始源 |publisher=岩崎美術社|series=美術名著選書|volume=13|edition=7|date=1990-04-20|translator=[[若桑みどり]]|isbn=978-4753410137|ref=ハウザー 1990b}}
 
*{{Citation|和書|last=八代|first=修次|title=ブリューゲルとマニエリスム|journal=哲學|volume=46|publisher=[[慶應義塾大学]]|location=東京|date=1965-02|url=http://ci.nii.ac.jp/els/110007353329.pdf?id=ART0009216106&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1465691249&cp=|issn=05632099|naid=110007353329|accessdate=2016-06-12}}
 
 
==関連文献==
 
{{commons|Category:Mannerism}}
 
*[[アンドレ・シャステル]] 『ローマ劫掠―一五二七年、聖都の悲劇』 [[越川倫明]]ほか訳 [[筑摩書房]]、2006年。
 
*[[森洋子 (美術史家)|森洋子]]・若桑みどり編  『マニエリスム 世界美術大全集 西洋編15』 [[小学館]]、1996年。
 
*[[若桑みどり]] 『マニエリスム芸術論』 [[ちくま学芸文庫]]、1994年、初版岩崎美術社(岩崎美術選書)。
 
*[[マリオ・プラーツ]] 『官能の庭 マニエリスム・[[エムブレム]]・バロック』 若桑みどりほか訳、ありな書房 1992年。
 
*[[グスタフ・ルネ・ホッケ]] 『迷宮としての世界 マニエリスム美術』 [[種村季弘]]・[[矢川澄子]]訳<br>[[美術出版社]]、初版1966年、新版1987年→岩波文庫全2巻、2010年12月-11年1月。
 
*グスタフ・ルネ・ホッケ 『文学におけるマニエリスムI.II 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』<br>種村季弘訳、[[現代思潮社]] 1971年、新版1977年。
 
*[[ワイリー・サイファー]] 『ルネサンス様式の四段階』 [[河村錠一郎]]監訳、[[河出書房新社]]、1976年、新版1987年。
 
*[[ヴァルター・フリートレンダー]] 『マニエリスムとバロックの成立』 斎藤稔訳、 [[岩崎美術社]]:美術名著選書、1973年。
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ルネサンス期のイタリア絵画]]
 
* {{仮リンク|フランチェスコ1世のストゥディオーロ|en|Studiolo of Francesco I}}
 
* {{仮リンク|北方マニエリスム|en|Northern Mannerism}}
 
* [[反マニエリスム]]
 
 
{{西洋の芸術運動}}
 
{{Art-stub}}
 
 
{{DEFAULTSORT:まにえりすむ}}
 
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[[Category:マニエリスム|*]]
 
[[Category:マニエリスム|*]]

2018/9/29/ (土) 01:32時点における版

マニエリスム (: Manierismo ; : Maniérisme ; : Mannerism)

盛期ルネサンスと初期バロックの間の,イタリアを中心とした全ヨーロッパの芸術様式をさす美術用語。語源はイタリア語の「マニエラ」manieraで,個人の様式,手法を意味した。レオナルド・ダ・ビンチミケランジェロラファエロ・サンツィオらの先人たちの手法を学び,感情表現に新しい領域を開こうとして生まれたもの。その特色は人体表現において顕著で,誇張された肉づけ,引き伸ばし,様式化した姿勢や派手な色彩などが認められる。代表的作家には,『美術家列伝』Le vite de'

pi<img border="0" title="" src="a460_16.gif"> eccellenti architetti,pittori,et scultori italiani(1550)の著者ジョルジョ・バザーリ,画家フランチェスコ・パルミジャニーノブロンジーノ,ヤコポ・ダ・ポントルモロッソ・フィオレンティーノ,彫刻家ジャンボローニャ,建築家バルダッサーレ・T.ペルッツィなどがいる。イタリアのマニエリスム美術はヨーロッパ各地に伝わり,フランスではフォンテンブロー派が生まれ,プラハでは皇帝ルドルフ2世の治下にバルトロメウス・スプランヘルらが活動し,スペインではエル・グレコが独自の宗教美術をつくりあげた。