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[[画像:Dounan12.png|frame|道南十二館]]
 
'''道南十二館'''(どうなんじゅうにたて)は、[[蝦夷地]](後の[[渡島国]]、現[[北海道]])[[渡島半島]]にあった[[渡党]]領主の館の総称。[[松前藩]]の歴史を記した『[[新羅之記録]]』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の[[被官]]である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。
 
  
== 十二館一覧 ==
+
'''道南十二館'''(どうなんじゅうにたて)
{|class=wikitable
 
|-
 
!|館名称
 
!|コシャマインの<br />戦い当時の館主
 
!|現在地
 
!|築造
 
!史跡指定
 
|-
 
|[[志苔館]]
 
|[[小林良景|小林太郎左衛門良景]]
 
|[[函館市]]志海苔町・赤坂町
 
|[[14世紀後半]]から末頃
 
|[[1934年]][[8月9日]]<br />[[史跡]]に指定
 
|-
 
|[[元町公園|宇須岸館]](箱館)
 
|[[河野政通|河野加賀右衛門尉政通]](下国守護補佐)
 
|函館市元町
 
|[[1445年]]([[文安]]2年)?
 
|
 
|-
 
|茂別館
 
|[[安東家政|下国安東八郎式部大輔家政]](下国守護)
 
|[[北斗市]]矢不来
 
|[[1443年]]([[嘉吉]]3年)?
 
|[[1982年]][[7月3日]]<br />史跡に指定
 
|-
 
|[[中野館 (渡島国)|中野館]]
 
|[[佐藤季則|佐藤三郎左衛門尉季則]]
 
|[[木古内町]]中野
 
|
 
|
 
|-
 
|[[脇本館]]
 
|[[南条季継|南條治郎少輔季継]]
 
|[[知内町]]涌元
 
|
 
|
 
|-
 
|[[穏内館]]
 
|[[蒋土季直|蒋土甲斐守季直]]
 
|[[福島町]]吉岡
 
|
 
|
 
|-
 
|[[覃部館]]
 
|[[今井季友|今井刑部少輔季友]]
 
|[[松前町 (北海道)|松前町]]東山
 
|
 
|
 
|-
 
|大館 
 
|[[安東定季|下国山城守定季]](松前守護)<br />[[相原政胤|相原周防政胤]]
 
|松前町字神明、字福山
 
|[[1400年]]([[応永]]7年)?
 
|[[1977年]][[4月5日]]<br />史跡に指定
 
|-
 
|[[禰保田館]]
 
|[[近藤季常|近藤四郎右衛門尉季常]]
 
|松前町館浜
 
|
 
|
 
|-
 
|[[原口館]]
 
|[[岡辺季澄|岡辺六郎左衛門尉季澄]]
 
|松前町原口
 
|
 
|
 
|-
 
|[[比石館]]
 
|[[厚谷重政|厚谷右近将監重政]]
 
|[[上ノ国町]]石崎
 
|
 
|
 
|-
 
|花沢館
 
|[[蠣崎季繁|蠣崎修理大夫季繁]](上国守護)
 
|上ノ国町上ノ国
 
|15世紀頃([[1443年]]([[嘉吉]]3年)?)
 
|[[2006年]][[3月31日]]<br />史跡に指定
 
|}
 
上の表中、「'''史跡'''」は国指定の史跡([[文化財保護法]]第109条に基づき日本国文部科学大臣が指定)を指す。
 
  
== 概要 ==
+
十七世紀の半ばに著わされた『新羅(しんら)之記録』に、長禄元年(一四五七)胡奢魔尹(こしゃまいん)を指導者とするアイヌ民族の大蜂起が勃発した際、渡島(おしま)半島南部の海岸地帯に十二ヵ所の和人の拠点(館)があったことがみえている。これを道南十二館という。すなわち、志濃里(志苔、しのり)・箱館・茂別(もべつ)・中野・脇本・穏内(おんない)・覃部(およべ)・大館・禰保田(ねぼた)・原口・比石(ひいし)・花沢の諸館である。この蜂起では茂別・花沢を除き他の館は陥落し、永正九年(一五一二)のアイヌの攻撃によって、志濃里・箱館は再び陥落している。その後、上ノ国勝山にあった蠣崎氏(松前氏の前身)が大館へ移り地歩を固めるにしたがい、館主の多くがこれに臣従していったために、これらの館は廃絶された。館主には安東氏嫡流の「季」の諱を用いている者が多く、津軽安東氏と深い関係をもっていたと考えられる。館は中小河川の河口部や天然の良港を控えて立地しており、また当時の北海道では米作は行われておらず、館主の主たる経済基盤はアイヌとの交易やコンブやサケなどの豊かな漁業生産を背景に、上方(かみがた)方面との交易活動によって成り立っていたとみられる。これを物語るように、志濃里館や原口館の周辺部から膨大な備蓄銭が発見されている。なお、十二館のうち所在地の明らかなものは志濃里・茂別・穏内・大館・比石・花沢の六ヵ所であり、中世の北海道にはこのほか七ヵ所の館が存在していたという。
=== 沿革 ===
 
渡島半島の南端には[[アイヌ文化]]成立の前段階である[[擦文時代]]には擦文文化と本州[[土師器]]文化の間に生じた[[クレオール]]的文化である[[青苗文化]]が成立していた。[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]中期にかけて、この文化を足がかりにここに[[和人]]の移住が起こった。これらの和人は渡党と呼ばれ、[[安東氏|津軽安藤氏(安東氏)]]の支配下に置かれたが、道外の和人からは[[蝦夷]]の一部と見なされていた。
 
 
 
[[1454年]]([[享徳]]3年)、[[安東政季]]は南部氏に追われ[[武田信広]]らとともに勢力圏であった蝦夷地に渡り、配下の武将を12の館に配置、[[1456年]]([[康正]]2年)に秋田小鹿島(現[[秋田県]][[男鹿市]])を経て秋田河北地方(後の[[檜山郡 (出羽国)|檜山郡]]、現秋田県[[能代市]])に南遷する際には、[[茂別館]]館主の[[安東家政]]([[下国守護]])、[[大館 (松前町)|大館]]館主の[[安東定季|下国定季]]([[松前守護]])、[[花沢館]]館主の[[蠣崎季繁]]([[上国守護]])の3名を「守護」に任じ、他の館主を統率させたと伝えられている。なお中世に相当する時期の北海道についての文献史料は極めて乏しく以後の記述もその多くが『'''新羅之記録'''』に基づくものである。本書の主要な編纂目的として蠣崎・松前氏による和人地支配の正統性の主張が考えられるため、本書中の蠣崎氏についての記述に関しては、この点を考慮する必要があるとされている<ref>入間田 2002年</ref>。
 
 
 
翌[[1457年]]([[長禄]]元年)東部の首領コシャマインを中心に[[アイヌ]]が団結し、和人に向け戦端を開いた[[コシャマインの戦い]]が発生すると、十二館のうち10までが落城した。翌[[1458年]](長禄2年)に蠣崎季繁の女婿であった武田信広によってコシャマイン父子が討たれて以降も戦いは散発し、十二館は交戦時の拠点となった。
 
 
 
[[1496年]]([[明応]]5年)には、粗暴等行状の悪さを理由に松前守護職であった一族の[[安東恒季|下国恒季]]が、武田信広の嫡男である[[蠣崎光広]]ら配下の蝦夷島館主らにより安東氏に訴えられ、恒季は同年11月、安東氏の手勢により攻められ自害した。これにより松前守護職は安東恒季を補佐した相原季胤が継いだ。
 
 
 
[[1512年]]([[永正]]9年)蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(訇時)兄弟率いるアイヌが[[ショヤコウジ兄弟の戦い|蜂起]]し、数カ所の館を襲撃するという事件が起きる。上国守護職であった蠣崎光広、[[蛎崎義広|義広]]親子が撃退し、一時小康状態となるものの、翌[[1513年]](永正10年)には再度攻撃を始め、松前大館が陥落し、松前守護職の[[相原季胤]]らが討ち取られた。空き城となった大館には、翌[[1514年]](永正11年)光広が入城した。安東氏は当初これを認めなかったが、再三に及ぶ要請を受け、上国に加え松前守護職への就任を追認、[[蠣崎氏]]に蝦夷地を訪れる和人の商船から[[運上]]を徴収することを認め、その過半は檜山に送られることとした。なお、安東恒季の誅殺やこのアイヌ蜂起を光広による松前守護職簒奪の謀略とする説がある。こうして松前大館に拠る蠣崎氏の勢力が他の館主に優越する体制が固まり、蠣崎氏による他の館主の被官化が進んだ。
 
 
 
[[1593年]]([[文禄]]元年)、[[松前慶広|蠣崎慶広]]が秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から名実ともに独立した。これに伴い蠣崎慶広は'''松前氏'''を名乗る。その後、和人地では豊臣・徳川など中央政権の承認を梃子に支配体制を強化した松前氏により[[幕藩体制]]下の近世大名松前氏と松前藩が成立する。その一環として館主を含む家臣の松前城下への集住が進められるなどすると十二館はその使命を終えた。
 
 
 
=== 十二館の概要 ===
 
==== 志苔館 ====
 
{{main|志苔館}}
 
[[函館市]]にある志苔館は、1983年から1985年にかけて函館市教育委員会によって発掘調査が行われている。志苔館は自然地形を活かし四方に土塁と薬研または箱薬研状の空壕が巡らされたほぼ長方形を呈している。内部は東西約70~80m、南北約50~65m、約4,100[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]の広さがあり、郭内には掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側約4~4.5m、南側約1~1.5mで土塁の外側にあたる北側と西側には、幅約5~10mの空壕が掘られ、最も深い所で約3.5mの規模である。発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・[[珠洲焼]]・[[越前焼]]・古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は'''新羅之記録'''に記されている'''コシャマインの戦い'''と志苔館の陥落の時期に矛盾しない。また1968年、志苔館から南西方向100mの地点から埋納されたと推定される越前焼、珠洲焼の大甕3個の中より計37万枚にのぼる主に中国の古銭が出土している。これは日本国内で1カ所から発掘された古銭としては最大級の量である。
 
 
 
==== 花沢館、勝山館 ====
 
[[上ノ国町]]にある'''花沢館'''は[[天の川 (北海道)|天の川]]河口付近の標高58mの尾根に立地しており2004年と2005年に上ノ国町教育委員会によって発掘調査が行われている。調査では溝・柵列跡・空壕・土塁が検出されている。空壕は幅約2~2.2m、深さ約1mであり土塁は底部幅約6.6m、高さ約1.3mである。遺物は青磁碗・白磁皿・珠洲擂鉢・銅銭・鎌が出土している。遺物の年代は15世紀中頃が主体と思われる。発掘調査面積が狭いため断定は難しいが青磁雷文帯碗が出土していることや擂鉢がすべて珠洲焼きに限定されていることなどから花沢館は1470年代より以前に館としての機能を失った可能性が高い。花沢館廃絶後、館の機能は'''[[勝山館]]'''に移ったと思われる。花沢館は峻険な地形に構築されているため平場が狭く山頂の主郭64m×20mほどの広さしかない。このため他の館主を統率する上国守護職の政治的拠点としては不自然として当時の蠣崎氏の地位や上国守護職の存在自体を疑問視する意見もある。「新羅之記録」によると花沢館主である蠣崎季繁が1462年に死去しており文献史料と考古学の成果が一致していることが推測される。
 
 
 
==== 原口館 ====
 
その一方で志苔館と同じく十二館に含まれる[[松前町 (北海道)|松前町]]の'''原口館'''は1990年と1992年にその比定地が松前町教育委員会によって発掘調査され幅約3m、深さ約2.5m、延長約120mの空壕が発見された。空堀の内部からは竪穴住居跡と多量の'''青苗文化'''に属する土器などが発見され、原口館比定地は15世紀頃ではなく10~11世紀頃の東北地方北部から渡島半島南部に分布する古代の防御性集落であることが確認された。このように道南十二館の比定地には不確定な点があることなどを含め、文献史料である'''新羅之記録'''と考古学的調査との整合性が新たな課題となっている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
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== 参考文献 ==
 
* [[入間田宣夫]] 「中世北方史―『新羅之記録』を脱構築する―」『平成14年度普及啓発セミナー報告』PP.21-28([[アイヌ文化振興・研究推進機構]] [[2002年]])
 
* [[田端宏]]・[[桑原真人]]・[[船津功]]・[[関口明]] 『北海道の歴史』([[山川出版社]] [[2000年]])ISBN 463432010X
 
* [[平井聖]] 『日本城郭大系1 北海道・沖縄』([[新人物往来社]] [[1980年]])ISBN 440401015X
 
* 福島町教委福島町史編集室編 『福島町史 第二巻通説編(上)』([[福島町]] [[1995年]])
 
* [[室野秀文]] 「中世道南の領主と城館-城館から見た蠣崎氏の松前進出-」 長谷川成一他編 『北方社会史の視座 歴史・文化・生活』([[清文堂]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[北海道の城]]
 
* [[チャシ]]
 
* [[蝦夷管領]]
 
* [[渡党]]
 
  
 
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2019/4/25/ (木) 16:14時点における最新版

道南十二館(どうなんじゅうにたて)

十七世紀の半ばに著わされた『新羅(しんら)之記録』に、長禄元年(一四五七)胡奢魔尹(こしゃまいん)を指導者とするアイヌ民族の大蜂起が勃発した際、渡島(おしま)半島南部の海岸地帯に十二ヵ所の和人の拠点(館)があったことがみえている。これを道南十二館という。すなわち、志濃里(志苔、しのり)・箱館・茂別(もべつ)・中野・脇本・穏内(おんない)・覃部(およべ)・大館・禰保田(ねぼた)・原口・比石(ひいし)・花沢の諸館である。この蜂起では茂別・花沢を除き他の館は陥落し、永正九年(一五一二)のアイヌの攻撃によって、志濃里・箱館は再び陥落している。その後、上ノ国勝山にあった蠣崎氏(松前氏の前身)が大館へ移り地歩を固めるにしたがい、館主の多くがこれに臣従していったために、これらの館は廃絶された。館主には安東氏嫡流の「季」の諱を用いている者が多く、津軽安東氏と深い関係をもっていたと考えられる。館は中小河川の河口部や天然の良港を控えて立地しており、また当時の北海道では米作は行われておらず、館主の主たる経済基盤はアイヌとの交易やコンブやサケなどの豊かな漁業生産を背景に、上方(かみがた)方面との交易活動によって成り立っていたとみられる。これを物語るように、志濃里館や原口館の周辺部から膨大な備蓄銭が発見されている。なお、十二館のうち所在地の明らかなものは志濃里・茂別・穏内・大館・比石・花沢の六ヵ所であり、中世の北海道にはこのほか七ヵ所の館が存在していたという。