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(ページの作成:「(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه‎, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye) トルコ族…」)
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{{特殊文字}}
+
(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه‎, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)
{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = オスマン帝国(オスマン朝)
 
|日本語国名 = オスマン帝国(オスマン朝)
 
|公式国名 = {{Rtl翻字併記|ota|'''دولتِ عليۀ عثمانيه'''|<br />Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye|N}}
 
|建国時期 = [[1299年]]
 
|亡国時期 = [[1922年]]
 
|先代1 = セルジューク朝
 
|先旗1 = Seljuqs Eagle.svg
 
|先代2 = モンゴル帝国
 
|先旗2 = Flag of the Mongol Empire 2.svg
 
|先代3 = セルビア公国
 
|先旗3 = Coat of arms of Moravian Serbia.svg
 
|先代5 = ハンガリー王国
 
|先旗5 = Arpadflagga hungary.svg
 
|先代6 = クロアチア王国
 
|先旗6 = Coat of arms of Croatia 1495.svg
 
|先代7 = マムルーク朝
 
|先旗7 = Mameluke Flag.svg
 
|先代8 = ザイヤーン朝
 
|先旗8 = Dz tlem2.png
 
|先代9 = ハフス朝
 
|先旗9 = Tunis Hafsid flag.svg
 
|先代10 = 第二次ブルガリア帝国
 
|先旗10 = Coat of arms of the Second Bulgarian Empire.svg
 
|先代11 = 東ローマ帝国
 
|先旗11 =
 
|先代12 = モレアス専制公領
 
|先旗12 =
 
|先代13 = エピロス専制侯国
 
|先旗13 =
 
|先代14 = トレビゾンド帝国
 
|先旗14 = Komnenos-Trebizond-Arms.svg
 
|次代1 = トルコ共和国
 
|次旗1 = Flag of Turkey.svg
 
|次代2 = フランス委任統治領シリア
 
|次旗2 = Flag of the French Mandate of Syria (1920).svg
 
|次代3 = フランス委任統治領レバノン
 
|次旗3 = Lebanese French flag.svg
 
|次代4 = イギリス委任統治領メソポタミア
 
|次旗4 = Flag of Iraq 1924.svg
 
|次代5 = イギリス委任統治領パレスチナ
 
|次旗5 = Palestine-Mandate-Ensign-1927-1948.svg
 
|次代6 = ヒジャーズ王国
 
|次旗6 = Flag of Hejaz 1920.svg
 
|次代7 = ムハンマド・アリー朝
 
|次旗7 = CoA of Kingdom of Egypt.PNG
 
|次代8 = セルビア公国
 
|次旗8 = Flag of Serbia (1835-82).png
 
|次代9 = ギリシャ第一共和政
 
|次旗9 = Flag of Greece (1822-1978).svg
 
|次代10 = フサイン朝
 
|次旗10 = Flag of Tunis Bey-fr.svg
 
|次代11 = フランス領アルジェリア
 
|次旗11 = Flag of France.svg
 
|次代12 = 大ブルガリア公国
 
|次旗12 = Flag of Bulgaria.svg
 
|次代13 = イギリス領キプロス
 
|次旗13 = Flag of Cyprus (1922-1960).svg
 
|次代14 = アルバニア臨時政府
 
|次旗15 = Flag of Albanian Provisional Government (1912-1914).svg
 
|次代16 = エジプト王国
 
|次旗16 = Egypt flag 1882.svg
 
|次代17 = ロシア帝国
 
|次旗17 = Romanov Flag.svg
 
|次代18 = フサイン朝
 
|次旗18 = Mesures drapeau Tunisie apres 1999.svg
 
|次代19 = ルーマニア公国
 
|次旗19 = Flag_of_Romania.svg
 
|次代20 = オーストリア帝国
 
|次旗20 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg
 
|次代21 = イタリア王国
 
|次旗21 = Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg
 
  
|国旗画像 = Ottoman Flag.svg
+
トルコ族の一首長オスマン1世を始祖とするオスマン朝から発展して成立したイスラム帝国 (1299~1922) 。オットマン帝国ともいわれる。
|国旗リンク =[[トルコの国旗|国旗]]
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 = Osmanli-nisani.svg
 
|国章リンク =[[オスマン帝国の国章|国章]]
 
|国章幅 =
 
|標語 = {{Rtl翻字併記|ota|دولت ابد مدت|Devlet-i Ebed-müddet|N}}<br />([[オスマン語]]: 永遠の国家)
 
|標語追記 =
 
|国歌 = {{仮リンク|オスマン帝国の国歌|en|Ottoman imperial anthem}}
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 = ImperioOtomano1683.png
 
|位置画像説明 = オスマン帝国の最大領土(1683年)
 
|位置画像幅 =
 
|公用語 = [[オスマン語]]
 
|首都 = [[ソユット]](1302–1309)<br />
 
[[ブルサ]]<br />
 
[[エディルネ]](1365–1453)<ref>"In 1363 the Ottoman capital moved from Bursa to Edirne, although Bursa retained its spiritual and economic importance." [http://www.kultur.gov.tr/–EN,33810/ottoman-capital-bursa.html ''Ottoman Capital Bursa'']. Official website of Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey. Retrieved 26 June 2013.</ref><br />
 
[[コンスタンティノープル]](1453–1922)<ref>In Ottoman Turkish the city was known with various names, among which were ''[[:en:Kostantiniyye]]'' ({{lang|ota-Arab|قسطنطينيه}}) (replacing the suffix ''-polis'' with the Arabic [[:en:Arabic nouns and adjectives#Nisba|nisba]]), ''[[:en:Dersaadet]]'' ({{lang|ota-Arab|در سعادت}}) and ''Istanbul'' ({{lang|ota-Arab|استانبول}}). Names other than Istanbul gradually became obsolete in Turkish, and after Turkey's transition to Latin script in 1928, the city's Turkish name attained international usage.</ref>
 
|元首等肩書 = [[オスマン帝国の君主|皇帝]]
 
|元首等年代始1 = [[1281年]]
 
|元首等年代終1 = [[1326年]]
 
|元首等氏名1 = [[オスマン1世]](初代)
 
|元首等年代始2 = [[1918年]]
 
|元首等年代終2 = [[1922年]]
 
|元首等氏名2 = [[メフメト6世]](最後)
 
|首相等肩書 = [[大宰相]]
 
|首相等年代始1 = [[1320年]]
 
|首相等年代終1 = [[1331年]]
 
|首相等氏名1 = [[アラエッディン・パシャ]](初代)
 
|首相等年代始2 = [[1920年]]
 
|首相等年代終2 = [[1922年]]
 
|首相等氏名2 = [[アフメト・テヴフィク・パシャ]](最後)
 
|面積測定時期1 = 1683年
 
|面積測定時期2 = 1914年
 
|面積値1 = 5,500,000
 
|面積値2 = 1,800,000
 
|人口測定時期1 = 1520年<ref>Kabadayı p3</ref>
 
|人口値1 = 11,692,480
 
|人口測定時期2 = 1566年<ref>Kinross & 1979 p.206)</ref>
 
|人口値2 = 15,000,000
 
|人口測定時期3 = 1683年<ref>Kinross & 1979 p.281)</ref>
 
|人口値3 = 30,000,000
 
|人口測定時期4 = 1856年
 
|人口値4 = 35,350,000
 
|人口測定時期5 = 1906年
 
|人口値5 = 20,884,000
 
|人口測定時期6 = 1914年
 
|人口値6 = 18,520,000
 
|人口測定時期7 = 1919年
 
|人口値7 = 14,629,000
 
|変遷1 = 建国
 
|変遷年月日1 = [[1299年]]
 
|変遷2 = [[コンスタンティノープルの陥落]]
 
|変遷年月日2 = [[1453年]][[5月29日]]
 
|変遷3 = [[第二次ウィーン包囲]]
 
|変遷年月日3 = [[1683年]][[9月12日]]
 
|変遷4 = [[青年トルコ人革命]]
 
|変遷年月日4 = [[1908年]][[7月3日]]
 
|変遷5 = 滅亡
 
|変遷年月日5 = [[1922年]][[11月17日]]
 
|通貨 = [[アクチェ]]<br />[[クルシュ]]<br />[[トルコリラ|リラ]]
 
|通貨追記 =
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
|ccTLD =
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 =
 
}}
 
'''オスマン帝国'''(オスマンていこく、{{Rtl翻字併記|ota|'''دولتِ عليۀ عثمانيه'''|Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye}})は、[[テュルク|テュルク系]](後の[[トルコ人]])の[[オスマン家]]出身の[[オスマン帝国の君主|君主(皇帝)]]を戴く[[多民族国家|多民族]][[帝国]]。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には[[東ローマ帝国]]を滅ぼしてその首都であった[[コンスタンティノポリス]]を征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがて[[イスタンブール]]と通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西は[[アゼルバイジャン]]から[[モロッコ]]に至り、南北は[[イエメン]]から[[ウクライナ]]、[[ハンガリー]]、[[チェコスロバキア]]に至る広大な領域に及んだ。
 
== 概要 ==
 
[[アナトリア半島|アナトリア]](小アジア)の片隅に生まれた小[[ベイリク|君侯国]]から発展した[[イスラム王朝]]であるオスマン朝は、やがて[[東ローマ帝国]]などの[[東ヨーロッパ]][[キリスト教]]諸国、[[マムルーク朝]]などの[[西アジア]]・[[北アフリカ]]の[[イスラム教]]諸国を征服して[[地中海]]世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。
 
  
その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。[[宗教改革]]にも間接的ながら影響を及ぼし、[[神聖ローマ帝国]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が持っていた西欧の統一と[[カトリック]]的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた[[神聖ローマ帝国]]は「トルコ税」を新設、中世封建体制から[[絶対王政]]へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた<ref name="suzuki00130">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.130]].</ref>。[[ピョートル1世]]がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマが[[ロマノフ朝]]を支援して前線を南下させた。
+
13世紀末小アジア北西部にオスマン一族を中心とする新国家が形成され,隣接するビザンチン帝国領土を征服して勢力を拡大した。オルハン1世のときダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ側に進出し (1357) ,ムラト1世はエディルネ (アドリアノープル) を首都にしてバルカン諸国の連合軍をコソボの戦い (89) で破った。バヤジッド1世はドナウ河岸のニコポリスにヨーロッパ連合軍を撃破し (96) ,公式に「スルタン」を号したが,小アジアに西進したチムールの軍にアンカラの戦いで大敗した (1402) 。バヤジッドの子メフメット1世はオスマン国家を再建し,その子ムラト2世のときその版図はドナウ川に達した.
  
19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。[[オスマン債務管理局]]が設置された世紀末から、[[ドイツ帝国]]が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は[[中央同盟国]]として[[第一次世界大戦]]に参戦し敗れた。敗戦後の講和条約の[[セーブル条約]]は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、[[アンカラ]]に共和国政府を樹立し、[[1922年]]にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。[[1923年]]には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、[[1924年]]にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。結果、アナトリアの[[国民国家]][[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた([[トルコ革命]])。
+
1453年メフメット2世はコンスタンチノープルを陥落させ,ビザンチン帝国は滅亡した。コンスタンチノープルはオスマン帝国の首都となり,イスタンブールと改称された。これ以後東方イスラム世界に対する征服が進められ,セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてその首都カイロに入城した (1517) 。カイロにあったアッバース朝カリフの末裔はセリムに「カリフ」の称号を譲り,ここにスルタン・カリフ制度が成立した。スレイマン1世の治世 (20~66) にオスマン帝国は最盛期に達し,アジア,アフリカ,ヨーロッパにまたがる大帝国が完成された。スレイマン1世をもってオスマン帝国の征服活動はほぼ完了し,大宰相をはじめとする国家官僚による統治機構が確立されたが,帝国内部の諸矛盾は克服されず,衰退の兆しが次第に明らかとなった。
  
== 国名 ==
+
1683年大宰相カラ・ムスタファ・パシャの指揮するウィーン包囲が失敗した頃からヨーロッパにおいて守勢に立ち,露土戦争後に締結されたクチュク・カイナルジ条約 (1774) によって帝国の後退は決定的となった。 1789年に即位したセリム3世は帝国の改革に着手し,これ以後開明的なスルタンが相次いで近代化に努めたがみるべき成果をあげえず,この間にギリシア,北アフリカ,エジプト,バルカン諸邦が西欧の影響下に帝国から離脱した。帝国末期アブドゥル・ハミト2世の専制政治に対し,1908年政治結社「青年トルコ」 ([[青年トルコ革命]]) が決起して政権を掌握したが,第1次世界大戦でドイツ側について惨敗した。戦後の混乱を収拾したケマル・アタチュルクは 23年トルコ共和国を宣言し,オスマン帝国は第 36代メフメット6世をもって消滅した。
英語でオスマン帝国を {{lang|en|''Ottoman Turks''}}, {{lang|en|''Turkish Empire''}} と呼んだことから、かつては「'''オスマントルコ'''」、「'''トルコ帝国'''」、「'''オスマントルコ帝国'''」、「'''オスマン朝トルコ帝国'''」とされることが多かったが、現在は'''オスマン帝国'''あるいは単に'''オスマン朝'''と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、[[オスマン帝国の君主|君主]]([[パーディシャー]]、[[スルターン|スルタン]])の出自は[[トルコ人|トルコ系]]で宮廷の言語も[[オスマン語]]と呼ばれる[[アラビア語]]や[[ペルシア語]]の語彙を多く取り込んだ[[トルコ語]]ではあったが、支配階層には[[民族]]・[[宗教]]の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の[[国家]]とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない<ref>トルコと呼ぶべきでない理由について。[[#新井2009|新井2009]]、pp.24-27</ref><ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.117-121]].</ref>。
 
 
 
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる {{lang|tr|''Osmanlı İmparatorluğu''}} や「オスマン国家」にあたる {{lang|tr|''Osmanlı Devleti''}} の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
 
 
 
== 歴史 ==
 
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖[[オスマン1世]]がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる[[1299年]]を建国年とするのが通例であり、[[帝制]]が廃止されて[[メフメト6世]]が廃位された[[1922年]]が滅亡年とされる。
 
 
 
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.22-23]].</ref>。
 
 
 
=== 建国期 ===
 
[[ファイル:Sipahi3.jpg|thumb|200px|right|初期オスマン帝国の騎兵([[スィパーヒー]])]]
 
{{main|en:Rise of the Ottoman Empire|オスマン1世|オルハン}}
 
[[13世紀]]末に、[[東ローマ帝国]]と[[ルーム・セルジューク朝]]の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部{{仮リンク|ビレジク (シャンルウルファ県)|en|Birecik|label=ビレジク}}にあらわれたトルコ人の遊牧部族長[[オスマン1世]]が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者とした[[ムスリム]](イスラム教徒)のガーズィー([[ジハード]]に従事する戦士)が集団を形成したとされる説<ref name="nagata02174">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、p.174]]</ref>が欧州では一般的であるが、[[遊牧民]]の集団であったとする説も根強く{{#tag:ref|15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系[[オグズ族]]の[[カユ部族]]が起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.48]].</ref>。|group=#}}、未だに決着はされていない<ref name="G223">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.223]].</ref>{{#tag:ref|キリスト教世界への聖戦に燃えたトルコ人騎士らがガーズィーを形成して東ローマ帝国内へ侵入を繰り返したとする説はキョプリュリュ=ヴィテック説と呼ばれる<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.6]].</ref>。|group=#}}。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父[[エルトゥールル|エルトゥグルル]]の時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが<ref name="G223"/>、オスマンの時代に周辺の[[キリスト教徒]]やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する'''{{仮リンク|オスマン君侯国|tr|Osmanlı Beyliği}}'''を築き上げた{{#tag:ref|このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西の[[ハルマンカヤ]]のギリシャ人領主であった[[キョセ・ミハル]]は生涯、オスマンと同盟を結んだ<ref name="hayashi979"/>。また、逆にトルコ系[[チョンバオール家]]はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた<ref name="hayashi9710">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.10]].</ref>。|group=#}}<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.30-33]]</ref><ref name="hayashi979">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.9]].</ref>。
 
 
 
[[1326年]]頃、オスマンの後を継いだ子の[[オルハン]]は、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在の[[ブルサ]])を占領し、さらに[[マルマラ海]]を隔てて[[ヨーロッパ大陸]]を臨むまでに領土を拡大<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.36]]</ref><ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.48]].</ref>、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨む[[ユスキュダル|スクタリ]]をも手中に収めた<ref name="G223"/>。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.36]]</ref>。
 
[[1346年]]、東ローマの共治皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]は後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び{{#tag:ref|この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される<ref name="hayashi9712">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.12]].</ref>。|group=#}}、オスマンらをアナトリアより呼び寄せて[[ダーダネルス海峡]]を渡らせて[[バルカン半島]]の[[トラキア]]に進出させた<ref name="hayashi9711">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.11]].</ref>。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始({{仮リンク|ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年)|en|Byzantine civil war of 1352–57}})、[[1354年]][[3月2日]]に[[ゲリボル|ガリポリ]]一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し({{仮リンク|ガリポリ陥落|en|Fall of Gallipoli}})、橋頭堡とした<ref name="G206">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.206]].</ref><ref name="hayashi9711"/>。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった<ref name="G233">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.233]].</ref>。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から[[ベイリク|君侯国]]への組織化が行われた<ref name="G224">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.224]].</ref>。
 
 
 
=== ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 ===
 
[[ファイル:Miloš Obilić, by Aleksandar Dobrić, 1861.jpg|thumb|200px|ムラト1世と刺し違えたと伝承されるミロシュ・オビリチ]]
 
[[ファイル:Bataille de Nicopolis (Archives B.N.) 1.jpg|left|thumb|200px|ニコポリスの戦い]]
 
[[ファイル:Bajazeth - Timur - J N Geiger.jpg|thumb|200px|19世紀のヨーロッパの画家によって描かれたバヤズィトとティムール]]
 
{{main|ムラト1世|バヤズィト1世}}
 
オルハンの子[[ムラト1世]]は、即位するとすぐにコンスタンティノープルと[[ドナウ川]]流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在の[[エディルネ]])を占領、ここを第2首都とするとともに、[[デウシルメ]]と呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍[[イェニチェリ]]を創設して国制を整えた<ref name="nagata02174"/><ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.44]]</ref>。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った<ref name="hayashi9712"/>。
 
 
 
[[1371年]]、[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ川の戦い]]でセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や[[第二次ブルガリア帝国]]はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、[[1387年]]、[[テッサロニキ]]も陥落<ref name="G206"/>、ライバルであったカラマン侯国も撃退した<ref name="hayashi9713">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.13]].</ref>。[[1389年]]に[[コソボの戦い|コソヴォの戦い]]で[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.45]]</ref>、ムラト1世はセルビア人貴族{{仮リンク|ミロシュ・オビリチ|en|Miloš Obilić}}によって暗殺された。しかし、その息子[[バヤズィト1世]]が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.227]].</ref>。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.50・60-61]]</ref>、これを兄弟殺しという{{#tag:ref|先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった<ref name="hayashi9716">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.16]].</ref>。|group=#}}<ref name="hayashi9716"/>。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]を始めとするセルビア人らの多くを処刑した{{#tag:ref|セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子{{仮リンク|ステファン・ラザレヴィチ|en|Stefan Lazarević}}がデスポテース(公)に任命された<ref name="YT103">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.103]].</ref>。|group=#}}<ref name="YT103"/>。
 
 
 
[[1393年]]には[[ヴェリコ・タルノヴォ|タルノヴォ]]を占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに[[1394年]]秋には[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、[[ペロポネソス半島]]までがオスマン帝国の占領下となった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.206-207]].</ref>。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった<ref name="YT103"/>。
 
 
 
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、[[ボスニア]]、[[アルバニア]]まで侵略、[[ワラキア]]の[[ミルチャ1世]]はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]を中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが[[十字軍]]を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした<ref name="YT103"/><ref name="hayashi9714">[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.14]].</ref>。
 
 
 
しかし、[[1396年]]、[[ブルガリア]]北部における[[ニコポリスの戦い]]において十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.51-52]]</ref>。しかし、[[1402年]]の[[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]に敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は[[1413年]]まで、空位状態となり<ref>[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、p.173]]</ref>、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった<ref name="G228">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.228]].</ref><ref name="YT103-4">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.103-104]].</ref><ref name="hayashi9714"/>。
 
 
 
=== 失地回復の時代 ===
 
{{main|メフメト1世|ムラト2世}}
 
バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.55-56]]</ref>。このため、東ローマ帝国は[[テッサロニキ]]を回復、さらに[[アテネ公国]]も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた<ref name="G207">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.207]].</ref>。
 
 
 
バヤズィトの子[[メフメト1世]]は、[[1412年]]に帝国の再統合に成功して失地を回復し<ref name="G228"/><ref name="YT103-4"/>、その子[[ムラト2世]]は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に[[1422年]]には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、[[1430年]]にはテッサロニキ、[[ヨアニナ]]を占領、[[1431年]]には[[イピロス|エペイロス]]全土がオスマン支配下となった{{#tag:ref|エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公{{仮リンク|カルロ2世トッコ|en|Carlo II Tocco}}が統治した。なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと<ref name="G207"/>。|group=#}}<ref name="YT104">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.104]].</ref>。
 
 
 
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄[[フニャディ・ヤーノシュ]]はオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄[[スカンデルベグ]]が[[1468年]]に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは[[1444年]]の[[ヴァルナの戦い]]、[[1448年]]の{{仮リンク|コソヴォの戦い (1448年)|en|Battle of Kosovo (1448)|label=コソヴォの戦い}}において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった<ref name="YT104"/>。
 
 
 
それ以前、東ローマ帝国皇帝[[ヨハネス8世パレオロゴス]]は西ヨーロッパからの支援を受けるために[[1438年]]から[[1439年]]にかけて[[フィレンツェ公会議]]に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。[[1445年]]から[[1446年]]、後に東ローマ帝国最後の皇帝となる[[コンスタンティノス11世]]がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、[[コリントス地峡]]のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.207-208]].</ref>、メフメト1世と次代[[ムラト2世]]の時代は失地回復に費やされることになった<ref name="G228">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.228]].</ref><ref name="hayashi9714"/>。
 
 
 
=== 版図拡大の時代 ===
 
[[ファイル:Japanese-Ottoman1683.PNG|400px|thumb|オスマン帝国の領土拡大]]
 
{{main|en:Growth of the Ottoman Empire|メフメト2世|バヤズィト2世}}
 
{{See also|コンスタンティノープルの陥落}}
 
[[1453年]]、ムラト2世の子[[メフメト2世]]は東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]を攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした([[コンスタンティノープルの陥落]])<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.65-74]]</ref>。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.74]]</ref>。また、これ以後徐々に[[ギリシャ語]]に由来する[[イスタンブール]]という呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして[[1460年]]、[[ミストラス|ミストラ]]が陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.208]].</ref>、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.104-105]].</ref>。
 
 
 
コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は[[シャリーア|シャーリア]]に従うことを余儀なくされコンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始<ref name="G230">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.230]].</ref>、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、pp.19-20]].</ref>。
 
 
 
コンスタンティノープルの征服に反対した名門[[チャンダルル家]]出身の[[大宰相]]{{仮リンク|チャンダルル・ハリル・パシャ|en|Çandarlı (2nd) Halil Pasha}}を粛清し<ref name="nagata02233-6">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.233-236]]</ref><ref name="G230">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.230]].</ref>、メフメト2世は、[[スルタン]]権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人の{{仮リンク|マフムト・パシャ|en|Mahmud Pasha Angelović}}、ギリシャ人の{{仮リンク|ルム・メフムト・パシャ|en|Rum Mehmed Pasha}}のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった<ref>[[#林(オスマン帝国の時代)|林(1997)、p.21]].</ref>。
 
 
 
コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された<ref name="nagata02233-6"/>。バルカン半島方面では、[[ギリシャ]]、[[セルビア]]、[[アルバニア]]、[[ボスニア]]の征服を達成した。また、黒海沿岸に点在する[[ジェノヴァ]]の植民都市の占領<ref name="nagata02233-6"/>、[[1460年]]にはペロポネソスの[[パレオロゴス王朝|パレオゴロス系]][[モレアス専制公領|モレア専制公国]]を、[[1461年]]には[[トレビゾンド帝国]]を征服<ref name="nagata02233-6"/>東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり<ref name="G230"/>、さらには、[[1475年]]の[[クリミア・ハン国]]を宗主権下に置くことに成功<ref name="nagata02233-6"/>、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.106-107]].</ref>。
 
 
 
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半にはジェノヴァの支配下にあった島々、[[レスボス島|レスボス]]([[1462年]])、[[サモス島|サモス]]([[1475年]])、[[タソス島|タソス]]、[[リムノス島|レムノス]]、[[プサラ島|プサラ]](それぞれ[[1479年]])らを占領<ref name="G233">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.233]].</ref>、このため、[[黒海]]北岸や[[エーゲ海]]の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「'''オスマンの内海'''」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、[[白羊朝]]の英主[[ウズン・ハサン]]が東部アナトリア、[[アゼルバイジャン]]を基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。[[1473年]]、東部アナトリアの{{仮リンク|オトゥルクベリの戦い|en|Battle of Otlukbeli}}でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した<ref name="nagata02233-6"/>。
 
 
 
メフメト2世の後を継いだ[[バヤズィト2世]]([[1481年]] - [[1512年]])は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった<ref name="nagata02236-40">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.236-240]]</ref>。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟である[[ジェム・スルタン|ジェム]]は、[[ロドス島]]、[[フランス]]、[[イタリア]]へ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである<ref name="nagata02236-40"/>。
 
 
 
=== オスマン帝国の最盛期 ===
 
[[ファイル:Suleiman I. after 1560.jpg|right|200px|thumb|スレイマン1世(在位1520年-1566年)]]
 
{{main|セリム1世}}
 
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた<ref name="nagata02236-40"/>セリムが、[[セリム1世]]として、[[1512年]]に即位した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、p.124]]</ref>。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後を[[サファヴィー朝]]が襲っていた。[[1514年]]、[[チャルディラーンの戦い]]でサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、[[1517年]]には{{仮リンク|オスマン・マムルーク戦争 (1516年 - 1517年)|en|Ottoman–Mamluk War (1516–17)}}で[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]を滅してイスラム世界における支配領域を[[アラブ人]]居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていた[[イスラム教]]の二大聖地[[マッカ]](メッカ)と[[マディーナ]](メディナ)の保護権を掌握して[[スンナ派]][[イスラム世界]]の盟主の地位を獲得した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.128-136]]</ref>。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあった[[アッバース朝]]の末裔から[[カリフ]]の称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は[[19世紀]]の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.137-138]]</ref><ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、p.329]].</ref><ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.127-128]].</ref>。
 
 
 
{{main|スレイマン1世}}
 
 
 
スレイマン1世([[1520年]] - [[1566年]])の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は[[中央ヨーロッパ]]、[[北アフリカ]]にまで広がった。
 
 
 
==== ペルシア湾・インド洋方面 ====
 
{{仮リンク|ポルトガル・マムルーク海戦|en|Portuguese–Mamluk naval war}}([[1505年]] - [[1517年]])では、[[1507年]]に[[ポルトガル海上帝国]]が[[ホルムズ占領 (1507年)|ホルムズ占領]]に成功。[[1509年]]に[[ディーウ]]で[[インド洋]]の制海権を巡る[[ディーウの戦い (1509年)|ディーウ沖海戦]]で[[グジャラート・スルターン朝]]、[[マムルーク朝]]、[[カリカット]]の領主[[ザモリン]]、オスマン帝国の連合艦隊を破った。
 
 
 
[[ロバート・シャーリー]]に率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、[[1622年]]の[[ホルムズ占領 (1622年)|ホルムズ占領]]で、イングランド・ペルシア連合軍が[[ホルムズ島]]を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。
 
 
 
==== インドネシア方面 ====
 
[[1569年]]、スレイマンは[[インドネシア]]の[[アチェ王国]]のスルタンである{{仮リンク|アラウッディン・アルカハル|en|Alauddin al-Kahar}}の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊は[[マラッカ海峡]]まで行き、[[ジョホール王国]]・{{仮リンク|ポルトガル領マラッカ|en|Portuguese Malacca}}へ攻勢をかけた。<ref>M.C. Ricklefs. A History of Modern Indonesia Since c. 1300, 2nd ed. Stanford: Stanford University Press, 1994., 33</ref>
 
 
 
==== エジプト・シリア・アラビア半島方面 ====
 
東では[[サファヴィー朝]]と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.127]].</ref>、さらには[[イラク]]の[[バグダード]]を奪い、南では[[イエメン]]に出兵して[[アデン]]を征服した。
 
 
 
{{仮リンク|ポルトガル・マムルーク海戦|en|Portuguese–Mamluk naval war}}([[1505年]] - [[1517年]])ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、{{仮リンク|オスマン・マムルーク戦争 (1516年 - 1517年)|en|Ottoman–Mamluk War (1516–17)|label=オスマン・マムルーク戦争}}([[1516年]] - [[1517年]])では、[[1516年]]の[[マルジュ・ダービクの戦い]]・[[:en:Battle of Yaunis Khan]]と[[1517年]]の[[:en:Battle of Ridaniya]]で[[セリム1世]]によって[[マムルーク朝]]エジプトが征服され、エジプト・[[シリア]]・[[アラビア半島]]が属領となった。[[1522年]]、次代[[スレイマン1世]]の時に{{仮リンク|ムスタファ・パシャ|tr|Çoban Mustafa Paşa}}が{{仮リンク|エジプト州|en|Egypt Eyalet}}([[1517年]]–[[1805年]])の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。[[1523年]]にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに[[1524年]]には新たな州総督に就任していた[[アフメト・パシャ]]が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された<ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、pp.329-330]].</ref>。
 
 
 
この反乱を受けた[[スレイマン1世]]は[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ|イブラヒム・パシャ]]を送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任した{{仮リンク|スレイマン・パシャ|tr|Süleyman Paşa<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした<ref>[[#佐藤(西アジア史アラブ)|佐藤(2002)、p.330]].</ref>。
 
 
 
==== 地中海・北アフリカ方面 ====
 
[[ファイル:Battle of Preveza (1538).jpg|thumb|200px|right|プレヴェザの海戦]]
 
[[ファイル:Siege of malta 2.jpg|thumb|200px|right|マルタ包囲戦 - 聖エルモ砦の陥落]]
 
[[ファイル:Battle_of_Lepanto_1571.jpg|thumb|200px|right|レパントの海戦]]
 
{{main|{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|es|Guerras habsburgo-otomanas|it|Guerra ottomano-asburgica|en|Ottoman–Habsburg wars|label=ハプスブルク=オスマン帝国戦争}}}}
 
 
 
[[1516年]]、オスマン帝国の[[:en:Shahzade|皇子]]{{要曖昧さ回避|date=2014年7月5日}}{{仮リンク|シェフザーデ・コルクト|tr|Şehzade Korkut|en|Şehzade Korkut|label=コルクト}}の公的支援を受けた[[バルバリア海賊]]の[[バルバロス・オルチ|バルバロス・ウルージ]]と[[バルバロス・ハイレッディン]]兄弟が、{{仮リンク|アルジェ占領 (1516年)|en|Capture of Algiers (1516)}}に成功。[[1517年]]には[[ザイヤーン朝]]の首都[[トレムセン]]に侵攻し、ウルージは戦死したものの{{仮リンク|トレムセン陥落 (1517年)|en|Fall of Tlemcen (1517)}}が成功、{{仮リンク|オスマン・アルジェリア|en|Ottoman Algeria}}([[1517年]] - [[1830年]])を設置。海上では、[[1522年]]の[[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]]ではムスリムに対する海賊行為を行っていた[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]と戦ってこれを駆逐し、東地中海の[[制海権]]を握った。
 
 
 
[[1529年]]1月に宣戦布告し、5月には{{仮リンク|ペニョン・デ・アルジェ|es|Peñón de Argel|en|Peñón of Algiers|label=アルジェ要塞}}を落として{{仮リンク|アルジェ占領 (1529年)|en|Capture of Algiers (1529)}}に成功。10月に[[フォルメンテラ島|フォルメンテーラ島]]での戦いでスペイン船を駆逐({{仮リンク|フォルメンテーラ島の戦い (1529年)|en|Battle of Formentera (1529)}})。
 
 
 
[[1534年]]には{{仮リンク|チュニス占領 (1534年)|en|Conquest of Tunis (1534)}}に成功。[[1535年]]に[[ハフス朝]]とスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥({{仮リンク|チュニス占領 (1535年)|en|Conquest of Tunis (1535)}})。[[バルバロス・ハイレッディン]]は脱出の途上で{{仮リンク|マオー略奪|ca|Saqueig de Maó|en|Sack of Mahón}}を行なった。
 
 
 
[[1536年]]、{{仮リンク|フランス・オスマン同盟|en|Franco-Ottoman alliance}}を密かに締結。[[1538年]]の[[プレヴェザの海戦]]で[[アルジェリア]]に至る地中海の制海権の掌握に成功した<ref name="nagata02240-4"/><ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.233-234]].</ref>。[[1540年]]10月、{{仮リンク|アルボラン島の戦い|en|Battle of Alborán|label=アルボラン島の海戦}}。[[1541年]]10月、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が親征して{{仮リンク|アルジェ遠征 (1541年)|es|Jornada de Argel|en|Algiers expedition (1541)}}を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。[[1545年]]にバルバロッサが引退、[[1546年]]には後任に[[ソコルル・メフメト・パシャ]]を抜擢した。
 
 
 
[[1550年]]に[[トレムセン]]を占領し、[[ザイヤーン朝]]を滅亡させた。[[1551年]]に{{仮リンク|トリポリ包囲戦 (1551年)|en|Siege of Tripoli (1551)}}に成功し、{{仮リンク|オスマン・トリポリタニア|en|Ottoman Tripolitania}}([[1551年]] - [[1911年]])を設置。
 
 
 
{{main|イタリア戦争}}
 
 
 
[[スレイマン1世]]は密かに[[ヴァロワ朝]][[フランス王国|フランス王]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟していたため、[[イタリア戦争 (1551年 - 1559年)]]({{仮リンク|ポンツァ島の戦い (1552年)|en|Battle of Ponza (1552)}}、{{仮リンク|オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)|en|Ottoman invasion of the Balearic Islands (1558)}})に派兵して干渉戦争を実施した。
 
 
 
[[1555年]]に[[アルジェ]]の{{仮リンク|サリフ・レイス|tr|Salih Reis|en|Salih Reis}}が{{仮リンク|ベジャイア占領|en|Capture of Bougie}}に成功。[[1556年]]の{{仮リンク|オラン包囲戦 (1556年)|en|Siege of Oran (1556)}}では、[[オラン]]が包囲されている間に、[[モロッコ人]]も[[トレムセン]]を包囲し返し、作戦は失敗に終わった。[[1560年]]5月に{{仮リンク|ピヤーレ・パシャ|en|Piyale Pasha}}が[[チュニジア]]沖の[[ジェルバ島]]で行なわれた[[ジェルバ島の戦い|ジェルバの海戦]]で大勝。[[1565年]]、[[マルタ包囲戦 (1565年)]]でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。[[1566年]][[9月6日]]にスレイマンが死去し、その死から5年後の[[1571年]]、[[レパントの海戦]]でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992、pp.236-239]]</ref><ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.234]].</ref>。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.249-52]].</ref>。[[クルチ・アリ]]({{lang-tr|Kılıç Ali Paşa}})のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、[[1573年]]には[[キプロス島]]、翌[[1574年]]に[[チュニス]]を攻略し({{仮リンク|チュニス占領 (1574年)|en|Conquest of Tunis (1574)}})、[[ハフス朝]]を滅亡させた。{{仮リンク|オスマン・チュニス|en|Ottoman Tunis}}([[1574年]] - [[1705年]])を設置。17世紀に[[クレタ島]]が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.249-52]].</ref>。
 
 
 
==== 対ロシア戦 ====
 
[[ロシア・ツァーリ国]]の[[イヴァン4世]]は、[[1552年]]の{{仮リンク|カザン包囲戦|en|Siege of Kazan}}で[[カザン・ハン国]]を併合、[[1554年]]に[[アストラハン・ハン国]]を従属国化した。旧[[ジョチ・ウルス]]領のうち残っていた[[クリミア・ハン国]]とロシアとの対立が深まると、[[1568年]]にセリム二世及び[[ソコルル・メフメト・パシャ]]はアストラハン遠征([[露土戦争 (1568年-1570年)]])を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる[[露土戦争]]の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなく[[サファヴィー朝]]をも牽制する目的で[[ヴォルガ・ドン運河]]の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは[[1952年]]になってからである)。
 
 
 
==== ヨーロッパ方面(バルカン半島) ====
 
{{Seealso|en:Ottoman wars in Europe|{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|es|Guerras habsburgo-otomanas|it|Guerra ottomano-asburgica|en|Ottoman–Habsburg wars|label=ハプスブルク=オスマン帝国戦争}}|イタリア戦争}}
 
過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。
 
しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.100]].</ref>。
 
 
 
オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように[[第4回十字軍]]により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、[[アンカラの戦い]]において混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、pp.105-106]].</ref>。
 
 
 
陸上においては、[[1521年]]の[[ベオグラード]]の征服<ref name="nagata02240-4">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.240-244]]</ref>、[[1526年]]の[[モハーチの戦い]]における[[ハンガリー王国]]に対しての戦勝、[[1529年]]の[[第一次ウィーン包囲]]と続き<ref name="nagata02240-4"/>、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった<ref>[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.108]].</ref>。
 
 
 
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
 
 
 
オスマン家と[[ハプスブルク家]]の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していた[[フランス]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、[[カピチュレーション]](恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での[[治外法権]]などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなく[[イギリス]]をはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした[[19世紀]]には、西欧諸国によるオスマン帝国への[[内政干渉]]の足がかりに過ぎなくなり、[[不平等条約]]として重くのしかかることになった。
 
 
 
スレイマンは、[[1566年]]9月にハンガリー遠征の[[シゲトヴァール包囲戦]]の最中に陣没し、[[ピュロスの勝利]]で終わった([[1541年]][[オスマン帝国領ハンガリー]]{{仮リンク|ブディン・エヤレト|en|Budin Eyalet}}設置)。[[ソコルル・メフメト・パシャ]]は、[[1571年]]に[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]の建設を[[ミマール・スィナン]]に開始させ、[[1577年]]に完成した。
 
 
 
==== 軍事構造の転換 ====
 
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど[[大宰相]](首相)が担うようになる。
 
 
 
オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.253-254]].</ref>。
 
 
 
アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.254-255]].</ref>。
 
 
 
オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、[[火砲]]での武装及び[[常備軍]]の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、[[歩兵]]であるイェニ・チェリを核とする[[常備軍]]の重要性が増大した。しかし、イエニ・チェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の[[騎士]]である[[スィパーヒー]]層の没落とイェニ・チェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来の{{仮リンク|ティマール制|en|Timar}}は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる[[徴税請負制]]({{仮リンク|イルティザーム制|en|Iltizam}})が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。[[#制度|制度の項]]で後述する高度な[[官僚]]機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
 
 
 
=== 帝国支配の混乱 ===
 
{{main|ソコルル・メフメト・パシャ|セリム2世|アフメト1世|オスマン2世}}
 
{{See also|東方問題|チューリップ時代}}
 
繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。[[1578年]]に{{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争|en|Ottoman–Safavid War (1578–1590)|label=オスマン・サファヴィー戦争}}が始まると、[[1579年]]にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が[[サファヴィー朝|サファヴィー朝ペルシア]]の間者によって[[暗殺]]されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに[[17世紀]]前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、[[16世紀]]末頃から[[新大陸]]産の[[銀]]の流入による物価の高騰([[価格革命]])<ref name="nagata02250-1">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.250-251]]</ref>や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった<ref name="nagata02250-1"/>。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった<ref name="nagata02250-1"/>。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した<ref name="nagata02250-1"/>。
 
 
 
極端な[[インフレーション]]は流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった<ref name="nagata02252-6">[[#永田(西アジア史イラン・トルコ)|永田(2002)、pp.252-256]]</ref>。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、[[1589年]]には、彼らの反乱が起こった<ref name="nagata02252-6"/>。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった<ref name="nagata02252-6"/>。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった<ref name="nagata02252-6"/>。[[1608年]]を頂点に、{{仮リンク|ジェラーリーの乱|en|Jelali revolts|label=ジェラーリーの反乱}}は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった<ref name="nagata02252-6"/>。
 
 
 
そのような情勢の下で[[1645年]]に起こった[[ヴェネツィア共和国]]との{{仮リンク|クレタ戦争 (1645年)|en|Cretan War (1645–1669)|label=クレタ戦争}}で勝利したものの、[[1656年]]の{{仮リンク|ダルダネスの戦い (1656年)|en|Battle of the Dardanelles (1656)|label=ダルダネスの戦い}}でヴェネツィア艦隊による[[海上封鎖]]を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢された{{仮リンク|キョプリュリュ・メフメト・パシャ|en|Köprülü Mehmed Pasha}}は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]が続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いた[[キョプリュリュ家]]の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。
 
 
 
{{main|
 
{{仮リンク|ポーランド・コサック・タタール戦争 (1666年-1671年)|en|Polish–Cossack–Tatar War (1666–71)}}
 
|
 
{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1672年-1676年)|en|Polish–Ottoman War (1672–76)}}
 
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[[露土戦争 (1676年-1681年)]]
 
}}
 
{{main|
 
{{仮リンク|モレアス戦争|en|Morean War|label=モレア戦争}}
 
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{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1683年-1699年)|en|Polish–Ottoman War (1683–99)}}
 
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[[露土戦争 (1686年-1700年)]]
 
}}
 
{{節スタブ}}
 
 
 
キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国は[[クレタ島]]やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため<ref name="G234-5">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.234-235]].</ref>、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
 
 
 
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿[[カラ・ムスタファ・パシャ]]は功名心から[[1683年]]に[[第二次ウィーン包囲]]を強行する。一時包囲を成功させるも、[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る([[大トルコ戦争]])。
 
 
 
=== 帝国支配の衰退 ===
 
{{main|en:Stagnation of the Ottoman Empire}}
 
戦後、[[1699年]]に結ばれた[[カルロヴィッツ条約]]において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家の[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に奪われた。[[1700年]]にはロシアと[[スウェーデン]]の間で起こった[[大北方戦争]]に巻き込まれ、スウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、[[ピョートル1世]]の治下で国力の増大著しい[[ロシア帝国]]との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、[[1711年]]の[[露土戦争 (1710年-1711年)|プルート川の戦い]]で有利な講和を結ぶことに成功するが、続く[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]のために、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でセルビアの重要拠点[[ベオグラード]]を失う。
 
[[ファイル:Koceks_-_Surname-i_Vehbi.jpg|right|200px|thumb|アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。王子の[[割礼]]を祝う様子を描く。]]
 
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でも[[アフメト3世]]の大宰相{{仮リンク|ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ|tr|Nevşehirli Damat İbrahim Paşa|label=ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ}}(在任[[1718年]]-[[1730年]])の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入された[[チューリップ]]が装飾として流行したことから、'''[[チューリップ時代]]'''と呼ばれている。しかし、{{仮リンク|ホターキー朝|en|Hotaki dynasty}}の混乱に乗じて行われた{{仮リンク|オスマン・ペルシア戦争 (1722年-1727年)|en|Ottoman–Persian War (1722–1727)|label=イラン戦役}}が、[[1730年]]に[[ナーディル・シャー]]が登場({{仮リンク|アフシャール・オスマン戦争 (1723年-1727年)|en|Afsharid-Ottoman War|label=アフシャール戦役}})し、オスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々は{{仮リンク|パトロナ・ハリル|en|Patrona Halil}}とともに{{仮リンク|パトロナ・ハリルの乱|tr|Patrona Halil İsyanı}}を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。
 
 
 
やがて[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年–1739年)|露土戦争 (1735年-1739年)]]が終結し、その講和条約である[[1739年]]の[[ニシュ条約 (1739年)|ニシュ条約]]と[[ベオグラード条約]]が締結されて、ベオグラードを奪還。[[1747年]]にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握した[[アーヤーン]]と呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいた。しかし、[[産業革命]]が波及して、急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、[[スレイマン1世]]時にヨーロッパ諸国に与えた[[カピチュレーション]]を利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。
 
 
 
=== 近代化をめざす「瀕死の病人」 ===
 
[[ファイル:Navarino.jpg|right|200px|thumb|ギリシャ独立戦争の敗北([[ナヴァリノの海戦]])]]
 
{{main|en:Decline of the Ottoman Empire}}
 
[[18世紀]]末に入ると、[[ロシア帝国]]の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。[[1768年]]に始まった[[露土戦争 (1768年)|露土戦争]]で敗北すると、[[1774年]]の[[キュチュク・カイナルジ条約|キュチュク・カイナルジャ条約]]によって帝国は黒海の北岸を喪失し、[[1787年]]からの[[露土戦争 (1787年)|露土戦争]]にも再び敗れて、[[1792年]]の[[ヤシ条約]]でロシアの[[クリミア半島]]の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感した[[セリム3世]]は翌[[1793年]]、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「[[ニザーム・ジェディード]]」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
 
 
 
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、[[ギリシャ]]北部から[[アルバニア]]を支配した[[テペデレンリ・アリー・パシャ]]のように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な[[中央集権]]体制は無実化した。さらに[[1798年]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけに、1806年に[[ムハンマド・アリー]]がエジプトの実権を掌握した。一方、[[フランス革命]]から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族の[[ナショナリズム]]を呼び覚まし、[[ギリシャ独立戦争]]([[1821年]] - [[1829年]])によって[[ギリシャ王国]]が独立を果たした。[[ムハンマド・アリー]]は、[[エジプト・トルコ戦争#第一次エジプト・トルコ戦争|第一次エジプト・トルコ戦争]]([[1831年]] - [[1833年]])と[[エジプト・トルコ戦争#第二次エジプト・トルコ戦争|第二次エジプト・トルコ戦争]]([[1839年]] - [[1841年]])を起こし、エジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
 
 
 
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、[[19世紀]]のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を[[東方問題]]という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、[[20世紀]]初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
 
 
 
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。[[1808年]]に即位した[[マフムト2世]]はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した<ref>軍の西欧化と翻訳局について。[[#新井2009|新井2009、pp.42-43,87-88]]</ref>。さらに[[1839年]]、[[アブデュルメジト1世]]は、改革派官僚[[ムスタファ・レシト・パシャ]]の起草した[[ギュルハネ勅令]]を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る'''[[タンジマート]]'''を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった<ref>[[#新井2009|新井2009、p.68]]</ref>。
 
 
 
[[1853年]]にはロシアとの間で[[クリミア戦争]]が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、[[1856年]]に[[改革勅令]]を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.77-85]]</ref>。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法([[シャリーア]])と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代[[教育]]を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.86-87]]</ref>。そして、[[ゴールドシュミット・ファミリー|カモンド家]]の支配する[[:en:Ottoman Bank|オスマン銀行]]が設立された。
 
 
 
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の[[借款]]を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために[[農業]]の[[モノカルチャー]]化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、[[1875年]]、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.78,134-138]]</ref>。
 
 
 
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、[[1876年]]、大宰相[[ミドハト・パシャ]]のもとで[[オスマン帝国憲法]](通称'''ミドハト憲法''')を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の[[法治国家]]であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.172-175]]</ref>。
 
 
 
だが憲法発布から間もない[[1878年]]に、オスマン帝国はロシアとの[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]に完敗し、帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望む[[アブデュルハミト2世]]は、ロシアとは[[サン・ステファノ条約]]を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.175,177]]</ref>。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまる。一方でしかし[[オスマン債務管理局]]などを通じ帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で[[民族資本]]が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の[[民主主義]]、[[民族主義]]の拡大を準備した。
 
 
 
=== 世界大戦から滅亡への道 ===
 
{{main|en:Dissolution of the Ottoman Empire}}
 
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは[[1889年]]に結成された「[[統一と進歩委員会]]」(通称「統一派」)をはじめとする[[青年トルコ人]]運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.196-197]]</ref>。[[1891年]]には、[[時事新報]]記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した<ref>"The first Japanese who resided in the Ottoman Empire: the young journalist NODA and the student merchant YAMADA" 三沢伸生『地中海論集/Mediterranean World』(一橋大学地中海研究会)  (21) 51-69  2012年6月</ref>。
 
[[ファイル:Ismail_Enver.jpg|right|200px|thumb|エンヴェル・パシャ]]
 
[[ファイル:Sultanvahideddin.jpg|thumb|238px|1922年11月、[[ドルマバフチェ宮殿]]を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦で[[サンレモ]]に亡命。1926年に同地で没した。]]
 
 
 
[[1908年]]、サロニカ(現在の[[テッサロニキ]])の統一派を中心とする[[マケドニア]]駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた([[青年トルコ革命]])。彼らは[[1909年]]には保守派の反革命運動を鎮圧、[[1913年]]には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者[[タラート・パシャ]]、[[エンヴェル・パシャ]]らを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.232-239,261]]</ref>。
 
 
 
この間にも、サロニカを含む[[マケドニア]]と[[アルバニア]]、[[1911年]]には[[伊土戦争]]により[[リビア]]が帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は[[汎スラヴ主義]]拡大の脅威に対抗するため[[ドイツ]]と同盟に関する密約を締結し、[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]で[[中央同盟国|同盟国]]側で参戦した。
 
 
 
この戦争でオスマン帝国は[[アラブ反乱|アラブ人に反乱を起こされ]]、[[ガリポリの戦い]]などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際に、[[アルメニア人虐殺]]が発生し、その後、トルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾し、未解決の外交問題となっている。[[ムドロス休戦協定]]により帝国は[[1918年]][[10月30日]]に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領され、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下へ、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.222-224]].</ref>。
 
 
 
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝[[メフメト6世]]は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けた[[ギリシャ軍]]が[[イズミル]]に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]パシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会]]を組織して抵抗政府を結成したが<ref>[[#新井2009|新井2009、pp.267-269]]</ref>、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.224]].</ref>。
 
 
 
一方連合国は、[[1920年]]、講和条約として[[セーヴル条約]]をメフメト6世は締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。結果として、トルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約([[ローザンヌ条約]])の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。[[1922年]]、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機に[[パーディシャー]](スルタン)と[[カリフ]]の分離と、'''帝政の廃止'''を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世は[[マルタ]]へ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した([[トルコ革命]])<ref name="suzuki00225">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.225]].</ref>。
 
 
 
翌[[1923年]]、大国民議会は[[共和制]]を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家[[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた。トルコ共和国は[[1924年]]、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した<ref name="suzuki00225"/>。
 
 
 
== 制度 ==
 
[[ファイル:Suleyman_1st_Great_1494_1566_Lorck.jpg|right|200px|thumb|四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの[[金細工職人]]につくらせたもので、[[ローマ教皇]]の[[教皇冠|三重冠]]を意識したものだと言われている。]]
 
オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
 
 
 
20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代には[[オスマン帝国の君主]]がルーム([[ローマ帝国]])の[[カエサル (称号)|カイセル]]([[皇帝]])と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国が[[コンスタンティノープル総主教]]の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの[[皇帝教皇主義]]の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は[[東ローマ帝国]]の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
 
{{See also|ビザンティン・ハーモニー}}
 
 
 
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
 
 
 
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている<ref name="G224"/>。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・[[中央集権]]を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
 
 
 
=== 軍制 ===
 
{{seealso|オスマン帝国軍|オスマン帝国海軍}}
 
[[ファイル:OttomanMilitaryMiddleEast.jpg|thumb|200px|近代化された後のオスマン帝国陸軍]]
 
軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され{{#tag:ref|この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステム[[ティマール制]]によって軍事奉仕義務を負った騎兵を[[スィパーヒー]]と呼ぶ。|group=#}}、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らは[[カプクル]](「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した<ref name="G224-5">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.224-225]].</ref>。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する[[デヴシルメ]]制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍[[イェニチェリ]]は、火器を扱うことから[[軍事革命]]{{要曖昧さ回避|date=2014年7月5日}}の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な[[常備軍]]に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
 
 
 
[[ファイル:Ottoman Navy at the Golden Horn.jpg|thumb|left|200px|[[金角湾]]内のオスマン艦隊]]
 
オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた<ref name="mihashi66136">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.136]].</ref>。
 
 
 
オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所は{{仮リンク|カラミュルセル|en|Karamürsel}}であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった<ref name="mihashi66136-7">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.136-137]].</ref>。
 
 
 
15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊は[[エーゲ海]]、[[地中海]]、[[イオニア海]]、[[黒海]]、[[紅海]]、[[アラビア海]]、[[ペルシア湾]]、[[インド洋]]などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った<ref name="mihashi66137">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.136]].</ref>。
 
 
 
=== オスマン帝国の統治システム ===
 
{{seealso|オスマン帝国の行政区画}}
 
帝国の領土は直轄州、独立採算州、[[従属国]]からなる。属国([[クリミア・ハン国|クリミア・ハン国(クリム汗国)]]、[[ワラキア|ワラキア(エフラク)君侯国]]、[[モルダヴィア|モルダヴィア(ボーダン)君侯国]]、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア(エルデル)君侯国]]、[[ドゥブロブニク|ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国]]、[[モンテネグロ公国]](公または主教の支配)、[[ヒジャーズ]]など)は[[君主]]の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州([[エジプト]]など)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった<ref name="suzuki00134">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.134]].</ref>。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった<!--[[オスマン時代のブルガリア]]、[[トルコクラティア]]等も参照-->。
 
 
 
オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、{{仮リンク|ビレジク (シャンルウルファ県)|en|Birecik|label=ビレジク}}、[[イェニシェヒル (ブルサ県)|イェニシェヒル]]([[ブルサ]]近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まれば[[ベグ|ベイ]](君主)、もしくは[[ベイレルベイ]](ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下の[[ララ・シャヒーン・パシャ|ララ・シャヒーン]]が任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた{{#tag:ref|この任命には様々な説があり、ひとつにはララという重職(セルジューク朝でいうアタ=ベク)に任命されるほどの人物であったということから任命されたという説とムラト1世が本来は息子のバヤズィト(後のバヤズィト1世)を任命するつもりであったが、幼少であったため、その繋ぎとしてシャーヒンを任命したとする説がある<ref name="mihashi66128">[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.128]].</ref>。|group=#}}。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄する{{仮リンク|アナドル・ベイレルベイスィ|tr|Anadolu Eyaleti}}配下のアナドルの[[オスマン帝国の行政区画|ベイレルベイリク]](大軍管区の意味)とルメリを管轄する{{仮リンク|ルメリ・ベイレルベイスィ|tr|Rumeli Eyaleti}}配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった<ref name="G246-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.246-247]].</ref>。
 
 
 
この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった<ref name="G246">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.246]].</ref>。
 
 
 
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下には{{仮リンク|サンジャク (行政区分)|en|Sanjak|label=サンジャク}}(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった{{#tag:ref|一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.134]].</ref>。|group=#}}<ref name="G246-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.246-247]].</ref>。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.131]].</ref>。
 
 
 
さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官([[カーディー]])らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.247-248]].</ref><ref name="YT109">[[#矢田(東欧史)|矢田(1977)、p.109]].</ref>。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.133]].</ref>。
 
 
 
当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、[[サラエヴォ]]を中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された<ref name="YT109"/>。
 
 
 
さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した<ref name="mihashi66136"/>。
 
 
 
中央では、皇帝を頂点とし、大宰相([[大宰相|サドラザム]]{{enlink|Grand Vizier|a=on}})以下の宰相([[ワズィール|ヴェズィール]]{{enlink|Vizier|a=on}})がこれを補佐し、彼らと軍人法官([[カザスケル]])、財務長官({{仮リンク|デフテルダル|en|Defterdar}})、国璽尚書([[ニシャンジュ]])から構成される御前会議({{仮リンク|ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン|en|Divan|FIXME=1}})が最高政策決定機関として機能した。[[17世紀]]に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府([[バーブ・アーリー]])に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長([[レイスルキュッターブ]])、大宰相府の幹部である大宰相用人([[サダーレト・ケトヒュダース]])などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。
 
[[ファイル:Bab-i_Ali.jpg|right|200px|thumb|大宰相府(バーブ・アーリー)の門]]
 
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚([[ウラマー]])と、書記官僚([[カーティブ|キャーティプ]])の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうち[[エリート]]は宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、[[マドラサ|メドレセ]](宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授や[[ムフティー]]の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官([[カザスケル]])であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」([[シェイヒュルイスラーム]])である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、[[宦官]]を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
 
 
 
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に[[西欧]]を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた[[閣議]]の長とされて事実上の[[内閣]]を率いる[[首相]]となった。
 
 
 
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、[[イスラム国家]]としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
 
 
 
=== オスマン帝国の人々 ===
 
==== 宗教面 ====
 
オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.135]].</ref>。
 
 
 
オスマン帝国南部であるアラブ圏では[[ムスリム]]が大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーである[[スンナ派]]が中心を成していたが、イラク南部では[[シーア派]]が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域には[[ドゥルーズ派|ドールーズ派]]が多数、存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトの[[コプト正教会 |コプト教徒]]、レバノン周辺の[[マロン派]]、シリア北部からイラク北部には[[ネストリウス派]]が少数、[[東方諸教会|東方キリスト教諸宗派]]、[[正教徒]]、[[アルメニア教会|アルメニア教会派]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[ユダヤ教徒]]などもこのアラブ圏で生活を営んでいた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.135-136]].</ref>。
 
 
 
そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数、存在しており、その他、キリスト教諸宗派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀に[[イベリア半島]]でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した<ref name="suzuki00136">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.136]].</ref>。
 
 
 
バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったが[[アドリア海]]沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムと[[セルボ・クロアチア語]]を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた<ref name="suzuki00136"/>。
 
 
 
一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国は[[プロテスタント]]、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であった[[フス派]]の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.136-137]].</ref>。
 
 
 
こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.137]].</ref>。
 
 
 
==== 民族 ====
 
オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。
 
 
 
オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.137-138]].</ref>。
 
 
 
オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけては[[アラビア語]]を母語として自らを[[アラブ人]]認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうと[[ベルベル語]]を母語とする[[ベルベル人]]、そして北イラクから北シリアへ向かうと[[シリア語]]を母語としてネストリウス派を奉じる[[アッシリア人]]が少数であるが加わった。微妙な立場としては[[コプト正教会|コプト派]]でありながら[[コプト・エジプト語|コプト語]]を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト教徒らが存在する<ref>[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.138]].</ref>。
 
 
 
また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派の[[クルド人]]らが存在しており、[[クルド語]]を母語としていた<ref name="suzuki00139">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.139]].</ref>。
 
 
 
元東ローマ帝国領であったアナトリア、及びバルカン半島ではギリシャ語を母語として正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した<ref name="suzuki00139"/>。
 
 
 
バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた<ref name="suzuki00139-40">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、pp.139-140]].</ref>。
 
 
 
アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人々もこれに加わることになる<ref name="suzuki00141">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.141]].</ref>。
 
 
 
その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々は[[ラディーノ語]]、ハンガリー征服以後は[[イディッシュ語]]をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそちがえどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた<ref name="suzuki00141"/>。
 
 
 
== ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策 ==
 
{{main|[[ミッレト制]]}}
 
オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、[[サーサーン朝]]ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのは[[ユダヤ教徒]]、[[アルメニア教会|アルメニア教会派]]、[[ギリシャ正教徒]]らであった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.138-139]].</ref>。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている<ref name="G236">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.236]].</ref>。
 
 
 
このミッレトに所属した人々は[[ジズヤ|人頭税(ジズヤ)]]の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた<ref name="G236"/>。
 
 
 
これらミッレト制は[[シャーリア]]上の[[ズィンミー]]制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「[[啓典の民]]」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.238-239]].</ref>。
 
 
 
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「[[パクス・オトマニカ|パックス・オトマニカ]]」{{#tag:ref|歴史家アーノルド・トインビーによる<ref name="suzuki00131">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.131]].</ref>。|group=#}}という面があったということを意味しており<ref name="G239">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.239]].</ref>、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった<ref name="suzuki00132">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)、p.132]].</ref>。
 
 
 
=== ユダヤ教徒 ===
 
ユダヤ人のミッレトは東ローマ帝国時代からすでに存在したが、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、[[オーストリア]]、[[ハンガリー]]、[[ポーランド]]、[[ボヘミア]]、[[スペイン]]などからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハカム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.140-141]].</ref>。
 
 
 
なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、p.141]].</ref>。
 
 
 
=== アルメニア人 ===
 
{{seealso|アルメニア教会}}
 
アルメニア人らは[[合性論]]者が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によって[[カフカース]]から[[カッパドキア]]、[[キリキア]]へ移住させられ、[[キリキア・アルメニア王国|小アルメニア]]を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、蒙古軍、ティムールなどの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメット2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.141-142]].</ref>。
 
 
 
=== ギリシャ正教徒 ===
 
{{seealso|ギリシャ正教}}
 
ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメット2世がギリシャ正教総主教に[[ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ゲンナデオス2世]]を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメット2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった<ref>[[#三橋(オスマントルコ史論)|三橋(1966)、pp.142-143]].</ref>。
 
 
 
なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた<ref name="G239"/>。
 
 
 
しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|全地総主教座]]を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去に[[ステファン・ドゥシャン]]が帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、[[1557年]]、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となった[[ソコルル・メフメト・パシャ]]の尽力により[[セルビア正教会|セルビア総主教座]]を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により[[1766年]]に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.240]].</ref>。
 
 
 
イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらに[[アトス山]]の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた<ref name="G241">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.241]].</ref>。
 
 
 
これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らが[[アルバニア語]]を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ<ref name="G241"/>、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした<ref name="G246">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.246]].</ref>。
 
 
 
さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった{{#tag:ref|一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた<ref name="G242">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.242]].</ref>。|group=#}}。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らは[[ローマ法大全|ローマ法]]が固有の法であった<ref name="G242"/>。
 
 
 
== 文化 ==
 
オスマン朝では、[[神学]]や[[哲学]]のような形而上の学問の分野では、当時の[[アラブ]]・[[イラン]]のものを上回るものは表れなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品や文化を残した。
 
[[ファイル:Pitcher_Iznik_Louvre_OA7595.jpg|left|200px|thumb|イズニク陶器の水差し(16世紀頃)]]
 
 
 
===建築===
 
[[イスラーム建築|イスラムの伝統様式]]を発展させ、[[オスマン建築]]と呼ばれる独特の様式を生み出した。[[モスク]]などに現存する優れた作品が多く、[[17世紀]]に立てられた[[スルタンアフメット・モスク]](ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブールの[[スレイマニエ・モスク]]やエディルネの[[セリミエ・モスク]]を建てた[[16世紀]]前半の[[ミマール・スィナン]]が代表的であるが、[[アルメニア人]]の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築の[[トプカプ宮殿]]や、[[バロック]]様式とオスマン様式を折衷させた[[ドルマバフチェ宮殿]]が名高い。
 
 
 
===陶芸===
 
16 - 17世紀の[[イズニク]]で、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心は[[キュタヒヤ]]に移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。
 
 
 
===文学===
 
[[トルコ語]]に[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させた[[オスマン語]]が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野で[[ペルシア文学]]の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく([[トルコ文学]]の記事も参照)。
 
[[ファイル:Surname_17b.jpg|right|160px|thumb|楽人(レヴニー画)]]
 
 
 
===美術===
 
[[イスラム世界]]から受け継いだ[[イスラームの書法|アラビア文字の書道]]が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れた[[ミニアチュール]](細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて[[遠近法]]や陰影の技法が取り入れられ、特に[[チューリップ時代]]の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。
 
また、エーゲ海地方の[[ウシャク]]では絨毯の織物が有名である。
 
 
 
===音楽===
 
[[アラブ音楽]]の影響を受けた[[リュート]]系統の[[弦楽器]]や[[笛]]を用いた繊細な宮廷音楽([[オスマン古典音楽]])と、[[チャルメラ]]・[[ラッパ]]や[[太鼓]]の類によって構成された勇壮な軍楽([[メフテル]])とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている([[トルコ音楽]]の記事も参照)。
 
 
 
===園芸===
 
[[チューリップ]]、[[ヒアシンス]]、[[アネモネ]]、[[ラナンキュラス]]などが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を世に出した。
 
 
 
===料理===
 
[[オスマン帝国の料理]]は、宮廷料理に向けて帝国全土から様々な料理や食材を持ち込んだ事で知られる。[[地中海]]の周辺で欧州、中東、アフリカの一部の料理にも影響を及ぼした。
 
 
 
== オスマン帝国史を題材にした文芸作品 ==
 
;トルコ人の作家
 
:[[オルハン・パムク]] 『わたしの名は紅』藤原書店 ・・・2006年[[ノーベル文学賞]]を受賞した。<ref>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1234.html 松岡正剛による紹介]</ref>
 
:{{仮リンク|トゥルグット・オザクマン|tr|Turgut Özakman}} 『トルコ狂乱』三一書房 ・・・[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]](ケマル・パシャ)の伝記。映画化「[[:en:Dersimiz: Atatürk|Dersimiz: Atatürk]]」
 
:{{仮リンク|オスマン・ネジミ・ギュルメン|en|Osman Necmi Gürmen}} 『改宗者クルチ・アリ』藤原書店 ・・・[[クルチ・アリ]]の伝記
 
;ユーゴスラビアの作家
 
:[[イヴォ・アンドリッチ]] 『[[ドリナの橋]]』・『ボスニア物語』・『サラエボの女』 ・・・[[東方問題]]をテーマにした小説。1961年ノーベル文学賞を受賞した。
 
;オーストリアの作家
 
:[[フランツ・ヴェルフェル]] 『{{仮リンク|ムサ・ダの40日間|en|The Forty Days of Musa Dagh}}』 ・・・[[アルメニア人虐殺]]をテーマにした小説。
 
;イギリス人の作家
 
:[[ジェイソン・グッドウィン]] 『イスタンブールの群狼』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・[[イェニチェリ]]をテーマにした小説
 
:ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・[[ギリシャ独立戦争]]をテーマにした小説
 
;日本人の作家
 
:[[塩野七生]] 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』新潮文庫
 
:[[陳舜臣]] 『イスタンブール』(文藝春秋, 1992年4月), (「陳舜臣中国ライブラリー 26」集英社, 2001年3月)
 
:[[夢枕獏]] 『シナン〈上・下〉』中公文庫 ・・・建築家[[ミマール・スィナン]]の伝記
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist|group=#}}
 
 
 
== 出典 ==
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[新井政美]]|title=オスマン帝国はなぜ崩壊したのか|year=2009|pages=pp.229-280|publisher=[[青土社]]|isbn=9784791764907|ref=新井2009}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[鈴木董]]|year=1992|title=オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」|publisher=講談社現代新書|isbn=4061490974|ref=鈴木1992}}
 
* {{Cite book|和書|author=鈴木董|year=2000|title=オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家|publisher=[[筑摩書房]]〈[[ちくま新書]]〉|isbn=4-480-05842-7|ref=鈴木(オスマン帝国の解体)}}
 
* {{Cite book|和書|author=テレーズ・ビダール、富樫瓔子訳|editor=鈴木董監修|year=1996|title=オスマン帝国の栄光|publisher=創元社[[「知の再発見」双書]]|isbn=4422211110|ref=ビダール1996}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[林佳世子]]|year=1997|title=オスマン帝国の時代|publisher=山川出版社〈<small>世界史リブレット19</small>〉|isbn=4-634-34190-5|ref=林(オスマン帝国の時代)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[坂本勉 (トルコ学者)|坂本勉]]|year=1996|title=トルコ民族主義|publisher=[[講談社現代新書]]|isbn=4061493272|ref=坂本1996}}
 
* {{Cite book|和書|author=小松久男|editor=小松久男、宇山智彦、堀川徹、梅村坦、帯谷知司編|year=2005|title=中央ユーラシアを知る事典 - 「トルコ」の章|publisher=平凡社|isbn=4106003805|ref=小松2005}}
 
* {{Cite book|和書|author=ジョルジュ・カステラン、山口俊章訳|year=1994|title=バルカン <small>歴史と現在</small>|publisher=サイマル出版会|isbn=4-377-11015-2|ref=カステラン (バルカン)}}
 
* {{Cite book|和書|author=那谷敏郎|year=1990|title=三日月の世紀 <small>「[[大航海時代]]」のトルコ、イラン、インド</small>|publisher=新潮選書|isbn=4106003805|ref=那谷1990}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[桜井万里子]]編|year=2005|title=ギリシア史|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41470-8|ref=桜井(ギリシア史)}}
 
* {{Cite book|和書|author=佐藤次高編|year=2002|title=<small>世界各国史8</small>西アジア史Iアラブ|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41380-9|ref=佐藤(西アジア史アラブ)}}
 
** 担当執筆者
 
*** 「第5章 オスマン帝国治下のアラブ地域」 [[長谷部史彦]]・私市正年
 
* {{Cite book|和書|author=永田雄三編|year=2002|title=<small>世界各国史9</small>西アジア史IIイラン・トルコ|publisher=山川出版社|isbn=4-634-41930-6|ref=永田(西アジア史イラン・トルコ)}}
 
** 担当執筆者
 
*** 「第3章 トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」 井谷鋼造
 
*** 「第5章 オスマン帝国の時代」 林佳世子
 
*** 「第6章 オスマン帝国の改革」 永田雄三
 
* {{Cite book|和書|author=[[矢田俊隆]]編|year=1977|title=<small>世界各国史13 </small>東欧史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41130-X|ref=矢田(東欧史)}}
 
* {{Cite book|和書|author=三橋冨治男|year=1966|title=オスマン=トルコ史論|publisher=[[吉川弘文館]]〈ユーラシア文化史選書〉|ref=三橋(オスマントルコ史論)}}
 
* Karpat, Kemal. 1978. Ottoman Population Records and the Census of 1881/82-1893. International Journal of Middle Eastern Studies (9):237-274.
 
* L. Kinross, The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire, 1979
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* [[新井政美]] 『トルコ近現代史』 [[みすず書房]]、2001年、新版2008年
 
* 新井政美 『オスマン vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年
 
* [[林佳世子]] 『オスマン帝国500年の平和』 講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/[[講談社学術文庫]]、2016年
 
* [[鈴木董]] 『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版社、1993年
 
* [[坂本勉 (トルコ学者)|坂本勉]] 『トルコ民族の世界史』 [[慶應義塾大学出版会]]、2006年
 
* 坂本勉・[[佐藤次高]]・鈴木董編 『パクス・イスラミカの世紀』(<small>新書イスラームの世界史2</small>、全3巻) 講談社現代新書、1993年
 
* アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』 白須英子訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1998年
 
* [[永田雄三]]・[[羽田正]] 『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年、[[中公文庫]]、2008年
 
* 永田雄三・[[加藤博]] 『西アジア 下』(地域からの世界史8)[[朝日新聞出版]]、1993年
 
* [[藤由順子]] 『ハプルスブルク・オスマン両帝国の外交交渉 <small>1908 – 1914</small>』 南窓社、2003年
 
* [[久保吉光]] 『ハンガリーからトルコへ <small>その言語及び歴史、地理</small>』 泰流社、1989年
 
* ウルリッヒ・クレーファー 『オスマン・トルコ帝国』 [[戸叶勝也]]訳、佑学社、1982年
 
* ロベール・マントラン 『トルコ史』 小山皓一郎訳、(文庫クセジュ)白水社、1982年
 
* [[三橋富治男]] 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 (清水新書)清水書院、1971年、新版1984年
 
* 三橋富治男 『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』 (紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年、※復刊:単行版、1994年
 
* [[スティーヴン・ランシマン]] 『コンスタンティノープル陥落す』 [[護雅夫]]訳、みすず書房、1969年、新版1998年
 
* デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年
 
* [[林佳世子]] オスマン帝国の時代[[山川出版社]](1997.12.1)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[オスマン家]]
 
* [[オスマン帝国の君主]]
 
* [[ローマ帝国]]
 
* [[東ローマ帝国]]
 
* [[トルコ]]
 
* [[オスマン語]]
 
* [[ローマ皇帝]]
 
* [[オスマン債務管理局]]
 
* [[ハレム]]
 
* [[プロテスタントとイスラム]]
 
* [[アラブ反乱]] [[トーマス・エドワード・ロレンス]]が関わる
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{ウィキポータルリンク|歴史|[[ファイル:P history.svg|34px|Portal:歴史]]}}
 
{{Commonscat|Ottoman Empire}}
 
<!-- リンク切れ * [http://www.lahana.org/blog/index.htm 450+ Articles and abstracts about Ottoman Empire]
 
* [http://www.lahana.org/resimler/thumbnails.php?album=7 Miniatures and pictures of Ottomans (politic, social life and military)] -->
 
* [http://www.kalemguzeli.net/kategori/osmanli-medeniyeti Osmanlı Medeniyeti - オスマン帝国] {{en icon}}
 
<!-- リンク切れ * [http://www.osmanli700.gen.tr/english/engindex.html Ottoman Web Site](英語)-->
 
* [http://www.theottomans.org/english/index.asp TheOttomans.org]{{en icon}}
 
<!-- リンク切れ * [http://www.kultur.gov.tr/portal/tarih_en.asp?belgeno=1258 Ottoman Empire - トルコ文化省](英語)-->
 
* [http://gold.natsu.gs/WG/ST/222/ottomans/history/ottomans3.html En hommage a SPI SPIへのオマージュ] -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」
 
* [http://www.geocities.jp/j_since199x/ronbun/ronbun.html オスマン朝王家の兄弟関係の変質-兄弟殺しはどのように起こったか-]兄弟殺しに関する資料
 
*[http://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/re-read/005.pdf オスマン帝国の解体とヨーロッパ]藤波伸嘉
 
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2018/7/23/ (月) 22:37時点における版

(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه‎, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)

トルコ族の一首長オスマン1世を始祖とするオスマン朝から発展して成立したイスラム帝国 (1299~1922) 。オットマン帝国ともいわれる。

13世紀末小アジア北西部にオスマン一族を中心とする新国家が形成され,隣接するビザンチン帝国領土を征服して勢力を拡大した。オルハン1世のときダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ側に進出し (1357) ,ムラト1世はエディルネ (アドリアノープル) を首都にしてバルカン諸国の連合軍をコソボの戦い (89) で破った。バヤジッド1世はドナウ河岸のニコポリスにヨーロッパ連合軍を撃破し (96) ,公式に「スルタン」を号したが,小アジアに西進したチムールの軍にアンカラの戦いで大敗した (1402) 。バヤジッドの子メフメット1世はオスマン国家を再建し,その子ムラト2世のときその版図はドナウ川に達した.

1453年メフメット2世はコンスタンチノープルを陥落させ,ビザンチン帝国は滅亡した。コンスタンチノープルはオスマン帝国の首都となり,イスタンブールと改称された。これ以後東方イスラム世界に対する征服が進められ,セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてその首都カイロに入城した (1517) 。カイロにあったアッバース朝カリフの末裔はセリムに「カリフ」の称号を譲り,ここにスルタン・カリフ制度が成立した。スレイマン1世の治世 (20~66) にオスマン帝国は最盛期に達し,アジア,アフリカ,ヨーロッパにまたがる大帝国が完成された。スレイマン1世をもってオスマン帝国の征服活動はほぼ完了し,大宰相をはじめとする国家官僚による統治機構が確立されたが,帝国内部の諸矛盾は克服されず,衰退の兆しが次第に明らかとなった。

1683年大宰相カラ・ムスタファ・パシャの指揮するウィーン包囲が失敗した頃からヨーロッパにおいて守勢に立ち,露土戦争後に締結されたクチュク・カイナルジ条約 (1774) によって帝国の後退は決定的となった。 1789年に即位したセリム3世は帝国の改革に着手し,これ以後開明的なスルタンが相次いで近代化に努めたがみるべき成果をあげえず,この間にギリシア,北アフリカ,エジプト,バルカン諸邦が西欧の影響下に帝国から離脱した。帝国末期アブドゥル・ハミト2世の専制政治に対し,1908年政治結社「青年トルコ」 (青年トルコ革命) が決起して政権を掌握したが,第1次世界大戦でドイツ側について惨敗した。戦後の混乱を収拾したケマル・アタチュルクは 23年トルコ共和国を宣言し,オスマン帝国は第 36代メフメット6世をもって消滅した。