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荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家。運輸大臣、衆議院副議長、行政管理庁長官等を歴任した。
Contents
来歴・人物
埼玉県秩父郡高篠村出身。先代・清十郎の長男[1]。明治大学中退。織物製造業を経営[1]。
「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる[2]。ほとんどのメディアでは「荒船」と表記していたが、「荒舩」が正しく、本人は誤記されると怒ったという[2]。先祖は鎌倉で船大工をしており、公家の船しか作らなかったため「舩」の字を用いた、とされる[2]。
1937年(昭和12年)4月、高篠村会議員。1940年(昭和15年)1月、埼玉県会議員に初当選[3]。1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)11月まで副議長。1946年(昭和21年)日本自由党公認で第22回衆議院議員総選挙に立候補して初当選(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江崎真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・原健三郎・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。その後、1947年(昭和22年)3月に公職追放を受け失職したが、1950年(昭和25年)10月に追放を解除され、1952年(昭和27年)10月返り咲き当選を果たす[3]。保守合同後は自由民主党の大野伴睦派に属し、大野没後は川島派を経て椎名派に転じた。
1963年(昭和38年)、日本初の代議士ソングとされる「荒舩清十郎の唄」をレコード発売した[2]。
運輸大臣就任と深谷駅問題
1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤内閣第2次改造内閣の運輸相に抜擢されるが、10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅を急行停車駅[4]に指定させたため、世論の批判を受ける。
問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」[5]と発言した。9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられ、石田礼助国鉄総裁は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」[6]と答弁した[7]。さらに、この問題を皮切りに、以下のような疑惑が次々と国会で追及されることになる[8]。
- 衆議院決算委員長在任中の1961年2月、田中彰治が関与したとされる大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑に関し、田中とともに非公式に大阪に赴き、土地交換の関係者に面会していた[9][6]。
- 運輸大臣就任直後の1966年8月に各業界との懇談会を開いた際、荒舩の個人後援会「瀞白会」の役員が、業者に後援会への加入を勧誘した[10]。
- 1966年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席した際、会議に関係のない民間業者2人を随行の形で同行させた[11]。
- 後援会の会員が経営する上野駅の構内食堂の拡張を国鉄に陳情した[12]。
こうした一連の疑惑が積み重なり、荒舩は10月11日に辞表を提出した。辞任時の記者会見では「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」[13]と語っている。所属派閥の領袖であった川島正次郎自民党副総裁は、10月29日の記者会見で「荒船君〔ママ〕はやっぱり“野におけレンゲ草”だったよ」[14]と評した。
翌1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜いた[15]。
衆議院副議長就任と荒舩放言問題
1970年(昭和45年)、衆議院副議長に就任した。
1972年(昭和47年)1月8日、自らの後援会「荒舩会」が開催した新年旅行の途上、列車内において講演し、その中で、1971年の沖縄国会(第67回臨時国会)会期中の学生らによる抗議デモ[16]に言及し「社会党や共産党はじめとして、あらゆる自由民主党以外の政党は、沖縄返還反対だといって学生をおだてて火炎ビンを投げさせる」「学生に火炎ビンを投げさしたり、竹やりであばれさしたり、町中火をつけたりたのには日当五千円ずつ、一日に五千円ずつ払ってあばれさしたんだ。この金は隣の共産党の国からきている」などと発言した。またこの際、上越新幹線のルート決定について「新潟県では通産大臣をやっている田中角栄、それから群馬県では外務大臣の福田赳夫、埼玉県は荒船清十郎〔ママ〕、この三人でどこに止めるか、どういうふうに通すかという特別委員になりましてきめたわけでございます」とも発言している[17]。この録音テープを共産党が入手して1月23日付『赤旗』紙上で暴露するとともに、24日の衆議院議院運営委員会において「公党に対するいわれのないひぼう」として追及した[18]。荒舩は「テープには“といううわさがある”といった個所が消されている」[19]などと釈明したが、25日に副議長辞任に追い込まれた[20]。
ロッキード国会
1976年(昭和51年)衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切った。同年三木内閣改造内閣、翌年福田内閣改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官。また、ニセ電話事件においては弾劾裁判の裁判長も務めている。
1980年(昭和55年)11月25日死去。
著書に『ロッキード問題と51年度予算』(政財界、1976年)がある。
エピソード
決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれた。
衆議院予算委員長在任中の1976年4月に映画『戦場にかける橋』がフジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」で放映された際、イギリス軍将校役と冒頭のナレーションの日本語吹き替えに起用された。ロッキード事件での小佐野賢治の証人喚問の際に国会中継を見ていたスタッフが、起用を決めたものだという[21]。もっとも、科白合わせがうまくいかなかったため、当初の予定より出番を大幅に減らされたという[22]。
歌手の春日八郎の後援会長も務めていたことがある。
長男の荒船洋資は東映フライヤーズに1970年から1972年まで所属したプロ野球選手である。また、引退後は1979年4月から1983年3月まで埼玉県議会議員を務めていた。
公害国会を経て、混入物質の濃度を示す単位のppmが環境汚染の指標として盛んに使われていた頃、荒舩はppmを汚染物質そのものと勘違いしていた。空気のきれいな当時の北京の空港に降り立った際に「ここはppmがないなあ」と言って同行の竹下登を呆れさせている。そんな荒舩だが環境議員連盟には真っ先に参加。竹下がからかって「今後、この議連は上級・中級・初級に分けます。橋本君は上級、海部君は中級、君(荒舩)は初級だ。」というと、「それはそうだな。おれは何も分ってないんだからな。」と素直に応えたという[23]。
日韓条約に関する荒舩発言
1965年(昭和40年)6月、日韓基本条約が締結され、3億ドルの無償援助を含め8億ドル以上の援助が決定した。3億ドル(当時のレートで1080億円)は、政府予算の約1割に相当する。また他の5億ドルも低利子で返済期間が長く、事実上の無償援助と言われた。荒舩はこの半年後の1965年11月20日に、地元選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)にて、次のように発言した。
「戦争中朝鮮の人達もお前達は日本人になったのだからといって貯金をさせて1100億になったがこれが終戦でフイになってしまった。それを返してくれと言って来ていた。それから36年間統治している間に日本の役人が持って来た朝鮮の宝物を返してくれと言って来ている。徴用工に戦争中連れて来て成績がよいので兵隊にして使ったが、この人の中で57万6000人死んでいる。それから朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが何とか恩給でも出してくれと言って来た。最初これらの賠償として50億ドルと言って来たが、だんだんまけさせて今では3億ドルにまけて手を打とうと言って来た。」
このことは、後に慰安婦問題につながり、国連のマクドゥーガル報告書の日本軍の性奴隷制+虐殺の根拠とされた。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 『第廿一版 人事興信録 上』1961年(昭和36年)、あ一一七。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 小川一 1985, p. 189.
- ↑ 3.0 3.1 小川一 1985, p. 204.
- ↑ このとき停車することになったのは、上野発長野行「第3信州」、長野発上野行「第1信州」、上野 - 水上間往復「奥利根2号」の4本だった。なお、国会での荒舩の釈明によれば、深谷駅はかつて1956年3月に急行停車駅となったことがあるが、1961年2月ごろから停車しなくなったという(第52回国会参議院運輸委員会第1号、1966年9月12日)。
- ↑ 「汽笛一声選挙区に 運輸大臣、急行とめる」『毎日新聞』1966年9月4日付朝刊15面。『朝日新聞』同日付では「ひと駅ぐらい、いいじゃないか」、9月5日付『朝日新聞』の「天声人語」では「国鉄もひとつぐらいオレのいうことを聞いてくれてもいいじゃないか」。荒舩は後に国会で、「何か一つくらいおれの言うことを聞いてもいいじゃないかと(引用者注・国鉄に対して)言ったように新聞には出ておりますが、全くそういうことではございません」と発言しているが(第52回国会参議院運輸委員会第1号、1966年9月12日)、実際は「一つくらい…」は国鉄相手ではなく、記者に対する発言である。
- ↑ 6.0 6.1 第52回国会参議院運輸委員会第1号、1966年9月12日。
- ↑ この時の荒舩から国鉄に対する陳情は 1. 深谷駅からの始発列車を設ける事 2. 深谷駅に裏口を設ける事 3. 八高線の輸送力増強 4. 新駅設置 などで、これに対し国鉄は予算措置を伴わず他への影響も少ない事から急行停車を認めたとされる。
- ↑ 『朝日年鑑』1967年版, pp. 253-254.
- ↑ 第52回国会参議院法務委員会第1号、1966年9月10日。
- ↑ 第52回国会参議院決算委員会第5号、1966年9月27日。
- ↑ 第52回国会衆議院運輸委員会第4号、1966年10月11日。
- ↑ 第52回国会参議院法務委員会第3号、1966年10月11日。
- ↑ 「「悪い事をしたと思わぬ」 開き直った荒船氏〔ママ〕」『朝日新聞』1966年10月12日付朝刊15面。
- ↑ 「“野におけレンゲ草だった”荒船氏〔ママ〕更迭 川島氏、帰国して語る」『朝日新聞』1966年10月20日付朝刊1面。
- ↑ 『朝日新聞』1967年1月9日付朝刊15面。
- ↑ 荒舩がどの事件を念頭に置いていたのかは不明だが、11月14日に渋谷暴動事件、19日に日比谷暴動事件(松本楼が炎上)が起こっている。
- ↑ 「暴力学生問題で公党ひぼうの暴言 またも荒船〔ママ〕衆院副議長」『赤旗』1972年1月23日付1面。
- ↑ 「「過激派をおだてた社・共」荒船〔ママ〕発言 共産党、追及の方針」『朝日新聞』1972年1月24日付夕刊1面。
- ↑ 「新幹線問題認める 荒船氏〔ママ〕 苦しい言いのがれ」『赤旗』1972年1月25日付1面。『赤旗』紙は「発言の間合いをはじめ列車のゴトン、ゴトンという音のリズムなどからみて、なんら作為をほどこしたものでないことが明らかです」と反論している。
- ↑ 「荒船〔ママ〕副議長が辞表」『朝日新聞』1972年1月26日付朝刊1面。
- ↑ 「吹き替えに荒船〔ママ〕代議士」『朝日新聞』1976年2月29日付朝刊20面、「“声優”荒船 味なセリフ」『朝日新聞』1976年4月13日付朝刊24面。
- ↑ 小川一 1985, p. 192.
- ↑ 竹下登『政治とは何か 竹下登回顧録』 第7章2節 pp.189-190
参考文献
- 小川一編 『荒舩清十郎写真集』 両神興業、1985年5月。
- 竹下登 『政治とは何か 竹下登回顧録』 講談社、2001年1月。ISBN 4-06-210502-0。
- 日外アソシエーツ編 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 日外アソシエーツ、2003年、28頁。
関連項目
- 荒舩美栄 - 遠縁の親戚。
議会 | ||
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