馬場のぼる
馬場 のぼる | |
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本名 | 馬場 登[1][2] |
生誕 |
1927年10月18日[1][2] 青森県三戸郡三戸町[2] |
死没 |
2001年4月7日(73歳没)[1][2] 東京都練馬区[3] |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家、絵本作家 |
称号 | 紫綬褒章(1995年)[2] |
活動期間 | 1948年 - 2001年 |
ジャンル | 幼年漫画、4コマ漫画、風刺漫画 |
代表作 |
『バクさん』 『11ぴきのねこ』 他 |
受賞 |
第1回小学館漫画賞(1955年)[2] サンケイ児童出版文化賞(1964年、1968年)[2] 文藝春秋漫画賞(1973年)[2] ボローニャ国際児童図書展 エルバ賞(1985年)[2] 日本漫画家協会賞 文部大臣賞(1993年)[2] 読売国際漫画大賞 選考委員特別賞(1996年)[2] |
馬場 のぼる(ばば のぼる、1927年10月18日[1][2] - 2001年4月7日[1][2])は日本の漫画家・絵本作家。本名:馬場 登(読み同じ)[1][2]。
手塚治虫、福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス[3]」と呼ばれた。やがて大人漫画や絵本も執筆し、日本経済新聞の連載4コマ漫画『バクさん』、絵本『11ぴきのねこ』シリーズ等が代表作となった。
Contents
略歴
青森県三戸郡三戸町大字川守田字元木平に3人姉弟の末っ子[3]として生まれる。『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画に親しんだ[4]。旧制岩手県立福岡中学校4年修了[2][4]後の1944年、海軍予科練14期生として土浦海軍航空隊[2]に入隊。練習機が不足していたため、秋田県北秋田郡上大野村の同隊グライダー訓練基地に転じ、特攻隊員として出撃を待つ間に敗戦をむかえる[4]。
除隊後実家に戻り[4]、リンゴの行商人を経験するが半月で廃業。その後、開墾農民を志して兄とともに岩手県の山村に入るも、村有地の払い下げを得られず挫折[4]。大工の見習いを経て、1947年に故郷で小学校の代用教員の職を得たが、軍歴がGHQに問題視されて失職し(事実上の公職追放)[4]、農業会の書記に転職。やがて代用教員として復職が認められる。これら職を転々とするかたわら、絵の勉強を始め、劇団や映画館のポスター、看板を描いた。八戸市近くの米軍キャンプに出入りし、イベントのポスターを描く手伝いをおこなう[4]。
そのうちに漫画家を志すようになり、疎開中の児童文学者白木茂と知り合い、白木から大阪の出版社を紹介され、1948年秋、初の赤本漫画『怪盗カッポレ団』を出版する[3][4]。1949年5月5日、白木の勧めで共に上京。すぐに『小学一年生』(小学館)でイラストの仕事を得る[4]。1950年から『おもしろブック』(集英社)で連載開始した野球漫画『ポストくん』で、児童漫画家としての人気を獲得する。1951年に、『冒険ダン吉』の作者・島田啓三を中心とした「東京児童漫画会(児漫長屋)」が結成され、福井、手塚とともに入会する[3][5]。
その後、少年漫画が「活劇ものが主体となり」「私の体質に合わなくなった」[4]として、1959年1月[6]、松下井知夫の紹介[4]で大人漫画の作者を中心にしたグループ「漫画集団」に入団。「それもどうもしっくりこない[4]」と感じ、「漫画と本質的に同じであるうえに絵をたっぷり見せることができる[4]」と本人が語る絵本の世界に飛び込んでいった。1974年秋、同様のキャリアを経たやなせたかし、長新太ら10人の漫画家とともに、「漫画家の絵本の会」を結成し、定期的に原画の展覧会を開催した。
2001年、胃癌により東京都練馬区の自宅で死去[3]。73歳没。2007年、郷里の三戸町に馬場を顕彰する「ほのぼの館」が開館した[3]。
受賞・叙勲歴
- 1955年 第1回小学館漫画賞(『ブウタン』)
- 1964年 産経児童出版文化賞(『きつね森の山男』)
- 1968年 産経児童出版文化賞(『11ぴきのねこ』)
- 1973年 第19回文藝春秋漫画賞(『バクさん』『11ぴきのねことあほうどり』)
- 1985年 ボローニャ国際児童図書展 エルバ賞(『11ぴきのねこマラソン大会』)
- 1993年 第22回日本漫画家協会賞 文部大臣賞
- 1995年 紫綬褒章
- 1996年 読売国際漫画大賞 選考委員特別賞
上記の他にも受賞多数。
主な作品
- 漫画
- ポストくん(おもしろブック 1950年11月号 - 1954年10月号)
- 山から来た河童(少年少女冒険王 1951年10月号 - 1954年3月号)
- ブウタン(幼年ブック 1954年1月号 - 1957年8月号)
- のらねこノンちゃん(婦人生活 1957年1月号 - 不明)
- れんさいおさむらい(熊本日日新聞夕刊 1965年)
- ろくさん天国(中日新聞朝刊・北海道新聞朝刊・西日本新聞朝刊 1969年)
- バクさん(日本経済新聞夕刊 1970-1983年)[2]
- 土曜漫評(読売新聞)
- 絵本
- キャラクターデザイン
- ぐんまちゃん(初代)
人物
放送タレントやテレビドラマの俳優としても活動した[3]。口ひげ[7]と、目深にかぶったチューリップハットがトレードマークで、自画像でもそれを描き、後年まで欠かさなかった。
手塚治虫との親交
馬場は手塚治虫と非常に深い親交を結び、手塚の死まで40年におよんだ[8]。手塚の葬儀で、馬場は加藤芳郎と共に弔辞を読んだ[3]。
馬場が「ポストくん」で人気作家になっていた頃、少年画報社の前身である明々社の社屋で手塚治虫と一緒にカンヅメにされていた時に馬場は編集者と揉め、「馬場が連載をおりる」というところまで発展した。事情を判断した手塚は、編集者が帰った後に「気持ちはわかるが、作品はやめないで続けろ」と馬場を説得。その後、手塚は戻ってきた編集者に対しても「ポストくん」の連載を続けるように説得したという[9]。
手塚が福井英一に飲み会の席で「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」「この贅六め!」と言われ、後日手塚が福井の作品である「イガグリくん」の中傷ともとれる内容を描き福井と喧嘩になった際には、馬場が二人の仲裁に入って和解に持ち込んだ(福井英一の項目を参照)。
手塚は馬場と知り合った初期から自分の漫画に、馬場と同じ名前と風貌を持った人物を何度も登場させている。代表的なものとしては、『W3』の馬場先生がある[10]。このほか『フィルムは生きている』の宍戸梅軒(漫画家)や鉄腕アトムの通行人など。多くは乞食役での登場だったが、馬場が手塚に対し「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことにより重要な登場人物に昇格したという。手塚は『11ぴきのねこ』も『七色いんこ』に登場させている。
テレビドラマ出演
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 馬場のぼる コトバンク - 典拠は『デジタル大辞泉』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 馬場 のぼる コトバンク - 典拠は『20世紀日本人名事典』
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 平成22年度 調査員報告 馬場のぼる 青森県近代文学館
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』 毎日新聞社、1990年 pp.104-105、pp.110-114
- ↑ 年譜 1950代手塚治虫公式サイト
- ↑ 漫画集団(編)『漫画集団漫画集』 グラフィック社、1970年 p.29
- ↑ 『別冊一億人の昭和史 昭和新聞漫画史』 毎日新聞社、1981年 p.200 肖像写真と冨田英三の評論。
- ↑ 手塚治虫の大親友 馬場のぼるのせかい展 手塚治虫公式サイト
- ↑ 福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)
- ↑ キャラクター名鑑 馬場のぼる 手塚治虫公式サイト
関連項目
外部リンク
- ほのぼの館 三戸町スポーツ文化福祉複合施設