万石浦
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万石浦 | |
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所在地 |
日本 宮城県石巻市、牡鹿郡女川町 |
位置 |
北緯38度25分33秒 東経141度23分40秒 |
面積 | 7.30[1] km2 |
周囲長 | 16 km |
最大水深 | 5.3 m |
貯水量 | -- km3 |
水面の標高 | 0 m |
成因 | 海跡湖 |
淡水・汽水 | 汽水 |
湖沼型 | 富栄養湖 |
透明度 | 5.2 m |
万石浦(まんごくうら)は、宮城県の石巻市及び牡鹿郡女川町にまたがる[1]海跡湖である。
概要
牡鹿半島の付け根付近、石巻市及び牡鹿郡女川町にまたがっており、南側が海につながっている。名前は仙台藩の第二代藩主伊達忠宗が「ここを干拓すれば一万石の米が取れるだろう」と言ったことに由来するとされる[2]。江戸時代には塩田があり、1960年頃まで製塩が行なわれていた[2]。
万石浦は古くは水上交通路でもあり、大正時代には浦宿と渡波を結ぶ定期航路があった。これは、浦宿に住む個人が2隻の発動機船で始めたもので、渡波で馬車鉄道の牡鹿軌道と乗り継ぐことで、石巻方面との交通路になっていた。普段は1隻で1日当たり100人ほどを運んでいたという。1919年(大正8年)に女川湾で日本がドイツから戦利艦として獲得した潜水艦3隻が一般に公開された。この時、多くの見物客の利用によって定期船は1日で600円の収入を得るほどだった。しかし、牡鹿軌道を引き継いだ金華山軌道が路線を女川まで延伸すると、この万石浦の定期航路はなくなった[3]。
現在では潮干狩りの名所であるほか、海苔やカキの養殖が盛んである[2]。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による津波の影響は内海である万石浦でも養殖棚の多くが津波で流されたり、地盤沈下でカキ処理場が使用不能となるなど大きな被害を与えた[4]。
脚注
参考文献
- 女川町誌編纂委員会 『女川町誌』 女川町、1960年。