道上洋三
道上 洋三(どうじょう ようぞう、1943年3月10日 - )は、朝日放送テレビ[1](ABC)常勤顧問・エグゼクティブアナウンサー。
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来歴・人物
山口県熊毛郡平生町の出身。2014年7月にワニブックスから刊行された自著『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』にて、実際には1942年7月に出生していたこと[2] を明かしている。
出生の時点で実父が太平洋戦争に出征していた[2] ことなどから、5歳までは広島県甲奴郡上下町の母方の祖父母宅で育った[3]。ちなみに実母は、祖父の勧めで1947年に再婚すると、再婚相手との間で道上の弟に当たる一卵性双生児を出産。道上も一時再婚相手と同居していたが、道上や弟に対する冷遇振りに業を煮やした祖父が、道上・実母・双子の弟を実家(母方の祖父母宅)に連れ戻したという。結局実母は、道上が6歳の時に双子の弟を養子に出したうえで、道上が18歳になるまで平生町で道上と生活を共にした[4]。
山口県立熊毛南高等学校を経て、日本大学法学部へ進学。俳優の原田大二郎は、中学校・高校の2年後輩に当たる。中学校時代に軟式テニス部で活動した後に、高校時代に一時期野球部に所属したが、「弱すぎる」という理由で退部した。陸上部に転籍してからは、110メートル走やハードルで県大会の2位を記録[5]。「山口に道上あり」と言われるほどの好成績を収めた末に、日本大学への推薦入学を果たした[6]。
日本大学では、陸上競技のハードルで1964年の東京オリンピックを目指していた。しかし、1年生の夏季休暇中の練習で、腰を痛めたことを機に陸上競技部を退部[6]。「選手としてはオリンピックに参加できなかったけど、報道する人間として参加できないものか」との思いから、2年生の時に「オール日大放送研究会」へ入る[6]とともに、スポーツアナウンサーを志すようになった[7]。3年生の時に「オール日大放送研究会」の部長に就任すると、後に日本教育テレビ → テレビ朝日のアナウンサーになる1年先輩・北村元からの依頼で、吹奏楽研究会のコンサートの司会も務めた[6]。
朝日放送入社後
1965年に、アナウンサーとして朝日放送(ABC、旧法人)に入社した。同期入社のアナウンサーに、因田宏紀や辻豊人などがいる。
入社してすぐに、先輩の今井音也(後の桂音也)が作った落語研究会へ強引に入会させられた。新人アナウンサーとして共通語の講義を受ける一方で、落語研究会の一員として桂枝雀に上方落語の稽古もつけてもらっていた。その影響で話し方が混乱したため、共通語の講師にも枝雀にも「訛がとれていない」と指摘された。ちなみに、落語研究会の発表会では「煮売り屋」を演じた。
入社2年目の1966年には、自身の希望でビートルズの初来日公演(日本武道館)の模様を取材した。道上は、「日本のディスクジョッキーで、東京公演を実際に武道館で鑑賞したのは自分だけ」と語っている[8]。
ラジオ番組での活動
1966年4月1日から1974年3月まで、ABCラジオの深夜番組『ABCヤングリクエスト(ヤンリク)』で初代のパーソナリティを務めた。1974年4月から1年間は、当時のABCテレビのキー局であったTBSへ出向。ネットチェンジによってABCのキー局がTBSからNETテレビ(現在のテレビ朝日)に変更された1975年4月からABCに復帰すると、『明日は日曜 道上です』のパーソナリティに起用されたことを皮切りに、『歌謡曲ぶっつけ本番』などへ出演した。1977年3月からは、『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組『おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)』でパーソナリティを担当(後述)。2017年3月28日(火曜日)放送分で、担当期間が40年に達した。
また、2009年10月から2011年10月1日までは、土曜深夜(日曜未明)の『Club JONR』で久しぶりに深夜放送へ出演。『ヤンリク』のパーソナリティを経験した(元)アナウンサーの1人として、ナビゲーターやをパーソナリティを担当していた。2011年11月8日放送の特別番組『パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です』では、ABCラジオの番組初出演の角淳一(毎日放送出身のフリーアナウンサー)と共演している。
2014年10月からは、『おはパソ』に加えて、『道上洋三の健康道場』(『おはパソ』の同名コーナーから派生したABC制作・JRN10局ネット番組)のパーソナリティも務める。
スポーツアナウンサー時代
『ヤンリク』でパーソナリティを務めていた時期には、スポーツアナウンサーとして、ABCラジオのプロ野球・全国高等学校野球選手権中継で実況したこともある。プロ野球中継では、大阪スタヂアム(南海ホークス)や藤井寺球場(近鉄バファローズ)などで開催のパシフィック・リーグ公式戦での裏送り向け実況[9] を主に担当した。
テレビ番組での活動
『ヤンリク』での人気を受けて、『ヤング720』(当時ABCが属していたTBS系列・平日早朝の全国ネット生放送番組)土曜日の司会に抜擢[10]。1971年3月に『ヤング720』が終了する際には、後継番組『モーニングジャンボ』への出演を打診されたが固辞[11]。しかし、1974年4月から1年間、ABCからTBSへの出向扱いで『モーニングジャンボ奥さま8時半です』に出演した。道上によれば、TBSの番組では、ミクロネシアとポーランドでの長期取材も経験。東京のプロダクションから、フリーアナウンサーへの転身を打診されたこともあったという[12]。
ABCへの復帰後に『おはパソ』を始めてからは、『歴史街道』などでナレーションを担当。1980年代に放送された『それゆけ!タイガース』や、阪神のセントラル・リーグ優勝記念特別番組などにも登場した。ただし、『おはパソ』が月~金曜日の生放送であることなどから、スタジオレギュラーとして番組に出演する機会は少ない。
取締役就任後
2003年には、アナウンサーとしての活動を続けながら、朝日放送の取締役に就任。同局の現役アナウンサーが取締役を兼任した事例は、この時の道上が初めてである[13] しかし、「アナウンサー業務と取締役との兼業が成り立たなくなった」ことを理由に、2007年6月27日付で取締役を退任。常勤顧問およびエクゼクティブ・アナウンサーに就任した。
朝日放送主催のイベントをはじめ、関西各地で開かれるシンポジウムやコンサートには、司会・パネリスト・ゲストとして頻繁に登場している。2011年には、自身初の著書として、朝日新聞出版から『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』を刊行。2014年には、前述の著書『ふたつめの誕生日 ~おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」~』が発売された。
「おはようパーソナリティ道上洋三です」
『おはパソ』では、プロ野球シーズン中の生放送において、前日に阪神タイガースが勝利を収めると阪神タイガースの歌(いわゆる「六甲おろし」)をフルコーラスで歌うことで有名。また、番組の企画でホノルルマラソンの完走(後述)や水泳の長距離完泳を果たしたほか、和太鼓やマスターズ陸上の予選会(短距離走)などにも挑戦した。
道上が披露する「六甲おろし」には、メロディーの一部(「輝く 我が名ぞ 阪神タイガース」の太字部分)を誤って歌っていたことがあったが、その点についてキダ・タローは、「『どこが違うんですか?』と聞いて来た上で、何度も聴いて直してくれた。あなた(道上)が日本で一番正しい『六甲おろし』を歌っている」と語っている。[14]。
当番組を聴いたことがきっかけで、道上を目標に放送業界を志した人物(アナウンサーやラジオパーソナリティなど)が(関西地区を中心に)少なからずいる[15]。
1984年には、当時のアシスタント・唐川満知子とのデュエットによるオリジナルの楽曲「さそわれて大阪」を3月10日にリリース。4万枚の売上を記録するほどのヒットによって、同年の全日本有線放送大賞新人賞を受賞した。当時は『11PM』(読売テレビ制作日)の中で大賞の発表と表彰式を実施していたため、道上は唐川と共に同番組への出演を果たしている。
2006年、右目奥に脳腫瘍が見付かったことを公表。視覚・嗅覚の神経を塞いで生活に支障を来すほどになっていたため、番組を休んで腫瘍の摘出手術を受けることを決めた。同年8月3日に手術がおこなわれ、同25日に退院。術後の回復も順調であったため、9月25日の放送から番組に復帰した[16]。
道上が『おはパソ』を担当するようになったきっかけは、前任者の中村が第11回参議院議員通常選挙への出馬を表明したことによる[17]。当時30代半ばだった道上は、「中村さんの番組は完成され尽くしている。私ごときが後任とはおこがましい」として出演を固辞していた。しかし、後任を打診していた筑紫哲也などとの交渉が不調に終わったという局内事情[18]を背景に、「お前以外に考えられない」という強い要請で『おはパソ』を引き継ぐことになった。そのため、担当開始から3年間は、常に「辞めたい」「しんどい」「もうええわ」という思いを抱きながら放送していたという[19]。しかし、レギュラーゲストである高石ともやの勧めで、1981年12月に130名のリスナーとホノルルマラソンへ出場。フルマラソン初挑戦ながら、6時間39分49秒で完走した。この完走を境に、「自分のカラーで番組を続けていけるのではないか」との勇気を持てるようになった道上は、現在でもホノルルマラソンを「『おはパソ』の原点」と称している[20]。
2015年には、『おはパソ』へ折に触れて出演しているジャーナリストの今井一が、3ヶ月半にわたって道上への密着取材や周辺取材を敢行。その成果が、『AERA』2016年2月15日号の「現代の肖像」に掲載された。ページの表紙には、2015年11月15日に万博記念公園で開かれた「開局65周年記念 ABCラジオまつり2015」で、吉田詩織(当時の『おはパソ』アシスタント)と共に山口県の特産物販売ブースに立った際の写真が用いられている[21]。
なお、『おはパソ』が放送40周年を迎えた2017年に、中村は肺炎のため87歳で逝去。道上は、中村の逝去から2日後(11月8日)の放送で訃報を伝えた際に、「(担当開始から)40年かかっても、『大先輩(の中村)に追い付き、追い越せた』と思えた日は1日もありません」とのコメントを添えた[22]。
その一方で、2006年に受けた髄膜腫の手術で4~5%程度の髄膜腫が残っていることが、2018年の経過診察で判明。主治医と相談した結果、例年全国高等学校野球選手権本大会の期間中(8月上旬 - 中旬)に取得している2週間の夏季休暇を延長したうえで、髄膜腫の放射線治療を受けることを2018年6月18日(月曜日)の放送中に発表した。このため、同年7月9日(月曜日)から8月31日(金曜日)までの予定で、当番組を再び休演[23]。休演期間中は、後輩アナウンサーの堀江政生がパーソナリティ代理を務める。
阪神・淡路大震災からの決意
1995年3月を目途に、ラジオパーソナリティからの引退を検討。阪神・淡路大震災(同年1月17日)の発生直後には、『おはパソ』で被災地からの情報を伝えた。しかし、それから被災地の取材・被災者とのやり取りを重ねるにつれて、ラジオパーソナリティとしての無力さを痛感したという[16]。
道上の転機になったのは、ABCテレビのクルーが淡路島内にあった北淡町(現在の兵庫県淡路市)の町民会館を取材した際のリスナーのエピソードを、取材を担当した後輩アナウンサー・岡元昇から伝えられたことにある。岡元などによる取材では、震災による自宅の倒壊で生き埋めになった80歳前後の老婆が、ラジオから流れ続ける音声をきっかけに間一髪で救出されたことが判明。島内に身寄りのいない彼女は、取材クルーに対して「遠くの親戚より近くのラジオ」という言葉を残した。このエピソードを岡元から聞いた道上は、喜びのあまり、その言葉を半紙に書いてスタジオに貼った[16]。後年の回想によれば、このような体験から、「声が出なくなるまで」ラジオパーソナリティを続けることを決意したという[16]。
ちなみに、髄膜腫の放射線治療による約2ヶ月間の休演を発表した2018年6月18日には、放送中の7:58に大阪府北部地震が発生。大阪府北部の一部地域で震度6弱(発生時点の地震観測体制下での府内最大震度)、朝日放送本社のある大阪市福島区で震度5弱を観測したことから、発生の直後からリスナーのメッセージを交えながら地震発生関連の情報を本番の終了(8:59)まで伝え続けた。
人物・エピソード
長年兵庫県伊丹市に在住。『おはパソ』の出演で朝日放送に出社する前には、自宅近くの昆陽池公園を散歩することが、長年の習慣になっていた。同番組のオープニングなどで散歩の模様をよく話していたこともあって、2008年には、伊丹市役所から伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けている[24]。
阪神タイガースファン
阪神タイガースの熱烈なファンとして有名。藤村富美男の予告ホームランを見たことをきっかけに、ファンになったという[25]。小学生時代は、クラスメイトが数人しかいなかったもかかわらず、藤村の出席番号「10」を希望したほどである。藤村の引退後は、村山実のファンであった。陸上競技に没頭していた高校時代は一時期、阪神ファンとしての関心はややなくなっていたが、陸上競技を怪我で断念した大学時代に、阪神ファンとしての情熱が甦ったという。
同球団の本拠地・阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では、2010年3月の開館時から、ファン代表の立場で顧問を務めている。また、朝日放送のアナウンサー・解説者・番組出演者や著名人で結成した応援団「チーム 虎バン主義。」の顧問でもある。
家族・交友関係
朝日放送への入社2年目(23歳)で高校時代の同級生と結婚した[26]が、25歳の時に離婚。29歳の時に、『ABCヤングリクエスト』のアシスタントだった3歳年下の熊谷暸子と再婚した[27]。元劇団スーパー・エキセントリック・シアターの俳優道上拓冬は、再婚後に授かった一人息子(長男)。
道上自身は、『おはパソ』で家族の話題を出すたびに、熊谷のことを「家人(かじん)」と呼んでいる。熊谷も現役のフリーアナウンサーとして活動しているため、自宅のあらゆる部屋に置いたラジオで『おはパソ』を聴いた熊谷から、アドバイスや厳しい指摘を受けることもある。理由は不明だが、熊谷からも、本人の署名・捺印済みの離婚届を4回にわたって突き付けられたという[26]。
原田大二郎(前述)とは、中学校・高校の在学当時から交流がある。今でも、折に触れて『おはパソ』のゲストに迎えるほど親しい。また、高石ともやとは、長年にわたって交流を続けている。
- 2016年7月7日に逝去した永六輔との親交も深く、永が生前サプライズゲストとして『おはパソ』に出演したり、永が長らくパーソナリティを務めていたTBSラジオの『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』に道上を招いたりすることが何度もあった。前述のようにTBSへ出向した時期や、『おはパソ』の公開生放送を東京で行ったことや、同局制作・全国ネットのテレビ番組へレギュラーで出演した時期もあったため、関東地区でも一定の知名度がある。TBSラジオでは、他にも、2014年10月26日に放送された『爆笑問題の日曜サンデー』の「ローカルスター乗り継ぎバスの旅♪」に電話で出演。同月からは、『道上洋三の健康道場』を、ABCから1日遅れで放送している。TBSラジオ以外では、2005年に、KBCラジオ「中村もときの通勤ラジオ(おはパソとのコラボ)プロ野球セ・パ交流戦タイガース対ホークス応援合戦が行われた」、CBCラジオ「ザ・ドリームマッチ(CBCラジオパーソナリティの多田しげおとの対談)」などがある。
- 高石は、レギュラーゲストのような扱いで『おはパソ』に出演。数多くのマラソン大会に参加してきた経験から、道上にホノルルマラソンへの挑戦を勧めた(前述)。2007年に同番組で放送30周年記念のCDを制作した際には、自作の曲「もう一歩」を提供したほか、30周年記念公開生放送(同年3月21日)「1万人の六甲おろし」にもゲストで参加している。
- 道上が夏期休暇に入っていた2012年8月の第3週には、原田が5日間にわたって『おはパソ』のパーソナリティを代演した。原田がラジオのパーソナリティを務めたのは、この時が初めてである。
その他
- 山口県内で過ごした少年時代には、「遊食屋むさしの」(同県柳井市)の肉うどんを愛好していた。『おはパソ』が放送35周年を迎えた2012年には、その味をキンレイの製麺・製造技術によって再現した「道上洋三 こだわりの肉うどん」を、サークルKサンクスが地域・期間限定商品として12月に発売した。ただし、地元の山口県は販売エリアから外れていた。
- 熊毛南高校時代に、友人の男子生徒と交際していた女性をめぐる他校生との乱闘へ加わった末に、停学処分を受けたことがある。その一方で、祝島出身の男子生徒を卒業するまで実家に住まわせていた[5]ほか、女子生徒による校内の人気投票で1位を獲得した。道上と一緒に停学処分を受けた後に、「勉強が苦手」という理由で道上の実家へ1週間居候していた当時の同級生は、今井の取材に対して「道上は情に厚くて友だち思い」と証言している[26]。
- 一方で、そのような性格となった背景には、幼少から看護婦をしていた母親と二人暮らしの時期が長かったうえに夜勤等の長時間勤務で母親が家に不在がちで一人で過ごす時間が長かったことも影響しているとみられる。道上は「自分で夕飯の用意をして、近所の友達を『うちでメシ食わへんか』と誘ったりした」「瀬戸内海の夕焼けは穏やかで美しいが、自分には幼少の頃の寂しい思い出が強すぎて今もダメ」と語っている。
- 『おはパソ』を現在の朝日放送本社社屋(ほたるまち)から放送するようになった2008年6月以降は、本番前に自宅から自家用車で地下1階の駐車場へ移動した後に、ラジオスタジオのある13階まで続く階段を徒歩で移動。同番組の本番でも、折に触れてそのことを話している[28]。
担当番組
現在
- テレビ
- 歴史街道~ロマンへの扉(一部のテレビ朝日系列局とスカイ・Aでも放送)
- ミニ番組としてレギュラーで放送された時期にナレーション、年2回放送の30分番組へ移行してからは、「ABCパーソナリティ」という肩書でナビゲーターを担当。
- ラジオ
- おはようパーソナリティ道上洋三です(パーソナリティ、1977年3月~)
- 道上洋三の健康道場(ABC制作・JRN10局ネット番組、2014年10月~)
- 「健康道場の師範」という肩書でパーソナリティを担当。テレビ・ラジオを通じて、道上の冠番組では初めて、ABC以外の放送局でもレギュラーで放送。
過去
ラジオ
- ABCヤングリクエスト(初代パーソナリティ、1966年4月 - 1974年3月)
- 空からコンニチワ
- ABCディスカバー・サタデー〜フレンドリー大丸〜(1972年、土曜14:00 - 17:00)
- 明日は日曜道上です(TBSからの復帰後初のレギュラー番組、土曜7:15 - 11:00)
- 歌謡曲ぶっつけ本番
- ポップ対歌謡曲金曜日(番組後期に歌謡曲チームでレギュラー出演)
- ラジオドラマ 昔むかしのあるところ(2007年4月 - )
- Club JONR(ナビゲーター、2009年10月 - 2011年9月)
- 放送週によってはパーソナリティーも担当
- パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です(2011年11月8日、前述)
- 角淳一に加えて、放送時点での『おはパソ』アシスタント・久野愛とも共演。
- よなよな…火曜日(2017年6月6日)
- パーソナリティの鈴木淳史が『関西ウォーカー』のスタッフライターでもあることや、『おはパソ』放送開始40周年を記念したコラム「おはパソWalker」を2017年4月から同誌に連載していることから、鈴木の依頼を受けて冒頭の1時間(22時台)にゲスト出演。
- 伊藤史隆のラジオノオト(2017年12月8日)
- パーソナリティである伊藤史隆(朝日放送アナウンサー)の新人研修(1985年)を道上が担当した縁で、「おはようパーソナリティ道上洋三です 40周年記念ベストアルバム ~きょうは記念日~」の発売を機に、アーティストゲスト扱いで「ようこそ、ラジオノオトへ。」(19時台)に出演。
テレビ
- 以上TBSとネットを組んでいた時代に出演。
- それゆけ!タイガース(深夜に放送された阪神戦のビデオナイター)
- 晴れ時々たかじん(月曜日にレギュラー出演)
- ス・テ・キの扉(2007年10月 - 2008年9月)
- 初恋net.com〜忘れられない恋のうた〜(ABCテレビ制作の土曜ナイトドラマ)
- 「episode.3 陽に向かう 後編」(2007年12月22日放送)に時計店の店主役でテレビドラマ初出演
- 週末の探検家〜夢羅針盤〜(2代目ナレーション、土曜9:55 - 10:25)
- ビーバップ!ハイヒール(前述、2011年10月6日放送)
映画
- ミスター・ルーキー(2002年公開)
- 観客として登場し、八木裕に「八木男になれ〜」とコール。
CM
- ABCハウジング(2013年10月 - 2015年頃、テレビ・ラジオ双方で放送)
- 起用当初は、自身の病気療養中に『おはようパーソナリティ道上洋三です』のパーソナリティ代理を務めた後輩アナウンサーの三代澤康司と共演していた。
著書
- 『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』(2011年4月20日初版刊行、朝日新聞出版、ISBN 978-4-02-250856-0)
- 自身初の著書にして、同番組の放送開始34年目で初めて出された番組本。リスナーからの手紙やゲストの話などから選んだ珠玉のエピソードを収めている。
- 『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』(2014年7月10日初版刊行、ワニブックス、ISBN 978-4-8470-9256-5)
- 放送で語られなかった番組制作のエピソードや、71歳の人生を振り返るエッセイなどで構成。自身の出生や家族にまつわる実話を、初めて公表している。関西地区では、2014年7月5日から先行発売を実施したところ、大型書店の売上ランキングで軒並み上位を記録した[2]。
- 『おはようパーソナリティ道上洋三の山あり谷ありダイアリー』(2016年7月22日初版刊行、エー・ビー・シーメディアコム、ISBN 978-4-9088-6500-8)
ディスコグラフィー
- シングル
- さそわれて大阪/届かぬララバイ(1984年3月10日、テイチクレコード、RE-581)
- 阪神タイガースかぞえ唄/六甲おろし(阪神タイガースの歌)(1985年9月7日、CBSソニー、07SH1685/10KH1740)
- トラトラ阪神応援歌/トラトラ阪神応援歌(アドリブ編)(1986年、CBSソニー、07SH1752)
- 阪神タイガースかぞえ唄〜平成ヴァージョン/燃えてゆけ!タイガース(1992年8月8日、ソニー・ミュージックエンタテインメント、SRSL-3362/SRDL-3527)
- ここへおいでよ/おめでとうのうた(1994年5月31日[32]、日本クラウン、CRDP-99)[33]
- 「道上洋三&まつぼっくりならまち少年少女合唱団」名義。
- 英美ちゃんのレッツ・ゴー!九九(1999年7月14日、ワーナーミュージックジャパン、WPD7-10013)
- 六甲おろし(オーケストラバージョン)(2000年3月18日、日本コロムビア、CODA-1844)
- もう一歩(歌:高石ともや)/明日へ(2002年3月、ABCラジオ、ABCR-4343)[35]
- 優勝バンザイ!!六甲おろし〜実録9.15ドキュメント付(2003年、ABCラジオ、ABC-030915。非売品)[36]
- 2005年セントラルリーグ優勝記念 阪神タイガースかぞえ唄/六甲おろし(2005年、ABCラジオ、ABC-50929。非売品)[36]
- 秋吉英美とデュエット。中邨雄二の実況付き。
- 朝ごはんのうた(2011年、非売品)[36]
- あなたへの朝(2011年、非売品)[36]
- あなたへの九九(2016年3月13日、エー・ビー・シーメディアコム、AMCD-9981)[37]
- アルバム
- おはようパーソナリティ道上洋三です20周年記念アルバム(1997年)[36]
- 新しい朝〜おはようパーソナリティ道上洋三です30周年記念アルバム(2007年9月26日、アップフロントワークス、PKCP-2029)
- おはようパーソナリティ道上洋三です35周年記念〜あなたへの朝〜(2012年7月4日、日本クラウン、CRCN-20373)
脚注
- ↑ 2018年4月1日に旧・朝日放送(朝日放送グループホールディングス)の認定放送持株会社化に伴い、アナウンサーは全員、朝日放送テレビ所属となった。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 “誕生日が2つ? 道上洋三アナのルーツを綴った本が話題に/大阪”. Yahoo!ニュース(THE PAGE配信記事). (2014年7月22日)
- ↑ 『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』:pp.147 - 151
- ↑ 『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』pp.16 - 23「おふくろの『なんで?』」
- ↑ 5.0 5.1 『AERA』2016年2月15日号「現代の肖像」p.59
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』pp.36 - 41「吹奏楽の『なんで?』」
- ↑ 軍司貞則『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』(扶桑社刊、1998年5月初版発売)に所収のインタビューより。就職活動では、朝日放送への入社が内定するまでに、新聞社や放送局を6社受験したという。
- ↑ 『ビーバップ!ハイヒール』(2011年10月6日放送分)ラジオじゃできない『ラジオのないしょ話』
- ↑ ラジオでは流れない放送素材用の実況。または、放送予定試合の雨天中止時に中継する予備カードでの実況。またはRKBラジオ・KBCラジオ向けの在阪球団対西鉄ライオンズのビジターゲームの実況裏送り。
- ↑ ABCでは当時、TBS系列の準キー局として、同番組の土曜日のみ制作を担当していた。
- ↑ その結果、当時の先輩アナウンサーで、上司でもあった玉井孝がTBSへ出向。1975年のネットチェンジ直前まで、鈴木治彦とともに『モーニングジャンボ』の司会を務めた。
- ↑ 『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』pp.64 - 67「『おはパソ』前夜の『なんで?』」
- ↑ 道上以外にANN・テレビ朝日系列の放送局でアナウンサー出身(兼任も含む)で取締役となった人物に、テレビ朝日の元アナウンサー・堀越むつ子がいる。
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』(ワニブックス、2012年6月 51ページ キダ・タローメッセージ)
- ↑ 朝日放送のライバル局に当たる毎日放送(MBS)の上泉雄一アナウンサーや、MBSラジオで平日早朝に『子守康範 朝からてんコモリ!』のパーソナリティを務める子守康範(元・同局アナウンサー)などは、出演番組でそのことを公言している。上泉については、「アナウンサーになってよかった」MBS毎日放送、上泉雄一アナの生き方(『THE PAGE』2014年10月17日付動画記事)も参照。
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 ◎おおさかの街67号 インタビュー ABC朝日放送ラジオパーソナリティー 道上洋三
- ↑ 中村は、出馬表明を機にABCを退社。新自由クラブの公認を受けて大阪選挙区から立候補したが落選した。
- ↑ 前述「現代の肖像」p.58
- ↑ 前述『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』に所収のインタビューより。特に、日曜日の夜には、出社拒否を考えるほどのうつ状態に陥っていたとされる。
- ↑ 前述『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』でのインタビューより。『おはパソ』で「道上洋三はホノルルマラソンを何時間何分で走れるか」という予想クイズを出したところ、リスナーから1万5000通以上の応募があったという。ちなみに、道上が同マラソンを完走した瞬間の放送は、『おはパソ』初の海外中継でもあった。
- ↑ AERA浜田編集長をお迎えして(『おはパソ』公式サイト「スタッフ日記」2016年2月8日号記事)
- ↑ 中村鋭一さん虎党に愛され…甲子園暴動もABC放送席だけ無被害(『デイリースポーツ』2017年11月8日付記事)
- ↑ ABCラジオ道上洋三アナ、髄膜腫治療のため休養へ(『日刊スポーツ』2018年6月18日付記事)
- ↑ 伊丹市ウェブサイト「伊丹大使について」
- ↑ “【家族を語る】道上洋三さん(2)遊び友達と実況 「4番藤村、大きいぞ、ホームランだ!!」”. 産経新聞. (2012年8月12日)
- ↑ 26.0 26.1 26.2 前述「現代の肖像」p.60
- ↑ 『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』pp.26 - 32「『ふたりの親父』の『なんで?』」
- ↑ 前述「現代の肖像」p.57
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』75頁。
- ↑ 30.0 30.1 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』41頁。
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』73頁。
- ↑ この発売日は『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』の記述に基づく。オリコンのサイトでは1994年11月21日発売となっている。
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』34頁。
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』32頁。
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』16頁。
- ↑ 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』90頁。
- ↑ 音源制作|株式会社エー・ビー・シー メディア コム|AMC(2016/11/30閲覧)
- ↑ 『おはようパーソナリティ道上洋三です 35周年記念本「ハイ!どうじょ」』13頁。