植民地主義
植民地主義(しょくみんちしゅぎ)とは、国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。
政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる。さらに、植民地主義を正当化するのは、植民者が被植民者より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、被植民者にとって利益になるのだという考え方である。
Contents
歴史
新大陸への植民
いわゆる植民地主義的な国境外の遠隔地への植民地の拡大は、大航海時代のスペイン・ポルトガル両国の植民・征服活動をもって嚆矢とし、のちにヨーロッパ諸国や列強各国によって世界中で行われた。1492年にクリストファー・コロンブスが新大陸に到達すると、スペインは即座に到達した地域の植民地化を進めていった。これに対し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰回りでインドへと到達したポルトガルも、航路周辺の都市を次々と攻略して植民地化していった。すでに1494年にはトルデシリャス条約が結ばれており、現代で言う西経46度37分の線を境界として西がスペイン、東がポルトガルの領域とされたため、両国はこれに従い東西を次々と植民地化していった。ただしこの線は新大陸とアフリカとの領域の確定という意味で設定されたものであったが、新大陸で最も東に張り出しているブラジル東部はこの線の東側に位置することになったため、ポルトガルはこの地域に植民を行い、南アメリカ大陸で唯一ブラジルだけはポルトガルの植民地となった。スペインとポルトガルの植民地政策は大きく異なっていた。植民地域にそれほど強力な敵国の存在しなかったスペインは、アステカ帝国やインカ帝国といった先住民の大帝国を滅ぼし、先住民からの過酷な収奪を行った。一方でこうした植民地への本国からの植民も行われ、植民地は徐々にスペイン化していった。これに対し、本国の人口が少なく植民地域にも火砲と騎兵に富んだ強力な軍備で武装し、政治的にも成熟したアジア・アフリカの内陸王朝国家という対抗勢力の多く存在したポルトガルは、あたかも古代の植民都市のごとく沿岸の都市を占領し、城塞を築いて点と線を確保する戦略をとった。こうしたことからポルトガル植民地は面としての広がりを持たず、内陸勢力やオマーンなどの対抗勢力が登場すると拠点を次々と占領され、アンゴラやモザンビーク、マカオやゴアを除くほとんどの植民地を喪失することとなった。ただしブラジルは例外で、ここではスペインと同じく徐々に入植型の戦略をとるようになっていった。
トルデシリャス条約で新世界から締め出されていたほかのヨーロッパ諸国も、17世紀に入ると続々と新大陸への植民を行うようになっていった。この際対象となったのが、スペインによる植民が行われていなかった北アメリカ大陸東部と、スペインの植民地統治が大陸に重点を移すにしたがって半ば放棄されるようになったカリブ海の諸島群である。北アメリカ大陸においてはフランスがセントローレンス川河口のケベックを中心としてヌーベルフランス植民地を建設し、イギリスは1607年にジェームズタウンを建設し、1620年にメイフラワー号によってピルグリム・ファーザーズがプリマス植民地を建設するなど、18世紀中ごろまでに北アメリカ大陸東部中央海岸に13植民地を建設していった。カリブ海においてはジャマイカがイギリス領、エスパニョーラ島西部がサン・ドマングとしてフランス領となったが、最も争奪戦が激しかったのは小アンティル諸島だった。この地は小島が多く存在してスペインの統治が行き届かなかったうえ、どの島もそれなりの広さを持ち、そして土地が肥沃で砂糖をよく産出したためである。こうした植民地はどちらかといえば入植植民地の色彩が強く、とくにイギリスのアメリカ東部13植民地は完全な入植型植民地だった。
こうして各国が新大陸を中心に植民地を広げていく中で、特に積極的に植民地を拡大していたイギリスとフランスの間で17世紀末以降「第2次百年戦争」とも呼ばれる一連の戦争が勃発した。この戦争の最終的な勝者はイギリスであり、フランスはとくに1756年から1763年にかけて起こった七年戦争において敗北を喫し、1763年のパリ条約において北アメリカ大陸の植民地をすべて失い、サン=ドマングなどいくつかのカリブ海の植民地とインドなどのいくつかの植民地を残すのみとなって第一次フランス植民地帝国はほぼ崩壊した。逆にこの戦争で広大な植民地を新たに得たイギリスは、植民地帝国としてさらに力を増していった。
新大陸の独立と他地域の植民地化
こうした新大陸中心の植民地の展開は、18世紀末以降大きく転換する。きっかけは1775年に始まったアメリカ独立戦争である。この戦争で1783年にアメリカは完全に独立を果たし、イギリスはアメリカ大陸東岸のよく開発された広大な植民地を失った。これに影響を受けたフランス領サン=ドマングにおいても1791年にハイチ革命が勃発し、数十年間の紆余曲折ののちに最終的に独立を果たすこととなる。さらにナポレオン戦争後、スペイン・ポルトガル両国の植民地において相次いで独立戦争が勃発し、1820年代前半までには南アメリカ大陸および中央アメリカのほとんどの植民地が独立を果たした。こうして、北アメリカ大陸北部のカナダとカリブ海にうかぶ島々を除き、新大陸からは植民地がほぼ失われた。
こうした中、ヨーロッパ諸国は新大陸に代わる植民地としてアジア・アフリカへの侵略を強めていった。すでにインドにおいてはヨーロッパ各国が商館を各地に建設していたが、1757年に起こったプラッシーの戦いが一つの転換点となった。この戦いで勝利したイギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得し、事実上この地域を支配下においた。そしてここを足掛かりに徐々に侵略を進め、19世紀半ばにはインド全土がイギリスの支配下に入った。インドはもちろん現地住民が多数派を占める植民地であり、本国からの植民も行われなかった。こうして入植型植民地に代わり、現地住民を支配して収奪し利益を上げる型の植民地支配が主流となっていった。一方でこの時期においてもオーストラリアやニュージーランド、カナダなどの入植型の植民地は引き続き進められており、これら入植型植民地においてはある程度の人口や体制が固まったのちは自治領としてある程度の自治権が与えられた。この時期にはイギリスのみならず、いくつかの国家がアジアへの侵略を開始した。なかでもオランダはジャワ島の支配を17世紀以降徐々に進めていき、広大なオランダ領東インドを建設していった。また、アフリカにおいてはフランスが1830年にアルジェリアを征服し、再び植民地帝国を築くようになっていった。
世界分割
19世紀後半に入ると植民地化はさらに加速し、それまで独立を保っていた地域も多くが列強諸国の植民地となっていった。アジアにおいては1862年にフランスが阮朝からコーチシナを奪ったのを皮切りに勢力を広げ、1887年にはフランス領インドシナが成立した。こうしてアジアの各地に列強が進出していく中、アフリカへの進出はかなり遅れた。フランスがアルジェリアとセネガルに、イギリスがケープ植民地に拠点を置いて侵略を進めていき、沿岸部には薄く欧州諸国の植民地が連なるようになっていったものの、1880年ごろまではアフリカ大陸内陸部の大半はいまだ植民地化されてはいなかった。この状況は、ベルギー王レオポルド2世のコンゴ川探検によって大きく変化した。コンゴ川河口域はポルトガルが支配を及ぼしていた地域だったが、内陸までは進出していなかった。それに目を付けたレオポルド2世はコンゴ川流域の支配権を要求し、各国と対立するようになった。結局、この問題は1884年にベルリン会議が開かれ、沿岸を支配したものはその後背地の支配権を主張できること、実際に後背地を制圧した場合は他国に通告することで植民地化が認められることなどを骨子とした植民地化のルールが策定されることで決着した[1]。そして、この会議によって列強は一斉にアフリカ内陸部の植民地化を開始し、16年後の1900年ごろにはエチオピアとリベリアを除くアフリカのほとんどすべてが欧州列強によって植民地化されてしまっていた。アジアにおいても残っていた独立国の征服が進み、1910年ごろには世界分割はほぼ完了し、植民地主義は最盛期を迎えた。
第一次世界大戦後も、植民地主義に大きな変化はなかった。民族自決の原則は欧州に限られ、アジア・アフリカの中央同盟国側の旧領土は委任統治領として戦勝国に分け与えられた。いちおう委任統治という名目はついたものの、これらの委任統治領の統治は植民地と何ら変わるところはなかった。ただし、委任統治領は社会の発展段階に応じてA式、B式、C式の3段階に分けられ、もっとも発展しているA式に分類された旧オスマン帝国領の諸地域に関しては住民自治が認められ、イギリス委任統治領メソポタミア、フランス委任統治領シリア、イギリス委任統治領パレスチナの3つの地域に関しては早期独立を目指すこととされた。これらの地域においては、メソポタミアがイラクとして1932年に独立したのを皮切りに、シリアはレバノン(1943年)とシリア(1946年)、パレスチナ東部はトランスヨルダンとして1946年に独立を達成した。ただしパレスチナ西部についてはユダヤ人とアラブ人の激しい対立が起こり、委任統治の終了は1948年にまでずれ込み、また統治終了はそのままイスラエル独立宣言とそれによる第一次中東戦争の勃発という形で爆発することとなった。また、B式に分類された西アフリカ・中央アフリカの旧ドイツ植民地やC式に分類された太平洋諸島・南西アフリカに関してはほとんど従来の植民地と同じ扱いとなったが、委任統治の受任国は連盟理事会に該当地域の統治状況の報告を義務付けられ、同じく連盟に設置された委任統治委員会に勧告を受けるなど、ある程度の歯止めを意識した施策は行われた[2]。
植民地主義の崩壊
こうした植民地主義の体制が綻びを見せるのは第二次世界大戦後のことである。大戦に勝利した連合国側の列強も戦争によって非常に疲弊した状態となっており、植民地を押さえつける力は失われつつあった。また連合国側によって設置された国際連合は旧連盟の委任統治政策を引き継ぎ、旧委任統治領を改めて信託統治領として施政権者に信託したものの、新たに設置された国際連合信託統治理事会は旧連盟の委任統治委員会に比べ権限が強化されており、また信託統治領の自治および独立を目指すよう施政権者に義務を課していた[3]。こうして脱植民地化の動きが加速していった。1945年の大戦終結以降数年の間に、インドをはじめとして南アジアや東南アジアで多くの植民地が独立していった。次いで、アフリカ大陸でも急速に独立国家が増加していった。1956年のガーナ独立を皮切りに、1960年にはフランス植民地13か国を中心とした17カ国が一気に独立を果たし、アフリカの年と呼ばれるようになった。1960年12月14日には国際連合総会で植民地独立付与宣言が採択され、植民地主義への反対と脱植民地化の推進が明確にうたわれた[4]。1960年代後半になると、ポルトガルを除く欧州諸国はほぼアフリカ大陸から撤退していた。のこるポルトガルも1974年のカーネーション革命によって植民地の独立容認に転換し、1975年にはポルトガル領植民地のほぼすべてが独立を果たした。1970年代に入ると、いまだ植民地の残っていたオセアニアおよびペルシャ湾岸、小アンティル諸島においても独立が急速に進んだ。信託統治領の独立も進み、1994年に最後の信託統治領であったパラオが独立することで信託統治領は消滅した[5]。2017年時点で国際連合非自治地域リストに掲載されている非独立地域は17か所に過ぎず、しかも西サハラを除く各植民地は人口及び面積が小さく、独立が困難なところがほとんどである。
統治政策
列強支配下の各植民地においては、様々な手法で安定した統治が行えるような工夫が行われた。植民地の有力者を名目的なその地域のトップとし、その支配者を通じて支配を行う間接統治などがその例である。植民地において同化政策をおこなった宗主国も多い。アフリカの植民地統治においては、イギリスは間接統治で知られ、フランスは同化政策を旨としており、そのほかの国々はどちらかといえば同化政策寄りの政策をとっていた。こうした国々では本国文化を身につけたと判断されると、本国の市民権を与えられる制度が存在した。こうして本国市民と認められた植民地住民は開化民などと呼ばれ、セネガルなどではある一定の地位を占めていた。しかし同化政策と言っても、植民地の面積・人口は本国よりもはるかに大きいことが常であり、言語の同化程度で市民権を与えていては植民地の市民数が本国のそれを上回る事態も想定されたため、実際には市民権の付与には叙爵などの非常に厳しい条件が設けられ、こうした地位を得られるものは非常にわずかな数の住民に過ぎなかった。1950年のポルトガル領アンゴラにおいて、同化民の地位を与えられたものは全人口のわずか0.7%に過ぎなかったことなどはその一例である[6]。
また植民地統治をスムーズに進めるため、各国は植民地住民の中からエリートを育成し、現地の下級官吏などの地位につけた。こうした植民地エリートは支配の緩衝作用を果たすものとしてイギリスやフランスでは積極的に育成が行われ、とくにフランス領アフリカの各植民地独立においては植民地エリートの果たす役割は大きなものがあった。逆にベルギーの植民地支配はこの点でやや特異であり、初等教育は植民地に広く普及させたものの、植民地エリートの育成をまったくと言っていいほど行わなかった。このため、コンゴ民主共和国の独立時に行政を引き継ぐべき現地エリートがほぼ存在しておらず、行政の崩壊とコンゴ動乱を招くこととなった[7]。
批判
アンドレ・グンダー・フランクの植民地主義によって被植民者から富の収奪が行われ、経済発展を阻害したというような主張のみならず、ポストコロニアリズムの思想家であるフランツ・ファノン等の政治的・心理的・道徳的ダメージをも加えたという主張がある。
現在も手を変え品を変えた形で植民地支配を脱した国々への支配が継続しているという見方(新植民地主義)からの批判も存在する[8]。
脚註
- ↑ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p288
- ↑ 「国際機構 第四版」p100 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷
- ↑ 「国際機構 第四版」p103 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷
- ↑ 「国際機構 第四版」p105 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷
- ↑ 「国際機構 第四版」p51 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷
- ↑ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p346
- ↑ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p343
- ↑ Kwame Nkrumah, Neo-Colonialism, the Last Stage of Imperialism, Panaf, 1965. ISBN 9780901787231
関連項目
- 植民地
- 大航海時代
- 重商主義
- 帝国主義
- 社会ダーウィニズム
- 脱植民地化
- フランス植民地帝国
- スペイン帝国
- イギリス帝国
- ポルトガル海上帝国
- オランダ海上帝国
- ドイツ植民地帝国
- 大日本帝国
- デンマーク海上帝国
参考文献
- 西川長夫2006『〈新〉植民地主義:グローバル化時代の植民地主義を問う』東京:平凡社
- 傅琪貽 2006「台湾原住民族における植民地化と脱植民地化」倉沢愛子、杉原達、成田龍一、テッサ・モーリス・スズキ、油井大三郎、吉田裕編『岩波講座アジア・太平洋戦争4 帝国の戦争経験』東京:岩波書店、267-291頁
- 水嶋一憲 2007「〈新〉植民地主義とマルチチュードのプロジェクト:グローバル・コモンの共創に向けて」『立命館言語文化研究』19(1): 131-147
- 野村浩也 編 2007『植民者へ:ポストコロニアリズムという挑発』松籟社
外部リンク
- Colonialism (英語) - スタンフォード哲学百科事典「植民地主義」の項目。