金沢文庫
金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉時代中期の日本において、金沢流北条氏の北条実時が設けた日本最古の武家文庫[1][2]。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142。
金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に所在したことが名称の由来である。現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の歴史博物館となっており、様々な所蔵品を保管・展示している。
Contents
概要
成立時期は定かではないが、おそらくは実時が晩年に金沢館で過ごした建治元年(1275年)頃ではないかとされる[3]。北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設。文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継いだ[3]が、当時の建築物は現存せず、発掘調査と当時の記録からその位置が推定されている。室町時代には上杉憲実が再興している。
読み方
「金沢」は歴史的・慣例的には「かねさわ」と読まれるのが本来であり、設立当初は「かねさわぶんこ」或いは「かねさわのふみくら」と呼称されていた[4]。江戸時代に加賀藩の金沢が著名になり「かなざわ」という読みが広まり、現在では公共機関の読みも金沢区や京急電鉄「金沢文庫駅」は「かなざわ(ぶんこ)」となり、神奈川県立金沢文庫も同様に「かなざわぶんこ」の読みとなっている。
歴史
北条氏の滅亡後、文庫は衰退し、蔵書も多くが後北条氏、徳川家康、前田綱紀らによって持ち出された。明治時代に入ると、明治30年(1897年)に伊藤博文らの尽力によって金沢文庫は復興し、称名寺大宝院跡に再建されて旧蔵書の回収も進められた[5]が、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって損壊するも、昭和5年(1930年)8月9日に図書館令に基づき、神奈川県の運営する最初の県立図書館である「神奈川県立金沢文庫」として復興した。昭和8年(1933年)に図書館令が改正され、公立図書館のうち1館を中央図書館に指定することになると、唯一の神奈川県立の図書館であった金沢文庫が中央図書館の役割を果たすことになった。中央図書館時代の金沢文庫は、郷土資料として金沢八景や神奈川県下の名所絵、県下でおこった歴史絵、横浜絵などの浮世絵を収集し、現在も200点余り所蔵している[6]。昭和26年(1951年)に博物館法が公布・施行され、昭和29年(1954年)に神奈川県立図書館が設けられると、金沢文庫は図書館から博物館に変わることになり、昭和30年(1955年)に登録博物館となった。平成2年(1990年)に新築され、現在は称名寺が所有する国宝や重要文化財を含む鎌倉時代のものを中心とした所蔵品を保管し、展示公開する歴史博物館となっている[7]。主な収蔵資料(称名寺からの寄託品)としては、金沢北条氏歴代の肖像画(実時・顕時・貞顕・貞将像、国宝)、忍性や審海の肖像画、木造釈迦如来立像、木造十大弟子立像、金銅製愛染明王坐像などの仏像、工芸品、審海所用の密教法具、古文書などがある[8]。
神奈川県立金沢文庫所蔵文化財
重要文化財(国指定)
(神奈川県所有分)
- 建春門院中納言記
- 武蔵国鶴見寺尾郷絵図
※上記のほか、称名寺の所有で、同寺から神奈川県立金沢文庫に寄託されている文化財の明細は称名寺の項を参照。
交通
関連項目
- 金沢名所旧跡記 - 金沢文庫が2002年に鑑定に関わった地誌。
脚注
- ↑ 横浜金沢観光協会 県立金沢文庫 -
- ↑ 北条高時と金沢貞顕・11-12頁
- ↑ 3.0 3.1 武家の古都・鎌倉ニュース 第30号(鎌倉市)
- ↑ 金沢文庫は、かつて「かなざわ」ではなく「かねさわ」だったって本当?(はまれぽ.com 2013年10月1日)
- ↑ 久野健監修、川尻祐治編『関東古寺の仏像』、芸艸堂、1976、pp.62 - 63
- ↑ 神奈川県立金沢文庫編集・発行 『金沢文庫の浮世絵』 2008年2月15日
- ↑ 竹内誠監修『知識ゼロからの博物館入門』幻冬舎 2010年 116ページ
- ↑ 神奈川県立金沢文庫 文庫概要