ドイツ史

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history of Germany

フランク帝国の分裂から生れた東フランク王国は,10世紀初頭以来ドイツ王国としての独立性をそなえ,ザクセン部族から出たオットー1世 (大帝) は 962年教皇からローマ皇帝の冠を受けて,初代の神聖ローマ皇帝となった。帝国統合の手段としての教会支配政策がもとで,11世紀後半に皇帝と教皇の衝突が起り (叙任権論争 ) ,この間にドイツの封建化が大いに進んだ。 12世紀中頃から約1世紀にわたるホーエンシュタウフェン朝は,イタリア政策に力を注いだため,諸侯の分立割拠が著しくなった。聖俗の諸侯は,13世紀前半以来,皇帝から大きな政治的特権を与えられて,それぞれ自己の領邦の建設に取りかかり,この分権体制を背景に 1356年の金印勅書で選帝侯制度が確立した。 15世紀初頭以来ハプスブルク家から代々の皇帝が選ばれたが,その勢力増大を恐れる諸侯は,1495年永久平和令を皇帝からかちとり,領邦の独立性に基づく一種の連邦組織を固定した。

16世紀の宗教改革は,教派の反目によってドイツの政治的分裂を一層深め,外国勢力の干渉をも誘って,ついに三十年戦争 (1618~48) の災禍を招いた。 18世紀にようやく経済,文化の復興の兆しがみられたが,17世紀末以来,台頭してきたプロシアとオーストリアとの対立がこの頃から表面化してきた。フランス革命は,啓蒙絶対主義の普及したドイツにほとんど影響を与えなかったが,ナポレオン1世の支配下,1806年ライン同盟が形成され神聖ローマ帝国は滅亡,また 19世紀初頭の西部ドイツ群小領域の整理統合と教会諸侯領の世俗化は,ウィーン会議後に成立するドイツ連邦の土台となった。 19世紀初頭以来,近代化を開始し,工業の中心であるラインラントを領有したプロシアは,ウィーン体制下の反動期にも関税同盟の形成など,ドイツの国民的統合の主導権を次第に獲得し,三月革命による「下からの」自由主義的統一路線の失敗後,ビスマルクによる「上からの」帝国建設がオーストリアを排除して達成された。その後ドイツは皇帝ウィルヘルム2世のもとで帝国主義政策に乗出して,イギリス,フランスなど先進植民地国家の敵対を招き,第1次世界大戦で屈辱的な講和を強いられ,これに対する反発と戦後のドイツ革命で生れたワイマール共和国体制の不安定とからナチス・ドイツの「第三帝国」の出現をみるにいたった。ヒトラーは一党独裁のファシズム国家を樹立して,第2次世界大戦に突入したが,1944年ドイツは連合軍に降伏。大戦後,アメリカ,ソ連の冷戦が激化するなかで,49年ドイツは東西に分裂したが,90年 10月,41年ぶりに統合された。