「お雇い外国人」の版間の差分

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'''お雇い'''('''御雇''')'''外国人'''(おやといがいこくじん)は、[[幕末]]から[[明治]]にかけて、「[[殖産興業]]」など<!---軍事や教育もあるので--->を目的として、[[欧米]]の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された[[外国人]]で、欧米人を指すことが多い。[[江戸幕府]]や[[藩|諸藩]]、[[明治政府]]や[[府県制|府県]]によって官庁や学校に招聘された。'''お抱え外国人'''とも呼ばれることもある。
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'''お雇い'''('''御雇''')'''外国人'''(おやといがいこくじん)
  
== 概要 ==
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 日本の近代化過程において、江戸幕府および諸藩、続いての明治政府や民間の会社・学校などが、ヨーロッパ、アメリカの先進文化を急速に移入するために、各分野・部門にわたり指導者ないし教師として雇用した外国人のことをいう。
「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、[[近代化#日本の近代化|日本の近代化]]の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期には[[ヤン・ヨーステン]]や[[ウィリアム・アダムス]]などの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め[[徳川家康]]の評価を得て厚遇された。幕末になり[[鎖国]]が解かれると、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が一時期幕府顧問を務め、[[レオンス・ヴェルニー]]が[[横須賀海軍工廠|横須賀造兵廠]]の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。
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 お雇い外国人の先駆は、1855年(安政2)開設の幕府の長崎海軍伝習所にきたオランダ海軍士官・水夫たちであり、またお雇い外国人採用の意見としては、佐久間象山(しょうざん)が自分の妻の兄にあたる勝海舟(かつかいしゅう)の海外留学の希望に対して、翌56年7月、「いずれにも欧墨諸州の如(ごと)く諸学術を明かに致し候はんには、其(その)州へ留学又は差遣、又彼(かの)州よりも師範のもの召呼ばれ天下普通に其科を御(お)開き御座候様に之(こ)れ無く候ては遂に行届き申まじく候」と書き送った書簡にみえるのが早い例である。
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 1860年(万延1)を画期として蘭学(らんがく)が廃(すた)れ、わが国で新しく英語を中心とする洋学が始められるようになると、長崎、横浜などの幕府諸機関や薩摩(さつま)藩などの洋式工業の経営にアメリカ、イギリス、フランス人が雇用されるようになる。やがて明治政府の手によって、富国強兵・殖産興業をスローガンに、全面的にヨーロッパ、アメリカ文明の長所である近代的諸制度、科学、技術などの移入が急務とされるに至って、お雇い外国人は、政治、法制、軍事、外交、金融、財政、産業、交通、建築、土木、開拓、科学、教育、美術、音楽などの各分野に多数雇用された。政府雇い外国人は、1874~75年(明治7~8)がもっとも多数で、その数は約520人に上り、その後は漸次減少して、80年ごろには半数となり、それ以後も漸減した。政府雇い外国人の実総人数は、目下のところ推定の域を出ないが、明治年間を通じておそらく3000人前後に達するであろう。
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 職務別では、明治10年代の初めまでは、技術者、学術教師、事務家の順で、とくに前二者が多い。それが明治20年代以降になると、技術者の数が少なくなり、学術教師、事務家、技術者の順となる。「お雇い外国人時代」というのは、1870~85年に至る、いわゆる「工部省時代」に重なり、ほぼ明治初年から明治20年(1887)ごろまでである。
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 国籍別では、政府雇い外国人の大部分は、当時日本との国際的関係のうえで重要な地位を占めていたイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの4か国からきた人々であった。イギリス人は、鉄道、電信、灯台、鉱山(以上工部省)と海軍教育(海軍省)、フランス人は横須賀造船所における造船(初め工部省、のち海軍省へ移管)と陸軍教育(陸軍省)、ドイツ人は教育、とくに医学教育(文部省)、アメリカ人は教育(文部省)と開拓(開拓使)の方面でもっとも多く活動し、寄与した。
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 お雇い外国人をもっとも多く雇い入れたのは文部省と工部省で、明治政府が近代的な学術と技術の移入にいかに熱心であったかがわかる。とくに工部省時代の全期間を通じてのお雇い外国人の実総人数580人のうち、イギリス人技師が450人と、およそその80%を占め、しかもイギリス人の約半数が鉄道に関係したというところに、日本近代化の特徴がよくうかがわれる。
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 民間でも明治政府の方針に呼応して学校や会社にお雇い外国人を採用した。とくに顕著なのが三菱(みつびし)会社で、1875年7月~76年6月の間のお雇い外国人は300人余りに達し、多くはその所有船の船長・機械方を務めている。民間お雇い外国人の数は、74年には126人であったが、その後漸次増加して、92年には572人に達し、政府雇いの漸減とは対照的な傾向を示す。これら民間のお雇い外国人も政府雇いに劣らない大きな貢献をした。
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 お雇い外国人は一般に高額の給料を支給され優遇された。1876年ごろまでに太政(だじょう)大臣三条実美(さねとみ)の月給800円を超える者が10人前後もあり、右大臣岩倉具視(ともみ)の月給600円を超える者も15人前後いる。しかし、普通には100円以上200円までの者が多かった(日本人の六、七等奏任官たとえば星亨(とおる)租税寮権助・名村泰蔵司法省七等出仕相当)。当時の日本には、「先進国に追いつくまではすべての犠牲を払わねばならない。そのために殖産興業や文化が発達して国益が増せば、打算として損はない」という考えが支配していた。お雇い外国人の歴史的役割は、日本に近代的な技術・学術を急ぎ移植したことにあったが、しかし日本の近代化にとっての助言者ないし脇役(わきやく)たるにとどまった。それは、明治政府なり民間諸会社の指導者たちが近代化政策決定の主導権を固く保持して、これらお雇い外国人に譲ることがなかったからである。彼らは日本の近代化に際し多大の貢献をしたが、わが国が彼らを雇用するにあたり、その国籍について意識的な選択を行ったため、各部門相互の間でそれぞれの技術的・文化的母国が異なる結果を生じ、近代化過程でひずみを生み出すに至った。
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 お雇い外国人たちは、一般に日本を愛し、なかには日本人女性を妻として永住した者もおり、僻地(へきち)で牛乳や卵を欠いて不自由な生活に困った者もいる。東京大学で教えたアメリカの動物学者モースの『日本その日その日』は、日本における彼らの生活を生き生きと描いて興味深い。
  
しかし、外国人の雇用が本格化するのは、[[明治維新]]以降である。例えば、[[法令全書]]<ref>『近代デジタルライブラリー・法令全書・明治5年』で検索</ref>の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに[[1872年]]([[天保暦]]明治4 - 5年)の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に日本に流入したことをうかがわせる。
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{{テンプレート:20180815sk}}  
 
 
お雇い外国人は高額な[[報酬]]で雇用されたことが知られる。[[1871年]](明治3 - 4年)の時点で[[太政大臣]][[三条実美]]の[[月給|月俸]]が800円、[[右大臣]][[岩倉具視]]が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は[[造幣局 (日本)|造幣寮]][[支配人]][[トーマス・ウィリアム・キンダー|ウィリアム・キンダー]]の1,045円であった。その他[[グイド・フルベッキ]]や[[アルベール・シャルル・デュ・ブスケ]]が600円で雇用されており、[[1890年]](明治23年)までの平均では、月俸180円とされている<ref name="uemura"/>。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の[[円安]]状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は[[極東]]の辺境であり、外国人身辺の[[危険]]も少なくなかったことから、一流の[[技術]]や[[知識]]の専門家を招聘することが困難だったことによる。お雇い外国人には後発国である日本を蔑む者も少なくなく、雇い入れ条件は次第に詳細になっていった<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-russian-2.pdf 東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神]渡辺雅司、ロシア語ロシア文学研究15号、1983-09</ref>。
 
 
 
多くは[[任期]]を終えるとともに帰国したが、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]や[[ジョサイア・コンドル]]、[[エドウィン・ダン]]のように[[日本文化]]に惹かれて滞在し続け、日本で[[妻帯]]あるいは生涯を終えた人物もいた。[[エドワード・B・クラーク]]は、イギリス人の両親が日本に滞在していた時に[[横浜市|横浜]]で生まれ、一時期、母国[[イギリス]]に留学した時以外は、死ぬまで日本で生活していた。
 
 
 
雇用された分野と異なる分野で、功績を残した人物も多い。[[アーネスト・フェノロサ]]は、[[政治学]]や[[哲学]]の教授として招かれたが、[[日本美術]]の再評価においても名が知られる。[[ホーレス・ウィルソン]]は、[[英語]]教師として招かれたが、この時、教育の一環として日本人生徒たちに[[野球]]を教えた事から「日本に野球を伝えた人物」として名を残し、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りしている。[[ウィリアム・ゴーランド]]は[[造幣局 (日本)|大阪造幣寮]]の技師として雇われ、その分野でも高い評価を持つが、他に日本の[[古墳]]研究や、[[日本アルプス]]の命名者としても名が残る。
 
 
 
== 出身国 ==
 
ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その[[国籍]]や[[技能]]は多岐に亘り、[[1868年]]([[慶応]]4年/明治元年)から[[1889年]](明治22年)までに日本の[[公共機関|公的機関]]・私的機関・[[個人]]が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』<ref>ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』(小学館、[[1975年]])。[[Amazon.com|ASIN]] B000J9F6J2</ref>、『近代日本産業技術の西欧化』<ref>三枝博音、野崎茂、佐々木峻著『近代日本産業技術の西欧化』(東洋経済新報社、[[1960年]])。ASIN B000JAOW1E</ref>があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を[[1900年]]までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている<ref>Hazel Jones, "Live Machines: Hired Foreigners and Meiji Japan." (Univ of British Columbia Press, March 1980). ISBN 978-0774801157</ref>。
 
 
 
[[1890年]](明治23年)までの雇用先を見ると、最多数の[[イギリス人]]の場合は、[[日本国政府|政府]]雇用が54.8 %で、特に43.4 %が[[工部省]]に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった<ref>植村正治著[http://www.umds.ac.jp/kiyou/r/21-1/r21-1uemura.pdf 『明治前期お雇い外国人の給与』] 流通科学大学論集-流通・経営編-第21巻第1号、1-24 (2008)</ref>。工部省の明治3年から明治20年までのお雇い外国人総数256人中238人がイギリス人である<ref>[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/19154/1/kyouyoronshu_529_181.pdf ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 - 日本の生活と仕来りの概観』]長尾史郎・高畑美代子、明治大学教挫論集通巻529号(2017) </ref>。鉄道建設に功績のあった[[エドモンド・モレル]]や建築家[[ジョサイア・コンドル]]が代表である。
 
 
 
[[アメリカ人]]の場合は54.6 %が[[民間人|民間]]で、[[教師]]が多かった。政府雇用は39.0 %で[[文部省]]が15.5 %、[[開拓使]]が11.4 %であるが、開拓使の外国人の61.6 %がアメリカ人であった([[ホーレス・ケプロン]]や[[ウィリアム・スミス・クラーク]]など)<ref name="uemura">植村、同上</ref>。 
 
 
 
[[フランス人]]の場合は48.8 %が[[日本軍|軍]]の雇用で、特に[[大日本帝国陸軍の歴史|陸軍]]雇用の87.2 %はフランス人であった<ref name="uemura"/>。幕府は[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]を招いて陸軍の[[近代化]]を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制を[[ドイツ]]式に転換したのは[[1885年]](明治18年)に[[クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル]]少佐を[[陸軍大学校]]教官に任じてからである。また、数は少ないが[[司法省]]に雇用され、[[不平等条約]]撤廃に功績のあった[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]や、[[左院]]でフランス法の[[翻訳]]に携わった[[アルベール・シャルル・デュ・ブスケ]]など[[法律]]分野で活躍した人物もいる。
 
 
 
[[ドイツ人]]の場合は政府雇用が62.0 %であり、特に[[文部省]] (31.0 %)、工部省 (9.5 %)、[[内務省 (日本)|内務省]] (9.2 %) が目立つ<ref name="uemura"/>。[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]をはじめとする[[医師]]や、[[地質学]]の[[ハインリッヒ・エドムント・ナウマン]]などが活躍した。
 
 
 
[[オランダ人]]の場合、民間での雇用が48.5 %であるが、[[海運]]が盛んな国であったことから[[船員]]として働くものが多かった<ref name="uemura"/>。幕府は[[1855年]]([[安政]]2年)、長崎[[海軍伝習所]]を開設し、オランダから[[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ]]らを招いたため[[大日本帝国海軍の歴史|海軍]]の黎明期には[[オランダ]]人が指導の中心となったが、幕末にイギリスから[[トレーシー顧問団]]が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは[[1873年]](明治6年)に[[アーチボルド・ルシアス・ダグラス|ダグラス]]顧問団による教育が実施され、[[大日本帝国海軍|帝国海軍]]はイギリス式に変わっている。他に[[土木]]の[[河川]]技術方面で[[ヨハニス・デ・レーケ]]ら多くの人材が雇用された(オランダの[[治水]]技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、[[アントニウス・ボードウィン|ボードウィン]]博士兄弟との[[縁故]]による[[斡旋]]という説もある)。
 
 
 
[[イタリア人]]はその人数こそ多くなかったものの、[[工部美術学校]]に[[アントニオ・フォンタネージ]]らが雇用された。また[[エドアルド・キヨッソーネ]]が様々な分野で貢献した。
 
 
 
== 分野別 ==
 
===国家体制===
 
* [[ヘルマン・ロエスレル]] - [[法学者]]・[[経済学者]]。[[憲法]]、[[商法]]、[[独逸学協会]]名誉会員(独)
 
* [[アルベルト・モッセ]] - 内閣雇法律顧問、[[プロシア]]國裁判官、始審裁判所評定官、[[独逸学協会]]名誉会員(独)<ref>『叙任及び辞令』(1889年1月19日官報){{NDLJP|2944906/1}}</ref>
 
* [[ゲオルグ・ミハエリス]]博士、[[プロシア]]国判事試補、[[独逸学協会]]名誉会員、のち[[ドイツ帝国]]の第6代[[帝国宰相]](独)<ref>『叙任及び辞令』(1890年11月24日官報){{NDLJP|2945475/7}}</ref>
 
* {{仮リンク|カール・ラートゲン|de|Karl Rathgen}} - [[国法学]]、[[独逸学協会]]名誉会員(独)<ref name="kanpo18870204">『叙任及び辞令』(1891年2月4日官報){{NDLJP|2945533/1}}</ref>
 
* [[ジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ#アジアとの関わり|フランシス・テイラー・ピゴット]]([[:en:Francis Taylor Piggott|英語版]]) - 内閣顧問(英)
 
* [[エドアルド・キヨッソーネ]] - 紙幣・切手の印刷。[[明治通宝]]を印刷した[[ベルンハルト・ドンドルフ|ドンドルフ・ナウマン印刷会社]]職員。他、[[明治天皇]]・[[西郷隆盛]]などの肖像([[イタリア王国|伊]])
 
 
 
=== 学術・教育 ===
 
* [[フレデリック・イーストレイク]] - 語学教育、[[慶應義塾]]教員、[[国民英学会]]創立参加([[アメリカ合衆国|米]])
 
* [[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]] - 語学教育 『[[怪談]]』([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|英]])<!--アイルランド→アメリカへ-->
 
* [[エドワード・S・モース]] - 生物学、 [[大森貝塚]]の発見(米)
 
* [[ハインリヒ・フォン・シーボルト]] - 考古学、 [[大森貝塚]]の研究、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の次男(独→墺)
 
* [[ウイリアム・スミス・クラーク]] - [[札幌農学校]](現・[[北海道大学]])初代教頭(米)
 
* [[バジル・ホール・チェンバレン]] - 語学教育 『[[古事記]]』の英訳、[[アーリアン学説]]の思想家である[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]は弟(英)
 
* [[ラファエル・フォン・ケーベル]] - 哲学・音楽([[ロシア帝国|露]]、但しドイツ系でドイツ語を母語とし、ドイツ哲学を基礎とした)
 
* [[ヴィクトル・ホルツ]] - 第一大学区独逸学教場・東京医学校教員([[ドイツ帝国|独]])
 
* [[エミール・ハウスクネヒト]] - 教育学(独)
 
* [[アリス・メイベル・ベーコン]] - 女子教育(米)
 
* [[ジョージ・アダムス・リーランド]] - [[体操伝習所]]教授(米)
 
* [[ヘンリー・ダイアー]] - [[工部大学校]](現・[[東京大学]]工学部)初代都検(英)
 
* [[ハインリッヒ・エドムント・ナウマン]] - [[フォッサ・マグナ]]の発見、[[ナウマンゾウ]](独)
 
* [[ダビッド・モルレー]] - [[文部省]]顧問(督務官・学監)(米)
 
* [[ジョン・ワデル|ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル]] - 東京大学理学部(当時)にて講義(米)
 
* [[ホーレス・ウィルソン]] - 語学教育、[[野球]]を日本に紹介(米)
 
* [[マリオン・スコット]] - [[大学南校]]、[[東京高等師範学校|東京師範学校]]([[東京教育大学]]、[[筑波大学]]の前身)、[[東京大学予備門]]教員(米)
 
* [[ルートヴィヒ・リース]] - 歴史教育、[[慶應義塾大学]]部、[[東京帝国大学|帝国大学]]、[[陸軍大学校]]教員(独)
 
* [[エドワード・B・クラーク]] - 語学教育、[[ラグビー]]を日本に紹介、慶應義塾大学、[[京都帝国大学]]教員(英)
 
* [[アーサー・ナップ]] - 語学教育、慶應義塾教員、日本[[ユニテリアン]]教会宣教師(米)
 
* [[リロイ・ジェーンズ|リロイ・ランジング・ジェーンズ]] - 語学教育、[[熊本藩]]藩校熊本洋学校英語教師、[[熊本バンド]](米)
 
* [[エドワード・ウォーレン・クラーク]] - [[化学]]、[[語学教育]]、[[賤機舎]]の前身[[静岡学問所]]、[[東京開成学校]](米)
 
* [[エルヴィン・クニッピング]] - 気象観測事業の指導、海員養成(独)
 
* [[カール・アウグスト・シェンク]] (Carl August Schenk)  - 東京開成学校鉱物学教員(独)
 
* [[ゲオルク・ヘルマン・リッター]] (Georg Hermann Ritter) - 大阪開成所・東京開成学校化学教員(独)
 
 
 
=== 法律 ===
 
* [[グイド・フルベッキ]] - 法律、[[旧約聖書]]の翻訳([[オランダ|蘭]])
 
* [[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]] - [[刑法 (日本)|刑法]]、[[刑事訴訟法]]、[[民法]]、[[司法省法学校]]教員([[フランス第三共和政|仏]])
 
* [[ジョルジュ・ブスケ]] - 司法省法学校教員(仏)
 
* [[アルベール・シャルル・デュ・ブスケ]] - 法律、軍事などの仏語資料を多数翻訳(仏)
 
* [[オットマール・フォン・モール]] - 宮廷儀礼、栄典制度(独)
 
* [[ヘルマン・テッヒョー]] - [[民事訴訟法]](独)
 
* {{仮リンク|アレッサンドロ・パテルノストロ|it|Alessandro Paternostro}} - 司法省顧問(伊)
 
* {{仮リンク|カール・ルードルフ|de|Carl Rudolph}} - 内閣顧問(独)
 
* {{仮リンク|オットー・ルードルフ|de|Otto Rudorff}} - 司法省顧問、東京大学教員(独)
 
* {{仮リンク|ジョルジュ・アペール|en|Georges Appert}} - 司法省法学校・東京帝国大学教員(仏)
 
* {{仮リンク|ルイ・アドルフ・ブリデル|fr|Louis Bridel (juriste)}} - 東京帝国大学教員([[スイス|瑞]])
 
* [[ウィリアム・カークウッド]] (William Montague Hammett Kirkwood) - 駐日英国公使館の法律顧問から司法省法律顧問(英)
 
* [[パウル・マイエット]] (Paul Mayet) - [[太政官]]顧問、[[東京医学校]](現・[[東京大学医学部]])、慶應義塾大学[[理財科]]教員(独)、[[独逸学協会]]名誉会員
 
* [[プロスペール・ガンベ・グロース]] (Prosper Gambet Gross) - 警視庁法律顧問(仏)
 
* [[ヘンリー・テイラー・テリー]] (Henry Taylor Terry) - 東京大学・東京帝国大学法学教員(米)
 
 
 
=== 外交 ===
 
* [[シャルル・ド・モンブラン]] - 外国事務局顧問。駐仏日本[[総領事]](仏)
 
* [[フレデリック・マーシャル]] - 在仏日本[[公使館]]付情報員、顧問格(英)
 
* [[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]] - 太政官法制局御用掛(仏)
 
* [[ヘンリー・デニソン]] - [[外務省]]顧問。[[下関条約]]・[[ポーツマス条約]]交渉(米)
 
* [[アレクサンダー・フォン・シーボルト]] - [[井上馨]]秘書他(独)
 
 
 
=== 芸術・美術 ===
 
* [[アーネスト・フェノロサ]] - 哲学、日本美術を評価(米)
 
* [[アントニオ・フォンタネージ]] - 絵画、[[工部美術学校]](伊)
 
* [[ルーサー・ホワイティング・メーソン]] - 西洋音楽の輸入。[[音楽取調掛]]教師(米)
 
* [[フランツ・エッケルト]] - 現行「[[君が代]]」の編曲(一説では作曲も)(独)
 
* [[ジョン・ウィリアム・フェントン]] - [[軍楽隊]]の導入(英)
 
* [[シャルル・ルルー]] - 音楽、特に[[軍楽隊|軍楽]]の指導、[[陸軍分列行進曲]]([[抜刀隊]]・[[扶桑歌]])の作曲(仏)
 
* [[ゴットフリード・ワグネル]] - [[陶磁器]]、[[ガラス器]]などの製造指導(独)
 
* [[ジョルジュ・ビゴー]] - [[漫画家]]、[[風刺漫画|風刺画]]家(仏)
 
 
 
=== 医学 ===
 
* [[エルヴィン・フォン・ベルツ|エルウィン・ベルツ]] - 医学(独)
 
* [[フェルディナント・アダルベルト・ユンケル]] (Ferdinand Adalbert Junker von Langegg) - 医師(墺)
 
* [[テオドール・ホフマン]] - 軍医(独)
 
* [[レオポルト・ミュルレル]] - 軍医(独)
 
* [[ウィルヘルム・デーニッツ]] - [[東京医学校]]・解剖学、警視庁・裁判医学(独)
 
 
 
=== 建築・土木・交通 ===
 
* [[フランク・ロイド・ライト]] - 建築、[[山邑邸]]、[[帝国ホテル]]新館設計(米)
 
* [[ヘルマン・エンデ]] - 建築(独)
 
* [[ヴィルヘルム・ボェックマン]] - 建築(独)
 
* [[ルドルフ・レーマン (機械工学技師)|ルドルフ・レーマン]] - 機械工学、語学教育(独)
 
* [[ヨハニス・デ・レーケ]] - 河川砂防整備(蘭)
 
* [[ローウェンホルスト・ムルデル]] - [[利根運河]]、[[広島港|宇品港]](広島港の前身)築港(蘭)
 
* [[ジョージ・アーノルド・エッセル]] - 河川整備。版画家[[マウリッツ・エッシャー]]の父(蘭)
 
* [[ファン・ドールン|セ・イ・ファン・ドールン]] - [[安積疏水]]の設計や[[野蒜築港]]計画に携わる(蘭)
 
* [[トーマス・ウォートルス]] - [[銀座煉瓦街]](英)
 
* [[ジュール・レスカス]] (Jules Lescasse) - [[生野銀山|生野鉱山]]建設のほか、[[西郷従道]]邸宅(仏)
 
* [[ジョサイア・コンドル]] - [[鹿鳴館]]の設計、[[建築学]]教育(英)
 
<!--*[[ホーレス・ケプロン]] - 道路など。各種産業技術、北海道へ(米)-->
 
* [[エドモンド・モレル]] - 新橋~横浜間の鉄道建設、初代・鉄道兼電信建築師長(英)
 
* [[リチャード・ボイル (技術者)|リチャード・ボイル]] - 京都~神戸間の鉄道建設、E・モレルの後任(英)
 
* [[リチャード・フランシス・トレビシック]] - [[官設鉄道]]神戸工場汽車監察方。国産第1号機関車を製作。機関車の父[[リチャード・トレビシック]]の孫(英)
 
* [[フランシス・ヘンリー・トレビシック]] - 鉄道技術を伝える。官設鉄道新橋工場汽車監督。リチャード・フランシスの弟(英)
 
* [[レオンス・ヴェルニー]] - [[横須賀造船所|横須賀造兵廠]]、[[長崎造船所]]、[[城ヶ崎灯台]]など(仏)
 
* [[ベンジャミン・スミス・ライマン]] - 後の[[夕張炭鉱]]など[[北海道]]の[[地質調査]](米)
 
* [[リチャード・ヘンリー・ブラントン]] - 各地で灯台築造・[[横浜市|横浜]]の街路整備(英)
 
* [[コーリン・アレクサンダー・マクヴェイン]] (Colin Alexander McVean) - 灯台築造、工学寮工学校校舎・教師館・生徒館、銀座煉瓦街計画、[[関八州]]大[[三角測量]]の指導(英)
 
* [[ヘンリー・S・パーマー]] - 横浜ほか、全国各地の水道網設計(英)
 
* [[ウィリアム・K・バートン]] - 各地の上下水道を整備(英)
 
* [[ジョン・ウィリアム・ハート]]{{要出典|date=2017年10月}} - [[神戸外国人居留地]]計画(英)
 
* [[エドモン・オーギュスト・バスチャン]] - [[横須賀製鉄所]]・[[富岡製糸場]]などの設計(仏)
 
* [[シャルル・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィル]] (Charles Alfred Chastel de Boinville) - [[皇居]]謁見所、工部大学校校舎など(英仏)
 
* [[ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ]] - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]や[[遊就館]]など(伊)
 
* [[ジョン・スメドレー]] (John Smedley) - [[東京大学]][[理学部]]で造営学、図学[[講師 (教育)|講師]]。都市開発提案など([[オーストラリア|豪]])
 
* [[チャールズ・A・W・パウネル]] (Charles Assheton Whately Pownall) - 橋梁設計、帰国後も日本の鉄道全権顧問を委嘱(英)
 
* {{仮リンク|チャールズ・A・ビアード|en|Charles A. Beard}} - 鉄工業者、[[関東大震災]]前後における[[東京市]]復興建設顧問(米)
 
* [[ヘルマン・ルムシュッテル]] - [[九州鉄道]]の建設指導(独)
 
* [[フランツ・バルツァー]] - 東京の高架鉄道計画・設計(独)
 
* [[ウォルター・ページ]] - 鉄道運輸業務、列車ダイヤの祖(英)
 
 
 
=== 各種産業技術 ===
 
* [[エドウィン・ダン]] - 北海道の農業指導(米)
 
* [[ウィリアム・ブルックス]] - 北海道の農業指導(米)
 
* [[ルイス・ベーマー]] - 北海道の農業指導(米〈独系移民〉)
 
* [[ホーレス・ケプロン]] - 北海道の農業指導、道路など(米)
 
* [[ウィルヘルム・コブリッツ]] - ビール醸造技師(独) <ref>札幌ビール『エビスビール記念館』([http://www.sapporobeer.jp/brewery/y_museum/event/20160812/index.html Web])。</ref>
 
* [[ヘンドリック・ハルデス]] - [[長崎造船所]]、製鉄所建設(蘭)
 
* [[レオンス・ヴェルニー]] - [[海軍工廠]]の建設指導など(仏)
 
* [[オスカル・ケルネル]] - [[農芸化学]](独)
 
* {{仮リンク|オスカル・レーヴ|de|Oskar Loew}} - 農芸化学(独)
 
* [[ウィリアム・エドワード・エアトン]] - 物理学(英)
 
* [[クルト・ネットー]] - [[鉱業]]の技術指導(独)
 
* [[ジャン・フランシスク・コワニエ]] - 鉱山技術、[[生野銀山]]にて帝国主任鉱山技師、日本各地の鉱山調査(仏)
 
* [[トーマス・ウィリアム・キンダー]] - 大阪[[造幣局 (日本)|造幣寮]]首長(英)
 
* [[ウィリアム・ゴーランド]] - 造幣寮での化学・[[冶金]]指導など、[[古墳]]研究で考古学にも貢献(英)
 
* [[カール・フライク]] (Karl Flaig) - 帝国ホテル総支配人として西欧ホテル経営の基礎を伝える(独)
 
* [[ポール・ブリューナ]] - [[富岡製糸場]]の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで(仏)
 
* [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘルマン・ハイトケンペル]] - 革靴製造の指導(独)
 
* [[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]] (William Cogswell Whitney) - 商法講習所教員(米)
 
* [[アレキサンダー・アラン・シャンド]] (Alexander Allan Shand) - 大蔵省紙幣寮顧問(英)
 
* [[トーマス・アンチセル]] - 鉱山技師。大蔵省紙幣寮、紙幣用インク研究(米)
 
 
 
=== 軍事 ===
 
* [[シャルル・シャノワーヌ]] - [[江戸幕府]]の[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]](仏)
 
* [[ジュール・ブリュネ]] - [[榎本武揚]]率いる幕府軍軍事顧問(仏)
 
* [[シャルル・ビュラン]] - 横浜仏語伝習所・陸軍兵学寮教員(仏)
 
* [[カール・ケッペン]] - [[紀州藩]]の軍事顧問([[プロイセン|普]])
 
* [[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ]] - 近代海軍の教育(蘭)
 
* [[アーチボルド・ルシアス・ダグラス]] - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]教官(英)
 
* [[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]] - [[陸軍大学校]]教官(独)
 
* [[シャルル・アントワーヌ・マルクリー]] (Charles Antoine Marquerie) - 明治政府が招聘した[[フランス軍事顧問団 (1872-1880)|フランス軍事顧問団]]団長(仏)
 
 
 
== 御雇の意味 ==
 
「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した<ref>「御雇外国人」([[梅渓昇]]執筆。『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 第2巻』吉川弘文館、[[1980年]]、924頁)。</ref>。[[在外公館]]で雇用されていた者や[[外国人居留地]]の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。本項では、便宜的に、私雇外国人を含めて記述する。
 
 
 
なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「[[御用達|御用]]」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏([[氏姓]]、[[苗字]]を名乗ること)・[[帯刀]]・[[世襲]]が許される場合もあった。
 
 
 
== 墓所 ==
 
お雇い外国人の中には日本に[[墓|墓所]]が残されている者もいる。ハーンの墓所は[[島根県]][[松江市]]の重要な[[観光資源]]にも位置付けられている。[[アーネスト・フェノロサ]]はロンドン滞在中に亡くなったが、[[園城寺]](三井寺)に[[埋葬]]された。
 
 
 
[[東京都]]にある[[青山霊園]]の青山外国人墓地では、関係者の所在が不明となり、管理料(2005年現在、年590円)が長年にわたって未納のままのものがある。通例であれば[[無縁仏]]として集合墳墓に改葬されるところだが、青山霊園の場合、[[2006年|2006]](平成18)年度に東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を文化史的に再評価し[[史跡]]として保護する方針であることが[[2005年]](平成17年)[[2月18日]]の[[読売新聞]]で報じられた。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[幕末の人物一覧]]
 
* [[明治の人物一覧]]
 
* [[幕末]]
 
* [[明治維新]]
 
* [[文明開化]]
 
* [[顧問]]
 
* [[開拓使]]
 
* [[日蘭関係]]
 
* [[日独関係]]
 
* [[日米関係]]
 
* [[日英関係]]
 
* [[日仏関係]]
 
* [[日伊関係]]
 
* [[洋務運動]]<!-- - 明治の始めごろの[[清朝]]末期([[1860年代]]前半 - [[1890年代]]前半、清朝[[年号]]は[[同治]]7年~)で[[太平天国の乱]]後曽国藩、李鴻章などが中心に清も西洋の文化・産業・軍事を取り入れるために始めた運動で清に多く顧問と清の役人などに[[留学生]]を送った。-->
 
* [[外国人による日本論の名著]]
 
* [[日本学]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [{{NDLDC|784455/58}} 工部本省]、[{{NDLDC|784455/212}} 鉄道局]、[{{NDLDC|784455/319}} 電信局]、[{{NDLDC|784455/352}} 灯台局]、[{{NDLDC|784455/393}} 工作局]、[{{NDLDC|784455/417}} 営繕課]、[{{NDLDC|784455/512}} 工部大学校] - 「傭外国人各務担当表」-国名/職名/給料/雇用年月/解雇年月『工部省沿革報告』([[1889年]]、国会図書館デジタルコレクション)
 
* [http://www.meiji-portraits.de/ Meiji-Portraits] - お雇い外国人を中心とした明治期(主に1905年まで)の人物リスト(独・英語)
 
 
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[[Category:日本史の人物一覧]]
 
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お雇い御雇外国人(おやといがいこくじん)

 日本の近代化過程において、江戸幕府および諸藩、続いての明治政府や民間の会社・学校などが、ヨーロッパ、アメリカの先進文化を急速に移入するために、各分野・部門にわたり指導者ないし教師として雇用した外国人のことをいう。

 お雇い外国人の先駆は、1855年(安政2)開設の幕府の長崎海軍伝習所にきたオランダ海軍士官・水夫たちであり、またお雇い外国人採用の意見としては、佐久間象山(しょうざん)が自分の妻の兄にあたる勝海舟(かつかいしゅう)の海外留学の希望に対して、翌56年7月、「いずれにも欧墨諸州の如(ごと)く諸学術を明かに致し候はんには、其(その)州へ留学又は差遣、又彼(かの)州よりも師範のもの召呼ばれ天下普通に其科を御(お)開き御座候様に之(こ)れ無く候ては遂に行届き申まじく候」と書き送った書簡にみえるのが早い例である。

 1860年(万延1)を画期として蘭学(らんがく)が廃(すた)れ、わが国で新しく英語を中心とする洋学が始められるようになると、長崎、横浜などの幕府諸機関や薩摩(さつま)藩などの洋式工業の経営にアメリカ、イギリス、フランス人が雇用されるようになる。やがて明治政府の手によって、富国強兵・殖産興業をスローガンに、全面的にヨーロッパ、アメリカ文明の長所である近代的諸制度、科学、技術などの移入が急務とされるに至って、お雇い外国人は、政治、法制、軍事、外交、金融、財政、産業、交通、建築、土木、開拓、科学、教育、美術、音楽などの各分野に多数雇用された。政府雇い外国人は、1874~75年(明治7~8)がもっとも多数で、その数は約520人に上り、その後は漸次減少して、80年ごろには半数となり、それ以後も漸減した。政府雇い外国人の実総人数は、目下のところ推定の域を出ないが、明治年間を通じておそらく3000人前後に達するであろう。

 職務別では、明治10年代の初めまでは、技術者、学術教師、事務家の順で、とくに前二者が多い。それが明治20年代以降になると、技術者の数が少なくなり、学術教師、事務家、技術者の順となる。「お雇い外国人時代」というのは、1870~85年に至る、いわゆる「工部省時代」に重なり、ほぼ明治初年から明治20年(1887)ごろまでである。

 国籍別では、政府雇い外国人の大部分は、当時日本との国際的関係のうえで重要な地位を占めていたイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの4か国からきた人々であった。イギリス人は、鉄道、電信、灯台、鉱山(以上工部省)と海軍教育(海軍省)、フランス人は横須賀造船所における造船(初め工部省、のち海軍省へ移管)と陸軍教育(陸軍省)、ドイツ人は教育、とくに医学教育(文部省)、アメリカ人は教育(文部省)と開拓(開拓使)の方面でもっとも多く活動し、寄与した。

 お雇い外国人をもっとも多く雇い入れたのは文部省と工部省で、明治政府が近代的な学術と技術の移入にいかに熱心であったかがわかる。とくに工部省時代の全期間を通じてのお雇い外国人の実総人数580人のうち、イギリス人技師が450人と、およそその80%を占め、しかもイギリス人の約半数が鉄道に関係したというところに、日本近代化の特徴がよくうかがわれる。

 民間でも明治政府の方針に呼応して学校や会社にお雇い外国人を採用した。とくに顕著なのが三菱(みつびし)会社で、1875年7月~76年6月の間のお雇い外国人は300人余りに達し、多くはその所有船の船長・機械方を務めている。民間お雇い外国人の数は、74年には126人であったが、その後漸次増加して、92年には572人に達し、政府雇いの漸減とは対照的な傾向を示す。これら民間のお雇い外国人も政府雇いに劣らない大きな貢献をした。

 お雇い外国人は一般に高額の給料を支給され優遇された。1876年ごろまでに太政(だじょう)大臣三条実美(さねとみ)の月給800円を超える者が10人前後もあり、右大臣岩倉具視(ともみ)の月給600円を超える者も15人前後いる。しかし、普通には100円以上200円までの者が多かった(日本人の六、七等奏任官たとえば星亨(とおる)租税寮権助・名村泰蔵司法省七等出仕相当)。当時の日本には、「先進国に追いつくまではすべての犠牲を払わねばならない。そのために殖産興業や文化が発達して国益が増せば、打算として損はない」という考えが支配していた。お雇い外国人の歴史的役割は、日本に近代的な技術・学術を急ぎ移植したことにあったが、しかし日本の近代化にとっての助言者ないし脇役(わきやく)たるにとどまった。それは、明治政府なり民間諸会社の指導者たちが近代化政策決定の主導権を固く保持して、これらお雇い外国人に譲ることがなかったからである。彼らは日本の近代化に際し多大の貢献をしたが、わが国が彼らを雇用するにあたり、その国籍について意識的な選択を行ったため、各部門相互の間でそれぞれの技術的・文化的母国が異なる結果を生じ、近代化過程でひずみを生み出すに至った。  お雇い外国人たちは、一般に日本を愛し、なかには日本人女性を妻として永住した者もおり、僻地(へきち)で牛乳や卵を欠いて不自由な生活に困った者もいる。東京大学で教えたアメリカの動物学者モースの『日本その日その日』は、日本における彼らの生活を生き生きと描いて興味深い。



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