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− | {{Infobox 人物
| + | [[ファイル:ラッセル(1911).jpg|サムネイル]] |
− | |氏名 = Charles Taze Russell
| + | '''チャールズ・テイズ・ラッセル'''(Charles Taze Russell、[[1852年]][[2月16日]] - [[1916年]][[10月31日]]) |
− | |ふりがな = チャールズ・テイズ・ラッセル
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− | |画像説明 = 1911年撮影
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− | |生誕地 = {{USA}} [[ペンシルベニア州]][[:en:Allegheny|アレゲーニー]]
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− | |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1852|2|16|1916|10|31}}
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− | |死没地 = {{USA}} [[テキサス州]][[パンパ]]
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− | |職業 = [[ものみの塔聖書冊子協会|ものみの塔協会]]初代会長
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− | |religion = 聖書研究者(現在の[[エホバの証人]])
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− | |配偶者 = マリア・フランシス・アクリー ({{lang|en|Maria Frances Ackley}})
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− | '''チャールズ・テイズ・ラッセル'''(Charles Taze Russell、[[1852年]][[2月16日]] - [[1916年]][[10月31日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[宗教家]]。[[キリスト教系の新宗教]]である[[エホバの証人]]を設立した。
| + | アメリカの宗教家。国際聖書学生協会の創立者。長老派,会衆派のプロテスタントとして育ったが,既成教会の信条を捨て,1872年独自の聖書研究会を生地に組織。 77年以降キリストの不可視の再臨を唱え,キリストの世界統治が 1944年に始ると予言,終生キリストの千年統治説を説き続けた。 |
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− | ラッセルは1870年に「聖書研究会」を開き、それら成員は「聖書研究者」または「国際聖書研究者」(現在の「[[エホバの証人]]」)と呼ばれるようになり、1879年には『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』(現在の『[[ものみの塔]]』誌)を創刊し、1884年に宗教法人である「シオンのものみの塔冊子協会」(現在の「[[ものみの塔聖書冊子協会]]」)を設立し、その初代会長を務めた。パスター・ラッセル(「[[牧師]]」の意味)との愛称で呼ばれていた<ref name="ReferenceA">『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、54頁。</ref>。
| + | 1879年『[[ものみの塔]]』を発刊,84年「ものみの塔聖書冊子協会 (通称エホバの証者) 」 The Watch Tower Bible and Tract Societyを創設,伝道を広く行なった。 |
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− | 墓石が、Freemasonry([[フリーメイソン]])本部(米国 Rosemont United Cemeteries)の間近に在る。
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− | == 活動以前 ==
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− | === 出生と少年時代 ===
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− | チャールズ・テイズ・ラッセルは、アメリカ合衆国の[[ペンシルベニア]]州アレゲーニー(現在の[[ピッツバーグ]]の一部)において、父親ジョセフ・L・ラッセル(1897年12月27日死去)と母親アン・エリザ・バーニー・ラッセル(1861年1月25日死去)の次男として生まれた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。</ref><ref>''Jehovah's Witnesses in the Divine Purpose'', 1959, p. 17.</ref>。両親は共に[[スコットランド]]―[[アイルランド]]系の[[長老派教会]]のキリスト教徒であった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。後に父親は聖書研究会のメンバーとなった<ref name="ReferenceB">『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、43頁。</ref>。母親は彼が9歳の時に死亡した<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。後に彼は近所の[[会衆派教会|組合教会]]に入った<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。実家は男性用の服飾店で、ラッセル自身も11歳の時、父親と共同で男性用服飾店を経営し、15歳の時には各地に店を持つようになった<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、34頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、43頁。</ref>。やがて一人で経営を切り盛りし事業は成功していたようである<ref name="ReferenceB"/>。
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− | === 伝統的教理に対する疑問 ===
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− | 彼は夜遅くまで聖書を熱心に研究する子供であったと伝えられている<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。しかし、少年であった彼は聖書を研究するにつれ、「[[地獄]]における永遠の責め苦」また「[[予定説|運命予定説]]」の伝統的な教理に対して疑問を抱くようになる<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。彼は様々な教派の信条を調査したり、東洋の主要な宗教も研究したが、納得の行く答えは見い出せなかった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。17歳の頃までには、事業に専念することを考えるようになっていたという<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>。
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− | == 聖書研究及び再臨運動 ==
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− | [[File:Heraldmorningcover.jpg|thumb|right|180px|N・H・バーバーとC・T・ラッセルの共同編集により刊行された宗教雑誌『朝の先触れ (''Herald of the Morning'')』]]
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− | === 「聖書研究会」の発足 ===
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− | [[1869年]]頃、ちょうど時は[[リバイバル (キリスト教)|リバイバル]]([[第三次大覚醒]])の時期であり、当時流行しつつあった再臨派([[セブンスデー・アドベンチスト教会]])の集会に出席し、その教会の牧師ジョナス・ウェンデルから説教を聴いた。それによって聖書が霊感によって書かれた著作であることを改めて確信した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、44頁。</ref>。その中で後に彼の教義体系の中核になるものをつかんでいき、セブンスデー・アドベンチスト教会の本の中の「地獄というのは墓にすぎない」という教義を借用して、永遠の刑罰の教えに反対し「[[地獄]]」(マルコによる福音書9:43~48)の存在を否定した([[霊魂消滅説]])<ref>[http://jwtc.info/uploads/photos/55.pdf ものみの塔への疑問 -JWTC エホバの証人をキリストへ]</ref><ref name="ogata">[[尾形守]]『[[異端見分けハンドブック]]』プレイズ出版</ref>。1870年、再び聖書研究に意欲を燃やした彼は、6名ほどの友人たちと共に「聖書研究会」を作り毎週集会を開いた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、36頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、36頁。</ref>。それから5年間、彼らは[[魂 (キリスト教)|霊魂不滅]]の教理の間違い、キリストの贖いの犠牲、キリストの再臨は目に見えない形で起こる事、またキリストは地球を滅ぼすために来るわけではなく祝福するために来ると理解した<ref name="ReferenceC">『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、45頁。</ref>。彼は、牧師ジョナス・ウェンデルに恩がある事を認めると共に、ペンシルベニア州[[:en:Edinboro|エディンボロ]]のキリスト再臨教会の牧師ジョージ・W・ステットソンと、[[ニューヨーク]]州[[ブルックリン区|ブルックリン]]の『バイブル・イグザミナー (''Bible Examiner'')』誌の発行者ジョージ・ストーズの二人の援助にも感謝を表明している<ref name="ReferenceC"/>。
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− | === 『朝の先触れ』誌の共同編集 ===
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− | 1876年1月、23歳のラッセルは『朝の先触れ (''Herald of the Morning'')』という[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]の宗教雑誌を入手したが、その編集者ニューヨーク州[[ロチェスター]]のネルソン・H・バーバーは、キリストはすでに目に見えない形で再臨しておられ、「小麦(真のクリスチャン)」([[マタイ福音書|マタイ]] 13:24-30)を収穫する業は始まっていると論じていた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、46頁。</ref>。関心を持ったラッセルは、[[フィラデルフィア]]でバーバーと会見を開き、聖書研究会はバーバー主催のグループと合同した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、36頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、46頁。</ref>。ラッセルは『朝の先触れ』誌を印刷するための資金を個人的に寄付し、同誌の共同編集者となった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、36頁。"/>。1877年、ラッセルは事業の株を売却して全時間の伝道活動に携わり、旅行しながら多くの講演を行い、資金が尽きた後は寄付により活動を続けた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、36頁。"/>。同年、小冊子『我らの主の帰還の目的とそのありさま (''The Object and Manner of Our Lord’s Return'')』を出版した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、47頁。</ref>。さらに同年、バーバーとラッセルは書籍『三つの世界およびこの世界の収穫 (''Three Worlds, and the Harvest of This World'')』を共同出版した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、47頁。</ref>。この書籍は、キリストの見えない再臨は1874年の秋から始まったとの見解を載せていた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、47頁。</ref>。また、「諸国民の定められた時」([[ルカによる福音書|ルカ]] 21:24)の期間は1914年に終わることを指摘していた<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、37頁。</ref>。しかし、やがて二人の見解は食い違うようになった。バーバーは『朝の先触れ』誌1878年8月号で、キリストの贖いの価値に対する否定的な記事を書き、9月号ではラッセルはキリストの贖いを支持する記事を書いた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、47頁。</ref>。この論争は同誌上で12月号まで続き、ついにラッセルはバーバーへの資金援助を打ち切り、二人は決別した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、47頁。</ref>。バーバーはその後、1903年まで『朝の先触れ』誌を発行し続け、1906年に亡くなった<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、48頁。</ref>。
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− | 1879年3月13日、ラッセルはマリア・フランシス・アクリー(1850–1938)と結婚した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、645頁。</ref><ref>''Pittsburgh Gazette'', March 14, 1879.</ref>。
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− | == ものみの塔協会設立 ==
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− | [[File:1907_Watchtower_cover.JPG|thumb|left|200px|C・T・ラッセルが創刊した宗教雑誌『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者 (''Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence'')』]]
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− | === 『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』誌の創刊 ===
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− | ラッセルは、伝道旅行よりも雑誌の発行に集中することにし、バーバーの手を借りずに自分自身で雑誌を発行する事に着手し、1879年7月、『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者 (''Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence'')』(現在の[[ものみの塔|「エホバの王国を告げ知らせる ものみの塔」]]誌)を創刊した<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、38頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、38頁。</ref>。創刊号は6000部で(1914年には約5万冊印刷された)、寄稿者は5名であった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、38頁。"/>。
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− | === 「エクレシア」の設立 ===
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− | 1879年と1880年には各地で集会を開くため、[[ペンシルベニア]]州、[[ニュージャージー]]州、[[マサチューセッツ]]州、[[ニューヨーク]]州、[[デラウェア]]州、[[オハイオ]]州、[[ミシガン]]州に約30の会衆を設立し、ラッセル自身が各会衆を訪問することを取り決めた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、39頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、39頁。</ref>。聖書研究会のこの初期の会衆は「エクレシア(「[[教会]]」や「会衆」と訳されるギリシャ語)」、または「クラス」と呼ばれた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、39頁。"/>。1880年には『ものみの塔』誌以外にも『聖書研究者のパンフレット (''Bible Students' Tracts'')』(後に『古神学季刊 (''Old Theology Quarterly'')』と呼ばれた)を無料で配布した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、51頁。</ref>。
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− | 1881年までには、聖書研究者はわずか100名ほどであった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、39頁。"/>。ラッセルは『ものみの塔』誌1881年4月号の記事で、聖書文書頒布者(「コルポーター」とも呼ばれた。現在の「開拓奉仕者」)として『ものみの塔』誌の読者を増やす伝道の業を提案した<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。</ref>。1885年中には約300名の聖書文書頒布者がいた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。"/>。同年、1881年に彼は『幕屋の教え (''Tabernacle Teachings'')』と『考えるクリスチャンのための糧 (''Food for Thinking Christians'')』という二冊のパンフレットを書いた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。"/>。
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− | === 宗教法人「シオンのものみの塔冊子協会」の設立 ===
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− | ラッセルは伝道が拡大するにつれ、民間に委託していた印刷を寄付によって賄うためには協会組織の必要があると判断した<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。"/>。そこで、1881年2月16日、ペンシルベニア州[[ピッツバーグ]]の5番街101番に、W・H・コンリーが会長を務め、ラッセルを秘書と出納係とする非法人団体としての「シオンのものみの塔冊子協会」が発足した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、576頁。</ref>。そして1884年12月15日、「シオンのものみの塔冊子協会 (Zion’s Watch Tower Tract Society)」(現在の「ペンシルベニア州のものみの塔聖書冊子協会」)は宗教法人となり、ピッツバーグから移転してアレゲーニーのフィデラル通り44番に(同年フェデラル通り40番に移転)本部が設立され<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、208頁。</ref>、ラッセルはその初代会長を務めた<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、229頁。</ref>。
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− | === 「塔出版会社」と「バイブル・ハウス」 ===
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− | 彼は、1886年から全七巻に渡る『千年期黎明 (''Millennial Dawn'')』(後に『聖書研究 (''Studies in the Scriptures'')』と呼ばれた)の執筆に着手した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、53頁。</ref>。しかし、最後の第七巻を書く前に亡くなった(第七巻『終了した秘義 (''The Finished Mystery'')』は、クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーによって書かれた)<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、53頁。 『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、91頁。</ref>。1887年からはラッセルが所有した「塔出版会社 (Tower Publishing Company)」で印刷を開始し、1898年まで用いられた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、576頁。</ref>。協会本部の拡張が必要となり、1889年にアレゲーニーのアーチ通り56-60番に4階建てのレンガ造りの建物が建設された<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、42頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、54頁。</ref>。そこは「バイブル・ハウス (Bible House)」と呼ばれ、1909年まで本部として用いられた<ref name="ReferenceA"/>。
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− | 1891年4月19日から25日にかけて、初めての大会がペンシルベニア州アレゲーニーにて開催され、こうした初期の大会は[[主の記念式]]と関連していた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、254、719頁。</ref>。1891年、ラッセルとその一行は海外旅行へと赴き、[[ヨーロッパ]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]を回って宣教活動を行った<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、42頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、42頁。</ref>。こうして、協会の文書は、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[スウェーデン語]]、[[ノルウェー語|ノルウェー標準語]]、[[ポーランド語]]、[[ギリシャ語]]、[[イタリア語]]で出版されるようになった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、42頁。"/>。1895年、彼は「黎明会 (Dawn Circles)」(後に「聖書研究のためのベレア人会」と呼ばれた)という集会も取り決めた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、238頁。</ref>。1894年には、協会の代表者21名が諸会衆を訪問する取り決めがなされ、「巡礼者」(現在の「巡回監督」や「地域監督」)と呼ばれた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、719頁。</ref>。
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− | 1896年に「シオンのものみの塔冊子協会」は「[[ものみの塔聖書冊子協会]] (Watch Tower Bible and Tract Society)」と名称が変更された<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、229頁。</ref>。1898年、ラッセルは「塔出版会社」をものみの塔協会に寄贈し、植字と組版は「バイブル・ハウス」の成員に任され、印刷は民間事業に注文するようになった<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、576頁。</ref>。1890年代後半は、各地の大会でラッセルは講演をした<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、55頁。</ref>。その風貌は、長めの黒いフロックコートを着て、白いネクタイをし、大きな声ではなかったが、マイクやスピーカーは当時発明されていなかったので使用せず、講話中は常に身振りをし、演壇を歩き回り、原稿を使う事はなかったという<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、48頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、55頁。</ref>。
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− | === 「新聞福音伝道」及び協会本部の移転 ===
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− | 1904年、ラッセルは自分の訓話を新聞に掲載するために、<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、59頁。</ref>。新聞のための国際的な4名から成るシンジケートが組織された。<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、47頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、47頁。</ref>。1908年、新聞による説教をより大きな都市から送るため、[[ジョセフ・フランクリン・ラザフォード]]を含む協会の代表者は、ニューヨーク州[[ブルックリン区|ブルックリン]]のヒックス通り13-17番にある建物を購入し「ブルックリン・タバナクル (Brooklyn Tabernacle)」(「[[幕屋]]」の意味)と呼んだ<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、59頁。</ref>。また、[[ヘンリー・ウォード・ビーチャー]]牧師の邸宅であったコロンビア・ハイツ124番の建物も購入し、そこは協会の本部職員の宿舎として用いられ、「ベテル (Bethel)」(「神の家」の意味)と呼んだ<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、59頁。 『ものみの塔』ものみの塔聖書冊子協会、1973年製本版、589頁。</ref>。協会本部の主要な施設がペンシルベニア州アレゲーニーからブルックリンに移転されたことに伴い、1909年に「一般人の説教壇協会 (Peoples Pulpit Association)」が新たに設立され、1956年以降「ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会 (Watchtower Bible and Tract Society of New York)」と呼ばれている<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、229頁。</ref>。こうして新聞によるラッセルの説教は、同時に2000以上、合計で4000以上の新聞社によって掲載された<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、47頁。"/>。また、1909年から『一般人の説教壇 (''People’s Pulpit'')』(1911年に『万人の新聞 (''Everybody’s Paper'')』、1913年に『聖書研究者月刊 (''The Bible Students Monthly'')』と改名)という小冊子を出版した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、45頁。</ref>。さらに、1914年6月30日には、イギリスでの活動を前進させる目的で、[[イギリス]]の[[ロンドン]]に「国際聖書研究者協会 (International Bible Students Association)」(略称は「IBSA」)という宗教法人も設立された<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、229頁。</ref>。
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− | == 反対を表明した人々 ==
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− | 1894年4月5日、組織内の一部の人々は集会を開いてラッセルを告発した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、627頁。</ref>。1903年3月10日、ノース・アベニュー・[[メソジスト]]監督教会のE・L・イートン牧師とラッセルは6日間の聖書討論会を開いた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、55頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、55頁。</ref>。1908年2月23日から28日にかけて、[[オハイオ]]州[[シンシナチ]]で[[ディサイプル派]]のL・S・ワイトとの聖書討論会も開かれた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、55頁。"/>。また、ラッセルの妻(旧姓、マリア・フランシス・アクリー)は協会の理事であり『ものみの塔』誌の編集者であったが、ラッセルによる虐待に耐えきれずに<ref name="compri">[[ガエタノ・コンプリ]]『ゆがめられたキリスト』[[ドン・ボスコ社]]</ref> 協会と関係を断ち、1908年3月4日には、合法的な別居の判決が下された<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、66-67頁。</ref>。ラッセル夫人は僧職者の協力を得て告発文書を出版した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、66頁。</ref>。
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− | == 晩年 ==
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− | [[File:Russell_Laodicean_Messenger.JPG|thumb|right|200px|[[ペンシルベニア]]州[[ピッツバーグ]]にあるC・T・ラッセルの墓碑]]
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− | === 日本への宣教旅行 ===
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− | ラッセルは世界各国を旅行したが、1911年には実情調査のため日本にも来訪した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1978年、68頁。</ref>。ラッセルと同行者は[[横浜]]や[[東京]]などの諸都市から、[[長崎]]までを巡回した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1978年、212頁。</ref>。東京での彼の二つの講演では、キリスト教世界の宣教者たちは日本人が[[無神論]]に傾いていることに落胆しており、日本人に必要なのは王国の福音であると報告した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、213頁。</ref>。
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− | === 『創造の写真劇』の上映及び1914年 ===
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− | 1912年、ラッセルは全4部からなる合計8時間に及ぶ音声付きのスライド写真型のカラー映画である『創造の写真劇 (''Photo-Drama of Creation'')』を約30万ドルを費やして制作し、1914年1月から上映された<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、60頁。</ref>。[[北アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[オーストラリア]]で上映され、観客は1914年末までに合計900万人に及んだ<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、2001年1月15日号、9頁。</ref>。また、『創造の写真劇』の縮小版である『ユーリカ劇 (''Eureka Drama'')』は農村部などで上映された<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、60頁。 『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、2001年1月15日号、9頁。</ref>。
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− | ラッセルが[[異邦人の時|異邦人の終わりの時]]として推定していた年である1914年10月、同年7月28日に[[第一次世界大戦]]が勃発した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、72頁。</ref>。ラッセルは10月2日に、協会の成員たちとの朝の崇拝の際、「異邦人の時は終わりました。その王たちの日は過ぎ去ったのです」と発表した<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、73頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、73頁。</ref>。(現在の解釈では1914年10月4日から5日に終わった)<ref>『ダニエルの預言に注意を払いなさい』 ものみの塔聖書冊子協会、1999年、96頁。</ref>。聖書研究者たちは10月のはじめの週に天へ昇ると期待していたが、それは起きなかった<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、73頁。"/>。ラッセル自身は、『ものみの塔』誌1914年1月号の中で「わたしたちは、時に関する事柄を教理的な事柄と同様の絶対的な確実さを付して読まないでしょう」と述べている<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、74頁。</ref>。彼はその後も伝道活動を促進した<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、76頁。</ref>。
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− | === 臨終 ===
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− | 1916年10月31日の火曜日の正午過ぎ、64歳の時、健康状態の悪化したラッセルは、テキサス州[[サンアントニオ]]で最後の講演をした後にブルックリンへと戻る汽車の車内で、[[テキサス州|テキサス]]州[[パンパ]]にて亡くなった<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、79頁。</ref>。11月5日にニューヨーク州[[テンプル (テキサス州)|テンプル]]で、11月6日にはペンシルベニア州ピッツバーグの[[カーネギー・ホール]]で葬儀が行われ<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、80頁。">『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、80頁。</ref>、ラッセル夫人は彼が好きであったすずらんの花束と共に「愛する夫へ」と記されたリボンを棺桶に置いたと言われている<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、68頁。</ref>。その後、アレゲーニーのローズモント・ユナイテッド・セミトリーにある、協会の成員の墓地に墓碑が建てられた<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、80頁。"/>。
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− | == 思想・信条 ==
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− | ラッセルはキリスト教の伝統的な[[地獄|地獄の教理]]<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、1997年2月15日号、32頁。</ref>、[[予定説|運命予定説]]<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、35頁。"/>、[[魂 (キリスト教)|霊魂不滅]]<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、1989年3月15日号、20頁。</ref>、[[三位一体論]]<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、123頁。</ref> を否定した。聖書のみを絶対的な神の言葉として受け入れ、聖書の真理は漸進的に明確になると信じ、出版物は聖書を理解する助けに過ぎないと考えた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、133、241頁。</ref>。[[エホバ]]という固有の名を持ち、公正を知恵や愛や力と完全な調和を保つ、創造者である父なる神を崇拝した<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、123頁。</ref>。キリストの贖いの価値を支持し、キリストの再臨は目に見えない形で起こり、パルーシア(臨在)は一定期間続き、地球を滅ぼすためではなく人類を祝福するために来ると信じた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、45、133頁。</ref>。
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− | ギザの大ピラミッドは神の証しの石であり、そこから聖書の年代測定や未来の予知ができると考えた<ref name="compri" /><ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、201頁。</ref>。[[異邦人の時]]は1914年に終わると説明し<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、130頁。</ref>、その年の前には収穫の業は完了し<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、63頁。</ref>、選ばれた文字通りの14万4千人は天へと召されると考えた<ref>『啓示の書―その壮大な最高潮は近い!』 ものみの塔聖書冊子協会、2006年、118頁。</ref>。「預言の中の[[シオニズム]]」という講演の中で、1914年以後、神は実際のユダヤ人を少しずつパレスチナに復帰させ、神の代理者として彼らを再び用いると考えた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、141頁。</ref>。[[ハルマゲドン]]は政治的党派間での戦争や社会革命によって起こり、現存する諸体制を滅ぼした後<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、140頁。</ref>、残りの全人類は天国ではなく地上のパラダイスで完全な命を享受すると考えた<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、1991年5月1日号、17頁。</ref>。
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− | 「[[大娼婦バビロン|大いなるバビロン]]」([[ヨハネの黙示録|啓示]] 17:5)は、制度としての教皇制度を指すと解釈し、政治に関与した教会制度を「娼婦教会」として糾弾し、クリスチャンはそのような教会から離れるよう勧めた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、52頁。</ref>。ラッセルは自分たちが「ラッセル派」(ラセライト)あるいは「ラッセル主義」(ラッセリズム)と呼ばれる事を拒み<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、1995年5月15日号、17頁。</ref>、クリスチャンと呼ばれることを望んだ<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、149頁。</ref>。ラッセル自身は「忠実で思慮深い奴隷」([[マタイ福音書|マタイ]] 24:45-47)は特定の個人を指すのではなく、聖別されたクリスチャン全体と考えていたが<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、142頁。</ref>、ラッセル個人に当てはめようとする人々もいた<ref>『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、88頁</ref>。自分の仕事は、新しいものでも、独自のものでもなく、各教派に散らばった真理の断片を再構築し、調整し、調和を図る業だと考えた<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、18頁。</ref>。
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− | クリスチャンは神の命令に反しない限り法律をよく守るべきであり、政治活動に関与すべきではないと勧めた。<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、190頁。</ref>。聖別された者は伝道活動に加わるよう勧め<ref name="『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、40頁。"/>、宣教活動は自発的な寄付により賄われるべきであると考えた<ref>『世界中で一致して神のご意志を行なうエホバの証人』 ものみの塔聖書冊子協会、1986年、8頁。</ref>。初期の頃、彼は地的な組織を作ることを拒んで天的な組織だけを支持し、エクレシア(会衆)での集まりのことを「教会組織」と言うより「交わり」と呼ぶ方が良いと考えていた<ref>『世界中で一致して神のご意志を行なうエホバの証人』 ものみの塔聖書冊子協会、1986年、205頁。</ref>。1895年に会衆の長老たちは投票制によって選出されるよう取り決めたが、僧職者制度を認めることはなかった<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、204-206頁。</ref>。(後に1932年と1938年に長老たちは神権的に任命されるよう調整された)<ref>『ものみの塔』 ものみの塔聖書冊子協会、1995年5月15日号、22頁。</ref>。
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− | たばこの使用に関して否定的見解を持ち(1973年に[[エホバの証人]]はたばこの使用を完全に退けた)<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、23頁。</ref>、ラッセル自身は個人的良心によりアルコール飲料を一切摂取しなかった<ref>『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1994年、182頁。</ref>。
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− | == 主な著作・出版 ==
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− | * ''The Object and Manner of Our Lord’s Return'' 『我らの主の帰還の目的とそのありさま』 1877年。
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− | * ''Three Worlds, and the Harvest of This World'' 『三つの世界およびこの世界の収穫』 1887年。ネルソン・H・バーバーとの共同著作。
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− | * ''Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence'' 『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』 1879年7月号から。
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− | * ''Millennial Dawn'' 『千年期黎明』シリーズ全七巻のうち第六巻まで。後に『聖書研究 (''Studies in the Scriptures'')』と呼ばれるようになった。
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− | ** ''The Plan of the Ages'' 『世々に渉る神の経綸』 第一巻、1886年。
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− | ** ''The Time Is at Hand'' 『時は近づけり』 第二巻、1889年。
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− | ** ''Thy Kingdom Come'' 『御国の来たらんことを』 第三巻、1891年。
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− | ** ''The Day of Vengeance'' 『復しゅうの日』 第四巻、1897年。(後に『ハルマゲドンの戦い (''The Battle of Armageddon'')』と呼ばれる)
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− | ** ''The At-one-ment Between God and Man'' 『神と人間との和解』 第五巻、1899年。
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− | ** ''The New Creation'' 『新しい創造物』 第六巻、1906年。
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− | * ''Photo-Drama of Creation'' 『創造の写真劇』 1914年。
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− | == 脚注 ==
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− | {{Reflist}}
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− | == 参考文献 ==
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− | * 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年。
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− | * 『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年。
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− | * [[ガエタノ・コンプリ]]『ゆがめられたキリスト』[[ドン・ボスコ社]]
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− | == 関連項目 ==
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− | * [[エホバの証人]]
| |
− | * [[ものみの塔聖書冊子協会]]
| |
− | * [[ものみの塔]]
| |
− | * [[エホバの証人の組織構造]]
| |
− | * [[エホバの証人に関する論争]]
| |
− | * [[レイモンド・フランズ]]
| |
− | * [[セブンスデー・アドベンチスト教会]]
| |
− | * [[フリーメイソン]]
| |
− | * [[シオニズム]]
| |
− | * [[千年王国]]
| |
− | * [[ハルマゲドン]]
| |
− | * [[終わりの時]]
| |
− | * [[ゲヘナ]]
| |
− | * [[シェオル]]
| |
− | * [[新世界訳]]
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− | == 外部リンク ==
| |
− | * [http://www.watchtower.org/j/ エホバの証人の公式ウェブサイト] {{ja icon}}
| |
− | * [http://www.strictlygenteel.co.uk/index.html Strictly Genteel] {{en icon}} C・T・ラッセルに関する資料など
| |
− | * [http://www.godsplan-today.com/Japanese/J_JAP_Home.htm 世々にわたる神の計画] {{ja icon}} 口語訳『世々に渉る神の経綸』
| |
− | * [http://www.watchtower.org/j/bible/index.htm 新世界訳聖書・インターネット版]
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− | {{DEFAULTSORT:らつせる ちやあるす ていす}}
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− | {{Normdaten}}
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| [[Category:エホバの証人]] | | [[Category:エホバの証人]] |
| [[Category:国際聖書研究者(ものみの塔)]] | | [[Category:国際聖書研究者(ものみの塔)]] |
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14行目: |
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