「ドミートリイ・ショスタコーヴィチ」の版間の差分

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'''ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ'''([[ロシア語]]: {{Audio|Ru-Dmitri Dmitrievich Shostakovich.ogg|{{Lang|ru|Дмитрий Дмитриевич Шостакович}}}} <small>ドミートリイ・ドミートリイェヴィチ・シャスタコーヴィチ; ラテン文字転写の例: '''Dmitrii Dmitrievich Shostakovich'''</small>, [[1906年]][[9月25日]]([[ユリウス暦|ロシア暦]][[9月12日]]) - [[1975年]][[8月9日]])は、[[ソビエト連邦]]時代の[[作曲家]]。[[交響曲]]や[[弦楽四重奏曲]]が有名である。
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'''ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ'''([[ロシア語]]: {{Lang|ru|Дмитрий Дмитриевич Шостакович}} <small>ドミートリイ・ドミートリイェヴィチ・シャスタコーヴィチ; ラテン文字転写の例: '''Dmitrii Dmitrievich Shostakovich'''</small>, [[1906年]][[9月25日]]([[ユリウス暦|ロシア暦]][[9月12日]]) - [[1975年]][[8月9日]]
  
[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]と共に、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]以降の最大の[[交響曲作曲家]]としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、[[弦楽四重奏]]曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における[[20世紀]]最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方で[[ポピュラー音楽]]も愛し、[[ジャズ]]風の軽妙な作品も少なからず残している。
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ロシア(ソ連)の作曲家。ペテルブルグに生まれ,レニングラード音楽院に学ぶ。ピアニストとしてデビューしたが,1930年代以降は作曲に専念,生涯にわたって振幅の激しい,緊迫性に富む音楽を書いた。全15曲に及ぶ交響曲,オラトリオ「森の歌」(1949)などを代表作とするが,文学・演劇との関わりでは,ゴーゴリ原作の歌劇「鼻」Нос(30),レスコフの小説による歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」Леди Макбет Мценского уезда(34,のちに「カテリーナ・イズマイロワ」Катерина Измайловаと改訂),エフトゥシェンコの詩によるバラード「ステパン・ラージンの処刑」(64)が知られる。ほかにブローク,ツヴェターエワ,ロルカ,リルケらの詩に音楽を書いた。映画音楽ではシェイクスピアの「ハムレット」付随音楽(64)が名高い。
 
 
当初、体制に迎合したソ連の[[プロパガンダ]]作曲家というイメージで語られていたが、『[[ショスタコーヴィチの証言]]』<ref name="c">音楽学者の千葉潤は、発表以来続いた『ショスタコーヴィチの証言』の真贋論争は現在では[[偽書]]でほぼ決着しているとの見解を示している。(千葉潤 『ショスタコーヴィチ』 音楽之友社、2005年。181 - 182頁。ISBN 4-276-22193-5。)</ref>が出版されて以後、ショスタコーヴィチは皮肉や反体制といったイメージによって塗り替えられ、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」として[[西側諸国]]における演奏の機会も急激に増加した{{要出典|date=2010年1月}}。<!--論評 ソ連の芸術政策に少なくとも表面上は迎合し、分かりやすい音楽を多く作曲したため、難解な[[現代音楽]]が隆盛した20世紀の[[クラシック音楽]]界にあっては珍しく大衆的な成功を勝ち得た稀有な作曲家のひとりとなった。-->
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 略歴 ===
 
{{年譜のみの経歴|date=2015年12月19日 (土) 15:52 (UTC)}}
 
[[ファイル:Shostakoviz,Shirma.jpg|thumb|1974年当時(左から4番目)]]
 
* [[1906年]] 9月25日、[[ロシア帝国]]の[[首都]][[サンクトペテルブルク]]に生まれる。
 
* [[1915年]] 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ([[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]の《[[サルタン皇帝|サルタン王の物語]]》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲も始める。
 
* [[1916年]] [[グリャッセール音楽学校]]に入学。
 
* [[1917年]] 2月、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールのところへ通う興味を失ってしまう。
 
* [[1918年]] 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)
 
* [[1919年]] 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、[[サンクトペテルブルク音楽院|ペテルブルク音楽院]]に入学。[[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]に師事する。
 
* [[1921年]] ユストニナ校を中退。
 
* [[1922年]] 父が死去。
 
* [[1923年]] 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した[[結核]]療養のために訪れた[[クリミア半島|クリミア]]で、初のピアノ・リサイタルを開く。
 
* [[1924年]] 11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める
 
* [[1925年]] 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として[[交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第1番]]を作曲。
 
* [[1926年]] 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。
 
* [[1927年]] 1月、第1回[[ショパン国際ピアノコンクール]]に出場。
 
* [[1928年]] [[フセヴォロド・メイエルホリド|メイエルホリド]]劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。
 
* [[1930年]] バレエ音楽「[[黄金時代 (ショスタコーヴィチ)|黄金時代]]」完成し、レニングラードで初演。失敗する。
 
* [[1931年]] バレエ音楽「[[ボルト (バレエ)|ボルト]]」完成し、レニングラードで初演。同じく失敗する。
 
* [[1932年]] 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇「[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]」を彼女に献呈。8月、[[ソビエト連邦作曲家同盟|作曲家同盟]]レニングラード支部の運営委員に選出。
 
* [[1933年]] 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。[[ピアノ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ協奏曲第1番]]初演。
 
* [[1934年]] レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。
 
* [[1936年]] 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1月)とバレエ「明るい小川」(2月)に対する[[プラウダ批判]]。5月30日、長女ガリーナ生誕。
 
* [[1937年]] 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]]初演(11月21日)。この成功により名誉を回復。
 
* [[1938年]] 5月10日、長男[[マクシム・ショスタコーヴィチ|マクシム]]生誕。
 
* [[1939年]] ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。
 
* [[1940年]] 5月、労働赤旗勲章受章。[[ピアノ五重奏曲 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ五重奏曲]]が[[スターリン賞]]を受賞。
 
* [[1941年]] [[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]]を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。
 
* [[1942年]] 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。[[ロシア共和国功労芸術家]]の称号を授与。
 
* [[1943年]] 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。
 
* [[1946年]] [[ピアノ三重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ三重奏曲第2番]]がスターリン賞第2席を受賞。12月、[[レーニン勲章]]受章。
 
* [[1947年]] 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、[[ロシア共和国人民芸術家]]の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。
 
* [[1948年]] [[ジダーノフ批判]]。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。
 
* [[1948年]] 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。
 
* [[1949年]] オラトリオ「[[森の歌]]」作曲・初演。
 
* [[1950年]] 「[[森の歌]]」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。
 
* [[1952年]] 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。
 
* [[1953年]] [[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第10番]]作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員として[[オーストリア]]に派遣される。
 
* [[1954年]] 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、[[ソ連人民芸術家]]の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、[[スウェーデン王立音楽アカデミー]]の名誉会員に選出される。
 
* [[1955年]] [[ベルリン芸術アカデミー|東ドイツ芸術アカデミー]]の準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。
 
* [[1956年]] 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。
 
* [[1957年]] 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。[[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第11番]]がレーニン賞受賞。
 
* [[1958年]] [[オックスフォード大学]]より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。
 
* [[1959年]] 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。
 
* [[1960年]] 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。
 
* [[1961年]] 9月、[[ソビエト共産党]]員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番]]初演(12月30日)。
 
* [[1962年]] [[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第13番]]作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回[[チャイコフスキー国際コンクール]]の組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、[[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー市]]で行われたコンサートで「[[祝典序曲 (ショスタコーヴィチ)|祝典序曲]]」を指揮。
 
* [[1963年]] [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]国際音楽評議会名誉会員に選出。
 
* [[1964年]] バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。
 
* [[1965年]] 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。
 
* [[1966年]] 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・[[ロイヤル・フィルハーモニック協会]]金賞受賞。10月、[[レーニン勲章]]受章。[[社会主義労働英雄]]の称号を授与。
 
* [[1967年]] 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。
 
* [[1968年]] 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。
 
* [[1969年]] [[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番]]作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。
 
* [[1970年]] クルガンの[[サナトリウム]]で8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。
 
* [[1971年]] 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。
 
* [[1972年]] 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
 
* [[1973年]] デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
 
* [[1974年]] 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
 
* [[1975年]] 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「[[ヴィオラソナタ (ショスタコーヴィチ)|ヴィオラソナタ]]作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都[[モスクワ]]の病院にて肺ガンで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。
 
 
 
=== 詳細 ===
 
[[1919年]]ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノ。[[1925年]]に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した[[交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第1番]]において国際的に注目された。1920年代後半から1930年代前半にかけては、[[アルバン・ベルク]]や[[ダリウス・ミヨー]]など西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特に[[ピアノ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ協奏曲第1番]]ではジャズに、歌劇『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]』ではベルクの歌劇『[[ヴォツェック]]』などに触発された音楽となっている。しかし、[[1936年]]に歌劇『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『[[プラウダ]]』で批判([[プラウダ批判]])を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番]]の初演を撤回。批判以後、改めて作曲された[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]]以降、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「[[社会主義リアリズム]]」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。
 
 
 
1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。中でも、スターリン賞を受賞した[[ピアノ五重奏曲 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ五重奏曲]]や、友人の突然の死を悼んだ[[ピアノ三重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ三重奏曲第2番]]、独ソ戦開戦直後から書き始められた[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番「レニングラード」]]が有名である。
 
 
 
[[1948年]]、ソビエトの作曲家のほとんどが「[[形式主義 (音楽)|形式主義者]]」として共産党により批判(「[[ジダーノフ批判]]」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『[[森の歌]]』や映画音楽『[[ベルリン陥落]]』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。一方、[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]](1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。
 
 
 
[[1953年]][[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が死ぬと、[[交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|第9番]]以降、ジダーノフ批判があってから書かれていなかった交響曲([[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|第10番]])を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。
 
 
 
1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「[[雪どけ (小説)|雪解け]]」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番]]や[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。特にこの時期を代表する作品が[[弦楽四重奏曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第8番]]と[[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第13番]]の2曲である。弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「[[DSCH音型|DSCH]]」の音列を中心主題の素材として用い、自身への[[レクイエム]]とした。また、[[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第13番]](1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バービィ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化や(『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、[[ヴィオラソナタ (ショスタコーヴィチ)|ヴィオラソナタ]]など)と共に、[[十二音技法]]や[[トーン・クラスター]](『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や[[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番]]など)など、前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。ショスタコーヴィチの最晩年を代表する傑作は、次の3曲である。まず、[[交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第15番]](1972年)は、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の[[ウィリアム・テル序曲|『ウィリアム・テル』序曲]]や、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の楽劇『[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした。[[弦楽四重奏曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第15番]](1974年)は、すべての楽章をアダージョとした異色作。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第14番『月光』]]からの引用もある。死の1ヶ月前に完成し、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作[[ヴィオラソナタ (ショスタコーヴィチ)|ヴィオラソナタ]](1975年)は、どこまでも透明でショスタコーヴィチの「白鳥の歌」と呼ぶに相応しい傑作。
 
 
 
また[[ピアニスト]]としても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。第1回[[ショパン国際ピアノコンクール]]にソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。しかし、後年は脊椎性[[小児麻痺]]の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。また大の[[サッカー]]好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。[[サッカー審判員|サッカーの審判]]の資格も持っていた。
 
 
 
== 作風 ==
 
ショスタコーヴィチの作品には、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の[[フーガ]]、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、[[アルバン・ベルク|ベルク]]の和声語法や引用法などの影響が見られ、[[オーケストレーション]]はあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は[[調性音楽]]の範囲内にあるが、[[無調]]的な主題を用いることも多く、最晩年には[[十二音技法]]を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、[[交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第9番]]や[[ジャズ組曲 (ショスタコーヴィチ)|ジャズ組曲]]のような軽妙な作品も多く作曲している。
 
 
 
一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。
 
 
 
=== 初期・前衛的な作品群 ===
 
{{節スタブ}}
 
作品1 - 作品46(1919年 - 1936年)
 
少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は、前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、[[交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第1番]]の冒頭では、[[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]に和声の変更を指摘されていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、格言集(作品13)、そして[[交響曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第2番]](作品14)がある。しかし、『[[タヒチ・トロット]]』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『[[黄金時代 (ショスタコーヴィチ)|黄金時代]]』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、[[ピアノ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ協奏曲第1番]](作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。[[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番]](作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、[[新ウィーン楽派]]に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『[[5つの断章 (ショスタコーヴィチ)|5つの断章]]』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。[[ゴーゴリ]]の短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、[[アルバン・ベルク|ベルク]]、[[エルンスト・クルシェネク|クルシェネク]]ら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人]]』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、ムツェンスク郡のマクベス夫人』が[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。
 
 
 
=== 社会主義リアリズム ===
 
作品47 - 作品92(1936年 - 1953年)
 
第4番のような前衛性を控えた[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]](作品47)は初演後に「[[社会主義リアリズム]]のもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された<ref>[[ローレル・フェイ]] 『ショスタコーヴィチ ある生涯』 アルファベータ、2005年(改訂新版)、135頁。ISBN 978-4-87198-534-5。</ref>。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、[[ロシア革命]]を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺された[[セルゲイ・キーロフ|キーロフ]]を髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。[[第二次世界大戦]]の勃発後は[[ピアノ五重奏曲 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ五重奏曲]](作品57)や[[交響曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第8番]](作品65)、[[ピアノ三重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ三重奏曲第2番]](作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「[[ジダーノフ批判]]」が出てからは、オラトリオ『[[森の歌]]』(作品81)や映画音楽『[[ベルリン陥落]]』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。
 
 
 
=== ユダヤ音楽への傾倒 ===
 
ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は[[ピアノ三重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)| ピアノ三重奏曲第2番]] (1944年)といわれていた<ref> イアン マクドナルド The new Shostakovich p73</ref><ref>エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006年、225頁。ISBN 978-0-571-22050-2。</ref>。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった<ref>ヨアヒム ブラン Double meaning of Jewish Element in Domitori Shostakovich1985 p68~80</ref>。1937年の[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]]第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れそれは[[交響曲第3番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第3番]](1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある<ref>ヨアヒム ブラン Double meaning of Jewish Element in Domitori Shostakovich1985 p68~80</ref> また[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]](1941年)第1楽章のクライマックスなどには[[クレズマー]]旋律が使われている<ref>ティモシー ジャクソン、Ho, Allan B. and Feofanov, (ed.): Shostakovich Reconsidered. Toccata Press 1998.251. ISBN 0-907689-56-6 p618 </ref>。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民俗詩から』(1948年)、[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)| ヴァイオリン協奏曲第1番]](1948年)、[[弦楽四重奏曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第4番]](1949年)、[[24の前奏曲とフーガ]](1951年)、[[プーシキンの詩による4つのモノローグ (ショスタコーヴィチ)| プーシキンの詩による4つのモノローグ]](1952年)である<ref>エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006年、267頁。ISBN 978-0-571-22050-2。</ref>。[[ピアノ協奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)| ピアノ協奏曲第2番]](1957年)第2楽章 [[交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第9番]](1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。[[弦楽四重奏曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第8番]](1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では[[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第13番]] (1962年)、また [[交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第15番]] (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる<ref>ヨアヒム ブラン Double meaning of Jewish Element in Domitori Shostakovich1985 p78</ref>。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家の[[ミェチスワフ・ヴァインベルク]]、俳優[[ソロモン・ミホエルス]]などユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。
 
 
 
=== スターリン死後 ===
 
作品93 - (1953年 - )
 
1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソヴィエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]によって行われた「[[スターリン批判]]」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした[[DSCH音型|「DSCH」の音列]]も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「[[雪どけ (小説)|雪どけ]]」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」されたのもこの頃だ。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。
 
 
 
=== 「雪どけ」後 ===
 
[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段と恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。
 
 
 
最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。
 
 
 
== 作品 ==
 
{{see also|ショスタコーヴィチの楽曲一覧}}
 
ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]]、[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|第7番]]、[[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|第10番]]と[[弦楽四重奏曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第8番]]、{{要出典範囲|date=2014年4月|[[弦楽四重奏曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|第15番]]|title=弦楽四重奏曲第15番は素晴らしい曲ですがショスタコーヴィチの作品の中で「特に有名」と言えるのかどうかは疑問です。弦楽四重奏曲第15番をショスタコーヴィチの作品の中で「特に有名」としている出典を示して下さい。}}である。また歌劇『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。
 
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{{listen
 
|header=ショスタコーヴィチの肉声
 
|filename=
 
|title=交響曲第7番について <ref>「Моя седьмая симфония навеяна грозными событиями 1941 года. Нашей борьбе с фашизмом, нашей грядущей победе над врагом, моему родному городу Ленинграду..」<br/> 「交響曲第7番は、1941年に起こったおぞましい出来事に感化されて作曲した。我々のファシズムとの戦いの為に、我々の宿命的勝利の為に、我が故郷レニングラードの為に…。」 </ref>
 
|format=[[Ogg]]
 
}}
 
-->
 
=== 交響曲 ===
 
* [[交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第1番 ヘ短調 作品10]]([[1925年]])
 
* [[交響曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧ぐ」]]([[1927年]])
 
* [[交響曲第3番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第3番 変ホ長調 作品20「メーデー」]]([[1929年]])
 
* [[交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第4番 ハ短調 作品43]]([[1936年]])
 
* [[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番 ニ短調 作品47]]([[1937年]])
 
* [[交響曲第6番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第6番 ロ短調 作品54]]([[1939年]])
 
* [[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」]]([[1941年]])
 
* [[交響曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第8番 ハ短調 作品65]]([[1943年]])
 
* [[交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第9番 変ホ長調 作品70]]([[1945年]])
 
* [[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第10番 ホ短調 作品93]]([[1953年]])
 
* [[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」]]([[1957年]])
 
* [[交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第12番 ニ短調 作品112「1917年」]]([[1961年]])
 
* [[交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第13番 変ロ短調 作品113]]([[1962年]])
 
* [[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番 ト短調 作品135]]([[1969年]])
 
* [[交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第15番 イ長調 作品141]]([[1971年]])
 
 
 
=== 弦楽四重奏曲 ===
 
* [[弦楽四重奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49]]([[1938年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68]]([[1944年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第3番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73]]([[1946年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第4番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83]]([[1949年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92]]([[1952年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第6番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101]]([[1956年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108]]([[1960年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110]]([[1960年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第9番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117]]([[1964年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118]]([[1964年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122]]([[1966年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第12番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133]]([[1968年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第13番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138]]([[1970年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142]]([[1973年]])
 
* [[弦楽四重奏曲第15番 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144]]([[1974年]])
 
* 弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)
 
 
 
=== 管弦楽曲・吹奏楽曲 ===
 
* [[スケルツォ第1番 (ショスタコーヴィチ)|スケルツォ第1番 嬰ヘ短調 作品1]]([[1919年]])
 
* [[主題と変奏 (ショスタコーヴィチ)|主題と変奏 変ロ長調]]([[1922年]])
 
* [[スケルツォ第2番 (ショスタコーヴィチ)|スケルツォ第2番 変ホ長調]]([[1924年]])
 
* [[タヒチ・トロット]]([[1928年]])
 
* [[E・ドレッセルの歌劇『コロンブス』のための2つの小品]]([[1929年]])
 
* [[ジャズ組曲 (ショスタコーヴィチ)|ジャズ・オーケストラのための第1組曲]]([[1934年]])
 
* [[5つの断章 (ショスタコーヴィチ)|5つの断章]]([[1935年]])
 
* [[ジャズ組曲 (ショスタコーヴィチ)|ジャズ・オーケストラのための第2組曲]]([[1938年]])
 
* [[荘厳な行進曲 (ショスタコーヴィチ)|荘厳な行進曲]]([[1941年]])
 
* [[バレエ組曲 (ショスタコーヴィチ)|バレエ組曲第1 - 4番]](1950年 - 53年)
 
* [[祝典序曲 (ショスタコーヴィチ)|祝典序曲]]([[1954年]])
 
* [[ノヴォロシースクの鐘の音楽 (ショスタコーヴィチ)|ノヴォロシースクの鐘]]([[1960年]])
 
* [[ロシアとキルギスの主題による序曲]]([[1963年]])
 
* [[交響詩]]「[[十月革命 (ショスタコーヴィチ)|十月革命]]」([[1967年]])
 
* [[交響的哀悼前奏曲 (ショスタコーヴィチ)|交響的哀悼前奏曲]]([[1967年]])
 
* [[ソヴィエト民警の行進曲 (ショスタコーヴィチ)|ソヴィエト民警の行進曲]]([[1970年]])
 
* [[インターヴィジョン (ショスタコーヴィチ)|インターヴィジョン]]([[1971年]])
 
* 「緑の工場」のための序曲
 
* 2つの前奏曲([[アルフレート・シュニトケ]]編曲)
 
 
 
=== 協奏曲 ===
 
* [[ピアノ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35]]([[1933年]])
 
* [[ピアノ協奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102]]([[1957年]])
 
* [[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99)]]([[1948年]])
 
* [[ヴァイオリン協奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129]]([[1967年]])
 
* [[チェロ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107]]([[1959年]])
 
* [[チェロ協奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126]]([[1966年]])
 
 
 
=== 室内楽曲 ===
 
* [[弦楽八重奏のための2つの小品]] 作品11([[1927年]])
 
* [[チェロソナタ (ショスタコーヴィチ)|チェロ・ソナタ ニ短調 作品40]]([[1934年]])
 
* [[ピアノ五重奏曲 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57]]([[1940年]])
 
* [[ピアノ三重奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8]]([[1923年]])
 
* [[ピアノ三重奏曲第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67]]([[1944年]])
 
* [[ヴァイオリンソナタ (ショスタコーヴィチ)|ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134]]([[1968年]])
 
* [[ヴィオラソナタ (ショスタコーヴィチ)|ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147]]([[1975年]])
 
* [[2つの小品 (ショスタコーヴィチ)|弦楽四重奏のための2つの小品]]([[1931年]])
 
* ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
 
* チェロとピアノのためのモデラート
 
* 3つのヴァイオリン二重奏曲
 
* ハープ二重奏のためのポルカ 嬰ヘ長調
 
* 3つの小品
 
 
 
=== オペラ ===
 
* [[鼻 (オペラ)|鼻]]([[1928年]])
 
* [[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]([[1934年]])Op.29
 
* [[カテリーナ・イズマイロヴァ]]([[1963年]]) - 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。Op.114
 
* [[賭博師 (ショスタコーヴィチ)|賭博師]]([[1941年]])
 
* 大きな稲妻
 
* [[オランゴ (オペラ)|オランゴ]]([[1932年]])
 
 
 
=== オペレッタ ===
 
* [[モスクワ・チェリョームシキ]]([[1958年]])Op.105
 
 
 
=== 合唱曲 ===
 
* [[オラトリオ]]「[[森の歌]]」([[1949年]])
 
* [[カンタータ]]「[[わが祖国に太陽は輝く]]」([[1952年]])
 
* 混声合唱のための無伴奏合唱曲[[十の詩曲]]([[1951年]])
 
* [[バラード]]「[[ステパン・ラージンの処刑]]」([[1964年]])
 
* [[反形式主義的ラヨーク]]
 
 
 
=== 声楽曲 ===
 
* 日本の詩人の詞による6つの歌 作品21([[1928年]]) オーケストラ伴奏版あり
 
* プーシキンの詩による4つのロマンス 作品46 オーケストラ伴奏版あり
 
* [[ユダヤの民族詩より|歌曲集「ユダヤの民族詩より」]] 作品79 オーケストラ伴奏版あり
 
* レールモントフの詩による2つのロマンス 作品84
 
* エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による4つの歌曲 作品86
 
* プーシキンの詩による4つのモノローグ 作品91
 
* エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による5つのロマンス 作品98
 
* スペインの歌 作品100([[1956年]])
 
* 風刺 作品109([[1960年]])
 
* 自作全集への序文とその序文についての短い考察 作品123
 
* [[アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲]] 作品127
 
* [[マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲]] 作品143 オーケストラ伴奏版あり
 
* ミケランジェロの詩による組曲 作品145 オーケストラ伴奏版あり
 
 
 
=== バレエ音楽 ===
 
* [[黄金時代 (ショスタコーヴィチ)|黄金時代]]([[1930年]])
 
* [[ボルト (バレエ)|ボルト]]([[1931年]])
 
* [[明るい小川]]([[1935年]])
 
* [[お嬢さんとならず者]]([[1962年]])
 
 
 
=== 映画音楽 ===
 
* 新バビロン 作品18([[1929年]])
 
* 女一人 作品26([[1931年]])
 
* 黄金の丘 作品30([[1931年]])
 
* 呼応計画 作品33([[1932年]])
 
* 司祭とその下男バルダの物語 作品36([[1935年]])
 
* 愛と憎しみ 作品38([[1934年]])
 
* マクシムの青年時代 作品41([[1935年]])
 
* 女友達([[1935年]])
 
* マクシムの帰還([[1937年]])
 
* ヴォロチャーエフの日々([[1937年]])
 
* ヴィボルグ地区([[1938年]])
 
* 友人たち([[1938年]])
 
* 偉大なる市民第1部([[1937年]])
 
* 銃を取る人 作品50([[1938年]])
 
* 偉大なる市民第2部 作品55([[1939年]])
 
* おろかな子ねずみ 作品56([[1939年]])
 
* コルジンキナの冒険 作品59([[1940年]])
 
* [[ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ|ゾーヤ]] 作品64([[1944年]])
 
* 素朴な人々([[1945年]])
 
* 若き親衛隊 作品75([[1948年]])
 
* ピロゴーフ([[1947年]])
 
* ミチューリン 作品78([[1948年]])
 
* [[エルベ河の邂逅]] 作品80([[1948年]])
 
* [[ベルリン陥落]] 作品82([[1949年]])
 
* ベリンスキー([[1950年]])
 
* 忘れがたき1919年([[1951年]])
 
* 偉大な川の歌・ユニティ 作品95([[1954年]])
 
* [[馬あぶ]] 作品97([[1955年]])
 
* 第1軍用列車([[1956年]])
 
* 5昼夜 作品111([[1960年]])
 
* [[ハムレット (1964年の映画)|ハムレット]] 作品116([[1964年]])
 
* 生涯のような1年([[1965年]])
 
* [[ソフィア・ペロフスカヤ]] 作品132([[1967年]])
 
* [[リア王]] 作品137([[1970年]])
 
* 永遠の使者
 
 
 
* [[戦艦ポチョムキン]](この映画のために曲が作られたわけではなく、1976年の復刻時に既存の交響曲が使用された)
 
* チェリョームシキ
 
 
 
=== 劇付随音楽 ===
 
全10作品
 
* 南京虫 作品19([[1929年]])
 
* 射撃 作品24([[1929年]])
 
* ルーレ・ブリタニア 作品28([[1931年]])
 
* ハムレット 作品32([[1932年]])
 
* スペインにサリュー 作品44([[1936年]])
 
* 人間喜劇 作品37([[1933年]] - [[1934年]])
 
* リア王 作品58a([[1941年]])
 
* 母国 作品63([[1942年]])
 
* ロシアの川 作品66([[1944年]])
 
* 勝利の春 作品72([[1946年]])
 
 
 
=== ピアノ曲 ===
 
* [[5つの前奏曲]]([[1921年]])
 
* [[3つの幻想的な舞曲]]([[1925年]])
 
* [[2台のピアノのための組曲 (ショスタコーヴィチ)|2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調]]([[1925年]])
 
* [[ピアノソナタ第1番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ・ソナタ第1番]]([[1926年]])
 
* [[10の格言集]]([[1927年]])
 
* [[ピアノソナタ第2番 (ショスタコーヴィチ)|ピアノ・ソナタ第2番]]([[1943年]])
 
* [[24の前奏曲 (ショスタコーヴィチ)|24の前奏曲]]([[1933年]])
 
* 子供のノート([[1944年]])
 
* 陽気な行進曲([[1949年]])
 
* [[24の前奏曲とフーガ]]([[1952年]])
 
* [[2台のピアノのための小協奏曲]]([[1954年]])
 
* グリンカの主題による変奏曲([[1957年]])
 
 
 
=== 編曲作品 ===
 
* ドメニコ・スカルラッティの2つの小品 作品17
 
* ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽編曲 作品58
 
* ムソルグスキー 歌劇「ホヴァーンシチナ」の管弦楽編曲 作品106
 
* ムソルグスキー 歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲
 
* A.ダヴィデンゴの2つの合唱曲の管弦楽編曲 作品124
 
* ロベルト・シューマン チェロ協奏曲 イ短調の編曲 作品125
 
* ストラヴィンスキー 詩篇交響曲の4手ピアノ用編曲
 
* リムスキー・コルサコフ 私はほら穴で君を待っていたの管弦楽編曲
 
* チシチェンコ チェロ協奏曲第1番の再オーケストレーション
 
* ヨハン・シュトラウス2世 「ウィーン気質」の編曲
 
* ヨハン・シュトラウス2世 「観光列車」の編曲
 
* オネゲル 交響曲第3番 典礼風の4手ピアノ用編曲
 
* ベートーヴェン 蚤の歌の管弦楽伴奏用編曲
 
* ベートーヴェン ピアノソナタ第8番 悲愴の第2楽章の管弦楽編曲
 
* ベートーヴェン ピアノソナタ第32番の第1楽章の管弦楽編曲
 
* マーラー 交響曲第10番の4手ピアノ用編曲
 
* シューベルト 軍隊行進曲の管弦楽編曲
 
* ロシア民謡「ヴォルガの舟歌」のオーケストレーション
 
 
 
==== 自作の編曲 ====
 
* 歌劇「鼻」のピアノ編曲
 
* 交響曲第3番のピアノと声楽用編曲
 
* バレエ「明るい小川」よりモデラート
 
* 主題と変奏 作品3のピアノ用編曲
 
* 交響曲第4番の2台ピアノ用編曲
 
* 交響曲第10番の2台ピアノ用編曲
 
 
 
=== その他の作品 ===
 
* 兵士(1917年頃)
 
* 森の中にて
 
* 自由の讃歌
 
* ソヴィエト讃歌
 
* 国歌(ソヴィエト連邦)
 
* 赤軍の歌([[アラム・ハチャトゥリアン]]との共作)
 
* ポルカ
 
* 4つのワルツ
 
* 平和の鳥
 
* 儀式用行進曲
 
* 2つのマズルカ
 
* 我が祖国の栄光を歌う
 
 
 
創作ジャンルは[[宗教音楽]]以外のほぼ全てにわたる。労働歌で[[1917年]]から[[1944年]]の間[[ソヴィエト連邦]]国歌でもあった『[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]』の管弦楽編曲もある。
 
 
 
== 著作 ==
 
本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。[[ソロモン・ヴォルコフ]]による『[[ショスタコーヴィチの証言]]』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは[[1979年]]にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほか[[ローレル・フェイ]]のような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった<ref name="c"/>。詳細は「[[ショスタコーヴィチの証言]]」を参照。
 
 
 
後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。
 
 
 
ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (''Story of a Friendship'', trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。
 
 
 
2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。
 
 
 
なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。
 
  
 
== 注 ==
 
== 注 ==
 
<references/>
 
<references/>
== 関連項目 ==
 
* [[:Category:ショスタコーヴィチの楽曲]]
 
* [[ショスタコーヴィチの楽曲一覧]]
 
* [[DSCH音型]]
 
* [[ジダーノフ批判]]
 
* [[ショスタコーヴィチ国際作曲コンクール]] - [[2006年]]のショスタコーヴィチ生誕100年を記念してモスクワで開催。
 
* [[ショスタコーヴィチの証言]]
 
* [[プラウダ批判]]
 
* [[ミハイル・トゥハチェフスキー]]
 
* [[日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007]]
 
* [[オーケストラ・ダスビダーニャ]] - ドミートリイ・ショスタコーヴィチの曲を演奏するために結成されたアマチュアオーケストラ
 
* [[マクシム・ショスタコーヴィチ]] - 息子にして、指揮者・ピアニスト。
 
  
== 外部リンク ==
+
 
{{Commons|Dmitri Shostakovich}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
* [http://homepage2.nifty.com/shostakovich/ Dmitri Dmitriyevich Shostakovich]
 
* [http://www.h7.dion.ne.jp/~furutako/index.html 反形式主義的ショスタコーヴィチ研究会]
 
* [http://shostakovi.ch/ SHOSTAKOVI.CH - The Page of Shostakovich]
 
* [http://www.siue.edu/~aho/musov/dmitri.html Music under Soviet rule: Shostakovichiana]{{en icon}}
 
* [http://www.bbc.co.uk/radio3/shostakovich/feature.shtml BBC - Radio 3 - Shostakovich feature]{{en icon}}
 
* [http://www.bbc.co.uk/radio3/discoveringmusic/listeninglibrary.shtml#s BBC - Radio 3 - Discovering Music - Listening Library]{{en icon}}
 
* [http://www.sovmusic.ru/person.php?idperson=21 SovMusic.ru]{{ru icon}}
 
* [http://www.michiyoshi-inoue.com/shostakovich_info/ 日本国内のショスタコーヴィチ関係のコンサート一覧]
 
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2018/10/4/ (木) 23:19時点における最新版

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Шостакович
基本情報
出生名 ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Дмитриевич Шостакович
生誕 1906年9月25日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没 1975年8月9日(68歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
職業 作曲家

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチロシア語: Дмитрий Дмитриевич Шостакович ドミートリイ・ドミートリイェヴィチ・シャスタコーヴィチ; ラテン文字転写の例: Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906年9月25日ロシア暦9月12日) - 1975年8月9日

ロシア(ソ連)の作曲家。ペテルブルグに生まれ,レニングラード音楽院に学ぶ。ピアニストとしてデビューしたが,1930年代以降は作曲に専念,生涯にわたって振幅の激しい,緊迫性に富む音楽を書いた。全15曲に及ぶ交響曲,オラトリオ「森の歌」(1949)などを代表作とするが,文学・演劇との関わりでは,ゴーゴリ原作の歌劇「鼻」Нос(30),レスコフの小説による歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」Леди Макбет Мценского уезда(34,のちに「カテリーナ・イズマイロワ」Катерина Измайловаと改訂),エフトゥシェンコの詩によるバラード「ステパン・ラージンの処刑」(64)が知られる。ほかにブローク,ツヴェターエワ,ロルカ,リルケらの詩に音楽を書いた。映画音楽ではシェイクスピアの「ハムレット」付随音楽(64)が名高い。




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