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{{Infobox military person|name=ミシェル・ネイ|image=Marechal Ney.jpg|caption=|nickname=勇者の中の勇者|serviceyears=1787年–1815年|rank=[[フランス元帥]]|laterwork=|honorific_prefix=[[フランス元帥]]|honorific_suffix=エルヒンゲン公爵、モスクワ大公|birth_date={{Birth date|1769|01|10|df=y}}|death_date={{Death date and age|1815|12|07|1769|01|10|df=y}}|placeofburial_label=|birth_place=[[フランス王国]]、[[ザールルイ]]|death_place=[[フランス復古王政]]、パリ|placeofburial=フランス、パリ、[[ペール・ラシェーズ墓地]]|allegiance=[[フランス王国]] (1791年まで)<br> [[フランス立憲王国]] (1792年まで)<br>[[フランス第一共和政]] (1804年mで)<br>[[フランス第一帝政]] (1814年まで)<br>[[フランス復古王政]] (1815年まで)<br>[[百日天下]] (1815年)|branch=|unit=|commands=第六軍団 (大陸軍)<br/>
+
'''ミシェル・ネイ'''({{lang-fr|Michel Ney}}、[[1769年]][[1月10日]] - [[1815年]][[12月7日]]
第三軍団 (大陸軍)|battles={{Collapsible list
 
| title = ''下記参照:''
 
| [[第一次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[ヴァルミーの戦い]] (1792)
 
* [[ネールウィンデンの戦い (1793年)]]
 
* [[マインツ攻囲戦 (1793年)]]
 
* [[ノイヴィートの戦い]]
 
[[第二次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[ヴィンタートゥールの戦い]]
 
* [[マンハイムの戦い]]
 
* [[ホーエンリンデンの戦い]] (1800年)
 
[[第三次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[ギュンツブルクの戦い]] (1805年)
 
* [[エルヒンゲンの戦い]] (1805年)
 
[[第四次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[イエナ・アウエルシュタットの戦い]] (1806年)
 
* [[マクデブルク包囲戦]]
 
* [[アイラウの戦い]] (1807年)
 
* [[グッシュタットの戦い]] (1807年)
 
* [[フリートラントの戦い]] (1807)
 
[[半島戦争]]
 
* [[シウダ・ロドリーゴ包囲戦 (1810年)]]
 
* [[アルメイダ包囲戦 (1810年)]]
 
* [[コーア川の銭湯]] (1810年)
 
* [[ブサコの戦い]] (1810年)
 
* [[ポンバルの戦い]] (1811年)
 
* [[レディーニャの戦い]] (1811年)
 
* [[カザル・ノーヴォの戦い]] (1811年)
 
[[1812年ロシア戦役]]<br/>
 
* [[ステモンスクの戦い (1812年)]]
 
* [[ボロジノの戦い]] (1812年)
 
* [[クラースニの戦い]] (1812年)
 
* [[ベレジナの戦い]] (1812年)
 
[[第六次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[リュッツェンの戦い]]
 
* [[バウツェンの戦い]] (1813年)
 
* [[デンネヴィッツの戦い]] (1813年)
 
* [[ライプツィヒの戦い]] (1813年)
 
* [[ブリエンヌの戦い]] (1814年)
 
* [[モンミライユの戦い]] (1814年)
 
* [[ヴォーシャンの戦い]] (1814年)
 
* [[ランの戦い]] (1814年)
 
* [[アルシ=シュル=オーブの戦い]] (1814年)
 
[[第七次対仏大同盟]]<br/>
 
* [[カトル・ブラの戦い]] (1815年)
 
* [[ワーテルローの戦い]] (1815年)
 
}}|awards=[[フランス元帥]]<br/>[[レジオンドヌール勲章]]<br/>鉄冠勲章<br/>モスクワ大公<br/>エルヒンゲン公爵<br/>[[エトワール凱旋門に名前を記された人物の一覧|エトワール凱旋門]]|relations=}}'''ミシェル・ネイ'''({{lang-fr|Michel Ney}}、[[1769年]][[1月10日]] - [[1815年]][[12月7日]])は、[[フランス革命戦争]]および[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[フランス]]の[[軍人]]([[フランス元帥]])。[[ナポレオン・ボナパルト]]の側近の一人で、彼をして''le Brave des Braves''('''勇者の中の勇者''')と言わしめた<ref name="monuments">{{cite web|url=http://napoleon-monuments.eu/Napoleon1er/Ney.htm |title=Michel Ney (1769-1815) |publisher=napoleon-monuments.eu |accessdate=2013-07-13 }}</ref>。なお、姓のNeyは二重母音「ネイ」ではなく、{{IPA-fr|miʃɛl ˈnɛ}}と読む。
 
  
== 生涯 ==
+
[[フランス革命戦争]]および[[ナポレオン戦争]]期に活躍した[[フランス]][[軍人]]([[フランス元帥]])。
<!--=== 仕官と昇進 ===-->
 
[[1769年]][[1月10日]]、当時フランス領であった[[ザールラント州|ザール地方]][[ザールルイ]]([[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]に含まれているとみなされていた)にて[[七年戦争]]に従軍し[[ロスバッハの戦い]]に参加した元兵士で樽職人のピエール・ネイの次男として生まれる<ref name="monuments"/>。一度は[[公証人]]を志して[[法律事務所]]に就職したが、[[1787年]]に王国軍のユサール連隊に一兵卒として入隊。[[フランス革命]]の混乱の中で頭角を現し、[[1792年]][[9月20日]]の[[ヴァルミーの戦い]]、[[1793年]][[3月18日]]の[[ネールウィンデンの戦い (1793年)|ネールウィンデンの戦い]]に参加した。1794年6月、北部方面軍から[[サンブル川]]、[[マース川|ムーズ川]]方面戦線に配属された。1797年4月18日の[[ノイヴィートの戦い (1797年)|ノイヴィートの戦い]]で騎兵突撃を指揮した彼は、オーストリア軍の反撃を受けた際、捕虜となり、5月8日に捕虜交換で解放された。[[マンハイム]]を占領した後、2年後の[[1799年]]3月には若くして[[師団長]]に昇進した<ref name="hickman">{{cite web|url=http://militaryhistory.about.com/od/1800sarmybiographies/p/ney.htm |title=Napoleonic Wars: Marshal Michel Ney |publisher=militaryhistory.about.com |author=Kennedy Hickman |accessdate=2013-07-14 }}</ref>。同年5月27日の[[ヴィンタートゥール]]の戦いでは、太ももと手首を負傷した。その後、負傷から回復した彼は、[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー将軍]]の下で、[[1800年]][[12月3日]]の[[ホーヘンリンデンの戦い]]に参加した<ref name="hickman"/><ref name="series">{{cite web|url=http://www.napoleon-series.org/research/biographies/marshals/c_ney.html |title=Michel Ney, Duc d'Elchingen, Prince de Moskowa, Marshal (1804) |publisher=napoleon-series.org |accessdate=2013-07-14 }}</ref>。
 
<!--
 
=== ナポレオンの側近として ===-->
 
[[1802年]]、[[スイス和平仲裁協定]](Acte de Mediation)の調印のため、スイスに派遣された<ref name="bertaud278">{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=64-68 |date=2001-04-30 }}</ref>。同年8月5日、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の妻[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]の紹介で結婚した<ref name="hickman"/>。
 
  
ネイはたゆまぬ努力と、自身が見出して副官としたスイス人傭兵[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]](のちに高名な軍事理論家として知られる)の助力もあって、歩兵指揮官としても優れた能力を身につけた。ネイはジョミニの著作の出版費用を負担するなど個人的に彼を援助し、ジョミニは[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]元帥と対立してネイのもとを離れた後も、終生ネイを敬愛していたという。
+
[[ナポレオン・ボナパルト]]の側近の一人で、彼をして''le Brave des Braves''('''勇者の中の勇者''')と言わしめた<ref name="monuments">{{cite web|url=http://napoleon-monuments.eu/Napoleon1er/Ney.htm |title=Michel Ney (1769-1815) |publisher=napoleon-monuments.eu |accessdate=2013-07-13 }}</ref>。なお、姓のNeyは二重母音「ネイ」ではなく、{{IPA-fr|miʃɛl ˈnɛ}}と読む。
 
 
<!--
 
=== 勇者の中の勇者 ===-->
 
ナポレオンが1804年5月19日、ナポレオンから元帥号を与えられた18人の1人となった<ref name="hickman"/>。1805年、[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の第6軍団を率いた彼は、9月25日に[[ライン川]]を渡河、10月9日に[[ギュンツブルク]](Gunzburg)で勝利、10月14日、[[エルヒンゲンの戦い]]で勝利し、橋梁を奪取、翌15日、[[ジャン・ランヌ]]とともに、ミヘルスベルク(Michelsberg)高地を包囲し、[[ウルムの戦い|ウルム]]の包囲網を完成させた。10月19日にオーストリアのマック将軍は降伏してきた。その後、進軍を再開した彼の軍は、[[ザルツブルク]]を経て、11月5日、シャルニッツ(Scharnitz)とチロル(Tyrol)でヨハン大公の軍を破り、11月7日には[[インスブルック]]を占領した<ref name="bertaud1805">{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=64-68 |date=2001-04-30 }}</ref>。
 
 
 
[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟|プロイセン戦役]]では、[[イエナの戦い]]では猪突したため、敵中に孤立し、[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]の軍団に救われた<ref name="series"/>。その後、[[エルフルト]]、[[マグデブルク]]を占領した<ref name="series"/>。[[1807年]]2月の[[アイラウの戦い]]では、彼の軍による増援で、ナポレオンはかろうじて敗北を逃れた。その後、[[グットシュタットの戦い]]では14000人を率いて、7万人の敵軍と戦った<ref name="series"/>。同年6月14日の[[フリートラントの戦い]]では右翼を指揮し、敵左翼を[[:de:Alle (Fluss)|アーレ川]]に追い落とし<ref name="series"/>、決定的勝利に貢献した<ref name="hickman"/>。
 
 
 
1808年6月6日にエルヒンゲン[[公爵]]位を授けられた<ref name="hickman"/>。この年、第6軍団を率いて[[半島戦争]]に参加、いくつかの戦いで勝利を収めた<ref name="series"/>。[[1810年]]5月10日に[[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]が司令官職に就いたが、ネイや[[ジャン=アンドシュ・ジュノー|ジュノー]]は、これに嫉妬し度々衝突した<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=132 |date=2001-04-30 }}</ref>。ネイはマッセナとともに、[[ポルトガル]]に侵攻し、[[シウダ・ロドリーゴ]]、[[アルメイダ (ポルトガル)|アルメイダ]]を占領したが、9月に[[プサコの戦い]]で、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]に敗れた。
 
 
 
[[1811年]]3月、ナポレオンから、フランスへ帰還し、ロシア遠征の準備を行うよう命じられた<ref name="series"/>。
 
 
 
[[1812年ロシア戦役|ロシア戦役]]では第3軍団を指揮し、8月の[[スモレンスクの戦い (1812年)|スモレンスクの戦い]]では首に銃弾を受けて負傷したものの、[[ボロジノの戦い]]で奮戦した。モスクワからの長く困難な退却戦では、11月3日より、[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]に代わって後衛司令官となった。11月下旬の[[ベレジナ川の戦い]]でも後衛を務め、味方の渡河を援護した。逆境で見せた粘り強さと勇気、統率力は後に伝説として語られるほどのもので、ナポレオンにも「全く何と言う男だ!フランス軍には勇者が揃っているが、ミシェル・ネイこそ真に勇者の中の勇者だ!」と言わしめている<ref name="hickman"/>。1813年3月25日、ロシア戦役での奮戦から[[モスクワ川]]大公の称号を与えられた<ref name="hickman"/><ref name="bertaud1813">{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=176-205 |date=2001-04-30 }}</ref>。
 
<!--
 
=== 落日 ===-->
 
その後の[[第六次対仏大同盟|ドイツ戦役]]では、4月29日の[[ヴァイセンフェルスの戦い]]、5月2日の[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェンの戦い]]に参加、[[ドレスデン]]に進軍するナポレオン本体から[[ベルリン]]方面に派遣された。5月20日の[[バウツェンの戦い]]では、[[強行軍]]で[[シュプレー川]]を渡河し、敵の背後を旋回することが期待されたが、果たせなかった。9月13日の[[デネウィッツの戦い]]で[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー|ビューロー]]将軍に敗れた。その後、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]に撃退され<ref name="series"/>、10月4日にはベルナドットの軍は[[エルベ川]]を渡河した。その後、[[ライプツィヒの戦い]]に参加している<ref name="series"/>。[[1814年]]1月、[[ナンシー]]から撤退した。3月20日、[[アルシ・シュル・オブ]](Arcis-sur-Aube)で戦力に優るシュヴァルツェンベルクに敗れた。3月31日、パリが陥落すると、ナポレオンは[[ロワール川]]流域で戦うという元帥たちの献策を退け、パリ奪回作戦を示したが、これに対して[[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]、[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]、[[ジャック・マクドナル|マクドナルド]]、[[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]、[[ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー|モンセー]]とともにパリが炎上するおそれがあるとして反対、息子の[[ナポレオン2世|ローマ王]]のためにも退位するべきだと迫った<ref name="bertaud1813"/>。
 
 
 
[[フランス復古王政|王政復古]]後は[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]に忠誠を誓い、ナポレオンが[[エルバ島]]を脱出した際、「ナポレオンを鉄の檻に入れて、引っ立てて来る。」と豪語したが、ナポレオンから親書を受け取り、3月15日、ロン・ル・ソニェ(Lons-le-Saulnier)でナポレオンに帰順<ref name="series"/><ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=218-219 |date=2001-04-30 }}</ref>、3月18日に[[オセール]]で合流した<ref name="hickman"/>。
 
 
 
[[リニーの戦い]]に先立ち、イギリス軍がプロイセン軍への援軍に来られないよう、[[ブリュッセル]]と[[ナミュール]]の間の[[カトル・ブラ]]に派遣された。彼はもたもたし、[[ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)|デルロン]]がナポレオンに援軍を求めようとするのも阻止した<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=224 |date=2001-04-30 }}</ref>。
 
 
 
[[ワーテルローの戦い]]では前衛で事実上の総指揮を執り、ラ・エー・サントへのデルロンの第1軍団による攻撃を命じた。この際、砲兵による支援を命じ忘れたため、フランス軍の突撃はことごとく粉砕された。15時30分、砲兵の砲撃準備や、歩兵による支援も待たずに、騎兵による総突撃を敢行したが、イギリス歩兵の[[方陣]]を崩すことができず<ref name="hickman"/>、軍馬は息切れを起こし、砲兵・歩兵からの猛射撃を受け、敵騎兵に側面から突撃を受けたため退却、フランスの勝利の機会を逃した<ref>{{cite book|和書|title=ナポレオン年代記 |publisher=[[日本評論社]] |author=J・P・ベルト |pages=226-227 |date=2001-04-30 }}</ref>。[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]のプロイセン軍の増援を受け、フランス軍は敗北した。
 
 
 
敗戦後、[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]は、彼にパスポートを与えて、亡命することを提案したが、ネイはそれを断り、8月3日に身柄を拘束された<ref name="series"/>。再び権力の座に戻ったルイ18世の政府によって反逆罪に問われ、[[1815年]]12月6日に銃殺刑に処せられた。ネイや[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]の銃殺は、ルイ18世の個人的な復讐であると言われているが、ネイ自身はこの時同僚将官による軍法会議で裁かれるのを拒み、フランスの上院議員の資格を盾にとって、王党派で占められている上院による裁判を受けている。貴族院では、161票中139票の賛成で有罪となり、賛成票を投じた中には
 
[[フランソワ・クリストフ・ケレルマン|ケレルマン]]、[[オーギュスト・マルモン|マルモン]]、[[ドミニク・ペニリョン|ペニリョン]]、[[ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ|セリュリエ]]、[[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]らも含まれた<ref name="bertaud278"/>。
 
{{要出典範囲|このことも含め、ルイ18世からは「頭脳なき英雄」と誹られる結果となったが、誇りから自ら望んだ結果だったのではないか、との評もある|date=2013年7月}}。{{要出典範囲|なお、ネイの処刑を強硬に望んだ一人にマリー・アントワネットの娘[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|アングレーム公爵夫人]]がいたが、後にネイの部下の回想録を読んでモスクワ退却戦での奮戦を知り、「もしもロシアで彼が見せた祖国への献身振りを知っていたなら、決して彼の処刑に賛成はしなかったでしょう」と涙したという。|date=2013年7月}}
 
 
 
== 人物 ==
 
[[ファイル:Louvre-peinture-francaise-Ney-a-Kowno-p1020309.jpg|thumb|right|250px|[[カウナスの戦い]]でのネイ ([[ドニ=オーギュスト=マリ・ラフェ]]画)]]
 
{{要出典範囲|大陸軍ではナポレオン自身に次いで将兵に人気のあった指揮官で、不屈の闘志と人間離れした勇気で名高い国民的英雄だった。人となりは実直で努力家、同僚の多くと違って世俗的欲求にも恬淡としており、気前もよく部下達を物心両面で援助する事を惜しまなかった。ただ武人としての名誉には非常にこだわり、侮辱には黙っていることができず、卑怯未練な態度をひどく嫌った。戦場では極めて厳格かつ冷徹であり、部下の死にも表情を変えることがなかったが、それは「軍人が戦場で倒れるのは当然の運命である」と受け止めていたからだという。ワーテルローの戦いの末期、崩壊する自軍の中で「逃げずに戦え! おれが誰かわからないか! フランス元帥の死に方を見せてやる!」と兵士を叱咤している。短気で激情家でもあったが、冷静に戻ると自らの非を認め率直に謝罪することもできる度量も備えていた。戦場での勇猛さと裏腹に、平時は気弱で優柔不断な面も見られ、「彼は馬上では半神だったが、馬を降りればまるで子供だった」とも評されている。|date=2013年7月}}
 
 
 
生まれた環境からフランス語とドイツ語を流暢に話し<ref name="hickman"/>、{{要出典範囲|命令書などに残された筆跡から非常に達筆だったことも知られている。また、[[フルート]]と[[クラリネット]]演奏を得意とし、[[チェス]]の名手でもあったという。|date=2013年7月}}
 
 
 
指揮官としては特に粘り強さを身上としており、防御退却戦で後衛を率いて数々の伝説的武勲を挙げた。ロシアからの退却戦では自ら銃を取って、ロシア兵と戦った<ref name="bertaud278"/>。攻撃においても個人的勇気と敢闘精神に富んでいたが、大軍を組織的に運用する事は不得手で<ref name="series"/>、猪突して孤立するという失敗もしばしば犯している。たとえばワーテルローでは[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]の後退を退却と誤認して騎兵すべてを投入してしまい、予備兵力を失っている。戦略的な視野は持たなかったが<ref name="series"/>、{{要出典範囲|残された命令書などは非常に簡潔明瞭に纏められており、部隊の統率者としては熟達していたようである|date=2013年7月}}。ナポレオンは彼に対して{{要出典範囲|愛憎半ばする複雑な心情を抱いていたらしく|date=2013年7月}}、流刑となった後の回想では厳しく批判することもあれば、最大限に賞賛する事もあった。
 
 
 
ネイは[[リュクサンブール宮殿|リュクサンブール庭園]]近郊のグルネル平原で銃殺されたが<ref name="series"/>、このとき目隠しを薦められると「君は私が20年以上も前から銃弾を直視してきたことを知らないのか?」と言い返している。なお、銃殺された場所には彼の銅像が立てられており、現在も献花が絶えないという<ref>[http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-ue/travel/france200508/20050820-1.htm フランス旅行記/リュクサンブール宮殿]</ref>。
 
最期の言葉は、
 
<blockquote>
 
「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て<ref name="series"/>。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」<ref name="hickman"/>
 
</blockquote>
 
であった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{commonscat|Michel Ney}}
 
<references />
 
{{normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:ねい みしえる}}
 
{{DEFAULTSORT:ねい みしえる}}
 
[[Category:フランス第一帝政の元帥]]
 
[[Category:フランス第一帝政の元帥]]

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ミシェル・ネイフランス語: Michel Ney1769年1月10日 - 1815年12月7日

フランス革命戦争およびナポレオン戦争期に活躍したフランス軍人フランス元帥)。

ナポレオン・ボナパルトの側近の一人で、彼をしてle Brave des Braves勇者の中の勇者)と言わしめた[1]。なお、姓のNeyは二重母音「ネイ」ではなく、フランス語発音: [miʃɛl ˈnɛ]と読む。



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  1. Michel Ney (1769-1815)”. napoleon-monuments.eu. . 2013閲覧.