伊東一雄

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伊東 一雄
いとう かずお
生誕 (1934-04-07) 1934年4月7日
日本の旗 日本 
東京都
死没 (2002-07-04) 2002年7月4日(68歳没)
日本の旗 日本 
東京都
職業 野球解説者

伊東 一雄(いとう かずお、1934年4月7日 - 2002年7月4日)は、日本プロ野球パシフィック・リーグ元広報部長で野球解説者

パンチョ伊東」の愛称・通称で広く知られた。

略歴

生い立ち

1934年4月7日東京都豊島区西巣鴨に生まれる。小学生時、戦火を逃れるため、千葉県市川市に転居。以後、市川で過ごす。子供時代から父親の影響で野球好きとなり、後楽園球場東京巨人軍戦、神宮球場の大学野球に通ってはスコアカード記入などを行っていた。後楽園球場で行われた1942年5月24日の日本プロ野球史上最長の大洋軍名古屋軍の延長28回戦や1953年10月31日の大友工日米野球ニューヨーク・ジャイアンツ相手に完投勝利を収めた試合も観戦した[1]。 西巣鴨第四小、市川小、市川一中を経て、東京都立三高(現在の両国高)に進学する。千葉大学文理学部中退。

パ・リーグ

1959年パ・リーグ入り。最初の仕事は中沢不二雄会長秘書であった。パ・リーグの広報部長を1976年から1991年にかけて担当。「広報の伊東・記録の千葉(功)(当時のパ・リーグ記録部長)」として知られていた。またドラフト会議では1991年まで司会を務めた。黒い霧事件でパ・リーグの観客動員がセ・リーグの半分以下に落ち込んだ時に「我がリーグは3分の1リーグだ」と嘆いたことでも知られる。

ジャーナリスト

1991年にパ・リーグを退職。1992年からはジャーナリストとしてMLBへの取材を広げる一方、ニッポン放送の『ショウアップナイタープレイボール』のMCとして活躍。フジテレビの野球番組(解説として)や、『プロ野球ニュース』にもメジャーリーグコーナー担当として出演していた。また、セガサターンで発売されたゲーム『プロ野球チームもつくろう!』に試合の解説、プロ野球ドラフト会議の司会担当として登場した。

晩年

2000年ごろから内臓に多発性のがんが発見され、入退院を繰り返していた。『プロ野球ニュース』に代わる新スポーツ番組『すぽると!』でもメジャーリーグコーナーを担当する予定だったが、体調を崩し、一度も担当できなかった(弟子である福島良一が代わりに担当した)。2001年には、イチローが出場したオールスターゲームの特集にて久々にスタジオ出演したものの、深い椅子に座り、げっそりとやせているなど、体調の悪さを物語っていた。

2002年7月4日心不全で死去。68歳没。イチローの出場したオールスターゲームを生観戦出来ず終いだった。『すぽると!』の追悼企画では、伊東が「ボクの娘」と可愛がっていた松井みどりアナウンサー(当時)がナレーションを担当した。生涯独身で、晩年には森中千香良と「プロ野球独身貴族会」を結成。

評論歴

1992年 - 2002年 フジテレビ、ニッポン放送解説者

ドラフト会議の司会者

1965年から始まったドラフト会議では1991年まで司会を務め、独特の名調子で選手名を読み上げることで知られた。また1988年以前のドラフト会議では、選手名などが記された看板を掲示板に引っかけて表示する方式だったため、伊東が選手名を読み上げた後すぐには漢字表記がわからないことがあり、以下のような独特の漢字説明を行なっていた。

最も物議を醸したエピソードとしては1972年大洋ホエールズ4位指名の益山性旭(投手、大阪福島商高)の名前を説明する際に、「『性』はセックスの性!」と高らかに説明した件が挙げられる。この「セックス」はいわゆる性行為ではなく「性別」の意(英語ではどちらも“sex”である)であり、英語が堪能な伊東らしい言い回しではあったのだが、場内は爆笑に包まれ、特に当時阪急ブレーブス監督の西本幸雄は座っていた椅子から転げ落ちて大笑いしたという。後日伊東は「『性別の性』と言っておけばよかった」と語っており、益山に対して謝罪している[3]

1976年のドラフト会議では、ヤクルトスワローズがいの一番に指名した投手・酒井圭一の読みを「さかい せいいち」と読んだり(戦前の慶應義塾大学の名監督・阪井盛一と混同したという)、最後の司会となった1991年のドラフト会議にも、ヤクルトが1位指名した石井一久の学校名(東京学館浦安高)を「東京学館高校」と読んだ。なお後者の際は、1度目に読む時には正しく発音している。同年のドラフトで全選手中、最後に指名された(福岡ダイエーホークスのテストを200名近い全受験者中たった一人合格した)田畑一也が最後に伊東から名を読み上げられた指名選手となった。

エピソードは山ほどあるドラフト司会だが、非常に冷静沈着であった。思わぬ指名(例で言うと読売ジャイアンツ桑田真澄の指名。これは本人が何度も「これでいいの?」と確認を取ったほど)で会場がざわついた際には「お静かに!」という明らかに怒った声が響くことがあった。

メジャーリーグ通

高校1年の時、1950年ジョー・ディマジオが野球指導でフランク・オドールと2人で模範実技の披露のために日本を訪れた際、オープンカーで銀座通りをパレードした。その際に白バイと白バイの間をすり抜け、オープンカーに飛び付いて一緒に走りながら万年筆を差し出してサインをねだったところ、快くサラサラと書いてもらった。伊東とMLB選手との最初の出会いである。その後は渡米するたびにディマジオが経営するイタリア料理店に立ち寄っては顔を合わせていたが、1978年オールスターゲームの日本向け衛星中継で一緒にマイクの前に並んだディマジオにサインを久しぶりにねだったところ、「1950年以来の古き友よ」と書いてもらい感激したと述べている[4]

MLBと比べての日本プロ野球犠牲バントヒットエンドラン多用、ボールを選び過ぎるスタイルには批判的であり[5][6][7]、「野球というものは本来もっと単純なものである」と積極的な打撃戦を好んでいた。一方で、日本プロ野球の審判員の技術は世界第一だと高く評価していた[8][9]

パ・リーグの仕事の合間を縫って、メジャーリーグの全球場を巡るのが趣味となった。アメリカにおいてメキシコ人を戯画化したような風貌を持つこともあり、球団関係者から「Pancho」のニックネームを与えられ、次第に球団関係者のみならず選手にもコネクションを広げていき、「マイナーリーグクラスの選手でも『パンチョ』の名を知らないものはいない」といわれた。

最後のメッセージ

2002年7月5日付『サンケイスポーツ』にて、次のメッセージが掲載された。

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著書 ・翻訳書

  • 『アメリカ大リーグ:テレビ観戦が3倍楽しめる本』(サンケイ出版、1978年)
  • ピート・ローズ(著)、伊東一雄(監修訳) 『挑戦する624人の大リーガー』(日之出出版、1988年)ISBN 4-89198-065-6
  • (馬立勝と共著) 『野球は言葉のスポーツ:アメリカ人と野球』(中央公論社、1991年)ISBN 4-12-204098-1
  • 『メジャー・リーグ紳士録』(ベースボール・マガジン社、1997年)ISBN 4-583-03411-3
  • 『パンチョ伊東のMLB名鑑. 1999』(ベースボール・マガジン社、1999年)ISBN 4-583-61066-1
  • 伊東一雄(著)、吉川達郎(監修) 『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』(産経新聞ニュースサービス、2003年)ISBN 4-594-04117-5

出演番組

出演CM

脚注

  1. 伊東一雄・吉川達郎(監修) 『メジャーリーグこそ我が人生 パンチョ伊東の全仕事』 産経新聞ニュースサービス、2003年。ISBN 4-594-04117-5。
  2. 蒲谷はオリンピック出場のため、この年のドラフト指名を拒否して東芝に進んだ。
  3. この年益山は大洋には入団せず帝京大学に進み、1976年阪神タイガースから1位指名を受け入団した。このエピソードが阪神1位指名時のものとする記述が各所で見られるが誤りである。
  4. 伊東一雄 『メジャー・リーグ紳士録』 ベースボール・マガジン社、1997年、106-107。ISBN 4-583-03411-3。
  5. 伊東 2003, pp. 114-116
  6. 伊東 2003, pp. 193-194
  7. 伊東 2003, pp. 74-76
  8. 伊東 2003, pp. 129-130
  9. 伊東 2003, pp. 182-183

関連人物