大大阪時代

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大大阪時代(だいおおさかじだい)

大正後期から昭和初期にかけて、大阪市大大阪と呼ばれていた時代のこと。

概要

元禄年間の18世紀後半頃には、既に隣府でこの当時の首都であった現在の京都府京都市を人口で上回っていたが、その後も人口は徐々に増加して行った。また、19世紀後半には大久保利通による大阪への遷都(現在で言う首都機能移転)案も出るなどしたものの、これは東京への遷都を決定したこともあり、幻に終わった。

明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分などの影響により、大きな打撃を受けた大阪市であったが、時代とともに発展を遂げていった。その最中の1923年(大正12年)9月1日に関東地方で関東大震災が発生し、当時の東京府東京市をはじめとする関東近郊に在住していた被災者の一部が、新たな居住地を求めて大阪市(横浜市、名古屋市、神戸市などの主要都市にも転居者はいた)に転居してきたことによる急激な人口の増加や、1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、大阪市は西成郡東成郡の残余44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、人口211万人となり、東京府東京市を上回る日本一の大都市にまで登りつめ、幻となった大阪遷都案から約60年後に大阪市は首都を凌ぐ都市となった。この当時は日本最大の都市であったのみならず、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市であった。

西の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、商業・紡績鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。

象徴的な出来事としては、池上四郎第6代市長時代に大阪市天王寺動物園が開園し、1919年には日本初の児童相談所・公共託児所を大阪市に開設した。都市計画学者でもあった関一第7代市長に交代してからも、大坂城天守の再建や御堂筋の拡幅(拡幅計画は池上市政時代に発表済であった)、および大阪市営地下鉄御堂筋線の建設などがある。

こうして、大大阪時代は、関一第7代市長の下、1920年代後半にピークを迎え、「これやこの 都市計画の権威者は 知るも知らぬも大阪の関」と詠まれたり、内務大臣後藤新平から「都市計画の範を大阪に求める」と評されるなどした[1][2]

ところが、大阪市の転機は1930年代前半に早くも訪れてしまい、1932年(昭和7年)10月1日、大阪市は分区によって区の数で東京市に並ぶ15区へ増加したが、同日、東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加し、いわゆる大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生する。また、繁栄の裏で同時進行にあった第一次世界大戦後の恐慌昭和恐慌では、繊維や金属産業が大打撃を受け衰退した。さらに、戦争への時代へと向かう中、統制経済等の政策により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行った。

それでも、当時の大阪は、当時は東京に次ぐ日本第2の都市であり、戦後復興と高度経済成長期にも西日本の中心都市としての繁栄はなお続いていた。

しかし、大阪の衰退は東京一極集中の始まりで1960年代後半より急速に始まり、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開催の前後より顕著となったが、それが決定的となったのは、高度経済成長期の終焉後、安定成長期以降のことである。1978年(昭和53年)には大阪市の人口が東京都市圏横浜都市圏)の神奈川県横浜市に追い抜かれ、本格的な東京一極集中時代が幕を開ける(ただし、財政の規模は大阪市の方が大きい)。


脚注