大本
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大本(おおもと)は、出口なおとその女婿出口王仁三郎によって立教された神道系新宗教である。一般に「大本教」と呼称されるが、大本側の正式名称は“教”を付けない。
Contents
概要
1892年(明治25年)、なおに「うしとらのこんじん(艮の金神)」と名乗る神が憑依する。1898年(明治31年)、なおと王仁三郎が教団組織を作る。王仁三郎はなおの娘すみの婿となり、なおの養子となった。 なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられた。王仁三郎には豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていたが、なお没後には国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めた。 1980年(昭和55年)、三代教主直日の後継者をめぐって内紛が起こる。王仁三郎の孫・出口和明が教団批判を行った。当初直日の後継者とされていた直日の長女・直美の夫である出口榮二が追放されたことを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は三女・聖子が継ぐことになった。直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は王仁三郎のみを教祖とする宗教法人愛善苑を設立した[1]。
教典
本拠地
歴史
- 1892年(明治25年)2月3日 - 開祖・出口なおに国常立尊が「艮の金神」として神懸りする。この年が大本立教の年とされる。
- 1918年(大正7年) - 出口すみが二代教主となる。
- 1921年(大正10年) - 第一次大本事件。皇道大本と改称。
- 1935年(昭和10年) - 第二次大本事件。全活動停止。
- 1945年(昭和20年) - 愛善苑として活動再開。
- 1952年(昭和27年) - すみの死去により、王仁三郎とすみの長女・直日が三代教主となる。同年、大本と改称し、前年施行された宗教法人法により宗教法人となる。
- 1956年(昭和31年) - 教派神道連合会に加盟[2]。
- 1980年(昭和55年)- この頃、教団内の内紛が裁判に発展し、2グループが離脱した。長女・直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、王仁三郎の孫・和明は「宗教法人愛善苑」を設立した[1]。
- 1990年(平成2年) - 三代教主直日が死去。
教義
- 型の大本(大本内で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こるという法則)
- 立替え・立直し(終末論と理想世界建設)
大本事件
第一次大本事件
1921年(大正10年)に起きた事件である。不敬罪と新聞紙法違反の容疑で王仁三郎が逮捕された。1927年(昭和2年)に恩赦(大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体が消滅、事件は終結した。この間、一部の信者が教団を離脱した[3]。生長の家を立教した谷口雅春は当時大本の信者であったが、明治55年(大正10年、1921年)に起こると予言された「立替え」が起こらなかったことに不信を抱き、事件に際して教団を去っている[4]。
第二次大本事件
1935年(昭和10年)に起きた事件である。教団本部の建物撤去が行われた[5]。
脚注
外部リンク
典拠レコード: