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| 名前          = 志村 けん
 
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| キャプション  = <!--[[2012年]]-->コント演技中の志村けん
 
 
| 本名          = 志村 康徳
 
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| ニックネーム  = けんちゃん、しむけん、ケン坊、けん
 
| ニックネーム  = けんちゃん、しむけん、ケン坊、けん
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| 作品          = 曲「[[東村山音頭]]」
 
| 作品          = 曲「[[東村山音頭]]」
 
| 他の活動      = [[トーク]]・[[バラエティ番組|バラエティ]]
 
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| 公式サイト    = [http://izawaoffice.jp/shimura 志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)]<br />[http://ameblo.jp/shimura--ken/ 志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba]
 
| 公式サイト    = [http://izawaoffice.jp/shimura 志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)]<br />[http://ameblo.jp/shimura--ken/ 志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba]
 
 
| 受賞歴        = [[1999年]] [[ゴールデン・アロー賞]] 芸能賞
 
| 受賞歴        = [[1999年]] [[ゴールデン・アロー賞]] 芸能賞
 
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'''志村 けん'''(しむら けん、[[1950年]][[2月20日]] - )は、[[日本]]の[[コメディアン]]、[[お笑いタレント]]、[[司会者]]。[[ザ・ドリフターズ]]のメンバー。[[イザワオフィス]]所属。旧芸名および[[中国語]]での表記は、志村健。本名は、志村 康徳(しむら やすのり)<ref>『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.546</ref>。
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'''志村 けん'''(しむら けん、[[1950年]][[2月20日]] -
 
 
== 来歴 ==
 
[[1950年]]、小学校[[教諭]]であった父親の三男として[[東京都]][[北多摩郡]]東村山町(現:[[東村山市]])に生まれ、厳格な家庭に育つ。二人の兄たちが大学を卒業して公務員になった中、末っ子の彼だけが後述の通り全く異なる人生を歩むこととなった。
 
 
 
幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時、まだ珍しかった[[テレビジョン|テレビ]]のお笑い番組で、[[漫才]]や[[落語]]を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを観ていたという。そのような体験から、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心したという。
 
 
 
東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、[[所ジョージ]](隣市・[[埼玉県]][[所沢市]]出身)の遠戚と[[バンド (音楽)|バンド]]を組んだこともあった。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された[[東京都立久留米高等学校]]に進学し、同高の第1期生となる。志村の中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけであった。同高では[[サッカー]]部に所属し、[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]として在籍した。
 
 
 
=== 付き人から芸能界デビューを経てドリフ入り ===
 
[[1968年]]2月、高校卒業間際に、[[いかりや長介]]の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。[[由利徹]]や[[コント55号]]と[[ザ・ドリフターズ]](以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「[[ローディー|バンドボーイ]]」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語った。一週間後に呼び出された[[後楽園ホール]]で、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ、[[青森]]に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなど、すぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻ったという<ref>[http://ameblo.jp/shimura--ken/archive10-200703.html ken's blog「今日から三月」]</ref>。
 
 
 
[[加藤茶]]の付き人となる<ref>[[住友建機]]のコラム「Power Talk」取材時の本人の証言などによる</ref> が、1年余りで一度脱走<ref>本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけではないため、脱走扱いとなっている。</ref> し、[[バーテンダー]]などのアルバイトをしたりしていた。仲間が伝えるのを忘れたせいで脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。
 
 
 
[[1972年]]、22歳の時に[[井山淳]]とお笑いコンビ・「[[マックボンボン]]」を結成し、「志村健」の芸名(この芸名は、現在[[台湾]]で使用されている)で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『[[ぎんぎら!ボンボン!]]』(『[[シャボン玉ホリデー]]』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『[[シャボン玉ボンボン]]』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。[[12月31日]]放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退([[失踪]])。コンビはその後[[自衛隊]]出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅へと向かう。
 
 
 
志村はその後ドリフターズの付き人に戻ったが、戻った直後の[[1973年]]12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入する<ref>荒井注は[[1973年]]10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた。志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった。</ref>。
 
 
 
[[1974年]][[3月31日]]をもって[[荒井注]]が脱退し、[[4月1日]]に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー[[豊岡豊]]の加入<ref>[https://dot.asahi.com/dot/2018042000069.html?page=2 たけしに加藤茶が明かした志村けんがドリフに加入した裏事情]</ref>、及び、[[すわ親治|すわしんじ]]の昇格も検討していたが、志村の順番であったことと<ref>[http://bunshun.jp/articles/-/8306?page=2 高木ブー85歳今だから語る「長さんは僕にだけ、愚痴をこぼした」]</ref>加藤の推薦により若手の志村が起用された<ref>ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、いかりやとマネージャーの[[井澤健]]ともに「荒井の後釜は志村しかいない」と考えていたとの記述があり、これらの経緯については矛盾点や諸説がある。</ref>。当時、志村は24歳だった。
 
 
 
=== 「東村山音頭」でヒット ===
 
ドリフメンバーとなり、楽器はギターを担当するようになった。
 
 
 
ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとって[[スランプ]]の時代であった。
 
 
 
転機となったのは、『[[8時だョ!全員集合]]』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「[[東村山音頭]]」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは[[1976年]][[3月6日]]の[[新潟県民会館]]での公開生放送での同コーナーで、[[新潟県|新潟]]にちなんだ歌として「[[佐渡おけさ]]」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは[[#出身地・東村山市|後述]])。
 
 
 
いかりやが[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]であるドリフでは[[漫才#ボケとツッコミ|ボケ]]を担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやが[[ポリープ]]の手術後で声を出せない時に、いかりやの代役として[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]を担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。1980年代後半以降の自らの[[冠番組]]でもツッコミが相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『[[NHK紅白歌合戦]]』の応援コーナーで[[ビートたけし]]とコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。
 
 
 
この頃、同じ[[渡辺プロダクション]]所属の2歳先輩である[[沢田研二]]との[[コント]]内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ(詳細は[[#沢田研二との関係]]を参照)。
 
 
 
[[1979年]]には加藤茶との「ヒゲダンス」、[[1980年]]には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。
 
 
 
[[1981年]][[2月18日]]、[[仲本工事]]、『全員集合』プロデューサー[[居作昌果]]と共に競馬の[[ノミ屋|ノミ行為]]容疑で任意聴取を受け[[書類送検]]されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、[[朝日新聞]]の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭け額が多額であった仲本と居作は[[略式起訴]]で[[罰金刑]]となったが、志村は賭けた金額が1万6千円と少額であったことから[[起訴猶予処分]]になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた[[永谷園]]の[[ふりかけ]]のCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがある<ref>例:コント [[タイガーマスク]]</ref>など、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。この時志村が仲本・居作と同様に略式起訴され罰金刑となっていたら、[[競馬法]]の規定で[[馬主]]になることはできなかった。
 
 
 
=== 冠番組へ ===
 
[[1985年]]に『全員集合』が終了。[[1986年]]に『[[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]]』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『[[志村けんの失礼しまぁーす!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、『[[志村けんのだいじょうぶだぁ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、現在は単発不定期で放送中)、現在も続く『[[志村けんのバカ殿様]]』(フジテレビ)などで、ドリフメンバー以外([[田代まさし]]・[[松本典子]]・[[桑野信義]]・[[石野陽子]]・[[ダチョウ倶楽部]])との活動が多くなる。この頃から「[[変なおじさん]]」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。
 
 
 
[[1988年]]の[[12月31日|大晦日]]には、当時フジテレビ[[アナウンサー]]であった[[山中秀樹]]と共にニュース番組『[[FNN DATE LINE|デイトライン特別版]]』のキャスターを担当した。しかし、[[1992年]]頃から数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。ただしドリフターズとしての出演や志村名義でのゴールデンタイムの番組はタイトルを変更しながらも継続されており、当時と比較するとやや低迷気味と解釈される部分があった。
 
 
 
[[1996年]]にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を[[2000年]]まで担当した。
 
 
 
=== 死亡説 ===
 
[[1996年]]9月頃、突如として「'''志村けん[[死亡説]]'''」が全国的に流布する<ref name=sankei961026>『[[産経新聞]]』1996年10月26日付東京夕刊</ref>。[[パソコン通信]]などを通じて広まった<ref name=sankei961026 />。
 
 
 
噂は尾ひれがついて拡大し、「[[群馬県]]の[[ゴルフ場|赤城国際カントリークラブ]]で急性[[心筋梗塞]]を起こし急死した」「[[尾瀬]]を観光中に[[尾瀬沼]]に落ちて溺死した」「煙草の吸い過ぎが原因の肺ガンで、[[宇都宮市|宇都宮]]の[[がんセンター]]([[栃木県]]立がんセンター)で死んだ」「栃木県の[[国道]]で[[交通事故]]に巻き込まれて事故死した」「死んだことは[[四十九日]]法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった[[渥美清]]が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、[[9月28日]]には本人が[[インターホン]]越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。
 
 
 
この時期、志村は健康体で、入院が必要な大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明だが、「志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことで志村が自殺したのではないか?」「収入が無くなって死んだ」などという噂が週刊誌などでも広まった。騒動が収まったのち、[[高木ブー]]が自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方<ref>高木が話した伝播元である北関東のうち[[群馬県|群馬]]や[[栃木県|栃木]]は志村姓が多い。他には[[甲信越地方|甲信越3県]]も志村姓の多い県である。これは志村一族のルーツが[[甲斐国|甲斐]]を発祥とするとされ、元甲斐武田氏家臣の志村又左衛門が志村氏の先祖であるという。志村又左衛門は[[天正]]10年([[1582年]])3月の武田氏滅亡後は[[徳川家康]]に臣従し、『[[甲斐国志]]』によれば[[八王子千人同心]]頭として関東へ移住したという。なお、[[新潟県]]には志村姓も多いが「碇矢姓の発祥の地」と書籍で公表される程、碇矢姓も多い(いかりや浩一著『親父の遺言』より)。</ref>で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。
 
 
 
=== その後から現在 ===
 
[[1997年]]後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものとなっている。
 
 
 
[[1998年]][[12月30日]]、[[TBSテレビ|TBS]]で放送された『[[テレビのちから|21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜]]』後半部では、加藤と共に出演する。
 
 
 
[[古畑任三郎の犯人|『古畑任三郎』の犯人役]]のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画には出演しないことを信条としていた志村だったが、[[1999年]]には映画『[[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員(ぽっぽや)]]』に俳優として出演した。自宅の[[留守番電話]]に主演の[[高倉健]]直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「健さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。
 
 
 
『バカ殿』で共演していた先輩コメディアンの[[東八郎]]に「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。
 
 
 
[[1990年代]]半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。[[トーク番組|トークバラエティ番組]]に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事であった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴であった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演であったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、[[2002年]][[5月29日]]に放送された『[[わたしはあきらめない]]』([[日本放送協会|NHK]]制作)でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でも出演するようになり、現在はどちらでも出演している。
 
 
 
[[2001年]]、「けん♀♂けん」名義で[[研ナオコ]]とのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。[[2002年]]4月、[[ハロー!プロジェクト]]所属の[[ミニモニ。]]と共に「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。
 
 
 
2001年12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが男性宅の[[風呂]]を覗き見および[[覚醒剤]]所持で[[逮捕]]されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は[[桑野信義]]と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした(ただし、[[2009年]][[11月]]、志村の楽屋に田代が訪れて[[土下座]]したことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送る。しかし田代は、[[2010年]]9月にまたも逮捕された)。
 
 
 
[[2004年]][[4月15日]]、自身がMCを務める[[動物]]バラエティ番組『[[天才!志村どうぶつ園]]』が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系でスタート。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。当初は木曜日午後7時台の放送だったが、[[2007年]]4月から土曜日午後7時台に枠移動している。
 
 
 
2004年12月7日、東京都[[三鷹市]]内の自宅に泥棒が侵入し、[[時計]]や[[宝石]]類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、[[セキュリティ|ホームセキュリティ]]に加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典Ⅱ]]』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である<ref>『[[日刊スポーツ]]』.  2004年12月8日付. 芸能面.</ref>。似たような事件が2年前[[小出義雄]]の自宅でも起こっており、約500万円の現金が盗まれている。小出は「'''警察には被害届を出さない代わりに、その金を元手に商売するか、まっとうに仕事をしろ!'''」と犯人にアピールした。志村のコメントは小出のアピールを引用したものと思われる。
 
 
 
[[2005年]]、[[ビートたけし]]と組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部や[[たけし軍団]]の一部も参加した。番組の最後には、志村の[[三味線]]とたけしの[[タップダンス]]の競演が披露された。
 
 
 
[[2006年]]4月、「理想のお笑い」を追求すべく、[[東京芸術劇場]]で『[[志村魂]](しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は[[藤山寛美]]の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』を[[ラサール石井]]がリメイクした舞台を上演した。
 
 
 
[[2007年]]6月には、東京芸術劇場と[[中日劇場]]で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「[[津軽三味線]]」が上演された。[[2008年]]5月から7月にかけては、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。[[2009年]]7月には、[[銀河劇場]]と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。[[2010年]]7月から8月にかけては、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。[[2011年]]7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。[[2012年]]6月から7月にかけては、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。
 
 
 
[[2015年]][[11月23日]]に「一番のファン」であった<ref>志村けん「Ken's Blog」『私事ですいません』11月25日更新</ref>志村が65歳の時 実母が老衰のため逝去。96歳没 ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した<ref>[http://www.asahi.com/and_w/interest/entertainment/CORI2062822.html 志村けんの母死去 96歳]朝日新聞デジタル 2015年11月25日</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/11/25/kiji/K20151125011571590.html 志村けんの母死去、96歳 口癖は「結婚どうすんだ?」]SponichiAnnex 2015年11月25 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151222105851/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/11/25/kiji/K20151125011571590.html |date=2015年12月22日 }}日</ref>。
 
 
 
[[2016年]][[8月19日]]、[[肺炎]]で入院したことが判明した。これに伴い、[[8月20日]]および[[8月21日|21日]]に予定されていた公演『志村魂』の大阪・[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]公演は中止することになった<ref>[[北日本新聞]] 2016年8月20日付35面『志村けんさん肺炎で入院』より</ref><ref>{{cite news|url=http://www.oricon.co.jp/news/2077090/full/|title=志村けん、肺炎で入院 大阪での舞台中止に|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-08-19|accessdate=2016-08-22}}</ref>。その後、[[8月31日]]に退院している<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160831-00000352-oric-ent 緊急入院の志村けん、退院を報告「3日前から散歩できるように」]オリコン 2016年9月5日閲覧。</ref>。
 
 
 
=== その他 ===
 
現在では健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならず[[コメンテーター]]的存在としても活動している。ただし、現在のトーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけている。また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「[[クイズ番組]]が多すぎる」「[[時代劇]]が不振」と苦言を呈している。
 
 
 
[[2006年]]より自身のブログを更新している。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えている。2015年11月25日のブログでは、母・和子が11月23日に亡くなったことを明かした。
 
 
 
お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会である[[THE MANZAI (お笑いのコンテスト)|THE MANZAI2014]]では審査員として出演した<ref>[https://irorio.jp/entame/20141215/187487/ IRORIO - たけしも志村も大絶賛、博多華丸・大吉が「THE MANZAI 2014」で優勝]</ref>。また、[[歌ネタ王決定戦]]でも第2回、第3回大会で審査員を務めている<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/308770/ 東スポWeb -「歌ネタ王」に手賀沼ジュン 志村けんも絶賛](2014年9月4日の記事)</ref><ref>[http://www.oricon.co.jp/news/2058898/full/ ORICON NEWS - 『歌ネタ王』COWCOW&中山功太が同点優勝! 3代目王者は異例の誕生に](2015年9月9日の記事)</ref>。
 
 
 
== エピソード ==
 
{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年2月|section=1}}
 
 
 
=== 音楽 ===
 
[[ソウル・ミュージック]]、[[ファンク]]、[[ジャズ]]など、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数の[[レコード]]やCDのコレクションがある。「[[ヒゲダンス]]」で使用されたBGMが[[テディ・ペンダーグラス]]の「Do Me」の[[リフ]]を[[ループ]]したものであったり、「ドリフの早口ことば」が当時、渡辺音楽出版が発売権を買い付けたシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の印象に、[[ウィルソン・ピケット]]の「Don't Knock My Love」のバックトラックをはめ込んだものであったりしたが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。更に志村加入後に発売されたドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」では、志村によるソウルフルな合いの手も聞かれる。また、かつて音楽誌『[[jam]]』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。
 
 
 
ドリフにおける担当は[[ギター]](初期は[[キーボード (楽器)|キーボード]])。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られるが、高木ブーは「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している<ref>「ドリフのミュージックジャンボリー」でギターとキーボードを弾く志村、キーボードを弾く高木の映像が確認できる。</ref>。番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて三味線を弾いたり、コントで[[霊媒師]]を演じた時には[[琵琶]]で[[ギター]]のテクニックの一つである[[チョーキング]]を披露するなど、バンドマンとしての技能が見られる。
 
 
 
なお、『[[東村山音頭#志村版|志村けんの全員集合 東村山音頭]]』はザ・ドリフターズ名義の曲として、唯一加藤以外がソロボーカルとなる曲である。
 
 
 
中学以来の[[ビートルズ]]ファン<ref>[http://ameblo.jp/shimura--ken/archive3-200611.html ken's blog「24」]</ref>。このためか、中学時代に畑でバンドをやっていたという(兄談)。[[ザ・ビートルズ日本公演|ビートルズの日本公演]]を観に行った際、持参したカメラで1枚のみ隠し撮りをしており<ref>[http://doraku.asahi.com/special/beatles/060728.html ビートルズの目撃者]</ref>、その写真をパネル化してテレビ番組で公開したことがある。その写真では[[ジョン・レノン]]が丸いサングラスをかけており、1966年7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、公式には一切収録されていない。
 
  
近年は[[津軽三味線]]を趣味としており、[[上妻宏光]]の指導を受けて短期間で上達、舞台(『志村魂』など)の後半で度々披露するようになっている。きっかけは、上妻の楽曲「紙の舞」を聴いて感銘を受けた志村が、その曲が弾けるようになりたいと上妻に指導を頼み込んだことにある。当初、上妻は「紙の舞」は非常に高度な技術が要求されるため、志村には基礎的なじょんから節から教えようと思っていたにもかかわらず、予想を超えるスピードで志村が「紙の舞」を習得してしまったという逸話がある。志村は、この上妻の楽曲「紙の舞」を舞台で度々演奏する。
+
昭和後期-平成時代のタレント。
  
=== ドリフメンバーとの関係 ===
+
昭和25年2月20日生まれ。ザ・ドリフターズの付け人から昭和49年メンバーとなりテレビ「8時だヨ!全員集合」に出演,「東村山音頭」で注目をあびる。同番組終了後もバカ殿,変なおじさんなどのキャラクターで人気をあつめる。東京出身。久留米高卒。本名は康徳。
ドリフのリーダーであり、志村の師匠でもあるいかりや長介とは一時期(1989年から1990年代始め頃)不仲であった。当時の『ドリフ大爆笑』でもいかりやと絡むコントはほとんど無く、リハーサルや撮影が別々に行われたりもした(実際にドリフ大爆笑では、メンバーの中で志村だけ出演しないコーナーもあった)。また、雑誌『[[Switch]] November 1991 特集・志村けん「笑う男」』誌上では「今のいかりやさんは面白いとは思わない。実際、いかりやさんとは2年以上会っていないし…」と語っていた。しかし、いかりやが亡くなった時に自宅へ真っ先に向かったのは加藤と志村だった。二人ともショックでしばらく動けなかったという。
 
 
 
ただし、いかりや自身の著書『だめだこりゃ』の中に「志村をリーダーに第2のドリフを作って欲しいと思っている」とする旨の記述がある。また、いかりやの息子である碇矢浩一も自身の著書の中で「自分の見た限りでは特に不仲を感じることはなかった」「父さんは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ては『こういう方法があるのか』と関心を示していた」と述べている。
 
 
 
上記のように、いかりやは幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたのに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測できないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた。この兆候は『全員集合』時代後期に既に表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内では[[TBSテレビ|TBS]]の制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。とはいえ、いかりやがそれに便乗したこともある<ref>志村が観客から失敬してきた[[スイカ]]を、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど</ref> ため、全てを否定していたわけではない。
 
 
 
入れ替わりで脱退した[[荒井注]]とは、口数は少なかったものの良好な関係だったと志村自身は語っており、荒井がドリフを辞める1ヶ月前に付き人として二人でニューヨーク近辺を珍道中した事を語っている。
 
 
 
『全員集合』終了・『ドリフ大爆笑』不定期化後、いかりや以外のドリフメンバーとも距離を置いていたが、付き人時代の時からの支援やドリフ正式加入の経緯によって、加藤とは親密であり共演番組や二人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲がよくなったと振り返っている。加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみであったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。2016年には「となりのシムラ」にゲスト出演するなど、高木との共演数も増えている。仲本工事とはいかりや逝去前後以降、その直後の特番を除いて単独で共演したことは一度も無い。
 
 
 
加藤の話によると、ドリフ再集結の話が持ち上がるとたびたび嫌がったという。理由としては、いかりやとの不仲説や、この時期になると単独で他のドリフメンバーを遙かに凌ぐ人気と活躍をしながら、ドリフに戻れば一番下扱いされることが不満であったと言われる。2012年3月に加藤が前年に入籍した妻との結婚式と披露宴を行った際には、高木と仲本が出席したにもかかわらず、志村はテレビ番組の収録を理由に欠席してビデオメッセージで済ませたため、一部のマスコミより加藤との不仲説が指摘された<ref>[http://www.asagei.com/4309 「披露宴」欠席でバレた加トケン深刻不仲](2012年3月20日、アサヒ芸能)</ref>。
 
 
 
[[2017年]]、『志村けんのだいじょうぶだぁ』で12年ぶりのドリフ再集結を果たし、『寝台車』など往年のコントが復活したが、再集結を呼びかけたのは志村である<ref name="再集結">[https://dogatch.jp/news/cx/43580/detail/ ドリフが12年ぶり集結!『志村けんのだいじょうぶだぁ』会見コメント全文] - [[テレビドガッチ]]</ref>。そのきっかけについて、志村は「セットでコントをやる人が少なくなってきているので、実際にドリフはこういうことをやっていたというのを再確認して貰おうと思って集まって貰いました」と述べている<ref name="再集結"/>。
 
 
 
=== 恋愛関係・若手女性タレントとの関係 ===
 
ドリフメンバーの中で唯一、結婚歴がない[[独身]]。しかし、結婚の願望は強く、「母に子供の顔を見せてやりたい<ref>[http://ameblo.jp/shimura--ken/archive5-200711.html ken's blog「米寿の母です」]</ref>」「人恋しく、人肌恋しい<ref>[http://ameblo.jp/shimura--ken/archive7-200711.html ken's blog「休みだよ」]</ref>」とブログに載せている。
 
 
 
付き人時代に同棲していた女性とは、婚姻に至る前に子供ができたが、周囲の反対で彼女と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その女性と子供の消息は不明)。その他、3年間の同棲の果てに内縁関係([[事実婚]])を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。また、[[日本航空インターナショナル|日本航空]]に[[客室乗務員|スチュワーデス]]の愛人が複数いると報じられたこともある<ref>[http://matinoakari.net/news/cu/item_20152.html 志村けんに恋人]</ref>。さらに大の[[キャバクラ]]好きでもある。このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手であるため、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めている。
 
 
 
[[1980年代]]から[[1990年代]]中盤にかけて、女優の[[太地喜和子]]や[[いしのようこ]]との交際の噂が各メディアでたびたび報じられたものの、結婚へは辿り着かなかった。太地、いしのともに番組で共演、太地が亡くなった際には番組で追悼企画が組まれた。
 
 
 
=== ビッグ3との関係 ===
 
[[タモリ]]との共演は極めて少ない。かつて『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』の[[テレフォンショッキング]]のゲストとして出演した際に、桑野信義が志村をゲストとして呼ぼうとしたが、「俺、明日ゴルフだから」と断った。この頃の志村は前述にあるようにトーク番組が苦手なこともあり、コント以外の番組にゲスト出演することがほとんどなかったので『笑っていいとも!』に限り出たがらなかったということではない。なお、約10年後に作家の[[嵐山光三郎]]の紹介で初めて出演し、2007年にも加藤茶の紹介で、2013年にもバカ殿様の番宣でテレフォンショッキングに出演したほか、研ナオコとのユニット「けん♀♂けん」としてもゲスト出演した。他には過去に『[[ジャングルTV 〜タモリの法則〜]]』や『[[ミュージックステーション]]』でもゲスト出演している。
 
 
 
[[明石家さんま]]との共演も多くないが、これはさんまが得意とするトーク主体の番組を苦手としているためである。ただし、さんまが司会を務める『[[さんまのまんま]]』をはじめ、『[[踊る!さんま御殿!!]]』や『[[恋のから騒ぎ]]』にゲスト出演している。
 
 
 
ビートたけしとは『[[神出鬼没!タケシムケン]]』での共演を機に、お互いを尊敬し合う仲である。それ以前よりたけしは志村をはじめ、ドリフターズに好意を持っており「[[たけし軍団]]はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話している。
 
 
 
=== 沢田研二との関係 ===
 
志村のドリフ加入からしばらく経過した[[1970年代]]後半、『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内において[[沢田研二]]とよく共演していた。当時、沢田と志村は同じ事務所に所属していたこともあり、共演する回数は多かった。また、志村はドリフ加入前の「マックボンボン」時代に沢田のコンサートの前座を何度も務めていたことがある。
 
 
 
[[1980年代]]中頃以降は共演する機会も減っていたが、2001年にNHKの番組で久々に共演し「東村山音頭」を一緒に歌うなどをした。同年には沢田の希望により、共同でラジオ番組『ジュリけん』(文化放送)もやっていた。2003年には沢田と志村の両方が主役として、沢田の希望で舞台「沢田・志村のさぁ、殺せ!!」での共演が実現した。沢田とは同一事務所時代から30年以上の交流があるが、プライベートで行動を共にする機会は比較的少なかったものの、2000年代に入り徐々にではあるが、交流の機会を増やしている。
 
 
 
志村は上記にあるように、女性の友人で付き合いの長い人物は若手を中心に多いが、男性の友人で付き合いの長い人物は極めて少ない方であり、ドリフメンバーや志村ファミリーを除くと沢田程度しかいない。
 
 
 
=== 後輩タレントとの関係 ===
 
『[[天才!志村どうぶつ園]]』で共演している[[相葉雅紀]]([[嵐 (グループ)|嵐]])を弟子のように可愛がっており、しばしば自分の人生論などを伝授している。
 
 
 
[[タカアンドトシ]]が、自身の持ちギャグである「欧米か!」をこのまま続けて行くべきか真剣に悩んでいた際、「このままずっとやり続けるべきだ」と励ました<ref>志村が自身のブログで明かしている([http://ameblo.jp/shimura--ken/entry-10519907405.html Kens BLOG「さすが」](2009年5月4日))。また、2009年2月9日放送『[[しゃべくり007]]』スペシャル内や『[[となりのマエストロ]]』の記者会見([https://megalodon.jp/2009-1006-0131-31/hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20091005-OHT1T00223.htm 志村けんが激励「『欧米か!』一生涯やれ」] - スポーツ報知(ウェブ魚拓)(2009年10月5日))などでも同様の発言があった。</ref>。志村はタカアンドトシを非常に気に入っており、志村の冠番組での共演も数多い。
 
 
 
[[千鳥 (お笑いコンビ)|千鳥]]の大悟とも仲が良く、週4のペースで飲みに行っている<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/13421649/ 志村けんに完全に「ハマった」千鳥の大悟 ソツがなくツボを心得ている?] - livedoorニュース(2017年8月2日)</ref>。
 
 
 
大御所となった現在、志村相手に真剣に突っ込みを入れられるタレントはほとんどいなくなったが、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の[[浜田雅功]]は自身の番組で志村の頭を叩く。このことに対し志村が「おれが頭を叩かせるのは、いかりやさんのいない今は、浜田だけなんだから」と許容している。
 
 
 
=== 出身地・東村山市 ===
 
[[File:ShimuraKen Wood on Summer.jpg|right|thumb|240px|志村けんの木(東京都東村山市・東村山駅前、2009年8月22日撮影)]]
 
志村はプライベートで、東村山市および自身の実家に帰ることはほとんどないという。東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村後援の動きは、元祖「東村山音頭」を企画した[[東京みらい農業協同組合|東村山市農業協同組合]]が中心であった。その後、東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになった。
 
 
 
1976年7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長の熊木令治から感謝状が贈られた。当初、志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には否定的な者もいた。志村が当時テレビでギャグネタに「東村山市名誉市民・志村けん」を名乗ったため、本当に志村が名誉市民称号を授与されたと思い込んだファンがかなり存在するが、実際にはその事実はなく、東村山市当局も公式にこれを否定している。
 
 
 
なお、この時に[[西武鉄道]]・[[東村山駅]]東口の交番前に、感謝状授与記念と志村への激励の証として[[ケヤキ]]が植えられた。通称「'''志村けんの木'''」。またいかりや長介が「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。
 
 
 
1995年、東村山市商工会が主催した[[西武鉄道]][[東村山駅]]開業100周年記念イベントで司会を務めた。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、当時東村山市役所に勤務していた兄(現在は定年退職)の紹介で出演が実現した。
 
 
 
東村山市商工会ウェブサイトではタイトルロゴに「あい〜ん」と表記していたことがある<ref>{{cite web |url=http://www.shoukoukai.or.jp/ |title=東村山市商工会 |accessdate=2006年12月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070203223707/http://www.shoukoukai.or.jp/ |archivedate=2007年2月3日 }}</ref>。
 
 
 
志村の小学校時代の同級生が社長を務める市内の和菓子店「餅萬」では、志村にちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」や「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」として販売している<ref>[http://www.mochiman.net/ 和菓子処「餅萬」]</ref>。
 
 
 
=== 各方面での人気と影響 ===
 
日本だけでなく、[[台湾]](『だいじょうぶだぁ』)、[[タイ王国|タイ]](『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、[[インド]]([[蚊取り線香]]のCM)でも知名度が高い。また、[[イラン]]の政府高官は[[大使館|駐日イラン大使館]]の在留大使時に志村のコントを見て大ファンになり、帰国後「国賓として招きたい」と言ったり、[[テヘラン]]のレンタルビデオショップには志村の特設コーナーもある。さらに、在日外国人に最も人気が高いタレントの1人とも言われ、六本木で出会った[[アメリカ軍|アメリカ兵]]から「お前は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に行くべきだ。俺の部隊の連中は、みんなお前が大好きだ」と言われたこともある<ref>エッセイ『変なおじさん』によると、志村に限らずドリフのコントは言葉よりも動きによる笑いに重点を置いていたため、日本語のあまり通じない外国人にも受けが良かったという。これと同様のことは、いかりやの自伝『だめだこりゃ』でも説明されている。</ref>。
 
 
 
[[太地喜和子]]は志村の熱心なファンであった。志村の著書によると、若い劇団員に対し「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ」と言ってくれたという。太地は『だいじょうぶだぁ』の常連ゲストとしてたびたび出演し、太地の急死直後には追悼番組が放映された。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 父親は小学校教諭で教頭まで昇進した。しかし、志村が中学生の頃に、自宅前で[[交通事故]]に遭って以来、[[後遺症]]による[[高次脳機能障害]](と思われる状態)となり、志村がドリフの付き人になろうと決意した頃には、物事の判断がほとんどできなかったという。そのため、志村が実際にドリフの付き人になった時にも、父親の反対はなかったという。志村の爺さんコントは「この時期の父親をモデルにしたもの」であると、自身の著書『変なおじさん』にて明言している。また、志村の芸名は父親の名前「憲司(けんじ)」に由来するという(なお、父親は志村が正式にドリフのメンバーになる前に亡くなった)。一方、母親の和子は踊りや芸事が好きで、自分は母親の性格を受け継いだのかもしれないと語っている。母親は[[氷川きよし]]の大ファンで、『バカ殿』のコントにも出演したことがあり、2015年11月23日に96歳で亡くなった。志村の長兄である志村知之は、長年東村山市に公務員として2017年4月まで勤務していた。知之が退職する日に東村山市長の[[渡部尚]]と握手している写真が掲載され、「志村けんそっくり」と話題になった。
 
* 小学校時代、給食費を滞納しており、中学校に上がってからそのことが発覚し父親にこっぴどく怒られたという。
 
* 生まれて初めて[[ピザ]]を食べたのは高校生の時、当時の彼女と[[新宿]]の喫茶店にて。初めて[[ハンバーガー]]を食べたのも高校生の頃で、ハンバーガーはその店のものしか食べなかった(現在は閉店)。
 
* 付き人時代は貧乏で、食べるにも事欠く生活だった。他のメンバーが[[楽屋]]で[[ラーメン]]を食べている時でも、付き人の志村はラーメンを注文する金もなかったので、一番安いライスだけを注文し、それを他のメンバーが残したスープに入れて食べていた。ある時、志村がいつものようにライスを注文し、隣の席でラーメンを食べていた加藤がスープを残してくれるのを待っていると、加藤はスープまで残さず平らげてしまったため、志村は思わず「加藤さん! '''このライスの立場はどうなるんですか!''' 」と激怒した。加藤はこの時のことを今でも忘れずに覚えているという。
 
* 送迎用に[[ロールス・ロイス]]を所有しているが、志村自身は[[自動車]]の[[運転免許]]を持っていないため、専属の運転手を雇っている。ただし、『[[人気者でいこう!]]』の企画で[[自動車教習所|教習所]]で1度だけ車の運転をしたことがある。
 
* [[競走馬]]の[[馬主]]として[[アイーンベル]]等を所有している。
 
* 2011年7月、愛犬の大輔([[ゴールデン・レトリーバー]])を亡くした。
 
* 2017年4月19日、[[Instagram]]が乗っ取られ、男性の局部と思われる写真がアップロードされ、即削除された。所属事務所は公式サイトで「管理権のない第三者によって不正にログインされ、弊社及び志村けん本人が関知しない画像を投稿されるという事態が発生しました。本件について、弊社では、同日12時40分頃に事務所スタッフが不正な投稿を発見、当該の投稿を削除した上で、志村けん本人にも事実関係の確認を行ない、不正アクセス行為の禁止等に関する法律に違反する不正アクセス行為の被害を受けたとして、同日14時頃、[[警視庁]][[赤坂警察署]]に被害の報告をしております。今後の対応については関係各所と協議を行なった上で対処を致します」とコメントした<ref>{{Cite news|title=志村けん、インスタグラム乗っ取りで警視庁に被害を報告|newspaper=スポーツ報知|date=2017-04-19|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170419-OHT1T50134.htmlaccessdate=2017-04-20}}</ref>。
 
 
 
== 持ち芸 ==
 
[[ファイル:Water melon.jpg|200px|thumb|[[スイカ]]]]
 
* 『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、[[スイカ]]を異常に速く食べる芸を披露した。使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『[[めちゃ×2イケてるッ!]]』では削られていない通常のスイカでも早食いができることを証明した。『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。早食いはしていない。
 
* 「あなたは神様ですか?」「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」というギャグは、アメリカの小説『[[競売ナンバー49の叫び]]』のヴェスパーヘイヴン養老院のシーンからの引用という説がある<ref>[[トマス・ピンチョン]]『競売ナンバー49の叫び』第4章</ref>{{要出典|date=2015年9月|title=誰による説か?}}。
 
* 様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。
 
 
 
=== 『8時だョ!全員集合』・『ドリフ大爆笑』時代 ===
 
; 東村山音頭
 
; 童謡の[[替え歌]]
 
: 「カラス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」の元ネタは「[[七つの子]]」で、裏番組『[[欽ドン!|欽ちゃんのドンとやってみよう!]]』内コーナー「レコード大作戦」の視聴者投稿作品でもあった。志村自身は「[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]界隈の子供が言っているのをもらった」と言っている。当初は少年少女合唱団のコーナーで披露されたが、好評を博したため、冒頭のコント内で披露された。劇の最中、突然[[カラス]]の操演物(可動式の[[ぬいぐるみ]])が登場し、「カー、カー!」と鳴き声を発するのを合図に、志村が舞台中央に立ち観客席に向かって「さん、はい」と指揮を執りながら歌う(同時に観客の子供たちも声をそろえて歌う)。最後に志村が観客席に向かって、威張り口調で「ありがとうございました!」と言って締める。
 
: 「[[まど・みちお|ぞうさん]]」の「かあさん」の部分を、当初は「ちんちん」に替えて歌っていたが、視聴者からの苦情が殺到し、2週ほどでやめさせられた。その後、「'''そうよ、短けりゃ、[[ブタ]]なのよ'''」という歌詞に改められた。
 
: 「赤い靴、履いてたら脱げた」(「[[赤い靴]]」の替え歌)
 
; 「あんだ、バカヤロー!」、「おこっちゃヤーヨ!」
 
: いかりやに対して反抗の意志を示すために、[[腕]]と[[顎]]を突き出してポーズをとる。「アイーン」はこの時のポーズが後にドリフ大爆笑でも加藤と志村が時にやっていた「ニン」とのポーズとを合成したものである。
 
; ディスコ婆ちゃん
 
: 1970年代の[[ディスコ]]ソング風BGMに乗って激しく踊る。合間にしきりに「あーぁ」「ゲェッ!」「サンキューベイベー」と喚く。
 
; キョーデー・ナンデー
 
: 加藤とのコンビ。お互いを「キョーデー」(兄弟)・「ナンデー」(何だい)と呼び合い、『[[ヤン坊マー坊天気予報]]』の替え歌を歌い始める。「大きなものから」(志村)「小さなものまで」(加藤)のところでお互いの股間を指し合うが、最後近くで2人ともいかりやに突っ込まれてオチがつく。
 
; ジャンケン決闘
 
:[[西部劇]]の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まる[[じゃんけん|ジャンケン]]。仲本工事とのペア。敗者には[[罰ゲーム]](水や膨らむ[[風船]]などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
 
: 後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」になった。最後の「勝つ」の部分はグーを出す。なお、本人および加藤茶によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという。これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。
 
; ヒゲダンス
 
: 加藤茶とのコンビ。黒[[タキシード]]と付けヒゲを着用し、[[煉瓦]]の壁をバックに踊りながら様々な芸を披露する。[[エレキベース]]による印象的なBGM(『「ヒゲ」のテーマ』)は、[[ソウルミュージック|ソウル]]の「Do Me」を[[たかしまあきひこ]]がアレンジしたもの。たかしまによるとソウル通の志村が[[テディ・ペンダーグラス]]の「Do Me」のレコードを持って来て「これと似たようなBGMできないかな?」と言ったという。付けヒゲは、[[振付師]]兼ギャグアドバイザーだった[[藤村俊二]]の[[トランク]]から拝借したと藤村本人が語っている。
 
; 私ってダメな女ね
 
: [[桜田淳子]]との夫婦コント。『全員集合』の後半戦で、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね。あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に[[照明]]が暗くなる)。そのたび、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せをかみしめる…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、あなた。ご飯にする?それともお[[風呂]]にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた。あるいは、ご飯炊くの忘れていた等)。ところが、志村の[[背広]]のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は[[山口百恵]]のこと。桜田と同じ[[花の中三トリオ]]で親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾。志村が「私って駄目な男ね。あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
 
: パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
 
; お食事タイプライター
 
: 上記の夫婦コントの中などでも、たびたび行われていたギャグ。食事の前に「何かいい音楽ないの?」と志村が切り出し、相方が[[テープレコーダー]]のスイッチを入れると、[[ルロイ・アンダーソン]]の楽曲「[[タイプライター (アンダーソン)|タイプライター]]」が流れてくる。最初は普通に食べているが、余りのテンポの速さにせわしない食べ方になってしまい、「チーン、サッ」の音とともに、素早くカメラ目線をしては元に戻るという動作を繰り返す。最後には「やめろよ! 落ち着いて食事ができないじゃないか!」と志村が怒ってオチがつく。
 
; 借金取り
 
: 加藤、女性ゲスト([[松本伊代]]や[[中森明菜]]等)との三人で演じる[[時代劇]]コント。志村演じる病気の父と健気に看病する娘のもとへ、加藤演じる借金取りが現れて返済を迫る。加藤が「借金のカタに娘をもらってくぜ!」と言って強引に娘を連れ出そうとすると、志村が「加藤の旦那、それだけはご勘弁を!」と加藤を何度も壁に叩きつけたり、[[プロレス]]技をかけたりと散々痛めつけ、倒れた加藤が「おい、借金はいいからよ、医者呼んでくれ…」と音を上げてオチがつく。
 
: 『[[ドリフ大爆笑]]』ではこのパターンをテレビ画面に映し、その傍で女性が着替えや入浴で服を脱ぐごとに、志村と加藤がコントそっちのけで目移りしてしまうなどのメタ的な変化を加えた派生型のコントも存在する。
 
; バカ殿様
 
: [[歌舞伎]]「一条大蔵譚」のパロディ。フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。[[橋幸夫]]演じる立派な殿様の[[影武者]]として、いかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こる…という内容だった。バカ殿に振り回される[[家老]]はいかりやが演じた。
 
: [[コナミ]]より[[ファミコン]]ソフト「[[ハイパーオリンピック]]」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものがコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
 
: 当時は[[黒澤明]]の映画『[[影武者 (映画)|影武者]]』が話題になっており、橋幸夫も[[漫才]]コンビ[[ザ・ぼんち]]に物まねをされて再ブレイクしていた。
 
; 志村、後ろ!
 
: コント劇で志村の背後に[[お化け]]や[[ミイラ]]などの恐ろしい存在が現れ、それに志村が気づいていない(という演技をしている)時、観客(主に子供)が叫ぶ言葉。志村が能動的に行うギャグではなく、観客の偶発的なリアクションだったが、同種のコントを披露するたび「志村、後ろ、後ろ!」と客席から声が飛ぶようになり、番組中の一種の「[[お約束]]」になっていった。
 
: 後輩[[コメディアン]]いわく「舞台上の演技にタイミングを合わせて『後ろ、後ろ!』と声を掛けるのが難しく、プロのコメディアンであっても意識的に再現できる物ではない」という。
 
: 観客のリアクションに関して、志村は番組終了後の特番で「朝からリハーサルやってんだから言われなくてもわかってるんだよ」と述懐している。生放送中にも、観客席の子供に向かって「言われなくても分かってる!」と言い返していたことを、同特番で加藤茶に暴露された(真偽は不明)。
 
; お前、それはないだろう<ref>もともとドリフ加入後最初に生み出したギャグであったが、当時は評価されず、東村山音頭でブレイクしてから一般に日の目を見るようになった。</ref>
 
: 地位が上のいかりやの横暴にじっと平伏しているが、途中でいきなり強気で反論し始める。現在で言う“[[逆ギレ]]”。相手を指差しながら殿様のように淡々と言うバージョンもある。
 
; 勝手にシンドバッド
 
: 沢田研二の「[[勝手にしやがれ (沢田研二の曲)|勝手にしやがれ]]」と[[ピンク・レディー]]の「[[渚のシンドバッド]]」の音を[[コラージュ]]し、音に合わせて両方の振り付けで踊るが、どんどん滅茶苦茶になっていく。後年に作成された[[サザンオールスターズ]]のデビュー曲「[[勝手にシンドバッド]]」はこれがヒントになっている。
 
; 魅せられて
 
: [[ジュディ・オング]]の「[[魅せられて (ジュディ・オングの曲)|魅せられて]]」のパロディ。例の真っ白な衣装を着た志村にバックライトが当たり、ゴツゴツした体型がシルエットになって浮かび上がる。
 
; 宮崎美子・ピカピカに光って
 
: [[宮崎美子]]が出演した[[コニカミノルタ|ミノルタカメラ]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]のパロディ。[[CMソング]]([[いまのキミはピカピカに光って]])をBGMに服を脱ぎ青い[[ビキニ]]姿になり、腹の贅肉をつかんで「みやざきよしこー!」と一言。仲本や加藤が背景の木を持って補助。
 
; マダムヤーン
 
: 1982年に[[ハウス食品]]から発売された[[インスタントラーメン]]「楊夫人」(マダム・ヤン。現在絶版)のCMソングがモチーフ。若い女性アイドル歌手に「○○ちゃーん(アイドルの名前)、マダムヤン、マダム・ヤーン♪」と歌いながら奇妙な手つきでからむ。
 
; ピッカピッカの一年生
 
: 1980年の[[小学館]]『[[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]』のCMがモチーフ。主に場面転換で舞台から退く直前、加藤茶と並んで「俺達○○するかなぁ?」「分かりません」「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」とやりとり。大抵は直後2人ともいかりやに突っ込まれ、急かされる様に一旦退場する。
 
; アー・ミー・マー
 
: 英語の[[一人称]]変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きな[[ビートルズ]]の曲「[[アイ・ミー・マイン]]」("I Me Mine")にヒントを得て変化させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOURSの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERSの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
 
: 「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共に[[PTA]]から槍玉に挙げられたが、[[居作昌果]]は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
 
: テレビ人形劇『[[飛べ!孫悟空]]』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後年に生み出された持ち芸の一つである変なおじさんの振り付けに転用されている。
 
; その他
 
: 「5秒前!、4、3、2、1」「デーン」「ビシッ!」(加藤茶とのペア、[[ノミ行為]]による出演自粛中にネタおろしされ、フリはいかりやが担当していた)
 
: Here we go, everybody, come on rock'n roll(ゴーゴーダンスの振りをつけながら、野太い声で。[[スネークマンショー]]のネタである「咲坂と桃内」を真似たもの)
 
:あーあ、か…はたまたやーや、か… しからずんば ぬーぬ、か…(バカ殿コントの導入部で暇をもてあました殿が独り言のようにつぶやく)
 
 
 
=== 『加トちゃんケンちゃん』・『だいじょうぶだぁ』以降 ===
 
; だいじょうぶだぁー、ウェ、ウェ、ウェ
 
: 3連の[[団扇太鼓]]を叩きながら「だいじょうぶだぁー」「ウェ、ウェ、ウェ」と言い、相手もその都度同じことを繰り返す。「ウェ、ウェ、ウェ」は「ウァ、ウォ、ウェ、ウィ」など時々変わる場合がある。
 
: 志村の兄が[[福島県]][[喜多方市]]の女性と結婚し、その家に志村が遊びに行った時に、そこの家のお父さんから「あがっせ、あがっせ、だいじょぶだぁ」さらに「食べっせ、食べっせ、だいじょぶだぁ」と言われたのが[[起源]]となる。
 
: また他説として、[[岩手県]][[西和賀町]]にロケで宿泊した[[旅館]]の夕食にて、珍しい[[郷土料理]]を見て「これ、食べても大丈夫ですか?」との質問に、親父さんが「だいじょうぶだぁ、クェ、クェ、クェ(食べなさいの意)」と答えたのが語源となる。
 
: 後にこれが『志村けんのだいじょうぶだぁ』の契機となる。また同番組放送開始直後に、[[裁判]]コントで桑野信義らが[[インスパイア]]した。
 
; ケンちゃんブー
 
: 加藤茶の「加トちゃんペ」に対抗するギャグとして編み出されたが、まったく定着しなかった。
 
; [[変なおじさん]]
 
: 「何だ、チミ(君)はってか? え?」「そうです、私が変なおじさんです!」
 
: 変なおじさんがコントのオチで言うセリフの「'''だっふんだ'''」は、[[桂枝雀 (2代目)|桂枝雀]]の落語に出てきた「偉い人の[[くしゃみ]]」が「だっふんだ」に聞こえたのがきっかけ<ref>「だっふんだ」以外にも「すビバセンね」「(お日ィさんが)カーッ」等、桂枝雀の落語に出てくるギャグをしばしば好んで使用している。</ref>。「♪あはは、うふふ、えへへのおほほでだっふんだ」の歌は、[[三遊亭金馬 (4代目)|四代目三遊亭金馬]]らの人気番組『[[お笑い三人組]]』のメロディーを使用している。
 
: 変なおじさんのメロディは、[[沖縄民謡]]の「[[ハイサイおじさん]]」が原曲だと言われている。
 
; アイーン
 
: もともと「アイーン」というセリフはなく、“怒っちゃヤーヨ!”の腕の位置がもう少し下がったポーズである。また、志村自身は「アイーンはギャグじゃない。ただのポーズだ。」と述べている<ref>エッセイ『変なおじさん』</ref>。
 
: 岡村隆史は、「アイーン」という音の考案者は[[バッファロー吾郎A|木村明浩]]([[バッファロー吾郎]])であると語っている。過去に木村が、上記の志村のポーズにオリジナルで「アイーン」と音を付けて披露していた。これを覚えていた岡村が、志村との競演時に木村同様に音をつけて「アイーン」を行い、志村が逆にそれ取り入れたことで、現在のものになったという。また、人気番組『[[進ぬ!電波少年]]』(日本テレビ)で、[[なすび]]が志村の真似をした際に「アイーン」と声を発したことで、全国的に認知されるようになった。
 
; [[ウンジャラゲ]]
 
: [[ハナ肇とクレージーキャッツ]]のメンバーであった[[植木等]]のカバーだが、歌詞と振り付けの一部がオリジナルとは異なる。
 
; [[志村けんのだいじょうぶだぁ#ひとみ婆さん|ひとみ婆さん]]
 
: メガネをかけた手の震えるばあさん。「ひとみと申します。ひぃちゃんと呼んでください」。非常に目が悪く物や人を見るときは近距離で見る。いつも早起きで、[[マッサージ]]のコントでは、客をマッサージ中に寝てしまうことが多く、客から「寝てたんじゃないの?」や「起きてる?」などといったことを言われ、それに対しひぃちゃんは「寝えませんよ。」や「起きてましたよ」などと答える。一人の孫がいる。おじいさんは年上で、すでに他界している。
 
; その他
 
: 爺さんや、婆さんや(田代まさしとの掛け合い)
 
: ご、ご、ご、5時!?(いしのようことのコンビ)
 
: そこまで言う!? [[早見優]]、[[北天佑勝彦|北天佑]]、[[醤油|しょうゆ]]、[[ラー油]]、アイラブユー。仲直り!(いしのようことのコンビ)
 
: メシはまだかい?(志村が爺さんで、いしのが留守番を頼まれた近所の主婦の設定。もともと実父が自宅前で交通事故に遭った後遺症で記憶障害が残った姿がヒントになっている)
 
: うわぁ、効くなぁ([[栄養ドリンク]]を飲んだ後に言う)
 
: 糸まきまき、糸まきまき、ひいてひいてとんとんとん
 
: いいよなおじさん(「○○はいいよなぁー」と言って、勝手に人のものを食べたりするが、何故か憎めない)
 
: いえいえおじさん(小心者で「いえいえ…」と遠慮するが、結果的に[[ヤクザ]]を退治したり、[[クイズ番組]]で全問正解になったり、トラブルを解決してしまう。本人は割と気に入っていたキャラだったが、出番に恵まれず埋もれて行った)
 
 
 
== 主な出演番組 ==
 
この節では志村単独の出演作品を記述する。
 
{{Main2|ザ・ドリフターズとしての出演は[[ザ・ドリフターズ]]を}}
 
=== テレビ番組 ===
 
==== 現在の出演番組 ====
 
;レギュラー番組
 
* [[天才!志村どうぶつ園]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2004年4月 - )
 
* [[志村でナイト]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2018年10月 - )
 
 
 
;スペシャル番組(単発・不定期)
 
* [[志村けんのバカ殿様]](フジテレビ、毎年正月・春と秋の番組改編時期、1986年 - )
 
* [[志村けんのだいじょうぶだぁ]](フジテレビ、年に数回放送、2007年 - )
 
** いずれも本名の「志村康徳」名義で構成も担当している。
 
* [[志村&所の戦うお正月]]([[ABCテレビ|朝日放送]]・[[テレビ朝日]]、毎年[[1月1日]]午後放送、1999年 - )
 
* [[加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!]](1998年12月19日、フジテレビ)
 
* [[爆笑伝説!志村けんの変なおじさんVSネプチューン大決戦!!]](1999年12月7日、フジテレビ)
 
* 中村玉緒&志村けんのお正月は無礼講だよ!大年会(2001年1月6日・2002年1月5日・2003年1月2日、フジテレビ)
 
* 志村けんの爆笑ミステリー旅行(2001年2月6日、フジテレビ)
 
* 志村けんの爆笑!!ぶらり旅(2001年8月11日・2002年8月31日、日本テレビ)
 
* 新春!志村けんのOSAKA爆笑ツアー(2002年1月3日、関西テレビ)
 
* 研ナオコ・志村けんの癒し!美味しい!痛い(秘)若返り台湾の旅!(2002年6月9日、日本テレビ)
 
* 志村けんのわが家のイヌはナンバー・ワン(2002年10月23日、テレビ朝日)
 
* 志村けん&優香のおバカ観光スペシャル(2003年・2004年・2005年、読売テレビ)
 
* 志村優香の芸能人ぶっとび親子スペシャル(2004年、読売テレビ)
 
* 志村けんの若返りグルメ旅(2004年8月14日、日本テレビ)
 
* たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!(2005年4月7日、フジテレビ)
 
* 志村けんと100人のオンナ涙のシアワセ研究所(2005年、読売テレビ)
 
* 志村けんの美人めぐり旅(2006年8月13日・2007年11月11日、テレビ朝日)
 
* 志村けんのアィ~ン旅 ゆかいな仲間と珍道中(2007年9月20日、日本テレビ)
 
* [[志村けんの南国美女探し]](テレビ朝日、シリーズ特番、)
 
* [[志村けんの激ウマ列島]](テレビ朝日、シリーズ特番)
 
* [[志村&鶴瓶のあぶない交遊録]](テレビ朝日、毎年正月放送)
 
* [[ダウンタウンDX]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 不定期出演
 
* [[史上空前!! 笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ]]([[TBSテレビ|TBS]]、毎年お正月放送)
 
* [[火曜エンタテイメント!]]「ぶらり下町探検隊」([[テレビ東京]])
 
* [[志村けんと行く!勝手にドッキリ感動旅!]](テレビ東京)
 
* 志村&白鵬のすごいんでないの(テレビ東京)
 
* [[6人の村人!全員集合]](TBS)
 
* [[となりのシムラ]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])
 
* 志村けんのゲーム王国(TBS)
 
* [[志村けん聞録]] (テレビ朝日)
 
* 浜田が志村とリアクション芸ダメ出しSP(読売テレビ、2015年-)
 
* [[浜田雅功と志村けんが遂に対決!新春!運芸会]] (読売テレビ、2018年1月2日)
 
* 志村けん in 探偵佐平 60歳(NHK、2018年1月2日) - 木野塚佐平 役
 
 
 
==== 過去の出演番組 ====
 
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 -->
 
* [[ぎんぎら!ボンボン!]](日本テレビ、1972年10月 - 12月)
 
* [[シャボン玉ボンボン]](日本テレビ、1973年1月 - 4月)
 
* [[志村けんの失礼しまぁーす!]](日本テレビ、1986年10月 - 1987年9月)
 
* [[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]](TBS、1986年1月 - 1992年3月)
 
* [[KATO&KENテレビバスターズ]](TBS、1992年4月 - 9月)
 
* [[志村けんのだいじょうぶだぁ]](フジテレビ、1987年11月 - 1993年9月)
 
* [[志村けんはいかがでしょう]](フジテレビ、1993年10月 - 1995年9月)
 
* [[志村けんのオレがナニしたのヨ?]](フジテレビ、1995年10月 - 1996年3月)
 
* [[けんちゃんのオーマイゴッド]](フジテレビ、1996年4月 - 9月)
 
* [[志村X]](フジテレビ、1996年10月 - 1997年9月)
 
* [[変なおじさんTV]](フジテレビ、2000年10月 - 2002年9月)
 
* [[志村流]](フジテレビ、2002年10月 - 2004年3月)
 
* [[志村塾]](フジテレビ、2004年4月 - 9月)
 
* [[志村通]](フジテレビ、2004年10月 - 2005年9月)
 
* [[志村けんのだいじょうぶだぁII]](フジテレビ、2005年10月 - 2008年3月)
 
* [[志村屋です。]](フジテレビ、2008年4月 - 2010年4月)
 
* [[志村軒]](フジテレビ、2010年4月 - 2012年3月)
 
* [[志村劇場]](フジテレビ、2012年4月 - 2013年3月)
 
* [[志村だヨ!]](フジテレビ、2013年4月 - 9月)
 
* [[志村笑!]](フジテレビ、2013年10月 - 2014年3月)
 
* [[志村座]](フジテレビ、2014年4月 - 2015年9月)
 
* [[志村の時間]] (フジテレビ、2015年10月 - 2017年3月)
 
*[[志村の夜]](フジテレビ、2017年4月 - 2018年9月)
 
* [[加トちゃんケンちゃん光子ちゃん]] (フジテレビ、1987年 - 1994年)
 
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](フジテレビ)
 
* [[さんまのまんま]](関西テレビ)
 
* [[とんねるずのみなさんのおかげでした]](フジテレビ)
 
* [[SMAP×SMAP]](関西テレビ・フジテレビ)
 
* [[めちゃ×2イケてるッ!|めちゃ<sup>2</sup>イケてるッ!]](フジテレビ)
 
* [[VS嵐]](フジテレビ)
 
* [[FNS27時間テレビ#第11回(1997年)疾風怒涛!FNSの日スーパースペシャルXI真夏の27時間ぶっ通しカーニバル 〜REBORN〜|疾風怒涛!FNSの日スーパースペシャルXI真夏の27時間ぶっ通しカーニバル 〜REBORN〜]](1997年7月27日、フジテレビ)
 
* [[ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー]](テレビ朝日) - 準レギュラー
 
* [[人気者でいこう!]](朝日放送)
 
* [[神出鬼没!タケシムケン]](テレビ朝日)
 
* [[集まれ!ナンデモ笑学校]]([[テレビ東京]])
 
* [[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]](関西テレビ)
 
* [[快傑えみちゃんねる]](1999年頃、関西テレビ)
 
* [[嵐にしやがれ]](日本テレビ)
 
* [[たかじんONE MAN]](毎日放送)
 
* [[たかじん胸いっぱい]](関西テレビ)
 
* [[愛のエプロン]](テレビ朝日)
 
* 志村けんだよ大集合!!コントとトーク大放出 タノシムケンSP!!(2008年4月1日、TBS)
 
* 志村けんだよ大集合!!コントとトーク大放出スペシャル!!(2009年1月27日、TBS) - 「[[バラエティーニュース キミハ・ブレイク]]」内で放送
 
* [[となりのマエストロ]](毎日放送)
 
* [[ナイナイナ]](テレビ朝日)
 
* [[くらべるくらべらー]](毎日放送)
 
 
 
=== ラジオ番組 ===
 
* [[志村けんのFIRST STAGE]](2012年10月 - 、[[ジャパンエフエムネットワーク|JFN]]系 )
 
* [[志村けんの夜の虫]](2012年11月16日 - 2014年3月28日、TBSラジオ)
 
* [[志村けんのFIRST STAGE〜はじめの一歩〜]](1999年10月 - 2012年9月、JFN系)
 
* [[志村けん・中山秀征の「い〜んでないの?!」]]([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])
 
* [[沢田研二・志村けんのジュリけん]](2001年10月6日 - 2003年3月30日、[[文化放送]])
 
 
 
=== CM ===
 
* 餅つき機「力じまん」([[タイガー魔法瓶]]、加藤茶と共演、1976年)
 
* マックロードL6O&SS([[パナソニック|Panasonic]]、仲本工事と共演、1979年)
 
* パンシロン胃腸内服液([[ロート製薬]]、加藤茶・[[松方弘樹]]と共演、1984年 - 1985年)
 
* [[アースノーマット]]([[アース製薬]]、[[森光子]]と共演 → 単独出演、1984年 - 1989年)
 
* [[アースレッド]](アース製薬、森光子と共演し本人はゴキブリの声を演じた)
 
* [[ごきぶりホイホイ]](アース製薬、森光子と共演)
 
* ダニアース(アース製薬)
 
* PCエンジンソフト「[[カトちゃんケンちゃん]]」([[ハドソン]]、加藤茶と共演、1987年)
 
* フルーツ村([[カゴメ]])
 
* 六条麦茶(カゴメ、1989年)
 
* あっさり焼肉(カゴメ、1990年)
 
* サッポロボーイ ケンちゃんラーメン([[サンヨー食品]])
 
** 発売から8年間、CMコピーは「ケンちゃんラーメン'''新発売!'''」だった。
 
* ツインインバーターエアコン、ツインロータリーエアコン([[東芝]]、1990年)
 
* ライツ([[サントリー]]、1992年)
 
* ビタシーゴールド([[常盤薬品工業]]、1999年)
 
* [[三共 (パチンコ)|SANKYO]](2000年 - )
 
* カール([[明治製菓]]、2001年)
 
* 明治アーモンドチョコ(明治製菓、[[米倉涼子]]と共演、2002年)
 
* アースジェット(アース製薬、単独出演 → [[須賀健太]]と共演、2002年 - )
 
* [[日本アジア航空]]([[金城武]]と共演、2000年 - )
 
* [[メットライフ生命保険]](高木ブーと共演)
 
* [[PETIO|ペティオ]]([[ヤマヒサ]])
 
* プチシルマ([[レダ (企業)|レダ]]、研ナオコと共演、2005年 - )
 
* [[麒麟淡麗〈生〉|麒麟淡麗グリーンラベル]] 『ホームランダヨ篇』『ピクニックダヨ篇』『タコアゲダヨ編』([[麒麟麦酒|キリンビール]]、2006年 - )
 
* [[西武園ゆうえんち]]アイススケートリンク
 
* 味ぶし 鮭っ子([[永谷園]]、加藤茶と共演)
 
* タフデント([[小林製薬]]、2013年 - )
 
* パーシャルデント(小林製薬、2014年 - )
 
* [[豆しば]]「変なお豆さん編」([[電通]]、2014年) ※アニメーション作品。本人役で声の出演。
 
* [[氷結 (チューハイ)|氷結]] ([[麒麟麦酒|キリンビール]]、2016年) ※ KEN from EVMとして <ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/owarai/news/194157|title=志村けんが期間限定で東京スカパラダイスオーケストラ加入、パートは三味線|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-07-12|accessdate=2016-07-12}}</ref>
 
* [[CHINTAI]]「ネットでCHINTAI〜ン」(2016年 - )
 
* [[湖池屋]]「[[カラムーチョ]]」(2016年)※「ひとみおばあちゃん」に扮して出演
 
 
 
== 映画・舞台 ==
 
=== 映画 ===
 
* [[ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険]](1968年、[[東宝]] )- 本名の「志村康徳」でクレジット
 
* [[ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓]](1969年、東宝 )- 本名の「志村康徳」でクレジット、キャバレーのマスター役
 
* [[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員(ぽっぽや)]](1999年、[[東映]])- 吉岡肇 役
 
* [[ロラックスおじさんの秘密の種]](2012年、[[東宝東和]]) - ロラックスおじさん 役(日本語吹き替え・声の出演)
 
* [[映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!]](2014年) - マスターニャーダ 役(声の出演)
 
 
 
=== 舞台 ===
 
* 沢田・志村の「さぁ、殺せ!」(2003年)
 
* 志村魂(しむらこん、2006年4月)
 
* 志村魂2(2007年6月)
 
* 志村魂3(2008年5月 - 7月)
 
* 志村魂4(2009年7月)
 
* 志村魂 -初午の日に-(2010年7・8月)
 
* 志村魂 -初午の日に-再び!(2011年7月)
 
* 志村魂 -先づ健康-(2012年6・7月)
 
 
 
==音楽・出版物 ==
 
=== CD・レコード ===
 
* [[東村山音頭#志村版|志村けんの全員集合 東村山音頭]](1976年)
 
* 志村けん&田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー「[[ウンジャラゲ]]」(1988年、[[植木等]]が1969年にリリースした曲のカバー)
 
* けん&マーシー「[[婆様と爺様のセレナーデ]]」(1993年、田代まさしとデュエット、『志村けんのだいじょうぶだぁ』発のユニット)
 
* けん♀♂けん「[[銀座あたりでギン!ギン!ギン!]]」(2001年、研ナオコとデュエット、[[つんく]]プロデュース)
 
* バカ殿様とミニモニ姫。「[[アイ〜ン体操/アイ〜ン!ダンスの唄]]」([[ミニモニ。]]と共演、2002年)
 
* パラパラ東村山音頭(2002年頃、東村山市内限定販売)
 
 
 
=== 著作 ===
 
* 変なおじさん([[日経BP社]])
 
* 変なおじさんリタ〜ンズ(日経BP社)
 
* 志村流 金・ビジネス・人生成功の哲学([[マガジンハウス]])
 
* 志村流 遊び術(マガジンハウス)
 
* 志村けん わたしはあきらめない([[KTC中央出版]])
 
* これでカラダだいじょうぶだぁ!〜志村けんのズボラ健康塾([[アスコム (出版社)|アスコム]])
 
* 月刊CIRCUS連載 やっぱり志村さんに訊こう。([[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]])
 
* 変なおじさん(書籍)
 
* 志村流(書籍)
 
 
 
=== 漫画 ===
 
* [[わ〜お!ケンちゃん]](作:[[竹村よしひこ]]、[[小学館]]コロコロコミックス、全6巻、1991年 - 1995年)
 
** 志村をディフォルメした小学生「志村ケン太」が主人公の[[ギャグ漫画]]。ほかのドリフメンバーでは加藤茶がケン太の親友「加藤茶太郎」で、いかりや長介がケン太の通う小学校の校長「おこりや長介」というキャラクター。
 
** それ以外の芸能人では、ビートたけしやウッチャンナンチャン、[[宮沢りえ]]や[[デーブ・スペクター]](デブ・スペクターというデブキャラに設定されている)やダウンタウン、[[観月ありさ]]、[[ジミー大西]]、[[津川雅彦]](当時、出演していた[[パナソニック]]のテレビ受像機「画王」CMキャラクターの王様で)、[[間寛平]]、[[ルー大柴]]、[[島木譲二]]、[[ラッキィ池田]]、タモリ、[[加勢大周]](モチーフは加勢だが、「汗体臭」と言う名前の汗臭いキャラに設定されている)、[[山田邦子]]などのデフォルメキャラがいる。そのまんま東(現:[[東国原英夫]])もさりげなくキャラとして描かれていた。
 
** 連載開始当初は『元気いっぱいシムラくん』というタイトルだったが、すぐに上記タイトルに変更された。なお、志村の通う小学校は[[板橋区]]志村小学校となっているが、実際に存在する板橋区立志村小学校とは無関係である。
 
 
 
==ゲーム ==
 
=== テレビゲーム ===
 
* [[ハイパーオリンピック|ハイパーオリンピック殿様版]](1985年、[[コナミ]]) - [[ファミリーコンピュータ]]。『8時だョ!全員集合』のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された。
 
* [[カトちゃんケンちゃん]](1987年、[[ハドソン]]) - [[PCエンジン]]。加藤茶と共演。
 
* 志村けんのバカ殿様 爆笑天下統一ゲーム(2002年12月6日、[[TDKコア]]) - [[ゲームボーイアドバンス]]
 
 
 
=== パチンコ ===
 
* CRフィーバーしむけん(2000年、[[三共 (パチンコ)|SANKYO]])
 
* CRフィーバーバカ殿(2002年、SANKYO)
 
* CR志村ワールド(2006年、SANKYO)
 
* CRフィーバー変なおじさん(2007年、SANKYO)
 
 
 
=== パチスロ ===
 
* [[シムケンG]](2000年、[[ビスティ|ダイドー]])
 
* シムケンS(2000年、ダイドー)
 
* 変なおじさんS(2002年、ダイドー)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
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== 関連項目 ==
 
* [[志村ファミリー]]([[田代まさし]]・[[桑野信義]]・[[いしのようこ]])
 
* [[柄本明]]
 
* [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]
 
* [[ビートたけし]]
 
* [[吉浜駅 (岩手県)|吉浜駅]]([[三陸鉄道南リアス線]]・[[2013年]]、駅長に任命される。)
 
 
 
=== ザ・ドリフターズ ===
 
* [[いかりや長介]]
 
* [[加藤茶]]
 
* [[仲本工事]]
 
* [[高木ブー]]
 
* [[荒井注]]
 
* [[すわ親治]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
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2018/10/27/ (土) 12:10時点における最新版

志村 けん
本名 志村 康徳
ニックネーム けんちゃん、しむけん、ケン坊、けん
生年月日 (1950-02-20) 1950年2月20日(74歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都北多摩郡東村山町
(現:東村山市
最終学歴 東京都立久留米高等学校
コンビ名 マックボンボン(解散)
カトケン(正式なコンビではない)
グループ名 ザ・ドリフターズ
作品 曲「東村山音頭
公式サイト 志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)
志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba
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志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - )

昭和後期-平成時代のタレント。

昭和25年2月20日生まれ。ザ・ドリフターズの付け人から昭和49年メンバーとなりテレビ「8時だヨ!全員集合」に出演,「東村山音頭」で注目をあびる。同番組終了後もバカ殿,変なおじさんなどのキャラクターで人気をあつめる。東京出身。久留米高卒。本名は康徳。

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