芝浦屠場
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芝浦屠場(しばうらとじょう)は東京都中央卸売市場食肉市場とも言い、東京都港区港南2丁目7-19に存在する屠場・食肉市場である。牛の処理頭数および取引金額は日本最大で現在は東京都中央卸売市場の一部門である。「屠場」は漢字制限その他の理由で適宜「施設」と言い換える。
沿革
- 1867年(慶応3年):高輪東禅寺にあったイギリス公使館出入業者・横浜元町の中川屋嘉兵衛が武蔵国荏原郡今里村の名主堀越藤吉の地所に屠場を開設した。当時の屠牛は穢れを祓うため青竹を四角に立て御幣、注連縄(しめなわ)を渡した中に牛をつなぎ掛矢(大型の木槌)で頭部を一撃し昏倒したところを頚動脈を切って失血死させたという。やがて堀越藤吉自身も今里にて施設の経営を始めた。
- 1868年(明治2年):築地の官営施設に統合されるがほどなく同所は廃止され元の今里村に戻る(新修港区史には官営施設は明治4年に麻布本村町に移転とある。)。
- 1869 - 1876年(明治3 - 9年):本芝2丁目、神田御陣ヶ原、芝七曲、麻布本村町、三田小山町、千住、浅草新谷町、本所柳原町、大久保余丁町などで興亡を繰り返す。うち本所柳原町、大久保余丁町は専ら豚を処理した。
- 1877年(明治10年):浅草千束の官営施設に統合、他は廃止される。しかし排水の便が悪く付近の水路や田畑に糞尿や血液などを含む排水が流れ込み近隣住民は竹槍や筵旗をもって抗議するなど熾烈な反対運動が起き膨大な処理費用の支出を余儀なくされ明治12年に払下げ民営化し明治16年に閉鎖。
- 1883 - 1890年(明治16 - 22年):芝浜、三河島、深川永代新田、今里、千住三ノ輪などを転変。
- 1905年(明治37年):白金今里、南千住、三ノ輪、浅草田中町の4施設となる。
- 1907年(明治39年)7月:「屠場法」制定
- 1908年(明治40年):大崎、今里、深川、三ノ輪、寺島(墨田区京島)となる。
- 1927年(昭和2年):野方に、1928年(昭和3年)玉川に開設された。
- 1936年(昭和11年):東京市営芝浦屠場の開設が決定される。
- 1938年(昭和13年)12月 :芝浦の施設が業務開始、東京市内の既存施設は順次統合閉鎖された。
- 1953年(昭和28年)8月 :「屠場法」廃止、「と畜場法」制定、同年芝浦の施設内に枝肉取引所が設置される。
- 1966年(昭和41年)7月 :芝浦の施設は中央卸売市場の中の組織(東京都中央卸売市場食肉市場)となる。
対象
日本のと畜場法では「と畜場」とは、食用に供する目的で獣畜をとさつし、又は解体するために設置された施設をいい、「獣畜」とは、牛、馬、豚、めん羊及び山羊をいう。同法ではと畜場以外の場所において、食用に供する目的で獣畜をとさつする事を禁じているが、猪や鹿等は規制対象ではない。また当該施設では牛、馬を大動物、その他を小動物とする。
設備
関連項目
参考文献
- 東京屠場史雑考 竹内 貞一 著 日本獣医師会編纂係 編 1946年
- 新修港区史 東京都港区役所編 1979年
- 四十年そして未来へ 東京食肉市場 2007年