セカンドチャンス (キリスト教)

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セカンドチャンスとは、キリスト教の一派で唱えられている宗教思想の一つで、キリストの福音を聞くことなく死んだ人々も死後、よみ(陰府、黄泉)の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられるとするものである。ファーストチャンスはこの地上における回心の機会、セカンドチャンスは死後における回心の機会をさす。

肯定論

セカンドチャンスがあるかないかに関し、キリスト教界には論争がある。海外では、イギリスの神学者ウィリアム・バークレーなどが死後の回心の機会を説いているが、日本では東京神学大学元学長の熊澤義宣や、加藤常昭も、セカンドチャンスという言葉は使わないものの、同内容を説教集などで説いている。その後、大川従道は「セカンドチャンス」という言葉を使い、テレビ放送の聖日礼拝でこの内容を説いた[1]

月刊『レムナント』主筆牧師の久保有政も、「よみ」は地獄とは異なるものであることを強調し、また8つの聖句をあげて死後のセカンドチャンス論をその雑誌で展開した。

賛成派は、「単に死後に天国に行くことだけが福音なのではない。神の導きのもとに地上の人生を歩むことが大きな祝福である。生きているときに福音を聞いたなら、生きているときに信じることが最大の幸福なのだから、それをしっかり説くなら回心を伸ばす懸念等は不要」としている。

反対論

セカンドチャンス論に対しては反対論も根強い。ウィリアム・ウッド山岸登尾形守富井健尾山令仁その他が反対論を唱えており、キリスト教界で論議となっている。

反対派の多くは、「もしセカンドチャンスがあるなら、多くの人は『死後に回心すればよい』と思ってしまうだろう」という点や、「セカンドチャンスが実際にはなかった場合、そうやって回心を延ばした人を地獄に追いやることになる」と言う点などを懸念して反対している。

「真理のみことば伝道協会」主宰のウィリアム・ウッド牧師は著書『「セカンドチャンス」は本当にあるのか―未信者の死後の救いをめぐって』の77頁以下において、「『セカンドチャンス』の示す証拠聖句は一つの例外もなく、死後の救いを主題とする文脈の中に置かれていないのです」「重要な教理であるなら、主がそれ専用の文脈を用意し、誤解する余地もないほど、はっきりとその真理を示してくださったはずではないでしょうか」と述べている[2]。また、セカンドチャンスによって懸念されることとして以下の4点を挙げ、セカンドチャンスが危険な教理であると述べている[2]

  1. 聖書から逸脱した教理の蔓延:聖書の主題や文脈を考慮しない教えが蔓延していく。
  2. 福音宣教に対する悪影響:伝道への熱意を失う。
  3. 礼拝にもたらされる変化:死者への祈りがささげられる。
  4. 救われるべき魂の滅び:信じる決心を後回しにする。

論争

月刊『ハーザー』誌は、賛成派と反対派に同じページ数を与えて、ディベート(討論)を連載した。『ハーザー』2002年7月(97号)は特集「死後に救いのチャンスはあるのか?」を組み、久保有政の「死後のセカンドチャンスは伝道の妨げではない、それはまた聖書の教えである」と反対論の富井健「死後に救いのチャンスはあるのか」が載った。2002年8月(98号)に中村準一「死後の救いを主張することの危険について」とする否定論と久保有政「死後のセカンドチャンス-否定論への反論」、2002年9月(99号)には秋一元宏「死者への取り成しの祈りは可能か」、富井健「死後のセカンドチャンス―肯定論への反論―」、ピーター・藤正信「久保有政師の執筆に対しての意見」が載った。2002年10月(100号)には「議論と今後の展開」とする巻頭言はセカンドチャンスを異端視する立場から購読中止の知らせを受けたハーザー編集長の、議論することそのものは禁じられていないとする主張が載せられている。2002年11月(101号)はセカンドチャンス否定論の尾形守「人間の死後と救い 聖書はどうか」と肯定論の久保有政「死後のセカンドチャンスを示す6つの聖書箇所」が載った。

参考文献

  • 久保有政『聖書的セカンド・チャンス論』レムナント出版
  • ウィリアム・ウッド『「セカンドチャンス」は本当にあるのか―未信者の死後の救いをめぐって』いのちのことば社
  • 尾山令仁『死への備え』いのちのことば社
  • 山岸登『聖書の真理によって「聖書的セカンドチャンス論」を斬る』エマオ出版

脚注

  1. セカンドチャンス論の反響
  2. 2.0 2.1 ウィリアム・ウッド『「セカンドチャンス」は本当にあるのか―未信者の死後の救いをめぐって』いのちのことば社2007年

外部リンク