ルイス・サントップ

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ルイス・サントップ(Louis Santop Loftin, 1890年1月17日 - 1942年1月22日)は、1910~1920年代にアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは捕手テキサス州タイラー生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Top"

来歴・人物

プロの野球選手としての経歴は1909年からで、いくつかのチームを渡り歩いた後、1910年に当時ソル・ホワイトが監督をしていたニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツに所属、そこで”スモーキー”ジョー・ウィリアムズや”キャノンボール”ディック・レディングといった伝説的な投手たちとバッテリーを組んでいた。サントップはその打力を売り物にし、1911年から1914年の打率は、それぞれ.470、.422、.429、.455であった。また1912年のある試合では、飛距離500フィート以上のホームランを放ったという。[1]

その後1915年から1917年頃まで、ブルックリンのロイヤル・ジャイアンツでホームランを量産したことで名声を得(本数等は不明)、その後フィラデルフィアにあるヒルデール・デイジーズに加わる。1917年にデイジーズがメジャーリーグの選抜チームと3試合を行った際、サントップはメジャーリーグ選抜の投手チーフ・ベンダーとジョー・ブッシュを相手に3試合で6安打を記録したという。1918年と1919年に第一次世界大戦で派兵された後、終戦後に再びデイジーズと高額な契約を結び現役復帰、1923年から1925年のデイジーズのリーグ3連覇にも貢献する。しかし1924年のニグロ・ワールドシリーズで致命的なエラーを犯したことをきっかけに、チームの正捕手の座をビズ・マッキーに奪われることになった。

1925年を最後に選手を引退し、その後フィラデルフィアで放送関係の仕事をしていた。時折バーテンダーなどもしていたそうである。1942年にフィラデルフィアで死去。2006年ニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。

その長打力から、サントップを『黒いベーブルース[2]の元祖』という人もいる。ヒルデール在籍時の1920年、メジャーリーグ球団との試合で実際にベーブ・ルースと対戦した試合があり、その試合でルースが4打数ノーヒットだったのに対し、サントップは3安打を放ったそうである。

記録・表彰等

  • メジャーリーグチームと対戦成績:打率.296(14試合)

脚注

  1. 当時はまだメジャーリーグでも飛距離の出るボールは使われておらず、柵超えの本塁打は殆どなかった時代である。
  2. 同じくニグロリーグで強打を誇ったジョシュ・ギブソンの異名である。

出典・外部リンク

テンプレート:アメリカ野球殿堂表彰者 (捕手)