三善為康

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三善 為康(みよし の ためやす、永承4年(1049年) - 保延5年8月4日1139年8月29日))は、平安時代後期の貴族算道家大外記三善為長の養子。官位正五位下諸陵頭。『朝野群載』や『二中歴』の元となった『懐中歴』・『掌中歴』など多くの著作を著した。

経歴

越中国射水郡豪族射水氏の出身。治暦3年(1067年)に上洛して、三善為長のもとで算道を学ぶ。後に為長の養子となり、三善氏を継ぐ[1]。後に紀伝道を兼修して省試及第を目指すが落第を重ねた(後年、『続千字文』跋詩の中で大学寮の紀伝道教育が漢詩を弄るだけの昇進のための道具となったと痛烈に批判している)。康和2年(1100年)に正六位上少内記に叙任。

堀河天皇の時に抜擢されて算博士諸陵頭を兼ねる。永久4年(1116年)に『朝野群載』を著す。同5年11月16日1117年)と予報された月食の発生を否定する意見を述べ、的中させた[2]。のち、尾張・守、越後介と地方官も歴任した。

大治4年(1129年1月6日に81歳にして正五位下に叙せられる。また、同年には暦道が、8月閏月を置くのは良くないとして退閏(改暦)を唱えた際には、宿曜道隆算とともに、暦道の主張に根拠がないことを唱えた。

晩年には強い阿弥陀信仰を抱き、天承年間には結縁のための勧進の一環として、大江匡房の『続本朝往生伝』を引き継いだ『拾遺往生伝』を著し、続いて『続拾遺往生伝』を執筆した。91歳の長寿を保ち、亡くなる際には阿弥陀如来に向かって多年の念仏の功徳によって必ず引接を垂れ給わんことを祈請しながら没し、往生人(極楽往生した人)となったといわれている[3]

人物

官歴には恵まれなかったが、博識で晩年まで様々な著作を著した。『朝野群載』(28巻)や『懐中歴』(10巻)・『掌中歴』(4巻)などが代表的なものである。『懐中歴』・『掌中歴』は散逸したが、鎌倉時代に両書を元にして編纂された『二中歴』が残されている。また児童向として『続千字文』・『童蒙頌韻』などの啓蒙書を執筆、更に本職である数学書『三元九紫法』を著したがこちらは散逸した。

また、若い頃から観音菩薩、後に浄土教を厚く信仰したことで知られており、仏教関連の著作も多く残した。前述の『拾遺往生伝』・『後拾遺往生伝』をはじめ、『仏法感験記』・『六波羅蜜寺縁起』・『叡山根本大師伝』・『世俗往生決疑』(散逸)・『金剛般若験記』(散逸)などがある。

参考文献

  • 竹内理三「古文書学からみた『朝野群載』」(『新訂増補国史大系月報』9)。
  • 弥永貞三「朝野群載」(『国史大系書目解題』上巻)。
  • 木本好信「『朝野群載』と三善為康」(『平安朝日記と逸文の研究』、おうふう、1987年)。

脚注

  1. 延喜5年(905年)の宣旨によって、外記・史・諸道博士・主計主税助・左右近衛将監以外の者が改姓することが認められなくなり、地方出身者が中央官人になり得るを手に入れるにはこれらの官職を目指す必要があった。一方外記・史・諸道博士などの家側でも家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあった。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている(曽我良成「官司請負制下の実務官人と家業の継承」(初出:『古代文化』第37巻第12号(古代学協会、1985年12月)/改題所収:「実務官人の〈家〉と家業の継承」曽我『王朝国家政務の研究』(2012年、吉川弘文館) ISBN 978-4-642-02497-6) )。
  2. 殿暦
  3. 本朝新修往生伝

関連項目