中谷仁
中谷 仁(なかたに じん、1979年5月5日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(捕手)。
智辯学園和歌山高等学校の出身で、現役引退後の2017年度からは、同校の職員として硬式野球部の専任コーチを務める[1]。
Contents
経歴
プロ入り前
小学校低学年のころ太ってきたために地元の少年野球チーム「有功少年野球クラブ」に連れて行かれたことから野球を始めた。同チームの2年上には後にチームメイトとなった前田忠節がいた。
和歌山市立有功中学校に入学。この頃はヤクルトスワローズ全盛期で、監督である野村克也、古田敦也の影響で捕手の面白さにはまっていった。
智辯学園和歌山高等学校(智弁和歌山高校)に入学後、正捕手として甲子園大会に3度出場する。1996年の第68回選抜高等学校野球大会で準優勝。1997年の第79回全国高等学校野球選手権大会では主将としてチームを引っ張り、優勝に貢献した。同大会では打率.563を記録。チームメイトには高塚信幸や喜多隆志がいた。高校通算21本塁打を記録。
1997年秋のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けて入団。同期に井川慶、坪井智哉がいる。
阪神時代
2年目のシーズンとなる1999年春、一軍主戦捕手の一人であった山田勝彦とは相性がよくなかった井川をウエスタン・リーグで連続完投勝利させる。将来の正捕手候補として期待されていたが、他人の投げた携帯電話が左目を直撃して視力が大きく低下(投げた相手としてメディアによって記述が異なり、「友人」[2]、または「ある同僚選手」[3]「ある投手」[4]とされている)。失明寸前となって、選手生命の危機に陥る。しかし、その後地道な練習が実り、実戦に支障が出ないまでに回復している。
2002年、プロ入り5年目にして初の一軍昇格、正捕手矢野輝弘の骨折などもあり出場機会に恵まれ初安打・初打点を記録した。打撃成績こそ振るわなかったものの、リード面での評価は高く、また安定したフィールディングを見せた中谷に期待を寄せる向きもあった。
だが、2003年は、野口寿浩の加入によって控え捕手の層が厚くなり、再び二軍での登録が増え、終盤に一軍登録されたものの出場機会がなかった。
岡田彰布が一軍監督に就任した2004年以降は、若手捕手陣から狩野恵輔の育成を重視する方針に切り替わったこともあって、一軍公式戦への出場機会がなかった。
楽天時代
2005年のシーズン終了後に金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍すると、2006年には一軍公式戦8試合、イースタン・リーグ公式戦29試合に出場。秋にはフェニックスリーグに参加した。
2007年は怪我で出遅れ、更にルーキー嶋基宏の抜擢など一軍試合出場は無く、二軍でも内野も守るなど出場機会が減った。
2008年も引き続き怪我の治療に始まり復帰は7月にずれこむも、一軍候補の若手捕手が次々と脱落して行く中で秋口にようやく一軍登録され再評価を受ける。秋季キャンプでも教育リーグ行きを免除されベテラン格の扱いを受けた。
2009年6月21日、対阪神戦に代打で出場し、能見篤史から12年目のプロ初本塁打となる2ランを放つ。この一打が一軍残留の決め手となり、守備機会を与えられ徐々に信頼を得ると、永井怜からパートナー指名を受けるなど出場機会を増やしていった。後半戦は、主戦捕手だった嶋に代わり中谷が起用されるようになった。当時監督の野村克也が「学校の成績と野球頭脳は別」と説き、中谷の野球頭脳を高評価した。打撃は当初は振るわなかったが、8月頃からバッティングフォームをバスター打法に変えるなど試行錯誤を重ねて徐々に一軍投手のレベルに対応し始め、9月26日の対西武戦(西武ドーム)で岸孝之から7番セギノール、8番リンデン、9番中谷の球団初となる3者連続本塁打を記録。このシーズンは自己最多の55試合に出場し、楽天初の2位決定、そしてクライマックスシリーズ進出に貢献。クライマックスシリーズでは、4試合でスタメンマスクを被り、打率は.333だった。
2010年はシーズン序盤に肉離れを起こして離脱。マーティ・ブラウンが監督となり、若手捕手を起用する采配に変わったため怪我が治ってもなかなか一軍に復帰できず、わずか11試合の出場に留まった。
2011年は、2003年以来再び星野仙一のもとでプレーすることとなったが、やはり打撃力の弱さを問われ、若手重点起用となり後半は一軍登録の機会はなかった。シーズン終了後は教育リーグに派遣されたが、リーグ終了後の11月11日に、球団から戦力外通告を受けた[5]。12月1日付で、NPBから自由契約選手として公示。
なお、2011年に戦力外を通告された際には、球団からスタッフとしての残留を打診された。しかし、中谷自身は他球団への現役続行を希望したため、同年11月24日に12球団合同トライアウトへ参加した。
巨人時代
前述した12球団合同トライアウトで、読売ジャイアンツ(巨人)の関係者が、捕手としての守備力を高く評価。トライアウト終了後には、中谷へ入団を打診した。中谷も打診を受諾したため、2011年12月6日には、巨人へ入団することが正式に発表された。
2012年には、4月15日より8月初頭まで一軍に帯同。しかし、一軍の正捕手を阿部慎之助、2番手捕手を實松一成に事実上固定したチーム事情の影響[6]で、自身の一軍公式戦出場は5試合にとどまった。7月31日の対中日戦で、9回表から捕手の守備を1回こなしたのが、一軍最後の出場となった。二軍では高卒ルーキー、今村信貴のノーヒットノーランをアシストするなど、若手育成面での評価を受けた。プロ15年目にしてはじめての優勝のビール掛け参加を経て、10月4日に現役引退を表明[7]。ナインとの別れの際、監督の原辰徳は「中谷という野球人は非常に印象深い。彼がスコアブックに残らない面で残していったものを我々は受け継いでいかねばならない」と労った[7]。同日付で、NPBから任意引退選手として公示された[8]。
現役引退後
2013年には、ブルペン捕手として巨人に在籍。レギュラーシーズンの開幕前に開かれた第3回WBCでは、日本代表の監督でもあった原の推薦で、ブルペン捕手として日本代表に参加した。
社会人野球からの現役復帰を目標に、2013年のシーズン終了後に巨人を退団[9]。退団直後には、古巣の阪神から球団スタッフとしての復帰を打診されたが、あえて固辞した[10]、
中学生時代から手塚一志と交流があったことを背景に、2014年1月からは、手塚が主宰する私設野球教室「上達屋」大阪道場のスタッフとして少年野球選手の個人指導に携わった[11]。
その一方で、2014年3月4日付で、日本学生野球協会から学生野球資格回復の適性を認定[12]。同協会に登録している高校・大学の硬式野球部でも指導できるようになったため、2017年1月からは、母校の智弁和歌山高校で硬式野球部の臨時コーチを務めた。
2017年4月からは、智弁和歌山高校に職員として採用されるとともに、常勤扱いで硬式野球部の専任コーチへ就任。学生時代からの恩師でもある監督・高嶋仁の補佐役を務め始める[1]と、チームがこの年夏の選手権和歌山大会で2年振り・通算22回目の優勝を果たしたことによって、自身21年振り・コーチ就任後初の選手権全国大会出場へ至った[13]。
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 愛称は「じん」「じゃが」。「上達屋」大阪道場のスタッフ時代にも、「ジャガ」という愛称を「上達屋ネーム」に用いていた。
少年野球で捕手を始めたきっかけは、太っていたことから練習がしんどく、すぐにしゃがみたくなる習性があったため。
阪神同期入団の井川慶は「中谷くんと"21世紀の黄金バッテリー"になれるようにしたい」と述べている。2006年交流戦前に井川が「交流戦で対戦したい相手は?」の問いに中谷の名前を真っ先に挙げている。
楽天時代、仲の良い選手は阪神時代にもチームメートだったことがある山村宏樹だった。阪神の中では、兄貴として慕っている赤星憲広と、金澤健人。移籍が決まった時には、餞別として赤星から直筆メッセージ入りのグローブをもらった。
尊敬している人は「僕を一人で育ててくれた母」。また、失明寸前で走ることさえできなかったころ、「野球ができなくても、生きてたらええやん」と母から言葉をもらって救われたと、楽天移籍後のインタビューで答えている。[14]
2002年の終盤、阪神の一軍捕手はベテラン山田勝彦と、浅井良・中谷の23才コンビだったが次第に山田メインになっていった。その頃、記者陣に「チョンボの目立つ山田よりも若手を抜擢して経験を積ませた方がいいのではないか?」と聞かれた当時の星野監督は「いや、投手陣に『捕手は誰が受けて欲しいか』と聞いたら皆、山田がいいと答えるんだよ」と答えていた。そうしたことも相まって、中谷は「投手陣に信頼されるような捕手でありたい」とコメントしている。その当時の山田、浅井、中谷の捕手トリオの合言葉は「藤川球児と藤田太陽にプロ初勝利をあげさせてやろう」であった。
2006年4月5日に「野球仁〜中谷仁ブログ」を開設。ブログではファンにプレゼントを企画したり、ファンが教えてくれた店(ホルモン屋)には全部行くと書くなどファンと交流をしていたが、2008年2月4日をもって更新を停止した。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 阪神 | 17 | 23 | 22 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | .045 | .045 | .045 | .091 |
2006 | 楽天 | 8 | 10 | 10 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .300 | .300 | .300 | .600 |
2008 | 4 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
2009 | 55 | 128 | 100 | 13 | 20 | 1 | 0 | 3 | 30 | 14 | 0 | 0 | 14 | 2 | 12 | 0 | 0 | 33 | 5 | .200 | .281 | .300 | .581 | |
2010 | 11 | 16 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .067 | .125 | .067 | .192 | |
2011 | 11 | 23 | 22 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | .091 | .091 | .227 | .318 | |
2012 | 巨人 | 5 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:7年 | 111 | 205 | 173 | 17 | 28 | 1 | 0 | 4 | 41 | 17 | 1 | 0 | 17 | 2 | 13 | 0 | 0 | 61 | 6 | .162 | .220 | .237 | .457 |
年度別守備成績
年度 | 捕手 | 一塁 | ||||||||||||||||||||
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試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 捕逸 | 守備率 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||||||
2002 | 17 | 11 | 9 | 2 | .182 | - | ||||||||||||||||
2006 | 8 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | - | - | ||||||||||
2008 | 4 | 13 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||||||||||
2009 | 55 | 269 | 31 | 1 | 8 | 2 | .997 | 46 | 28 | 18 | .391 | - | ||||||||||
2010 | 10 | 38 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 5 | 5 | 0 | .000 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2011 | 11 | 73 | 3 | 1 | 0 | 0 | .987 | 6 | 5 | 1 | .167 | - | ||||||||||
2012 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 1 | 0 | .000 | - | ||||||||||
通算 | 108 | 69 | 48 | 21 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
記録
- 初出場:2002年8月11日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に捕手として出場
- 初先発出場:2002年8月13日、対横浜ベイスターズ22回戦(横浜スタジアム)、8番・捕手として先発出場
- 初安打・初打点:2002年8月29日、対中日ドラゴンズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に小笠原孝から中前適時打
- 初盗塁:2006年7月30日、対西武ライオンズ11回戦(フルキャストスタジアム宮城)、2回裏に二盗(投手:西口文也、捕手:細川亨)
- 初本塁打:2009年6月21日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、5回表に藤原紘通の代打で出場、能見篤史から左越2ラン
背番号
- 22 (1998年 - 2001年)
- 66 (2002年 - 2005年)
- 44 (2006年 - 2012年) - 巨人入団時には"58"と発表されたが年明けに楽天在籍時と同じ"44"に変更となった。
- 210 (2013年)
出演番組
- バース・デイ(2012年1月14日、TBS系) - 中谷の高校時代から阪神入団、目の怪我によるブランク、野村楽天でCS出場に貢献するも二年後に自由契約、そしてトライアウトを経て巨人入団するまでの経緯を辿ったドキュメンタリー[2]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 元阪神ドラ1中谷仁氏が母校・智弁和歌山専任コーチ日刊スポーツ.2017年3月18日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 2012.01.14 オンエア 失明寸前の大けが…そして、戦力外通告 元楽天・中谷仁の挑戦(TBS『バース・ディ』).2012年1月27日閲覧。
- ↑ 【10月27日】2005年(平17)8年で1安打の中谷仁トレードで開花 スポーツニッポン 2009年10月配信ウェブ記事
- ↑ ドラフト1位で入団しても誰もが輝けるわけではない プロ野球「戦力外通告」と「引退」「男たちがユニフォームを脱ぐ時」 フライデー 2012年11月16日号
- ↑ 来季の選手契約に関して 楽天イーグルス公式サイト 2011年11月11日
- ↑ “一軍登録情報”. 読売ジャイアンツ公式サイト. . 2012閲覧.
- ↑ 7.0 7.1 “中谷選手が任意引退 15年間の現役生活に別れ”. 読売ジャイアンツ公式サイト (2012年10月4日). . 2012閲覧.
- ↑ “2012年度 任意引退選手”. 日本野球機構 (2012年10月4日). . 2012閲覧.
- ↑ “土井ブルペン捕手、現役復帰!社会人から「もう一度」プロ目指す”. スポーツ報知. (2013年11月6日) . 2013年11月7日閲覧.
- ↑ 元阪神ドラ1中谷仁の数奇な野球人生
- ↑ 上達屋スタッフ
- ↑ 学生野球資格回復に関する規則第4条による適性認定者 日本学生野球協会
- ↑ “元阪神中谷氏、智弁和歌山コーチで聖地凱旋/和歌山”. 日刊スポーツ. (2017年7月28日) . 2017年7月30日閲覧.
- ↑ 楽天イーグルス公式サイト Featured Players vol.18 中谷仁