毛利就方

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毛利就方
時代 江戸時代前期
生誕 慶長14年(1609年
死没 元禄5年7月3日1692年8月14日
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 阿川毛利家

毛利 就方(もうり なりかた)は、江戸時代の武士。長州藩の一門家老である阿川毛利家の3代目当主。父は2代目当主・毛利元景。正室は右田毛利家毛利元倶の娘。子は毛利就泰

生涯

慶長14年(1609年)、長州藩の一門家老を務める阿川毛利家当主・毛利元景の次男として生まれる。元和6年(1620年5月8日毛利秀就加冠を受けて元服し、「就」の偏諱を与えられ「就直(後に就宣、就方)」と名乗った。寛永3年(1626年12月13日、秀就から上野介官途名を与えられる。

寛永9年(1632年)、父・元景が死去したため、同年9月5日に家督と知行6000石を相続し、豊浦郡阿川領主となった。

寛永14年(1637年10月25日島原の乱が勃発し、翌寛永15年(1638年2月25日には、江戸から帰国し雨天のために上関に逗留していた秀就から、就方らに島原への出陣が命じられたが、3日後の2月28日天草四郎が討たれて原城が陥落したため、島原への出陣は取りやめとなった。寛永16年(1639年2月5日宮内少輔官途名を秀就から与えられる。

慶安3年(1650年)、朽木稙綱兼松正直が御使として、幼少の細川綱利が藩主である熊本藩の国政監察のため熊本に向かう途中に長州藩へ立ち寄ったため、上関での歓待を堅田就政と共に秀就から命じられた。

万治2年(1659年)、阿川八幡宮の修復を行う。寛文4年(1664年)から寛文8年(1668年)まで当職(国家老・執政)を務め、寛文8年から寛文11年(1671年)まで当役を務めた。また、寛文8年には藩財政の改善のため、干拓事業(高泊開作、王喜開作)による新田開発を行っている。

延宝4年(1676年8月21日、累年の隠居願いを藩主・毛利綱広に聞き届けられ、家督を長男の就泰に譲った。元禄5年(1692年7月3日に死去。享年84。墓所は山口県長門市の深川大寧寺。

参考文献

  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 萩藩閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」