鈴鹿王

提供: miniwiki
移動先:案内検索

鈴鹿王(すずかのおおきみ/ すずかおう、生年不詳 - 天平17年9月4日745年10月3日))は、奈良時代皇族太政大臣高市皇子の次男。官位従二位知太政官事

経歴

和銅3年(710年)二世王の蔭位により無位から従四位下に直叙される。

聖武朝に入り、神亀3年(726年従四位上に叙せられる。神亀6年(729年)2月に勃発した長屋王の変により、兄の左大臣長屋王自殺する[1]。しかし、間もなく鈴鹿王の邸宅に左大弁石川石足らが派遣され、長屋王の親族は全員赦免するとのが宣べられて、鈴鹿王は連座を免れる[2]。さらに、変後間もない3月には二階昇進して正四位上に叙せられている。天平3年(731年)には橘諸兄と同時に参議に任ぜられて公卿に列し、天平4年(732年)には従三位に叙せられた。

天平9年(737年藤原四兄弟武智麻呂房前宇合麻呂)や多治比県守が相次いで没し、公卿9名のうち上位の5名がいなくなるとの異常事態が発生する。これを受けて、鈴鹿王は参議から一挙に知太政官事に任ぜられて、同じく参議から大納言に昇進した橘諸兄と共に政権を主導する。一説に、こうした鈴鹿王の立身の背景には、無念の思いを抱いて死んだ長屋王のを鎮めたいという朝廷の意図が込められていたといわれているが、その一方で天平9年の疫病によって議政官級の皇族・貴族のほとんどが死去してしまい、大臣に就任できる要件を満たした人材がいなくなってしまったために、大臣と同格で皇族であることが必須の条件であった知太政官事を急遽立てなければならないという切迫した事情も介在していた。なお、政治の実権は橘諸兄にあり、知太政官事の地位は象徴的なものであったとされる[3]

天平10年(738年正三位に昇叙され、天平15年(743年従二位に至る。天平12年(740年)に発生した藤原広嗣の乱の後、聖武天皇はしばしば各地への行幸を行うが、都度鈴鹿王は留守役の責任者を務めている。

天平17年(745年)9月4日薨御。最終官位は知太政官事兼式部卿従二位。なお、以降知太政官事への任官は行われなくなり、結果的に鈴鹿王が最後の知太政官事となった。

神護景雲4年(770年)佐紀にあったかつての鈴鹿王邸に称徳天皇の御陵が造営された[4]高塚古墳が比定されているが異論も多い。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. 『続日本紀』神亀6年2月12日条
  2. 『続日本紀』神亀6年2月18日条
  3. 『朝日日本歴史人物事典』
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 『続日本紀』神護景雲4年8月9日条
  5. 『公卿補任』

参考文献