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| 氏名 = 織田信雄<br/>{{smaller|(北畠具豊 / 信意)}}
 
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| 藩  = [[大和国]][[宇陀松山藩]]主
 
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| 父母 = 父:[[織田信長]]、母:[[生駒吉乃]]<br />養父:''[[北畠具房]]''
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| 兄弟 = [[織田信忠|信忠]]、'''信雄'''、[[織田信孝|信孝]]、[[羽柴秀勝]]、[[織田勝長|勝長]]、[[織田信秀 (侍従)|信秀]]、[[織田信高|信高]]、[[織田信吉|信吉]]、[[織田信貞|信貞]]、[[織田信好|信好]]、[[織田長次 (長兵衛尉)|長次]]、[[織田信正|信正]]他
 
| 妻  = 正室:'''千代御前(雪姫)'''([[北畠具教]]の娘)<br />継室:'''[[木造具政]]の娘'''<br />側室:[[織田長利]]の娘など
 
| 子  = '''[[織田秀雄|秀雄]]'''、[[小姫]]([[豊臣秀吉]]養女、[[徳川秀忠]]正室)、於加爾{{Efn|読みは「おかに」。母は北畠具教の娘で、夭折した。}}、[[織田高雄|高雄]]、女([[佐々一義]]室)、[[織田信良|信良]]、[[織田高長|高長(信友)]]、[[織田信為|信為]]、[[織田良雄|良雄]]、[[織田長雄|長雄]]、玉雄院(八重姫、[[土方雄氏]]室)、女([[生駒(佐々木)政勝]]室)、女([[生駒(吉田)直勝]]室)}}
 
'''織田 信雄'''(おだ のぶかつ{{Efn|[[直木孝次郎]]著『日本史B  新訂版』([[文部科学省]]検定済[[教科書]]。[[高等学校]]地理歴史科用。[[平成]]9年3月31日検定済。[[平成]]14年1月25日発行。[[実教出版]]。教科書番号 7 実教 日B 582) p 149に「のぶ'''かつ'''」というふりがなと「のぶ'''お'''」というふりがなの双方が記載されている。}}{{Efn|信雄から偏諱を与えられた家臣は、いずれも「かつ」と呼ばれ「のぶかつ」が一般的呼び名{{sfn|小和田|1991|p=117}}}})は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[大和国|大和]][[宇陀松山藩]]の初代藩主。初め伊勢[[北畠家]]の第10代当主として'''具豊'''(ともとよ)、'''信意'''(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため'''御本所'''と敬称された。法名は常真。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生から幼少期 ===
 
[[永禄]]元年([[1558年]])、[[尾張国]][[丹羽郡]]小折(現在の[[愛知県]][[江南市]])の[[小折城|生駒屋敷]]で[[織田信長]]の次男として生まれる。幼名は茶筅。『勢州軍記』によると生母は[[生駒家宗]]の娘・[[生駒吉乃|吉乃]]。弟・[[織田信孝]]との[[出生順位]]を巡る異説があり、実際は信雄は三男で、信孝が先に誕生していたが、信孝の母の[[坂氏 (人物)|坂氏]]より信雄の母が正室的立場で、身分の差により信長への報告を遅れさせ、出生順位を置き換えられたとの説があるが、事実かは定かではない{{sfn|小和田|1991|p=116}}{{Sfn|谷口|2005|p=248}}<ref>{{Cite book|和書|author=柴裕之|chapter=織田信長の御一門衆と政治動向|title=織田氏一門|publisher=岩田書院|year=2016}}</ref>。
 
 
 
=== 北畠家時代 ===
 
[[永禄]]12年([[1569年]])、父・信長の[[大河内城の戦い|北畠家攻略戦]]の和睦条件として、[[北畠具房]]の養嗣子となって<ref>{{Cite book|和書|author=岡野友彦|title=北畠親房|publisher=ミネルヴァ書房|year=2009|page=250}}</ref>、具房の妹の[[千代御前|雪姫]]([[北畠具教]]の娘)を娶った。[[元亀]]3年([[1572年]])に元服して'''北畠具豊'''と称した。[[天正]]2年([[1574年]])7月には北畠軍を率いて[[長島一向一揆#第三次長島侵攻|第三次長島侵攻]]に参戦し、大船に乗って戦った<ref name="odakenryoku">{{Citation|和書|editor=戦国史研究会|title=織田権力の領域支配|publisher=岩田書院|year=2011}}</ref>。[[天正]]3年([[1575年]])に北畠家の家督を相続し、[[大河内城]]から度会郡の[[田丸城]]へ移った<ref>美杉村史編集委員会(1981)</ref>。同年、[[越前一向一揆]]討伐に参戦し[[塙直政]]・[[滝川一益]]・[[織田信孝|神戸信孝]]・[[長野信良]]と共に転戦した<ref name="odakenryoku"/>。この頃から[[津田一安]]の補佐の元、家中の実権を掌握し始める。
 
 
 
家督を相続後は'''信意'''に改名。天正4年([[1576年]])11月25日、[[滝川雄利]]・[[長野左京亮]]・[[軽野左京進]]に命じて多気郡の三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と具教の息子2人と北畠家臣14人を殺害した。同日、信意自身も田丸城に[[長野具藤]]ら北畠一族を饗応と偽って呼び出し謀殺した([[三瀬の変]])。12月15日には滝川雄利と[[柘植保重]]の讒言により津田一安を粛清している<ref>神戸良政『[[勢州軍記]]』巻七</ref>。その後の北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信雄の権力基盤へと継承されていく<ref>{{Cite book|和書|author=藤田達生|title=伊勢国司北畠氏の研究|publisher=吉川弘文館|year=2004}}</ref>。
 
 
 
天正5年([[1577年]])、[[織田信忠]]の下で[[紀州征伐]]に従軍<ref name="odakenryoku"/>。天正6年([[1578年]])4月、信忠の下、[[石山本願寺]]を攻める<ref name="takakurayama">太田牛一 『信長公記』 巻十一 「高倉山西国陣の事」</ref>。5月、[[播磨国]]に従軍。信忠らと共に[[神吉城]]を攻める<ref name="takakurayama"/>。
 
 
 
天正7年([[1579年]])9月16日、信意は信長に無断で自らは8,000、柘植保重に1,500人の兵を率いさせ、[[伊賀国]]に3方から入り[[伊賀惣国一揆]]を攻めたが、[[伊賀十二人衆]]と言われる自治集団に大敗し、[[殿 (軍事用語)|殿軍]]の柘植保重は[[植田光次]]に討ち取られた。これを受けて信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責された([[天正伊賀の乱#第一次天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]){{Efn|その書状の内容は以下の通り。
 
{{Quotation|
 
今回伊賀の地で大敗したそうだが、これは天の道理に反することで正に天罰と言えよう。その理由は、信雄が遠国へ遠征すれば兵達は疲れ果てるというので、つまり、隣国で合戦となれば遠国へ出兵せずに済むという考えに引きずられ、もっと厳しく言えば、若気の至りでこうなったということであろうか。
 
 
 
まことに残念なことだ。上方へ出陣すれば、それは天下のためになり、父への孝行、兄・信忠への思いやりともなるのだ。そして巡り巡って自分の功績になるではないか。
 
 
 
当然だが、今回、柘植保重およびその他の武将を討ち死にさせたのは言語道断、けしからぬことである。
 
いつまでもそのような考えなら、親子の縁を切ることになると思うがよい。
 
なお、詳細はこの書状を持参する使者が伝えるであろう。
 
 
 
信長 織田信雄殿<ref>『現代語訳 信長公記』- 訳:中川太古、364 - 365ページ</ref>}}}}。
 
 
 
天正8年([[1580年]])、田丸城が焼失したため、[[松ヶ島城]]を築いて居城とした。天正9年([[1581年]])には、信長が司令して、大和・近江・伊勢の軍勢に信意も加わり、再度伊賀へ侵攻し、同国を平定した([[天正伊賀の乱#第二次天正伊賀の乱|第二次天正伊賀の乱]])。
 
 
 
=== 本能寺の変から小牧・長久手の戦い ===
 
天正10年([[1582年]])6月2日、信長が家臣の[[明智光秀]]によって討たれ([[本能寺の変]])、6月13日には織田家臣の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が光秀を討つ([[山崎の戦い]])。本能寺の変に際して信意は[[近江国]][[甲賀郡]]土山まで進軍したものの、戦わないまま撤退し『[[勢州軍記]]』によれば、伊賀の国人衆が不穏な動きを見せた事や、信孝の四国征伐軍に信意の軍勢の大部分を援軍として派遣しており兵数が2500程度で心もとなかった事が理由だという。確かに、信孝は5万石程度の所領(『当代記』)で各地の軍勢がかき集められたが、伊勢国からは北伊勢衆のみである{{Sfn|谷口|2005|p=247}}。さらに信長の後継を目指して、6月に[[安土城]]に入るが、失火で安土城を焼き、失点を重ねる。
 
10月に、東国において[[徳川家康]]と[[後北条氏]]らとのあいだで甲斐・信濃の武田遺領を巡り発生した[[天正壬午の乱]]では、信意は信孝とともに双方の和睦を仲介した。
 
 
 
戦後の[[清洲会議]]で信意は兄・信忠亡き後の織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は三法師、後見役は信意、信孝となる。信長の遺領配分で、信意は[[尾張国|尾張]]・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。その際、織田姓に復して'''信勝'''{{要出典|date=2018年1月}}、次いで'''信雄'''と称し、家臣の[[津川義冬]]を[[家老]]に取り立てている。義冬は信雄の一字を与えられて「雄光」と改名した<ref>{{Cite book|和書|author=木下聡|chapter=斯波氏の動向と系譜|title=シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏|publisher=戒光祥出版|year=2015|page=52}}</ref>。
 
 
 
天正10年10月28日、秀吉・[[丹羽長秀|惟住長秀]]・[[池田恒興]]は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故し、信雄を当主として擁立し主従関係を結ぶ<ref>{{Cite journal|和書|author=尾下成敏|title=清洲会議後の政治過程-豊臣政権の始期をめぐって-|journal=愛知県史研究|issue=10号|year=2006}}</ref>。後にこれは徳川家康にも賛同された。
 
 
 
尾張・伊勢を支配した信雄は、二度にわたる[[検地]]を実施し、知行制の統一を図った。天正11年検地は、全領国を[[貫高]]で統一的に把握し、改めて知行宛行を行うことで統一的知行制を実現した。更に天正14年再検地では、新たな検地原則の下に在地掌握の強化が図られ、それによって確立した知行制は、貫高制ではあっても既に信長時代の貫高制を止揚した、近世石高知行制の内実を備えたものとみなし得る<ref>{{Citation|和書|author=加藤益幹|chapter=織田信雄の尾張・伊勢支配|editor=有光友学|title=戦国期権力と地域社会|publisher=吉川弘文館|year=1986}}</ref>。
 
 
 
その後、台頭してきた秀吉と信孝・柴田勝家らが争い、天正11年([[1583年]])4月に[[賤ヶ岳の戦い]]が発生した。信雄は秀吉方に属した。5月には信孝を[[岐阜城]]に攻めて降伏させた。信孝は尾張に送られる途中で切腹させられた。柴田勝家とお市の方が自害した後に[[浅井三姉妹|三人の娘]]を引取って後見して面倒をみたのは秀吉ではなく、信雄であるともいわれており{{Sfn|宮本|2010|pp=112-116}}、また三姉妹の三女の[[崇源院|江]]を[[佐治一成]]に嫁がせたのも秀吉ではなく、信雄であったとされる{{Sfn|宮本|2010|pp=114-123}}。[[藤田達生]]は山崎や賤ヶ岳で勝利した秀吉が信長の政権を直接継承した訳ではなく、信雄が秀吉に臣従するまでは親子二代の織田政権(安土幕府)であったとする見解を示している<ref>{{Cite book|和書|author=[[藤田達生]]|title=天下統一 -信長と秀吉が成し遂げた「革命」-|publisher=中央公論新社|year=2014|pages=167-179}}</ref>。
 
 
 
さらに勝家方の滝川一益も秀吉に降服し、信雄は北伊勢・伊賀を加増され、[[前田玄以]]を[[京都所司代]]に任命し、三法師の後見として[[安土城]]へ入城した。しかし、すぐに秀吉に退去させられ、信雄と秀吉の関係は険悪化した。天正12年(1584年)正月に[[近江国]]坂本の[[三井寺]]で秀吉と会見したが決裂し、伊勢[[長島城]]に戻った<ref>{{Cite book|和書|author=[[小和田哲男]]|title=秀吉の天下統一戦争|publisher=吉川弘文館|year=2006|page=122}}</ref>。そして信雄は家康に接近し同盟関係を結ぶ。
 
 
 
天正12年(1584年)3月6日、家康と相談した上で秀吉に内通した疑いにより重臣の津川雄光(義冬)・[[岡田重孝]]・[[浅井長時]]を殺害して秀吉に宣戦布告をする([[小牧・長久手の戦い]])。3月11日に清州城で家康と作戦会議を開き陣城の構築を指示した。また[[長宗我部元親]]・[[佐々成政]]・[[雑賀衆]]とも結び連合して羽柴家と戦った。織田・徳川連合軍は秀吉と戦闘状態に入り、4月9日の[[小牧・長久手の戦い#長久手の戦い|長久手の戦い]]で羽柴方の[[池田恒興]]や[[森長可]]らを討ち取った。しかし、伊勢では誅殺された重臣3人の一族が造反し、更に秀吉の計略で[[九鬼嘉隆]]・[[秋山直国]]らも謀反に及び、また[[豊臣秀長|羽柴秀長]]・[[蒲生氏郷]]・[[堀秀政]]・[[筒井順慶]]・[[藤堂高虎]]ら羽柴勢の侵攻を受け、[[峯城]]・[[松ヶ島城]]・[[戸木城]]が落城した。そして11月15日、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。このため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。
 
 
 
以降は秀吉に臣従し、天正13年([[1585年]])8月の[[富山の役]]に従軍した。また11月には家康の元へ[[織田長益]]・滝川雄利・[[土方雄久]]を送り上洛を促している。天正15年([[1587年]])の[[九州平定|九州征伐]]では出陣する秀吉を勅使らとともに見送った。九州征伐後は[[内大臣]]に任官。天正18年([[1590年]])1月、秀吉の養女となった長女・[[小姫]]と[[徳川秀忠]]が結婚。なお、長島城は天正13年([[1585年]])11月の[[天正地震]]で大破したため、地震以後は清洲城を改修<ref>{{Cite journal|和書|author1=森勇一|author2=鈴木正貴|date=1989-03-24|url=http://topo.earth.chiba-u.jp/afr/backnumber/No7/7%E5%8F%B708%E6%A3%AE%E3%81%BB%E3%81%8B.pdf|title=愛知県清洲城下町遺跡における地震痕の発見とその意義|format=PDF|journal=活断層研究|issue=7号|pages=63-69|year=1989|accessdate=2011-09-12}}</ref>し、居城とした。
 
 
 
=== 豊臣政権期の改易から晩年 ===
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]にも従軍し、[[伊豆国|伊豆]][[韮山城]]攻めから、小田原城包囲軍に転属し、武功をあげる。しかし、家康が関東へ国替えになった跡地の三河・遠江への転封を命じられ、父祖の地の尾張からの移動をいやがり拒否したことから、秀吉の怒りを買って[[改易]]される。改易されたのは7月13日とされる。7月14日から8月4日の間が正しいのではないかとの説もある<ref>{{Cite journal|和書|author=岡田正人|title=織田信雄の改易について|journal=歴史手帳|volume=3巻|issue=12号|year=1975}}</ref>。また京都舘に天皇行幸啓のための「内府屋形」を建設中だったのを危険視されたとの説もある{{sfn|小和田|1991|p=123}}。改易後は[[下野国]][[那須烏山市|烏山]](一説に那須とも)に[[流罪]]となり、出家して'''常真'''と号した。
 
 
 
その後、[[出羽国]]秋田、[[伊予国]]へと流され、[[文禄]]元年([[1592年]])の[[文禄・慶長の役|文禄の役]]の際に家康の仲介で赦免され、[[御伽衆]]に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという(『太閤記』)。この際、嫡男・[[織田秀雄|秀雄]]も越前国大野に5万石を与えられた{{Efn|この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5,000石([[当代記]])で、信雄は後見役(隠居身分)として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは[[御伽衆]]として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7,000石ともいう(武家事紀)。}}。
 
 
 
[[関ヶ原の戦い]]では、大坂にあって傍観的態度に終始している。一説には[[石田三成]]を支持したとも、畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる。しかし、傍観的態度を西軍に与したと判断されたためか、秀雄ともども改易されている。
 
 
 
戦後は[[豊臣氏|豊臣家]]に出仕したが、[[慶長]]19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]の直前に徳川方へ転身する。当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあった。のちに家康から大名に取り立てられていることから、[[大坂城]]内での情報を流す間者であり、その働きが評価されるほどであったと推察される。
 
 
 
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])7月23日、家康から大和国[[宇陀郡]]、[[上野国]][[甘楽郡]]などで5万石を与えられる。領地に風雅な庭園[[楽山園]]を造る一方、[[養蚕]]など産業育成にも力を注いだ。後に四男・[[織田信良|信良]]に上野[[小幡藩]]2万石を分知して、自らは[[京都]]に隠居し、[[茶道|茶]]や[[鷹狩り]]など悠々自適の日々を送った。[[寛永]]5年([[1628年]])10月には、将軍・[[徳川家光]]より、[[江戸城]]での[[茶会]]に招待されている。
 
 
 
寛永7年([[1630年]])4月30日、京都北野邸で死去。[[享年]]73。実質的な隠居料であった大和宇陀郡の領地は、五男・[[織田高長|高長]]が相続する。なお、高長の宇陀郡の相続については小幡織田家側から異論が出されている。
 
 
 
== 子孫 ==
 
* 四男・信良の系統は、当初、上野小幡藩主であったが、[[明和事件]]に伴い出羽[[高畠藩]]に転封され、さらに陣屋の移転に伴って出羽[[天童藩]]主となり、そのまま[[廃藩置県]]を迎えた。
 
* 五男・高長の系統は、当初、大和宇陀松山藩主であったものの、御家騒動に伴う転封によって[[丹波国|丹波]][[丹波柏原藩|柏原藩]]主となり、そのまま廃藩置県を迎えた。後に庶流は、信長の七男・[[織田信高|信高]]の系統である[[旗本]]家に養子として入った。
 
* 六男・信為の系統は、津田姓を称して、宇陀藩主家や小幡藩主家の家臣となった。信為の長男・[[津田外記]]や次男・津田八郎兵衛([[谷山真弥]])は宇陀藩織田家、三男・津田頼母は小幡藩織田家に仕えた。
 
* [[継室]]([[北畠晴具]]の次男・[[木造具政]]の娘)との間に産まれた[[織田信良]]の系統は[[皇室]]へ繋がっている。([[織田信良]] - 娘 - [[稲葉知通]] - [[稲葉恒通]] - 娘 - [[勧修寺経逸]] - [[勧修寺ただ子]] - [[仁孝天皇]] - [[孝明天皇]] - [[明治天皇]] - [[大正天皇]] - [[昭和天皇]] - [[明仁|今上天皇]])
 
* 数多くいた信長の子息の中で、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけである。上述の他に、信長の弟・[[織田長益|長益]](有楽斎)系の[[芝村藩]]と[[柳本藩]]を、高長の孫の[[織田長清|長清]]と曾孫の[[織田信方|信方]]がそれぞれ継いでおり、以後は血筋の上では信雄の系統で続いた。
 
 
 
== 人物 ==
 
* 当時の織田家中では、信雄の失態について「'''三介殿'''(信雄)'''のなさる事よ'''」と呆れ気味に評されており、無能と見られていた。無断で始めた伊賀侵攻戦で大敗した際、信長は譴責状を送って叱責したばかりではなく、一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。
 
*亡父信長が建てた[[安土城]]を失火で焼いており、フロイスは以下の様に報告している。しかし、三男信孝はキリスト教に好意的で評価が高く{{Sfn|谷口|2005|p=249}}、そうでない信雄にはフロイスは厳しい面があり、注意が必要である。曰く、「[[山崎の戦い|明智の軍勢が津の国において惨敗を喫した事]]が安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は忽ち落胆し、'''安土城に放火する事もなく'''急遽坂本へ退却した。然し[[デウス]]は信長があれ程自慢にしていた建物の思い出を残さぬ為、'''[[明智秀満|敵]]が(存続を)許した'''その豪華な建物が其の儘建っている事を赦し給わず、そのより明らかな御智慧により、'''付近に居た信長の子、御本所'''(信雄)'''は普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、(彼に)邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた'''。(城の)上部が全て炎に包まれると彼は'''市にも放火した'''ので、その大部分は焼失してしまった」。
 
* 織田一門の席次は、信忠、信雄、[[織田信包|信包]]、信孝の順であり、信孝の上位に配されていた{{Efn|天正9年([[1581年]])の御馬揃えでは、信忠が率いた騎馬衆が80騎、信雄が30騎、信孝・信包が10騎であり、信孝とかなりの差があったと推測される。}} 。
 
* [[能]]の名手と伝わる。[[文禄]]2年([[1593年]])、秀吉が主宰した天覧能を観た[[近衛信尹]]は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」との感想を残しており、また『[[徳川実紀]]』には[[聚楽第]]で催された能について、「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されている。
 
* 伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある(『勢州軍記』)。
 
* 信孝死亡後、家督を継いでからは印文に「威加海内」の朱印を用いた。
 
* [[荒木村重]]より、その秘蔵の[[兵庫茶壺]]を天正13年2月に進上されている。<ref>冨山房 国史辞典 昭和15年2月11日発行222頁</ref>
 
 
 
== 偏諱を与えた人物(家臣) ==
 
; 信勝時代
 
*[[久保勝正|久保'''勝'''正]]
 
*滝川'''勝'''雅(のちの雄利)
 
; 信雄時代
 
(*「雄」の読みは「かつ」{{sfn|小和田|1991|p=117}}。)
 
* [[天野雄光|天野'''雄'''光]]
 
* [[小坂雄吉|小坂'''雄'''吉]]
 
* [[小坂雄善|小坂'''雄'''善]](雄吉の子(※『[[武功夜話]]』のみ))
 
* [[小坂雄長|小坂'''雄'''長]](雄吉の子)
 
* [[小坂雄忠|小坂'''雄'''忠]](雄長の子)
 
* [[小坂雄綱|小坂'''雄'''綱]](雄長の子)
 
* [[滝川雄利|滝川'''雄'''利]](北畠氏時代からの家臣、別名:'''雄'''親、滝川一益の娘婿)
 
* [[津川義冬|津川'''雄'''光]](旧名・津川義冬、滝川一盛(雄利の旧名)との連署書状(「廓坊文書」)に署名が残されている)
 
* [[中山雄忠|中山'''雄'''忠]] - [[犬山城]]を守るが[[池田恒興]]に攻略される。
 
* [[土方雄久|土方'''雄'''久]] - 以後土方氏は「雄」の字を継承。
 
* [[森雄成|森'''雄'''成]]([[森正成]](甚之丞)の長男、通称:久三郎、[[森氏]]一族の者か)
 
* [[森雄秀|森'''雄'''秀]](森正成の次男、通称:清十郎、森氏一族の者、[[森正好]]と同一人物か)
 
 
 
== 主題とする作品 ==
 
; 小説
 
* [[鈴木輝一郎]]『狂気の父を敬え』([[新潮社]])1998年
 
* [[伊東潤]]『虚けの舞―織田信雄と北条氏規』([[彩流社]])2006年
 
; 舞台
 
* [[楽劇ANZUCHI]]([[1987年]]、作:市川森一、演:[[沢田研二]])
 
 
 
==脚注==
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書 |author = 小和田哲男 |authorlink = 小和田哲男 |year = 1991 |title = 織田家の人々 |publisher = [[河出書房新社]] |series =  |isbn = 4309222072 |ref = {{SfnRef|小和田|1991}}}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[谷口克広]]|title=信長軍の司令官 -武将たちの出世競争-|publisher=中央公論新社|year=2005 |ref = {{SfnRef|谷口|2005}}}}
 
* [[小和田哲男]]『秀吉の天下統一戦争』[[吉川弘文館]]、2006年 ISBN 978-4642063258
 
* {{Cite book|和書|author = [[宮本義己]]|year = 2010|title = 誰も知らなかった江|publisher = [[毎日コミュニケーションズ]]|series = マイコミ新書|isbn = 978-4839936211|ref = {{SfnRef|宮本|2010}}}}
 
* 戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年。ISBN 978-4872946802
 
* [[太田牛一]]著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』[[中経出版]]〈新人物文庫〉、2013年。ISBN 978-4046000019
 
* 木下聡『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4864031462
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[十河城#第二次十河城の戦い]]
 
* [[丸山城 (伊賀国)]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.tokugen.com/index.html 徳源寺(名古屋市)]
 
 
 
  
{{伊勢国司北畠家当主|10代|1575年 - 1582年}}
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安土桃山時代の武将。「のぶお」ともいう。信長の次男。幼名は茶箋丸または三介,入道して常真。永禄 12 (1569) 年,伊勢国司北畠具教の養子となり,名を具豊,のち信意,さらに信雄と改めた。天正3 (1575) 年,伊勢国司となり,[[本能寺の変]]後,清洲会議において弟信孝とともに兄信忠の遺児秀信 (幼名三法師) の後見として清洲を居城とし 100万石を領した。同 11年,信孝を岐阜に攻めて自刃させ,翌年徳川家康と結び,豊臣秀吉と対立し,小牧,長久手に対陣 ([[小牧・長久手の戦い]] ) 。その後,和して秀吉のもとに服した。同 15年正二位内大臣となったが,同 18年除封され,のち家康の仲介により許され秀吉の御伽衆になった。豊臣氏滅亡後,関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため,領地を失ったが,元和1 (1615) 年家康から大和国宇陀郡5万石を与えられた。なお信雄の系統は江戸時代を通じて存続した。
{{織田氏歴代当主|信雄流織田家|1582年 - 1630年|初代}}
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*[[織田氏]]  
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[[Category:勝幡織田氏|のふかつ]]
 
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2018/9/28/ (金) 14:00時点における最新版

織田信雄
(北畠具豊 / 信意)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年
死没 寛永7年4月30日1630年6月10日
主君 織田信長秀信豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
大和国宇陀松山藩
氏族 織田氏北畠家→織田氏

安土桃山時代の武将。「のぶお」ともいう。信長の次男。幼名は茶箋丸または三介,入道して常真。永禄 12 (1569) 年,伊勢国司北畠具教の養子となり,名を具豊,のち信意,さらに信雄と改めた。天正3 (1575) 年,伊勢国司となり,本能寺の変後,清洲会議において弟信孝とともに兄信忠の遺児秀信 (幼名三法師) の後見として清洲を居城とし 100万石を領した。同 11年,信孝を岐阜に攻めて自刃させ,翌年徳川家康と結び,豊臣秀吉と対立し,小牧,長久手に対陣 (小牧・長久手の戦い ) 。その後,和して秀吉のもとに服した。同 15年正二位内大臣となったが,同 18年除封され,のち家康の仲介により許され秀吉の御伽衆になった。豊臣氏滅亡後,関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため,領地を失ったが,元和1 (1615) 年家康から大和国宇陀郡5万石を与えられた。なお信雄の系統は江戸時代を通じて存続した。




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