「宇都宮仕置」の版間の差分
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宇都宮仕置(うつのみやしおき)は、天正18年(1590年)7月に小田原征伐で東国の勢力を制圧して天下統一を遂げた豊臣秀吉が関東および奥州の諸領主に対して行った戦後措置のこと。鎌倉幕府を樹立した源頼朝が奥州合戦の際、文治5年(1189年)7月19日に鎌倉を発ち宇都宮で宇都宮大明神に奉幣し奥州を平定したことに倣い、秀吉も7月19日に鎌倉を発ち宇都宮城にて主な仕置を行ったことから、このように呼ばれる。
概要
宇都宮入城
天正18年(1590年)7月13日、関東に台頭していた相模国の後北条氏を小田原城にて降伏させた豊臣秀吉は、同17日に鎌倉に入り鶴岡八幡宮を参詣する。鎌倉への滞在は2日間のみで、同19日には鎌倉を出立、6日後の7月25日に下総国結城城に入って、自身の養子になっていた秀康(徳川家康の次男)を結城氏の養嗣子にすることや同氏に小山氏・壬生氏などの旧領が与えられることが正式に決められ、翌7月26日に下野国宇都宮城に入城した。宇都宮での秀吉の滞在期間は合計11日間に達し、会津への巡察行軍を行って再び宇都宮に入城するまでの8月4日から同14日まで10日間を含めると、その期間は20日間にも及んだ。なお、帰途は8月20日には駿府城に入城していることから、翌15日には宇都宮を出立したとみられている。秀吉が宇都宮での滞在期間が長期に亘った理由として、公的には折からの長雨のためとされているが、26日の秀吉の宇都宮着陣に先立ち、既に常陸の佐竹義宣、南部の南部信直が宇都宮入りしており、また秀吉が宇都宮に着いた翌々28日には伊達政宗が奥州への迎えの為として宇都宮入りするなど、関東、奥羽の大名達が宇都宮に出頭しているため、秀吉の宇都宮城滞在中の時点で奥州仕置は方針はほぼ決定されていたとみられている。また、7月13日の時点で秀吉傘下の五奉行のうち増田長盛配下が先に宇都宮に着いており、宇都宮城を接収していたとも云われている。当時、宇都宮城は宇都宮氏の勢力下にあったが、宇都宮氏は居城を多気山城に移していたため政治的摩擦は殆ど無かったと云われている。ほか、宇都宮には秀吉着城前までに金森長近や京極高次らの豊臣家臣も駐留していた。
朱印状発給
宇都宮城に入った秀吉は、源頼朝が奥州合戦にて奥州藤原氏一党を平定した折に行ったのと同様、宇都宮大明神を奉幣し東国の安定を祈願したとの推察もある。しかしながら、当時の宇都宮は後北条氏の台頭による混乱のさ中にあり、宇都宮氏でさえ居城を要害地の多気城に移さざるを得なかったことや、宇都宮社はじめ宇都宮氏菩提寺の東勝寺など宇都宮城下は後北条勢力の日光山僧兵等による焼き討ちなどで焼失していたことなど、天下人の奉幣を受けるだけの余力があったかは不明である。社伝にも秀吉の奉幣を伝える記録は無い。
いずれにせよ、秀吉は宇都宮城にあって、関東や奥羽の諸氏を宇都宮城に出頭させ、その戦後の所領措置(朱印状)を申し渡した。その場所が宇都宮であったことは秀吉の意図によるものであったかは不明であるが、宇都宮は下野国一宮名神大社河内郡二荒山神社の別称であり、下野国の国造家は崇神天皇の命により東国平定に臨んだ豊城入彦命を始祖とするなど、天下統一の最後の舞台として相応しい場所のひとつであったものと考えられている。
参考資料
- 古事類苑
- 橋本澄朗、千田明編纂『知られざる下野の中世』(随想舎、2005年)
- 小林清治著『秀吉の宇都宮仕置 ―関東仕置と奥羽仕置―』(栃木県立文書館研究紀要6号、2002年)
- 小林清治著『奥羽仕置と伊達政宗』(福島県歴史資料館研究紀要9号、1987年)
- 小林清治著『宇都宮で会った秋田実季と相馬義胤』(日本歴史632号、2000年)
- 江田郁夫著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年)
- 佐竹文書
- 南部家文書
- 島津家文書
- 喜連川文書
- 氏家今宮神社祭祀録
- 史料総覧
- 士林証文