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| {{Infobox 芸術家 | | {{Infobox 芸術家 |
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| | website = | | | website = |
| }} | | }} |
− | '''岡本 太郎'''(おかもと たろう、[[1911年]]([[明治]]44年)[[2月26日]] - [[1996年]]([[平成]]8年)[[1月7日]])は、[[日本]]の[[芸術家]]。血液型はO型<ref group=" " name="岡本太郎が、いる" >新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より</ref>。[[1930年]]([[昭和]]5年)から[[1940年]](昭和15年)まで[[フランス]]で過ごす。[[抽象絵画|抽象美術]]運動や[[シュルレアリスム]]運動とも接触した。[[戦後#第二次世界大戦後|第二次世界大戦後]]、日本で積極的に[[絵画]]・[[立体]]作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど[[文筆]]活動も行い、雑誌やテレビなどの[[メディア (媒体)|メディア]]にも1950年代から積極的に出演した<ref>テレビ出演等の映像記録が現存する。</ref>。[[1960年代]]後半に[[メキシコ]]に滞在していた頃、[[メキシコ壁画運動|壁画運動]]などから影響を受けたとされる。大阪の[[太陽の塔]]と[[渋谷駅]]に設置された壁画「[[明日の神話]]」などが代表的な作品。 | + | '''岡本 太郎'''(おかもと たろう、[[1911年]]([[明治]]44年)[[2月26日]] - [[1996年]]([[平成]]8年)[[1月7日]]) |
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− | == 経歴 ==
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− | === 少年時代 ===
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− | 岡本太郎(以下岡本と表記)は[[神奈川県]][[橘樹郡]][[高津町 (神奈川県)|高津村]][[大字]]二子(現・神奈川県[[川崎市]][[高津区]][[二子]])で、[[漫画家]]の[[岡本一平]]、[[歌人]]で小説家・[[岡本かの子|かの子]]との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の[[岡本可亭]]であり、[[北大路魯山人]]の師匠であった。
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− | 父・一平は[[朝日新聞社|朝日新聞]]で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し<ref>[[夏目漱石]]の推薦によるという。</ref>、「[[内閣総理大臣|宰相]]の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの[[放蕩]]ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
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− | 母・かの子は、[[寄生地主制|大地主]]の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は[[兵児帯]]でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。自身も放蕩経験のある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。
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− | 家庭環境の為か、岡本は [[1917年]]([[大正]]6年)4月、東京[[青山 (東京都港区)|青山]]にある[[港区立青南小学校|青南小学校]]に入学するもなじめず一学期で退学。その後も[[日本橋大伝馬町|日本橋通旅籠町]]の私塾・日新学校、[[中央区立日本橋小学校|十思小学校]]へと入転校を繰り返した。[[慶應義塾幼稚舎]]で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に[[国民栄誉賞]]を受賞した歌手の[[藤山一郎]]で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。
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− | 絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。[[慶應義塾普通部]]を卒業後、画家になる事に迷いながらも、[[東京芸術大学|東京美術学校]]へ進学した。
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− | === 滞仏生活とピカソの衝撃 ===
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− | 一平が[[朝日新聞]]の[[特派員]]として、[[ロンドン海軍軍縮会議]]の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は[[1929年]]([[昭和]]4年)神戸港を出港、[[1930年]](昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。<ref>1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において[[佐々木秀憲]]によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。</ref>
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− | フランス語を勉強するため、パリ郊外の[[リセ]](日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、[[パリ大学]](ソルボンヌ大学)において[[ヴィクトール・バッシュ]]教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃から[[マルセル・モース]]の下で絵とは関係のない[[民族学]]を学んだといわれている。
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− | [[1932年]](昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は[[1939年]](昭和14年)に岡本の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。
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− | 同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄った[[ポール=ローザンベール画廊]]で[[パブロ・ピカソ]]の作品《水差しと果物鉢》<ref>《水差しと果物鉢》(Pichet et coupe de fruits)。油彩画で[[1931年]]制作。現在は[[ソロモン・R・グッゲンハイム美術館]]に収蔵されている。</ref>を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。
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− | 1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体[[アプストラクシオン・クレアシオン]]協会のメンバーとなる。
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− | 親交のあった[[戦場カメラマン]]の[[ロバート・キャパ]]の公私にわたる相方であった報道写真家[[ゲルダ・タロー|ゲルタ・ポホリレ]]に岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く[[1937年]]に[[スペイン内戦]]の[[ブルネテの戦い]]の取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。
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− | === 兵役と戦後 ===
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− | [[1940年]](昭和15年)、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツのパリ侵攻]]をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《[[傷ましき腕]]》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。
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− | [[1942年]](昭和17年)、[[太平洋戦争]]下の軍備増強の為、[[役種#日本陸軍|補充兵役]][[召集]]され[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]兵として[[日中戦争|中国戦線]]へ出征。岡本は最下級の[[二等兵|陸軍二等兵]]扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。
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− | [[1945年]](昭和20年)、[[日本の降伏]]により太平洋戦争が終結。岡本は[[長安]]で半年ほど[[俘虜]]生活<ref>http://www.taro-okamoto.or.jp/chorology.html 岡本太郎記念館-岡本太郎年表]</ref>を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都[[世田谷区]][[上野毛]]にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。[[1947年]](昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
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− | [[1948年]](昭和23年)、 [[花田清輝]]らとともに「[[夜の会]]」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに[[埴谷雄高]]、[[安部公房]]らが参加した。またこの頃、[[岡本敏子|平野敏子]]と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。
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− | [[1951年]](昭和26年)11月7日、[[東京国立博物館]]で[[火焔土器|縄文火焔土器]]を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている<ref>春原史寛「「縄文」は「芸術」か-岡本太郎の「縄文土器論」『縄文土器名宝展〜縄文芸術の到達展〜』山梨県立考古博物館、2011年</ref>。また[[琉球諸島]]や[[東北地方]]の古い習俗を紹介した。
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− | [[1954年]](昭和29年)、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[青山 (東京都港区)|青山]]に自宅兼アトリエを建て<ref>友人の建築家・[[坂倉準三]]の設計による。ここで『燃える人』等の作品を生み出した。</ref>、生活と制作の拠点とする。同年、当時[[光文社]]社長だった[[神吉晴夫]]から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『[[今日の芸術]] 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。
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− | === メキシコ滞在 ===
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− | 1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、[[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]<ref>[[ラテンアメリカ]]を代表するメキシコの芸術家、活動家で、[[ディエゴ・リベラ]]、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]と並ぶ、メキシコ3大壁画家とも呼ばれ、1910年の[[メキシコ革命]]後、1920〜40年代に起こった[[メキシコ壁画運動]]の中心人物。壁画運動は、従来のヨーロッパ主義的な芸術ではなく、メキシコの[[先住民|先住民族]]や民衆に向けて、ルーツ回帰や歴史、人びとの結束を訴えるものであり、言葉が読めない人にも、壁画を見ただけでメッセージが伝わるように、公共の場に描かれることを基本としているのが特徴である。</ref>などによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『[[明日の神話]]』となる。<ref>[http://tabizine.jp/2014/04/01/8083/]</ref>
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− | === 太陽の塔 ===
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− | [[ファイル:131116 Tower of the Sun Expo Commemoration Park Suita Osaka pref Japan01s3.jpg|thumb|太陽の塔]]
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− | {{main|太陽の塔|明日の神話}}
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− | [[1970年]](昭和45年)に大阪で[[日本万国博覧会|万国博覧会]]が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『[[太陽の塔]]』であった。
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− | この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。[[1975年]](昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。
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− | 同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される<ref name="壁画発見">{{cite news |author=中川史 |title=岡本太郎の「幻」壁画発見 「明日の神話」核テーマ、35年ぶり メキシコ |date=2003-09-12 |newspaper=朝日新聞 |page=夕刊1面}}</ref>。
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− | === 茶の間の人気者として ===
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− | 岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。
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− | 1970年代以降には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[バラエティ番組]]『[[鶴太郎のテレもんじゃ]]』にレギュラー出演。冒頭で[[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトストラはかく語りき]]』を鳴り響かせ、[[ドライアイス]]の煙が立ちこめる中から、'''「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」'''などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。<ref>そのインパクトの強さからお笑いタレントにモノマネされるなど、当時の岡本は世間からは「エキセントリックなおじさん」と認識されることにもなったが、本人はそれを喜んでいた。</ref>また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した[[片岡鶴太郎]]の芸術家としての才能を見出している。
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− | 1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。[[日本放送協会|NHK]]『[[ばら色の人生 (テレビドラマ)|ばら色の人生]]』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。
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− | === 没後 ===
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− | [[File:TaroOkamoto-Memorial-Museum.jpg|thumb|南青山にある岡本太郎記念館]]
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− | [[File:Taro Okamoto Museum3a.jpg|thumb|川崎市多摩区桝形にある川崎市岡本太郎美術館]]
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− | 老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を[[川崎市]]に寄贈。市は[[美術館]]建設を計画する。
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− | [[1996年]](平成8年)[[1月7日]]、以前から患っていた[[パーキンソン病]]による[[急性呼吸不全]]により[[慶應義塾大学病院]]にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が[[草月会館]]で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。
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− | [[1998年]](平成10年)、青山の岡本の住居兼[[アトリエ]]が[[岡本太郎記念館]]として一般公開された。
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− | [[1999年]](平成11年)10月30日、[[川崎市岡本太郎美術館]]が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。
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− | [[2003年]](平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『[[明日の神話]]』が発見された。[[愛媛県]][[東温市]]で修復されたのち、[[2006年]](平成18年)、[[汐留]]日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は[[京王井の頭線]][[渋谷駅]]連絡通路に設置され、[[パブリックアート]]として新たな名所となった。
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− | [[2011年]](平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。
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− | [[2013年]](平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ]]の思想が影響を及ぼしていたことが確認された。
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− | [[2014年]](平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授の[[ダリオ・ガンボーニ]]博士の著書『[[潜在的イメージ]]』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。
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− | == 人物 ==
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− | === 人生の転機 ===
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− | [[ジョルジュ・バタイユ]]との出会いが岡本の一生を変えたと述懐している<ref>「自分の中に毒を持て」(岡本太郎著 青春出版)</ref>。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から。1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている
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− | === 芸術観 ===
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− | {{出典の明記|date=2011年2月|section=1}}
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− | * 芸術一家に生まれ、既存概念にとらわれる事がなく育ち、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。
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− | * 東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、[[川端画学校]]に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校である[[アカデミー・ランソン]]や、[[グランド・ショーミエール]]に通い、技術の修得に努めている。
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− | * 著書『[[今日の芸術]]』<ref>'''岡本太郎'''『今日の芸術』光文社、2012年10月15日。</ref>の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」<ref>'''岡本太郎'''[2012年]『今日の芸術』、p.98。</ref>と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。
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− | * '''「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」'''などと発言した事でも知られる。<ref>最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。</ref>
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− | * 自らの作品をガラス越しで展示されるのを嫌った。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。駅ビルのような位置づけである[[渋谷マークシティ]]の連絡通路に設置された《[[明日の神話]]》も、電車の微振動や往き来する多数の乗降者、気温・湿度の変化にも晒される劣悪な環境でありながら、何の防護措置も施されずに展示されることになった。
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− | === 恋愛観 ===
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− | * プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌い、徹底した[[フェミニスト]]・ロマンティストであった<ref group=" " name="岡本太郎が、いる" >新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より</ref>。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した<ref group=" " name="岡本太郎が、いる" >新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より</ref>。
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− | * 生涯独身を通し、秘書であった[[岡本敏子]]を養女とした。多くの女性との恋愛を志向したが、これは母かの子の影響に起因するものと思われる([[知ってるつもり!?]]の岡本太郎の回などではこのように触れている)。
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− | === スポーツ ===
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− | スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]や[[中西太]]らと共に興じた。
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− | [[スキー]]は、親交があった[[三浦雄一郎]]から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。
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− | {{cquote2|「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」}}
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− | また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」([[講談社]]、絶版)という本も出版している。
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− | === ピアノ ===
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− | 岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、[[1978年]](昭和53年)にはドキュメンタリー番組『[[もうひとつの旅]]』([[毎日放送]])の撮影のため、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]ゆかりの地[[マヨルカ島]]を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。
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− | === その他 ===
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− | [[File:Okamoto Taro cooks stakes.JPG|thumb|180px|ビフテキを調理中(1954年)]]
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− | * 身長156cmとかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
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− | * それまで全く面識がなかった[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]](後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
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− | * [[1964年]](昭和39年)に開かれた[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]で、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした <ref>[[岡本敏子]]の談話による。</ref>。そして参加メダルの表側を手がけた(裏側のデザインは[[田中一光]])<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/65/Default.aspx 所蔵品の紹介] - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館</ref>。
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− | * [[1967年]](昭和42年)1月、[[沖縄県]]・[[久高島]]に残る[[風葬]]を撮影した写真を発表し、タブーを犯したと指摘される。しかし、その前年の1966年12月にイザイホーを調査する為に久高島を訪問した多くの学識経験者も現地の代表者に案内されて風葬の地を訪れ、写真や映像を撮影している。これは当時すでに消滅しそうになっていた風葬の風習を記録に残してもらいたいとの現地代表者の善意から発したものであったという。この件で問題とされるのは、岡本の写真に棺の蓋が開いたものがあった為に、岡本が蓋を開けたのではないかと疑われたことによる。しかし、棺の蓋が開けられている写真や映像は、他の学識経験者たちも撮影していた。この批判に対して岡本は案内した現地代表者に迷惑が掛かることを気遣って沈黙を守り続けたが、近年の風葬に関する岡本への批判を回顧する言説には問題点を正確に把握していないものもあり、この件が原因となって自殺者が出たとか、精神を病んだ人が出たという噂は、全くの事実無根であることが確認されている(沖縄テレビ「岡本太郎が恋した沖縄」2012年)。
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− | * 1966年12月に沖縄県・久高島を再訪した時にも岡本太郎は「大御嶽」を他の学識経験者と共に再訪しており、多数の写真を撮影したことが確認されている(佐々木秀憲「岡本太郎の沖縄―沖縄から大阪万博へ」、川崎市岡本太郎美術館・美術館連絡協議会『岡本太郎が愛した沖縄展 開催報告書』39頁、2017年3月)。このことは同行者の目撃証言も確認されており、沖縄再訪時には「大御嶽」を岡本は訪問していないとする説は間違いであることが判明している。
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− | * 岡本太郎著『忘れられた日本 〈沖縄文化論〉』において、岡本が主張している言説として、琉球王に関する文化財などの「モノ」には実在感がなく感激しなかったが、 木と石以外のなにもない「大御嶽」には実在感があり感激したという、両者のコントラストをこそが読み取られるべきである。岡本はその実在感が何であるのかを確認しようとして、わずか数10㎡の木と石しかない空間を1959年の訪問時には5カット撮影し、1966年の再訪時には16カットも撮影している。この事実を見誤ってはならない。
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− | * 1966年12月に「イザイホー」を取材するために岡本が久高島を再訪した時、「風葬」の写真を50カット以上撮影しているのに対して、「大御嶽」の写真は16カットしか撮影していないとして、岡本があたかも「大御嶽」に興味が希薄であったかのような言説もあるが、久高島の広範囲に分布していた「風葬」を約50カットしか撮影していないのに対して、わずか数10㎡の「大御嶽」を16カットも撮影している事実を看過してはならない。カット数だけからの判断は短絡的である。
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− | * 著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面のコーディネーターとなった人物に淡交社の[[臼井史朗]]がいた。
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− | * [[司馬遼太郎]]は、岡本から大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
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− | *岡本は東京・[[日本堤]]にある老舗[[馬肉]]料理店「中江」の常連であり、店主に「僕がフランスで食べた馬肉の[[タルタルステーキ]]をこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられるようになった。
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− | * じっとしていられない性質で、[[TBSラジオ]]「[[久米宏]]の[[土曜ワイドラジオTOKYO]]」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、また1階に戻ってソファに腰かけたあと庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの[[吉川美代子]]はその[[オーラ]]を感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという。<ref>[[吉川美代子]]著『アナウンサーが教える 愛される話し方』、[[朝日新書]]、[[2013年]] 31〜32頁</ref>
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− | * 写真家の[[荒木経惟]]は、尊敬する人物に岡本の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。[[1999年]](平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。[[2006年]](平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
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− | * [[鳥取県]][[米子市]]の[[野坂寛治]]元市長と親交があった。同市の教育長であった[[安田光昭]]の回想録『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。
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− | *《犬の植木鉢》は1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて3体制作され、そのうち2体は岡本太郎記念館蔵、残る1体は川崎市岡本太郎美術館蔵となっている。なお、1955年1月7日付けの同社からの製品の発送通知が確認されており、制作時の岡本を写したスナップショットも残されている。
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− | *没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子の尽力に負うところが大きかったが、敏子の歿後2011年以降の研究においては、美術[[様式]]論および[[図像解釈学]]などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。
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− | == 年譜 ==
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− | * [[1911年]]([[明治]]44年)[[2月26日]]、母の実家である[[神奈川県]][[橘樹郡]]高津村[[二子]]/現在の[[川崎市]][[高津区]][[二子]]に生まれる。
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− | * [[1917年]]([[大正]]6年) 東京・青山の[[港区立青南小学校|青南小学校]]に入学
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− | * [[1918年]](大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の[[慶應義塾幼稚舎|慶應幼稚舎]]に入学。
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− | * [[1929年]]([[昭和]]4年)
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− | ** [[慶應義塾普通部]]を卒業、東京美術学校(現・[[東京芸術大学]])洋画科入学、半年後中退。
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− | ** 父の[[ロンドン軍縮会議]]取材に伴い、渡欧。その後、[[パリ大学ソルボンヌ校]]で[[哲学]]・[[美学]]・[[心理学]]・[[民族学]]を学ぶ。
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− | * [[1936年]](昭和11年) 油彩『傷ましき腕』を制作。
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− | * [[1940年]](昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
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− | * [[1942年]](昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた[[徴兵検査]]を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
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− | * [[1945年]](昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
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− | * [[1946年]](昭和21年) 復員、[[東京都]][[世田谷区]]上野毛にアトリエを構える。
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− | * [[1947年]](昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
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− | * [[1948年]](昭和23年) [[花田清輝]]、[[埴谷雄高]]らと「[[夜の会]]」結成。
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− | * [[1949年]](昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。
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− | * [[1950年]](昭和25年) [[読売新聞]]主催の[[現代美術自選代表作十五人展]]に11作品を出品。
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− | * [[1951年]](昭和26年) [[東京国立博物館]]で縄文土器を見る(11月7日)。
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− | * [[1952年]](昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
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− | * [[1954年]](昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を[[光文社]]からはじめて刊行。
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− | * [[1955年]](昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
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− | * [[1956年]](昭和31年) 旧東京都庁舎([[丹下健三]]設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
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− | * [[1957年]](昭和32年) 46歳にして[[スキー]]を始める。
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− | * [[1959年]](昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
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− | * [[1961年]](昭和36年) [[草津白根山]]でスキー中に骨折入院(同じ病院には[[石原裕次郎]]が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
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− | * [[1964年]](昭和39年) [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の参加メダルの表側をデザイン。
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− | * [[1965年]](昭和40年) [[名古屋市|名古屋]]の[[久国寺]]に梵鐘『歓喜』制作。
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− | * [[1967年]](昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
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− | * [[1968年]](昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
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− | * [[1969年]](昭和43年) 1968年から制作が開始されていた『[[明日の神話]]』完成。
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− | * [[1970年]](昭和45年) 大阪の[[日本万国博覧会]]のテーマ展示館『[[太陽の塔]]』完成。
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− | * [[1973年]](昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは[[積水ハウス]]。
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− | * [[1974年]](昭和49年) [[NHK放送センター]]・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。
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− | * [[1976年]](昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
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− | * [[1977年]](昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
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− | * [[1978年]](昭和53年) [[MBSテレビ|毎日放送]]のテレビ番組『[[もうひとつの旅]]』撮影のために訪れた[[マヨルカ島]]で、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]が使用したピアノを弾く。
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− | * [[1979年]](昭和54年) [[慶應義塾大学]]の卒業記念品として[[ペーパーナイフ]]を制作。はじめての著作集が[[講談社]]から翌年にかけて刊行される。
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− | * [[1981年]](昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。[[日立マクセル]]のCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の[[流行語大賞]]の語録賞を受ける。
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− | * [[1984年]](昭和59年) フランス政府より[[芸術文化勲章]]オフィシエを受章。
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− | * [[1985年]](昭和60年) [[国際科学技術博覧会|つくば万博]]のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。[[こどもの城]]のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
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− | * [[1986年]](昭和61年) [[福井県]][[三方町]]で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
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− | * [[1988年]](昭和63年) [[ダスキン]]のCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
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− | * [[1989年]]([[平成]]元年) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。
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− | * [[1991年]](平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
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− | * [[1992年]](平成4年) 油彩『疾走する眼』制作。
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− | * [[1994年]](平成6年) [[三重県]]で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。
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− | * [[1996年]](平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため[[慶應義塾大学病院]]にて逝去(満84歳没)。
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− | === 没後 ===
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− | * [[1998年]](平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に[[岡本太郎記念館]]が開館。
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− | * [[1999年]](平成11年) 神奈川県川崎市[[多摩区]]の[[生田緑地]]内に[[川崎市岡本太郎美術館]]開館。
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− | * [[2005年]](平成17年) 養女・[[岡本敏子]]逝去(79歳)。
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− | * [[2006年]](平成18年)
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− | ** [[7月7日]] 壁画《[[明日の神話]]》が[[汐留]][[日本テレビ放送網|日テレ]]プラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
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− | ** [[11月28日]] 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画『電撃』と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が発見される。
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− | ** [[11月29日]]『電撃』を修復前に一般公開。
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− | * [[2007年]](平成19年)[[2月15日]] 『明日の神話』の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
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− | * [[2008年]](平成20年)3月 『明日の神話』の恒久設置場所が東京都[[渋谷区]]の[[京王井の頭線]][[渋谷駅]]連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
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− | * [[2011年]](平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とする[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]所属の[[川崎フロンターレ]]がユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。
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− | == 主な作品 ==
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− | === 平面作品 ===
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− | ※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵
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− | * 敗惨の歎き([[1924年]])- 現存する太郎の最古の作品。
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− | * 空間(油彩、[[1933年]])- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
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− | * コントルポアン(油彩、[[1935年]]、[[東京国立近代美術館]]蔵) - 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
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− | * 傷ましき腕(油彩、[[1936年]])- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
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− | * 露店(油彩、[[1937年]]、[[グッゲンハイム美術館]]蔵) - 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
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− | * 憂愁(油彩、[[1947年]]、草月美術館蔵)
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− | * 重工業(油彩、[[1949年]])
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− | * 赤い兎(油彩、1949年、[[富山県立近代美術館]]蔵)
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− | * 森の掟(油彩、[[1950年]])
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− | * 燃える人(油彩、[[1955年]]、東京国立近代美術館蔵)
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− | * 裂けた顔(油彩、[[1960年]])
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− | * 遊ぶ(油彩、[[1961年]]、東京国立近代美術館蔵)
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− | * 装える戦士(油彩、[[1963年]])
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− | * 愛撫(油彩、[[1964年]])
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− | * 千手(油彩、[[1965年]])
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− | * [[明日の神話]](油彩、[[1968年]])
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− | * 哄笑(油彩、[[1972年]])
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− | * 記念撮影(油彩、[[1975年]])
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− | * 黒い太陽(リトグラフ、[[1979年]])
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− | * 遭遇(油彩、[[1981年]])
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− | * 森の家族(油彩、[[1983年]])
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− | * 疾走する眼(油彩、[[1992年]]、岡本太郎記念館蔵)
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− | === 立体作品 ===
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− | * 顔(陶、[[1952年]])- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
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− | * 日の壁・月の壁(陶、[[1956年]])- 旧[[東京都庁]]陶板レリーフ<ref>これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、太郎も了承したが、[[瀬木慎一]]らが反対。最終的に太郎が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)</ref>
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− | * 坐る事を拒否する椅子([[陶器]]、[[1963年]])
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− | * 梵鐘・歓喜(ブロンズ、[[1965年]])
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− | * [[若い時計台]](コンクリート、アルミニウム、[[1966年]])- 銀座数寄屋橋公園内に設置。
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− | * 午後の日(ブロンズ、[[1967年]])- [[東京都立多磨霊園]]にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
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− | * 生誕 - [[黒川紀章]]が設計し[[1967年]]竣工した[[山形県]][[寒河江市|寒河江]]市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。
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− | * マミフラワー会館(鉄筋コ)ンクリート建築、[[1968年]])- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。
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− | * [[若い太陽の塔]]([[1969年]])- 愛知県[[犬山市]]の[[日本モンキーパーク]]内に現存する。
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− | * [[緑の太陽]](1969年- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
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− | * [[太陽の塔]](鉄筋コンクリート、[[1970年]])
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− | * 母の塔([[1970年]])太陽の塔の西側、大屋根と共に撤去されたため現存していない。
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− | * 青春の塔([[1970年]])太陽の塔の東側、現存していない。
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− | * ノン(FRP、1970年)
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− | * [[オリエンタル中村百貨店|オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)]]光るレリーフ大壁画([[1971年]])- [[三越]]改称時に撤去されたため現存していない。
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− | * 樹人(FRP、[[1971年]])- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。
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− | * 躍進(陶、[[1972年]])- [[山陽新幹線]][[岡山駅]]内の陶板壁画。
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− | * 若い泉(アルミニウム、[[1974年]])- バーズタウン(姫路市夢前町)内に現存する噴水。
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− | * 千手(アルミニウム、[[1975年]])
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− | * [[足あと広場]](造園、1978年)- [[広島県]][[福山市]]松永町[[日本はきもの博物館]]中庭に造成。
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− | * 河童像(FRP、1981年)
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− | * 縄文人(ブロンズ、[[1982年]])
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− | * 神話([[1982年]]) - [[島根県]][[松江市]][[松江総合運動公園]]モニュメント。
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− | * 未来を視る(FRP、[[1985年]])- [[国際科学技術博覧会|つくば科学万博]]のシンボルモニュメント。[[2005年]]に[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[万博記念公園駅 (茨城県)|万博記念公園駅]]前に移設。
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− | * [[こどもの樹]](FRP、1985年)- [[こどもの城]]のシンボルモニュメント
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− | * 太陽(1985年)- 9月に[[そごう横浜店]]のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。
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− | * 平和を呼ぶ像([[1988年]])- 10月に[[船橋市]]の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
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− | * 未来を拓く塔(1988年)- [[ぎふ中部未来博]]のシンボルとして建立。跡地に作られた[[岐阜メモリアルセンター]]内に現存。
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− | * 母の塔(原作)
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− | * 歓び - [[川崎市]]内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。
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− | * 河神 (アルミ合金、[[1995年]])- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。
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− | * 花炎 (陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県[[有田町]]において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメント。敏子と太郎の助手を務めていた職人のサポートを得て完成された<ref> 『岡本太郎が、いる』</ref>。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る。
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− | === インダストリアル・デザイン ===
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− | * [[宇宙人東京に現わる]](映画、[[1956年]])- 宇宙人のデザインを担当。
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− | * [[近畿日本鉄道]] [[ラビットカー]]([[近鉄6800系電車]]など)シンボルマーク「ラビットマーク」([[1957年]])- 日本で初めての高加減速車両のマーク<ref>[[JTBパブリッシング]] JTBキャンブックス「近鉄電車」[[三好好三]]著 P.195掲載の近鉄6800系の記事</ref>。当時は鉄道関連のマークに著名画家を採用する例は極めて少なかった。
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− | * [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]球団シンボルマーク([[1959年]])- [[近物レックス|近鉄物流]]のマークとしても使われた。
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− | * 映画タイトル[[ロゴタイプ|ロゴ]]「母」([[1963年]])- [[新藤兼人]]監督作品。[[東宝]]配給。
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− | * 映画タイトルロゴ「鬼婆」([[1964年]])- [[新藤兼人]]監督作品。[[東宝]]配給。
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− | * [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]参加メダル (1964年)
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− | * 卓上ライター《火の接吻》([[1969年]])
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− | * [[オリエンタル中村百貨店|オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)]]光るレリーフ大壁画のデザインを用いた包装紙([[1971年]])
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− | * [[札幌オリンピック]]記念メダル(ブロンズ、[[1972年]])
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− | * TAROきもの(和服デザイン、[[1975年]])- 京都じゅらくより発売。
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− | * ウィスキー・グラス《顔》([[1976年]])- [[キリンディスティラリー|キリンシーグラム]]より[[ノベルティ]]として3月と9月に2種類頒布。
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− | * ピッチャー《水差し男爵》(ガラス、1977年)- キリンシーグラムのノベルティ。
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− | * ティーセット《夢の鳥》(磁器、1977年)- [[三郷陶器]]より発売。
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− | * トランプ(1977年)- [[講談社]]より発売。
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− | * 第23回 国際眼科学会シンボルマーク([[1978年]])- 同学会の記念切手のデザインも手がける。
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− | * アイスペール《まつげ》(ガラス、1978年)- キリンシーグラムのノヴェルティ。付属の[[トング]]のデザインも手がける。
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− | * [[ペーパーナイフ]]《いのち》([[ステンレス]]、[[1979年]])- [[慶應義塾大学]]の第121回卒業記念品(非売品)。製造は株式会社青芳製作所。
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− | * 《お好み手皿》(ガラス、1979年) - キリンシーグラムのノベルティ。
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− | * 《TARO鯉》(鯉のぼり、[[1981年]])- 「[[東レ]]」と、[[こいのぼり]]の老舗「太郎鯉」との共同企画。
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− | * ネクタイ([[1982年]])-「菱屋」から発売。
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− | * [[日本電信電話公社|電電公社]] [[テレホンカード]]([[1982年]]12月)-テレホンカード第1号をデザイン。
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− | * 《人間ボトル》(陶、[[1985年]])- [[キリンシーグラム]]製[[ブランデー]]『シャトラン』と、[[ウィスキー|モルトウィスキー]]『エンブレム』の2種類の洋酒ボトル・デザイン。[[国際科学技術博覧会|つくば万博]]記念発売。
| |
− | * レコードジャケット・デザイン(1985年)- 8月6日の広島平和コンサート開催記念頒布盤(非売品)<ref>収録曲目は、[[レナード・バーンスタイン]]指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。</ref>
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− | * 腕時計デザイン(EXCEED、[[1986年]])- [[シチズン時計]]の製品。岡本は同社のCMにも出演。
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− | * [[JR]]発足記念メダル《出発》([[1987年]])- 銀製、銅製の2種類。
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− | * 映画タイトルロゴ「神々の履歴書」([[1988年]])- [[前田憲二]]監督作品。「神々の履歴書製作委員会」配給。
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− | * [[西日本鉄道]] [[夜行高速バス]]車両 ・車体デザイン。 (「[[どんたく号]]」・「[[はかた号]]」等、[[1989年]])
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− | === ギャラリー ===
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− | <gallery widths="200px" heights="200px">
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− | 画像:Taro okamoto gogonohi200.jpg|《[[午後の日]]》<br/>[[西宮市大谷記念美術館]]
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− | 画像:taro_2005_0807.JPG|《[[母の塔]]》<br/>[[川崎市岡本太郎美術館]]
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− | File:Kintetsu insignia.png|大阪近鉄バファローズの球団シンボルマーク
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− | File:2016-8-18-Yororailwayー606.jpg|[[養老鉄道]]の復刻ラビットカーに付けられたラビットマーク
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− | </gallery>
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− | == 書籍 ==
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− | {{節スタブ}}
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− | === 作品集 ===
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− | * 『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年) - 評論家ピエール・クールティオン編著による初の画集。フランスにて出版。特装版30部、普及版多数。
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− | * 『画文集 アヴァンギャルド』([[月曜書房]]、1948年)
| |
− | * 『T.OKAMOTO』([[美術出版社]]、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。
| |
− | * 『画文集 黒い太陽』(美術出版社、1959年)
| |
− | * 『岡本太郎』(美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。
| |
− | * 『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー、版画集、1974年)
| |
− | * 『デリシュール』(版画集、1976年)
| |
− | * 『TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男』 (画集、1976年) - フランスにて出版。
| |
− | * 『画文集 挑む』([[講談社文庫]]、1977年)
| |
− | * 『岡本太郎』([[平凡社]]、網羅的作品集、1979年)
| |
− | * 『遊ぶ字』([[日本芸術出版社]]、墨蹟集、1981年)
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− | * 朝日美術館 日本編2『岡本太郎』([[朝日新聞社]]、絵画・立体作品集、1995年)
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− | * 『歓喜』([[二玄社]]、網羅的画文集、1997年)
| |
− | * 『TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集』(二玄社、網羅的作品集、2005年)
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− | * 『ドキドキしちゃう』([[小学館]]、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。
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− | === 評論・エッセイ等 ===
| |
− | * 『母の手紙』
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− | ** [[婦女界社]]版(1940年)
| |
− | ** 月曜書房版(1950年)
| |
− | ** [[チクマ秀版社]]版(1979年)
| |
− | ** [[講談社]]「岡本太郎著作集」第7巻(1980年)
| |
− | ** チクマ秀版社新装版(1993年)
| |
− | * 『ピカソ』(アテネびじゅつぶんこ)編集はアテネ文庫在職時の臼井史朗が担当したとのこと。
| |
− | ** [[弘文堂]]版(1952年)
| |
− | * 『随筆集・夢と誓い』
| |
− | ** [[宝文館]]版(1952年)
| |
− | **挑む/夢と誓い(抄) (人間の記録 (77))
| |
− | ** [[日本図書センター]]版(ISBN 978-4820543220、1998年)
| |
− | * 『青春ピカソ』
| |
− | ** [[新潮社]]版(1953年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第2巻(1980年)
| |
− | ** [[新潮文庫]]版(ISBN 978-4101346212、2000年)
| |
− | * 『[[今日の芸術]] 時代を創造するものは誰か』
| |
− | ** [[光文社]]版([[1954年]])
| |
− | ** 光文社カッパブックス版(1963年10月)
| |
− | ** 講談社文庫版(ASIN B000J93GS0、1973年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第1巻(1979年)
| |
− | ** 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334727895、1999年)
| |
− | * 『日本の伝統』
| |
− | ** 光文社版(1956年)
| |
− | ** [[角川文庫]]版(1964年)
| |
− | ** [[講談社現代新書]]版(1973年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第4巻(1979年)
| |
− | ** 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334783563、2005年)
| |
− | * 『芸術と青春』
| |
− | ** [[河出書房]]版(1956年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第3巻、第7巻(1980年)
| |
− | ** 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334781880、2002年)
| |
− | * 『日本再発見 芸術風土記』
| |
− | ** 新潮社版(1958年)
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− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第4巻(1979年)
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− | * 『忘れられた日本[[沖縄文化論]]』
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− | ** [[中央公論社]]版(1961年) - [[毎日出版文化賞]]受賞。
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− | ** [[中央公論社]]普及版(1964年)
| |
− | ** 中公叢書版(1972年) - 改題「[[沖縄文化論]]忘れられた日本」へ
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第5巻(1979年)
| |
− | ** [[中公文庫]]版(ISBN 978-4122026209、1996年)
| |
− | ** 中公叢書新装版(ISBN 978-4120032967、2002年)
| |
− | * 『[[岡本太郎の眼]]』
| |
− | ** 朝日新聞社版(1966年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)
| |
− | ** チクマ秀版社版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805003237、1998年)
| |
− | ** チクマ秀版社新装版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805004272、2004年)
| |
− | ** 角川oneテーマ21版「美しく怒れ」(ISBN 978-4041100240、2011年)
| |
− | * 『今日をひらく 太陽との対話』
| |
− | ** 講談社版(1967年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第3巻、第4巻、第7巻、第8巻(1979年、1980年)
| |
− | * 『原色の呪文』(人と思想シリーズ)
| |
− | ** 文芸春秋社版(1968年)
| |
− | * 『日本列島文化論』 - [[泉靖一]]との対談。
| |
− | ** [[大光社]]版(1970年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
| |
− | ** [[ミュゼ]]版「日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論」(ISBN 978-4944163175、2000年)
| |
− | * 『美の呪力』
| |
− | ** 新潮社版(1971年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
| |
− | ** 新潮文庫版 (ISBN 978-4101346229、2004年)
| |
− | * 『にらめっこ』
| |
− | **[[番町書房]]版(1975年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第7巻、第8巻(1980年)
| |
− | ** [[イースト・プレス]]版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4872577969、2007年)
| |
− | ** イースト・プレス文庫版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4781670027、2009年)
| |
− | * 『岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び』
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− | ** 講談社(ASIN B000J8SPZU、1977年)
| |
− | ** 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)※抄録
| |
− | * 『[[岡本太郎著作集]]』 全9巻([[講談社]]、1979年、1980年)
| |
− | * 『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)
| |
− | ** [[日本ブリタニカ]]版(1980年)
| |
− | ** [[アートン]]版「迷宮の人生」(ISBN 978-4901006668、2004年)
| |
− | * 『ピカソ講義』 - [[宗左近]]との対談。
| |
− | ** [[朝日出版社]]版(ISBN 9784255800424、1980年)
| |
− | ** [[ちくま学芸文庫]]版(ISBN 9784480092434、2009年)
| |
− | * 『にらめっこ問答』 人生相談
| |
− | ** [[集英社]]版(1980年)
| |
− | ** [[青林工藝舎]]版「太郎に訊け! 岡本太郎流爆発人生相談」(ISBN 4-88379-079-7、2001年)
| |
− | * 『人生は夢 にらめっこ問答』 人生相談
| |
− | ** 集英社版(1981年)
| |
− | ** 青林工藝舎版「太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談」(ISBN 4-88379-080-0、2001年)
| |
− | ** 青林工藝舎版「太郎に訊け!3 岡本太郎流激突人生相談」(ISBN 4-88379-081-9、2001年)
| |
− | * 『美の世界旅行』(新潮社、1982年)
| |
− | * 『自分の中に毒を持て あなたは"常識人間"を捨てられるか』
| |
− | ** [[青春出版社]]版(ISBN 978-4413014564、1988年)
| |
− | ** [[青春文庫]]版(ISBN 978-4413090100、1993年)
| |
− | ** 青春出版社新装版(ISBN 978-4413021456、2002年)
| |
− | * 『一平かの子 心に生きる凄い父母』(チクマ秀版社、ISBN 978-4805002698、1995年) - 太郎の生前最後の著作
| |
− | * 『岡本太郎の本』 全5巻([[みすず書房]])ダイジェスト編集版であることに注意。
| |
− | *#『呪術誕生』(ISBN 978-4622042563、1999年)
| |
− | *#『日本の伝統』(ISBN 978-4622042570、1999年)
| |
− | *#『神秘日本』(ISBN 978-4622042587、1999年)
| |
− | *#『わが世界美術史 美の呪力』(ISBN 978-4622042594、1999年)
| |
− | *#『宇宙を翔ぶ眼』(ISBN 978-4622042600、2000年)
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− | * 『リリカルな自画像』(みすず書房、2001年)
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− | * 『疾走する自画像』(みすず書房、2001年)
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− | === 編集著書 ===
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− | * 『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編
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− | * 岡本太郎編『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)
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− | | |
− | === 監修著書 ===
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− | * 福田和彦編 『日本名品聚芳』 全3巻([[芳賀書店]])
| |
− | *#『秘巻浮世絵』(1973年) - [[小林和作]]、[[埴谷雄高]]との共同監修(名義のみ)
| |
− | *#『秘巻浮世絵大錦』(1973年) - 同上
| |
− | *#『秘巻肉筆浮世絵』(1973年) - 同上
| |
− | * 福田和彦編 『草紙本浮世絵名品選』 全4巻(芳賀書店)
| |
− | *#『秘版 [[渓斎英泉|英泉]]』(1974年) - 小林和作、埴谷雄高との共同監修(名義のみ)
| |
− | *#『秘版 [[歌川国貞|国貞]]』(1975年) - 埴谷雄高との共同監修(名義のみ)
| |
− | *#『秘版 [[歌川国芳|国芳]]』(1975年) - 同上
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− | *#『秘版 [[葛飾北斎|北斎]]』(1975年) - 同上
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− | === 評伝 ===
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− | * 『岡本太郎の全貌』(編集・[[山本太郎 (詩人)|山本太郎]]、[[アトリエ社]]、1959年)
| |
− | * 『別冊太陽 日本のこころ94 岡本家の人びと』(平凡社、1996年)
| |
− | * 『芸術新潮 さよなら岡本太郎』(新潮社、1996年)
| |
− | * 『岡本太郎と横尾忠則』([[倉林靖]]、[[白水社]]、1996年)
| |
− | * 『岡本太郎に乾杯』(岡本敏子、新潮社、1997年)
| |
− | * 『芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録』(岡本敏子、[[小学館文庫]]、1999年)
| |
− | * 『岡本太郎の絵本 あいしてる』([[舟崎克彦]]・文、小学館、1999年)
| |
− | * 『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』([[荒木経惟]] 光文社、1999年、ISBN 4-334-97239-X)
| |
− | * 『ユリイカ 1999年10月号 特集・岡本太郎』(青土社、1999年、ISBN 4-7917-0050-3)
| |
− | * 『太郎神話』(岡本敏子編、二玄社、1999年)
| |
− | * 『岡本太郎が、いる』(岡本敏子、新潮社、1999年)
| |
− | * 『太陽の人・岡本太郎』([[ジェイティービー|JTB]]、1999年、ISBN 4-533-03374-1)
| |
− | * 『岡本太郎の世界』(岡本敏子、[[斎藤慎爾]]編、小学館、1999年)
| |
− | * 『岡本太郎宣言』(山下裕二、平凡社、2000年、ISBN 4-582-20633-6)
| |
− | * 『「新」太郎神話』(二玄社、2000年、ISBN 4-544-02029-8)
| |
− | * 『恋愛芸術家』(岡本敏子、マガジンハウス、2001年、ISBN 4-8387-1301-0)
| |
− | * 『岡本太郎の遊ぶ心』(岡本敏子、講談社、2005年、ISBN 4-06-269252-X)
| |
− | * 『Be TARO! 岡本太郎に出会う本』(学習研究社、2006年、ISBN 4-05-403165-X)
| |
− | * 『岡本太郎と太陽の塔』(平野暁臣、小学館、2008年)
| |
− | * 『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎』([[ポプラ社]]、2009年)
| |
− | * 『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』(平野暁臣、[[PHP研究所]]、2009年)
| |
− | * 『岡本太郎という思想』([[赤坂憲雄]]、講談社、2010年)
| |
− | * 『[新版]岡本太郎と横尾忠則』([[倉林靖]]、[[BOOKEND]]、2011年、ISBN 978-4-903295-37-4)
| |
− | * 『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』([[佐々木秀憲]]、東京美術、2013年、ISBN 978-4808709662)
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− | | |
− | == 出演 ==
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− | === 映画 ===
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− | *『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』 (1957年)- 原作:[[伊藤整]]、監督:[[中平康]]、[[日活]]配給。[[東郷青児]]とともに画家役で出演。
| |
− | * 『岡本太郎 マルセル・モースの肖像』 (1975年)- パリ大学民族学教授、[[ジャン・ルーシュ]]が手がけたドキュメンタリー映画。[[イタリア]]のアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。
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− | * 『山形は白い国 岡本太郎のスキー』 (1983年)- 山形県の観光映画。
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− | | |
− | === テレビ番組 ===
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− | 後年は民放テレビ局の[[バラエティ番組]]等にも積極的に出演していた。
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− | <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 -->
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− | * 「[[鶴太郎のテレもんじゃ]]」(日本テレビ、レギュラー出演)-「なんだ、これは!」が流行語に。
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− | | |
− | ==== 死後の特集番組 ====
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− | *「 [[知ってるつもり!?]]」 特集・岡本太郎(日本テレビ)
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− | *「[[驚きももの木20世紀]]」 ([[朝日放送テレビ|朝日放送]])
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− | === テレビドラマ ===
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− | ; 本人出演
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− | *「[[こんばんは21世紀]]」(1964年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - 特別弁護人役
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− | *「[[ばら色の人生 (テレビドラマ)|ばら色の人生]]」([[日本放送協会|NHK]]、[[1987年]])
| |
− | ; 岡本太郎を扱った作品
| |
− | *「[[TAROの塔]]」([[日本放送協会|NHK]]「[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]」、[[2011年]]2月26日 - 4月2日、主演:[[松尾スズキ]]中年-老年時代、[[濱田岳]]-青年時代、[[高澤父母道]]-幼年時代)
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− | | |
− | === CF ===
| |
− | * キリン・シーグラム(現・[[キリンディスティラリー]]) [[ロバートブラウン (ウイスキー)|ロバートブラウン]] (1976年)- ノベルティグッズ《顔のグラス》制作。川崎市岡本太郎美術館で視聴できる
| |
− | * [[日立マクセル]](maxell) エピタキシャルビデオカセット([[VHS]]/[[ベータマックス]]) (1981年)- [[流行語大賞]]の語録賞を受賞。川崎市岡本太郎美術館で視聴できる
| |
− | * [[明光商会]] MSシュレッダー (1985年)
| |
− | * [[シチズン時計]] EXCEED (1986年) - 「名前なんかにこだわるな」の発言が話題になる。川崎市岡本太郎美術館で視聴できる
| |
− | * ダスキン フリーデザインマット (1988年)- [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の第29回国際放送広告賞受賞
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− | * 株式会社[[パーソルキャリア|インテリジェンス]] [[DODA]] (2015年) - 「[[DODA]] '''岡本太郎'''×[[綾野剛]] やりたい仕事」篇
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− | | |
− | == 関連施設・団体・褒賞等 ==
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− | * [[岡本太郎記念館]]
| |
− | * [[川崎市岡本太郎美術館]]
| |
− | * [[現代芸術研究所]]
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− | * [[岡本太郎現代芸術賞]]
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− | == 脚注・出典 ==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | {{Reflist}}
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− | == 参考文献 ==
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− | *世田谷美術館『世田谷時代の岡本太郎 1946-1954―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流①』、2007年。
| |
− | *川崎市岡本太郎美術館『北大路魯山人と岡本家の人びと』展図録、2005年。
| |
− | *川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎の絵画―衝動から実現まで』展図録、2006年
| |
− | *川崎市岡本太郎美術館『開館10周年記念 岡本太郎の絵画』展図録、2009年。
| |
− | *[[佐々木秀憲]]『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。
| |
− | *『美術評論家著作選集 第8巻 松尾邦之助』ゆまに書房、2011年。
| |
− | *佐々木秀憲著「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会、2011年
| |
− | *佐々木秀憲著「岡本太郎のシャーマニズム―ミルチャ・エリアーデの影響」佐々木秀憲編『岡本太郎のシャーマニズム展図録』川崎市岡本太郎美術館、2013年
| |
− | *江川純一・奥山倫明・近藤幸夫著『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年
| |
− | *佐々木秀憲著「岡本太郎と潜在的イメージ」佐々木秀憲編『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年
| |
− | *栗本慎一郎著『幻想としての経済』青土社、1980年。
| |
− | *藤原聖子著『「聖」概念と近代』立正大学出版会、2006年。
| |
− | *明神勲著『戦後史の汚点 レッド・パージ』大月書店、2013年。
| |
− | *辻惟雄著『辻惟雄集 第1巻』岩波書店、2013年。
| |
− | *ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 上』未来社、1984年。
| |
− | *ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 下』未来社、1986年。
| |
− | *ミルチャ・エリアーデ著(奥山倫明・木下登・宮下克子訳)『ポルトガル日記1941-1945』作品社、2014年
| |
− | *五十殿利治著「岡本太郎とスイス・コネクション―ネオ=コンクレティズムと1930年代の「総合」の芸術」『美術運動史』149号、2015年6月20日
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− | == 関連人物・項目 ==
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− | * [[岡本可亭]] - 祖父、書家。北大路魯山人の師匠。函館の女学校にて書道を教えた経歴を持つ。
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− | * [[岡本一平]] - 父
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− | * [[岡本かの子]] - 母
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− | * [[岡本敏子]] - 養女
| |
− | * [[池部良]] - 従兄弟
| |
− | * [[瀬戸内寂聴]] - 秘書になってもらうよう頼んだことがある
| |
− | * [[ジミー大西]] - 「君は画家になりなさい」と手紙を送った。
| |
− | * [[ジョルジュ・バタイユ]] - 1939年頃に思想上の相違から訣別したことを、岡本自身が繰り返し述べている。
| |
− | * [[マルセル・モース]] - フランスの社会学者。エミール・デュルケームの甥。聖俗概念の研究を中心課題とし、パリ大学では宗教学、社会学、民族誌学の講座を担当した。
| |
− | * [[ミルチャ・エリアーデ]] - 1950年代以降の岡本の文筆・造形活動に影響を与えた。術語「[[ヒエロファニー]]」の提唱者であり「[[シャーマニズム]]」や「[[イニシエーション]]」についても先駆的な研究を残している。
| |
− | * [[丹下健三]]
| |
− | * [[川端康成]] - 戦後、太郎は鎌倉の川端康成宅に1ヶ月ほど居候していた
| |
− | * [[北大路魯山人]] - 太郎の祖父・岡本可亭に弟子入りし、そこから岡本家との家族ぐるみの付き合い
| |
− | * [[司馬遼太郎]]
| |
− | * [[藤山一郎]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生
| |
− | * [[野口冨士男]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生
| |
− | * [[勅使河原宏]]
| |
− | * [[石原慎太郎]]
| |
− | * [[荒川修作]]
| |
− | * [[野坂寛治]]
| |
− | * [[ヤノベケンジ]]
| |
− | * [[横尾忠則]]
| |
− | * [[新藤兼人]]
| |
− | * [[坂倉準三]] - アトリエ(現・[[岡本太郎記念館]])設計
| |
− | * [[藤田嗣治]]
| |
− | * [[OKAMOTO'S]]
| |
− | * [[岩手県]][[藤沢町]]『[[藤沢町#縄文の炎・藤沢野焼祭の関係者|縄文の炎]]』
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− | | |
− | == 外部リンク ==
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− | {{Commons|Category:Tarō_Okamoto}}
| |
− | {{ウィキポータルリンク|美術|[[画像:Nuvola_apps_kcoloredit.svg|none|34px]]}}
| |
− | * [http://www.taromuseum.jp/ 川崎市岡本太郎美術館]
| |
− | * [http://www.taro-okamoto.or.jp/ 岡本太郎記念館]
| |
− | * [http://www.taro-okamoto.com/ 現代芸術アトリエ]
| |
− | * [http://taro100.jp/ 岡本太郎生誕100年記念事業公式サイト]
| |
− | * [http://www.1101.com/taro/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 - なんだ、これは!]
| |
− | * [http://www.1101.com/asunoshinwa/ 「明日の神話」再生プロジェクト]
| |
− | * [https://web.archive.org/web/20071007082441/http://www.dai2ntv.jp/p/z/002z/index.html 第2日本テレビ - BeTARO]
| |
− | * [https://web.archive.org/web/20130510003351/http://www.salf.or.jp/tarotoshibuya/ 『明日の神話』招致プロジェクト実行委員会]
| |
− | * [https://web.archive.org/web/20130927170818/http://www.horror-house.jp/cat3/19911996.html 岡本太郎のお墓]
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− | {{Normdaten}}
| + | 洋画家。[[岡本一平]],[[岡本かの子]]の一子。 1929年東京美術学校に入学,同年末両親とともに渡欧,11年間パリに滞在。 31年ピカソの作品に感化されてサロン・デ・シュルアンデパンダンに『傷ましき腕』 (1936) を出品,37年まで抽象美術のグループ「[[アブストラクシオン・クレアシオン]]」に参加。 36年神秘主義と政治革命を目指す「社会学研究所」に加わる。この間パリ大学で哲学,社会学,民族学を修め 39年卒業。 40年に第2次世界大戦の戦局悪化のためパリを逃れて帰国。 41年二科会に入り (61年脱退) ,42年応召,中国で転戦。戦後は前衛派の主流として花田清輝,野間宏らと前衛芸術を推進し,原色図形などによる作品を発表。 |
| | | |
− | {{Artist-stub}}<!--※出典の表示がほとんど無い(2011年12月時点)という点でスタブです。-->
| + | 60年代以後,各国の国際展に出品して海外でも評価を得る。また,評論家としても活躍するほか,舞台装置,モニュメントの制作,メダル,織物,家具のデザインを手がけ,70年の日本万国博覧会ではテーマ展示プロデューサーをつとめ,『太陽の塔』を設計し話題となった。その他の主要作品はパリ国際センター会議場の大壁画(75) 。主著『日本再発見』 (58) ,『忘れられた日本』 (61) ,『美の呪力』 (71) など。 |
| | | |
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
| {{デフォルトソート:おかもと たろう}} | | {{デフォルトソート:おかもと たろう}} |
| [[Category:岡本太郎|*]] | | [[Category:岡本太郎|*]] |