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雲仙丸(うんぜんまる)は、日本郵船の貨客船。第二次世界大戦を生き延び、後に航海訓練所の練習船銀河丸(初代)となった。
概要
三菱重工業横浜船渠で建造され、本船は当初、門司 - 大連航路に就航する予定であったが、1942年10月の竣工後、船舶運営会使用船として徴用され、門司 - 上海航路で輸送任務に従事した。
1943年中頃から、新潟 - 羅津航路に転じて運航されたが、1943年10月1日、18時10分ごろ、日本海を航行中、潜水艦の襲撃を受け右舷中央部に魚雷が命中したが不発だったため、被害は機関室へのわずかな浸水のみで、本船は全速で離脱、翌朝、羅津に無事入港した。本船襲撃の4日後には、関釜連絡船崑崙丸が攻撃を受け沈没、多数の犠牲者を出した。
その後、一時的に新潟 - 樺太航路に転配され、新潟 - 羅津間の航路に復帰、敦賀 - 清津航路にも就航した。1945年6月23日、境港の港外で仮泊していた本船は、24日未明に抜錨したが直後に触雷、シャフト貫通部から浸水した。浸水は水密扉の閉鎖により食い止められ、本船は境港で乗客を下船させた後、敦賀港で貨物を揚陸、修理のため富山港の日本海船渠工業へ向かったが、回航の途中、能登半島西岸の羽咋市の砂浜に乗り揚げた。約2週間後、自力で離洲し、修理を受けた。1945年の終戦時には、敦賀 - 清津 - 羅津航路に就航していた。
終戦後は、引揚船となり、1946年12月5日、樺太からの第一陣を乗せて函館港に入港した。ナホトカ、釜山などから4航海を行い、合計4.745名が本船で帰国した。
1949年4月に徴用を解除され、1950年4月から釧路 - 東京航路に就航した。
1954年8月20日、運輸省航海訓練所の練習船銀河丸(初代)となった。
1973年1月、新設された海洋技術開発学校で係留練習船となったが、1974年5月14日、係船されていた上甑島から多度津町の宮地サルベージ多度津船舶解体場へ曳航され、その後、解体された[1]。
脚注
- ↑ 世界の艦船(1974年7月号,p114)