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この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした行動に一様に驚きを示した<ref name="shiba">「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」({{Harvnb |柴田|2012|pp=16-35}})</ref><ref name="date1">「春の雪 ■第一回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=20-59}})</ref>。
 
この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした行動に一様に驚きを示した<ref name="shiba">「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」({{Harvnb |柴田|2012|pp=16-35}})</ref><ref name="date1">「春の雪 ■第一回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=20-59}})</ref>。
  
== 経緯 ==
 
=== 総監を訪問し拘束 ===
 
[[File:Ministry of Defense2.JPG|thumb|230px|舞台となった市ヶ谷駐屯地{{refnest|group="注釈"|事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた<ref name="inose4">「第四章 時計と日本刀」({{Harvnb|猪瀬|1999|pp=321-449}})</ref>。}}。現在は、渦中となった東部方面総監部は[[朝霞駐屯地|朝霞]]へ移駐している。]]
 
1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、[[三島由紀夫]](45歳)は[[楯の会]]のメンバー[[森田必勝]](25歳)、[[小賀正義]](22歳)、[[小川正洋]](22歳)、[[古賀浩靖]](23歳)の4名と共に、[[東京都]][[新宿区]][[市谷本村町]]1番地(現・市谷本村町5-1)の[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]正門(四谷門)を通過し、[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面総監部]]二階の総監室正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治[[3等陸佐]]に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇[[1等陸佐]](50歳)に案内され総監室に通された<ref name="date2">「国会を占拠せよ ■第二回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=59-82}})</ref><ref name="date4">「総監が危ない ■第四回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=99-108}})</ref>{{refnest|group="注釈"|この建物は[[1874年]](明治7年)から[[1879年]](明治12年)まで[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、戦争時は[[大本営]]陸軍部、[[陸軍省]]、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]などが置かれ、 [[大日本帝国陸軍]]の[[メッカ#比喩表現|メッカ]]でもあった<ref name="juro1">「第一章 三島由紀夫の死」({{Harvnb|再訂|2005|pp=5-62}})</ref>。[[大東亜戦争]]の敗戦時には、[[晴気誠]][[少佐]]、[[吉本貞一]][[大将]]などが割腹自決をし、[[極東国際軍事裁判]]の法廷にも使用された場所でもある<ref name="juro1"/>。}}。この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等[[陸曹]]が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった<ref name="inose4"/>{{refnest|group="注釈"|玄関で出迎えた沢本三佐が、日本刀の所持について質問したが、三島は例会に使う「指揮刀」だと言った<ref name="inose4"/><ref name="ando4">「第四章 憂国の黙契」({{Harvnb|生涯|1998|pp=233-331}})</ref>。}}。
 
 
応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・[[益田兼利]][[中将|陸将]](57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した<ref name="date2"/><ref name="date3">「『散ること花と……』■第三回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=83-98}})</ref>。
 
 
ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の[[日本刀]]・“関[[孫六兼元|孫六]]”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような[[軍刀]]をさげて[[日本の警察|警察]]に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。[[鑑定書]]をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた<ref name="date2"/><ref name="date3"/>。
 
 
三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった<ref name="date2"/>。しかし総監が、「[[ちり紙]]ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した<ref name="date2"/>。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った<ref name="date3"/>。
 
 
三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。[[刃文]]を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった<ref name="date2"/>。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら[[鍔]]鳴りを「パチン」と響かせて刀を[[鞘]]に納めた<ref name="ando4"/><ref name="toku10">「第十章 十一月二十五日」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=238-269}})</ref>。
 
 
それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した<ref name="date2"/>。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監に[[さるぐつわ]]を噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、[[短刀]]をつきつけた<ref name="date2"/><ref name="date3"/>。
 
 
総監は、[[レンジャー (陸上自衛隊)|レンジャー]]訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた<ref name="date3"/>。その間、森田は総監室正面入口と、[[幕僚]]長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て[[観音開き]]ドア)に、机や椅子、植木鉢などで[[バリケード]]を構築した<ref name="date2"/><ref name="naka4">「第四章 市ヶ谷台にて」({{Harvnb|彰彦|2015|pp=199-230}})</ref>。
 
 
=== 幕僚らと乱闘 ===
 
お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた<ref name="date4"/>。
 
 
原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された<ref name="date4"/><ref name="toku10"/>。それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。幕僚らに[[非常呼集]]をかけ、沢本3佐の部下が[[警務官|警務隊]]に連絡した<ref name="date4"/><ref name="inose4"/>。
 
 
総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、すぐさま三島は日本刀・“関孫六”で背中などを斬りつけ、続いて[[木刀]]を持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した<ref name="date4"/><ref name="inose4"/>。この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという<ref name="date4"/><ref name="toku10"/>。この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った<ref name="date4"/>。時刻は11時20分頃であった<ref name="date2"/>。
 
 
彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎[[1尉]]、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた<ref name="date2"/><ref name="inose4"/>。副長の吉松1佐が、「何をするんだ。話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋は[[特殊警棒]]で応戦した<ref name="date2"/><ref name="date4"/><ref name="naka4"/>。
 
 
森田も[[短刀]]で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られた<ref name="date2"/>。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた<ref name="inose4"/>。総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。清野1佐は、[[地球儀]]を投げて応戦するが躓いて転倒。山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした<ref name="date4"/><ref name="inose4"/>。
 
 
この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった<ref name="date1"/>。三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌の[[腱]]を切った中村2佐は、左手の[[握力]]を失う後遺症が残った<ref name="inose4"/><ref name="hara">「『三島事件』をふり返って」({{Harvnb|原|2004|pp=119-127}})</ref><ref name="terao">[http://melma.com/backnumber_149567_5695940/ 寺尾克美「三島由紀夫事件の真相(2012年10月12日に講演)」(三島由紀夫の総合研究、2012年11月12日・通巻第695号)]</ref>。しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している<ref name="hara"/>{{refnest|group="注釈"|中村2佐はその後、陸幕広報班長、[[第32普通科連隊|第32連隊]]長、総監部幕僚副長、久留米の[[幹部候補生]]学校校長を歴任し、[[1981年]](昭和56年)7月、[[陸将]]で定年退官した<ref name="hara"/>。}}。
 
 
11時22分、東部方面総監室から[[警視庁]]指令室に[[110番]]が入り、11時25分には、[[警視庁公安部|警視庁公安]]第一課が[[警備局]]長室を臨時本部にして関係機関に連絡し<ref name="hosa1">「第一章『最後の一年は熱烈に待つた』」({{Harvnb|保阪|2001|pp=57-92}})</ref>、120名の[[機動隊]]員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた<ref name="hosa1"/><ref name="juro1"/>。室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた<ref name="terao"/>。吉松1佐が窓ごしに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた<ref name="date2"/>。
 
 
要求書には主に{{Quotation|
 
(一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の[[自衛官]]を本館前に集合せしめること。
 
 
(二)左記次第の演説を清聴すること。<br /> (イ)三島の演説([[檄 (三島由紀夫)|檄]]の撒布)<br /> (ロ)参加学生の名乗り<br /> (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示
 
 
(三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。
 
 
(四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。
 
 
(五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。
 
 
(六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。}}
 
 
などと書かれてあった<ref name="date3"/><ref>「要求書」(昭和45年11月25日)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=680-681}}</ref>。
 
 
幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた<ref name="date4"/>。三島は「君は何者だ。どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った<ref name="date4"/>。
 
 
その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた<ref name="date2"/>。手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった<ref name="date3"/>。総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った<ref name="date3"/>。
 
 
なお、三島が総監室で[[恩賜のたばこ|恩賜煙草]]を吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、[[園遊会]]で貰った恩賜煙草も[[アタッシュケース]]に入れるように前々日にメンバーに渡していたという<ref name="azusa7">「第七章」({{Harvnb|梓|1996|pp=233-256}})</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに、[[山本舜勝]]が最後に三島宅を訪問した際、形見かのように、三島から恩賜の煙草と楯の会の隊歌のレコードを貰ったという<ref name="yama11">「XI 市ヶ谷台上へ」({{Harvnb|山本|1980|pp=243-266}})</ref>。}}。
 
 
11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された<ref name="date2"/><ref name="inose4"/>。11時46分、警視庁は三島ら全員に対し、逮捕を指令した<ref name="juro1"/>。駐屯地内には、[[パトカー]]、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた<ref name="toku10"/><ref name="naka4"/>。この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた<ref name="juro1"/>。
 
 
=== バルコニーで演説 ===
 
部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した<ref name="date1"/><ref name="date2"/>。中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった<ref name="inose4"/>。彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた<ref name="juro1"/><ref name="inose4"/><ref name="toku10"/>。
 
 
11時55分頃、[[鉢巻]]に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「[[檄 (三島由紀夫)|檄]]」を多数撒布し、要求項目を墨書きした[[垂れ幕]]を総監室前[[バルコニー]]上から垂らした<ref name="toku10"/>。自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった<ref name="toku10"/>。前庭には、[[ジュラルミン]]の[[盾]]を持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた<ref name="naka4"/><ref name="s-nen7">「第七章 昭和45年11月25日」({{Harvnb|年表|1990|pp=219-228}})</ref>。
 
 
なお当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった<ref name="hosa1"/><ref name="s-nen7"/>。不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、[[ピストル]]で制止された<ref name="hosa1"/><ref name="s-nen7"/>。
 
 
[[正午]]を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った<ref name="inose4"/><ref name="ando4"/>{{refnest|group="注釈"|このバルコニーは、かつて[[太田道灌]]が[[江戸城]]防衛のために[[展望台]]を置いた所でもある<ref name="juro1"/>。}}。日本刀が見えたのは一瞬のことだった<ref name="inose4"/>。三島の頭には、「'''七生報國'''」(七たび生まれ変わっても、[[朝敵]]を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた[[日の丸]]の鉢巻が巻かれていた<ref name="inose4"/><ref name="ando4"/>。右背後には同じ鉢巻の森田が[[仁王]]立ちし、正面を凝視していた<ref name="naka4"/>。
 
 
「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた<ref name="juro1"/>。〈日本を守る〉ための〈健軍の本義〉に立ち返れという[[憲法改正]]の[[クーデター|決起]]を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった<ref name="enze">「無題」(市ヶ谷駐屯地にて演説 1970年11月25日)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=682-683}}、{{Harvnb|日録|1996|pp=418-420}}、{{Harvnb|小室|1985|pp=186-189}}、{{Cite web|url=http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html|title=三島由紀夫演説文|accessdate=2015-10-07}}</ref><ref name="geki">「[[檄 (三島由紀夫)|檄]]」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=402-406}}、{{Harvnb|保阪|2001|pp=18-25}}</ref>。上空には、早くも異変を聞きつけた[[マスコミュニケーション|マスコミ]]の[[ヘリコプター]]が騒音を出し、何台も旋回していた<ref name="inose4"/><ref name="s-nen7"/>。
 
{{Quotation|おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただ[[アメリカ軍|アメリカの軍隊]]になってしまうんだぞ。(中略)<br />おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は[[武士]]だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。|三島由紀夫、バルコニーにて<ref name="enze"/>{{refnest|group="注釈"|「檄文」では、自分を否定する憲法にぺこぺこする自衛官たちを〈自ら[[冒瀆]]する者〉と表現されている<ref name="geki"/>。}}}}
 
 
自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした<ref name="inose4"/><ref name="juro1"/>。「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と[[野次]]が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した<ref name="toku10"/><ref name="enze"/>。
 
 
その場にいたK陸曹は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている<ref name="juro1"/>{{refnest|group="注釈"| K陸曹はその当時の心境を以下のように述懐している。
 
{{Quotation|無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生の[[デモ]]の行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。| K陸曹の回想<ref name="juro1"/>}}}}。
 
 
三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気狂い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた<ref name="juro1"/>。予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた<ref name="azusa7"/>。三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている<ref name="naka4"/>。
 
 
演説を終えた三島は、最後に森田と共に[[皇居]]に向って、〈[[天皇陛下万歳]]!〉を三唱した。その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった<ref name="juro1"/>。この日、[[第32普通科連隊]]は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は[[東富士演習場]]に出かけて留守であった<ref name="inose4"/>。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた<ref name="inose4"/>。バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、どちらかといえば三島の想定した〈武士〉ではない隊員らであった<ref name="inose4"/>。
 
 
三島は[[神風連の乱|神風連]]の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、[[マイク]]を使用していなかった<ref name="toku10"/><ref name="ura3">「三、さむらい『三島由紀夫』と『楯の会』」({{Harvnb|松浦|2010|pp=59-144}})</ref>。マイクや[[拡声器]]を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった<ref name="toku10"/><ref name="higu4N">「第四章 その時、そしてこれから――四期 野田隆史」({{Harvnb|火群|2005|pp=169-172}})</ref>。三島は[[林房雄]]との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦った魂の意味を語っていた<ref name="taiwa">[[林房雄]]との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月。夏目書房、2002年3月増補再刊)。{{Harvnb|39巻|2004|pp=554-682}}</ref>{{refnest|group="注釈"|三島は楯の会の会員に、「人間が自分の話す言葉の真意を誤りなく伝え、相手に正確に理解してもらえる範囲は、せいぜい10人が限界だ」と、軍隊の最小単位の班が何故10人かという根拠の説明をし、話し手の表情・呼吸・息吹が聞き手に直接伝わる範囲の中で普通の肉声で話さない限り、話の真意はなかなか伝わらず、大勢を相手にして文明の利器のマイクを使って声を張り上げて演説すると、そこには必ず虚飾と誇張が入り、本質的に人の心を動かすことはできないという意味の話をしていた<ref name="ura3"/>。}}。
 
 
ちなみに、三島の演説をテレビで見ていた作家の[[野上弥生子]]は、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという<ref name="koji1">「最後の電話」(ポリタイア 1973年6月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=8-24}}、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=78-88}}</ref>。[[水木しげる]]は、『[[コミック昭和史]]』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫が[[武士道]]を強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で[[個人主義]][[享楽]]主義の傾向になっていたからだろう」としている<ref>[[水木しげる]]『[[コミック昭和史]] 第8巻』(講談社、1989年12月)p.15</ref>。
 
 
事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていた[[サンデー毎日]]記者・[[徳岡孝夫]]とNHK記者・[[伊達宗克]]は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた<ref name="toku10"/>。それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった<ref name="toku10"/>。徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた<ref name="toku10"/>。
 
 
前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし<ref name="toku10"/>、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている<ref name="arekara">[[徳岡孝夫]]「”あの事件”から四十年――三島由紀夫と私(前編)」([[正論 (雑誌)|正論]]  2010年10月号)</ref>{{refnest|group="注釈"|[[徳岡孝夫]]は、演説を聞き取れる範囲で書き残したメモを、三島から託された手紙・写真と共に、と銀行の貸金庫に保管しているという<ref name="arekara"/>。}}。
 
 
なお、この演説の全容を録音できたのは[[文化放送]]だけだった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉と自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を良好に録音することに成功し、スクープとなったという<ref name="toku10"/>{{refnest|group="注釈"|文化放送で、この事件を担当した若手記者・[[三木明博]]は、その後同社の社長に就任している。}}。文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。
 
 
=== 割腹自決へ ===
 
12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた<ref name="date6">「『死ぬことはやさしい』■第六回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=117-122}})</ref>。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した<ref name="date5">「国を思う純粋な心に ■第五回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=109-116}})</ref><ref name="date6"/><ref name="naka4"/>。
 
 
三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した<ref name="naka4"/>。そして、総監から約3メートル離れた赤[[絨毯]]の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち<ref name="date1"/><ref name="date5"/>、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした<ref name="mochi4">「第四章 三島事件前後の真相」({{Harvnb|持丸|2010|pp=125-190}})</ref><ref name="ando4"/>。
 
 
割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した<ref name="azusa7"/><ref name="ando4"/>。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した<ref name="date6"/><ref name="ando4"/><ref name="inose4"/>。
 
 
左後方に立った[[介錯人]]の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた<ref name="date5"/><ref name="inose4"/><ref name="kure">[[呉智英]]「『本気』の時代の終焉」({{Harvnb|中条|2005|pp=188-203}})</ref>。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした<ref name="date5"/><ref name="date16">「非常の連帯 ■第十六回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=245-270}})</ref><ref name="naka4"/>。総監は、「やめなさい」「[[介錯]]するな、とどめを刺すな」と叫んだ<ref name="date5"/>{{refnest|group="注釈"|この時、介錯を三度失敗したことで、刀先がS字型に曲がってしまったとも言われる<ref name="juro4">「第四章 『楯の会』と『自衛隊』」({{Harvnb|再訂|2005|pp=157-184}})</ref>。}}。
 
 
介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した<ref name="naka4"/>。最後に小賀が、三島の握っていた短刀で首の皮を胴体から切り離した<ref name="date16"/><ref name="naka4"/>。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた<ref name="date2"/>。
 
 
続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した<ref name="date6"/>。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた<ref name="date2"/><ref name="date6"/>。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「[[自首]]したらどうか」と声をかけた<ref name="date5"/>。
 
 
3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた<ref name="date5"/>。三島と森田の首の前で[[合掌]]し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した<ref name="date6"/>。
 
 
12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た<ref name="date2"/><ref name="naka4"/>。3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で[[牛込警察署]]員に現行犯[[逮捕]]された<ref name="toku10"/><ref name="naka4"/>。警察の温情からか3人に[[手錠]]はかけられなかった<ref name="mura5">「第五章 三島・森田蹶起と日本の運命」({{Harvnb|村田|2015|pp=223-286}})</ref>。群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した<ref name="botsu1">「三島裁判に思う」({{Harvnb|梓・続|1974|pp=5-72}})</ref>。
 
 
12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した<ref name="hosa1"/>。現場の総監室に一歩遅れて警視庁から駆けつけた警務部参事官兼人事第一課長・[[佐々淳行]]は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を、「足元の[[絨毯]]がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している<ref>[[佐々淳行]]「そのとき、私は……」([[諸君!]] 1999年12月号)。{{Harvnb|彰彦|2015|pp=226-227}}</ref>。
 
 
人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った<ref name="date5"/>。
 
 
現場の押収品の中に、[[辞世の句]]が書かれた[[短冊]]が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった<ref name="date3"/>。
 
{{Quotation|益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の[[初霜]]<br />
 
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ[[花]]と 吹く小夜嵐|三島由紀夫}}
 
{{Quotation|今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは [[台風|野分]]のみかは|森田必勝}}
 
{{Quotation|火と燃ゆる [[大和]]心を はるかなる 大みこころの 見そなはすまで|小賀正義}}
 
{{Quotation|[[雲]]をらび しら[[雪]]さやぐ [[富士山|富士]]の根の 歌の心ぞ [[もののふ]]の道|小川正洋}}
 
{{Quotation|[[獅子]]となり [[虎]]となりても 国のため ますらをぶりも [[神]]のまにまに|古賀浩靖}}
 
 
三島由紀夫(本名・平岡公威)は享年45。森田必勝は享年25、自分の名を「'''まさかつ'''」でなく、「'''ひっしょう'''」と呼ぶことを好んだという<ref name="naka4"/>。
 
 
=== 当日の余波 ===
 
市ヶ谷会館の中で、警察官や機動隊の監視下に置かれていた楯の会会員30人中、森田と同じ班の者たちは事件を知って動揺し、「(現場に)行かせろ」と激しく抵抗して3名が[[公務執行妨害]]で逮捕された<ref name="hosa1"/><ref name="s-nen7"/>。会館に残された会員たちは、[[任意同行]]を求められ、整列して「[[君が代]]」を斉唱した後、四谷署に連れて行かれた<ref name="hosa1"/>。
 
 
12時30分過ぎ、総監部内に設けられた記者会見場では、開口一番、2人が自決した模様と伝える警視庁の係官と、矢継ぎ早に生死を質問する新聞記者たちとの興奮したやり取りが交わされ始めた<ref name="hosa1"/>。2人の首がはねられたことを初めて知った記者たちの間からは、うめき声が洩れ、どよめきが広がった<ref name="hosa1"/>。
 
 
吉松1佐も記者たちの前で一部始終を説明した。切腹、介錯という信じがたい状況を記者たちは何度も確認し、「つまり首と胴が離れたんですか」と1人が大声で叫ぶように質問すると、吉松1佐はそのままオウム返しで肯定した<ref name="toku10"/>。もはや聞くべきことがなくなった記者たちはそれぞれ足早に外へ散っていった<ref name="toku10"/>。
 
 
多方面で活躍し、[[ノーベル文学賞]]候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決の衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では[[号外]]が配られた<ref name="s-nen7"/><ref name="hosa1"/><ref name="ando4"/><ref name="toku11">「第十一章 死後」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=238-269}})</ref>。番組は急遽、特別番組に変更され、文化人など識者の電話による討論なども行われた<ref name="s-nen8">「第八章」({{Harvnb|年表|1990|pp=229-245}})</ref>。市ヶ谷駐屯地の前には、9つあまりの[[右翼団体]]が続々と押し寄せた<ref name="date1"/>。
 
 
12時30分から防衛庁で記者会見を開いた[[中曽根康弘]]防衛庁長官は、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊する」ものと批判した。官邸でニュースを知った[[佐藤栄作]]首相も記者団に囲まれ、「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントした<ref name="toku10"/><ref name="s-nen8"/>。両人はそれまで、三島の自衛隊体験入隊を自衛隊PRの好材料として好意的に見ていたが、事件後は政治家としての立場で発言した<ref name="komu5">「第五章 自決の背景」({{Harvnb|小室|1985|pp=121-198}})</ref>。
 
 
釈放された益田総監が自衛官たちの前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いた<ref name="juro1"/>。その場で取材していた[[東京新聞]]の記者は、その光景になんとも我慢できないものを感じたとし、その「軍隊」らしくない集団の態度への違和感を新聞コラムに綴った<ref name="juro1"/>。
 
{{Quotation|三島の自決に対する追悼ではもちろんない。[[民主主義]]に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、[[サラリーマン]]の団結心といったところだろうか。<br />残された隊員へ、マイクで指示が出た。「みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください」と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態。|東京新聞コラム(昭和45年11月25日)<ref name="juro1"/>}}
 
 
テレビの正午のニュースで息子の事件を知り注視していた三島の父・[[平岡梓]]は、速報のテロップで流れた「介錯」「死亡」の字を「介抱」と見間違え、なぜ介抱されたのに死んだのだろうと医者を恨み動転していた<ref name="azusa1">「第一章」({{Harvnb|梓|1996|pp=7-30}})</ref>。そのうち、外出先で事態を知った母・[[平岡倭文重|倭文重]]や妻・[[平岡瑤子|瑤子]]が緊急帰宅し、一家は「青天の霹靂」の混乱状態となった<ref name="azusa1"/>。
 
 
13時20分頃、三島と親しい[[川端康成]]が総監部に駆けつけたが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった<ref>[[川端康成]]「三島由紀夫」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|群像18|1990|pp=229-231}}、{{Harvnb|評論1|1982|pp=615-619}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=215-218}}</ref>。呆然と憔悴した面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった――もったいない死に方をしたものです」と答えた<ref>川端康成([[朝日新聞]] 11月26日号、[[週刊サンケイ]] 1970年12月31日号)。{{Harvnb|再訂|2005|p=57}}、{{Harvnb|保阪|2001|p=86}}</ref>。[[石原慎太郎]](当時[[参議院]]議員)も現場を訪れたが、入室はしなかったという<ref>[[石原慎太郎]]「三島由紀夫の日蝕――その栄光と陶酔の虚構」({{Harvnb|没後20|1990|pp=116-181}})。{{Harvnb|石原|1991}}</ref>。
 
 
14時、警視庁は牛込署内に、「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置した<ref name="juro1"/>。自衛隊の最高幹部の1人は、「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ」とこの日の感想を結んだ<ref name="juro1"/>。
 
 
演説を見ていたK 陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語り、幕僚3佐のTも、「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた<ref name="juro1"/>。
 
 
17時15分、三島と森田の首は検視のため一つずつビニール袋に入れられ、胴体は[[柩]]に収められて、市ヶ谷駐屯地を出て牛込署に移送され、遺体は署内に安置された<ref name="ando4"/><ref name="nen25">「年譜 昭和45年11月25日-12月」{{Harvnb|42巻|2005|pp=330-334}}</ref>。署には[[民族派学生組織|民族派学生]]たち右翼団体が弔問に訪れ、仮の祭壇が設けられたが、すぐに撤去された<ref name="nen25"/><ref name="date1"/>。
 
 
22時過ぎ、警視庁は三島邸や森田のアパートの家宅捜索を開始し、三島の家は、翌日の午前4時頃まで捜索された<ref name="nen25"/><ref name="nich25">「昭和45年11月25日」({{Harvnb|日録|1996|pp=412-422}})</ref>。三島邸の閉ざされた門の前の路上には、多くの報道陣が密集し、その後方には、三島ファンの女学生が肩を抱き合い泣く姿が見られ、詰襟の学生服を着た民族派学生の一団が直立不動の姿勢で頬を濡らし、嗚咽をこらえて長い時間立っていたという<ref name="juro1"/>。
 
 
=== 検視・物証・逮捕容疑 ===
 
翌日の11月26日の午前11時20分から13時25分まで、[[慶応義塾大学病院]][[法医学]][[解剖]]室にて、三島の遺体を斎藤銀次郎教授、森田の遺体を船尾忠孝教授が解剖執刀した。その検視によると、2人の死因は、「頸部割創による離断」で、以下の所見となった<ref name="toku10"/><ref name="nich26">「没後」({{Harvnb|日録|1996|pp=423-426}})</ref><ref name="juro4"/>。
 
{{Quotation|三島由紀夫:<br />
 
頸部は3回の切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は[[小腸]]に達し、左から右へ真一文字。身長163センチ。45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。脳の重さ1440グラム。血液A型。<br />
 
 
森田必勝:<br />
 
第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。身長167センチ。若いきれいな体。|解剖所見(昭和45年11月26日)}}
 
 
三島は、小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという<ref name="inose4"/>。また一太刀が顎に当たり[[大臼歯]]が砕け、[[舌]]を噛み切ろうとしていたとされる<ref name="inose4"/>。
 
 
介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた<ref name="juro4"/><ref name="ando4"/>。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である[[渋谷]]の大盛堂書店社長・[[舩坂弘]]が牛込警察署で確認した<ref name="azusa1"/><ref name="funa">[[舩坂弘]]『関ノ孫六――三島由紀夫、その死の秘密』([[光文社]][[カッパ・ブックス]]、1973年)。{{Harvnb|岡山|2014|p=105}}</ref>。
 
 
刀剣鑑定の専門家・渡部真吾樹は、この刀の刀紋は「三本杉」でなく、「互の目乱れ」だとし、刀の地もかなり柔らかく、関孫六の鍛え方とは違うと鑑定した<ref name="date8">「関の孫六の刃こぼれ ■第八回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=151-156}})</ref>。他にも、この刀が本物の関孫六ではないとする専門家の断言や、刀の出所調査もあり、三島が贋物をつかまされていたという説は根強くある<ref name="gai19">「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」({{Harvnb|岡山|2014|pp=103-108}})</ref>。
 
 
小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の所持品には、三島が3名に渡した「命令書」と現金3万円ずつ([[弁護士]]費用)、[[特殊警棒]]各自1本ずつ、[[登山ナイフ]]などがあった<ref name="juro4"/>。小賀への命令書には主に、以下の文言が書かれてあった。
 
{{Quotation|君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。<br />今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。<br />三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。|三島由紀夫「命令書」<ref>「命令書」(昭和45年11月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=678-679}}、{{Harvnb|再訂|2005|p=236}}</ref>}}
 
 
小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、[[嘱託殺人]]、[[逮捕・監禁罪|不法監禁]]、[[傷害罪|傷害]]、[[暴行罪|暴力行為]]、[[建造物侵入]]、[[銃刀法違反]]の6つの[[容疑]]で、11月27日に[[送検]]され<ref name="date1"/><ref name="nen25"/>、その後12月17日に、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、[[公務の執行を妨害する罪|職務強要]]の5つの罪で[[起訴]]された<ref name="nen25"/>。
 
 
== 事件後 ==
 
=== 各所の反響・論調 ===
 
==== 自衛隊・防衛庁 ====
 
事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのか[[キク|菊]]の花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた<ref name="juro5">「第五章 三島事件の波紋」({{Harvnb|再訂|2005|pp=185-215}})</ref>。その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、[[防衛庁]]をあわてさせたという<ref name="juro5"/>。
 
 
三島と対談したことのある[[防衛大学校]]長・[[猪木正道]]は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した<ref name="inoki">[[猪木正道]]『国を守る』([[実業之日本社]]、1972年)</ref>。
 
 
その後、三島と楯の会が体験入隊していた[[陸上自衛隊富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]には、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された<ref name="komu5"/><ref name="yama13">「あとがき」({{Harvnb|山本|1980|pp=290-298}})</ref>。碑には、「'''深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々''' 公威書」という三島の句が刻まれた<ref name="komu5"/><ref name="yama13"/>。
 
 
警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部に[[事情聴取]]すると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという<ref name="yama12">「XII 果てしなき民坊への道」({{Harvnb|山本|1980|pp=267-289}})</ref>。楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた[[山本舜勝]]1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった<ref name="yama12"/>{{refnest|group="注釈"|三島自決の3年後、市ヶ谷のとある企業の参与となった山本舜勝を[[持丸博]]が訪ね、「山本さん、いい悪いは別にして、三島先生があのような事件を起こしたのは、あなたに刺激されたせいかもしれませんよ」と言うと、山本は下を向いたまま、「寝覚めが悪い。いまは三島さんの霊を慰めながら、[[俳句]]三昧の生活をしている」と答えたという<ref name="hosa4">「第四章 邂逅、そして離別」({{Harvnb|保阪|2001|pp=189-240}})</ref>。}}。
 
 
12月22日、東部方面総監・[[益田兼利]][[中将|陸将]]が事件の全責任をとって辞職した<ref name="nen25"/>。この際、益田総監と[[中曽根康弘]]防衛庁長官が膝詰め談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額が退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる<ref name="terao"/>。
 
 
三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」とし<ref name="terao"/>、歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根だけで、「'''[[風見鶏]]'''」さながら渡り歩いて[[総理大臣]]にまで登りつめた後、「憲法改正ができないので〈専守防衛〉という〈政治的捏造語〉を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化して」きたと唾棄している<ref name="terao"/>{{refnest|group="注釈"|寺尾克美は、後年自衛隊を退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える[[日本会議]]の活動家となった<ref name="terao"/>。}}。
 
 
事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官の服務の宣誓文に「'''日本国憲法及び法令を遵守し'''」という文言を防衛庁[[内局]]が密かに挿入した<ref name="mura5"/>。この文言は、それまで[[国家公務員]]([[日本の警察官|警察官]]他)の宣誓文だけに書かれ、さすがに自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在は違憲だから)、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため)、挿入することになった<ref name="mura5"/>。
 
 
==== 新聞社説・海外 ====
 
事件に対する主要な新聞各紙の論調は、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[読売新聞]]がほぼ一様に、当日の[[中曽根康弘]]防衛庁長官や[[佐藤栄作]]首相のコメントを踏襲するような論調で、三島の行動を、狂気の暴走と捉え、反[[民主主義]]的な行動は断じて許されないという主旨のものであった<ref name="toku11"/><ref name="hosa1"/><ref name="s-nen8"/>。
 
 
[[ワシントンD.C.|ワシントン]]からは、「[[軍国主義]]復活の恐れ」、[[ロンドン]]からは「[[右翼]]を刺激することが心配」、[[パリ]]からは「知名人の行動に驚き」といった打電だった<ref name="toku11"/>。
 
 
アメリカの[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]の社説は、「三島の自決を日本軍国主義復活のきざしとみなすことはむずかしい。それにもかかわらず、三島自決の意味はよく検討するに値するほど重大である」と論じ<ref name="date17">「春の嵐 ■第十七回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=271-304}})</ref>、イギリスの[[フィナンシャル・タイムズ]]は、「たとえ気違いだろうと正気だろうと、彼(三島)の示した手本は、日本の少数の若者たちにとって、現在、将来を通じ、強い影響力を持つことになるだろう」とした<ref name="date17"/>。
 
 
[[ドイツ]]の[[ディ・ヴェルト]]は、「[[詩人]]精神の純粋さに殉じてハラキリを行う」と報じた<ref name="date17"/>。[[フランス]]のレクスプレスは、「憂うべき日本の現状を昔に戻せと唱えて割腹した」と報じ、[[ル・モンド]]は、「三島の自刃は偽善を告発するためのものである」と論じた<ref name="date17"/>。
 
 
[[オーストラリア]]のフィナンシャル・レビューは、「三島の死を、日本に多い[[超国家主義]]や[[暴力団]]と結びつけるのは、単に三島に対する誤解のみならず、近代日本に対する誤解でもある」として、「伝統的文化と近代社会の間にある構造的な相剋の中に、真の美を追求し、死にまで至った彼の[[悲劇]]は、彼自身の作品のように完璧な域にまで構成されている」と論じた<ref name="date17"/>。
 
 
[[ヘンリー・ミラー]]は、「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」と問いかけ、以下のように語った<ref name="mill">[[ヘンリー・ミラー]]「特別寄稿」([[週刊ポスト]])。{{Harvnb|小室|1985|pp=194-195}}</ref>。
 
{{Quotation|かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。[[アレキサンドロス]]大王も、[[ナポレオン]]も、[[仏陀]]も、[[イエス・キリスト|イエス]]も、[[ソクラテス]]も、[[マルキオン]]も、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく[[原子爆弾]]が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。|ヘンリー・ミラー「特別寄稿」<ref name="mill"/>}}
 
 
[[ヘンリー・スコット=ストークス]]は、三島を「日本人のうちでは最も重要な人物」とし、それまで自民党の幹部たちが私的な場所でだけ意見交換していた国防問題・政治論争のすべてを、敢然として「公開の席に持ちだした」ことで注目に値するとして、なぜ、それが今まで日本の職業政治家たちに出来なかったのかと指摘した<ref name="henr">[[ヘンリー・スコット=ストークス]]「ミシマは偉大だったか」(諸君! 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}</ref>。
 
{{Quotation|(日本は)国防の問題を[[トランプ]]遊びか[[ポーカー]]の勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人はほとんどあるまい。(中略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。|ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大だったか」<ref name="henr"/>}}
 
 
[[エドワード・G・サイデンステッカー]]は、新聞記者らから「三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか」と問われ、直感的に「ノー」と答えた理由を以下のようにコメントした<ref name="edow">[[エドワード・G・サイデンステッカー]](時事評論 1971年4月20日号)。{{Harvnb|裁判|1972|pp=299-300}}</ref>。
 
{{Quotation|たぶん、いつの日か、国が平和とか、[[国民総生産]]とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい[[国家]]意識の[[守護神]]と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味で[[アルベルト・シュヴァイツァー|シュバイツァー]]的生涯だった。|エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」<ref name="edow"/>}}
 
 
[[ドナルド・キーン]]は、「私は佐藤首相が三島の行動を狂気と言ったのが間違いであることを知っている。それ(三島の行動)は論理的に構成された不可避のものであった。(中略)世界は大作家を失ったのである」と語った<ref>[[ドナルド・キーン]](時事評論 1971年4月20日号)。{{Harvnb|裁判|1972|p=300}}</ref>。
 
 
==== 新左翼 ====
 
三島と討論会を行なったことのある[[東京大学|東大]][[全共闘]]は、[[駒場 (目黒区)|駒場]]キャンパスで「三島由紀夫追悼」の垂れ幕で弔意を示し、[[京都大学]]などでも、「悼 三島由紀夫割腹」の垂れ幕で追悼した<ref name="nich26"/><ref name="hosa1"/>。
 
 
京都大学[[パルチザン]]指揮者の[[滝田修]]は、「われわれ[[左翼]]の思想的敗退です。あそこまでからだを張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転したね。新左翼の側にも何人もの"三島"を作られねばならん」とコメントした<ref name="nich26"/><ref name="hosa1"/>。
 
 
新左翼有力党派の幹部は、三島と自分たちの違いを強調し、「われわれは三島の“死の[[美学]]”に対して、“生の[[哲学]]”でいきます。死ねば何かができるというものではないですから。でも死ぬことを避けるというのではありませんよ。われわれが死ぬときは、殺されて死ぬのです」と語った<ref name="hosa1"/>。
 
 
==== 作家・文化人 ====
 
三島と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」と捉えた<ref name="hosa1"/>。三島と異なる思想傾向の作家らも、三島が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、現場での[[川端康成]]のコメントのように、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった<ref name="hosa1"/><ref name="s-nen8"/>。その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島の行動を「錯誤の愚行」と批判する[[山田宗睦]]などの評論家や<ref>[[山田宗睦]]([[週刊現代]] 1970年12月12日号)。{{Harvnb|保阪|2001|pp=88-89}}</ref>、軍国主義化を警戒する[[野間宏]]のような、当時の戦後文化人の一般的意見を反映するものも多かった<ref>[[野間宏]]「錯誤にみちた文学・政治の短絡」([[朝日ジャーナル]] 1970年12月6日号)。{{Harvnb|保阪|2001|p=89}}</ref><ref name="hosa1"/>。
 
 
[[司馬遼太郎]]は、三島の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした<ref>[[司馬遼太郎]]「異常な三島事件に接して」([[毎日新聞]] 1970年11月26日号)。{{Harvnb|徳岡|1999|p=290}}</ref>{{refnest|group="注釈"|しかし、そんな[[司馬遼太郎]]も自身の晩年には、三島の予言と同じように、[[バブル期]]から平成時代の日本人の拝金主義や倫理喪失をしきりに嘆いて憂うようになった<ref name="toku11"/>。}}。
 
 
[[中野重治]]は、「佐藤も中曽根も、こんどの『楯の会』を前髪でつかんだ」とし、三島事件を「狂気」化することにより、逆に自衛隊が合理的理性的なもの、市民的常識に違反しない非暴力集団かのような印象を社会に喧伝する機会として政治家が利用したと批判した<ref>[[中野重治]](週刊現代 1970年12月12日号)。{{Harvnb|保阪|2001|pp=89-90}}</ref>。
 
 
[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]は、「右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれる」とし、事件について様々な「講釈」を垂れ批判する人間には、「事件を抽象的事件として感受し直知する事」が容易でないとした<ref name="koba">[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]「感想」({{Harvnb|臨時|1971}}){{Harvnb|読本|1983|pp=56-57}}</ref>。
 
{{Quotation|実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。事件が、わが国の歴史とか[[伝統]]とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。さうでなければ、どうして確かに他人であり、[[孤独]]でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。|小林秀雄「感想」<ref name="koba"/>}}
 
 
[[村松剛]]は、作家としての地位も家族にも恵まれ、生きていれば、いずれ[[ノーベル文学賞]]受賞する可能性が多いにあった三島が、その全てを押し切って行動した意義を、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」とし<ref>[[村松剛]]「市谷台上の諌死」(週刊時事 1970年12月26日号)。{{Harvnb|保阪|2001|p=81}}</ref>、[[林房雄]]も追悼集会で、三島が、自衛隊を本来の「名誉ある国軍」に帰れと呼びかけ、「死をもって反省を促した」諌死だとした<ref name="hosa1"/>。
 
 
[[橋川文三]]は、三島の戦前からの精神史を踏まえた上で、三島の「狂い死」を、[[高山彦九郎]]、[[神風連]]、[[横山安武]]、[[相沢三郎]]や、「無名のテロリスト」の[[朝日平吾]]や[[中岡艮一]]と同じように位置づけた<ref>「狂い死の思想」(朝日新聞 1970年11月26日号)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=132-134}}</ref>。少年時代の三島に影響を与えた[[保田與重郎]]は、「森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらにかなしい」<ref>[[保田與重郎]]「眼裏の太陽」([[新潮]] 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}</ref>、「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段どりをつけたのである」と哀悼し以下のように語った<ref name="shigure">保田與重郎「天の時雨」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|福田|1996|pp=167-192}}</ref>。
 
{{Quotation|怖れた者は狂と云ひ、不安の者は暴といひ、またゆきづまりといひ、壁に頭を自らうちつけたものといつたりしてゐる。想像や比較を絶した事件として、国中のみならず世界に怖ろしい血なまぐさい衝動を与へた点、近来の歴史上類例がない。その特異を識別することは怖れをともなふ故に、それを無意識にさけて、政論的類型的に判断する者は、特異のふくんでゐる[[創造]]性や[[未来]]性や[[革命]]性に恐れる、現状の自己保全に処世してゐる者らである。創造性以下のことばは、[[イデオロギー]]や所謂思想と無縁の人の[[生命]]の威力そのものである。|保田與重郎「天の時雨」<ref name="shigure"/>}}
 
 
[[高橋和巳]]は、三島と思想的立場は違いながらも、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」、「もし三島由紀夫氏の[[霊]]にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した<ref>[[高橋和巳]]「果敢な敵の死悲し」([[サンケイ新聞]] 1970年11月26日号)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=130-131}}</ref>。[[武田泰淳]]は、「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません」とコメントし<ref>[[武田泰淳]](週刊現代 1970年12月12日号)。{{Harvnb|年表|1990|pp=230-231}}、{{Harvnb|保阪|2001|p=86}}</ref>、[[大岡昇平]]は、「ほかにやり方はなかったものか。……なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と無念さを表明した<ref>[[大岡昇平]]「生き残った者への証言」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1972年2月号)。{{Harvnb|保阪|2001|p=86}}</ref>。
 
 
[[中井英夫]]は、三島の死を短絡的に異常者扱いする風潮を批判し、「ただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか」と嘆いた<ref>[[中井英夫]]「ケンタウロスの嘆き」(潮 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}</ref>。[[森茉莉]]は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った<ref name="mari">[[森茉莉]]「気ちがいはどっち?」(新潮 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}</ref>。
 
{{Quotation|現在、日本は、外国から一人前の[[国家]]として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。(中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。|森茉莉「気ちがいはどっち?」<ref name="mari"/>}}
 
 
[[石川淳]]は、天皇思想の三島が、「[[武士]]」という強い観念を持って[[剣術]]を始め、[[陽明学]]という行動哲学を持ったことが決定的であり、「ムダを承知」の死への跳躍となったのは、楯の会という「集団の組織」の一員となり「錬成の形式」を取ったことが大きいとし、「もはやたかが思想とはいえない。すでにして、思想は信念であって、組織は微小にしても、ともかく現実にはたらきかける力であった」と捉え、「わたしもまた発するにことばなく、感動に深く沈むばかりである」と追悼した<ref>[[石川淳]]「認識から行動への跳躍」(朝日新聞 1970年12月24日号)。{{Harvnb|徳岡|1999|p=298-299}}</ref>。
 
 
[[吉本隆明]]は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして語った<ref name="ryum">[[吉本隆明]]「暫定的メモ」(1971年2月)。{{Harvnb|読本|1983|pp=60-65}}</ref>。
 
{{Quotation|三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙な[[アマルガム]]が、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。|吉本隆明「暫定的メモ」<ref name="ryum"/>}}
 
 
[[磯田光一]]は、三島事件は、死後に浴びせられる様々な罵詈雑言や批判を知った上の行為であり、「戦後」という「ストイシズムを失った現実社会そのものに、徹底した[[復讐]]をすること」だったとし、三島にとって天皇とは、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものか」で、「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」だと捉えた<ref name="isote">「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」([[文學界]] 1971年3月号)。{{Harvnb|磯田|1979|pp=434-445}}</ref>。
 
{{Quotation|たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。|磯田光一「太陽神と鉄の悪意」<ref name="isote"/>}}
 
 
[[谷口雅春]]([[生長の家]]創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼している。また、事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であり、三島が事件直前の11月22日(谷口雅春の誕生日に当たる)に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる<ref>[[谷口雅春]]『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』[[日本教文社]]、1971, pp. 2-3</ref>。谷口は後に『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』を上梓し「この谷口だけは死のあの行為の意義を知っていてくれるだろうと、決行を伴にした青年たちに遺言のように言われたことを考えると、三島氏のあの自刃が如何なる精神的過程で行われ、如何なる意義をもつものであるかについて、私が理解し得ただけのことを三島氏の霊前に献げて、氏の霊の満足を願うことが私に負わされた義務のような気もするのである」と述べ、三島の自刃がクーデターではなく、後世の人々の為の自決であり、[[吉田松陰]]の処刑された日(旧暦の10月27日は西暦の11月25日に当たる)に合わせて計画したものであると語っている。
 
 
=== 葬儀・記念碑・裁判など ===
 
事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された。午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・[[平岡千之|千之]]に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された<ref name="azusa1"/><ref name="nen25"/>。森田の方は、そのまますぐに[[渋谷区]][[代々木]]の[[火葬場]]で[[荼毘]]に付された<ref name="nen25"/>。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している<ref name="naka5">「第五章 野分の後」({{Harvnb|彰彦|2015|pp=231-253}})</ref>。
 
 
15時30分過ぎ、病院から[[パトカー]]の先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。父・[[平岡梓|梓]]は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島が[[伊沢甲子麿]]に託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった<ref name="azusa1"/><ref name="date9">「武人としての死 ■第九回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=157-196}})</ref>。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に[[化粧]]しました」と施したものだった<ref name="azusa1"/>{{refnest|group="注釈"|この時、何人かの編集者がデスマスクを取ることを遺族に訊いたが、必要ないだろうという返事を受けて実行されなかった<ref name="mura43">「IV 行動者――訣別」({{Harvnb|村松|1990|pp=469-503}})</ref>。}}。
 
 
[[密葬]]には親族のほか、[[川端康成]]、伊沢甲子麿、[[村松剛]]、松浦竹夫、[[大岡昇平]]、[[石原慎太郎]]、[[村上兵衛]]、[[堤清二]]、[[増田貴光]]、[[徳岡孝夫]]などが弔問に訪れた<ref name="nen25"/><ref name="masu">[[増田貴光|増田元臣]]「美しい人間の本性」(月報{{Harvnb|34巻|2003}})</ref><ref name="toku11"/>。三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅の[[バラ|薔薇]]が外から投げ入れられていた<ref name="masu"/>{{refnest|group="注釈"|その光景を見た川端康成が、「薔薇って怖いね」と増田貴光の耳元で呟いたという<ref name="masu"/>。}}。愛用の原稿用紙と[[万年筆]]が棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。その時に母・[[平岡倭文重|倭文重]]は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った<ref name="mura43"/>{{refnest|group="注釈"|本当は、「公威さん、立派でしたよ」と倭文重は言いたかったが、周りのお客から芝居がかりと思われそうで躊躇してしまったのだという<ref name="boryu">[[平岡倭文重]]「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」([[新潮]] 1976年12月号)。{{Harvnb|村松|1990|p=503}}、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=193-204}}、{{Harvnb|年表|1990|pp=17,21,172,192}} </ref>。}}。三島の遺体は[[品川区]]の[[桐ヶ谷斎場]]で18時10分に荼毘に付された<ref name="azusa1"/>。
 
 
森田の[[通夜]]も18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。森田の[[戒名]]は「'''慈照院釈真徹必勝居士'''」<ref name="naka5"/><ref name="nich26"/>。この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた<ref name="higu4">「第四章 その時、そしてこれから」({{Harvnb|火群|2005|pp=111-188}})</ref>。[[三重県]][[四日市市]]の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日に[[カトリック教会|カトリック]]信者の兄・治の希望により海の星[[カトリック教会]]で営まれ、16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した<ref name="nen25"/>。
 
 
11月30日、三島の自宅で[[初七日]]の[[法要]]が営まれた。三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず[[神道|神]]式で、ただし平岡家としての式は[[仏教|仏]]式でもよい」としていた<ref name="azusa1"/>。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「'''彰武院文鑑公威居士'''」となった<ref name="azusa1"/>。
 
 
12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、[[林房雄]]を発起人総代とした実行委員会により、[[池袋]]の[[豊島公会堂]]で行われた。これが後に毎年恒例となる「[[憂国忌]]」の母胎である<ref name="yuko0-1">「プロローグ あれから四十年が経過した」「第一章『憂国忌』前史」{{Harvnb|憂国忌|2010|pp=15-56}}</ref>。司会は[[川内康範]]と[[藤島泰輔]]、実行委員は[[日本学生同盟]]などの[[民族派]]学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まった<ref name="nen25"/><ref name="yuko0-1"/>。
 
 
[[画像:Grave of Yukio Mishima.jpg|thumb|240px|<center>三島由紀夫の墓</center>]]
 
翌年[[1971年]](昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。大阪の[[サンケイホール]]では、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった<ref name="nen46">「年譜 昭和46年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=334-338}}</ref>。1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・[[平岡瑤子|瑤子]]がお詫びの挨拶回りに来た<ref name="terao"/><ref name="nen46"/>。
 
 
1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、[[府中市 (東京都)|府中市]][[多磨霊園]]の平岡家墓地(10区1種13側32番)に[[遺骨]]が埋葬された<ref name="azusa1"/><ref name="nen46"/>。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が[[転生]]のための[[中有]]の期間を定めたのではないかという説もある<ref>「第六章 三島由紀夫の遺言状」({{Harvnb|小室|1985|pp=199-230}})</ref>。
 
 
1月24日、13時から[[築地本願寺]]で葬儀、告別式が営まれた。[[喪主]]は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した<ref name="nen46"/>。[[安達瞳子]]のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた<ref name="nen46"/>。
 
 
弔辞は[[舟橋聖一]](持病のため途中から[[北条誠]]が代読)、[[武田泰淳]]、[[細江英公]]、[[佐藤亮一]]、[[村松英子]]、[[伊沢甲子麿]]、[[藤井浩明]]、[[出光佐三]]の8名が読んだ<ref name="nen46"/><ref name="s-nen8"/><ref name="eiko16-17">「三島先生の葬儀」「付記として」({{Harvnb|英子|2007|pp=131-145}})</ref>。演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた<ref name="eiko16-17"/><ref name="bijo4">「第四章 新劇女優 村松英子」({{Harvnb|岡山|2016|pp=135-174}})</ref>。
 
{{Quotation|先生が身をもって虚空に描き出された灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。私にとってかけがえのない師だった先生、先生の血潮は、絢爛と燃える夕映えの[[虹]]のように、日本の汚れた空を染め上げたのです。(中略)<br />いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。燃えたぎる[[情熱]]と冷徹な[[知性]]とを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。(中略)先生が身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えることなく、先生を愛惜し敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょう。ふつつかな私も、その輝きに忠実を誓うひとりでございます。どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。|[[村松英子]]「弔辞」<ref name="bijo4"/>}}
 
 
他の参列者は、[[藤島泰輔]]、[[篠山紀信]]、[[横尾忠則]]、[[黛敏郎]]、[[芥川比呂志]]、[[五味康祐]]、[[中村伸郎]]、[[野坂昭如]]、[[井上靖]]、[[中山正敏 (空手家)|中山正敏]]、徳岡孝夫などがいた<ref name="juro5"/><ref name="toku11"/>。[[イギリス]]の[[BBC]]放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した<ref name="juro5"/>。当時の首相[[佐藤栄作]]の[[佐藤寛子 (首相夫人)|寛子]]夫人も、[[ヘリコプター]]に乗り[[変装]]してでも参列したいと申し出ていたが、[[極左]]勢力が式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題で実現しなかった<ref name="eiko16-17"/>。
 
 
臨時の看護施設やトイレットカーが配備され、私服・制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけた<ref name="juro5"/><ref name="s-nen8"/>。中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗を立てて[[名古屋]]から会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった<ref name="juro5"/><ref name="s-nen8"/>。
 
 
1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士[[顕彰]][[碑]]」が[[松江日本大学高等学校]](現・[[立正大学淞南高等学校]])の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた<ref name="azusa6">「第六章」({{Harvnb|梓|1996|pp=206-232}})</ref><ref name="nen46"/>。碑には、「'''誠'''」「'''維新'''」「'''憂国'''」「'''改憲'''」の文字が刻まれた<ref name="azusa6"/>。
 
 
2月11日、三島の本籍地の[[兵庫県]][[加古川市]][[志方町]]の八幡神社境内で、地元の[[生長の家]]の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた<ref name="nich46">「昭和46年」({{Harvnb|日録|1996|pp=427-432}})</ref>。
 
 
2月28日、楯の会の解散式が[[西日暮里]]の[[神道]]禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した<ref name="naka5"/>。瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった<ref>伊藤好雄「召命――隊長三島の決起に取り残されて」([[大行社|大吼]] 2008年7月夏季号・第261号)。{{Harvnb|村田|2015|pp=292-298}}</ref>。倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉<ref name="kura">「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=495-496}}</ref>という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした<ref name="nen46"/>。三島が各班長らに渡し、皇居の[[済寧館]]に預けられていた日本刀は、瑤子夫人のはからいで、それぞれ班長に形見として渡された<ref name="higu4"/>。
 
 
3月23日、「楯の会事件」第1回[[公判]]が[[東京地方裁判所]]の701号法廷で開かれた。3被告の家族らと平岡梓、瑤子、遺言執行人の斎藤直一弁護士が傍聴した<ref name="date1"/>。裁判長は櫛淵理。陪席裁判官は石井義明、本井文夫。検事は石井和男、小山利男。主任弁護人は草鹿浅之介。弁護人は野村佐太男、酒井亨、林利男、江尻平八郎、大越譲であった<ref name="date1"/><ref name="s-nen8"/>。
 
 
第7回公判日の2日後の7月7日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3被告が[[保釈]]となった<ref name="date7">「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=123-150}})</ref>。犯罪事実を認め、証拠隠滅や逃亡の恐れがないため、17時に[[東京拘置所]]を出所した3人は瑤子夫人が出迎えられ、19時から[[赤坂プリンスホテル]]で記者会見を行なった<ref name="nen46"/><ref name="date7"/>。
 
 
9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づいた。翌日の9月21日、立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、[[遺骨]]が壷ごと紛失しているのを発見し、[[府中警察署 (東京都)|府中警察署]]に届け出た。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていた[[葉巻]]も元の状態であった<ref name="azusa6"/><ref name="nen46"/><ref name="s-nen8"/>。
 
 
11月25日、[[埼玉県]][[大宮市]](現・[[さいたま市]])の[[宮崎清隆]](元[[憲兵 (日本軍)|陸軍憲兵]]曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。[[揮毫]]は三島瑤子(平岡瑤子)。生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された<ref name="nen46"/>。同日、平岡家では神式の一年祭を[[丸の内]][[パレスホテル]]で行なった<ref name="azusa6"/><ref name="s-nen8"/>。
 
 
[[1972年]](昭和47年)4月27日、これまで17回の公判までに、中曽根康弘、村松剛、黛敏郎など多彩な人物が証人に立った「楯の会事件」裁判の第18回最終公判が開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名に[[懲役]]4年の[[実刑判決]]が下された<ref name="date18">「憂国と法理の接点 ■第十八回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=305-318}})</ref><ref name="s-nen8"/>。罪名は、「[[逮捕・監禁罪|監禁致傷]]、[[暴力行為等処罰ニ関スル法律]]違反、[[傷害罪|傷害]]、[[公務の執行を妨害する罪|職務強要]]、[[嘱託殺人]]」となった<ref name="date18"/>。
 
 
判決文の最後は「被告人らはよろしく、学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至るべきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」と締めくくられていた<ref name="date18"/>。
 
 
3人が刑期を終えて出所してから、元楯の会会員たちによる三島・森田の慰霊祭が始まった<ref name="higu4"/>。出所した古賀が[[国学院大学]]で神道を学んだ後、[[鶴見神社 (横浜市)|鶴見神社]]で[[神主]]の資格を取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった<ref name="higu4"/>。その後、元会員と平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た<ref name="higu4"/>。
 
 
[[1975年]](昭和50年)3月29日、三島と親交があり三島事件に強い共感を示していた[[村上一郎]]が、自宅で日本刀により自害した<ref name="hosa1"/>。
 
 
[[1977年]](昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄(1期生)と西尾俊一(4期生)が参加した[[経団連襲撃事件]]が起こった。瑤子夫人の説得により投降し終結した<ref name="mura6">「エピローグ その後の楯の会」({{Harvnb|村田|2015|pp=287-303}})</ref>。
 
 
[[1980年]](昭和55年)8月9日、三島が[[仲人]]を引き受けていた楯の会会員・倉持清(現・本多清)に宛てた遺書の全文が、朝日新聞で紹介された<ref name="nen55">「年譜 昭和55年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=347-348}}</ref><ref name="hosa0">「序章 十年目の遺書」({{Harvnb|保阪|2001|pp=27-56}})</ref>。同年11月24日、[[山本舜勝]]、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が市ヶ谷の私学会館で開催された<ref name="nen55"/>。
 
 
[[1999年]](平成11年)11月下旬と[[2000年]](平成12年)1月4日、三島が楯の会会員一同に宛てた遺書が新聞各紙に公開された<ref name="hosa7">「捕章 三十一年目の『事実』」({{Harvnb|保阪|2001|pp=323-344}})</ref><ref name="nenh12">「年譜 平成12年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=368-369}}</ref>。
 
 
== 三島由紀夫と自衛隊 ==
 
{{See also|三島由紀夫#自衛隊論}}
 
=== 昭和41年 ===
 
1965年(昭和40年)頃から自衛隊体験入隊希望を口にするようになっていた三島は、「[[昭和元禄]]」の真っ只中の[[1966年]](昭和41年)6月に短編『[[英霊の聲]]』を発表<ref name="hosa2">「第二章 三島由紀夫と青年群像」({{Harvnb|保阪|2001|pp=93-143}})</ref>。8月に長編『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』の取材のために[[奈良県]]の[[大神神社]]を訪れ、その足で[[広島県]][[江田島市|江田島]]の[[海上自衛隊第一術科学校]]などを見学。教育参考館で[[特別攻撃隊|特攻隊員]]の遺書を読んだ<ref>「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=612-614}}</ref><ref name="s-nen6">「第六章」({{Harvnb|年表|1990|pp=161-218}})</ref>。その後[[熊本県]]に渡り[[神風連の乱|神風連]]のゆかりの地([[新開大神宮]]、[[桜山神社 (熊本市)|桜山神社]]など)を取材して10万円の[[日本刀]]を購入する<ref name="araki">{{Harvnb|荒木|1971}}。 [http://melma.com/backnumber_149567_3656468/ 西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)]</ref><ref name="uchi2">「第二章 学習院という湖」({{Harvnb|島内|2010|pp=57-92}})</ref><ref name="gai19"/>。
 
 
三島は秋頃から民兵組織の構想を練り始め<ref name="sokoku">「祖国防衛隊はなぜ必要か?」(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=626-643}}</ref>、10月頃から[[防衛庁]]へ自衛隊体験入隊希望を打診したが断られ、橋渡しを[[毎日新聞社]]常務の[[狩野近雄]]に依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元[[陸将]]・[[藤原岩市]]などと接触して口利きを求めた<ref name="mura41">「IV 行動者――『狂気』の翼」({{Harvnb|村松|1990|pp=421-442}})</ref><ref name="ando4"/>。
 
 
12月19日、[[小澤開作|小沢開策]]から[[民族派]]雑誌の創刊準備をしている青年の話を聞いた[[林房雄]]の紹介で、万代潔([[平泉澄]]門人で[[明治学院大学]]卒)が三島宅を訪ねて来た<ref name="seinen">「青年について」(論争ジャーナル 1967年10月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=561-564}}</ref><ref name="haya17">「第十七章」({{Harvnb|林|1972|pp=233-247}})</ref><ref name="inose4"/>。また同月には、[[舩坂弘]]著『英霊の絶叫』(12月10日刊)の序文を書いた礼として、舩坂から日本刀・関孫六を寄贈されていた<ref name="funa"/><ref name="azusa1"/>。
 
 
=== 昭和42年 ===
 
[[1967年]](昭和42年)1月5日に民族派月刊雑誌『[[論争ジャーナル]]』が創刊され、11日に編集長・中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)と副編集長・万代潔の両人が揃って、寄稿依頼のために三島宅を訪問した{{refnest|group="注釈"|雑誌『[[論争ジャーナル]]』は、[[豊島区]]高田本町2-1467のビルの一室をオフィスとする育誠社から発刊された<ref name="naka2">「第二章 ノサップ」({{Harvnb|彰彦|2015|pp=71-136}})</ref>。}}。三島は無償で同誌に寄稿することにし、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた<ref name="kepp">[[持丸博]]「楯の会と論争ジャーナル」({{Harvnb|32巻|2003}}月報)</ref><ref name="nen42">「年譜 昭和42年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=287-294}}</ref>。
 
 
三島は2人の青年に、「『英霊の聲』を書いてから、俺には[[磯部浅一|磯部]]一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」と真剣な顔で言い、ある時は日本刀を抜いて、「刀というものは鑑賞するものではない。生きているものだ。この生きた刀によって、[[安保闘争|60年安保]]における[[知識人]]の欺瞞をえぐらなければならない」とも言った<ref>[[藤島泰輔]]『天皇・青年・死――三島由紀夫の死をめぐって』([[日本教文社]]、1973年)。{{Harvnb|保阪|2001|p=105}}</ref>。
 
 
1月27日には、万代らと同じ平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている[[日本学生同盟]](日学同)の[[持丸博]]([[早稲田大学]]生)も三島宅を訪問し、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した<ref name="mochi3">「第三章 『弱者天国』の時代に抗して」({{Harvnb|持丸|2010|pp=75-124}})</ref><ref name="naka2"/>。
 
 
この頃三島は、[[新潮社]]の担当編集者の[[小島千加子|小島喜久江]]に、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったという<ref name="koji1"/>。2月28日には、[[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と連名で、[[中国共産党|中共]]の[[文化大革命]]に抗議する声明の記者会見を行なった<ref name="s-nen6"/><ref>「[[文化大革命]]に関する声明」(東京新聞 1967年3月1日号)。{{Harvnb|36巻|2003|p=505}}</ref>。
 
 
3月、三島の自衛隊体験入隊許可が下り(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件付)、4月12日から5月27日までの46日間、単身で体験入隊する<ref name="mura41"/>。本名の「平岡公威」で入隊した三島は先ず、[[久留米市|久留米]]の[[陸上自衛隊幹部候補生学校]]隊付となった。4月19日に離校後、[[陸上自衛隊富士学校]]に赴き、山中踏破、[[山中湖]][[露営]]などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、菊地勝夫[[1尉]]の指導を受けた。5月11日以降は、[[レンジャー (陸上自衛隊)|レンジャー]]課程に所属した後、[[習志野市|習志野]][[第一空挺団]]に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した<ref>「自衛隊を体験する――46日間のひそかな“入隊”」([[サンデー毎日]] 1967年6月11日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=404-413}}</ref><ref name="shitsu">「三島帰郷兵に26の質問」(サンデー毎日 1967年6月11日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=414-422}}</ref><ref name="sugi1">「第一章 忍」({{Harvnb|杉山|2007|pp=8-71}})</ref>。
 
 
論争ジャーナル組、日学同の学生たちが、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を示した<ref name="naka2"/>。三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて、早稲田大学国防部(4月に結成)からの選抜協力を要請した<ref name="ando4"/>。こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が徐々に出来上がった<ref name="mura41"/><ref name="naka2"/>。
 
 
6月19日、[[六本木]]の[[喫茶店]]「ヴィクトリア」で行われた早稲田大学国防部代表との会見で、三島と[[森田必勝]](早稲田大学教育学部、日学同)は初めて顔を会わせ、早大国防部の自衛隊体験入隊の日程を決めた<ref name="mori2">「日誌二」({{Harvnb|必勝|2002|pp=89-142}})</ref>{{refnest|group="注釈"|「ヴィクトリア」の場所を、[[銀座]]8丁目とする出典もある<ref name="naka1">「第一章 名物学生」({{Harvnb|彰彦|2015|pp=9-70}})</ref>。}}。
 
 
7月2日から1週間、早大国防部13名が自衛隊[[北恵庭駐屯地]]で体験入隊。森田はその時の感想を、「それにしても自衛官の中で、[[大型自動車|大型]][[日本の運転免許|免許]]をとるためだとか、[[転職]]が有利だとか言っている連中の[[サラリーマン]]化現象は何とかならないのか」と綴り、自衛隊員が「[[日本国憲法|憲法]]について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた<ref name="mori2"/>。
 
 
8月、三島は国土防衛隊中核体となる青年を養成する具体的計画を固め、自衛隊体験入隊を定期的に実施するため、9月9日に、陸上自衛隊の[[重松恵三]]と面談した<ref>「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年8月25日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=455-457}}</ref><ref>「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年9月24日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=457-460}}</ref>。
 
 
10月、三島は小説『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』の取材で訪れた[[インド]]で、5日に[[インディラ・ガンディー]][[インドの歴代首相|首相]]、[[ザーキル・フセイン]][[インドの大統領|大統領]]、[[陸軍大佐]]と面会し、[[中国共産党|中共]]の脅威に対する日本の[[国防]]意識の欠如について危機感を抱く<ref name="indo">「インドの印象」(毎日新聞 1967年10月20日-21日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=585-594}}</ref><ref>「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年10月20日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=460}}</ref>。
 
{{Quotation|中共と[[国境]]を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に[[大砲]]が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。|三島由紀夫「インドの印象」<ref name="indo"/>}}
 
 
帰国後の11月、三島は、論争ジャーナルのメンバーと民兵組織「祖国防衛隊」の試案を討議し、祖国防衛隊構想[[パンフレット]]を作成し始めた<ref name="sokoku"/>。12月5日には、[[航空自衛隊]][[百里基地]]から[[F-104 (戦闘機)|F-104戦闘機]]に試乗した<ref>「F104」(文藝 1968年2月号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=570-580}}</ref><ref name="azusa5">「第五章」({{Harvnb|梓|1996|pp=165-205}})</ref>。12月末、祖国防衛隊構想パンフレットを、元上司・藤原岩市から見せられた[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長・[[山本舜勝]]1佐が、藤原の仲介で三島と会食した<ref name="yama3">「III 祖国防衛論」({{Harvnb|山本|1980|pp=46-72}}</ref>。
 
 
巷で[[ノーベル文学賞]]候補と騒がれている三島に対し、「[[作家|文士]]でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問う山本1佐に、三島は「もう書くことは捨てました。ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えた<ref name="yama3"/>。
 
 
この瞬間、山本1佐は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思ったと同時に、この人には[[大言壮語]]してはならぬと感じた<ref name="yama3"/>。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は[[都市ゲリラ]]の専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と言ったという<ref name="inose4"/>。
 
 
この頃、「祖国防衛隊」構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」と三島の私兵的なイメージに難色を示す日学同(斉藤英俊、[[宮崎正弘]])との間に亀裂が生じ始め、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]らが日学同を除籍となり、論争ジャーナル組に合流した<ref name="naka2"/>。持丸は三島と共に、雑誌『論争ジャーナル』の副編集長となった<ref name="naka2"/>。
 
 
=== 昭和43年 ===
 
[[1968年]](昭和43年)2月25日、銀座8丁目4-2の小鍛冶ビルの育誠社内の論争ジャーナル事務所において、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ [[大和]]男児ノ矜リトスル [[武士]]ノ心ヲ以テ [[皇国]]ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と三島が墨で大書し、各人が小指を剃刀で切って集めた血で署名し、三島は本名で“平岡公威”と記した<ref name="kepp"/><ref name="azusa5"/>。
 
 
その時に三島は、「血書しても紙は吹けば飛ぶようなものだ。しかし、ここで約束したことは永遠に生きる。みんなでこの血を呑みほそう」と、先ず自分が呑もうとして、「おい、この中で病気のある奴は手をあげろ」と皆を大笑いさせてから、全員で呑み合った<ref name="azusa5"/>。血には固まらないように[[塩]]を入れていた<ref name="ura3"/>。
 
 
3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島と[[陸上自衛隊富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]へ自衛隊体験入隊。直前に[[中央大学]]の5名がスト解除で参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた<ref name="nen43">「年譜 昭和43年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=294-303}}</ref><ref name="mochi4"/>。これに応じて森田必勝が1週間遅れで入隊した<ref name="mori2"/>。春休み帰省中に[[スキー]]で右足を骨折して治療中だったにもかかわらず、苦しい訓練に参加し頑張る森田の姿に三島は感心し注目した<ref name="mori2"/>。
 
 
3月30日、体験入隊が無事終了し、主任教官や隊員と「男の涙」の別れをした森田ら学生一行は貸し切りバスで[[大田区]]馬込東(現・[[南馬込]])の三島邸に向い、慰労会の夕食に招かれた<ref name="mori2"/>。1期生となった森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った<ref name="igom">{{Harvnb|宮崎|1999}}</ref><ref name="naka2"/>。それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あの一言には参った」と森田に告げた<ref name="igom"/><ref name="naka2"/>。森田はこの頃、[[北方地域|北方領土]]返還運動などに尽力していた<ref name="naka2"/><ref name="igom"/>。
 
 
三島は、祖国防衛隊構想に政財界の協力を得るため、[[与良ヱ]]に相談していたが、この頃から持丸博を通じ、[[桜田武]]([[日本経営者団体連盟]]代表[[常任理事]])らへの接触を始め、初面談を持った。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨を伝えた<ref>「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日、4月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=927-931}}</ref>。
 
 
4月上旬、[[堤清二]]の手配により、五十嵐九十九([[シャルル・ド・ゴール|ドゴール]]の制服担当)のデザインした制服が完成したのを祝し、三島は論争ジャーナル組から成る祖国防衛隊隊員らと共にその制服で[[青梅市]]の愛宕神社を参拝し、満開の桜吹雪の下で記念写真を撮った<ref name="kepp"/><ref name="ki4017">「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和43年4月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=463-464}}</ref><ref>現物写真は{{Harvnb|火群|2005|p=29}}</ref>。
 
 
同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談した。桜田は前回より理解を示し、民兵組織を「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置いて「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した<ref name="ki4017"/>。この頃、早稲田大学の校内には、「体験入隊募集」の看板が設置されるなど広く人材を求め、応募してきた学生を持丸が一次面接試験した<ref name="hosa2"/><ref name="mochi4"/>。
 
 
5月から、山本舜勝1佐による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、27日には、[[北朝鮮]][[工作員]]と思しき遺体が[[秋田県]][[能代市]]の浜浅内に漂流した「能代事件」(1963年4月)が扱われた<ref name="yama5">「V 祖国防衛隊の訓練」({{Harvnb|山本|1980|pp=93-118}}</ref>。この事件が何かの圧力で単なる[[密入国]]事件として処理され、うやむやのままとなったことを知った三島は、溺死体の写真をじっと見つめた後、「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」と激昂したという<ref name="yama5"/>。
 
 
6月1日、三島と中核要員は山本1佐の指導の下、市中で対ゲリラ戦略の総合演習(張り込み、潜入、尾行、変装など)を行なった<ref name="yama5"/>。労務者に成りすまして任務をこなし、誰にも見破られないように[[山谷 (東京都)|山谷]]の玉姫公園までたどり着いた三島の疲れ果てた真剣な姿に、山本1佐は深い感動を覚えたという<ref name="yama5"/>。同月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、森田必勝が初代議長に就任。三島は森田のため、この結成大会で祝辞を述べ[[万歳三唱]]し、デモの時もタクシーで随伴し、窓から森田を激励した<ref name="mori2"/><ref name="naka2"/>。
 
 
7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。この時に伊藤邦典の紹介で[[小賀正義]]と[[古賀浩靖]](共に[[神奈川大学]]生、[[全国学生自治体連絡協議会|全国学生協議会]])が参加し、2期生となった<ref name="higu1">「第一章 曙」({{Harvnb|火群|2005|pp=9-80}})</ref><ref name="hosa2"/>。
 
 
一方、桜田武(日経連)からの支援協力が結局は中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、[[私兵]]など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという)、三島のプライドはひどく傷つき、民兵組織を全て自費で賄うことにした<ref name="yama6">「VI 民防活動の目標模索」({{Harvnb|山本|1980|pp=119-149}}</ref>。
 
 
組織規模を縮小せざるをえなくなった祖国防衛隊は、隊の名称を[[万葉集]][[防人]]歌の「今日よりは 顧みなくて [[天皇|大君]]の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は」と、歌人・[[橘曙覧]]の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首にちなんだ「'''楯の会'''」と変えた。10月5日に[[虎ノ門]]の[[社会教育実践研究センター|国立教育会館]]で三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が「楯の会」の正式結成式が行われ、ある新聞がこれをスクープして伝えた<ref name="higu1"/><ref name="hosa3">「第三章 『楯の会』の結成」({{Harvnb|保阪|2001|pp=143-188}})</ref>。
 
 
10月21日の[[国際反戦デー]]の日、三島と楯の会会員、山本1佐と[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]の学生らは、[[日本の新左翼|新左翼]]デモ([[新宿騒乱]])の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織[[リーダー]]が誰かなどを調査した<ref name="yama6"/>。
 
 
[[火炎瓶]]の黒煙や催涙ガスが充満する中、三島は目を真っ赤に充血させながら身じろぎもせずに[[機動隊]]と[[全学連]]の攻防戦を見つめていた<ref name="yama6"/>。場所を銀座に移動し、交番の屋根の上から、石が飛び交う激しい市街戦を見ている三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、すぐ隣にいた山本1佐は気づいた<ref name="yama6"/>。
 
 
新左翼の暴動を鎮圧するための自衛隊[[治安出動]]の機会を予想した三島は、その時に楯の会が斬り込み隊として自衛隊の手が及ばないところを加勢し、それに乗じて自衛隊[[日本軍|国軍]]化・[[憲法9条]]改正を超[[法規]]的に実現する計画を構想し始めた<ref name="yama7">「VII 近目標・治安出動に燃える」({{Harvnb|山本|1980|pp=150-175}}</ref><ref name="mochi4"/><ref name="shiro">「素人防衛論」([[防衛大学校]]講演 1968年11月20日)。「防衛大学校最終講演全再録」(諸君! 2005年12月号)、{{Harvnb|補巻|2005}}、{{Harvnb|村田|2015|pp=46-47}}</ref>。この日の昼過ぎ、赤坂に設営していた拠点に一旦引き揚げた時、山本1佐が持参の[[ウィスキー]]を三島に勧めると、「えっ、なんですか。この事態に酒とは!」と憤然と席を立ち去ったという<ref name="yama6"/>。
 
 
騒乱の続く夜、会員たちを拠点に集結させた三島は、この日の総括の会をここで持ちたいと山本1佐に願い出た。まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言し、落胆した三島は会員たちを[[国立劇場]]へ移動させていった<ref name="yama6"/><ref name="hosa3"/>。
 
{{Quotation|治安出動イコール[[政治]]条件と私は考へても間違ひないと思ふ。でありますから、「撤兵しないぞ」と言はれたら、どんな政権もかなふ政権はないんです。だから、「ぢや、おまへ、撤兵するにはどうしたらいいんだ。撤兵してもらふにはどうしたらいいんだ」。<br />「憲法を改正して[[軍隊]]を認めなさい」と言つちやへばそれまでだ。これは何も[[クーデター]]しなくてもできちやふ。私は悪いことを唆すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの腹がなければ、自衛隊の[[将軍|ゼネラル]]といふものはこれからやつていけないと私は思つてる。だから、遠くのはうから遠巻きにして[[世論]]を動かさう、なんていふことを考へるよりも、本当のチャンスが来たときにグッと政治的な手を打てるゼネラルがゐないといかんな。|三島由紀夫「素人防衛論」([[防衛大学校]]での講演)<ref name="shiro"/>}}
 
 
11月10日、東大全共闘に軟禁されている文学部部長の[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]の解放を求めて、三島は[[阿川弘之]]と共に東大に赴き、林との面会を求めるが全共闘に拒絶されて叶わなかった([[林健太郎監禁事件]])。
 
 
12月21日の山本1佐によるゲリラ戦の講義の時、三島は、「ゲリラとは、(人を欺く)弱者の戦術ではないですか?」と疑問を投げかけた<ref name="yama6"/>。講義の休憩中、森田必勝は山本1佐に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねたという<ref name="yama6"/>。山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた<ref name="yama6"/>。
 
 
12月末、三島邸に楯の会の中核会員と山本1佐らが集まり、楯の会と[[綜合警備保障]]株式会社や[[猟友会]]との連携計画が模索された<ref name="yama6"/>。やがて話題が[[間接侵略]]などに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という主旨で三島に問われた山本1佐が、暴徒が[[皇居]]に乱入して天皇が侮辱された時と、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、[[中隊長]]をやらせてもらいます」と三島が哄笑して言ったという<ref name="yama6"/>。
 
 
三島は、山本1佐やそれに繋がる旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、以下のようなクーデター計画を構想していた<ref name="haku7">「終章 誰が三島を殺したのか」({{Harvnb|山本|2001|pp=192-237}})</ref><ref name="mochi4"/>。
 
{{Quotation|治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、[[戒厳令]]状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。<br />このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。|山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」<ref name="haku7"/>}}
 
 
=== 昭和44年 ===
 
[[1969年]](昭和44年)1月18日、反[[日本共産党]]系の新左翼学生らが[[東京大学]][[安田講堂]]を占拠する[[東大安田講堂事件]]が起きた。19日、警視庁機動隊と学生らとの攻防戦を見ていた三島は、新左翼が時計台から飛び降り自決して[[共産主義]]と[[日本主義]]が結びつくことを防ぐため、「ヘリコプターで催眠ガスを撒いて眠らせてくれ」と警視庁に電話を入れた<ref name="s-nen6"/>。
 
 
しかし、三島の危惧は無用の老婆心となり、予想に反し誰も命を賭けるような意欲のある東大生などいなかった<ref name="mochi4"/>。三島は、あっけなく投降する[[全共闘]]に安堵すると同時に失望し、最終的には自分たちとは価値観が違うことを悟って軽蔑するようになった<ref>高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」([[潮出版社|潮]] 1969年11月号)。</ref><ref>林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月号)。</ref><ref>[[堤清二]]との対談「二・二六将校と[[全学連]]学生との断絶」(財界 1970年1月1日・15日号)。</ref>。
 
 
2月1日、論争ジャーナル組と日学同との架け橋役であった森田必勝が、日学同よりも論争ジャーナル組側に完全に傾き、[[小川正洋]]([[明治学院大学]]法学部)、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日学同を除籍となった<ref name="naka3">「第三章 惜別の時」({{Harvnb|彰彦|2015|pp=137-198}})</ref><ref name="higu1"/>{{refnest|group="注釈"|日学同の[[宮崎正弘]]は、森田らの除籍理由を「共産主義に魂を売り渡したため」と『日本学生新聞』に書いた<ref name="naka3"/><ref name="higu1"/>。}}。この6名は新宿区[[十二社池|十二社]]([[西新宿]]4丁目)にある[[アパート]]小林荘をたまり場としていたため「十二社グループ」と呼ばれ、[[テロル]]も辞さない一匹狼の集団であった<ref name="naka3"/><ref name="higu1"/>。
 
 
2月19日から23日まで、山本舜勝1佐の指導の下、[[板橋区]]の[[松月院]]で合宿し、楯の会の特別訓練が行われた<ref name="yama7"/>。暖房もない厳寒の本堂で、夜は寝袋、食事は持参の缶詰という過酷な状況の中、皆が寝静まった後、三島は白い息を吐きながら机に向かって執筆活動もしていたという<ref name="yama7"/>。その後ろ姿を見た山本1佐は、「私はこの人となら死んでもいい」と思った<ref name="yama7"/>。
 
 
2月25日、山本1佐の[[旧陸軍]]時代の同期生で[[三無事件]]の協力者であった自衛隊員Mを交えて、山本宅で三島との会談があった。Mは三島の『反革命宣言』の思想に大いに共鳴していたが、〈有効性は問題ではない〉という部分についてだけは、「行動する以上勝たなければ意味がない」と反論し、敵に優る武器([[戦車]]、[[ミサイル]])など、具体的な手段の有効性が第一だと論じた<ref name="yama7"/>。
 
 
それに対して三島は、「それでは'''問題のたて方'''がまるで違うんだ」と、先ず「文化を守る」という目標意識の重要性、「日本刀」で戦うことの比喩的意義を説き、「実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為があとにつづく者をまた作り出すんだ」と、自らは安全地帯の発射ボタン一つで大量殺戮をする物質的近代武力意識への反論を返した<ref name="yama7"/>。
 
{{Quotation|われわれは、護るべき日本の[[文化]]・[[歴史]]・[[伝統]]の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき[[未来]]社会」を[[暗示]]するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない[[現在]]をして、すべて[[革命]]への[[過程]]に化せしめるからである。<br />自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者とした[[行動]][[原理]]こそ、[[神風特攻隊]]の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。|三島由紀夫「反革命宣言」<ref>「反革命宣言」(論争ジャーナル 1969年2月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=389-405}}、{{Harvnb|防衛論|2006|pp=9-32}}</ref>}}
 
 
3月1日から、学生を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で29日まで行われた。この第3回体験入隊で、小川正洋が参加して3期生となった。9日から15日には、体験入隊経験者(会員)を対象とする上級のリフレッシャーコースの訓練も行われ、「玩具の兵隊さん」と世間から呼ばれていた楯の会の実態は、自衛隊の将校も驚くほど精鋭されていった<ref name="hosa4"/>{{refnest|group="注釈"|リフレッシャーコースは、2泊3日で、3・6・9・11月に年4回行われた<ref name="mura2">「第二章 楯の会第五期生」({{Harvnb|村田|2015|pp=71-126}})</ref>。}}。
 
 
[[ヘンリー・スコット=ストークス]]はこの体験入隊を取材し、[[ロンドン]]の『[[ザ・タイムズ]]』に記事掲載した。ストークスがリフレッシャーコースの森田必勝に、「なぜ楯の会に入ったのか」と問うと、「三島に随いていこうと思った。……三島は[[天皇]]とつながっているから」と答えた<ref name="henry45">「IV 四つの河[5]行動の河」({{Harvnb|ストークス|1985|pp=276-346}})</ref>。
 
 
4月13日、ストークスの記事を読んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷会館での楯の会の4月例会の取材に来て、訓練の様子を撮影した。三島は、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テーラーを自宅に招いた<ref name="nen44">「年譜 昭和44年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=304-315}}</ref>。
 
 
4月28日の沖縄デーの日、三島と山本1佐は、新左翼[[全日本学生自治会総連合|全学連]]のゲリラ活動や激しい渦巻きデモを視察した。その後、三島は山本1佐を皇居に面する[[国立劇場]]に連れて行き、エレベーターで舞台下の奈落を案内し、「奈落は、私の信頼する友人が管理しています。いつでもお使い下さい」と言った<ref name="yama7"/>。同月には、『自衛隊二分論』を発表した<ref>「自衛隊二分論」(20世紀 1969年4月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=434-446}}</ref>。
 
 
三島は、体験入隊の訓練中に知り合った若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出そうとしていたが、三島に同調する幹部もこの時期に出始めていた<ref name="yama7"/>。その中の1人は、山本1佐の真意が解らないと三島が漏らす言葉を聞き、山本1佐に「もし、あなたの心が変わったのなら、われわれも黙っておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話して来る者もあった<ref name="yama7"/>。
 
 
[[防衛大学校]]を卒業した将校とも交流を求め、親交を深めようとしていた三島に対する防衛庁[[内局]]の圧力が、この春頃から様々なかたちであり、楯の会の訓練の規制がはめられるようになって来ていた<ref name="hosa4"/>。官民一体となった行動の模索をしていた三島の自衛隊内部への苛立ちが次第に強まり、表向きは自衛隊の内部批判はしなかったが、楯の会の会員の間では内局への罵倒が繰り返された<ref name="hosa4"/>。
 
 
5月11日、港区[[愛宕 (東京都港区)|愛宕]]の[[青松寺]](三島の祖父・[[平岡定太郎]]の[[菩提寺]])境内の[[精進料理]]・醍醐で、三島と山本1佐ら自衛隊幹部が会食し、新左翼の[[解放区]]闘争や国防問題の情勢を分析した。この時、三島は[[ボーガン]]の訓練をする適切な場所はないか訊ねたという<ref name="yama7"/>。5月13日、三島は、東大教養学部教室で開催された[[全学共闘会議|全共闘]]との討論会に出席し、新左翼学生らと激論を交わした(詳細は[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争]]を参照)。
 
 
5月から三島は、楯の会の幹部級の7、8名にも[[居合]]を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田敏夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡し、斬り込み可能の「決死隊」を作った<ref name="mura42"/><ref name="yama8">「VIII 遠・近目標混淆のなかで」({{Harvnb|山本|1980|pp=176-205}}</ref><ref name="nich44">「昭和44年」({{Harvnb|日録|1996|pp=365-384}})</ref>。5月23日、山本1佐の下、楯の会会員100名の特別訓練の初日。26日まで訓練が行われた。この少し前、三島は[[伊沢甲子麿]]の仲介で、山本1佐と共に[[保利茂]]官房長官と会った<ref name="yama8"/>。
 
 
6月下旬、三島と山本1佐と部下5名の自衛官が[[山の上ホテル]]のレストランの個室で会食した。三島は、楯の会の皇居死守の具体的な実行動の計画について話し、「すでに決死隊を作っている」と山本1佐に決断を迫った。5名の自衛官らは三島に賛同したが、山本1佐は、「まず[[白兵戦]]の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制して賛同しなかった<ref name="yama8"/><ref name="haku7"/>。
 
 
自衛官らが、「臆病者! あなたはわれわれを裏切るのか!」と山本1佐に詰め寄るのを三島が制止した<ref name="haku7"/>。沈黙の後、三島は義憤を抑えた面持で、「皇居突入、死守」など三ヶ条が書かれた紙を灰皿の上で燃やした<ref name="yama8"/>。次の訓練の試案を山本1佐が話し終えた後、三島は総理官邸での演習計画を提案するが、自衛隊に批判的な[[マスコミ]]の目を恐れた山本1佐はすぐに「それは駄目です」と断った<ref name="yama8"/>。7月、山本1佐が陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に費やす時間がなくなっていった<ref name="yama8"/>。
 
 
この初夏の頃、何人かの将校幹部(陸将)と三島の間で企図されていたクーデター計画が闇に葬られることになった<ref name="haku7"/>。将校幹部らは[[米軍]]とパイプがあり、アメリカ側の了解を得て、自衛隊国軍化に向けた治安出動を行うはずであったが、[[キッシンジャー]]が密かに訪中の準備を始めアメリカが[[親中派|親中]]路線に転換したため([[ニクソン大統領の中国訪問|米中和解]]計画)、日本国軍化が認められない状況となった<ref name="haku7"/>。
 
 
7月26日から、学生と会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で8月23日まで行われた。この頃から、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が表面化。三島の意に反して、金銭感覚や女性関係がルーズだった中辻が財政難の論争ジャーナルの資金源を[[田中清玄]]に求めたことが決定的な亀裂となり、8月下旬に、中辻、万代ら数名が楯の会を退会した<ref name="mochi4"/><ref name="mura42">「IV 行動者――集団という橋」({{Harvnb|村松|1990|pp=443-468}})</ref>{{refnest|group="注釈"|楯の会の全員の旅費や滞在費、食費や雑費、制服代などの費用はすべて、三島が賄っていたが、[[田中清玄]]が「自分は三島と楯の会のパトロンである」と財界で吹聴していたことが三島の耳に入ってきたことが、楯の会の名誉を重んじる三島の怒りを買った<ref name="hosa4"/>。[[林房雄]]は、中辻和彦と万代潔の退会問題に触れ、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島から、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話があったとして、以下のように語っている<ref name="haya17"/>。
 
{{Quotation|彼らは[[小澤開作]]氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』の主人公のような悪質の贋物だった。やがて雑誌も出て、後援者が増え、多少の金が集まるにつれて、急速に変質して行った。(中略)<br />ある“大先輩”の一人は、「ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば[[光クラブ事件|光クラブ]]の連中みたいな奴らばかりだった」とまで極言した。(中略)「楯の会」はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された。|林房雄「悲しみの琴」<ref name="haya17"/>}}}}。
 
 
10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)も正式退会となった。中辻と親しい持丸は、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナルの編集と楯の会の活動の両方を辞めることに決めた<ref name="mochi4"/>。三島は、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した<ref name="mura42"/>。
 
 
持丸の代わりに森田必勝が楯の会の学生長となり、論争ジャーナル編集部内に置いていた楯の会事務所も森田の住むアパートに移転した<ref name="yama8"/>。持丸は、会の事務を手伝っていた[[松浦芳子]]と婚約していた。大事な右腕だった持丸を失った三島は山本1佐に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという<ref name="yama8"/>。
 
 
10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員は昨年と同様に、左翼デモ([[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|10.21国際反戦デー闘争]])の状況を確認するが、新左翼は機動隊に簡単に鎮圧された。もはや自衛隊の治安出動と斬り込み隊・楯の会の出る幕はなく、憲法改正と自衛隊国軍化への道がないことを認識した<ref name="geki"/>。
 
 
警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府([[防衛庁]])はこのチャンスにあえて自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、失望感と憤慨は大きかった<ref name="geki"/><ref name="hosa4"/>。三島は新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と独り言を繰り返し、自暴自棄になったように「だめだよ、これでは」と叫んだという<ref name="hosa4"/>。
 
 
10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。森田は、「楯の会と自衛隊で[[国会議事堂|国会]]を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案するが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行困難と三島は返答した<ref name="date15">「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=233-244}})</ref>。
 
 
11月3日の15時から、[[国立劇場]]屋上で、[[陸上自衛隊富士学校]]前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、楯の会結成一周年パレードが行われた<ref name="yama9">「IX 絶望に耐えてなお活路を」({{Harvnb|山本|1980|pp=206-222}}</ref>。演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。女優の[[村松英子]]や[[倍賞美津子]]が花束を贈呈した。同劇場2階大食堂でのパーティーでは、[[藤原岩市]]元陸将、三輪良雄元[[防衛事務次官]]が祝辞を述べ、三島が挨拶した<ref name="yama9"/><ref name="s-nen6"/>。
 
{{Quotation|単に、軍隊的行動であるが故に嫌悪する、戦後の風潮は私は非常にある意味で偽善であると思ってきたわけであります。ここで、私は決して[[軍国主義]]とか、[[ファシズム]]とかという意味ではなしに、日本人が市民生活のなかに、自然に軍隊教養を持っていつでも銃を持って立ちあがれる、外的な侵入に際しても銃をとって立ちあがれるだけの、訓練をへた人間が青年のなかに一人でも多くならなければいかん、そこではじめて我々にも自信をもって[[文化]]ないし、[[思想]]を自分のなかで養い、育てることができるんだと思ったことが、楯の会をつくった動機であります。|三島由紀夫「楯の会1周年挨拶」<ref name="ando4"/>}}
 
 
11月16日、新左翼による[[佐藤首相訪米阻止闘争]]が行われるが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。11月28日、三島は山本1佐を招いて自宅で「最終的計画案」の討議を開くが、山本1佐から具体策が得られず終わった<ref name="yama9"/>。12月8日から4日間、三島は北朝鮮武装ゲリラに対する軍事事情視察のために[[韓国]]に行った<ref name="yama9"/>。
 
 
12月22日、三島と楯の会は、陸上自衛隊[[習志野駐屯地]]で例会を開き、[[第1空挺団 (陸上自衛隊)|空挺団]]で[[落下傘]]降下の予備訓練を行なった<ref name="nen44"/>。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説いた。これに基づいて、 [[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]](1期生)を班長とする「憲法改正草案研究会」が楯の会内に組織されることが決まり、毎週水曜日の夜に3時間討議会を実施することとなった<ref name="fuji3">「第三章 草案につづられた三島の真意」({{Harvnb|松藤|2007|pp=89-118}})</ref><ref name="hosa5">「第五章 公然と非公然の谷間」({{Harvnb|保阪|2001|pp=241-302}})</ref>。
 
 
12月1日に三島は、翌年正月に発表する[[村上一郎]]との対談で、現下の自衛隊には、[[二・二六事件]]のような革命を起こせる体制はなく、1佐以上の将校でなければ何も起こせない状態だと語っていた<ref name="kami">[[村上一郎]]との対談「尚武の心と憤怒の抒情―文化・[[ネーション]]・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=608-621}}</ref>。
 
 
=== 昭和45年 ===
 
[[1970年]](昭和45年)正月、[[山本舜勝]]1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した<ref name="yama10">「X 決起の黙契軋み出す」({{Harvnb|山本|1980|pp=223-242}}</ref>。
 
 
1月末、三島は昨年12月に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと[[山本舜勝]]1佐とを招いて会食。Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した<ref name="yama10"/>。この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた<ref name="hosa5"/>。
 
 
3月1日、学生と会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われた。この頃から、[[森田必勝]](学生長、第1班班長)と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同月、三島は村松剛に、「[[蓮田善明]]は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟いた<ref name="mura43"/>。
 
 
3月末に突然、三島は[[和服]]姿で[[錦]]袋に入れた日本刀を携えて山本1佐宅を訪問した。山本1佐は日本刀の話題を出さないようにしていたが、三島がその刀を自分に提供して決意を促すつもりのような気がした<ref name="yama10"/>。帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した<ref name="yama10"/>。
 
 
4月3日、三島は[[千代田区]][[内幸町]]1-1の[[帝国ホテル]]のコーヒーショップにおいて[[小賀正義]](第5班班長)に、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した<ref name="date2"/>。4月10日、三島は自宅に招いた[[小川正洋]](第7班班長)にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀同様に沈思黙考の末に承諾した<ref name="date2"/><ref name="azusa7"/>。
 
 
4月下旬、11年前の[[1959年]](昭和34年)から毎号読んでいた『蓮田善明とその死』([[小高根二郎]]著)が3月刊行されたため、三島はそれを携え山本1佐宅を訪問し、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した<ref name="yama10"/>。5月、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を三島は配布した<ref name="teiki1">「問題提起 (一)新憲法における『日本』の欠落」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=118-128}}</ref>{{refnest|group="注釈"|7月配布の第2回は「戦争の放棄」、9月配布の第3回は「『非常事態法』について」と続いた<ref name="hosa5"/>。}}。
 
 
5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋の3名が集まった。楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった<ref name="date2"/>。6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、4日まで行なった<ref name="mura2"/>。この回は食糧を支給されず不眠不休で[[青木ヶ原樹海]]を[[行軍]]する過酷な訓練だった<ref name="mura2"/>。
 
 
6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が[[港区 (東京都)|港区]]赤坂葵町3番地(現・[[虎ノ門]]2丁目10-4)の[[ホテルオークラ]]821号室に集合。これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った<ref name="date2"/><ref name="azusa7"/><ref name="hosa5"/>。
 
 
三島は、自衛隊の[[弾薬]]庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を提案した<ref name="date2"/>。討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された<ref name="date2"/>。
 
 
6月21日、三島ら4名は、千代田区[[駿河台]]1丁目1番地の[[山の上ホテル]]206号室に集合。三島から、市ヶ谷駐屯地内の[[ヘリポート]]を楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が報告された。そして、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を[[第32普通科連隊|32連隊]]長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した<ref name="date2"/>。
 
 
7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した<ref name="date2"/>。
 
 
同月、三島は[[保利茂]]官房長官と[[中曽根康弘]]防衛庁長官に、防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根防衛庁長官はそれを閣僚会議で[[佐藤栄作]]首相に提出しなかった<ref>「山本舜勝宛ての書簡」(昭和45年8月10日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=946-947}}</ref>。
 
 
7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の[[1966年|41年]]型白塗り[[トヨタ・コロナ#3代目 T4#/5#型(1964年 - 1970年)|コロナ]]を久下木モータースから購入した<ref name="date2"/>。7月下旬、三島ら4名は、千代田区[[紀尾井町]]4番地の[[ホテルニューオータニ]]のプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した<ref name="date2"/>。この夏、三島は3名それぞれに8万円を渡し、[[北海道]]に慰安旅行させた<ref name="azusa7"/><ref name="ando4"/>。
 
 
この頃、[[三重県]][[四日市市]]に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」と言った<ref name="naka3"/>。8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった三島ら4名は、[[古賀浩靖]](第5班副班長)を仲間に加えることを決定した<ref name="date2"/><ref name="ando4"/>。
 
 
9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は新宿区[[西新宿]]3丁目8-1の深夜[[スナックバー (飲食店)|スナック]]「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た<ref name="date2"/><ref name="date6"/>。2人から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われ、「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、楯の会に入会した時からその覚悟ができていたため承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した<ref name="date6"/><ref name="azusa7"/><ref name="hosa4"/>。
 
 
9月9日、三島は[[銀座]]4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った<ref name="date2"/>。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」<ref name="date2"/>、「ここまで来たら、[[地獄]]の三丁目だよ」と言った<ref name="date6"/>。
 
 
9月10日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを12日まで行なった。9月15日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は、[[千葉県]][[野田市]]の興風館で行われた[[戸隠流]][[忍法]][[演武]]会([[忍者]]大会)を見物し、帰途に[[墨田区]][[両国 (東京都)|両国]] 1丁目10-2の[[イノシシ]]料理店「[[ももんじ屋]]」で会食して同志的結束を固めた<ref name="date2"/><ref name="date6"/>。
 
 
この頃、三島は約4年近く世話になった陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の機関紙に感謝の言葉と複雑な心境を綴った<ref name="taki">「[[滝ヶ原駐屯地|滝ヶ原分屯地]]は第二の我が家」(たきがはら 1970年9月25日創刊号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=348-349}}</ref>。
 
{{Quotation|ここでは終始温かく迎へられ、利害関係の何もからまない真の人情と信頼を以つて遇され、[[娑婆]]ではついに味はふことのない男の涙といふものを味はつた。私にとつてはここだけが日本であつた。娑婆の日本の喪つたものの悉くがここにあつた。日本の男の世界の厳しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の[[運命]]を気づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運命について憂へた。(中略)ここは私の鍛錬の場所でもあり、思索の場所でもあつた。私は、ここで自己放棄の尊さと厳しさを教へられ、[[思想]]と[[行為]]の一体化を、[[精神]]と[[肉体]]の綜合のきびしい本道を教へられた。(中略)歴代連隊長を始め、滝ヶ原分とん地の方々のすべてに、私は感謝の一語あるのみである。<br />同時に、二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである。|三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」<ref name="taki"/>}}
 
 
9月に[[ヘンリー・スコット・ストークス]]宅の夕食会に招かれた三島は、食事後に暗い面持ちで、日本から精神的伝統が失われ[[物質主義]]がはびこってしまったと言い、「'''日本は緑色の蛇の呪いにかかっている'''。日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」という不思議な喩え話をした<ref name="henry0">「プロローグ――個人的な記憶」({{Harvnb|ストークス|1985|pp=3-30}})</ref>{{refnest|group="注釈"|この「緑色の蛇」の意味が何なのか考え続けた[[ヘンリー・スコット・ストークス]]は、1990年(平成2年)頃に突然、「[[米ドル]]」(緑色の紙幣)のことだと解ったと[[徳岡孝夫]]に告げた<ref name="toku11"/>。}}。三島は時々予言めいたことを突然発することがあり、春頃にも茶の間で父・梓に日本の未来を案ずる言葉を言っていた<ref name="azusa4">「第四章」({{Harvnb|梓|1996|pp=103-164}})</ref>。
 
{{Quotation|ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに[[中国]]に接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。わが友[[台湾]]はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう。日本は[[東洋]]の[[孤児]]となって、やがて[[人身売買|人買い商人]]の商品に転落するのではないでしょうか。いまや日本の将来を託するに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。|[[平岡梓]]「伜・三島由紀夫」<ref name="azusa4"/>}}
 
 
9月25日、三島ら5名は、新宿3丁目17番地の[[伊勢丹]]会館後楽園[[サウナ風呂|サウナ]]に集合。三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、特に11月の例会は、自衛隊関係者を近親や親戚に持つ者を除いた隊員に三島が直接連絡することを決め<ref name="date2"/>、就職や結婚が決まっている者も除いた<ref name="azusa7"/>。10月初め、死ぬ前に故郷の北海道の山河を見ておきたいと言う古賀のため、三島は旅費の半額1万円を与えた<ref name="date6"/>。
 
 
10月2日、三島ら5名は、銀座2丁目6-9の中華料理店「第一楼」に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開いて、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した<ref name="date2"/>。
 
 
その行動の際、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を予め[[パレスホテル]]に待機させておき、一緒に車に同乗させ、32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した<ref name="date2"/>。10月9日、北海道旅行中の古賀を除いた4名が「第一楼」に再び集合し、計画を再確認した<ref name="date2"/>。
 
 
10月17日、三島は[[持丸博]]を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状を持って来てほしいと頼み、著名した者の多くが脱退したので焼却したい旨を伝えた<ref name="higu2">「第二章 予兆」({{Harvnb|火群|2005|pp=81-102}})</ref><ref name="hosa2"/>。10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区[[麹町]]1丁目4番地の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった<ref name="date2"/>。
 
 
10月23日、都内の[[火葬場]]や給電指令所で楯の会の演習を行なった。この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、[[黒板]]に「coup d'État([[クーデター]])」と無言で書いた三島は、都市機能を[[マヒ]]させるための具体的な場所を示した<ref name="toyo12">「第十二章 決起1ヶ月前」({{Harvnb|豊夫|2006|pp=97-102}})</ref><ref name="mura2"/>。会員たちは、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思ったという<ref name="mura2"/>。この訓練後、三島は夜1人で、山本1佐宅を訪ねた<ref name="yama11"/>。この日の訪問を山本1佐は、「[[赤埴重賢|赤垣源蔵]]徳利の別れ」のようなものだったのではないかと回想している<ref name="yama11"/>。
 
 
10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団[[浪曼劇場]]の庭で焼却した<ref name="higu2"/>。しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた<ref name="hosa2"/>。焼却後、港区[[六本木]]の「[[アマンド]]」でコーヒーを飲みながら三島は持丸に、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と言ったという<ref name="higu2"/><ref name="hosa2"/>。
 
 
11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は「アマンド」で待ち合わせ、六本木4丁目5-3のサウナ「ミスティー」に集合。檄文と要求項目の原案を検討した<ref name="date6"/>。この時、全員[[自決]]するという計画を三島は止めさせ、「死ぬことはやさしく、生きることはむずかしい。これに堪えなければならない」と小賀、小川、古賀の3名に命じた<ref name="date6"/>。
 
 
三島は、「今まで死ぬ覚悟でやってきてくれた、その気持は嬉しく思う。しかし、生きて連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む、森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った<ref name="date2"/>。
 
 
森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)[[あの世]]で[[魂]]はひとつになるんだ」と言った<ref name="date6"/><ref name="date15"/><ref name="azusa7"/>。三島は前日の11月2日、銀座の「浜作」に森田を呼び出し、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた<ref name="azusa1"/><ref name="ando4"/>。
 
 
しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った<ref name="ando4"/>。その後、小賀、小川、古賀の3名も、「お前も一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も森田が自決を思い止まることを期待したが、森田の決心は揺るがなかった<ref name="ando4"/><ref name="mochi4"/>。
 
 
11月4日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、6日まで行なった。会員たちは、この時に[[鉄道]]爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わった。実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した<ref name="mura2"/><ref name="toyo12"/>。
 
 
訓練終了後、三島ら5名は、[[御殿場市]]内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しみ、三島は全員に正座をして酒をついで廻って、「唐獅子牡丹」を歌い、森田は小学唱歌「[[花 (瀧廉太郎)|花]]」と「[[加藤隼戦闘隊]]」、小賀は「白い花が咲くころ」、小川は「昭和維新の歌」「[[知床旅情]]」を歌い、古賀は[[特別攻撃隊|特攻隊]]員の詩を朗読した<ref name="azusa7"/><ref name="higu2"/>。
 
 
11月10日、森田、小賀、小川、古賀の4名は、菊地勝夫[[1等陸尉]]との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。11月12日、森田、小川、小賀の3名は、[[東武百貨店]]で開催された「三島由紀夫展」を見学。その夜、スナック「パークサイド」で、小川は森田から介錯を依頼されて承諾した<ref name="date2"/>。
 
 
11月14日、三島ら5名は、サウナ「ミスティー」に集合。32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・[[伊達宗克]]と[[サンデー毎日]]記者・[[徳岡孝夫]]にし、[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5名で檄文の原案を検討した<ref name="date2"/>。
 
 
11月19日、三島ら5名は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合。32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした<ref name="date2"/>。森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた<ref name="azusa7"/>。その後、スナック「パークサイド」で、古賀は森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と言われた<ref name="date6"/>。
 
 
11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、森田が三島の著書『[[行動学入門]]』を届けることを口実に市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した<ref name="date2"/>。三島ら5名は、中華「第一楼」に集合。森田の報告を受け協議の結果、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定した<ref name="date2"/>。三島はすぐに[[益田兼利]]東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた<ref name="date2"/>。
 
 
同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から4千円を受け取り、[[ルミネエスト新宿|新宿ステーションビル]]などにおいて、[[ロープ]]、[[バリケード]]構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用の[[ブランデー]]、水筒などを購入した。夜、小賀は横浜市内を森田とドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と森田から依頼されて承諾した<ref name="date2"/>。
 
 
11月23日、三島ら5名は、千代田区[[丸の内]]1丁目1番地の[[パレスホテル]]519号室に集合。決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、[[辞世の句]]など)と、一連の行動の予行演習を行なった。辞世の句は「うまくなくてもいい、自由奔放に書け」と三島は言った<ref name="date6"/>。翌11月24日も、三島ら5名はパレスホテルに集合。再度の予行演習をし、前日と合わせて約8回練習を行なった<ref name="date2"/>。
 
 
同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、「明日午前11時に[[腕章]]と[[カメラ]]を持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし<ref name="date2"/>、15時頃には、[[新潮社]]の担当編集者・[[小島千加子|小島喜久江]]に明日朝10時30分に『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』の原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた<ref name="koji1"/>。
 
 
夕方16時頃から、三島ら5名は、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]2丁目15-7の料亭「[[末げん]]」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコース(1人15,000円)と[[ビール]]7本で別れの会食をした<ref name="date2"/><ref name="toku9">「第九章 その前夜まで」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=212-237}})</ref><ref name="ando4"/>。18時頃、お店の豊さん(赤間百合子)がお酌をしようとすると、三島は自分でビールをつぎ、最後の乾杯をした<ref name="ando4"/>。
 
 
食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や三島が映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』で共演した俳優の[[勝新太郎]]の話などの雑談をした<ref name="ando4"/>。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った<ref name="azusa7"/>。
 
 
食事が終わった20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った<ref name="date15"/>。また、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で[[舌]]を噛んで死ぬしかないとも話した<ref name="azusa7"/>。
 
 
[[大田区]]馬込東1丁目1333番地(現・[[南馬込]]4丁目32-8)の自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行き、父親から煙草の吸い過ぎをたしなめられた<ref name="azusa1"/>。森田は西新宿4丁目32-12の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する楯の会会員の田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託した<ref name="naka3"/>。
 
 
小川と古賀は、小賀の[[戸塚 (新宿区)|戸塚]]1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。その際に3人は介錯のことを話し合い、小川は、[[剣道]]経験豊富な小賀に、森田の介錯ができない場合の代わりを依頼し、小賀は承諾した。しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、森田を問わずに、残りの誰かが介錯するという意思であった<ref name="date2"/>{{refnest|group="注釈"|[[小川正洋]]はこの日に交際していた女性と入籍し、そのことを2人に告げた<ref name="azusa7"/>。}}。
 
 
11月25日、小賀ら3名は午前7時に起床。古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にある[[ピンク電話]]を鳴らした<ref name="date6"/><ref name="naka3"/>。3名は、朝食は取らず、目立たぬように制服の上からコートやカーディガンを羽織って、制帽はビニールの買物袋に入れ、午前8時50分頃、小賀の運転するコロナに同乗し下宿を出発した<ref name="date2"/><ref name="azusa7"/>。
 
 
森田は7時に起床し、9時頃、新宿西口公園付近の[[新宿出入口|西口ランプ入口]]で、コロナでやって来た小賀ら3名と合流した<ref name="date2"/>。一行は三島邸に向い、[[荏原出入口|荏原ランプ]]を出て、三島邸近くの[[第二京浜国道]]を曲がったあたりの[[ガソリンスタンド]]に立ち寄って洗車。その間に各人故郷の家族への別れの手紙を投函した<ref name="date2"/><ref name="azusa7"/><ref name="ando4"/>。
 
 
三島は8時に起床し、コップ一杯の水だけを飲み、お手伝いさんに小島喜久江に渡す小説原稿を預けた<ref name="toku10"/>。10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、市ヶ谷会館に午前11時に来るように指定し、田中か倉田という者が案内すると伝えた<ref name="date2"/>。小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した<ref name="date2"/>。
 
 
三島は玄関に迎えに来た小賀に、小川、古賀ら3名宛ての封筒入りの命令書と現金3万円ずつを手渡し、車中で読むように命じた<ref name="date2"/>。軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げ、車までゆっくりと歩いた三島は、「命令書はしかと判ったか」と助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言った<ref name="azusa7"/>。
 
 
一行を乗せたコロナは自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。秋晴れの空の下、白いコロナは[[環状7号線]]に出て、第二京浜国道に入り、[[品川 (東京都)|品川]]から[[中原街道]]を経て、荏原ランプから[[首都高速2号目黒線|高速道路2号線]]に乗った<ref name="s-nen7"/><ref name="toku10"/>。10時40分頃、コロナは[[飯倉出入口|飯倉ランプ]]で高速を降りた<ref name="s-nen7"/><ref name="toku10"/>。
 
 
[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]から[[青山 (東京都港区)|青山]]を経て[[神宮外苑]]前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した<ref name="s-nen7"/>。この時、三島は、「これが[[ヤクザ映画]]なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言った<ref name="date6"/>。古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している<ref name="date6"/>。
 
 
[[権田原坂]]から、右に[[赤坂離宮]]、左に[[明治記念館]]を見て進行し、[[学習院初等科]]校舎近くに一時停車した時、「我が母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と三島は言った<ref name="azusa7"/><ref name="ando4"/>。コロナは[[四谷見附]]の交差点を直進し、[[靖国通り]]を突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門を入っていった<ref name="ando4"/>。
 
 
== 決起に至った要因 ==
 
自衛隊員たちへ撒いた[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]には、[[戦後民主主義]]と[[日本国憲法]]の批判、そして[[日米安全保障条約|日米安保]]体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および[[憲法改正論議|憲法改正]]による自衛隊の[[日本軍|国軍]]化を促す内容が書かれていた<ref name="geki"/>。三島は最初の単身自衛隊体験入隊直後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている<ref name="shitsu"/>。
 
{{Quotation|私は、私の考えが[[軍国主義]]でもなければ、[[ファシズム]]でもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)<br />政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の[[自衛権]]の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。|三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」<ref name="shitsu"/>}}
 
さらに三島は、〈いまの制度がそうさせるのか、[[昭和天皇|陛下]]のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を[[東京国際空港|羽田]]で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の[[儀仗]]を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている<ref name="shitsu"/>。
 
 
また1967年(昭和42年)11月の[[福田恆存]]との対談では、[[高坂正堯]]の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して〈現実主義の立場に立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このまま[[日本国憲法第9条]]を改正しないまま〈解釈〉で〈縄抜け〉するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法を軽蔑している〉と述べ<ref name="fukuda">[[福田恆存]]との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号)。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=205-266}}、{{Harvnb|持丸|2010|pp=13-24}}、{{Harvnb|39巻|2004|pp=696-728}}</ref>、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている<ref name="fukuda"/>。
 
 
このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は〈違憲の存在〉でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』なかで、[[自由民主党 (日本)|自民党]]の第9条第2項に対する解釈や、[[日本共産党|共産党]]や[[日本社会党|社会党]]が日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲を堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因〉をなしているものと見て、両者の[[国体]]をないがしろにする姿勢を批判している<ref name="geki"/><ref name="teiki1"/>。演説の中でも、自衛官らに、〈諸君は[[武士]]だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで〈[[ヒューマニズム|生命尊重]]のみで、[[魂]]は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは[[自由主義|自由]]でも[[民主主義]]でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉と訴えた<ref name="geki"/>。
 
 
三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年の[[建国記念の日]]に、[[国会議事堂]]前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく[[焼身自殺]]した青年、[[江藤小三郎]]の自決もあった。三島は『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]]』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である〉と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている<ref name="samu1">「[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのために]]――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号)。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=19-23}}、{{Harvnb|35巻|2003|pp=58-60}}</ref>。
 
 
三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代に[[レイモン・ラディゲ]]の夭折に憧れていたことなどや<ref name="h-reki">「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=271-323}}</ref>、『[[豊饒の海]]』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもある。[[新潮社]]の担当編集者だった[[小島千加子]]によると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるとされる<ref name="koji2">「日々の分れ――死への一里塚」(ポリタイア 1973年7月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=25-40}}</ref>。また月刊誌『[[中央公論]]』の編集長であった[[粕谷一希]]によると、三島は、「自分が[[永井荷風|荷風]]みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなに[[自己犠牲]]をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという<ref>{{Harvnb|粕谷|2006}}</ref>。
 
 
しかし、三島の老いへの考えは一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており<ref>「私の顔」(毎日新聞 1954年9月19日号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=}}</ref>、〈[[室生犀星]]氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)[[スポーツ]]でも、五十歳の[[野球]]選手といふものは考へらないが、七十歳の[[剣道]]八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる〉とも語っている<ref>「『純文学とは?』その他」(雑誌・風景 1962年6月号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=}}</ref>。小島千加子にも以前には、「[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという<ref name="koji5">「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=81-126}}</ref>。
 
 
1969年(昭和44年)3月の第3回自衛隊体験入隊時の学生と雑談でも、「由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったら[[シェークスピア]](沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって「雪翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生は若くして死ぬんじゃないんですか」と学生が驚いて質問すると、三島は苦虫を噛み潰したような渋い表情に変わって横を向いてしまったという<ref name="tateo22">「22 政治との関わりー――出てもらえませんか」({{Harvnb|村上|2010|pp=137-140}})</ref>。このことから、44歳の時点では、作品外の実人生では長生きするつもりだったとも見られている<ref name="tateo22"/>。
 
 
なお、三島にはヒロイズムつまり[[ヒーロー|英雄]]的[[自己犠牲]]に対する憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因の一つに数えられる。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、〈[[西郷隆盛]]は五十歳で英雄として死んだし、この間[[熊本県|熊本]]へ行つて[[神風連の乱|神風連]]を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた[[加屋霽堅]]が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている<ref name="mayoi">「年頭の迷ひ」(読売新聞 1967年1月1日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=284-287}}</ref>。また、『[[行動学入門]]』のなかでは、以下のように語っている。
 
{{Quotation|かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代[[ヒューマニズム]]の見地から裁かれるやうになつた。(中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? [[後進国]]へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?<br />現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて[[少年雑誌]]の[[劇画]]から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。|三島由紀夫「[[行動学入門]]」<ref>「[[行動学入門]]」(PocketパンチOh! 1969年9月号-1970年8月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=606-658}}</ref>}}
 
 
そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、[[平田弘史]]の[[時代物]][[劇画]]を好きだと語っていることなどからうかがえ<ref name="gekiga">「劇画における若者論」[[サンデー毎日]] 1970年2月1日号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=53-56}}</ref>、[[切腹]]に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『[[憂国]]』や、榊山保名義で[[ゲイ雑誌]]に発表した小説『[[愛の処刑]]』から看取される<ref>「第六章 映画『憂国』」({{Harvnb|堂本|2005|pp=115-148}})</ref>。切腹について三島と語り合ったことのある中康弘通は、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高な[[自己犠牲]]の悲愴美を、[[思春期]]の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」とし<ref name="nakayasu">中康弘通「非装美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」({{Harvnb|噂|1972}})</ref>、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している<ref name="nakayasu"/>。
 
 
なお、三島は1970年(昭和45年)[[7月7日]]付の[[産経新聞|サンケイ新聞]]夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束]]』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている<ref name="yaku">「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]]」([[サンケイ新聞]]夕刊 1970年7月7日号)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=369-373}}、{{Harvnb|36巻|2003|pp=212-215}}</ref>。
 
{{Quotation|二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは[[戦後民主主義]]とそこから生ずる偽善といふおそるべき[[バチルス]]である。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。|三島由紀夫「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束―私の中の二十五年]]」<ref name="yaku"/>}}
 
 
三島はその戦後民主主義を否定しつつも〈そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては〈排泄物を積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後の一節では以下のような訣別を表明している。この文章は、実質的な[[遺書]]の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。
 
{{Quotation|二十五年間に[[希望]]を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを[[絶望]]に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。<br />私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、[[ニュートラル]]な、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が[[極東]]の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。|三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」<ref name="yaku"/>}}
 
 
ちなみに、三島が決起の時点ですでに死を決意していたことは、事件前の9月に「[[楯の会]]」メンバーの古賀浩靖に向かって、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで<ref name="date2"/>、8月には「諌死」という漢字の読みを「kanshi」とノート片に書いて、[[ヘンリー・スコット・ストークス]]に渡していることなどから、自決が[[クーデター]]の実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる<ref name="naka3"/>。
 
 
[[林房雄]]は、三島が林との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは[[詩人]]や[[文学者]]が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら<ref name="choji">林房雄「弔辞」(新潮 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999}}</ref>、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている<ref name="choji"/>。
 
 
また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあった[[蓮田善明]]が敗戦に際し、[[国体]]護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある<ref name="odaka">{{Harvnb|小高根|1970}}。{{Harvnb|文學大系|1970|pp=461-471}}(1968年9月号-11月号分)、{{Harvnb|再訂|2005|pp=99-156}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=22-92}}</ref>(詳細は[[蓮田善明#蓮田善明と三島由紀夫|蓮田善明と三島由紀夫]]を参照)。1945年(昭和20年)[[8月19日]]、戦地の[[ジョホールバル]]で蓮田は、中条豊馬大佐が軍旗の決別式で天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、[[皇軍]]の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に[[成城学園]]素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた{{refnest|group="注釈"|三島が蓮田に献じた哀悼の句は、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉<ref>「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。{{Harvnb|浪曼|1975}}冒頭に現物写真、{{Harvnb|37巻|2004|p=762}}、{{Harvnb|再訂|2005|p=152}}、{{Harvnb|島内|2010|p=262}}</ref>。}}。
 
 
三島と同じ戦中世代であり知人であった[[吉田満]]は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、次のように考察している<ref name="yoshida">[[吉田満]]「三島由紀夫の苦悩」({{Harvnb|ユリイカ|1976|pp=56-64}})、『吉田満著作集 下巻』(文藝春秋、1986年)</ref>。
 
{{Quotation|出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)<br />われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。(中略)戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。|[[吉田満]]「三島由紀夫の苦悩」<ref name="yoshida"/>}}
 
 
1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたという[[インド人]][[ビジネスマン]]のM.K.シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている<ref>M.K.シャルマ(訳:[[山田和]])『喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文藝春秋、2001年3月。文春文庫、2004年1月)pp.254-264。初出は雑誌『諸君!』1998年6月号-2000年10月号</ref>。
 
 
[[杉山隆男]]は、三島が[[滝ヶ原駐屯地|滝ヶ原分屯地]]の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉<ref name="taki"/>と言っていたことに触れつつ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ、杉山自身も実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している<ref name="sugi">「最終章 手紙」({{Harvnb|杉山|2007|pp=185-219}})</ref>。
 
{{Quotation|隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである。(中略)<br />私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。|[[杉山隆男]]「『兵士』になれなかった三島由紀夫」<ref name="sugi"/>}}
 
 
[[舟橋聖一]]は、三島の死を「憤りの死」だとし、その死の意味について、「――わたしは思う。表現力の極限は死につながることを――。表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、[[ペン]]を擲って死ぬほかはない」という見解を示した<ref>[[舟橋聖一]]「壮烈な憤死」(東京新聞 1970年11月26日号)。{{Harvnb|進藤|1976|p=507}}</ref>。
 
 
[[島田雅彦]]は、三島が『[[文化防衛論]]』のような論文を書き、そうした「[[イデオロギー]]を支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながら、その一方で「[[サブカルチャー]]の帝王としてのポジション」を作っていった理由は、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保]]反対[[左翼]]全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し<ref name="shima">[[島田雅彦]]「三島由紀夫不在の三十年」([[古井由吉]]、[[平野啓一郎]]との座談)({{Harvnb|没後30|2000|pp=322-340}})</ref>、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後の[[天皇]]そのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている<ref name="shima"/>。そしてそのやり方は、[[石原慎太郎]]のように[[文学者]]が[[政治]]にかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている<ref name="shima"/>。
 
 
また島田は、今日の[[文学]]が、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解を述べている。
 
{{Quotation|今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への[[サヨナラゲーム|逆転さよならホームラン]]的コミット、文学の[[革命]]が社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか。むろんそれは非常に難しい。かつての[[自由民権運動]]の担い手たちや、[[大正デモクラシー]]の担い手たち、共産主義運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもれない。|島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」<ref name="shima"/>}}
 
 
[[田中美代子]]は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で<ref>旧版『三島由紀夫全集35』(新潮社、1976年4月)所収</ref>、〈現代一般の政治家・[[実業家]]・[[知識人]]はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「[[三無事件]]」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘する[[沖縄基地|沖縄問題]]もいまだに解決をみず、現憲法はいわば[[ゴルディアスの結び目|ゴルディウスの結び目]]であり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している<ref name="jiten">[[田中美代子]]「三島事件」({{Harvnb|事典|2000|pp=604-606}})</ref>。
 
 
[[磯田光一]]は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている<ref name="isoda">「かなたへの疾走」({{Harvnb|アルバム|1983|pp=80-96}})</ref>。そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「[[仮面]]劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの批判や問題が残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代への[[アンチテーゼ]]と意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」としている<ref name="isoda"/>。
 
 
死後46年経った[[2017年]](平成29年)1月に初公表された[[ジョン・ベスター]]との対談(自死の9か月前の1970年2月19日に実施)で三島は、〈死がね、自分の中に完全にフィックスしたのはね、自分の肉体ができてからだと思うんです。(中略)死の位置が肉体の外から中に入ってきたような気がする〉、〈平和憲法です。あれが偽善のもとです。(中略)憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と自身の死生観や文学や憲法について触れ、行動については自身を〈[[ピエロ]]〉に喩え、後世に理解を委ねるかのような以下の発言をしている<ref>[http://mainichi.jp/articles/20170112/k00/00e/040/191000c 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ](毎日新聞、2017年1月12日)</ref><ref name="san2017">[http://www.sankei.com/entertainments/news/170112/ent1701120019-n1.html 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送](産経ニュース、2017年1月12日)</ref><ref name="gun2017">「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」({{Harvnb|群像|2017|pp=119-137}})</ref><ref name="koku">「三島由紀夫未公開インタビュー」({{Harvnb|告白|2017|pp=5-74}})</ref>。
 
{{Quotation|僕がやっていることが写真に出ます。あるいは、週刊誌で紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、[[スタンダール]]じゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)<br />僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない。生きているというのは、人間はみんな何らかの意味で[[ピエロ]]です。これは免れない。[[佐藤栄作|佐藤首相]]でもやっぱり一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。<br />
 
人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスターの問い)<br />
 
芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと[[神様]]が我々を人形に扱っているわけでしょう。我々は人生で一つの役割を、puppet play([[パペット]]・プレー)を強いられているんですね{{refnest|group="注釈"|なお、この後半の続きでは以下のように、自身の行動に絡めて人間の[[運命]]について語っている。
 
{{Quotation|[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が言ってますけど、人間は死んだとき初めて人間になる。人間の形をとると言うんです。なぜかというと、運命がヘルプしますから。運命がなければ、人間は人間の形をとれないんです。ところが、生きているうちは、その人間の運命は何かわからないんですよ、予言者でなければ。運命が決定しなければ、その人間の形は完成しないでしょう。それで、やっていることはみんなバカげたことに見えるんですね。でも、運命が芸術家を決定する。|三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)<ref name="koku4">「三島由紀夫未公開インタビュー――マスコミと三島」({{Harvnb|告白|2017|pp=30-38}})</ref>}}}}。|三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)<ref name="san2017"/><ref name="gun2017"/><ref name="koku4"/>}}
 
 
== 裁判での陳述など ==
 
生き残った3人への公訴は、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、[[公務の執行を妨害する罪|職務強要]]など刑事訴訟法の枠内の外形的なものに留まり、改憲論議については、法廷自体意見を左右し、支援団体(全国学協、[[日本青年協議会]]、11・25義挙正当裁判要求闘争実行委員会など)が三島の論文『問題提起』を提出したにもかかわらず、弁護団も「現行憲法の批判は司法裁判所の関与するところではない」として証拠物件とはしなかった<ref name="jiten"/>。
 
 
大越護弁護人は最終弁論で、「国家のためにする緊急救助の法理」の適用を主張したが、櫛淵理裁判長は、「国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められない」として被告らは懲役4年の実刑となった{{refnest|group="注釈"|これに関し、裁判を傍聴していた三島の父・[[平岡梓]]は、裁判長が審理を離れて独断的な[[陽明学]]論や[[武士道]]論を展開したことに疑問を呈している<ref name="botsu1"/>。}}。なお、被告らの裁判中の陳述などは以下のものである。
 
;小賀正義
 
「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は[[占領軍]]が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。(中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは[[軍国主義]]者ではない。永遠に続くべき日本の[[天皇]]の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」<ref name="date1"/>
 
 
「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、[[大統領]]や[[国会議員|議員]]を選ぶように多数決で決まるものではないのです。菊は菊であるからこと菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の[[民主主義|民主]]概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカ[[占領軍]]の日本弱化の企みです。それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」<ref name="date7"/>
 
 
;小川正洋
 
「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」<ref name="date1"/>
 
 
「三島先生の『[[右翼]]は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。(中略)[[楯の会]]の例会を通じ、先生は『[[左翼]]と右翼との違いは“天皇と死”しかないのだ』とよく説明されました。『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信じるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが[[特別攻撃隊|神風特攻隊]]の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。(中略)[[武士道]]とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。(中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」<ref name="date7"/>
 
 
;古賀浩靖
 
「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、[[民主主義]]の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。(中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法は[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の[[サーベル]]の下でつくられたもので、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ条約]]で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」<ref name="date1"/>
 
 
「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」<ref name="date7"/>
 
 
「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」<ref name="date15"/>
 
;大越護弁護人
 
「まれにみる鋭敏な頭脳の持主である三島の脳裏には、この美しい日本が、ガラガラと音をたてて崩れてゆく姿が、捉えられていたに違いない。三島の畢生の大作『[[豊饒の海]]』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。これと同様、三島の脳裏には、経済的には益々豊かになる日本が、精神的には月の海のように荒廃してしまうのが映っていた。われわれは、その危機の一つを最近、[[山岳ベース事件|連合赤軍の事件]]で示された。あの事件こそ、道義が根底から失われていることを、最も端的に示すものである。三島の親友である村松剛は、その著書『三島由紀夫―その生と死』に、『日本人は繁栄のぬるま湯につかり、氏の頼みとしていた自衛隊も、当にはならなかった。どうしたらこの事態を動かし得るか、氏は死をもって諌める道を選んだ』と書いている。こうして、三島と森田は、割腹自決をし、社会を覚醒させようとした」<ref name="date17"/>
 
 
== 三島の遺書 ==
 
三島が[[楯の会]]会員・倉持清(1期生、第2班班長)に宛てた遺書は、事件の日の夜に、瑤子夫人から倉持清に手渡された<ref name="date9"/><ref>井上隆史「解題――楯の会会員」({{Harvnb|38巻|2004|pp=989-990}})</ref>。倉持は、決起した会員4名同様に三島から信頼されていた人物であった<ref name="kura"/><ref name="mura3">「第三章 昭和45年11月25日」({{Harvnb|村田|2015|pp=127-160}})</ref>。
 
 
三島は倉持から[[仲人]]を依頼され快諾していたために、〈蹶起と死の破滅の道へ導くこと〉、〈許婚者を裏切つて貴兄だけを行動させること〉は不可能だったことを伝え、人生を生きてもらいたいことを遺言した<ref name="kura"/>。
 
{{Quotation|小生の小さな蹶起は、それこそ考へに考へた末であり、あらゆる条件を参酌して、唯一の活路を見出したものでした。活路は同時に明確な[[死]]を予定してゐました。あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。それだけに人選は厳密を極め、ごくごく少人数で、できるだけ[[犠牲]]を少なくすることを考へるほかはありませんでした。<br />小生としても楯の会会員と共に[[義]]のために起つことをどんなに念願し、どんなに夢みたことでせう。しかし、状況はすでにそれを不可能にしてゐましたし、さうなつた以上、非参加者には何も知らせぬことが情である、と考へたのです。小生は決して貴兄らを裏切つたとは思つてをりません。(中略)どうか小生の気持を汲んで、今後、[[就職]]し、[[結婚]]し、旺洋たる人生の波を抜手を切つて進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。|三島由紀夫「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月)<ref name="kura"/>}}
 
 
この倉持への封書と共に同封されていた楯の会会員一同宛ての遺書は、事件翌日11月26日に[[代々木]]の聖徳山諦聴寺で営まれた森田必勝の通夜の席で、皆に回し読みされた<ref name="higu4"/>。これを読んだ会員たちは、残された者への三島の思いやりが伝わってきたと回想している<ref name="mura3"/><ref name="higu4"/>。
 
{{Quotation|たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。(中略)革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。<br />しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日[[魂]]のとりかへしのつかぬ[[癌]]症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。(中略)<br />日本が[[堕落]]の淵に沈んでも、諸君こそは、[[武士]]の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が[[理想]]を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。[[青春]]に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。|三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)<ref>「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=672-673}}</ref>}}
 
 
== その他 ==
 
三島は自決1週間前の11月18日夜に、大田区西馬込の自宅で[[古林尚]]による1時間余りの対談インタビューに応じた。この時、話題が楯の会に及ぶと〈いまにわかります〉と2、3度繰り返し、古林が『[[豊饒の海]]』の次の今後の予定を聞くと、〈いまのところ、次のプランは何もないんです〉と語った<ref name="saigo"> [[古林尚]]との対談「三島由紀夫 最後の言葉」([[図書新聞]] 1970年12月12日、1971年1月1日号)。(新潮カセット版1989年4月、CD版2002年6月)。古林尚『戦後派作家は語る』(筑摩書房、1971年)、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=205-228}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=739-782}}</ref>。
 
 
古林はこの日のことを振り返り、三島が、「ほんとうに、なんにも、予定がない」と言った時の顔を、「あれほど淋しそうな顔を、私はみたことがない」と語り、三島が「敗戦より妹の死のほうが、ショックだったと書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。どうしていいのかわからなかった」とも言っていたと回想している<ref>古林尚「私は『死』を打ち明けられていた」(週刊現代 1970年12月11日号)。{{Harvnb|年表|1990|p=212}}</ref>。
 
 
事件に参加した[[古賀浩靖]]の父親は事件当時、「[[生長の家]]」本部の講師をし、古賀自身も入信していた<ref name="date2"/><ref name="date6"/>{{refnest|group="注釈"|なお、[[小賀正義]]の母も「生長の家」に入信していた<ref name="date2"/>}}。出所後に古賀に会ったという元楯の会の会員の伊藤邦典が、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さ(三島と森田の首の重さ)を持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという<ref name="higu4I">「第四章 その時、そしてこれから――一期 伊藤邦典」({{Harvnb|火群|2005|pp=177-180}})</ref>。
 
 
[[1984年]](昭和59年)に発刊された写真週刊誌『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』創刊号の「14年目に発見された衝撃写真―自決の重みをいま」に、三島の生首のアップ写真が掲載されたことを受け、未亡人・[[平岡瑤子]]が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた。このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われた[[伊達宗克]]と[[徳岡孝夫]]によるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為は、([[江戸時代]]の)[[さらし首|晒し首]]です。晒し首は死刑以上の刑罰であることを、あの雑誌の編集に携った人々は、ご存じなのでしょうか」と述べた<ref>[[伊達宗克]]・[[徳岡孝夫]]によるインタビュー・平岡瑤子「三島家十四年の歳月」(諸君! 1985年1月号)。{{Harvnb|徳岡|1999|p=305}}</ref>。
 
 
市谷記念館でツアーガイドをしていた女性によると、東部方面総監室(旧陸軍大臣室)から天皇陛下の御休憩所(旧[[便殿]]の間)に向かって両部屋の前の廊下を移動して行く三島と森田必勝の[[霊]]と思われる「黒い影」を見たことがあるという<ref name="mura5"/>。
 
 
[[1949年]](昭和24年)に発生した[[弘前大学教授夫人殺人事件]]では、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出たため、[[冤罪]]で懲役囚になっていた人物は、後に[[再審]]が開かれ無罪判決となった<ref>[[井上安正]]『冤罪の軌跡――弘前大学教授夫人殺害事件』(新潮社、2011年1月)</ref>。
 
 
俳優の[[高倉健]]が三島事件に触発され、三島の映画を製作する予定だったという<ref name="yokoo">[[横尾忠則]]「追悼・高倉健 幻となった[[三島由紀夫]]映画」({{Harvnb|中央|2015|pp=200-201}})</ref>。高倉健と親しかった[[横尾忠則]]によると、具体的プランも煮詰まり、高倉健は[[ロサンゼルス]]へ何度も渡航していたとされ、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と横尾は述懐している<ref name="yokoo"/>。ところが土壇場で瑤子未亡人の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、[[多磨霊園]]に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「[[カメラ]]を持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという<ref name="yokoo"/>。
 
 
== 三島事件前後の日本に関する社会的出来事 ==
 
{{Columns-start|num=2}}
 
*[[1967年]]2月11日 初の[[建国記念の日]]。
 
*1967年2月28日 三島由紀夫、[[川端康成]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]が中国の[[文化大革命]]に抗議声明。
 
*1967年4月15日 [[東京都知事]]に[[美濃部亮吉]]が当選。
 
*1967年6月17日 [[中国]]が初の[[水爆]]実験。
 
*1967年11月 [[佐藤栄作]]首相・[[リンドン・ジョンソン]]大統領の会談。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保]]・[[沖縄]]などの問題に関する日米共同声明([[羽田事件]])。[[由比忠之進]]が首相官邸前で焼身自殺。
 
*[[1968年]]1月 アメリカ[[原子力空母]][[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]が[[佐世保基地 (アメリカ海軍)|佐世保]]入港([[佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争]])。
 
*1968年1月9日 [[マラソン]]選手・自衛官の[[円谷幸吉]]が自殺。
 
*1968年2月20日-24日 [[在日朝鮮人]]による[[金嬉老事件]]。
 
*1968年3月 反[[日共]]系学生が東大[[安田講堂]]を占拠し、卒業式が中止([[東大紛争]])。
 
*1968年3月 [[自動警戒管制組織#情報漏えい事件|航空自衛隊自動警戒管制組織の“情報漏えい事件”]]容疑者・航空幕僚監部防衛課長の1佐逮捕、上司の空将補自殺。
 
*1968年10月17日 [[川端康成]]が[[ノーベル文学賞]]受賞決定。
 
*1968年10月21日 [[国際反戦デー]]に約30万人参加([[新宿騒乱]])。
 
*1968年11月4日-12日 [[全共闘]]による[[林健太郎監禁事件]]。
 
*1968年12月10日 [[三億円事件]]。
 
**1968年は各地で[[学園紛争]]([[日大紛争]]、[[明大紛争]])、[[安保闘争]]、[[ベトナム戦争|ベトナム反戦]]デモが激化。
 
*[[1969年]]1月18日-19日 [[東大安田講堂事件]]。[[東京大学]]の入試が中止。
 
*1969年2月11日 自衛官[[江藤小三郎]]が遺書「覚醒書」を残し焼身自殺。
 
*1969年10月21日 国際反戦デーに全国で約87万人が参加([[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|10.21国際反戦デー闘争]])。
 
*1969年11月 佐藤栄作首相が[[沖縄返還]]のため渡米。日米共同声明([[佐藤首相訪米阻止闘争]])。
 
*1969年11月15日 作家・翻訳家の[[伊藤整]]が病没。
 
**1969年は沖縄返還闘争、[[本土復帰]]運動が昂揚。学園紛争が激化。
 
*[[1970年]]2月3日 日本が[[核拡散防止条約]](NPT)に署名。
 
{{Column}}
 
*1970年3月14日-9月13日 [[大阪府]][[吹田市]]で[[日本万国博覧会]]が開催。
 
*1970年3月31日 [[赤軍派]]による[[よど号ハイジャック事件]]。
 
*1970年5月13日-14日 [[瀬戸内シージャック事件]]。
 
*1970年6月23日 [[日米安全保障条約]]自動延長決定。
 
*1970年7月14日 「日本の呼称」=「ニッポン」が閣議決定。
 
*1970年8月19日 [[全日空アカシア便ハイジャック事件|アカシア便ハイジャック事件]]。
 
*1970年9月 [[新潟大学]]教授が[[スモン]]病の原因を[[整腸剤]]キノホルムと断定。
 
*1970年10月 佐藤栄作が自民党総裁選で4選し内閣を続投(自民党史上唯一の4選での選出)。
 
*1970年11月22日 ジャーナリスト・作家の[[大宅壮一]]が病没。
 
*'''1970年11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島事件。'''
 
*1970年12月20日 沖縄中部の[[コザ市]](現:[[沖縄市]])で[[コザ暴動]]。
 
*[[1971年]]1月24日 [[築地本願寺]]で三島由紀夫の本葬。
 
*1971年1月29日 [[1971年尖閣諸島反日デモ|尖閣諸島反日デモ]](米国)。
 
*1971年6月17日 [[沖縄返還協定]]調印。
 
*1971年7月 [[キッシンジャー]]が日本にも極秘で訪中。
 
*1971年7月31日 [[加賀市沖不審船事件|北朝鮮不審船事件]]([[石川県|石川]])。
 
*1971年9月25日 [[中核派]]系組織「沖縄青年委員会」による[[第1次坂下門乱入事件]]。
 
*1971年11月 [[沖縄返還協定]]反対の[[ゼネスト]]に10万人が参加([[沖縄ゼネスト警察官殺害事件]]、[[渋谷暴動事件]])。
 
*[[1972年]]2月3日-13日 [[北海道]][[札幌市]]周辺で[[札幌冬季オリンピック|第11回冬季オリンピック]]開催。
 
*1972年2月21日 [[ニクソン大統領の中国訪問|米中和解]]。
 
*1972年2月19日-28日 [[連合赤軍]]による[[浅間山荘事件]]。
 
*1972年4月15日 [[西山事件]](外務省機密漏洩事件)の両容疑者[[起訴]]。
 
*1972年4月16日 川端康成が[[逗子市]]の仕事場でガス自殺。
 
*1972年5月15日 [[沖縄返還]]。
 
*1972年5月30日 [[日本赤軍]]による[[テルアビブ空港乱射事件]]。
 
*1972年7月5日 自民党総裁選で[[田中角栄]]が新総裁、翌日[[第1次田中角栄内閣|田中内閣]]発足。
 
*1972年9月29日 [[日中国交正常化]]。
 
{{Columns-end}}
 
 
== 三島事件前後に勃発した世界のクーデター ==
 
{{Columns-start|num=2}}
 
*[[1966年]]2月21日-23日 [[1966年シリアクーデター|シリア・クーデター]]。
 
*1968年7月17日 イラク[[7月17日革命]]。
 
*1969年10月 [[ソマリア内戦#内戦前夜|ソマリア・クーデター]]。
 
*1970年3月18日 カンボジア・[[ロン・ノル]]によるクーデター。
 
*1970年11月13日 シリア・[[矯正運動 (シリア)|アル=アサドによるクーデター]]。
 
*'''1970年11月25日 三島事件。'''
 
{{Column}}
 
*1971年9月13日 中華人民共和国[[林彪事件]](クーデター失敗)。
 
*1971年11月17日 タイ・[[タイにおける政変一覧|タノームの自己クーデター]]。
 
*[[1973年]]9月11日 [[チリ・クーデター]]。
 
*1973年10月14日 タイ・[[タイにおける政変一覧|学生クーデター]]。
 
*[[1974年]]4月25日 ポルトガル・[[カーネーション革命]]。
 
{{Columns-end}}
 
 
== 映画化 ==
 
*『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima: A Life In Four Chapters]]』 1985年(昭和60年) 日本未公開
 
**製作会社:フィルムリンク・インターナショナル、[[アメリカン・ゾエトロープ]]、[[ルーカスフィルム]]。
 
**監督:[[ポール・シュレイダー]]。音楽:[[フィリップ・グラス]]。美術:[[石岡瑛子]]。
 
**出演:[[緒形拳]]([[三島由紀夫]])、[[塩野谷正幸]]([[森田必勝]])、[[三上博史]]([[小賀正義]])、[[徳井優|立原繁人]]([[古賀浩靖]])、Junya Fukuda([[小川正洋]])、[[織本順吉]]([[益田兼利|益田総監]])、[[江角英明]](自衛隊補佐官)、[[穂高稔]](自衛隊大佐)ほか
 
**※ 第4部「[[文武両道]](harmony of pen and sword)」内で、事件当日の演説・自決などを映像化。また、「[[フラッシュバック]](回想)」部分で自衛隊体験入隊、[[F-104 (戦闘機)|F104]]試乗、[[楯の会]]パレードなどの挿話部分を[[モノクロ]]で映像化。
 
*『[[11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち]]』([[若松プロダクション]]、スコーレ株式会社) 2012年(平成24年)6月封切。
 
**監督:[[若松孝二]]。出演:[[井浦新]](三島由紀夫)、[[満島真之介]](森田必勝)、[[寺島しのぶ]]([[平岡瑤子]])、[[永岡佑]](小賀正義)、[[岩間天嗣]](古賀浩靖)、[[鈴之助]](小川正洋)、[[渋川清彦]]([[持丸博]])、[[大西信満]](倉持清)、[[中泉英雄]](田中健一)、[[小林優斗]](上田茂)、[[長谷川公彦]]([[徳岡孝夫]])、[[小林三四郎]]([[舩坂弘]])、[[吉澤健]](益田総監)、ほか
 
 
== テレビドラマ化 ==
 
*[[ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる]]『三島由紀夫自決事件』([[ANN系列]])
 
**1984年(昭和59年)9月13日 木曜日 22:00 - 22:54
 
**監修:[[松本清張]]。企画:外崎宏司、勝田祥三、塚田芳夫。企画構成・[[藤井康栄]]、林悦子。
 
**主題歌・テーマ音楽作曲:[[ツトム・ヤマシタ]]。制作:国際放映、[[テレビ朝日|ANB]]。
 
**出演:[[美輪明宏]](丸山明宏)
 
 
== 漫画 ==
 
* 『'''[[夕やけ番長]]'''』〈原作:[[梶原一騎]] 漫画:[[荘司としお]]〉第15集「'''文武両道'''」
 
**アキレス腱を切ってスポーツ特待生の道を絶たれてしまった主人公・'''赤城忠治'''の元に級友であるインテリの'''青木輝夫'''が'''[[三島由紀夫]]'''の自殺の知らせを告げ、大いにショックを受ける場面が描かれており、三島を尊敬していた青木は「'''憂国の切腹だよ。諌死だ!'''」と泣き叫び、劇中でも6頁に渡って'''三島の演説から切腹に至るまでの描写'''が描かれている。<br />また、その事を聞いて'''日本の魂のために命を捨てた三島'''に感動した赤城が「'''俺もその魂を追っかけるぜ!'''」と決意し、それを見た青木は「'''ああ、いま……かつて[[国定忠治]]を尊敬していた男が日本の生んだ巨大なる知性、[[三島由紀夫]]を志向したのだ。'''」と感じ、「'''自衛隊へいって三島先生は日本の魂をよびかけたがその死をかけた声をだれも聞いてくれなかった………が、だがよ、おれにゃ聞こえたぜ。'''」と涙ながらに語る赤城の姿が描かれている。
 
  
 
== 脚注 ==
 
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**英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
 
**英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
  
== 関連項目 ==
 
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}}
 
*[[大塩平八郎の乱]]
 
*[[三無事件]]
 
*[[昭和維新]]
 
*[[経団連襲撃事件]]
 
*[[二・二六事件]]
 
*[[ボリス・アクーニン]]
 
*[[憂国]]
 
*[[蘭陵王 (小説)]]
 
 
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三島由紀夫 > 楯の会 > 三島事件

三島事件
場所 日本の旗 日本東京都新宿区市谷本村町1番地
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
座標
日付 1970年(昭和45年)11月25日
午前10時58分頃 – 午後0時20分頃 (JST (UTC+9))
概要 三島由紀夫森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけ、三島がバルコニーで自衛官に演説。その後総監室で三島と森田が割腹自殺。
武器 日本刀短刀特殊警棒
死亡者 2人(三島由紀夫、森田必勝)
負傷者 8人(幕僚、自衛官)
他の被害者 東部方面総監、幕僚、自衛官
犯人 楯の会メンバー5人(三島由紀夫、森田必勝、小賀正義小川正洋古賀浩靖
対処 懲役4年の実刑判決監禁致傷暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害職務強要嘱託殺人
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三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本作家三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]

この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした行動に一様に驚きを示した[3][4]


脚注


  1. 「終章 『三島事件』か『楯の会事件』か」(保阪 2001, pp. 303-322)
  2. 高橋新太郎「『楯の会』事件裁判」(旧事典 1976, pp. 247-248)
  3. 「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」(柴田 2012, pp. 16-35)
  4. 「春の雪 ■第一回公判」(裁判 1972, pp. 20-59)

参考文献

三島の著作・全集

事典・資料・アルバム系

論考・評伝・研究

親族・学友・私人の追想

編集者・公人の追想

雑誌系の特集本

  • 新潮 臨時増刊 三島由紀夫読本』 (新潮社)、1971年1月ASIN B00QRZ32NO 
  • 安部順一編『中央公論』 (中央公論新社) 第1巻第29号、2015年1月ASIN B00PM72XQK 
  • 小野好恵編『ユリイカ 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜』 (青土社) 第11巻第8号、1976年10月ASIN B00UYW77RS 
  • 梶山季之編 「〈特別レポート〉三島由紀夫の無視された家系」、『月刊噂 八月号』 (噂発行所) 第2巻第8号48-62頁、1972年8月 
  • 坂本忠雄編『新潮 12月特大号 没後二十年 三島由紀夫特集』 (新潮社) 第12巻第87号、1990年12月 
  • 佐藤辰宣編『群像』 (講談社) 第3巻第72号、2017年3月ASIN B01NH2WT0X 
  • 中島和夫編『群像 二月特大号 三島由紀夫 死と芸術』 (講談社) 第2巻第26号、1971年2月 
  • 長谷川泉編 『現代のエスプリ 三島由紀夫』 至文堂1971年3月NCID BN09636225 
  • 藤島泰輔編『浪曼 新年号(12・1月合併) 特集・三島由紀夫の不在』 (株式会社浪曼) 第1巻第4号、1975年1月 
  • 前田速夫編『新潮 11月臨時増刊 三島由紀夫没後三十年』 (新潮社)、2000年11月NCID BA49508943 
  • 『新装版 文芸読本 三島由紀夫』 河出書房新社、1983年12月NCID BA35307535  - 初版は1975年8月
  • 『新文芸読本 三島由紀夫』 河出書房新社、1990年11月ISBN 978-4309701554 
  • 文藝別冊 増補新版 三島由紀夫――死にいたるまで魂は叫びつづけよ』 河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2012年4月NCID BA75322341  - 初版は2005年11月の『文藝別冊 永久保存版 三島由紀夫 没後35年・生誕80年』

他作家関連・その他

外国人による三島研究書