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{{Otheruses|[[豊臣政権]]における五奉行制度|毛利家中の五奉行制度|五奉行 (毛利氏)}}
 
[[File:Joint letter of Go-Bugyō.jpg|thumb|260px|五奉行の花押。左から[[浅野長政]]、[[石田三成]]、[[増田長盛]]、[[長束正家]]、[[前田玄以]]。]]
 
'''五奉行'''(ごぶぎょう)は、[[安土桃山時代]]の[[豊臣政権]]末期に[[秀吉遺言覚書体制]]<ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |authorlink=宮本義己 |date=2004 |title=徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して― |journal=大日光 |issue=74号}}</ref>に基き、主に政権の実務を担った[[浅野長政]]、[[石田三成]]ら5人の政治家([[奉行|奉行職]]にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており<ref>{{Cite journal |和書|author=阿部勝則 |date=1999 |title=豊臣五大老・五奉行についての一考察 |journal=史苑 |volume=49巻 |issue=2号}}</ref>、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている<ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |date=1999 |title=家康と秀吉―内府"律義"の真相― |journal=大日光 |issue=69号}}</ref>。
 
  
== 概要 ==
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'''五奉行'''(ごぶぎょう)
五奉行成立は、小瀬甫庵『太閤記』を根拠にして天正13年(1585年)とされてきたが、[[桑田忠親]]が[[豊臣秀吉]]の死の直前の慶長3年([[1598年]])7月に成立されたものと指摘し<ref name=kuwata>{{Cite journal |和書|author=桑田忠親 |authorlink=桑田忠親 |date=1935 |title=豊臣氏の五奉行制度に関する考察 |journal=史学雑誌 |volume=46巻 |issue=9号}}</ref>、この桑田説が定説となっている<ref>{{Citation |和書|author=堀越祐一 |chapter=豊臣五大老の実像 |editor=山本博文・堀新・曽根勇二 |date=2014 |title=豊臣政権の正体 |publisher=柏書房 |page=308}}</ref>。豊臣政権では[[大谷吉継]]や[[小西行長]]はじめ多くの奉行が行政を担当しており、その中でも特に重要な活躍をした5名が五奉行と呼ばれた。5名という数も定まった数ではなく、[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]の影響で浅野長政が一時失脚していた際には長政に代わって[[宮部継潤]]と[[富田一白]]を加えた6名が奉行を務めたとも言われている<ref>[[文禄]]4年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]付諸将血判起請文。</ref>。
 
 
 
職務は、蔵米の出納、治安の維持、徳川氏への対策とされる<ref name=kuwata />。
 
 
 
[[慶長]]5年([[1600年]])に石田三成が五大老の[[毛利輝元]]を擁立して[[関ヶ原の戦い]]に至ると、長束正家は三成、輝元らの西軍に従軍し、浅野長政は東軍の[[徳川秀忠]]の軍に属している。前田玄以、増田長盛の2名は[[大坂城]]に在住している。
 
 
 
== 奉行 ==
 
* 主に[[司法]]担当{{--}}[[浅野長政]]([[甲斐国|甲斐]]甲府22万石)
 
* 主に[[宗教]]担当{{--}}[[前田玄以]]([[丹波国|丹波]]亀山5万石)
 
* 主に[[行政]]担当{{--}}[[石田三成]]([[近江国|近江]]佐和山19万石)
 
* 主に[[土木]]担当{{--}}[[増田長盛]]([[大和国|大和]]郡山22万石)
 
* 主に[[財政]]担当{{--}}[[長束正家]](近江水口5万石)
 
 
 
浅野、石田、増田の3名が政務全般に当たり、長束が知行方すなわち経理担当、前田が京都所司代兼寺社奉行を担当していた形になる。しかし、石田も文禄4年(1595年)4月から慶長4年(1599年)閏3月の間、京都所司代を務めており<ref>{{Cite journal |和書|author=伊藤真昭 |date=2003 |title=石田三成佐和山入城の時期について |journal=洛北史学 |issue=4号}}</ref>、5人の明確な役割分担は見出せない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
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豊臣氏の庶政に関する職制の一つ。[[五大老]]の下に位した。[[前田玄以]],[[浅野長政]],[[石田三成]],[[増田 (ました) 長盛]],[[長束 (なつか) 正家]]の5人がその任にあった。これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4 (1595) 年であるが,これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。五奉行の成立は慶長3 (98) 年7月頃,秀吉の死の直前ではないかと推測される。以来,秀頼の時代まで続いた。職務の分担は主として前田玄以が公家,寺家,社家,そのほか諸座,諸職に関し,長束正家が知行,兵糧など財政に関し,浅野,石田,増田らが司法ならびに一般行政に関してそれぞれ担当した。大事件については,5人の合議によって処理された。関ヶ原の戦いで崩壊した。
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2018/12/29/ (土) 11:14時点における版

五奉行(ごぶぎょう)

豊臣氏の庶政に関する職制の一つ。五大老の下に位した。前田玄以浅野長政石田三成増田 (ました) 長盛長束 (なつか) 正家の5人がその任にあった。これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4 (1595) 年であるが,これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。五奉行の成立は慶長3 (98) 年7月頃,秀吉の死の直前ではないかと推測される。以来,秀頼の時代まで続いた。職務の分担は主として前田玄以が公家,寺家,社家,そのほか諸座,諸職に関し,長束正家が知行,兵糧など財政に関し,浅野,石田,増田らが司法ならびに一般行政に関してそれぞれ担当した。大事件については,5人の合議によって処理された。関ヶ原の戦いで崩壊した。



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