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[[画像:Dem congo sat.jpg|thumb|衛星写真]]
 
'''コンゴ民主共和国'''(コンゴみんしゅきょうわこく)は、[[中部アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。北西に[[コンゴ共和国]]、南西に[[アンゴラ]]、南に[[ザンビア]]、東に[[タンザニア]]、[[ブルンジ]]、[[ルワンダ]]、北東に[[ウガンダ]]、[[南スーダン]]、北に[[中央アフリカ共和国]]と国境を接し、西は[[大西洋]]に面する。首都は[[キンシャサ]]である。
 
  
[[アフリカ大陸]]中央部の[[コンゴ川]]流域に広がり、[[アルジェリア]]に続いてアフリカ大陸で第2位の面積を擁し、世界全体でも第11位の面積を擁する広大な国家である。1997年に現在の国名に改められたが、それまでの国名の'''[[ザイール]]'''としてもよく知られる。[[熱帯]]性気候。
+
'''コンゴ民主共和国'''(コンゴみんしゅきょうわこく)
  
== 国名 ==
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[[アフリカ]]中央部,[[赤道]]にまたがる国。1997年までザイール共和国。北は[[中央アフリカ共和国]][[南スーダン]],東は[[ウガンダ]][[ルワンダ]][[ブルンジ]][[タンザニア]],南東は[[ザンビア]],南西は[[アンゴラ]],西は[[コンゴ共和国]]に国境を接し,一部は大西洋に臨む。10州とキンシャサ特別区からなる。[[コンゴ川]]とその諸支流が流れる[[熱帯雨林]]の[[コンゴ盆地]]が国土の大部分を占め,東部は[[アフリカ大地溝帯]](グレートリフトバレー)のいくつかの湖と山脈,南部はカタンガ高原である。赤道地帯は高温多湿で気温は年間 24℃を下らず,ほかの地域は[[乾季]](4~10月)と[[雨季]]が明瞭。[[旧石器時代]]末期から人類が居住,16世紀前後にはコンゴ王国をはじめいくつかの王国が築かれていたが,16世紀以降ヨーロッパ人や[[アラブ人]]が進出。1870年代後半~1880年代前半にヘンリー・M.[[スタンレー]]がコンゴ川を探検,ベルギー国王[[レオポルド2世]]の命を受けて流域に植民地化のための基地を建設,1885年レオポルド2世私有の[[コンゴ自由国]]が成立,1908年ベルギー植民地となり,[[ベルギー領コンゴ]]と呼ばれた。1950年代後半から独立の機運が高まり,1959年1月にレオポルドビルで勃発したベルギーへの抵抗闘争がきっかけとなって 1960年6月コンゴ共和国として独立。その直後から[[コンゴ動乱]]が起こり,1965年クーデターで[[モブツ]]・セセ・セコが政権を奪取し 1971年ザイール共和国となり,復興と発展を遂げた。しかし,30年以上に及ぶモブツ大統領の体制と民主化の停滞に加え,1996年にルワンダの国境地帯から始まった紛争によって 1997年5月政権が交代。国名もザイールからコンゴ民主共和国に変更された。以後,周辺国の介入もあり収拾のつかない内戦状態が続いている。鉱物資源に恵まれ,銅,コバルトをはじめ,工業用ダイヤモンド,亜鉛,スズ,銀,カドミウム,マンガン,金などを豊富に輸出。そのほか木材をはじめ綿花,ゴム,コーヒー,サイザルアサ,砂糖,パーム油なども輸出。工業も発展しつつあり,たばこ,醸造,セメントなどのほか,製鉄,アルミニウム精錬,石油精製などのプラントが稼働。住民の大部分は[[バンツー語系諸族]]で,200余の種族に分かれ,そのほかはスーダン語系,[[ナイル語系諸族]][[ムブティ族]](いわゆるピグミー)など。民族固有の宗教のほかキリスト教が広く普及。公用語はフランス語であるが,リンガラ語,[[スワヒリ語]]なども広く用いられる。
正式名称は[[フランス語]]で、''République Démocratique du Congo''(レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)。
+
 
 
公式の英語表記は、''Democratic Republic of the Congo''(デモクラティク・リパブリク・オヴ・ザ・コンゴ)。
 
 
 
[[日本語]]の表記はコンゴ民主共和国。簡略表記としては「コンゴ(旧ザイール)」が多いが、「DRコンゴ」と呼ばれることもある。
 
 
 
1960年から1964年の間の正式名称は西の[[コンゴ共和国]]と同じ「[[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]]」であったため<ref>{{cite web
 
|title={{lang|fr|Constitution de la République Démocratique du Congo du 1er août 1964}} (1964年8月1日のコンゴ民主共和国憲法)
 
|language=フランス語
 
|work={{lang|en|Global Legal Information Network}}
 
|url=http://www.glin.gov/view.action?glinID=191255
 
|year=1964
 
|accessdate=2012年6月12日
 
}} </ref><ref>{{cite web
 
|title={{lang|en|Chapter 4 - Government and Politics: Postindependence Political Development}}
 
|language=英語
 
|author={{lang|en|Thomas Turner}}
 
|work={{lang|en|A Country Study: Zaire (Former)}}
 
|page=3
 
|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/zrtoc.html
 
|year=1993
 
|publisher=[[アメリカ議会図書館]]
 
|accessdate=2012年6月12日
 
|quote={{lang|en|Zaire was formally called the Republic of the Congo from independence to August 1, 1964, when it became the Democratic Republic of the Congo.}}
 
}}</ref><ref>{{cite web
 
|title={{lang|en|Burundi–Democratic Republic of the Congo ''(Zaire)'' Boundary}}
 
|language=英語
 
|work={{lang|en|International Boundary Study}}
 
|url=http://www.law.fsu.edu/library/collection/LimitsinSeas/IBS048.pdf
 
|format=PDF
 
|date=1965年4月30日
 
|publisher=[[アメリカ合衆国国務省]]情報調査局
 
|accessdate=2012年6月12日
 
|quote={{lang|en|The name of the Republic of the Congo was officially changed to the Democratic Republic of the Congo on August 1, 1964.}}
 
}}</ref>、区別のために、'''コンゴ・レオポルドビル'''、'''コンゴ・キンシャサ'''などと呼ばれた。
 
 
 
* [[1885年]] - [[1908年]] [[コンゴ自由国]](ベルギー国王の私有地)
 
* 1908年 - [[1960年]] [[ベルギー領コンゴ]]
 
* 1960年 - [[1964年]] [[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]]
 
* 1964年 - [[1971年]] コンゴ民主共和国
 
* 1971年 - [[1997年]] [[ザイール共和国]]
 
* 1997年 - 現在 コンゴ民主共和国
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の歴史|en|History of the Democratic Republic of the Congo}}}}
 
 
 
=== コンゴ王国 ===
 
{{main|[[:en:Early Congolese history|Early Congolese history]]|[[:en:Bantu expansion|Bantu expansion]]|コンゴ王国|クバ王国|[[:en:Anziku Kingdom|Anziku Kingdom]]|[[:en:Kingdom of Luba|Kingdom of Luba]]|[[:en:Kingdom of Lunda|Kingdom of Lunda]]|奴隷貿易|サントメ・プリンシペの歴史}}
 
13 - 17世紀にかけて[[コンゴ王国]]が栄えたほか、南部には[[クバ王国]]があった。
 
 
 
=== ベルギー植民地時代 ===
 
{{main|コンゴ自由国|ベルギー領コンゴ}}
 
 
 
1885年に[[ベルギー]]の[[国王]]、[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルト2世]]の私有地「[[コンゴ自由国]]」({{lang-fr|État indépendant du Congo}}、[[1885年]] - [[1908年]])とされた。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地であった。当初、レオポルド2世は私費を切り詰めて鉄道を建設するなどコンゴの近代化を推進したが、すぐに圧政に転じた。現地住民は[[象牙]]や[[ゴム]]の採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。当時、大なり小なり、植民地での強制的な収奪を当たり前のものとしていた欧州諸国においてもこの圧政は非難の的となり、植民地経営に関心がなかったベルギー政府を動かすこととなった。
 
 
 
1908年、ベルギー[[政府]]は国王からコンゴを買い取り、所有権がベルギー政府に移され、コンゴは正式に[[植民地]][[ベルギー領コンゴ]]([[1908年]] - [[1960年]])となった。1950年代後半から[[ジョゼフ・カサブブ]]の{{仮リンク|コンゴ人同盟|en|ABAKO}}(Alliance des Bakongo)、[[パトリス・ルムンバ]]の{{仮リンク|コンゴ国民運動|en|Mouvement National Congolais}}(MNC)が独立闘争を開始。
 
 
 
=== 独立とコンゴ動乱 ===
 
{{main|コンゴ動乱|コンゴ共和国_(スタンレーヴィル)|コンゴ共和国_(レオポルドヴィル)|カタンガ州|[[:en:Kasai region|Kasai region]]|コルヴェジ|カタンガ共和国|{{仮リンク|南カサイ|en|South Kasai|label=南カサイ鉱山国}}|[[:en:History of the Kasai region|History of the Kasai region]]}}
 
 
 
1960年6月30日に'''コンゴ共和国'''(1964年、コンゴ民主共和国に改称)として[[ベルギー]]から独立。カサブブは[[大統領]]、ルムンバは[[首相]]に就任。独立から1週間も経たずして内乱とベルギー軍の介入を経験し、「[[コンゴ動乱]]」が始まる。1961年、ルムンバ首相が殺害される。
 
 
 
=== ザイール共和国(モブツ政権)・第一次コンゴ戦争 ===
 
{{main|[[:en:Zaire|Zaire]]|コンゴ解放民族戦線|{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}|{{仮リンク|第二次シャバ紛争|en|Shaba II}}|{{仮リンク|コルヴェジの戦い|en|Battle of Kolwezi}}|[[第一次コンゴ戦争]]}}
 
[[ファイル:Flag of Zaire.svg|right|thumb|180px|ザイール共和国の国旗]]
 
 
 
1965年11月、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]商務・雇用・貿易相が[[クーデター]]で実権を掌握、1997年までの32年間モブツ大統領の独裁が続いた。
 
 
 
1971年に国名を'''[[ザイール共和国]]''' (''République du Zaïre'') に。{{仮リンク|革命人民運動|en|Popular Movement of the Revolution}} (MPR) の一党独裁制を敷いた。
 
 
 
[[1974年]][[10月30日]]、[[ベトナム戦争]]への徴兵を拒否して[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]統一ヘビー級王座を剥奪された[[モハメド・アリ]]が[[ジョージ・フォアマン]]に挑戦し、ザイールの首都キンシャサで "The Rumble in the Jungle"([[キンシャサの奇跡]])と呼ばれる王者奪還劇を果した。当時のザイールではモブツを支援した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に反発する感情が根強く、アリへの大声援([[スワヒリ語]]で "Ali bomaye!" と言っていた<ref>{{cite news| url=http://www.bbc.co.uk/sport/0/mobile/boxing/16289663 | work=BBC Sport | title=What they said about Muhammad Ali | date=2012-01-17 | accessdate=2012-03-07}}</ref>)が送られる模様がテレビで夜10時から全米に生中継された。
 
 
 
[[1977年]]、[[エボラ出血熱]]が[[エボラ川]]流域で確認された<ref name="Johnson1977">{{cite journal
 
|last1=Johnson
 
|first1=K. M.
 
|last2=Webb
 
|first2=P. A.
 
|last3=Lange
 
|first3=J. V.
 
|last4=Murphy
 
|first4=F. A.
 
|year      = 1977
 
|title      = Isolation and partial characterisation of a new virus causing haemorrhagic fever in Zambia
 
|journal    = Lancet
 
|volume    = 309
 
|issue      = 8011
 
|pages      = 569–71
 
|pmid      = 65661
 
}}</ref>。
 
[[1977年]][[3月8日]]、{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}。[[1978年]][[5月11日]]、{{仮リンク|第二次シャバ紛争|en|Shaba II}}。[[1978年]][[5月18日]]、{{仮リンク|コルヴェジの戦い|en|Battle of Kolwezi}}。
 
 
 
1990年4月、民主化要求の高まりを受け[[議会]]は11月に[[複数政党制]]への道を開く[[憲法]]修正案を可決し、12月任期2期を満了したモブツ大統領が3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否した。
 
 
 
議会は1996年4月、東部[[南キヴ州]]の[[ツチ]]系[[バニャムレンゲ]]の追放を決議し政府軍が攻撃を開始、[[ルワンダ]]、[[ウガンダ]]、[[ブルンジ]]などに支援された[[バニャムレンゲ]]や[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]] (AFDL) 等の武装組織が反撃し、1997年5月の[[第一次コンゴ戦争]]では[[アンゴラ]]が[[ザイール]]に出兵し、[[キンシャサ]]を制圧してモブツ政権は崩壊した。
 
 
 
=== コンゴ民主共和国・第二次コンゴ戦争 ===
 
[[File:Second congo war belligerents.png|thumb|第二次コンゴ戦争の交戦国。黒: コンゴ民主共和国 (DRC)、緑: 反DRC連合、濃青: DRC連合、薄青: DRC連合(直接は介入せず)]]
 
{{main|[[第二次コンゴ戦争]]}}
 
 
 
AFDLの[[ローラン・カビラ]]議長が大統領に就任、国名をザイール共和国から'''コンゴ民主共和国'''に変更した。カビラ大統領は[[司法]]権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。カビラ大統領はツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために1998年8月に東部を中心として[[第二次コンゴ戦争]]に発展していった({{仮リンク|イトゥリ紛争|en|Ituri conflict}}の継続、{{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}の開始)。国内の[[ダイヤモンド]]や[[コバルト]]などの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力[[コンゴ民主連合]] (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主に[[ジンバブエ]]、[[ナミビア]]、アンゴラが支援する事態となった。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされている。
 
 
 
[[1998年]]から[[2000年]]に[[東部州 (コンゴ)|東部州]](現[[高ウエレ州]])の金鉱山({{仮リンク|ドゥルバ鉱山|en|Durba Mine}}と{{仮リンク|ワツァ|en|Watsa|label=ワツァ鉱山}})で[[マールブルグ熱]]の感染により128人が死亡した。
 
 
 
政府と介入5か国は1999年7月、ザンビアの[[ルサカ]]で{{仮リンク|ルサカ停戦協定 (1999年)|en|Lusaka Ceasefire Agreement|label=ルサカ停戦協定}}に調印。しかしカビラ大統領は[[国際連合|国連]]部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。[[2001年]][[1月16日]]、ローラン・カビラ大統領が暗殺され(護衛兵に撃たれ死亡)、長男の[[ジョゼフ・カビラ]]が26日に後任の大統領に就任した。
 
 
 
和平協定に向け、2001年10月15日から[[エチオピア]]の[[アディスアベバ]]で対話が実現。[[ルワンダ]]が支援するコンゴ民主連合 (RCD)、[[ウガンダ]]が支援する{{仮リンク|コンゴ解放運動|en|Movement for the Liberation of the Congo}} (MLC)、そしてRCDから分離した{{仮リンク|コンゴ民主連合解放運動|en|Forces for Renewal}} (RCD-ML) <ref>Human Rights WatchはRCD-K-MLが[[少年兵]]を徴兵していることを告発した。[http://www.watchlist.org/reports/files/dr_congo.report.20060426.php?p=15 CHILDREN ASSOCIATED WITH ARMED FORCES AND GROUPS], ''The Watchlist on Children and Armed Conflict'', 2006-01-31, accessed on 2007-02-11</ref>の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。
 
 
 
2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話が[[ボツワナ]]の[[クェット・マシーレ]]前大統領を調停役として[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[サンシティ (南アフリカ)|サンシティ]]で再開されたが決裂。対話は南アフリカの[[プレトリア]]で、[[セネガル]]のニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力からRCDとMLCが参加した。[[2002年]]8月、[[タボ・ムベキ|ムベキ]][[南アフリカ共和国|南アフリカ]]大統領の仲介により、12月に[[プレトリア包括合意 (第二次コンゴ戦争)|プレトリア包括和平合意]]が成立した。この第二次コンゴ戦争で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは500~600万人とされる。
 
 
 
2003年には[[コンゴ共和国]]の感染爆発が飛火した北部地方で[[エボラ出血熱]]が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また、同国を生息地とする[[ゴリラ]]へも感染が広がり、2005年までに全個体数の2/3にあたる約5,500匹が死亡したと発表されている。[[2003年]]7月、合意に基づき暫定政府([[:en:Transitional Government of the Democratic Republic of the Congo|Transitional Government of the Democratic Republic of the Congo]])が正式に発足。しかし暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、引き続き戦争状態が続いた。民族対立とも相まって東部([[イトゥリ州]]、[[南キヴ州]]、[[北キヴ州]])は[[虐殺]]・略奪・[[強姦]]の頻発する一種の無法地帯となった。
 
 
 
=== 民主化 ===
 
{{main|[[:en:Democratic Republic of the Congo general election, 2006|Democratic Republic of the Congo general election]]}}
 
 
 
和平合意により2005年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の遅れを理由に延期された。[[2005年]]12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で可決した。この結果を受けて2006年2月18日に新憲法が発効され、[[2006年]]6月に選挙が実施されることが決まった。
 
 
 
だが各地で武装組織の活動が続き、不穏な情勢の中で投票日を迎えた。2006年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日であった。[[2006年]]7月30日、大統領選挙と議会選挙が行われた。定数500。8月20日、大統領選挙の暫定公式結果が発表された。当選に必要な過半数の得票率の候補者がなく10月29日に上位2人の決選投票が行われることになった。独立選挙委員会の発表によると、「大統領多数派連合」から立候補したカビラ暫定政府大統領の得票数は44.81%。元{{仮リンク|コンゴ解放運動|en|Movement for the Liberation of the Congo}} (MLC) 指導者で暫定政府副大統領のベンバが20.03%で2位。投票率は、約2500万人の登録有権者のうち70%が投票した。
 
 
 
=== 2007年以降の暴力・紛争 ===
 
{{main|イトゥリ州|南キヴ州|北キヴ州|{{仮リンク|イトゥリ紛争|en|Ituri conflict}}|{{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}|3月23日運動|マイマイ (コンゴ)|人民防衛国民会議|ルワンダ解放民主軍}}
 
 
 
[[2007年]][[8月3日]]、[[アルバート湖]]([[ホイマ県]]タロー石油)で石油探査中の[[ウガンダ]]側の[[ヘリテージ・オイル]]社とコンゴ側が交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。
 
ウガンダと[[南スーダン]]自治政府軍による[[神の抵抗軍]](LRA)掃討作戦{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}([[2008年]][[12月14日]] - [[2009年]][[3月15日]])に協力する部隊を派遣した。神の抵抗軍の国内における組織的な活動は低下し、2013年現在、国軍は、国内でLRAは活動していないとしている。
 
 
 
2009年時点でコンゴ国民は毎月およそ45000人が亡くなっていたと考えられており<ref>Kristof, Nicholas D. (31 January 2010)  [http://www.nytimes.com/2010/01/31/opinion/31kristof.html Orphaned, Raped and Ignored], New York Times</ref> 、長い紛争の間に死亡した人数は90万人から540万人程度と推計された。<ref>Butty, James  (21 January 2010) [http://www1.voanews.com/english/news/africa/butty-congo-war-death-toll-questioned-21jan10-82223332.html A New Study Finds Death Toll in Congo War too High], VOA News</ref> 死亡者数は蔓延る感染病と飢饉によるものである。報告によれば、亡くなった人のほぼ半数が5歳以下の子供であった。<ref>{{cite news| url=http://www.nytimes.com/2008/01/23/world/africa/23congo.html | work=The New York Times | title=Congo's Death Rate Unchanged Since War Ended | first=Lydia | last=Polgreen | date=23 January 2008 | accessdate=27 March 2010}}</ref> 民間人を殺害する武器の運び屋や、資産の破壊、性的暴力の拡散、<ref>[http://ihl.ihlresearch.org/index.cfm?fuseaction=page.viewpage&pageid=2104 "IHL and Sexual Violence"]. The Program for Humanitarian Policy and Conflict Research.</ref> 何十万もの人々を家から逃げ出させる人道主義や人権法違反が度々報告されていた。コンゴ民主共和国では毎年[[コンゴ民主共和国における性的暴力|40万人以上の女性がレイプされている]]との研究結果もある。<ref>"[http://www.independent.co.uk/news/world/africa/400000-rapes-in-congo-in-one-year-2283102.html 400,000 rapes in Congo in one year]". ''The Independent.'' May 12, 2011.</ref>
 
 
 
[[2012年]][[11月20日]]、[[ウガンダ]][[ルワンダ]]に支援された[[3月23日運動]]が紛争を起こした({{仮リンク|3月23日運動の反乱|en|M23 rebellion}})。政府は両国を非難した。
 
[[2013年]][[2月24日]]、コンゴ民主共和国を安定化させるための国際連合が後援する協定(コンゴ民主共和国と周辺地域の安全保障・協力にむけた枠組み)がエチオピアの首都[[アディスアベバ]]で調印された。調印したのは[[アンゴラ]]、[[ブルンジ]]、[[中央アフリカ共和国]]、[[コンゴ]]、[[コンゴ共和国]][[ルワンダ]]、[[南アフリカ]]、[[南スーダン]]、[[ウガンダ]]、[[タンザニア]]からなるアフリカの11ヶ国である (UN News Centre 2013年)。<ref name="UN20130224">
 
{{cite report
 
|title=UN urges long-term commitment to today's peace deal on DR Congo
 
|url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=44211#.UU0HYhcbKSo
 
|date=February 24, 2013
 
|publisher=United Nations News Centre}}</ref>
 
 
 
2014年6月11日、コンゴ民主共和国とルワンダの国境付近で双方の軍が自国側に侵入したとして発砲を開始、コンゴ軍の5人が死亡した<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3017437|title=コンゴとルワンダが国境で戦闘、コンゴ兵5人死亡|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2013-06-12
 
|accessdate=2014-06-13}}</ref>。
 
 
 
[[2016年]]12月、同月19日に任期が切れたにも拘らず退陣せず居座るカビラ大統領に対し退陣デモが発生し、治安部隊の鎮圧により少なくとも40人が死亡し460人が拘束された<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170111/k00/00e/030/228000c|title=コンゴ民主共和国 居座る大統領、混乱招く|work=毎日新聞|publisher=毎日新聞社|date=2017-01-11
 
|accessdate=2017-10-22}}</ref>。[[2017年]]末までに大統領選を実施することで与野党が合意したものの、選挙管理委員会は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を[[2019年]]4月以降に延期した<ref>{{Cite news|url=http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/155514|title=コンゴ大統領選、大幅延期に 任期切れのままカビラ氏続投|work=沖縄タイムスプラス|publisher=沖縄タイムス社|date=2017-10-12|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{main|コンゴ民主共和国の政治}}
 
 
 
* 政治体制:[[共和制]]。
 
* 大統領:[[ジョゼフ・カビラ]](任期: 2001年1月26日 - )
 
* [[内閣]]:閣僚は大統領が任免。新憲法下で首相職が新設され、現在はブルーノ・チバラ・ンゼンゼ<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/data.html#02 コンゴ民主共和国基礎データ]外務省、2018年6月15日閲覧。</ref>が首相。
 
* 議会:立法・憲法制定会議(300議席)が暫定議会として機能
 
* 政党:カビラ大統領の与党[[再建民主人民党]] (PPRD)、ADFLの後身[[人民権力委員会]] (CPP) のほか、旧モブツ政権下の独裁政党{{仮リンク|革命人民運動|en|Popular Movement of the Revolution}} (MPR)、そして[[キリスト教民主社会党]] (PDSC) など。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Congo Kinshasa Topography.png|thumb|コンゴ民主共和国の地形図]]
 
{{Main|コンゴ民主共和国の地理}}
 
 
 
コンゴ民主共和国の面積は[[西ヨーロッパ]]に匹敵する。3分の1が[[赤道]]の北側に、3分の2が南側に位置する。非常に雨が多く、雷も地球上で最も多い。年間降雨量は場所により2,000ミリを超え、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]に次ぐ広さの[[熱帯雨林]]を抱える。西の大西洋へゆっくり下る[[コンゴ川]]の流域は広大な[[コンゴ盆地]]の大部分を占める。南は[[サバナ (地理)|サバンナ]]に続く高地に、西は山がちの台地に、北は草地に囲まれ、最も東には[[氷河]]で覆われる高山がある。
 
 
 
コンゴの名前はコンゴ川と植民地以前に存在した[[コンゴ王国]]に由来する。流域はコンゴの経済・輸送の背骨であり、住民の日常生活に大きく影響している。アフリカ[[大地溝帯]]にあるボヨマ滝の下流の[[キサンガニ]]から西へ流れ始め、ゆっくり南西に向きを変え、[[ムバンダカ]]を過ぎて[[ウバンギ川]]と合流し、[[プールマレボ]](スタンレープール)に注ぐ。キンシャサと[[ブラザヴィル]]はこのプールの対岸同士である。ここから川幅が狭くなり、峡谷にはいくつもの急流と瀑布があり、集合的に[[:en:Livingstone Falls|リビングストン滝]]と呼ばれる。[[アマゾン川]]に次ぐ流量と流域面積を誇るが、コンゴが大西洋に面する部分はコンゴ川の北側40kmに過ぎない。
 
 
 
大地溝帯は火山活動を起こし、[[アルバート湖]]、[[エドワード湖]]、[[タンガニーカ湖]]などの大湖を形成した。最も重要なのは南部と東部にある膨大な鉱物資源を地表へ露出させ採掘可能にしたことである。コバルト、銅、カドミウム、ダイアモンド、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱、石炭がすべて豊富にあり、とくに南東部カタンガ地域が有名である。2002年1月17日に噴火した[[ニーラゴンゴ山|ニーラゴンゴ火山]]の溶岩は幅50m、時速60kmの早さで流れ、ゴマ市付近を襲い45人を死亡させ12万人の家を奪った。40万人が避難し、キブ湖の魚が全滅した。半年後には近くのニャムラギラ火山も噴火し、2006年に再噴火している。
 
 
 
== 経済 ==
 
{{also|コンゴ民主共和国におけるコーヒー生産}}
 
[[ファイル:Kinshasa-30-juin01.jpg|right|thumb|220px|首都[[キンシャサ]]]]
 
コンゴ民主共和国は地下資源に恵まれるものの、1990年代の内戦などで[[インフラ]]は破壊され経済は壊滅状態となっており、世界[[後発開発途上国|最貧国]]の1つとなっている。
 
 
 
=== 鉱業 ===
 
{{main|{{仮リンク|紛争鉱物|en|Conflict minerals}}|紛争ダイヤモンド|[[:en:Dikuluwe Mine|Dikuluwe Mine]]|[[:en:Sinohydro|Sinohydro]]|[[:en:China Railway Engineering Corporation|China Railway Engineering Corporation]]}}
 
[[銅]]、[[コバルト]]、[[ダイヤモンド]]、[[カドミウム]]、[[金|黄金]]、[[銀]]、[[亜鉛]]、[[マンガン]](世界1位)、[[錫]]、[[ゲルマニウム]]、[[ウラン]]、[[ラジウム]]、[[ボーキサイト]]、[[鉄鉱石]]、[[石炭]]、[[金鉱]](世界5位)、[[プラチナ]](世界1位)などを産する世界トップクラスの鉱産資源国であり、輸出の約9割を鉱産資源が占める。コバルトの埋蔵量は世界の約65%。かつては[[ウラン]]の採掘も行われており、[[1945年]]に[[広島市への原子爆弾投下|広島市]]に投下された[[リトルボーイ|原子爆弾]]の原料は[[ベルギー領コンゴ]]国産であった。
 
 
 
一方、[[錫石]]([[スズ]]の鉱石)・{{仮リンク|鉄マンガン重石|en|Wolframite}}([[タングステン]]の鉱石<ref>ウォルフラマイトは、鉄マンガン重石もしくはタングステン鉱とも呼ばれる。</ref>)・[[コルタン]]([[タンタル]]の鉱石)・[[金]]は、[[北キヴ州]]で展開する紛争({{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}及び[[:en:M23 rebellion|M23 rebellion]])の反政府武装組織([[人民防衛国民会議]]、[[3月23日運動]])の資金源とされている{{仮リンク|紛争鉱物|en|Conflict minerals}}であり、国内が不安定化する要因の一つとなっている。
 
 
 
友好関係にあったモブツやカビラの時代からコンゴ民主共和国に積極的に投資<ref>Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine (January 2010). "Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead" . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University. </ref>してきた[[中華人民共和国]]の{{仮リンク|洛陽欒川モリブデン|en|China Molybdenum}}によるコンゴ最大の銅コバルト鉱山テンケ・フングルーメの買収はコンゴ最大の外国投資とされる<ref>[https://www.ft.com/content/054bbb3a-1e8b-11e6-a7bc-ee846770ec15 China plays long game on cobalt and electric batteries] FT</ref><ref>[http://mric.jogmec.go.jp/news_flash/20170612/13006/ 中国:洛陽モリブデン集団、DRコンゴ銅・コバルト鉱山買収] </ref>。また、人権団体の[[アムネスティ]]は児童労働などでコンゴから得て硫酸コバルトや酸化コバルトなどコバルトの精製品の8割近くを生産している中国企業が[[アップル]]、[[マイクロソフト]]、[[サムソン]]、[[ソニー]]、[[ダイムラー]]、[[フォルクスワーゲン]]など[[多国籍企業]]に供給していると批判して問題となった<ref>{{cite web |url=https://jp.wsj.com/articles/SB10975626634061694908804584041830827471814|title=世界のバッテリー支配狙う中国、コバルト供給牛耳る|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2018-02-13|accessdate=2018-06-26}}</ref><ref>{{cite web |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52711|title=中国がコバルト市場を牛耳ったらどうなるか|publisher=[[JBPress]]|date=2018-03-30|accessdate=2018-06-26}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.amnesty.or.jp/news/2017/1129_7172.html|title=コンゴ民主共和国:巨大企業 コバルト採掘での児童労働問題を放置|publisher=[[アムネスティ]]|date=2017-11-29|accessdate=2018-06-26}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.amnesty.or.jp/news/2016/0125_5817.html|title=コンゴ民主共和国:スマートフォンの裏に児童労働|publisher=[[アムネスティ]]|date=2016-01-25|accessdate=2018-06-26}}</ref>。
 
 
 
また、ギニア湾沖に[[海底油田]]を擁しており、[[原油]]の輸出も盛んでコンゴ民主共和国の経済を支える重要な財源となっている。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[Image:Congo Transport Map.PNG|thumb|300px|コンゴ民主共和国交通図。青が水運可能な河川、黒が鉄道(以上2006年)、赤は舗装道路、黄は未舗装路(2000年)]]
 
{{main|コンゴ民主共和国の交通}}
 
[[ファイル:First train in Kindu, DRC.jpg|thumb|left|200px|再建された鉄道により[[ルブンバシ]]から[[キンドゥ]]に到着した列車。]]
 
コンゴ民主共和国の陸上交通は慢性的に困難な状態である。[[コンゴ盆地]]の地勢と気候は道路や鉄道を建設するのに深刻な障壁となり、この広大な国家を横断するための距離は莫大である。さらに、慢性的な経済的失敗と国内紛争によって長年に渡り、投資が深刻に低い水準に留まっている。
 
 
 
他方では、コンゴ民主共和国には数千キロの航行可能な水路が存在し、伝統的に[[水上交通]]は国の移動の約2/3を占めてきた。
 
 
 
コンゴ民主共和国によって保障された全ての航空会社は安全基準が不十分なため、[[欧州委員会]]により[[ヨーロッパ連合]]内の[[EU域内乗り入れ禁止航空会社の一覧|飛行・発着を禁止されている]]<ref>[http://ec.europa.eu/transport/air-ban/pdf/list_en.pdf List of airlines banned within the EU (24 July 2008)] - Official EC list</ref>。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
== 国民 ==
 
=== 民族 ===
 
{{main|[[:en:Demographics of the Democratic Republic of the Congo|Demographics of the Democratic Republic of the Congo]]|コンゴ民主共和国の国民}}
 
[[国際連合]]は2007年にコンゴ民主共和国の人口を6,260万人と推計した。1997年には4,670万人であったが、長引く戦争にもかかわらず急激な増加を示している。250以上の民族集団が認識され、名づけられている。[[バントゥー系民族|バントゥー系]]、{{仮リンク|中央スーダン語派|en|Central Sudanic languages|label=スーダン系}}、[[ナイロート|ナイル系]]などの[[ネグロイド|黒人]]が大半を占め、[[ピグミー]]が原住民として60万人いる。最も人口が多いのは[[コンゴ人]]、[[ルバ人]]、[[モンゴ人]]などである。
 
 
 
=== 言語 ===
 
[[ファイル:Map - DR Congo, major languages.svg|thumb|220px|コンゴの言語地図]]
 
{{main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の言語|fr|Languages of the Democratic Republic of the Congo}}}}
 
コンゴ民主共和国内には約242の言語が存在するが、[[公用語]]は[[フランス語]]である。[[アフリカの言語]]からは[[スワヒリ語]](キスワヒリ)、[[コンゴ語]](キコンゴ)、[[リンガラ語]]、[[ルバ語]]の4つが[[国民語]]として認められており、西部ではリンガラ語の影響力が、東部ではスワヒリ語の影響力がそれぞれ増す傾向にある。700もの地方語や方言が話されているが、この言語的不一致は、[[フランス語]]と、[[スワヒリ語]]、[[コンゴ語]]、[[リンガラ語]][[ルバ語]]といった仲介言語の広範な普及によって乗り越えられている。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{bar box
 
|title=コンゴ民主共和国の宗教<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tx.html CIA the World Factbook]</ref>
 
|titlebar=#ddd
 
|left1=宗派
 
|right1=パーセンテージ
 
|float=right
 
|bars=
 
{{bar percent|[[カトリック教会|カトリック]]|Red|50}}
 
{{bar percent|[[プロテスタント]]|Blue|20}}
 
{{bar percent|{{仮リンク|キンバングーイズム|en|Kimbanguism|label=キンバングー教会}}|Orange|10}}
 
{{bar percent|[[イスラム]]|Green|10}}
 
{{bar percent|[[アフリカ伝統宗教]]|Yellow|10}}
 
}}
 
{{main|コンゴ民主共和国の宗教|[[:en:Religion in the Democratic Republic of the Congo|Religion in the Democratic Republic of the Congo]]}}
 
 
 
コンゴ民主共和国の主要宗教は[[キリスト教]]であり、人口の約80%によって信仰されている。宗派ごとに見ると、[[カトリック教会|カトリック]]が50%、[[プロテスタント]]が20%、{{仮リンク|キンバングーイズム|en|Kimbanguism|label=キンバングー教会}}(キンバングー運動)が10%となる<ref name="Adherents">[http://adherents.com/adhloc/Wh_365.html "Zaire (Democratic Republic of Congo)", Adherents.com - Religion by Location.] Sources quoted are ''CIA Factbook'' (1998), 'official government web site' of ''Democratic Republic of Congo''. Retrieved 25 may 2007. </ref>。キンバングー教会は植民地時代に{{仮リンク|シモン・キンバングー|en|Simon Kimbangu}}によって創設され、植民地支配体制を批判する勢力となったためにベルギー当局によって弾圧された。キンバングー教会には約300万人の信徒が存在し<ref name="Adherents"/>、バス=コンゴとキンシャサのコンゴ人が主な担い手となっている。コンゴ民主共和国においてウィリアム・ブランハムは最も多くのキリスト教徒を集め、およそ2,000,000人の信徒が存在すると見積もられている{{要出典|date=2009年4月}} 。コンゴキリスト教会の傘下に62のプロテスタントの諸宗派が連合している。人口の20%以上を占めるプロテスタントをカバーしているため、単に「プロテスタント教会」と言及されることもある。
 
 
 
残りの20%の人口のうち、半数は[[ムスリム]]であり<ref>[http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2005/51462.htm "International Religious Freedom Report 2005"], [[アメリカ合衆国国務省|United States Department of State]]</ref> 、残りは[[伝統宗教]]か、習合した宗派を信仰している。イスラームは[[アラブ人]]の奴隷商人によって象牙交易などを通して普及された<ref>The Archaeology of Islam in Sub-Saharan Africa By Timothy Insoll</ref>。伝統宗教は[[一神教]]、[[アニミズム]]、[[生気論]]、[[霊魂崇拝]]、[[祖先崇拝]]、[[ウィッチクラフト]]、呪術などの概念によって具現化され、幅広い民族集団の間で異なっている。往々にして習合した宗派はキリスト教と伝統的な信仰や儀式を統合し、主流教会によってキリスト教の一部だとみなされることはない。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{main|コンゴ民主共和国の教育}}
 
[[ファイル:DRC classroom.jpg|thumb|left|260px|コンゴ民主共和国の教室]]
 
コンゴ民主共和国の教育システムは''Ministère de l’Enseignement Primaire, Secondaire et Professionnel (MEPSP'')、''Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire (MESU)'' 、''Ministère des Affaires Sociales (MAS)''の3つの省庁によって担われている。教育システムは[[ベルギー]]のものと似ている。2002年には、160,000人の生徒が通う19,000校以上の[[初等教育|初等学校]]と、110,000人の生徒が通う[[高等学校]][[中等教育]]を行う)が存在した。
 
 
 
しかしながら、コンゴ民主共和国の初等教育は必修ではなく、無料でも一般的なものでもなく、多くの児童は両親が入学金を支払うことができないために学校に通うことができない<ref name="ilab"/>。両親は慣習的に教員の給料を支払うことを期待されているのである<ref name="ilab"/>。1998年には、近年のデータが利用可能になり、初等教育の就学率の合計は50%だった<ref name="ilab"/>。就学率の合計は初等学校に正式に登録された生徒の数に基づいており、それゆえに実際の登校率に反映する必要はない<ref name="ilab"/>。2000年には、10歳から14歳までの児童の65%が学校に出席していた<ref name="ilab"/>。6年間の内戦のため、520万人以上の児童が教育を受けていない<ref name="ilab">"Congo, Democratic Republic of the". [http://usinfo.state.gov/infousa/economy/ethics/docs/tda2005.pdf ''2005 Findings on the Worst Forms of Child Labor'']. Bureau of International Labor Affairs, [[アメリカ合衆国労働省|U.S. Department of Labor]] (2006). ''This article incorporates text from this source, which is in the [[public domain]].</ref>。
 
 
 
2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は67.2%(男性:80.9% 女性:54.1%)である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cg.html 2009年7月30日閲覧</ref>。
 
{{Clearleft}}
 
=== 女性の地位 ===
 
{{main|コンゴ民主共和国の女性}}
 
[[ファイル:Fufuprep.jpg|thumb|left|180px|[[フフ]]を作る若い女性]]
 
2006年、国連女子差別撤廃委員会は、コンゴ民主共和国の戦後の過渡期において、女性の人権の尊重・両性の平等の促進が重視されていないことについて懸念を表明した<ref>{{cite web
 
|url=http://www.un.org/womenwatch/daw/cedaw/cedaw36/cc/DRC/0647846E.pdf
 
|title=Concluding comments of the Committee on the Elimination of Discrimination against Women: Democratic Republic of the Congo
 
|format=PDF
 
|date=2006-8-25
 
|accessdate=2010-1-25}}</ref>。
 
 
 
2007年、『[[ワシントン・ポスト]]』は、コンゴ東部でのレイプや性的暴力の深刻さ・頻度について、世界のほかのどの地域よりも悪いと伝えた<ref>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/08/AR2007090801194.html Prevalence of Rape in E.Congo Described as Worst in World]</ref>。アフリカ人権防衛協会の2006年の報告書は、コンゴ民主共和国の女性が法律的・日常的に直面する諸問題を概観している<ref>{{cite web
 
|url=http://www.peacewomen.org/un/ecosoc/CEDAW/36th_session/DRC/NGO_report.pdf
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070925192704/http://www.peacewomen.org/un/ecosoc/CEDAW/36th_session/DRC/NGO_report.pdf
 
|archivedate=2007年9月25日
 
|title=Violence Against Women in the Democratic Republic of Congo (DRC)
 
|format=PDF
 
|publisher=African Association for the Defence of Human Rights Réseau Action Femmes, 世界拷問防止機構
 
|accessdate=2010-1-25}}</ref>。戦争の中で女性たちは犯され続け、兵士たちの奴隷とされた。解放されたときには、自殺したり、あるいはそのまま入院して亡くなってしまう例も多かったという。<!-- この部分は英語版では削除されている: https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Democratic_Republic_of_the_Congo&diff=prev&oldid=402756612 -->
 
 
 
戦争は女性の生活を危ういものにした。そこでは、女性に対する暴力が「武器」として常用された。例えば、男性に銃を突き付けその人自身の娘や母や姉妹をレイプするように強要する事例が多数あったと報告されている<ref>{{cite web
 
|url=http://www.unhchr.ch/huricane/huricane.nsf/0/B5D0053875B01B8CC1257328003A8FEE?opendocument
 
|title=UN expert on violence against women expresses serious concerns following visit to Democratic Republic of Congo
 
|accessdate=2010-1-25}}</ref>。2007年7月には、国際赤十字委員会がコンゴ民主共和国東部の状態に懸念を表明した<ref>{{cite web
 
|url=http://www.irinnews.org/Report.aspx?ReportId=73033
 
|title=DRC: 'Civilians bearing brunt of South Kivu violence'
 
|quote=The International Committee of the Red Cross (ICRC) has expressed concern over abuses against civilians, especially women and children, in South Kivu in eastern Democratic Republic of Congo. It frequently receives reports of abductions, executions, rapes, and pillage.
 
|date=2 July 2007
 
|publisher=''[[IRIN]]''
 
|accessdate=2010-1-25}}</ref>。昼間は比較的平穏な生活を送りつつ、夜になると安全な場所への避難を余儀なくされる「振り子避難民」女性の存在も指摘された。暴力に関する国連特別報告者として2007年7月にコンゴ東部を視察したヤキン・エルトゥルク (Yakin Ertürk) によれば、南北キヴ州の女性に対する暴力は「想像を絶するほどの残虐性」を含んでおり、「武装集団が地域共同体を襲撃し、略奪し、レイプし、女性と子供を誘拐して性的奴隷としている」という<ref>{{cite web
 
|url=http://www.irinnews.org/Report.aspx?ReportId=73524
 
|title=DRC: 'Pendulum displacement' in the Kivus
 
|publisher=''[[IRIN]]''
 
|accessdate=2010-1-25}}</ref>。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
== 文化 ==
 
[[ファイル:Hemba male figure1.jpg|thumb|180px|エンバの男性像]]
 
{{main|コンゴ民主共和国の文化}}
 
 
 
コンゴ民主共和国の文化は数百を越す民族集団の多様性と、国全体を通した生き方の差異が反映されている。例えば沿岸部のコンゴ川の河口、上流の[[熱帯雨林]]、中央部のサヴァナ、東部の人口が密集した山岳部などである。19世紀末から伝統的な生き方は、植民地主義、独立の混乱、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]時代の停滞、そして近年の第一次コンゴ戦争や第二次コンゴ戦争などによって変容した。このような圧力にもかかわらず、コンゴの習慣や文化はその独自性を強く保っている。6,000万の住民は多くは農村部に居住している。都市部に居住する30%の人口は西側世界の文化の影響に強く開かれている。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
[[ポピュラー音楽]]においては、植民地時代の1930年代、1940年代に[[キューバ]]から[[ルンバ]]などの[[ラテン音楽]]がもたらされ、ベルギー領コンゴでも盛んにラテン音楽の演奏が行われた。また、1950年代には[[アメリカ合衆国]]の[[ジャズ]]も[[アフリカン・ジャズ]]として盛んに受容された。1956年には、「コンゴ音楽の王」とも呼ばれた、フランコこと[[フランソワ・ルアンボ・マキアディ]]がOKジャズ(後にTPOKジャズに改称)を結成。また、[[グラン・カレ]](偉大なるカレ)の名前で知られるジョゼフ・カバセレはアフリカン・ジャズを結成した。このような管楽器などを加えた大所帯バンドが流行り出し、[[ルンバ・コンゴリーズ]]が形成されるようになった。<ref>ポップアフリカ700 萩原和也著</ref>[[マーロ・マシ]]も同年代のミュージシャンである。
 
 
 
コンゴのポピュラー音楽はそのようなアメリカ大陸のリズムだけではなく、教会音楽や[[ガーナ]]の[[ハイライフ]]、さらにはコンゴの伝統音楽をも取り入れて発達していった。1969年に[[パパ・ウェンバ]]が中心となって[[ザイコ・ランガ・ランガ]]が結成された後のポピュラー音楽は、[[キューバ音楽]]の模倣を越えてザイール音楽を形成し、その流れのままザイールのポピュラー音楽の主要ジャンルとして諸外国に名を轟かせた、ルンバ・ロックや[[スークース|リンガラ・ポップス]]と呼ばれるジャンルが生まれた。リンガラ・ポップスのミュージシャンとしてはザイコ・ランガ・ランガの他に[[トゥ・ザイナ]]や[[タブー・レイ]]、[[オルケストル・ヴェヴェ]]、[[カンダ・ボンゴマン]]、[[サム・マングワナ]]などの名が挙げられる。
 
 
 
その他にも北東部の[[イトゥリ]]の森の[[ピグミー人]]には独自の音楽文化が存在する。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
{{Main|コンゴ民主共和国の世界遺産}}
 
コンゴ民主共和国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が5件存在する。
 
 
 
<div style="text-align:center"><gallery>
 
ファイル:Nyiragongo2004.jpg|[[ヴィルンガ国立公園]] - (1979年、自然遺産)
 
ファイル:White rhinoceros Hluhluwe-Umfolozi.jpg|[[ガランバ国立公園]] - (1980年、自然遺産)
 
ファイル:KahuziBiegaSign.jpg|[[カフジ=ビエガ国立公園]] - (1980年、自然遺産)
 
ファイル:Bonobo.jpg|[[サロンガ国立公園]] - (1984年、自然遺産)
 
ファイル:Epulu Okapi Reserve.jpg|[[オカピ野生生物保護区]] - (1996年、自然遺産)
 
</gallery></div>
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable" style="margin:auto;"
 
|+祝祭日
 
!日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考
 
|-
 
|[[1月4日]] ||独立の殉教者の日||''journée des Martyrs de l'indépendance'' ||
 
|-
 
|-
 
|[[1月16日]] ||||''date anniversaire de l'assassinat du Président de la République Laurent-Désiré Kabila'' ||
 
|-
 
|[[1月17日]] ||||''date anniversaire de l'assassinat du premier Ministre Patrice Émery Lumumba père de l' indépendance nationale'' ||
 
|-
 
|[[5月1日]] ||[[メーデー]] ||''journée internationale du travail'' ||
 
|-
 
|[[5月17日]] ||||''date anniversaire de la libération du Peuple de la tyrannie'' ||
 
|-
 
|[[6月30日]] ||[[独立記念日]] ||''date anniversaire de l'indépendance'' ||
 
|-
 
|[[8月1日]] ||[[両親の日]] ||''fête des parents/anciens'' ||
 
|-
 
|}
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
* [[ジョン・ムウェテ・ムルアカ]]
 
* [[ムエゼ・ンガングラ]] - 映画監督
 
* [[カマ・シウォール・カマンダ]] - 作家
 
* [[クロード・マケレレ]] - サッカー選手
 
 
 
== 日本との関係 ==
 
明治初期、[[岩倉使節団]]はベルギーを訪問した際、後に「コンゴ自由国」の支配者となるレオポルド2世に謁見した。
 
 
 
[[1921年]]([[大正10年]])の3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった[[裕仁親王]](後の[[昭和天皇]] )が、欧州訪問を行った際([[皇太子裕仁親王の欧州訪問]])、ベルギーに滞在していた6月11日、レオポルド2世の墓に参拝した。
 
 
 
昭和戦後には、[[京都大学]]に[[京都大学霊長類研究所]] が設置され、 コンゴ民主共和国におけるゴリラやチンパンジー、ボノボなどの霊長類などの調査・研究を行っている。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite journal|和書|author=梶茂樹 |title=モンゴ人のジレンマ : ザイール国語化問題の一断章(アフリカ研究編) |date=1991 |publisher=大阪外国語大学 |journal=大阪外大スワヒリ&アフリカ研究 |volume=2 |naid=110006177613 |pages=180-185 |ref=harv}}
 
* 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]] 2002/12
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[コンゴ民主共和国関係記事の一覧]]
 
<!--
 
* [[_の通信]]
 
* [[_の交通]]
 
* [[_の軍事]]
 
* [[_の国際関係]]
 
-->
 
* [[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]](1994年に自衛隊がルワンダ難民救援のために当時のザイールに派遣された。)
 
* [[シンコロブエ鉱山]]
 
* [[ミサ・ルバ]]
 
* [[オナトラ船]]
 
* [[山極寿一]]
 
* [[わたしは、幸福]] - コンゴ民主共和国を舞台とした2017年の映画
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:こんこみんしゆきようわこく}}
 
{{DEFAULTSORT:こんこみんしゆきようわこく}}
 
[[Category:コンゴ民主共和国|*]]
 
[[Category:コンゴ民主共和国|*]]
 
[[Category:共和国]]
 
[[Category:共和国]]
 
[[Category:フランコフォニー加盟国]]
 
[[Category:フランコフォニー加盟国]]

2018/8/29/ (水) 00:47時点における版

コンゴ民主共和国
République Démocratique du Congo
国の標語:Démocratie - Justice - Unité
(フランス語:民主主義、正義、団結)
公用語 フランス語
首都 キンシャサ
最大の都市 キンシャサ

面積

総計 2,345,410km211位
水面積率 3.3%

人口

総計(2012年 67,800,000人(???位
人口密度 25人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年 6兆5,264億[1]コンゴ・フラン
GDP (MER)

合計(2008年 115億[1]ドル(113位
GDP (PPP)

合計(2008年206億[1]ドル(81位
1人あたり 328[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ベルギーより
1960年6月30日
通貨 コンゴ・フラン (CDF)
時間帯 UTC +1 ~ 2(DST:なし)
ISO 3166-1 CD / COD
ccTLD .cd
国際電話番号 243

コンゴ民主共和国(コンゴみんしゅきょうわこく)

アフリカ中央部,赤道にまたがる国。1997年までザイール共和国。北は中央アフリカ共和国南スーダン,東はウガンダルワンダブルンジタンザニア,南東はザンビア,南西はアンゴラ,西はコンゴ共和国に国境を接し,一部は大西洋に臨む。10州とキンシャサ特別区からなる。コンゴ川とその諸支流が流れる熱帯雨林コンゴ盆地が国土の大部分を占め,東部はアフリカ大地溝帯(グレートリフトバレー)のいくつかの湖と山脈,南部はカタンガ高原である。赤道地帯は高温多湿で気温は年間 24℃を下らず,ほかの地域は乾季(4~10月)と雨季が明瞭。旧石器時代末期から人類が居住,16世紀前後にはコンゴ王国をはじめいくつかの王国が築かれていたが,16世紀以降ヨーロッパ人やアラブ人が進出。1870年代後半~1880年代前半にヘンリー・M.スタンレーがコンゴ川を探検,ベルギー国王レオポルド2世の命を受けて流域に植民地化のための基地を建設,1885年レオポルド2世私有のコンゴ自由国が成立,1908年ベルギー植民地となり,ベルギー領コンゴと呼ばれた。1950年代後半から独立の機運が高まり,1959年1月にレオポルドビルで勃発したベルギーへの抵抗闘争がきっかけとなって 1960年6月コンゴ共和国として独立。その直後からコンゴ動乱が起こり,1965年クーデターでモブツ・セセ・セコが政権を奪取し 1971年ザイール共和国となり,復興と発展を遂げた。しかし,30年以上に及ぶモブツ大統領の体制と民主化の停滞に加え,1996年にルワンダの国境地帯から始まった紛争によって 1997年5月政権が交代。国名もザイールからコンゴ民主共和国に変更された。以後,周辺国の介入もあり収拾のつかない内戦状態が続いている。鉱物資源に恵まれ,銅,コバルトをはじめ,工業用ダイヤモンド,亜鉛,スズ,銀,カドミウム,マンガン,金などを豊富に輸出。そのほか木材をはじめ綿花,ゴム,コーヒー,サイザルアサ,砂糖,パーム油なども輸出。工業も発展しつつあり,たばこ,醸造,セメントなどのほか,製鉄,アルミニウム精錬,石油精製などのプラントが稼働。住民の大部分はバンツー語系諸族で,200余の種族に分かれ,そのほかはスーダン語系,ナイル語系諸族ムブティ族(いわゆるピグミー)など。民族固有の宗教のほかキリスト教が広く普及。公用語はフランス語であるが,リンガラ語,スワヒリ語なども広く用いられる。


脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]

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