如来
如来 (にょらい)とは、仏教において、真理(如)に随って来た、真如より現れ出た者、すなわち仏陀のこと[1]。仏の十の称号である十号の一つに数えられる[2][3]。如来には10の別名があり、如来の十号または十号と呼ばれる(十号#異説を参照)[1]。如来は中道を取得した存在である[4]。
如来の意味は、そのパーリ語・サンスクリットなどの原語から解釈したものや、「如来」・「如去」という漢訳語から再解釈したものなど多岐に渡るため、一概に決定説を挙げることはできない(#語義の解釈の節を参照)。
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原語と漢訳
原語は梵: तथागत(tathāgata、タターガタ)であり、多陀阿伽陀(ただあかだ)、多陀阿伽度(ただあかど)などと音写し、如来や如去と訳す[1][2][注釈 1]。この上なき尊い者という意味で無上上ともいわれる[1]。
語義の解釈
ブッダゴーサ(仏音)よる解釈
ブッダゴーサによる語義釈[5]の全てではないが、一部として、
- tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。
- tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。
- tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) - 「真如 (tatha タタ) の特徴を悟った者」。
などがある。
中村元による解釈
仏教学者の中村元によれば、「タターガタ」(tathāgata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する語であって、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の大乗仏教的な見解がひそんでいて、初期仏教における語義とは乖離があるという[6]。
真身如来
- 如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(『成実論』1)
- 如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。(『転法輪経憂波提舎』)
- 如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。(『大智度論』 24)
応身如来
真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。
- 如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末) 諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。
- つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。[7]
如来の例
代表的な如来である釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来のことを四如来という。
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 総合仏教大辞典編集委員会(編) 『総合仏教大辞典』下巻、法蔵館、1988-01。
- ↑ 2.0 2.1 “如来(にょらい)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. . 2017閲覧.
- ↑ “十号(じゅうごう)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. . 2017閲覧.
- ↑ 大犍度
- ↑ 荻原雲来『怛他伽多(tathagata)と云ふ語の起原と其の意義』
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