大河兼任
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大河 兼任(おおかわ かねとう、生年不詳 - 1190年[1]4月16日[2](文治6年3月10日[3]))は、平安時代後期から鎌倉時代前期の武将[3]。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党[2]。大河兼任の乱を引き起こした。
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経歴
家系、父母ともに不明。藤原泰衡の郎党であったとされているが、弟の新田三郎、二藤次忠季が御家人と記録されていることから、奥州藤原氏滅亡後一旦御家人となったとも推察されている。子に鶴太郎、於幾内次郎。
通説では出羽国北部八郎潟沿岸の大河(現秋田県五城目町大川)の豪族だとされる[1]が、陸奥国津軽地方の豪族だったのではないかとする説[2][4]もある。奥州藤原氏が滅亡した奥州合戦の直後より鎌倉政権への叛逆を企て、1189年(文治5年)12月、出羽国に挙兵。『吾妻鏡』によると総勢7000騎から最大で10000騎に及んだという。一説に安倍頼時の子の1人で安倍貞任、安倍宗任の弟、安倍行任、安倍家任の兄弟・安倍正任が兼任の高祖父にあたるという(正任の4代孫)。この説が事実ならば、兼任は正任の玄孫、頼時の来孫ということになる。
男鹿地方の地頭橘公業の拠点を襲撃し、一時は由利維平、津軽の宇佐美実政らを討ち取るなど戦闘を優勢に進め平泉を占拠したが、足利義兼を追討使とした追討軍に栗原郡一迫(現栗原市)で敗れ敗走。3月10日に栗原寺で地元の樵に立派な具足を怪しまれ、斧で斬殺された[2][3]。
主君の敵討ちの元祖
『吾妻鏡』に、兼任の言葉として「古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。いまだ主人の敵を討つの例あらず。兼任独りその例を始めんがために鎌倉に赴くところなり」との記事があることから、主君の敵討ちの元祖と言われている。