「アルプス山脈」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル '''アルプス山脈'''(アルプスさんみゃく、{{Lang-la-short|Alpes}} アル...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{山系
+
[[ファイル:雪に覆われたアルプス.フランス.jpg|サムネイル]]
|名称=アルプス山脈
 
|画像=[[ファイル:Alps.space.300pix.jpg|300px]]
 
|画像キャプション = アルプス山脈の衛星写真 (2002年5月撮影)
 
|所在地={{AUT}}<br />{{SLO}}<br />{{ITA}}<br />{{SUI}}<br />{{LIE}}<br />{{DEU}}<br />{{FRA}}
 
| 緯度度 = 46 | 緯度分 = 33 | 緯度秒 = 0 | N(北緯)及びS(南緯) = N
 
| 経度度 = 10 |経度分 = 4 | 経度秒 = 0 | E(東経)及びW(西経) = E
 
| 地図国コード = IT
 
|最高峰=[[モンブラン]]
 
|標高=4,810.<small>9</small>
 
|延長=1,200
 
|幅=100-400}}
 
[[ファイル:Mont Blanc oct 2004.JPG|right|250px|thumb|アルプス山脈最高峰 モンブラン山]]
 
[[ファイル:Matterhorn-EastAndNorthside-viewedFromZermatt landscapeformat.jpg|right|250px|thumb|[[ツェルマット]]から見たマッターホルン山]]
 
  
'''アルプス山脈'''(アルプスさんみゃく、{{Lang-la-short|Alpes}} アルペース、{{Lang-fr-short|Alpes}}、{{Lang-it-short|Alpi}}、{{Lang-de-short|Alpen}}、{{Lang-en-short|Alps}})は、[[アルプス・ヒマラヤ造山帯]]に属し、[[ヨーロッパ]]中央部を東西に横切る「[[山脈]]」である。[[オーストリア]]、[[スロベニア]]を東端とし、[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[リヒテンシュタイン]]、[[スイス]]各国にまたがり、[[フランス]]を南西端とする多国にまたがっている。アルプ(スイスの高山山腹の夏季放牧場;{{Lang-en|alp}},{{Lang-fr|alpe}},{{Lang-de|Alpe}})がいっぱいであるからアルプスであると考える説と、[[ケルト語]]の alp「岩山」を語源とし、[[ラテン語]]を経由したと考える説がある。最高峰の[[モンブラン]]は標高4,810.9m([[2007年]])で、フランスとイタリアの国境をなし、ヨーロッパの最高峰<ref>ヨーロッパとアジアの境にある[[カフカース山脈]]の[[エルブルース]](5,642m)をヨーロッパ最高峰とする考え方もある。</ref>でもある。
+
'''アルプス山脈'''(アルプスさんみゃく、{{Lang-la-short|Alpes}} アルペース、{{Lang-fr-short|Alpes}}、{{Lang-it-short|Alpi}}、{{Lang-de-short|Alpen}}、{{Lang-en-short|Alps}}
  
アルプス山脈はヨーロッパの多数の河川の水源地となっており、ここから[[ドナウ川]][[ライン川]]、[[ローヌ川]]、[[ポー川]]、といった大河川が流れ出て、それぞれ[[黒海]]、[[北海]]、[[地中海]]、[[アドリア海]]へと注ぐ。
+
[[フランス]][[イタリア]]国境から[[スイス]][[オーストリア]]を走る大山系の総称。ドイツ語ではアルペン Alpen,フランス語ではアルプ Alpes,イタリア語ではアルピ Alpi。主として[[中生代]]の古地中海である[[テチス海]]に堆積した厚い[[地層]]が,[[古第三紀]]に激しい[[褶曲]]を受けて形成された。しかし同じく新期造山帯に属する[[アンデス山脈]]や[[ヒマラヤ山脈]]のような越えがたい地形障害ではなく,数多くの峠があって昔から重要な交通路としての役割を果たしてきた。最高峰の[[モンブラン]](4807m)をはじめ,[[モンテローザ]](4634m),[[マッターホルン]](4478m),[[ユングフラウ]](4158m)などの高山がそびえる。今日の[[雪線]]は 2500mと 2900mの間にあり,ユングフラウからの[[アレッチ氷河]]をはじめ大小の[[氷河]]が見られる。[[氷期]]にはほとんどの山地が氷河に覆われ,氷河の末端は山麓近くに及んでいた。[[レマン湖]][[コモ湖]][[マッジョーレ湖]]など風景美で知られた湖は,いずれも氷河の作用で削られた低地に水がたたえられたものである。高地では家畜の移牧による牧畜や酪農が盛ん。低地では山あいの谷間やなだらかな山腹を利用してブドウその他の栽培が行なわれている。産業の中心は観光事業で,この地方の収入の大部分を占めている。[[シャモニー]](フランス),[[ツェルマット]][[グリンデルワルト]][[インターラーケン]][[ザンクトモリッツ]][[ダボス]](以上スイス),ザンクトアントン,[[インスブルック]][[キッツビューエル]][[ザルツブルク]](以上オーストリア)などは観光地,観光基地として有名。水力開発が進み,精密工業も発展している。1965年[[モンブラン・トンネル]]が,1980年サンゴッタルド・トンネルが開通し,それぞれフランスとイタリア,スイスとイタリアを結ぶ新動脈となった。アルプ(ス)の語はこの地方で本来,樹木限界線より上にある牧草地を意味するが,一般に主要山系の意に解され,[[オーストラリアアルプス]][[日本アルプス]]などの呼称を生んでいる。
 
 
== 地理 ==
 
[[Image:Alps-WestEast.jpg|thumb|300px|[[フランス]][[スイス]]、[[リヒテンシュタイン]]、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]、[[スロベニア]]各国に渡るアルプス山脈と{{legend-line2|red solid 2px|東西アルプスの境界}}]]
 
アルプス山脈は、イタリアの[[コモ湖]]からスイスとリヒテンシュタインおよびオーストリア国境(ライン川)を結ぶ線で[[東アルプス山脈]]と[[西アルプス山脈]]に分けられている。
 
 
 
=== 西アルプス山脈 ===
 
さらに西アルプス山脈は[[グルノーブル]]と[[トリノ]]を結ぶ線を境として、南を南西アルプス山脈、北を北西アルプス山脈と称する。南西アルプス山脈は地中海にまで伸びている。また、北西アルプス山脈はスイスアルプス全域を含む。また、この両山脈もさらに細かい山脈へと細分されており、北西アルプス山脈にはモンブランを含む[[グライエアルプス山脈]]や、モンテ・ローザやマッターホルンを含む[[ペンニネアルプス山脈]]などが含まれている。
 
 
 
南西アルプス山脈は高度を下げながら地中海の至近まで迫っている。高峰としては[[モンテ・ヴィーゾ山]]などがある。アルプスで最も標高の高いのは北西アルプスであり、アルプスの4000m以降の高峰はすべてこの山脈中に位置する。北西アルプスは東西に並行して走る二つの山系によって大きく分かれている。南を走る山系には、西から[[モンブラン]]、[[エギーユ・デュ・ミディ]]、[[グランド・ジョラス]]などを含む[[グライエアルプス山脈]]や、[[モンテ・ローザ]][[マッターホルン]]などを含む[[ペンニネアルプス山脈]]などが含まれる。北の山系には、 [[アイガー]]、[[ユングフラウ]]、[[メンヒ]]などを含むベルナー・オーバーラント山脈やグラルナー・アルプス山脈などが含まれる。この両山系の間には[[ローヌ川]]の河谷があり、細長いヴァリス渓谷を形成している。マッターホルン北麓にある[[ツェルマット]]と、ユングフラウの北麓にある[[グリンデルヴァルト]]はそれぞれの地域の観光・登山の拠点都市となっている。また、[[ベルナー・オーバーラント]]の東側に位置する[[ルツェルン湖]](フィーアヴァルトシュテッテ湖)周辺の4州(ルツェルン州、ウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州…[[ニトヴァルデン準州]]と[[オプヴァルデン準州]])は、スイス発祥の地であり、[[ウィリアム・テル]]の伝説で知られる地域である。スイスの国土面積におけるアルプスの割合は60%にものぼり、スイスの経済や文化に大きな影響を与えている。また、南麓のほとんどはイタリア領であるが、一部はスイス領の[[ティチーノ州]]となっている。この南麓には[[ルガーノ湖]]、[[マッジョーレ湖]]、[[コモ湖]]、[[ガルダ湖]]といった南北に細長い[[氷河湖]]が点在し、その湖畔に[[ルガーノ]]、[[ロカルノ]]、[[コモ]]といったリゾート地が点在する。
 
 
 
=== 東アルプス山脈 ===
 
東アルプス山脈は、東西ではなく南北で分けられている。すなわち、もっとも北を走りドイツとオーストリアの国境を一部成す北東アルプス山脈、中央部を走りオーストリアとイタリアの国境を主になす中央東アルプス山脈、そしてイタリア北部からオーストリア南部の[[ケルンテン州]]へと延び、ケルンテン州や[[シュタイエルマルク州]]とスロベニア共和国の間の国境をなす南東アルプス山脈の3つである。南東アルプス山脈には[[ドロミティ]]山脈や[[ジュリアアルプス山脈]]などが含まれている。
 
 
 
北東アルプス山脈の西部、ドイツ・オーストリア国境部分のドイツ側北麓は、最も西にありレヒ川以西を領域とするアルゴイ・アルプス、[[レヒ川]]とイン川に挟まれた中部のバイエルン・アルプス、最も東にある[[イン川]]以東のザルツブルグ・アルプスの3つに分けられる。アルゴイ・アルプスは牧歌的な風景で知られる。バイエルン・アルプスにはドイツ最高峰である[[ツークシュピッツェ山|ツークシュピッツェ]](2,962m)があり、また[[ガルミッシュ=パルテンキルヒェン]]などのスキーリゾートが多く存在する<ref> 『事典現代のドイツ』p38(大修館書店、1998年) </ref>。また、[[バイエルン王国|バイエルン王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]によって19世紀後半に建設された[[ノイシュヴァンシュタイン城]]はアルプスでも最も人気のある観光地の一つである。ルートヴィヒ2世はほかにもこの地域に、[[ホーエンシュヴァンガウ城]]と[[リンダーホーフ城]]の二つの城を建設している。ザルツブルグ・アルプスにある[[ベルヒテスガーデン]]は保養地として知られている。このアルプス北麓には[[ドイツ観光街道]]の一つである[[ドイツ・アルペン街道]]がボーデン湖畔のリンダウからベルヒテスガーデンまで450㎞にわたって走っており、多くの観光客が訪れる。[[ザルツブルク]]南方でドイツとの国境部分は終わるが、北東アルプスはなおも東へと延びる。ザルツブルク東方のザルツカマーグート地方を抜け、ウィーン周辺に広がる[[ウィーンの森]]がこの山脈の末端となる。
 
 
 
北東アルプス山脈と中央東アルプス山脈の間にはイン川の谷が広がり、スイス・[[グラウビュンデン州]]の東部を通ったのち[[チロル]]地方の中心部をなしている。イン川上流部の[[エンガディン地方]]はその風景の美しさで知られ、特にその上流部である[[オーバーエンガディン]]の中心地である[[サン・モリッツ]]はスキーリゾートを中心に栄える観光都市である。またサン・モリッツの北約30㎞のところにある[[ダヴォス]]もスキーリゾートとして知られ、またこの環境と宿泊施設等の充実ぶりから[[世界経済フォーラム]](ダヴォス会議)の開催地に選ばれ、毎年会議が行われている。この谷の中央部にある[[インスブルック]]は、この谷を通って東西へと延びる交易路と、中央東アルプス山脈の[[ブレンナー峠]]を通って南北に延びる交易路の結節点として栄えてきた。
 
 
 
中央東アルプス山脈はオーストリアとイタリアの国境をなしながら東へと延びる。中央部のブレンナー峠はドイツとイタリアとを結ぶ交通路の中でも最も利用されたものの一つであり、アルプス東部で最も重要な峠だった。やがてオーストリア領内へと入り、オーストリア最高峰の[[グロースグロックナー山]]はこの山脈に存在する。グロースグロックナー山を中心とする[[ホーエ・タウエルン国立公園]]は中央ヨーロッパで最大の国立公園となっている。
 
 
 
中央東アルプス山脈と南東アルプス山脈の間には[[南チロル]]地方の[[ボルツァーノ自治県]]や[[ケルンテン州]]などが広がる。
 
 
 
南東アルプス山脈は[[ドロミティ]]山脈などを含むイタリア領内を東西に延びたのち、オーストリアとスロヴェニアの国境をなす。スロヴェニア最高峰の[[トリグラウ山|トリグラウ]] (2,864m)もこの山脈内の[[ジュリアアルプス山脈]]に存在する。
 
 
 
 
 
=== 主要峰 ===
 
[[ファイル:Jalovec Kotovo sedlo.jpg|right|250px|thumb|アルプス山脈の一つ、スロベニアのヤロヴェツ]]
 
* [[モンブラン]] (4,810.9m) - 西ヨーロッパ最高峰、フランス最高峰、イタリア最高峰
 
* [[モンテ・ローザ]] (4,609m) - スイス最高峰
 
* [[マッターホルン]] (4,478m)
 
* [[グランド・ジョラス]] (4,208m)
 
* [[ユングフラウ]] (4,158m)
 
* [[グラン・パラディーゾ]] (4,061m)
 
* [[アイガー]] (3,975m)
 
* [[グロースグロックナー山|グロースグロックナー]] (3,798m) - オーストリア最高峰
 
* [[ツークシュピッツェ山|ツークシュピッツェ]] (2,962m) - ドイツ最高峰
 
* [[トリグラウ山|トリグラウ]] (2,864m) - スロベニア最高峰
 
 
 
===峠一覧===
 
[[ファイル:Col du Grand Saint Bernard 090923.jpg|right|250px|thumb|アルプスの主要峠の一つ、[[グラン・サン・ベルナール峠]]]]
 
* [[イズラン峠]] (2,770m)
 
* [[ガリビエ峠]] (2,645m)
 
* [[グラン・サン・ベルナール峠]] (2,473m)
 
* [[グランドン峠]] (1,924m)
 
* [[ステルビオ峠]] (2,758m)
 
* [[テレグラフ峠]] (1,566m)
 
* [[プチ・サン・ベルナール峠]] (2,188m)
 
* [[ブレンナー峠]] (1,370m)
 
* [[プロッケン峠]] (1,357m)
 
* [[ボネット峠]] (2,715m)
 
* [[マドレーヌ峠]] (2,000m)
 
* [[モン・スニ峠]] (2,083m)
 
* [[ロータレ峠]] (2,058m)
 
* [[クロワ・ド・フェール峠]] (2,067m)
 
* [[ゼメリング峠]] (965m、当山脈のほぼ東端)
 
 
 
== 地質学的成因 ==
 
[[漸新世]]から[[中新世]]にかけアフリカ大陸がヨーロッパ大陸へ衝突したことで、[[白亜紀]]に[[テーチス海]]で堆積した地層が圧縮され盛り上がって出来た。強い圧力は横臥褶曲と衝上断層により地層にナッペと呼ばれる壮大な遠方移動を生じさせた。今日の景観は過去2百万年間にあった少なくとも5回の氷期の氷河作用が作り上げたものである。最後の氷期が終わった1万年前に気候は大きく変化し、[[氷河]]は山脈の奥に後退し、アルプスの森林に巨大な花崗岩の遺石を残した。また、[[氷食]]によってえぐりとられ、[[U字谷]]となった渓谷の端には氷河の堆積物がたまって渓谷をふさぎ、[[コモ湖]][[ボーデン湖]]、[[ルガーノ湖]]、[[レマン湖]]、[[ルツェルン湖]]といった細長い氷河湖がアルプス全域に散在することとなった。現在でも、アルプスには大小1300の氷河が存在し、アルプス全体の2%を占めている<ref>「ビジュアルシリーズ世界再発見4 イギリス・中央ヨーロッパ」p124 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷発行</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代 ===
 
[[ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|right|250px|アルプス山脈を越えるハンニバルの軍]]
 
アルプス山脈には、非常に古くから人類が居住していた。[[1991年]]には、オーストリア・イタリア国境の[[エッツ渓谷]]において、[[紀元前3300年]]頃のミイラ化した遺体が溶けた氷河の下から発見された。この遺体は[[アイスマン]]と呼ばれ、解剖や遺伝子調査によって多くの科学的知見をもたらした。
 
 
 
アルプス山脈に居住した人々の中で、最初に記録に残っている人々は[[ケルト人]]である。[[紀元前8世紀]]ごろにはすでにケルト人の祖先がアルプス全域に居住していた。やがてアルプス南麓のイタリア半島は[[ローマ共和国]]の支配下に入る。[[紀元前218年]]、ローマ共和国を奇襲するため[[カルタゴ]]の[[ハンニバル・バルカ]]は現在のフランスから、戦象を先頭に立ててアルプスを越えた。歴史上著名な、ハンニバルのアルプス越えである。彼は大規模な軍を率いて初めてアルプスを越えた将軍であり、この予想だにせぬ方向からの[[奇襲]]によって[[共和政ローマ|ローマ]]に衝撃を与えた。ただ、ハンニバルが実際に通った場所がどこだったかについてはいまだに定説がない。これによって[[第二次ポエニ戦争]]がはじまった。
 
 
 
第二次ポエニ戦争がローマの勝利に終わった後もなお1世紀以上はアルプスはケルト人の領土であったが、[[紀元前58年]]から[[紀元前51年]]にかけて、ローマの[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]がガリア戦争を起こし、ヘルウェティ族など西アルプスのケルト人たちは敗北してローマの支配下に組み込まれた。その後も[[ローマ帝国]]の北進は続き、[[15年]]から[[16年]]にかけて[[ラエティア]]と[[ノリクム]]を征服。これによってローマ帝国の防衛線は[[ライン川]]と[[ドナウ川]]をつなぐ線まで拡大し、アルプス山脈は全域がローマ帝国の支配下に置かれた。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[File:Teufelsbrücke.jpg|thumb|250px|[[ゴッタルド峠|ザンクト・ゴットハルト峠]]の[[魔橋]]]]
 
やがてローマ帝国は衰微し、[[375年]]から始まる[[ゲルマン民族の大移動]]によってアルプスのローマ支配は崩壊する。到来したゲルマン人たちは東アルプスおよびスイスの東半において多数派となった。それに対し、古くから住むローマ人たちは西アルプス西部並びに南麓において多数派を維持した。この民族分布は9世紀ごろに最終的に固定し、基本的にはほぼ現代の民族分布となった。[[411年]]にはアルプス西部に定着した[[ブルグント族]]が[[ブルグント王国]]を建国し、一度滅亡したものの[[443年]]に再興してアルプス西部全域を支配下におさめた。しかし、やがてゲルマン人の中から[[フランク王国]]がライン流域より勢力を拡大し、[[534年]]にはブルグント王国を滅ぼして西アルプス北麓をほぼ支配下におさめた。さらに[[カール大帝]]は[[773年]]にイタリア半島北部の[[ランゴバルド王国]]と戦うためにアルプスを越え、翌[[774年]]にランゴバルド王国は滅亡。さらにカールは東方へと勢力を伸ばし、[[791年]]には[[ハンガリー平原]]の[[アヴァール人]]を討って東アルプス全域を占領し、ここに再びアルプスは単一政府の支配下に置かれた。しかし、カールの息子である[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ(ルイ)1世]]の死後、フランク王国は3つに分裂。[[843年]]の[[ヴェルダン条約]]により、西アルプスとアルプス南麓は[[中フランク王国]]に、東アルプスは[[東フランク王国]]領となった。さらに[[870年]]の[[メルセン条約]]によって、中フランク王国は[[イタリア王国]]となってアルプス南麓を、東フランク王国はアルプス北麓を領するようになる。この混乱の中でブルグント族は勢力を再び拡大していき、[[879年]]には[[プロヴァンス地方]]を中心に[[キスユラブルグント王国]](低地ブルグント王国、下ブルグント王国)、[[888年]]には現在のスイス西部を中心に[[ユーラブルグント王国]](高地ブルグント王国、上ブルグント王国)を建国。[[933年]]にはユーラブルグント王国がキスユラブルグント王国に進攻してこれを滅ぼし、ブルグントを再び統一。ブルグント王国([[アルル王国]])と称した。[[963年]]には、東フランク王国の後身である[[神聖ローマ帝国]]はイタリア王国を併合し、ふたたびアルプスの南北が統一王権によって支配されることとなった。さらに[[1032年]]には最後のブルグント王であるルドルフ3世が死去し、ルドルフ3世の姪と結婚したローマ皇帝[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]がブルグント王となることで、ブルグント王国は神聖ローマ帝国に併合された。
 
 
 
歴代の神聖ローマ帝国は[[イタリア王]]の称号を持つことから積極的な[[イタリア政策]]を行い、アルプスの南北の統一支配に努めたが、[[1254年]]に[[ホーエンシュタウフェン朝]]が断絶すると20年以上にわたり[[大空位時代]]となり、この時期に各地の領邦君主が自律性を持ち、神聖ローマ帝国はなかば[[領邦]]君主の連合体となっていった。この時期には、アルプスにも2つの有力領邦が登場してくる。オーストリアとスイスである。もともと現在のスイス北部の領主だった[[ハプスブルク家]]は、[[1273年]]に[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が神聖ローマ皇帝に選出されたのを機に勢力を拡大していき、[[1278年]]には[[オーストリア公国]]を獲得。以後ハプスブルク家はここを拠点として西へと進出し、[[1335年]]には[[ケルンテン公国]]を獲得、[[1363年]]には[[チロル]]伯領を獲得して東アルプス全域を支配下に置いた。一方西アルプス東部においては、13世紀に[[ザンクト・ゴットハルト峠]]が開通したことで、その麓に当たる[[ウーリ州]]、[[シュヴィーツ州]]、[[ウンターヴァルデン州]]の3州が経済力を蓄え、1291年8月1日にスイス誓約同盟を結成した<ref>「図説スイスの歴史」p30 踊共二 河出書房新社 2011年8月30日初版発行</ref>。この同盟は峠の支配と自治をめぐってハプスブルク家と対立したが、[[1315年]]のモルガルテンの戦いで誓約同盟軍はオーストリア軍を破り、以後誓約同盟は[[ルツェルン]]や[[ベルン]]など近隣の州と次々と盟約を結び、勢力を拡大していった。これを警戒したハプスブルク家の[[レオポルト3世 (オーストリア公)|レオポルト3世]]を[[1386年]]のゼンパッハの戦いで敗死させ、誓約同盟はアルプス中央部の主要勢力へと躍り出る。[[1415年]]にはハプスブルク家の父祖の地である[[アールガウ州]]を誓約同盟は獲得し、アルプス中央部からハプスブルク家の勢力は一掃された。その後も誓約同盟の拡大は止まらず、16世紀初頭にはアルプス中央部をほぼ支配下におさめた。また、南西アルプスにおいてはフランス王国が[[1349年]]に[[ドーフィネ]]を獲得し、さらに[[プロヴァンス]]を獲得してアルプス西端を勢力範囲としていた。
 
 
 
=== 近代 ===
 
[[ファイル:Jacques-Louis_David_007.jpg|thumb|200px|『[[ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト|アルプスを越えるボナパルト]]』(1801年)]]
 
[[17世紀]]初頭の[[三十年戦争]]により神聖ローマ帝国は事実上形骸化し、またイタリアとスイスは神聖ローマ帝国から分離することとなった。フランス革命はこの地域の政治情勢に大きな変化をもたらした。[[1798年]]にはスイスはフランスに屈服し、[[ヘルヴェティア共和国]]としてフランスの衛星国となった。[[1800年]]5月には[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]がイタリア遠征のために[[ジュネーブ]]を進発し、[[グラン・サン・ベルナール峠]]を越え北イタリアへ進出した。このときナポレオンは自らをハンニバルになぞらえて鼓舞したという。このアルプス越えの時のナポレオンの雄姿(白馬に騎乗した姿)を、ナポレオンに仕えた[[宮廷画家]]の[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が、「[[ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト]]」として描いている。これによって北イタリアもフランスの手に落ち、[[1805年]]の[[プレスブルクの和約]]によってオーストリアもチロルなどアルプスの主要部分をフランスへと割譲させられた。しかしナポレオン没落後の[[1815年]]、[[ウィーン議定書]]によってアルプスの国境線は基本的には戦前の境界に戻された。ただし、リヒテンシュタイン公国は独立し、ヴェネトおよびロンバルディアはオーストリア領となり、スイス各邦でもナポレオン戦争中に独立した新邦はそのまま連邦加盟を認められた。
 
 
 
近世後期より、アルプス山脈の各高峰に挑む[[登山家]]が現れた。[[1760年]]、[[ジュネーヴ大学]]の教授であった[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]が当時未踏峰であった[[モン・ブラン]]への初登頂に対して20[[ターラー (通貨)|ターラー]]の[[懸賞]]をつけたことが近代[[登山]]の創始とされる。ソシュール自身は[[1785年]]に登頂に挑戦したものの失敗し、結局翌[[1786年]]にシャモニーの医師ミシェル・パカールとポーターのジャック・バルマによってモンブランの登頂が成し遂げられた<ref>『観光大国スイスの誕生 「辺境」から「崇高なる美の国」へ』p54 河村秀和 平凡社新書 2013年7月12日初版第1刷</ref>。この後もソシュールは研究を目的としてアルプスの高峰に登り続けた。このほか、[[ルイ・アガシー]]なども研究目的で登山を行っている。
 
 
 
19世紀中盤に入ると、アルプス周辺の国境線は再び大きく変動する。[[1847年]]の[[分離同盟戦争]]によってスイスは国家連合から連邦国家となり、[[1859年]]には[[サルディニア王国]]がオーストリアを破って[[ロンバルディア]]を併合した。この際に、[[1858年]]にフランスとサルディニアで結ばれた[[プロンビエールの密約]]の再履行によって、レマン湖南岸の[[サヴォワ]]地方がフランスへと割譲された。サルディニアは[[1860年]]には[[イタリア王国]]となる。[[1866年]]には[[普墺戦争]]によって[[ヴェネト]]地方を獲得したものの、なお両国間には[[南チロル]]などを巡って紛争の火種が残った。[[1870年]]にはプロイセン王国が[[バイエルン王国]]などの南ドイツ諸邦を吸収する形で[[ドイツ帝国]]が成立し、ここに東アルプス北麓はドイツ領、アルプス南麓はほぼイタリア領となった。
 
 
 
この後、[[19世紀]]半ばにスポーツ登山がはじまる。[[1854年]]にはイギリス人のウィルスがウェッターホルン登頂を成し遂げ<ref>「国民百科事典1」平凡社 p122 1961年2月1日初版発行</ref>、[[1857年]]には[[イギリス]]で[[英国山岳会]](アルパイン・クラブ=アルプスのクラブ)が発足する。[[1865年]]には[[エドワード・ウィンパー]]によって[[マッターホルン]]が登頂され、この時期にスポーツとしての登山がアルプスを舞台として成立した。
 
 
 
[[第一次世界大戦]]後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、イタリアは南チロルを得、またアルプス東南端は[[ユーゴスラビア王国]]領となった。第二次世界大戦中は、[[1938年]]の[[アンシュルス]]と[[1940年]]のフランスの敗北によって一時大部分が枢軸側となる中、スイスは[[アンリ・ギザン]]の指導下でアルプスを要塞・防衛線とした徹底的な防衛態勢を敷き、終戦まで中立を守り抜いた。[[冷戦]]の終結後、[[1991年]]に[[十日間戦争]]によってスロヴェニア共和国が[[ユーゴスラビア]]から独立し、アルプスの現在の領域が確定した。
 
 
 
== 産業 ==
 
農業は主に標高が低く温暖な渓谷部分で行われているが、アルプスでは[[酪農]]が広く行われている。かつては冬の間は渓谷にある牛小屋で牛を飼い、春になると中腹の牧草地で、夏にはさらに高いところにある牧草地へと牛を移動させ、秋が来るとまた牛を低地へと移動させる[[移牧]]が盛んに行われていたが、手間がかかるため近年では姿を消しつつある。また、[[林業]]やそれを基盤とした製材業も行われている。製材業のほかにも、[[時計]]などの[[精密機械]]工業などの工場も多く立地している。こうした工場を動かすエネルギー源は、山脈中のダムや滝に設置された水力発電所から得られる豊富な電力を利用している。
 
 
 
19世紀半ばより、アルプス山脈は[[避暑地]]として注目されるようになり、観光産業が大きく発展した。避暑のほかにも、19世紀に入ると氷河や滝、険しい山岳といった厳しい自然の光景がヨーロッパにおいて美しいと感じられるようになり、このような風景を多く持つアルプスは観光地として脚光を浴びるようになった<ref>『観光大国スイスの誕生 「辺境」から「崇高なる美の国」へ』p50 河村秀和 平凡社新書 2013年7月12日初版第1刷</ref>。普通の観光のほか、空気療養など医学的な見地でも注目され、ダヴォスをはじめとして各地に[[サナトリウム]]が建設された<ref>『観光大国スイスの誕生 「辺境」から「崇高なる美の国」へ』p155 河村秀和 平凡社新書 2013年7月12日初版第1刷</ref>。[[20世紀]]にはいると[[スキー]]がこの地域に導入され、1930年代に施設や器具の改良が行われて大衆化が進み、各地にスキー場が開設されるようになった。現在では夏は冷涼な気候と美しい自然を求める観光客が訪れ、冬はスキーなど[[ウィンタースポーツ]]を楽しむ多くの[[観光客]]を集める一大観光地となり、観光産業がこの地域の主要産業のひとつとなった。かつては夏が最も観光客の多いシーズンであったが、近年ではスキー客の増加する冬が観光収入が高くなってきている<ref>「ビジュアルシリーズ世界再発見4 イギリス・中央ヨーロッパ」p126 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷発行</ref>。スキー種目のうち滑降競技の別名「アルペン競技」の名はアルプスに由来する。
 
 
 
アルプス山脈の山麓および山中の[[都市]]は、しばしば[[冬季オリンピック]]の開催地となっている。フランスの[[シャモニー]]で開催された第1回の[[シャモニーオリンピック]](1924年)から、第2回のスイス・ [[サンモリッツオリンピック (1928年)|サンモリッツ]](1928年)、第4回のドイツ・[[1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック|ガルミッシュ=パルテンキルヒェン]] (1936年)、第5回の[[サンモリッツオリンピック (1948年)|サンモリッツ]] (1948年)、第7回のイタリア・ [[コルティナダンペッツォオリンピック|コルティナダンペッツォ]] (1956年)、第9回のオーストリア・[[インスブルックオリンピック (1964年)|インスブルック]] (1964年)、第10回のフランス・[[グルノーブルオリンピック|グルノーブル]] (1968年)、第12回の[[インスブルックオリンピック (1976年)|インスブルック]] (1976年)、第16回のフランス・[[アルベールビルオリンピック|アルベールビル]] (1992年)、第20回のイタリア・[[トリノオリンピック|トリノ]] (2006年)と、2010年現在の21回のうち10回がアルプス山脈で行われており、この地域のウィンタースポーツの盛んさと施設の充実を示している。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[ファイル:Semmeringbahn um 1900.jpeg|thumb|250px|ゼメリング鉄道(1900年ごろ)]]
 
アルプスは、[[モンブラン]]の他、[[マッターホルン]]、[[ユングフラウ]]などの高峰を有し、最高部は[[氷河]]に覆われる[[交通]]の難所である。しかしイタリアよりヨーロッパ各地域へ通じる要路に位置するため、[[戦争]]や[[交易]]のための移動経路となり、[[中世]]には[[巡礼]]、[[大学生]]、近世においてはまた各地を見物するための旅行者など、多くのものがアルプス越えを行った。[[古代]]から中世にかけて主に用いられた[[峠]]を西から列挙すれば、シンプロン峠(サンプロン峠と読まれることもある)、[[ジュネーヴ]]山越えの道、[[グラン・サン・ベルナール峠]]、シュプルーゲン峠、ゼプティマー峠、[[ブレンナー峠]]、ラートシュタッター・タウラーン峠、ゾルクシャルテ峠、プロッケン峠、ポンテッバー峠(別名をザイフニッツ峠)である。歴史を通じて最も多用されてきた峠はジュネーヴ山越えの道およびブレンナー峠であるが、各時代によって、愛用される峠は若干異なる。[[13世紀]]には[[ザンクト・ゴットハルト峠]]が開通したことで、その麓に当たる[[ウーリ州]]、[[シュヴィーツ州]]、[[ウンターヴァルデン州]]の3州が力をつけ、この地方を地盤としていた[[ハプスブルク家]]の軍を破ってスイス誓約同盟を結成するなど、アルプスの交通路は大きな利益を生み、時に争奪の対象となった。また、各地に点在する氷河湖は険しい陸路を補完する格好の交通路となっており、スイス誓約同盟も[[ルツェルン湖]]の湖上交通をもう一方の柱として拡大を続けた。しかし各地の峠を越えることは危険を伴い、グラン・サン・ベルナール峠には救護所を兼ねた修道院が建設されており、この[[修道院]]で[[18世紀]]ごろから旅人の救護活動をしていた犬種が、やがて[[セント・バーナード]]犬として世界中に広まっていった。18世紀に入ると各地の峠で[[馬車]]が通行できるように峠の改修が行われ、ザンクト・ゴットハルト峠では[[1775年]]<ref>『観光大国スイスの誕生 「辺境」から「崇高なる美の国」へ』p42 河村秀和 平凡社新書 2013年7月12日初版第1刷</ref>、シンプロン峠では[[1805年]]に馬車の通行が可能となった<ref>『観光大国スイスの誕生 「辺境」から「崇高なる美の国」へ』p40-41 河村秀和 平凡社新書 2013年7月12日初版第1刷</ref>。
 
 
 
なおこれらの峠のうち幾つかの下には、近代に至って[[トンネル]]が掘削され、各国国境をまたがる鉄道線路および自動車道路が敷設されている。はじめてアルプスを越えた鉄道が建設されたのは、アルプスのほぼ東端にあたるゼメリング峠で、[[1854年]]のことだった。この路線は[[ゼメリング鉄道]]と呼ばれ、[[オーストリア帝国]]の首都ウィーンと帝国唯一の大規模港湾・[[トリエステ]]を結ぶ路線の一部だった。この路線は[[オーストリア南部鉄道]]から[[オーストリア連邦鉄道]]へと引き継がれ、現在でもオーストリアと[[アドリア海]]を結ぶ大幹線となっているが、ゼメリング鉄道部分は開業当時のままの姿で残されており、[[1998年]]には文化遺産として世界遺産に登録されている。また、1867年には古来より常にアルプス越えの主要ルートであったブレンナー峠に[[ブレンナー・トンネル]]が開通し<ref>森田安一『物語 スイスの歴史』中公新書 p203 2000年7月25日発行</ref>、南北チロルの交通が大幅に改善された。
 
 
 
19世紀後半に入ると、スイス国内の鉄道建設が盛んになり、アルプス中部および西部を越える鉄道トンネルも構想され始めた。[[1871年]]には、フランスとイタリアを結ぶ[[フレジュス鉄道トンネル]]が開通する。これは[[モン・スニ峠]]を代替するもので、そのためモン・スニ峠からはやや南西にはずれているものの、フランスではモン・スニ鉄道トンネルとも呼ばれる。この鉄道の開通によって[[トリノ]]と[[リヨン]]が結ばれるようになった。[[1882年]]にはゴッタルド峠の下に[[ゴッタルド鉄道トンネル]]が開通し、スイス・アルプス中央部を南北に貫く初の鉄道が開通した。[[1906年]]にはスイスの[[ブリーク]]とイタリアの[[ドモドッソラ]]を結ぶ[[シンプロントンネル]]が開通し、[[ローザンヌ]]などのスイス西部と[[ミラノ]]が結ばれるようになる。このシンプロントンネルは、[[1982年]]に[[日本]]で[[大清水トンネル]]が開通するまでの76年間、世界最長の鉄道トンネルであった。[[1911年]]には[[ベルン]]からシンプロントンネルまでの経路を短縮するため、ベルン州とヴァレー州を結ぶ[[レッチュベルクトンネル]]が開通し、ここにアルプスの南北を結ぶ鉄道路線網はほぼ完成した<ref>スイス文学研究会『スイスを知るための60章』明石書店、2014年、p348</ref>。また、幹線鉄道網のほかに、[[1912年]]に開通した[[ユングフラウ鉄道]]などの観光用の[[登山鉄道]]も、主要な高峰に整備された。これらの鉄道のほとんどは現在でも運行しており、ツェルマットとサン・モリッツを結ぶ[[氷河急行]]や、[[クール (グラウビュンデン州)|クール]]からサンモリッツを通りイタリアのティラーノまでを結ぶ[[ベルニナ急行]]は観光列車として名高く、世界中から多くの観光客が訪れる。ユングフラウ鉄道の終点である[[ユングフラウヨッホ駅]]は、ヨーロッパで最も高いところに位置する駅である。
 
 
 
第二次世界大戦後、[[自動車]]利用の激増によってアルプスを南北を結ぶ道路トンネルの建設が叫ばれるようになり、[[1965年]]にはイタリアの[[アオスタ]]とフランスの[[シャモニー]]を結ぶ[[モンブラントンネル]]が開通し、[[1980年]]には[[ゴッタルド道路トンネル]]が開通した。しかしこのころから、アルプスを縦断する自動車、特にトラックの激増によりアルプスの植生や自然環境に重大な影響があらわれてくるようになった。これを防ぐため、スイス政府は[[ヨーロッパ連合]]にトラック輸送の制限を要求。この要求は通行税の増額という形に落ち着いたが、この過程でスイス政府は、[[モーダルシフト]]を推進し自動車輸送を軽減するため、アルプスを縦断する新高速鉄道トンネルの建設を計画した。この計画は[[アルプトランジット計画]]と呼ばれ、現在ある東のゴッタルドトンネルと西のレッチュベルクトンネルの数百メートル下に新しいトンネル(基底トンネルと呼ばれる)を建設して高速化を行うものだった。この計画のうち[[レッチュベルクベーストンネル]]は[[2008年]]に開通し<ref>スイス文学研究会『スイスを知るための60章』明石書店、2014年、p350</ref>、[[ゴッタルドベーストンネル]]も[[2016年]]6月に開通した<ref>{{cite web|title=アルプス縦貫の「ゴッタルド鉄道トンネル」開通、世界最長57キロ | date = 2016-06-01 | url=http://jp.reuters.com/article/gotthard-idJPKCN0YN3FI |publisher= ロイター |accessdate=2018-07-15}}</ref>。また、同様の問題を抱えるオーストリア政府も、ブレンナー峠の下に[[ブレンナーベーストンネル]]を建設する決定を下し、2015年現在建設中である<ref>「ウィーン・オーストリアを知るための57章 第2版」p54 2011年4月25日 明石書店 広瀬佳一・今井顕編著</ref>。また、こうした事情により、とくにスイスにおいては[[カートレイン]]の利用が盛んであり、アルプス越えの際によく利用される。
 
 
 
== アルプスを題材にした作品 ==
 
=== クラシック音楽 ===
 
*[[ミヒャエル・ハイドン]]:ジングシュピール『アルプスの牧場の婚礼』MH 107/218
 
*[[テオドール・エステン]]:『アルプスの鐘』
 
*テオドール・エステン:『アルプスの夕映え』
 
*[[ヨハン・シュトラウス2世]]:ワルツ『アルプスの思い出』(作品172)
 
*[[エドゥアルト・シュトラウス1世]]:ポルカ・フランセーズ『アルプスの薔薇』(作品127)
 
*[[リヒャルト・シュトラウス]]:『[[アルプス交響曲]]』
 
 
 
=== 絵画 ===
 
*[[クロード・ジョセフ・ヴェルネ]]:『[[アルプスの羊飼いの娘]]』
 
 
 
=== 映画 ===
 
*[[アルプスの若大将]]
 
 
 
=== 児童向け作品 ===
 
* [[アルプスの少女ハイジ]]
 
* [[アルプス物語 わたしのアンネット]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Alpen}}
 
アルプス山脈に関連した項目
 
* [[エドワード・ウィンパー]]
 
その他「アルプス」を冠した項目
 
* [[ディナル・アルプス山脈]]
 
* [[トランシルヴァニアアルプス山脈]]
 
* [[オーストラリアアルプス山脈]]
 
* [[サザンアルプス山脈]]
 
* [[日本アルプス]] ([[飛騨山脈|北アルプス]]、[[赤石山脈|南アルプス]]、[[木曽山脈|中央アルプス]])
 
* [[アルプス山脈 (月)]] - 月面上に存在する山脈。[[雨の海]]の北東に位置する。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.tirol-info.jp/ チロル州観光局日本担当オフィス 日本語公式サイト]
 
* [http://www.myswitzerland.com/ja/geographic-facts.html スイス政府観光局:地理・国土(日本語)]
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:あるふすさんみやく}}
 
{{DEFAULTSORT:あるふすさんみやく}}
 
[[Category:アルプス山脈|*]]
 
[[Category:アルプス山脈|*]]

2019/5/2/ (木) 01:04時点における最新版

雪に覆われたアルプス.フランス.jpg

アルプス山脈(アルプスさんみゃく、: Alpes アルペース、: Alpes: Alpi: Alpen: Alps

フランスイタリア国境からスイスオーストリアを走る大山系の総称。ドイツ語ではアルペン Alpen,フランス語ではアルプ Alpes,イタリア語ではアルピ Alpi。主として中生代の古地中海であるテチス海に堆積した厚い地層が,古第三紀に激しい褶曲を受けて形成された。しかし同じく新期造山帯に属するアンデス山脈ヒマラヤ山脈のような越えがたい地形障害ではなく,数多くの峠があって昔から重要な交通路としての役割を果たしてきた。最高峰のモンブラン(4807m)をはじめ,モンテローザ(4634m),マッターホルン(4478m),ユングフラウ(4158m)などの高山がそびえる。今日の雪線は 2500mと 2900mの間にあり,ユングフラウからのアレッチ氷河をはじめ大小の氷河が見られる。氷期にはほとんどの山地が氷河に覆われ,氷河の末端は山麓近くに及んでいた。レマン湖コモ湖マッジョーレ湖など風景美で知られた湖は,いずれも氷河の作用で削られた低地に水がたたえられたものである。高地では家畜の移牧による牧畜や酪農が盛ん。低地では山あいの谷間やなだらかな山腹を利用してブドウその他の栽培が行なわれている。産業の中心は観光事業で,この地方の収入の大部分を占めている。シャモニー(フランス),ツェルマットグリンデルワルトインターラーケンザンクトモリッツダボス(以上スイス),ザンクトアントン,インスブルックキッツビューエルザルツブルク(以上オーストリア)などは観光地,観光基地として有名。水力開発が進み,精密工業も発展している。1965年モンブラン・トンネルが,1980年サンゴッタルド・トンネルが開通し,それぞれフランスとイタリア,スイスとイタリアを結ぶ新動脈となった。アルプ(ス)の語はこの地方で本来,樹木限界線より上にある牧草地を意味するが,一般に主要山系の意に解され,オーストラリアアルプス日本アルプスなどの呼称を生んでいる。



楽天市場検索: