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'''下野薬師寺跡'''(しもつけやくしじあと)
'''下野薬師寺跡'''(しもつけやくしじあと)は、[[栃木県]][[下野市]]にある古代[[寺院]]跡。国の[[史跡]]に指定されている。
 
  
寺院名称は「'''薬師寺'''」であったが、旧国名を冠して「下野薬師寺」と記載されることが多く、本項でも「下野薬師寺」と表記して解説する。
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栃木県下野市薬師寺にある寺院址。7世紀の建立。奈良時代,日本三戒壇の一つとして設置され,東国仏教界の中心であった。 1921年国の史跡に指定。現在,安国寺の建物があり,付近から奈良時代の古瓦が出土していたが,堂塔の遺構,配置などは推定の域を脱しなかった。
  
== 概要 ==
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1966~71年に発掘調査が行なわれ,塔跡をはじめ,講堂跡,西回廊跡が検出され,そのほか,南大門跡,中門跡,金堂跡などもほぼ確認されるにいたった。調査に伴い,多数の古瓦類,[[土師器]] (はじき) などのほかに,風鐸も発見されている。
[[栃木県]]南部、[[鬼怒川]]右岸に広がる広大な平野上に位置し、[[奈良時代]]に正式に[[僧尼]]を認める[[戒壇]]が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の[[東大寺]]と筑紫の[[観世音寺]]にしか設けられておらず、これらは「'''三戒壇'''」と総称された。そのほか、[[道鏡]]が[[宇佐八幡宮神託事件]]ののち当寺に左遷されたことでも知られる寺院である。
 
  
下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には[[安国寺 (下野市)|安国寺]]が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている。
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== 歴史 ==
 
=== 創建 ===
 
[[薬師如来]]を信仰する「薬師信仰」は、中国では[[敦煌]]、また[[朝鮮半島]]では[[新羅]]で見られる。日本には[[飛鳥時代]]までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは[[聖徳太子]]が[[用明天皇]]の病気治癒を祈って[[薬師如来]]像を造立して以来、[[天武天皇]]9年([[680年]])11月に天武天皇が[[皇后]]の病の治癒を願って[[大和国]]に[[薬師寺]]を建立してからのことである。
 
 
 
「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願より4年後の天武天皇13年([[684年]])11月、日本全国の52氏が天武天皇より[[朝臣]]を賜姓され、下野[[国造]]家である[[下毛野君]]も[[大三輪君]]や[[大野君]]、[[上毛野君]]、[[中臣連]]、[[石川臣]]や[[櫻井臣]]等とともに朝臣姓を賜っている。その数年後以内([[持統天皇]]元年([[687年]])3月、同3年([[689年]])4月、同4年([[690年]])8月)には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆[[下毛野古麻呂]]の名も同年10月の条に登場する<ref>『[[日本書紀]]』持統天皇3年4月条。</ref>。
 
 
 
下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『[[類聚三代格]]』には「天武天皇所建立地」<ref>『類聚三代格』嘉祥元年[[848年]]11月の太政官府。</ref>とあり、『[[続日本後紀]]』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」<ref>『続日本後紀』嘉祥元年11月己未条。</ref>と見える。また、[[下野市]]では下野薬師寺は7世紀末に'''[[下毛野古麻呂]]'''が建てた寺と考えられるとしている<ref>[http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/page000002200/hpg000002161.htm 下野薬師寺跡](下野市ホームページ)。</ref>。現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も[[奈良時代]]以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる。
 
 
 
発掘調査の結果、出土した瓦が[[大和]][[川原寺]]系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている。
 
 
 
=== 概史 ===
 
==== 三戒壇としての隆盛 ====
 
『[[続日本紀]]』によると、[[天平勝宝]]元年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[749年]][[9月3日]])、全国[[諸寺墾田地限]]が定められた折には、[[奈良]]の[[法隆寺]]や[[四天王寺]]、[[新薬師寺]]、[[筑紫国|筑紫]]の[[観世音寺]]などと並んで500町とされた<ref name=jigen>『続日本記』天平勝宝元年7月条。</ref>。なお、[[大安寺]]、[[薬師寺]]、[[興福寺]]、[[法華寺]]、國分金光明寺([[東大寺]])は4,000町、[[元興寺]]は2,000町だった<ref name=jigen/>。
 
 
 
[[奈良時代]]には、僧侶に[[戒律]]を授けて正式な僧侶の資格証明書である[[度牒]]を授ける[[戒壇]]が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺([[東大寺]])[[戒壇院]])と西戒壇(福岡の[[観世音寺]]戒壇院)に対して「'''東戒壇'''」とも呼ばれた。これらは「'''本朝三戒壇'''」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の[[僧侶]]を統制した。
 
 
 
[[宝亀]]元年([[770年]])、中央政界で権力をふるった[[道鏡]]が[[孝謙天皇|称徳天皇]]の死により左遷され、当寺の造寺[[別当]](造寺司の[[長官]])となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている<ref name=chimei>『栃木県の地名』下野薬師寺跡項。</ref>。道鏡は772年に当地で没し、[[龍興寺 (下野市)|龍興寺]]に墓が伝わっている。
 
 
 
==== 衰退 ====
 
[[平安時代]]に入ると、[[比叡山]]での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている<ref name=chimei/>。
 
 
 
それでも『[[日本三代実録]]』によると、[[874年]][[5月18日]]([[貞観 (日本)|貞観]]16年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]])から3日間の間、60名の僧が[[平安京]][[紫宸殿]]において[[大般若経]]の伝読を行ったが、その金字[[仁王経]]71部を[[五畿七道]]各国に1部ずつ配布したほか、当寺には[[大宰府]][[観世音寺]]および[[豊前国]][[宇佐神宮|弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)]]とならび、各国配布分とは別の1部が配置されており、東国における当寺の位置付けの高さが窺われる。
 
 
 
==== 中興とその後 ====
 
[[ファイル:安国寺 六角堂.JPG|thumb|200px|right|<center>[[安国寺 (下野市)|安国寺]] 六角堂</center><small>薬師寺の戒壇跡と伝わる場所に立つ。</small>]]
 
[[ファイル:龍興寺 (下野市) 山門.JPG|thumb|200px|right|<center>[[龍興寺 (下野市)|龍興寺]]</center><small>薬師寺の別院。</small>]]
 
[[鎌倉時代]]、[[建久]]4年([[1193年]])には[[源頼朝]]により供僧3口が寄せられたほか、[[鎌倉幕府]]からの積極的な後援がうかがわれている<ref name=chimei>『栃木県の地名』下野薬師寺跡項。</ref>。その後、'''[[慈猛]]'''上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には[[門前市]]も形成されたという<ref name=chimei/>。
 
 
 
[[室町時代]]、[[室町幕府]]は[[禅宗]]への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]が全国に[[安国寺利生塔]]を建てるという意向を容れ、[[暦応]]2年([[1339年]])に「安国寺」と改名した<ref name=chimei/>。ただし、一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた<ref name=chimei/>。
 
 
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[後北条氏]]と[[多賀谷氏|結城多賀谷氏]]による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる<ref name=chimei/>。
 
 
 
近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の[[安国寺 (下野市)|安国寺]])、佐竹氏から寺領10石を寄進された<ref name=chimei/>。また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の[[龍興寺 (下野市)|龍興寺]])は、佐竹氏から寺領20石を寄進された<ref name=chimei/>。両寺は[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])から[[享保]]4年([[1719年]])にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている<ref name=chimei/>。議論の末、[[天保]]9年([[1838年]])、「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する<ref>当地で鑑真が亡くなったという伝承はないが、鑑真の偉業を称える「鑑真和上碑」が龍興寺に残る。</ref>」という合意に達し現在に至っている<ref name=chimei/>。なお、この過程で『薬師寺縁起』・『慈猛上人行状記』が書かれ、薬師寺の事績を現在に伝えている<ref name=chimei/>。
 
 
 
=== 略年表 ===
 
* [[白鳳|白鳳期]]・[[天智天皇|天智天皇期]]([[7世紀]]末)、創建と考えられる。
 
* [[天平]]5年([[733年]])頃、下野薬師寺[[造寺司]]がおかれる。
 
* [[天平勝宝]]元年([[749年]])、[[諸寺墾田地限度]]が定められ、当寺は500町が認められる。
 
* 天平勝宝6年([[754年]])、[[薬師寺]]の僧[[行信]]、[[宇佐神宮|八幡神宮]][[主神]]の[[大神多麻呂]]等と呪詛を行った罪で[[刑部省]]の取り調べを受けたうえ、当寺に[[遠流]]される。
 
* [[天平宝字]]5年([[761年]])、筑紫観世音寺とともに戒壇が設置される。
 
* [[宝亀]]元年([[770年]])、道鏡が[[左遷]]され造寺別当となる(772年没)。
 
* [[嘉祥]]元年([[848年]])、講師が置かれる。
 
* 800年代、塔焼失。のち伽藍の外に塔が再建される。
 
* [[鎌倉時代]]、[[慈猛]]が再興。
 
* [[暦応]]2年([[1339年]])、[[安国寺 (下野市)|安国寺]]に改名。
 
* [[元亀]]元年([[1571年]])、後北条氏と結城多賀谷氏による戦乱に巻き込まれて焼失。
 
 
 
== 境内 ==
 
発掘調査の結果明らかとなった寺域は東西約250m、南北約330mである。伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そしてその北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である。一塔三金堂の例としては[[飛鳥寺]]が挙げられるが、堂塔の配置は異なっている。なお、[[昭和40年代]]の発掘調査の時点では、[[伽藍]]の中央に[[金堂]]、その北東に[[塔]]、北西に戒壇が想定されていた。
 
 
 
また中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認された。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:下野薬師寺 遠景.JPG|遠景<br/><small>垣根が寺域。中央の森が中枢部にあたる。左端には復元の回廊。</small>
 
ファイル:下野薬師寺 回廊礎石.JPG|回廊礎石
 
ファイル:下野薬師寺 塔跡.JPG|塔跡<br/><small>伽藍の外に再建された塔の跡。</small>
 
ファイル:下野薬師寺 伽藍礎石.JPG|伽藍礎石(市指定文化財)<br/><small>[[凝灰岩]]製。安国寺境内に残る。</small>
 
</gallery>
 
 
 
== 文化財 ==
 
=== 国の史跡 ===
 
* 下野薬師寺跡 - 大正10年3月3日指定。
 
 
 
=== 下野市指定有形文化財 ===
 
* 下野薬師寺跡出土瓦(白鳳期瓦)(考古資料) - 昭和60年12月6日指定<ref name=pdf>{{PDFlink|[http://www.city.shimotsuke.lg.jp/ct/other000020700/shiteibunnkazai.pdf 下野市内指定文化財一覧]}}。</ref>。
 
* 下野薬師寺伽藍礎石(考古資料) - 昭和60年12月6日指定<ref name=pdf/>。
 
 
 
== 現地情報 ==
 
'''所在地'''
 
* 栃木県下野市薬師寺1636 ({{ウィキ座標|36|24|07.04|N|139|52|33.94|E|region:JP-09_type:landmark|display=inline,title|位置|name=下野薬師寺跡}})
 
 
 
'''付属施設'''
 
* 下野薬師寺歴史館
 
** 入館料:無料
 
** 開館時間:午前9時-午後5時(入館は午後4時30分まで)
 
** 休館日:月曜日、第3火曜日、祝日の翌日(土日祝日は開館)
 
 
 
'''交通アクセス'''
 
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]]([[東北本線]])
 
** [[自治医大駅]] (徒歩約30分) - 約2.5km。
 
** [[小金井駅]] - 約5.0km。レンタサイクル可能。
 
 
 
'''周辺'''
 
* [[安国寺 (下野市)|安国寺]]({{ウィキ座標|36|24|05.06|N|139|52|36.32|E|region:JP-09_type:landmark|位置|name=安国寺(後継寺院)}}) - 下野薬師寺後継寺院で、薬師寺不動院の流れをひくといわれる<ref name=chimei/>。
 
* [[龍興寺 (下野市)|龍興寺]]({{ウィキ座標|36|23|43.67|N|139|52|38.58|E|region:JP-09_type:landmark|位置|name=龍興寺(別院)}}) - 下野薬師寺別院で、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる<ref name=chimei/>。
 
* [[薬師寺八幡宮]]({{ウィキ座標|36|24|03.59|N|139|52|41.49|E|region:JP-09_type:landmark|位置|name=薬師寺八幡宮(鎮守)}}) - 下野薬師寺鎮守。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『日本歴史地名体系 栃木県の地名』([[平凡社]])河内郡南河内町 下野薬師寺跡項
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/page000002200/hpg000002161.htm 下野薬師寺跡](下野市ホームページ)
 
* [http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/1341001.htm 下野薬師寺跡](とちぎの文化財)
 
* [http://shimotsuke-bunkazai.com/culturalassets.php?id=6 下野薬師寺跡](しもつけ市の文化財)
 
 
 
{{Buddhism2}}
 
 
{{DEFAULTSORT:しもつけやくししあと}}
 
{{DEFAULTSORT:しもつけやくししあと}}
 
[[Category:栃木県の寺|廃しもつけやくしし]]
 
[[Category:栃木県の寺|廃しもつけやくしし]]

2019/7/2/ (火) 10:10時点における最新版

下野薬師寺跡.栃木県下野市.jpg

下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)

栃木県下野市薬師寺にある寺院址。7世紀の建立。奈良時代,日本三戒壇の一つとして設置され,東国仏教界の中心であった。 1921年国の史跡に指定。現在,安国寺の建物があり,付近から奈良時代の古瓦が出土していたが,堂塔の遺構,配置などは推定の域を脱しなかった。

1966~71年に発掘調査が行なわれ,塔跡をはじめ,講堂跡,西回廊跡が検出され,そのほか,南大門跡,中門跡,金堂跡などもほぼ確認されるにいたった。調査に伴い,多数の古瓦類,土師器 (はじき) などのほかに,風鐸も発見されている。



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