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[[File:Joint letter of Five Elders (of Toyotomi).jpg|thumb|300px|五大老の[[花押]]。上段左より[[上杉景勝]]・[[毛利輝元]]、下段左より[[宇喜多秀家]]・[[前田利家]]・[[徳川家康]]。下段は上下逆。]]
 
'''五大老'''(ごたいろう)とは、末期の[[豊臣政権]]の政務にあたった[[徳川家康]]・[[前田利家]]・[[宇喜多秀家]]・[[上杉景勝]]・[[毛利輝元]]の五大名を指す。[[五奉行]]の顧問として、政務を統括した。[[豊臣秀吉]]の死後、[[徳川家康|家康]]に実権が集中していき、[[関ヶ原の戦い]]にいたって崩壊した。
 
  
== 概要 ==
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'''五大老'''(ごたいろう)
文禄4年([[1595年]])の[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]がもたらした政治危機を克服するため、[[豊臣秀吉]]は、有力大名が連署する形で「'''[[御掟]]'''」五ヶ条<ref>伝「水口藩加藤家文書」(『特別展 五大老』パンフレット所収)</ref>と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図った。この連署を行なった六人の有力大名、[[徳川家康]]・[[前田利家]]・[[宇喜多秀家]]・[[上杉景勝]]・[[毛利輝元]]・[[小早川隆景]]が、豊臣政権の「大老」であると、後世みなされることになった。
 
  
慶長3年([[1598年]])夏、死の床にあった秀吉は、嫡男・[[豊臣秀頼]]成人までの政治運営にあたっては、前記有力大名五人(既に病没していた小早川隆景を欠く)と[[石田三成]]ら豊臣家吏僚による[[合議制]]をとることを遺命した。いわゆる「'''五大老・[[五奉行]]'''」が制度化されたのである。これは秀吉自身の死後に台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある家康を政権内に取り込んでしまうことにより、予め禍根を断とうとした策であった。だが、秀吉の死後、「五大老・五奉行」制度は、これを否定し崩壊させようとする家康の策謀により動揺した。
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豊臣氏の職制の一つ。5人の年寄衆の呼称。[[五奉行]]の上に位する職制で,政務を統轄した。成立は,慶長2 (1597) 年頃と推定される。当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。その職務は,五奉行の顧問としての性質をもち,必ずしも一般政務を担当したわけではない。慶長の役 ([[文禄・慶長の役]] ) の収拾にあたり,秀吉の死後,前田利家が秀頼の養育にあたり,徳川家康が政務にあずかることとなり,自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り,関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。
 
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徳川家康は終始、大老内でも特段の地位を保持し続けていた。秀吉はこの家康に対抗・牽制しうる人物として、「御掟・御掟追加」発令時は毛利輝元と小早川隆景を<ref>「家康・輝元・隆景連署起請文前書案」(防府毛利報公会蔵・『特別展 五大老』パンフレット所収)</ref>、「五大老・五奉行」制度化時は前田利家を充てていた。秀吉の死後は遺命により、家康が[[伏見城]]下にて政務をとり、利家は[[大坂城]]において秀頼の傅役とされた<ref>「浅野家文書」(『[[大日本史料]]』)</ref>。
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しかし、利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入って秀頼を掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなった。前田家は家康に屈服し人質を差し出し、残る三家は[[関ヶ原の戦い]]で敗れ[[改易]]または大幅減知となり脱落、家康の単独支配体制が確立した。
 
 
 
== 五大老(五人の衆) ==
 
* [[徳川家康]]([[関東地方]]・[[武蔵国|武蔵]]など256万石)
 
* [[前田利家]]([[北陸地方]]・[[加賀国|加賀]]など83万石)
 
** [[前田利長]] 〈[[〃]]・[[〃]]〉 ※慶長4年([[1599年]])の父・利家死後
 
* [[宇喜多秀家]]([[中国地方]]・[[備前国|備前]]など57万石)
 
* [[上杉景勝]]([[東北地方]]・会津および[[北陸地方]]・[[佐渡国|佐渡]]など120万石)
 
* [[毛利輝元]]([[中国地方]]・[[安芸国|安芸]]ほか8か国で112万石)
 
* [[小早川隆景]]([[九州地方]]・[[筑前国|筑前]]など37万石)※慶長2年([[1597年]])病没
 
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ファイル:Ukita Hideie.jpg|宇喜多秀家
 
ファイル:Kobayakawa Takakage (Beisanji Mihara).jpg|小早川隆景
 
ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|徳川家康
 
ファイル:Maeda Toshiie.jpg|前田利家
 
ファイル:Terumoto_Mouri.jpg|毛利輝元
 
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ファイル:Uesugi_Kagekatsu.jpg|上杉景勝
 
ファイル:Maeda Toshinaga.jpg|前田利長
 
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家康・秀家・景勝・利家・輝元・隆景(連署順)の六人は、「御掟・御掟追加」の連署に名を連ね、他の大名とは異なる処遇を認められてもいた。隆景が欠けたのち、秀吉の遺命によって「五大老」(秀吉の遺書の明文では「五人の衆」)とされたのは、家康・利家・秀家・景勝・輝元の五人であり、利家の死後は家康・秀家・景勝・輝元・利長の五人が「五大老」である。
 
 
 
なお、死去あるいは高齢・病気等によって家康が欠けた場合は嫡男(三男)・[[徳川秀忠]]が、利家が欠けた場合は嫡男・利長が跡を襲うことが秀吉遺命に定められていたが、他の三人が欠けた際の欠員補充については定めはなかった。
 
 
 
慶長4年春、家康と利家の話し合いの中で、家康次男・[[結城秀康]]を「六人目の大老」とする案が持ち上がったが、異論があったとみえて実現には至っていない<ref>「秀康宛て秀忠書状」(大阪城天守閣蔵・『特別展 五大老』パンフレット所収)</ref>。
 
 
 
== その呼称 ==
 
秀吉の現存する遺書の明文では、家康らを「'''五人の衆'''」、三成らを「'''五人の物'''」としており、それ以外の呼称は確認できない。
 
 
 
一方、秀吉の死の直前から、三成らは、家康らを「'''御奉行衆'''」、自分たちを「'''年寄共'''」とした文書を多数発給している。この中には家康ら「五人之御奉行衆」に宛てた起請文も含まれている<ref>『武家事紀』第三十一</ref>。毛利輝元や宇喜多秀家の文書にも、自分たちを「奉行」とする文言がある<ref>「毛利家文書」(『大日本史料』)「加能越古文書」(『新訂徳川家康文書の研究』中巻)</ref>。この用法には、「御奉行衆」を「秀頼の命を奉じて執行する代行者もしくは補佐役」とする意味合いが含まれているとされる。もとより家康にとっては不本意な呼称であり、その発給文書で豊臣家吏僚を「年寄」と呼んだのは一例限り、自身を「奉行」と呼んだ例はないとされる。
 
 
 
一方、[[島津義久]]の書状では「'''御老中衆・御奉行衆'''」<ref>『[[薩藩旧記雑録]]』後編</ref>と、[[加藤清正]]の書状では「'''日本御年寄衆・御奉行衆'''」<ref>「島津家文書」(『大日本史料』)</ref>と、それぞれ家康らと三成らを呼び分けているが、これらが従前からの呼称とみられる。また、輝元家臣の[[内藤隆春]]は三成らを「五人之奉行」とし、[[醍醐寺]][[座主]]・[[義演]]も三成らを「五人御奉行衆」としており<ref>『萩藩閥閲録』『義演准后日記』</ref>、それぞれの状況・立場に応じて呼称していたことが伺える。
 
 
 
関ヶ原の戦いの折、[[前田玄以]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]の三人は、家康弾劾状「内府ちかひの条々」を諸大名に発したが、その文中でも家康らを「御奉行衆」、自分たちを「年寄共」<ref>「真田文書」(『新訂徳川家康文書の研究』中巻)</ref>としている。だが家康に与した大名や徳川家臣団は、玄以らを「奉行」<ref>「毛利家文書」「吉川家文書」(『大日本史料』)「秋田家文書」(『秋田県史』資料)など</ref>と呼び、けっして彼らを「豊臣家年寄」とみなしてはいなかった。
 
 
 
なお、家康らを「老中」「年寄」と呼んだ例は上記の通りあるが、「大老」と呼んだ例は同時代の史料にはない。この呼称は、江戸期に入ってから[[江戸幕府]][[大老]]になぞらえて作られた造語であるとされる。「五大老」の呼称は[[山鹿素行]]『[[武家事紀]]』に、「五奉行」は[[小瀬甫庵]]『[[太閤記]]』などに見られ、のち「五大老・五奉行」という呼び分けが定着するに至った。
 
 
 
== 研究・考察 ==
 
旧来、「五大老」とは、淘汰された関白権力に代わり、太閤権力の下で国政を預かる国政機関を指す職制<ref>{{Cite book |和書 |author= 脇田修 |authorlink= 脇田修 |year= 1977 |title= 近世封権制成立史論 織豊政権の分析II |publisher= 東京大学出版会 |isbn= 978-4130200462 }}</ref>とされてきた。
 
 
 
だが近年、「五大老・五奉行」との呼び分けは誤用であり、「'''五奉行・五年寄'''」が正しいと指摘する論文<ref>{{Cite journal |和書 |author= 阿部勝則 |year= 1989 |title= 豊臣五大老・五奉行についての一考察 |journal= 史苑 |volume= 49巻 |issue= 2号 }}</ref>を[[阿部勝則]]が発表した。この阿部論文中では[[今井林太郎]]や[[中村孝也]]がその著作中で家康や利長らを「奉行」としている先行研究<ref>今井林太郎『石田三成』</ref><ref>中村孝也『徳川家康文書の研究』</ref>を踏まえつつ、豊臣政権末期の公文書における「奉行」「年寄」の呼び分けが総括されている。そして、太閤権力の主従制的支配権を継承した御奉行五人に対して、年寄五人は統治権的支配権を担ったといえるのではないか、という指摘がなされている。
 
 
 
この阿部論文に対して、「五奉行・五年寄」の呼び分けは、三成ら秀吉側近の豊臣家吏僚が発した文書(および、その同調者が発した文書)に限られるとの[[堀越祐一]]の反論<ref>{{Cite journal |和書 |author= 堀越祐一 |year= 2003 |title= 豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して― |journal= 日本歴史 |issue= 659号 }}</ref>もなされて、研究はさらに深化している。
 
 
 
[[宮本義己]]は、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで、勢威の減殺を図ったのではないかと指摘している<ref>{{Cite journal |和書 |author= 宮本義己 |year= 1999 |title= 家康と秀吉―内府"律義"の真相― |journal= 大日光 |issue= 69号 }}</ref>。ただ一方、「五大老・五奉行」の制度は、秀吉生存時と没後では大きく変質しているとも指摘する。秀吉が企図していたのは家康と利家の専決による政権運営(「内府・大納言体制」)であり、合議制は秀吉の遺命には含まれていないとする。だが、秀吉の没後、三成らの主導で定められた十人衆起請文<ref>「毛利家文書」(『大日本史料』)</ref>によって合議・多数決による政権運営(「十人衆合議体制」)が打ち出され、このとき初めて合議制が確定したとする<ref>{{Cite journal |和書 |author= 宮本義己 |year= 2004 |title= 徳川家康の豊臣政権運営-「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して― |journal= 大日光 |issue= 74号 }}</ref>。
 
 
 
一方、[[白峰旬]]は、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の五大老・五奉行に関する記載について論じ、十人衆は(家康も表向きは)秀吉の遺命に沿うよう心がけたと結論づけている。五大老・五奉行のスキームや権限・職務について決定し、集団指導体制を取るよう計ったのは死去直前の秀吉であったというのである。また、国家統治権について家康の権力だけを突出させることを秀吉は当初から意図していなかったとしている<ref>{{Cite journal |和書 |author= 白峰旬 |year= 2015 |title= 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その2) |journal= 史学論叢 |publisher= 別府大学史学研究会 |issue= 45号 }}</ref>。
 
 
 
[[矢部健太郎]]によると、「五大老制度の本質は豊臣政権の根幹をなしていた[[関白#近世の関白|武家関白制]]と連動して形成された「清華成」([[清華家]]並の家格を得ること。武家清華家)であり、その成立は秀吉の天下平定以前の天正16年([[1588年]])まで遡るとしている。すでに清華成を果たしていた家康・秀家に加えて、この年、景勝・輝元が、のち利家・隆景が清華成を果たし、これが後の五大老制の端緒になったとして、江戸幕府成立後に徳川氏が豊臣政権において毛利・上杉ら外様大名と同格扱いされていた事実(「清華成」)を隠す史料操作が行われていた可能性があると指摘していた<ref>{{Cite book |和書 |author= 矢部健太郎 |year= 2011 |title= 豊臣政権の支配秩序と朝廷 |publisher= 吉川弘文館 |isbn= 978-4642029056}}</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
=== 書籍 ===
 
* [[桑田忠親]]『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
 
* [[中村孝也]]『新訂徳川家康文書の研究』中巻(日本学術振興会、1980年)ISBN 978-4818180550
 
* [[三鬼清一郎]]編『豊臣政権の研究』(吉川弘文館、1984年)ISBN 978-4642025980
 
* 三鬼清一郎『豊臣政権の法と朝鮮出兵』(青史出版、2012年)ISBN 978-4921145484
 
* [[堀新 (歴史学者)|堀新]]『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館、2009年)ISBN 978-4642064071
 
* 大阪城天守閣編『特別展 五大老』パンフレット(大阪城天守閣、2003年)
 
 
 
=== 論文 ===
 
* 桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)
 
* 三鬼清一郎「御掟・御掟追加をめぐって」(『日本近世史論叢』上巻、1984年)
 
* 三鬼清一郎「豊臣秀吉文書の概要について」(『名古屋大学文学部研究論集』史学44、1998年)
 
* [[山本博文]]「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年)
 
* [[阿部勝則]]「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)
 
*:吏僚たちの用法を考察し、「五奉行・五年寄」が正しいと指摘した。
 
* 阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年)
 
* [[宮本義己]]「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―」(『大日光』69号、1999年)
 
*宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して―」(『大日光』74号、2004年)
 
*:「内府・大納言体制」を五奉行は覆そうとしたが、却って「内府・五(三)奉行体制」を招いたとする。
 
* 堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年)
 
*:学術用語としては「五大老・五奉行」でも可とするが、「奉行・年寄体制」の存在を肯定した上での提案である。
 
* [[小林厚太]]「豊臣氏五奉行について-特に発給文書の形式を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年)
 
* 堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年)
 
* 矢部健太郎「豊臣「武家清華家」の創出」(『歴史学研究』746号、2001年)
 
*:「清華成」研究の嚆矢であり、家康が豊臣政権に取り込まれた過程を考察している。
 
* 矢部健太郎「太閤秀吉の政権構想と大名の序列」(『歴史評論』640号、2003年7月)
 
* 矢部健太郎「秀吉の小田原出兵と「清華成」大名」(『國學院大学紀要』49巻、2011年)
 
* [[清水亮]]「秀吉遺言と『五大老』・『五奉行』」山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実』(柏書房、2011年)
 
*白峰旬「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その1)」(『別府大学紀要』56号、別府大学会、2015年)
 
*白峰旬「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その2)」(『史学論叢』45号、別府大学史学研究会、2015年)
 
*:「内府ちかひの条々」は家康を豊臣公儀から排除しており、石田・毛利連合政権が関ヶ原の敗戦までの正統な政権であったとする。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[伏見城]]
 
 
 
 
 
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2018/12/29/ (土) 11:14時点における最新版

五大老(ごたいろう)

豊臣氏の職制の一つ。5人の年寄衆の呼称。五奉行の上に位する職制で,政務を統轄した。成立は,慶長2 (1597) 年頃と推定される。当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。その職務は,五奉行の顧問としての性質をもち,必ずしも一般政務を担当したわけではない。慶長の役 (文禄・慶長の役 ) の収拾にあたり,秀吉の死後,前田利家が秀頼の養育にあたり,徳川家康が政務にあずかることとなり,自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り,関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。



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