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|注記 =
 
|注記 =
 
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'''南アフリカ共和国'''(みなみアフリカきょうわこく)、通称'''南アフリカ'''は、[[アフリカ|アフリカ大陸]]最南端に位置する[[共和制]][[国家]]。[[イギリス連邦]]加盟国のひとつ。東に[[スワジランド]]、[[モザンビーク]]、北に[[ジンバブエ]]、[[ボツワナ]]、西に[[ナミビア]]と国境を接し、[[レソト]]を四方から囲んでいる。南アフリカは[[首都]]機能を[[プレトリア]](行政府)、[[ケープタウン]](立法府)、[[ブルームフォンテーン]](司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認知されている。
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'''南アフリカ共和国'''(みなみアフリカきょうわこく)、通称'''南アフリカ'''
 
 
== 概要 ==
 
かつては[[有色人種]]に対する[[人種差別]]で知られ、それは[[アパルトヘイト]]と呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。金や[[ダイヤモンド]]の世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一の[[G20]]参加国である。[[2010年]]の[[国内総生産|GDP]]は3544億ドル(約30兆円)であり<ref>{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx |title=IMF: World Economic Outlook Database |publisher=国際通貨基金(IMF)|accessdate=2013-10-28}}</ref>、[[神奈川県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{Cite web|url=http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html |title=国民経済計算(GDP統計) |publisher=[[内閣府]]|accessdate=2013-10-28}}</ref>。従来の[[BRICs]]([[ブラジル]] ('''B'''razil) 、[[ロシア]] ('''R'''ussia) 、[[インド]] ('''I'''ndia) 、[[中華人民共和国|中国]] ('''C'''hina) 、'''s'''は複数形)に加え、'''BRICS'''として'''S'''が南アフリカ ('''S'''outh Africa) を表す用法も定着しつつある。また、BRICsからロシアを除いて南アフリカを加えた'''IBSAC''' ('''I'''ndia, '''B'''razil, '''S'''outh '''A'''frica, '''C'''hina) という用語が、[[G7]]で[[イギリス]]によって提唱されたこともある<ref group="注釈">このほか、国際経済研究所による「The United States and the World Economy(2005年1月)」では、BRICsおよび南アフリカの5カ国に[[アルゼンチン]]、[[インドネシア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[メキシコ]]、[[サウジアラビア]]、[[トルコ]]を加えた計11カ国が今後の世界経済に大きな影響を及ぼす「LEMs(Large Emerging-Market Economies)」として取り上げられた。また、BRICs経済研究所の[[門倉貴史]]はBRICsに続くグループ「[[VISTA]]」として、[[ベトナム]] ('''V'''ietnam) 、インドネシア ('''I'''ndonesia) 、南アフリカ ('''S'''outh Africa) 、トルコ ('''T'''urkey) 、アルゼンチン ('''A'''rgentina) の5カ国を、[[HSBCホールディングス|HSBC]]は同じく「[[CIVETS]]」として、[[コロンビア]] ('''C'''olombia) 、インドネシア ('''I'''ndonesia) 、ベトナム ('''V'''ietnam) 、[[エジプト]] ('''E'''gypt) 、トルコ ('''T'''urkey) 、南アフリカ ('''S'''outh Africa) の6カ国を取り上げている。</ref>。一方で[[後天性免疫不全症候群]] (AIDS=エイズ)の蔓延、教育水準の低い非白人の貧困、治安の悪化など懸念材料も多い。
 
 
 
== 国名 ==
 
11の公用語を採用しており、公用語によって正式名称も異なる。
 
* {{Lang-af|Republiek van Suid-Afrika}}
 
* {{Lang-en|Republic of South Africa}}
 
* {{Lang-zu|IRiphabliki yaseNingizimu Afrika}}
 
* [[南ンデベレ語]]: {{Lang|nbl|IRiphabliki yeSewula Afrika}}
 
* [[北ソト語]]: {{Lang|nso|Rephaboliki ya Afrika-Borwa}}
 
* [[ソト語]]: {{Lang|st|Rephaboliki ya Afrika Borwa}}
 
* [[スワジ語]]: {{Lang|ssw|IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika}}
 
* [[ツォンガ語]]: {{Lang|ts|Riphabliki ra Afrika Dzonga}}
 
* {{Lang-tn|Rephaboliki ya Aforika Borwa}}
 
* [[ヴェンダ語]]: {{Lang|ven|Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe}}
 
* {{Lang-xh|IRiphabliki yaseMzantsi Afrika}}
 
 
 
独立後、[[イギリス連邦]]を脱退する1961年迄は「[[南アフリカ連邦]]」と呼ばれていた。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{Main|南アフリカ共和国の歴史|南アフリカ共和国年表}}
 
[[ファイル:Charles_Bell_-_Jan_van_Riebeeck_se_aankoms_aan_die_Kaap.jpg|left|220px|thumb|[[ヤン・ファン・リーベック]]のケープ上陸。]]
 
 
 
紀元前数千年頃から、[[狩猟]][[民族]]の[[サン人]](ブッシュマン)と同系統で[[牧畜]]民族の[[コイコイ人]](ホッテントット:[[吸着音]]でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在の[[カメルーン]]に相当する[[赤道]]付近に居住していた[[バントゥー系民族|バントゥー系諸民族]]が南下し、現在の南アフリカに定住した。
 
 
 
ヨーロッパで[[大航海時代]]が始まった[[15世紀]]末の[[1488年]]に、[[ポルトガル人]]の[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカ大陸南端の[[喜望峰]]に到達した。
 
 
 
[[1652年]]に[[オランダ東インド会社]]の[[ヤン・ファン・リーベック]]がこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目された上、気候も比較的[[ヨーロッパ]]に似ていたからである。以後、オランダ人移民は増加し、[[ケープ植民地]]が成立した。この植民地にて形成された[[ボーア人]](Boer アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)の勢力拡大と共に、[[コイ人]]や[[サン人]]などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、また[[オランダ領東インド]]から[[奴隷]]として連れてきた[[インドネシア]]系諸民族とボーア人の[[混血]]も進み、後に[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]と呼ばれることになる民族集団が生まれた。
 
 
 
[[18世紀]]末には[[金]]や[[ダイヤモンド]]の鉱脈を狙って[[イギリス人]]が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、[[フランス革命戦争]]中の[[1795年]]に[[イギリス]]の{{仮リンク|ウィリアム・ベレスフォード|en|William Beresford, 1st Viscount Beresford}}将軍が[[ケープタウン]]を占領した。
 
 
 
[[ファイル:Boercamp1.jpg|thumb|right|260px|[[第二次ボーア戦争]]([[1899年]] - [[1902年]])に際してのイギリスの[[強制収容所]]に送られたボーア人の女性と子供。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、[[20世紀]]の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった。]]
 
[[ナポレオン戦争]]終結後、[[19世紀]]初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり[[英語]]が[[公用語]]となり、同国の[[司法]]制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加と共に英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らを[[アフリカーナー]]と呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。[[1834年]][[12月1日]]にイギリスが統治するケープ植民地内で[[奴隷]]労働が廃止されると、[[奴隷制]]に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの[[奴隷制度廃止運動|奴隷制度廃止]]措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した([[グレート・トレック]])。アフリカーナーはバントゥー系の[[ズールー人]]や[[ンデベレ人]]、[[スワジ人]]、[[ツワナ人]]など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み[[ナタール共和国]](1839年建国)や、[[トランスヴァール共和国]](1852年建国)、[[オレンジ自由国]](1854年建国)などの[[ボーア諸共和国]]を建国した。しかし、[[セシル・ローズ]]に代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から二度に亘る[[ボーア戦争]]に発展し、[[第一次ボーア戦争]]ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、[[第二次ボーア戦争]]([[1899年]] - [[1902年]])では敗北し、それらも全てイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、[[1879年]]の[[ズールー戦争]]のように抵抗した民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。
 
 
 
[[1910年]]5月31日に、ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の四州からなる'''[[南アフリカ連邦]]'''として統合され、[[イギリス帝国]]内のドミニオン([[自治領]])としてアフリカーナーの[[自治]]を確立した。翌[[1911年]]には、[[鉱山]]における[[白人]]・[[黒人]]間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の[[人種主義]]法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。
 
 
 
[[1931年]]には[[ウェストミンスター憲章]]が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の[[主権]]を獲得。[[1934年]]にはイギリス国会で[[南アフリカ連邦地位法]]が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に[[第二次世界大戦]]が勃発すると、南アフリカ連邦は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として参戦した。
 
 
 
[[ファイル:DurbanSign1989.jpg|thumb|right|220px|[[アパルトヘイト]]時代の人種隔離についての規定が表記されたビーチの看板。]]
 
[[1948年]]にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]が政権を握り、[[ダニエル・フランソワ・マラン]]が首相に就任すると、国民党は[[アパルトヘイト]]政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。[[国際連合]]の抗議や[[アフリカ人民評議会]]などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった<ref group="注釈">むしろ反発したこの背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべき諸外国への根強い不信感が指摘されている。</ref>。国際関係としては、[[反共主義]]を押し出し、[[自由主義]]陣営として[[朝鮮戦争]]に軍を派遣した。
 
 
 
[[1958年]]にマランに続いて[[ヘンドリック・フルウールト]]が首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系の[[アフリカ民族会議]] (ANC) による[[民族解放運動]]が進み、[[ゲリラ]]戦が行われた。[[1960年]]の[[シャープビル虐殺事件]]をきっかけに、[[1961年]]にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、[[イギリス連邦]]から脱退し、[[立憲君主制]]に代えて[[共和制]]を採用して新たに国名を'''南アフリカ共和国'''と定めた。一方で[[日本人]]は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる[[名誉人種|名誉白人]]として認められ、[[日本]]は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。また、世界的に[[脱植民地化]]時代に突入していたのにも拘らず、このように露骨な人種主義政策を採り続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため<ref group="注釈">南アフリカは[[アフリカ統一機構]] (OAU) への加盟を認められなかった。</ref>、同様に域内で孤立していた白人国家[[ローデシア]]や、アフリカに於ける[[ポルトガル海上帝国|植民地帝国]]の維持を続ける[[ポルトガル]]、そして強固に[[反共]]政策を採っていた[[中華民国]]([[台湾]])や、[[汎アラブ主義]]の波に対抗していた[[イスラエル]]との結び付きを深めた。
 
 
 
[[ファイル:SafrikaIMG 8414.JPG|thumb|left|220px|[[ロベン島]]にある[[刑務所]]。刑務所は反[[アパルトヘイト]]運動により反逆罪として逮捕された政治犯の[[強制収容所]]として使われ、[[ネルソン・マンデラ]]や[[ウォルター・シスール]]、[[ロバート・ソブクウェ]]等が収監された。ロベン島は1999年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。]]
 
[[1966年]]にフルウールトが暗殺された後、[[バルタザール・フォルスター]]が次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していた[[ナミビア]]でも独立を目指す[[南西アフリカ人民機構|SWAPO]]による[[ナミビア独立戦争]]([[1966年]]-[[1990年]])が始まった。
 
 
 
[[1974年]]に[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]によって疲弊したポルトガルで[[カーネーション革命]]が勃発し、[[エスタード・ノーヴォ]]体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だった[[アンゴラ]]と[[モザンビーク]]は[[社会主義国]]として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対する[[ブラックアフリカ]]諸国の最前線([[フロントライン諸国]])となった。南アフリカとローデシアは、強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接、間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。更に国内でも、1976年に[[ソウェト蜂起]]が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びることになった。
 
 
 
[[1980年]]にローデシアは[[ローデシア紛争]]の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家[[ジンバブエ]]が成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ防衛軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、[[キューバ]]やブラックアフリカ諸国に支援された[[アンゴラ共和国軍|アンゴラ政府軍]]の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも[[1980年]]代には反体制運動が激しくなり、さらにそれまでの[[反共]]的姿勢から南アフリカを優遇していた[[西側諸国]]からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年には{{仮リンク|クイト・クアナヴァレの戦い|en|Battle of Cuito Cuanavale}}でアンゴラ=キューバ連合軍にアンゴラ領内への侵攻を阻止され、この戦いをきっかけに南アフリカは[[キューバ軍]]のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事的敗北により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。
 
 
 
このような情勢の悪化もあり、[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|デ・クラーク]]大統領は冷戦の終結した[[1990年]]代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の[[核兵器]]を密かに製造・配備をしていたが、[[核拡散防止条約]]加盟前に全て破棄していたことを[[1993年]]に発表した。
 
 
 
[[1994年]][[4月]]に同国史上初の全人種参加の総[[選挙]]が実施され、[[アフリカ民族会議]] (ANC) が勝利し、[[ネルソン・マンデラ]]議長が[[大統領]]に就任した。副大統領にANCの[[ターボ・ムベキ]]と国民党党首の[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|デ・クラーク]]元大統領が就任した。アパルトヘイト廃止に伴い[[イギリス連邦]]と国連に復帰し、[[アフリカ統一機構]](OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい[[憲法]]を作るための制憲議会が始まり、[[1996年]]には新憲法が採択されたが国民党は政権から離脱した。
 
 
 
アパルトヘイトが撤廃された[[21世紀]]になっても、依然として[[人種]]間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって、即日、雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層は既に教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに鉱山は商品市況によって、炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあって、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果がでてしまうのである。しかし撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の[[失業率]]格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、[[人種]]間[[失業率]]格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの[[過激派]]組織も活動している点は否定できない<!--どの人種・民族の右翼なのか パンアフリカニスト会議、アザニア人民機構など極左もあるため「過激派」とします-->。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国の一つ[[ジンバブエ]]からの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果になり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている<ref>2010年6月6日放送 NHKスペシャル「アフリカンドリーム 第3回 移民パワーが未来を変える」より。</ref>。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が[[逆差別|押し出される]]格好になり、白人の失業率が上昇することになった<ref>{{Cite web|url=http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100601.html |title=BS世界のドキュメンタリー 〈シリーズ 南アフリカ 第2週 変革の中で〉 プア ホワイト|date=2010-06-01|accessdate=2013-10-28}}</ref>。
 
 
 
== 政治 ==
 
<!--{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の政治|en|Politics of South Africa}}}}-->
 
[[アフリカ]]でも数少ない[[複数政党制]]が機能する[[民主主義]][[国家]]の1つである。議会は[[両院制]]で、いずれも任期5年の[[全国州評議会]](90名、上院)[[国民議会 (南アフリカ)|国民議会]](400名、下院)で構成され、[[元首]]たる[[大統領]]は国民議会の議決により選出される。
 
 
 
* [[2014年]][[5月21日]]、国民議会(下院)は[[アフリカ民族会議]] (ANC) の[[ジェイコブ・ズマ]]を二期目の大統領に選出した。
 
 
 
[[複都制]]を採用しており、立法府は[[ケープタウン|ケープタウン市都市圏]]、行政府は[[プレトリア|ツワネ都市圏]](プレトリア)、司法府は[[ブルームフォンテーン]]に置かれている。
 
 
 
=== 立法 ===
 
{{Main|南アフリカ共和国の議会}}
 
[[ファイル:Capetownparlament.jpg|200px|right|thumb|議会議事堂(ケープタウン)]]
 
アパルトヘイト撤廃後に5度の総選挙が実施され、いずれも反アパルトヘイト闘争を主導した[[アフリカ民族会議]](ANC)が7割近い得票で圧勝している。[[アフリカーナー]]や[[リベラル]]派に支持基盤を持つ[[民主同盟]](DA)、[[クワズールー・ナタール州]]を地盤とする[[インカタ自由党]](IFP)、かつての政権与党・[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]とANCの離党者で組織された[[統一民主運動]](UDM)が続くが、全議席の7割以上をANCが占めている。
 
{{See also|南アフリカ共和国の政党}}
 
 
 
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
 
|+ style="font-size: 110%; font-weight: bold;"|[[南アフリカ共和国の議会|南アフリカ議会]]の会派構成
 
|-
 
!style="width: 50%;" rowspan=2|政党名
 
!style="width: 25%;" colspan=2|全国州評議会<br />(上院)
 
!style="width: 25%;" rowspan=2|国民議会<br />(下院)
 
|-
 
!常任議員
 
!特別議員
 
|-
 
![[アフリカ民族会議]] (ANC)
 
|33
 
|37
 
|249
 
|-
 
![[民主同盟]] (DA)
 
|13
 
|7
 
|89
 
|-
 
![[経済的解放の闘士]] (EFF)
 
|6
 
|1
 
|25
 
|-
 
![[インカタ自由党]] (IFP)
 
|1
 
|0
 
|10
 
|-
 
![[国民自由党 (南アフリカ)|国民自由党]] (IFP)
 
|0
 
|1
 
|6
 
|-
 
![[統一民主運動]] (UDM)
 
|1
 
|0
 
|4
 
|-
 
![[自由戦線プラス]](FF Plus)
 
|0
 
|0
 
|4
 
|-
 
![[国民会議 (南アフリカ)|国民会議]](COPE)
 
|0
 
|0
 
|3
 
|-
 
![[アフリカ・キリスト教民主党]](ACDP)
 
|0
 
|0
 
|3
 
|-
 
![[アフリカ独立会議]](AIC)
 
|0
 
|0
 
|3
 
|-
 
![[Agang SA]]
 
|0
 
|0
 
|2
 
|-
 
![[パン・アフリカニスト会議]](PAC)
 
|0
 
|0
 
|1
 
|-
 
![[アフリカ人民会議]](APC)
 
|0
 
|0
 
|1
 
|-
 
!計
 
!54
 
!36
 
!400
 
|}
 
 
 
=== 行政 ===
 
[[ファイル:Uniegebou.jpg|thumb|250px|right|行政府庁舎、[[ユニオンハウス]]([[プレトリア]])]]
 
[[行政]]の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。大統領は[[行政機関|行政府]]の首長を兼務し、[[内閣]]を組織する。
 
 
 
=== 司法 ===
 
[[1994年]]に設置された[[憲法裁判所]]のほか、最高裁判所を筆頭とする[[三審制]]の[[司法]]制度である。司法府は[[ブルームフォンテーン]]に置かれている。
 
 
 
== 警察 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の警察|en|South African Police Service}}}}
 
南アフリカの警察組織・警備会社は後述の犯罪問題により、強力な武装化をしている場合が多い{{要出典|date=2018年3月}}。また、南アフリカで活動する警備会社は9000以上で、働く警備員の数は40万人と、警察官や国防軍の兵士よりも多いとされている<ref>{{cite news|title=Bigger than the army: South Africa's private security forces|url=http://edition.cnn.com/2013/02/08/business/south-africa-private-security|publisher=CNN|accessdate=3 May 2013|date=8 February 2013}}</ref>。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{Main|南アフリカ国防軍}}
 
[[南アフリカ国防軍]](South African National Defence Force, SANDF)は[[南アフリカ陸軍|陸軍]]、[[南アフリカ海軍|海軍]]、[[南アフリカ空軍|空軍]]の三軍と[[南アフリカ総合医療部隊]]から構成される。
 
 
 
かつて[[冷戦]]時代に存在した[[南アフリカ防衛軍]]([[:en:South African Defence Force|South African Defence Force, SADF]])は、アパルトヘイト体制維持のために国内の[[アフリカ民族会議]] (ANC) や占領していた[[ナミビア]]の[[南西アフリカ人民機構]] (SWAPO) の[[ゲリラ]]との非正規戦、及び[[アンゴラ]]の[[社会主義]]政権とアンゴラに介入した[[キューバ軍]]との戦いに従事していた。現在の南アフリカ国防軍はアパルトヘイト体制崩壊後の1994年に再編成されたものである。
 
 
 
=== 民間軍事会社 ===
 
アパルトヘイト終了後の軍縮などにより、南アフリカ国内外にて不正規戦や秘密工作を行った軍人達が(特に[[アンゴラ]]の元難民である黒人兵士達は[[アフリカ民族会議]]の圧力により、軍基地跡地の貧しい地域に居住することを余儀なくされた)大量に職を失った。南アフリカ国防軍不正規戦部隊の出身である元軍人らが[[エグゼクティブ・アウトカムズ]]という[[民間軍事会社]]を設立し、冷戦終了後内戦が勃発した[[アンゴラ]]や[[シエラレオネ]]などで戦い、その後同社が解散した後は、[[赤道ギニア]]にてエグゼクティブ・アウトカムズの元社員らがクーデター未遂を起こして逮捕された。
 
 
 
他にも南アフリカ国防軍出身者達は[[イラク戦争]]でもイギリスの民間軍事会社に警備要員として雇用されており、ハート・セキュリティ社に所蔵している元南アフリカ警察出身のGrey Branfield(銃撃戦により死亡)と元自衛官の日本人と一緒に勤務していた4人の警備要員(全員銃撃戦により死亡)、エリニュス社に所属している南西アフリカ警察不正規戦部隊出身のFrançois Strydom(自爆テロにより死亡)と秘密警察出身のDeon Gouws(同じ自爆テロにより負傷)など、1000人程度が確認されている。
 
 
 
== 国際関係 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の国際関係|en|Foreign relations of South Africa}}}}
 
[[File:Diplomatic missions of South Africa.png|thumb|520px|南アフリカ共和国が外交使節を派遣している諸国の一覧図。]]
 
[[冷戦]]中の南アフリカ共和国は[[人種主義]]に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、アフリカ諸国をはじめとする国際社会から孤立し、僅かに[[イスラエル]]や[[中華民国]]([[台湾]])などが友好国として存在するのみだった。しかし、[[南部アフリカ]]における[[反共]]の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において[[西側諸国]]との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にして[[アンゴラ内戦]]([[1974年]]-[[2002年]])に直接介入したり、[[モザンビーク内戦]]([[1977年]]-[[1992年]])での[[モザンビーク民族抵抗運動]] (RENAMO) 支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと[[東側諸国]]の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからの[[キューバ軍]]の撤退と引き換えに占領していた[[ナミビア]]の独立を認めた。
 
 
 
[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]がアパルトヘイト体制を葬った後、1994年に[[ネルソン・マンデラ]]を首班としたANC政権が成立すると同時に、南アフリカ共和国は[[アフリカ統一機構]] (OAU) に加盟し、国際社会に合流した。
 
 
 
=== 日本との関係 ===
 
* 在留日本人数 - 1,488人(2015年7月現在)<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/data.html#section6 外務省 南アフリカ基礎データ]</ref>
 
* 在日南アフリカ人数 - 623人(2015年6月現在)<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/data.html#section6 外務省 南アフリカ基礎データ]</ref>
 
在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、現在では2分の1以下となっている。ヨハネスブルクには[[日本人学校]]もある。また、ごく少数だが、[[永住者]]や[[在南アフリカ日本人|日系人]]も存在する。
 
 
 
[[ケープ植民地]]入植者にはオランダ人[[ヤン・ファン・リーベック]]によって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある<ref>[http://www.jsj.org.za/springbok/africa%20seminar/Lecture%204.pdf 悲劇の国 南アフリカ]</ref>。
 
 
 
公式記録として残る南アフリカに初めて入国した日本人は、[[慶応]]2年(1865年)1月にケープタウンに立ち寄った幕府の[[ロシア]]派遣留学生ら6名で、移住者としては、1898年(明治31年)入植の[[古谷駒平]]らが最初期に当たる([[在南アフリカ日本人]]参照)。
 
 
 
== 地方行政区画 ==
 
{{main|南アフリカ共和国の州|南アフリカ共和国の地方自治体}}
 
 
 
===主要都市===
 
{{Main|南アフリカ共和国の都市の一覧}}
 
主要な都市は[[プレトリア]](首都)、[[ケープタウン]](首都)、[[ブルームフォンテーン]](首都)、[[ヨハネスブルグ]]、[[ダーバン]]、[[ソウェト]]、[[ポート・エリザベス]]がある。
 
 
 
== 地理 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の地理|en|Geography of South Africa}}}}
 
[[ファイル:Sf-map.png|260px|right|thumb|南アフリカ共和国の地図]]
 
[[ファイル:South Africa Topography.png|thumb|地形図]]
 
[[ファイル:South Africa sat.jpg|thumb|衛星写真、白い空洞の部分は[[レソト王国]]]]
 
[[アフリカ大陸]]の最南端に位置し、[[ナミビア]]、[[ボツワナ]]、[[ジンバブエ]]、[[モザンビーク]]、[[スワジランド]]と国境を接し、[[レソト]]を囲んでいる。南西部は[[大西洋|南大西洋]]に面し、南部から東部にかけては[[インド洋]]に面するため2,500kmという長い海岸線を有する。海岸平野は狭く、国土の全体が高地になる。内陸は[[カルー]]と呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部は[[ナミブ砂漠]]の延長部である。東部にはドラケンスバーグ山脈が連なる。国の最高地点はレソトとの国境にあるマハディ山(標高3450m)である。
 
 
 
=== 気候 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の気候|en|Climate of South Africa}}}}
 
夏期は[[10月]]から[[3月]]、冬期は[[5月]]から[[8月]]である。地域による差はあるのだが、一年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。
 
 
 
しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0度から15度、夏が20から40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、[[ドラケンスバーグ山脈]]のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、[[暖流]]の[[モザンビーク海流]]が流れているために暖かい。西部の海岸は[[寒流]]の[[ベンゲラ海流]]の影響を受けて気温はそれほど上がらない。
 
 
 
雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は[[季節風]]の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる[[地中海性気候]]で、[[移動性低気圧]]により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。
 
 
 
南半球なので北に行くほど暑くなりそうだが、内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。
 
 
 
=== 動植物 ===
 
* [[国鳥]]は、 [[ハゴロモヅル]]。
 
* [[国花]]は、[[キングプロテア]]。(アフリカーンス名: [[:af:suikerbos<!-- リダイレクト先の「[[:af:Protea]]」は、[[:ja:プロテア]] とリンク -->|suikerbos]])
 
* 国の動物は、[[スプリングボック]]。
 
南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応した[[ベンケイソウ科]]や[[トウダイグサ科]]、[[ハマミズナ科]]の[[多肉植物]]やトランスヴァール地方に[[花畑]]を形成する[[ガーベラ]]や[[ユリオプスデージー]]など[[キク科]]の植物、あるいは[[エリカ属|エリカ]]や[[クンシラン]]などは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は、全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約24000種類の原産国となっている。また、脊椎動物の約7%、昆虫の約5.5%、海洋生物の約15%にとっての生息地ともなっている<ref>{{Cite news|url=http://www.capetownnews.jp/2010/01/year-of-biodiversity/ |title=2010 国際生物多様性年-南アフリカにて環境関連イベント多数開催 |newspaper=ケープタウン新聞 |date=2010-01-11}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
<gallery>
 
ファイル:Anthropoides paradisea Prague.jpg|ハゴロモヅル
 
ファイル:Protea nerifola close.jpg|プロテア
 
ファイル:Springbok Namibia.jpg|スプリングボック
 
</gallery>
 
{{-}}
 
 
 
== 経済 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の経済|en|Economy of South Africa}}}}
 
初期の銀行業は[[スタンダードチャータード銀行|スタンダード銀行]]と[[バークレイズ]]に支配されていた。1987年時点では、[[JSE|ヨハネスブルク証券取引所]]に上場していた全企業の83%を、''[[:en:Sanlam|Sanlam]]''、''[[:en:Old Mutual|Old Mutual]]''、[[アングロ・アメリカン]]、''[[:en:Rembrandt Group|Rembrandt Group]]'' の4財閥が支配していた。<ref>北川勝彦 [http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/4484/1/KU-1100KR-20010315-04.pdf 南アフリカ経済史研究の課題] 2001年 p.50.</ref>
 
 
 
2012年には[[マリカナ鉱山における労使対立]]が起こった。[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]の[[国内総生産|GDP]]は3,508億ドルである。一人当たりのGDPは6,621ドルで、アフリカ全体では7位に位置する。[[購買力平価]]ではそれぞれ6,626億ドル、12,506ドルとなる。<ref name="imf201410" />
 
 
 
=== 主要産業 ===
 
[[農業]]は[[果樹]]・[[穀類]][[栽培]]と[[牧畜]]がある。アフリカ大陸で最大の[[トウモロコシ]]生産国であり、2009/10年度には400万tの[[生産]]過剰となっている。また、南アの[[砂糖]]([[サトウキビ]])は[[世界金融危機]]の出端から年に十数%の割合で高騰していった。
 
 
 
伝統的な[[作物]]としての[[果物]]には[[グアバ]]や[[アボカド]]があり、これらは南アの重要な生産物となっている。現在はパンなどの主食用として[[コムギ|小麦]]もつくっている。
 
 
 
最近では[[マカダミアナッツ]]の栽培に力を入れており、毎年約4'000haが新たに[[植林]]されている。その背景には[[中華人民共和国|中国]]での旺盛な[[需要]]があり、生産量は1996年の3'000tから2015年には40'000tを超えるまでになっている<ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/business/35111573.html|title=南アでマカダミアナッツ栽培がブーム、中国需要が後押し|publisher=CNN.co.jp|date=2017-12-07|accessdate=2017-12-24}}</ref>。
 
 
 
[[酒造]]は[[ワイン]]を手掛けており、ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んで[[輸出]]もされている。
 
 
 
[[メリノ種]]の[[ウール|羊毛]]は[[オーストラリア]]に次ぐ生産量を誇る。[[皮革]]用の牝羊も飼われている。つまり子羊の皮を採るのだが、最高級品は[[胎児]]を取り出して剥ぐので、[[動物愛護団体|愛護団体]]等から[[批判]]を受けている。
 
 
 
[[鉱業]]生産物は[[金]]・[[ダイヤモンド]]・[[プラチナ]]・[[ウラン]]・[[鉄鉱石]]・[[石炭]]・[[銅]]・[[クロム]]・[[マンガン]]・[[石綿]]。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景に[[クルーガーランド金貨]]を発行していたが、現在は限定品としてのみ僅かに販売されている。[[石油]]の産出は無い。
 
 
 
[[工業]]は[[食品]]・[[製鉄]]・[[化学]]・[[繊維]]・[[自動車]]等の分野で盛ん。
 
 
 
近年、ダイムラー・クライスラー(現[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]])社が、[[ダーバン]]市内に自動車製造工場を建設。[[メルセデス・ベンツ]]の、特に[[対面交通|右ハンドル仕様]]を製造している。これらの車両は南ア向けのみならず、多くが[[輸出]]に割り振られている。また[[BMW]]、[[フォルクスワーゲン]]や[[日産自動車]]なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なお、これらの拠点は東海岸の[[ポートエリザベス]]に多く存在している。
 
 
 
[[国内総生産|GDP]]成長率は2005年5.1%、06年5.0%<ref>http://www.jetro.go.jp/biz/world/africa/za/stat_01/</ref>と堅調な成長が続いている。[[JSE]]は世界的な証券取引所である。
 
 
 
アパルトヘイト廃止後に電力需要が急増したにもかかわらず[[発電所]]の建設が10年以上行われなかったため、2007年ごろから[[電力]]不足が問題となっており、2008年1月には南アフリカ電力公社 ([[:en:Eskom|Eskom]]) は[[計画停電]]を実施し、当時資源高により好調だったプラチナ[[鉱山]]の[[操業]]が制限される事態となり、金やプラチナの相場を高騰させた。これを解消するためEskomは近隣諸国からの送電や発電所の増設を計画しているが、電力不足は2015年ごろまでは解消されない見込みである。
 
 
 
[[2010年]]8月、公務員ストが続いている。労組側 (COSATU) は、公務員賃金の8.6%引き上げと住宅手当1000ランド(約1,0000円)の新設を要求している。政府側の最終回答はそれぞれ7%、700ランドにとどまっている。
 
 
 
[[失業]]が大きな問題となっており、2011年の国勢調査では失業率は29.8%となっている<ref>{{Cite news | url =http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/mds12123020350005-n1.htm | title =猛暑の採用テストで6人死亡 南ア、30度越えの中、4キロ走も | newspaper = 産経新聞 | date = 2012-12-30 }}</ref>。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[ファイル:Cape Town Waterfront.jpg|thumb|250px|[[ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロント]]はテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まる[[ケープタウン]]の新しい観光スポットである。]]
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の交通|en|Transport in South Africa}}}}
 
=== 道路 ===
 
{{節stub}}
 
 
 
=== 鉄道 ===
 
{{Main|南アフリカ共和国の鉄道}}
 
 
 
=== 海運 ===
 
{{節stub}}
 
 
 
=== 空運 ===
 
{{Main|南アフリカ共和国の空港の一覧}}
 
* [[南アフリカ航空]]
 
 
 
== 国民 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の人口統計|en|Demographics of South Africa}}}}
 
 
 
=== 人口 ===
 
[[画像:South Africa 2011 population density map.svg|thumb|240px|南アフリカ共和国の人口分布図]]
 
2009年の推計によると、人口は4932万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。平均寿命も年々低下しており、かつて60歳代であった平均寿命は、現在では40歳代(2009年推計で48.98歳) にまで低下した。黒人層に限ればさらに低くなる。
 
 
 
=== 民族 ===
 
{{bar box
 
|title=人種構成
 
|titlebar=#ddd
 
|float=left
 
|bars=
 
{{bar percent|[[バントゥー系民族]]([[黒人]])|Purple|79.4}}
 
{{bar percent|[[:en:White South African|白人]]|blue|9.2}}
 
{{bar percent|[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]|orange|8.8}}
 
{{bar percent|[[アジア系南アフリカ人|アジア系]]|green|2.6}}
 
}}
 
2009年の推計によると、[[人種]]の割合は[[黒人]] (79.3%)、[[白人]] (9.1%)、[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]([[混血]])(9.0%)、インド系([[印僑]])(2.6%)<ref>[http://www.statssa.gov.za/publications/P0302/P03022009.pdf Midyear population estimates: 2009 Statistics South Africa 23 February 2010]</ref>。
 
 
 
黒人は[[ズールー人]]、[[コサ人]]、[[ツワナ人]]、[[ソト人]](南ソト人)、{{仮リンク|ペディ人|en|Pedi people}}(北ソト人)、[[スワジ人]]、{{仮リンク|ヴェンダ人|en|Venda people}}、{{仮リンク|北ンデベレ人|en|Northern Ndebele people|label=ンデベレ人}}、[[ツォンガ人]]の[[バントゥー系民族]]で非常に多様であり、アパルトヘイト撤廃後は民族間の対立が深刻化している。
 
 
 
[[カラード]]は中央部から西部にかけての広い範囲に分布し、多くが[[アフリカーンス語]]を母語としている。他に[[カポイド|コイサン人種]]の先住民である[[サン人]]、[[コイコイ人]]がいるが、多くは混血したため数は少ない。
 
 
 
白人の大半は[[イギリス系南アフリカ人|イギリス系]]と[[アフリカーナー]]であるが、その他[[ポルトガル系南アフリカ人|ポルトガル系]]や[[ユダヤ系南アフリカ人|ユダヤ系]]、[[フランス系]]、[[ドイツ系]]など。白人は1940年頃には全人口の約20%を占めていたとされるが、1994年には13.6%、2009年には9.1%にまで低下した。アパルトヘイトの廃止以降、[[逆差別]]や失業、犯罪などから逃れるために、国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ<ref>[http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12295535 White flight from South Africa | Between staying and going], The Economist, September 25, 2008</ref>。2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人<ref>[http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100601.html NHK BS 世界のドキュメンタリー]</ref>が貧困層となっており、[[プアホワイト]]と呼ばれる層が出現している。[[アフリカーナー]]が急減する一方、[[イギリス系南アフリカ人|イギリス系]]は増加傾向にある。
 
 
 
[[アジア系南アフリカ人]]の大多数はインド系([[印僑]])で、100万人に達し、多くが[[クワズール・ナタール州]]に住む。近年は{{仮リンク|中国系南アフリカ人|en|Chinese South Africans}}(およそ10万人)が急増し、黒人との対立を引き起こしている。最近は[[ジンバブエ]]から300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の[[不法移民]]が流入し、治安悪化の原因となっている。
 
 
 
=== 言語 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の言語状況|en|Languages of South Africa}}}}
 
{{bar box
 
|title=母語話者(南アフリカ共和国)<ref>[http://www.statssa.gov.za/Census2011/Products/Census_2011_Census_in_brief.pdf 南アフリカ共和国 センサス2011]</ref>
 
|titlebar=#ddd
 
|float=right
 
|bars=
 
{{bar percent|[[英語]]|orange|9.6}}
 
{{bar percent|[[ズールー語]]|#7FE000|22.7}}
 
{{bar percent|[[コサ語]]|#800080|16.0}}
 
{{bar percent|[[アフリカーンス語]]|#0080C0|13.5}}
 
{{bar percent|[[北ソト語]]|#FF00FF|9.1}}
 
{{bar percent|[[ツワナ語]]|#FF0000|8.0}}
 
{{bar percent|[[ソト語]]|#7F7F7F|7.6}}
 
{{bar percent|[[ツォンガ語]]|#00C0C0|4.5}}
 
{{bar percent|その他|black|9.1}}
 
}}
 
 
 
[[ファイル:South_Africa_municipalities_by_language_2001.png|thumb|300px|right
 
|南アフリカに於ける言語の分布<br />
 
{{legend|#0080C0|[[アフリカーンス語]]}} <!--blue-->
 
{{legend|#FF00FF|[[北ソト語]]}} <!--pink-->
 
{{legend|#7F7F7F|[[ソト語]]}} <!--grey-->
 
{{legend|#FFFF00|[[スワジ語]]}} <!--yellow-->
 
{{legend|#00C0C0|[[ツォンガ語]]}} <!--cyan-->
 
{{legend|#FF0000|[[ツワナ語]]}} <!--red-->
 
{{legend|#87870E|[[ヴェンダ語]]}} <!--olive-->
 
{{legend|#800080|[[コサ語]]}} <!--purple-->
 
{{legend|#7FE000|[[ズールー語]]}} <!--green-->
 
]]
 
[[ファイル:Stellenbosch Magistrate's Office (entrance).JPG|thumb|[[アフリカーンス語]]、[[英語]]、[[コサ語]]の3か国語による表記 ]]
 
[[公用語]]は[[英語]]、[[アフリカーンス語]]、[[バントゥー諸語]]([[ズールー語]]、[[コサ語]]、[[北ソト語]]、[[ソト語]]、[[スワジ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[ツォンガ語]]、[[ツワナ語]]、[[ヴェンダ語]])の11言語。しかし、実質的には公用語として機能しているのは英語のみと言える。
 
 
 
1994年の現憲法制定以前はアフリカーンス語と英語が公用語であり両言語が政府、国会、経済、教育、標記、メディアにおいてもほぼ平等に使われていた。1994年の新憲法ではアフリカ諸語の保護育成のための[[多言語]]主義を掲げ、バントゥー諸語9言語が公用語に追加されたが、それまで共通語として機能していたアフリカーンス語を含め公用語の地位は形骸化している。エリート層主体で英語一本化の傾向が強まった結果、[[多言語]]主義の理念とはかけ離れつつあり<ref>[http://www.aa.tufs.ac.jp/documents/jrp/jrp157_03ja.pdf 「多言語状況の比較研究」(平成 20 年度第 3 回研究会)[[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]]</ref>、多言語主義を推奨する機関である[[汎南アフリカ言語委員会]](PANSALB)もほとんど機能不全に陥っている。
 
 
 
==== 英語 ====
 
英語圏であるとされる南アフリカであるが、実際には[[英語]]は主に[[ヨハネスブルク]]や[[ケープタウン]]、[[ダーバン]]を代表とする大都市を中心に、イギリス系を中心とした白人やインド系など全人口の9.6%の人の[[第一言語]]に過ぎず、90%前後の大多数の国民にとっては教育で学ぶ言語である。しかし、[[イギリス]]の[[植民地]]時代に普及した英語が[[共通語]]的役割を果たし[[国会]]や政府の公式言語として全土で使用されているが、貧困層を中心に十分に理解できない層も多く、ある程度の英語を理解できる層は全人口の半数程度に過ぎない<ref>[http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no23/kusunose.pdf 南アフリカの言語政策――マルチリンガリズムへの道 [[京都精華大学]] [[楠瀬佳子]]]</ref>。全人口に占める割合は2011年のセンサス統計では9.6%と2001年のセンサス統計の8.2%より大幅に増加しており、[[第一言語]]話者数は2001年の3,673,000人から2011年には4,892,623人まで増加した。主に黒人層の間で社会的価値の低いバントゥー諸語話者から社会的成功のために必須な英語話者へと変化していることが大きいとされる<ref>[http://www.dailymaverick.co.za/article/2013-04-24-sas-shifting-language-landscape/#.UedhDY30GSo SA's shifting language landscape “Afrikaans and English no longer ‘white languages’ Daily Maverick]</ref>。
 
 
 
人種別にみると、インド系の86.1%(1,094,317人)、白人の35.9%(1,603,575人)、カラードの20.8%(945,847)の母語となっており、黒人の母語話者(1,167,913人)は黒人人口の2.9%に過ぎないが、近年は急増傾向にある。
 
 
 
==== アフリカーンス語 ====
 
[[オランダ語]]を元に[[マレー人]]奴隷の持ち込んだ[[マレー語]]や英語、バントゥー諸語の影響を受けた[[ゲルマン語派]]の言語である。英語よりも[[第一言語]]話者が多く、[[北ケープ州]]と[[西ケープ州]]を中心に[[アフリカーナー]]と[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]が在住する地域で広く話されている。南アフリカの地名には[[ボーア人]](アフリカーナー)が開拓した土地が多いためにアフリカーンス語のものが多い。
 
 
 
以前はアフリカーンス語も英語と並び共通語としての役割を担っており、事実上の二言語国家体制を敷いていたが、[[アパルトヘイト]]撤廃後は、[[ソウェト蜂起]]に代表されるようにアパルトヘイトという負のイメージの象徴としてのアフリカーンス語<ref group="注釈">これをきっかけに、人種差別の圧政言語の象徴としてのアフリカーンス語に対して白人層が使用していたに過ぎない植民地支配の象徴でもある英語がより自由な解放言語との印象を根付かせたことが現在の英語一本化へとつながっている。</ref>への[[逆差別]]も発生しており、その地位は急速に低下している。
 
 
 
アフリカーンス語の地名や通りの名は英語やバントゥー諸語の名に変えられ、以前は二言語併記であった政府の公式文書の他、[[南アフリカ航空]]や[[南アフリカ旅客鉄道公社]]など企業名からも排除された。政界ではかつて[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]が支配していたためアフリカーンス語が政界の中心言語であったが、現在は完全に排除されている。国営の[[南アフリカ放送協会]]のテレビ放送も、以前は半分の番組がアフリカーンス語で制作されていたが、現在ではほとんどが英語に変わった。教育機関などにおいても、それまでアフリカーンス語で教育を行っていた学校の閉鎖や英語化が行なわれ、アフリカーンス語話者にとって母語での教育という選択肢も奪われている。国内の多くの大学でもそれまで行われてきたアフリカーンス語による教育が廃止・削減され、英語へと変わっている。
 
 
 
このように、白人の[[アフリカーナー]]のみならず、[[カラード]]や一部の黒人などの白人以外の母語でもあり、それまで共通語としても機能していたアフリカーンス語の排除は問題となっており、結果としてアフリカーンス語話者の英語化や海外への大量流出を引き起こしている。このままいくと、およそ国内に第一言語として約600万人、第二言語として約1,000万人もいるアフリカーンス語話者も将来的には国内から絶滅することが危惧されている。
 
 
 
2011年センサスによると、人口に占める割合は13.5%と2001年のセンサスに比べ0.2%増加した。[[第一言語]]話者数も2001年の5,983,000人から2011年には6,855,082人へと増加した。人種別にみると、カラードの75.8%(3,442,164人)、白人の60.8%(2,710,461人)の母語となっており、黒人の母語話者(602,166 人)も全体の黒人人口の1.5%に過ぎないものの実数では決して少なくないなど、もはや白人だけの言語とは言えなくなっている。
 
 
 
==== バントゥー諸語 ====
 
新言語憲法で公用語に[[バントゥー諸語]]で南バントゥー語群に属する[[ズールー語]]、[[コサ語]]、[[スワジ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[北ソト語]]、[[ソト語]]、[[ツワナ語]]、[[ツォンガ語]]、[[ヴェンダ語]]の9言語が指定された。実際、ほとんどの黒人にとっての第一言語・日常言語となっている。中でもズールー語は国内で最も多くの人に話されているが、それでも全体の22.7%に過ぎず、それも東部に限定される。コサ語、スワジ語、ンデベレ語、南ンデベレ語もズールー語と同じングニ諸語に属し意思疎通には問題ない。また、[[北ソト語]]、[[ソト語]]、[[ツワナ語]]はソト・ツワナ語群に属し類似性が高い。
 
 
 
鉱山労働者によって生み出された{{仮リンク|ファナガロ語|en|Fanagalo}}というズールー語を基盤に英語やアフリカーンス語を混ぜたバンツゥー系の[[ピジン言語]]([[リングワ・フランカ]])もあるが、近年は政府により英語が共通語として強化されているために衰退傾向にある。実際に、2011年のセンサスでは2001年センサスと比較すると、[[南ンデベレ語]]・[[ツォンガ語]]・[[ヴェンダ語]]のみが増加し、それ以外の割合はすべて低下したことから、バントゥー諸語から英語話者へと変わりつつある傾向が見られる。バントゥー諸語話者の黒人層の間では貧困から抜け出すためには英語の習得が必要不可欠となり、その結果、黒人言語の衰退を招くと言う悪循環を招きつつあり、一向に黒人言語の地位は低いままで、状況は改善されていない。黒人エリート層ほどバントゥー諸語を軽視し、英語を重視する傾向が強くなっており、その点では植民地支配を脱してもなお宗主国の言語をより一層重視している他の[[ブラックアフリカ]]諸国と共通した問題がある。
 
 
 
==== 言語統計 ====
 
'''南アフリカで使用される言語 2011年統計'''<ref>[http://www.statssa.gov.za/Census2011/Products/Census_2011_Census_in_brief.pdf 南アフリカ共和国 センサス2011]</ref><ref>[http://www.southafrica.info/about/people/language.htm#.UedNBI30GSo 南アフリカの言語]</ref>
 
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
 
!style="background-color:#E9E9E9"|言語
 
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|話者人口
 
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|%
 
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|話者が多い州(州全体の中の割合)
 
|-
 
|[[ズールー語]]||align=right|11,587,374||align=right|22.7%||[[クワズール・ナタール州]]77.8%、[[ムプマランガ州]]24.1%、[[ハウテン州]]19.8%
 
|-
 
|[[コサ語]]||align=right|8,154,258||align=right|16.0%||[[東ケープ州]]78.8%、[[西ケープ州]]24.7%、[[フリーステイト州]]7.5%、ハウテン州6.6%、[[北西州 (南アフリカ)|北西州]]5.5%、[[北ケープ州]]5.3%
 
|-
 
|[[アフリカーンス語]]||align=right|6,855,082||align=right|13.5%||北ケープ州53.8%、西ケープ州49.7%、フリーステイト州12.7%、ハウテン州12.4%、東ケープ州10.6%、北西州9.0%、ムプマランガ州7.2%
 
|-
 
|[[英語]]||align=right|4,892,623||align=right|9.6%||西ケープ州20.2%、ハウテン州13.3%、クワズール・ナタール州13.2%、東ケープ州5.6%
 
|-
 
|[[北ソト語]] ||align=right|4,618,576||align=right|9.1%||[[リンポポ州]]52.9%、ハウテン州10.6%、ムプマランガ州9.3%
 
|-
 
|[[ツワナ語]]||align=right|4,067,248||align=right|8.0%||北西州63.4%、北ケープ州33.1% 、ハウテン州9.1%、フリーステイト州5.2%
 
|-
 
|[[ソト語]]||align=right|3,849,563||align=right|7.6%||フリーステイト州64.2%、ハウテン州11.6%、北西州5.8%
 
|-
 
|[[ツォンガ語]]||align=right|2,277,148||align=right|4.5%||リンポポ州17.0%、ムプマランガ州10.4%、ハウテン州6.6%
 
|-
 
|[[スワジ語]]||align=right|1,297,046||align=right|2.5%||ムプマランガ州27.7%
 
|-
 
|[[ヴェンダ語]]||align=right|1,209,388||align=right|2.4%||リンポポ州16.7%
 
|-
 
|[[南ンデベレ語]]||align=right|1,090,223||align=right|2.1%||ムプマランガ州10.1%
 
|-
 
|その他の言語||align=right|106,2913||align=right|2.1%||
 
|-
 
|'''合計'''||align=right|'''50,961,443'''||align=right|'''100.0%'''||
 
|}
 
 
 
'''都市圏で使用される言語 2011年統計'''<ref>[http://census2011.adrianfrith.com/ 南アフリカ共和国 センサス2011]</ref>
 
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
 
!style="background-color:#E9E9E9"|都市圏名
 
!style="background-color:#E9E9E9"|人口
 
!style="background-color:#E9E9E9"|母語話者の割合%
 
|-
 
|[[ヨハネスブルク]]||align=right|4,434,827||align=left|[[ズールー語]]23.41%、[[英語]]20.10%、[[ソト語]]9.61%、[[ツワナ語]]7.68%、[[アフリカーンス語]]7.28%、[[北ソト語]]7.26%、[[コサ語]]6.83%、ツォンガ語6.58%
 
|-
 
|[[ケープタウン]]||align=right|3,740,026||align=left|[[アフリカーンス語]]35.7%、[[コサ語]]29.8%、[[英語]]28.4%
 
|- 
 
|[[エテクウィニ都市圏|エテクウィニ]]||align=right|3,442,361||align=left|[[ズールー語]]62.82%、[[英語]]26.77%、[[コサ語]]3.91%、[[アフリカーンス語]]1.72%
 
|-
 
|[[エクルレニ]]||align=right|3,178,470||align=left|[[ズールー語]]28.81、[[英語]]11.99%、[[アフリカーンス語]]11.92%、[[北ソト語]]11.40%、[[ソト語]]10.02%、[[コサ語]]8.02%、[[ツォンガ語]]6.63%、[[ツワナ語]]2.87%
 
|- 
 
|[[ツワネ]]||align=right|2,921,488||align=left|[[北ソト語]]19.91%、[[アフリカーンス語]]18.83%、[[ツワナ語]]15.05%、[[ツォンガ語]]8.64%、[[英語]]8.58%、[[ズールー語]]8.51%、[[南ンデベレ語]]5.74%、[[ソト語]]5.28%
 
|- 
 
|[[ネルソン・マンデラ・ベイ]]||align=right|1,152,115||align=left|[[コサ語]]53.92%、[[アフリカーンス語]]29.34%、[[英語]]13.46%
 
|- 
 
|[[バッファローシティー (南アフリカ)|バッファローシティー]]||align=right|755,200||align=left|[[コサ語]]78.83%、、[[英語]]11.00%、[[アフリカーンス語]]7.17%
 
|- 
 
|[[マンガウング]]||align=right|747,431||align=left|[[ソト語]]53.27%、[[アフリカーンス語]]16.23%、[[ツワナ語]]12.64%、[[コサ語]]9.91%、[[英語]]4.31%
 
|-
 
|}
 
 
 
'''主な地区・旧都市で使用される言語 2011年統計'''
 
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
 
!style="background-color:#E9E9E9"|地域・都市名
 
!style="background-color:#E9E9E9"|人口
 
!style="background-color:#E9E9E9"|母語話者の割合%
 
|-
 
|[[ヨハネスブルク]]||align=right|957,441||align=left|[[英語]]31.14%、[[ズールー語]]19.60%、[[アフリカーンス語]]12.11%、[[コサ語]]5.23%、[[南ンデベレ語]]4.95%、[[北ソト語]]4.45%、[[ソト語]]4.51%、[[ツワナ語]]4.10%、ツォンガ語3.28%
 
|-
 
|[[ダーバン]]||align=right|595,061 ||align=left|[[英語]]49.75%、[[ズールー語]]33.12%、[[コサ語]]5.92%
 
|-
 
|[[ケープタウン]]||align=right|433,688||align=left|[[英語]]67.68%、[[アフリカーンス語]]22.53%
 
|- 
 
|[[サントン]]||align=right|222,415||align=left|[[英語]]63.91%、[[アフリカーンス語]]7.40%、[[ズールー語]]6.29%
 
|-  
 
|[[プレトリア]]||align=right|741,651||align=left|[[アフリカーンス語]]47.67%、[[英語]]16.38%、[[北ソト語]]8.02%、[[ツワナ語]]5.44%
 
|- 
 
|[[ポート・エリザベス]]||align=right|312,392||align=left|[[アフリカーンス語]]40.19%、[[英語]]33.25%、[[コサ語]]22.24%
 
|-
 
|[[ブルームフォンテーン]]||align=right|256,185||align=left|[[アフリカーンス語]]42.53%、[[ソト語]]33.36%、[[英語]]7.47%、[[コサ語]]7.10%、[[ツワナ語]]5.87%
 
|-  
 
|[[ステレンボッシュ]]||align=right|155,733||align=left|[[アフリカーンス語]]67.66%、[[コサ語]]20.78%、[[英語]]7.22%
 
|-  
 
|[[キンバリー]]||align=right|96,977||align=left|[[アフリカーンス語]]55.48%、[[ツワナ語]]18.74%、[[英語]]15.56%
 
|-
 
|[[ネルスプロイト]]||align=right|58,672||align=left|[[アフリカーンス語]]40.19%、[[英語]]33.25%、[[スワジ語]]20.2%
 
|-  
 
|[[ソウェト]]||align=right|1,271,628||align=left|[[ズールー語]]37.07%、[[ソト語]]15.53%、[[ツワナ語]]12.87%、、[[ツォンガ語]]8.86%、[[コサ語]]8.68%、[[南ンデベレ語]]4.95%、[[北ソト語]]5.14%、[[ヴェンダ語]]4.48%
 
|-
 
|[[ピーターマリッツバーグ]]||align=right|223,448||align=left|[[ズールー語]]57.03%、[[英語]]28.94%
 
|-
 
|[[ポロクワネ]]||align=right|628,999||align=left|[[北ソト語]]80.36%、[[アフリカーンス語]]5.45%
 
|-  
 
|[[ルステンブルク]]||align=right|549,575||align=left|[[ツワナ語]]53.93%、[[アフリカーンス語]]9.91%、[[コサ語]]9.60%、[[ツォンガ語]]5.60%、[[英語]]5.35%
 
|-
 
|[[イースト・ロンドン]]||align=right|267,007||align=left|[[コサ語]]61.77%、[[英語]]21.21%、[[アフリカーンス語]]13.25%
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 宗教 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の宗教|en|Religion in South Africa}}}}
 
2001年のセンサスによれば人口の36.6%が[[プロテスタント]]([[ザイオニスト教会]]が11.1%、[[ペンテコステ派]]が8.2%、[[メソジスト]]が6.8%、[[オランダ改革派]]が6.7%、[[聖公会]]が3.8%)、7.1%が[[カトリック教会]]、1.5%が[[ムスリム]]、36%がその他の[[キリスト教]]、2.3%がその他の宗教、1.4%が不明、15.1%が[[無宗教]]であった<ref name=2013cia/>。その他の宗教として[[インド系南アフリカ人]]の[[ヒンドゥー教]]や、[[南アフリカ共和国のユダヤ人の歴史|ユダヤ系南アフリカ人]]の[[ユダヤ教]]などが存在する。
 
 
 
=== 結婚 ===
 
[[一夫多妻]]の習慣がある部族に限って複数の女性と婚姻関係を結ぶことが認められており、第12代大統領の[[ジェイコブ・ズマ]]は三人の妻がいることでも有名である。
 
 
 
伝統的に慣習法では、結婚した女性はその夫の家族姓を称することができるが義務ではなく、[[夫婦別姓]]を選択することも可能である。
 
 
 
2006年からは、同性同士の結婚([[同性婚]])も認められるようになった。
 
 
 
=== 教育 ===
 
[[ファイル:Old Arts Faculty Building, University of Pretoria.jpg|right|thumb|200px|[[プレトリア大学]]]]
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の教育|en|Education in South Africa}}}}
 
アパルトヘイト時代には黒人は事実上[[義務教育]]の対象ではなく、今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。アパルトヘイト撤廃後、膨大な国家予算を教育費に充て、黒人への[[教育]]が強化され[[就学率]]は95%まで上昇した。しかしながら、成人の過半数はまともな教育を受けてこなかったために、深刻な失業率などをもたらす原因として大きな問題となっている。
 
 
 
[[教授言語]]は、[[初等教育]]は各民族語で受け、3年次より外国語としての[[英語]]教育が開始され、初等教育4年次より、中等・高等教育まで基本的に全ての科目の教授言語は英語(少数はアフリカーンス語)となる。社会参加に必要な英語やアフリカーンス語を十分に理解する層は全人口の半数以下に過ぎず、アフリカ諸語しか話せない層への社会参加を阻んでいるなど、大きな問題となっている。
 
 
 
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は86.4%(男性:87%、女性:85.7%)である<ref name=2013cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/sf.html CIA World Factbook "South Africa"]2013年8月1日閲覧。</ref>。2010年の教育支出はGDPの6%だった<ref name=2013cia/>。
 
 
 
[[大学]]は全部で23あり、[[ケープタウン大学]]、[[プレトリア大学]]、[[ステレンボッシュ大学]]、[[ウィットウォータースランド大学]]などが著名である。ステレンボッシュ大学、フリーステート大学、北西大学、プレトリア大学ではアフリカーンス語でも授業が行われている。
 
 
 
== 治安及び保健 ==
 
=== 医療 ===
 
{{節stub}}
 
南アフリカ共和国は医学において、世界で初めて[[心臓移植]]を行った国でもある。[[1967年]]12月、黒人の女性ドナーより提供を受けて心臓病の白人の男性に移植を行った。背景には南アフリカに横たわる黒人と白人の差別があった<ref>[[吉村昭]]著『神々の沈黙―心臓移植を追って』(文春文庫)、『消えた鼓動―心臓移植を追って』(ちくま文庫)</ref>。
 
 
 
=== HIV/AIDSの蔓延 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国のHIV/AIDS|en|HIV/AIDS in South Africa}}}}
 
[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]の陽性率は非常に高く、15 - 49歳のHIV感染率が21.5% (2004 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO))、妊産婦HIV感染率が29.5% (2005 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO)) となっており、国民の約4 - 5人に1人の割合でHIVに感染している。エイズの蔓延によって、2010年までに国民全体の[[平均寿命]]は40歳以下に低下すると予想されている。感染経路として成人は性交渉による感染が多い。
 
 
 
また、HIV感染患者が爆発的に増加した80年代、「処女とコンドームを使わずに性交をすれば完治できる」といった悪質なデマ(「悪い病気は健康な他人に伝染せば病魔が身体から出て行く」という[[シャーマニズム]]から由来した呪術的迷信)が流布したため、非白色人種、特にまだ10代前半の黒人少女がHIV感染患者から強姦され感染するケースが多発した。また2004年以降の近年、同様に「童貞(あるいは貞淑な男性)とコンドームを使わず性交すればエイズや性病が治る」と言う呪術的迷信およびデマや、[[性病]]やエイズに罹ったために男性自体に無差別報復行為と見られる理由により、数人の娼婦が誘拐グループとしての手引き人(運転手や拘束役など)を雇い、一人の男性を[[拉致]]あるいは[[軟禁]]して[[輪姦]](かわるがわる[[逆レイプ]]・[[メイル・レイプ]]する)してから解放する事件も多発している。また、そのほかにも同様の行為を行うためのメイル・レイプ組織が散在する。(※→事例は[[逆レイプ#実際の事件の例]]、法律については[[メイル・レイプ#法律]]を参照)
 
 
 
=== 犯罪問題 ===
 
アパルトヘイト廃止後に起きた失業問題により、南アフリカでは急速に治安が悪化した。現在、[[ヨハネスブルグ]]をはじめとして南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、強盗殺人、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。殺人に限っては未遂を含め111.30件/10万人と日本の約110倍となっている。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
 
 
 
南アフリカ犯罪統計(2007年7月3日南アフリカ警察当局発表)によると、2006年3月 - 2007年3月までで約1万9200件の殺人事件が発生した(前年統計に比べ2.4%増加)。1日に約53人が犯罪により殺害された計算で、1日の強盗発生数は約350件に上った。その中で7割以上で拳銃などの銃器が使用されたと発表されている。中には、全員が[[自動小銃]]で武装した強盗グループといった、現場の警察官では対応が困難なケースもある。さらに犯罪者は発砲を全く躊躇しないケースもあり、極めて危険である。強姦発生率についても123.85件/10万人(国連薬物犯罪オフィス (UNODC))となっており、世界最悪の発生率(日本の約123倍)である。
 
 
 
南アフリカの男性の4人に1人を上回る27%が、「過去に成人女性または少女をレイプしたことがある」と回答するという調査結果もある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090619/mds0906190901001-n1.htm 南ア男性の4人に1人がレイプ経験者!?研究機関調査] [[産経新聞]] 2009年6月19日</ref>。また、比較的安全と思われる高級ホテルの中ですら、従業員が鍵を開けて客室に侵入し女性旅行客をレイプするといった事件も発生している。2010年11月26日に発表された、ヨハネスブルグやハウテン州などで南アフリカ政府によって行われた調査によると、男性は3人に1人を上回る37.4%が過去に女性をレイプした経験があると回答(男性の7%が集団レイプの経験があると回答)、さらに女性は25.3%がレイプされた経験があると回答した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101127/mds1011271706003-n1.htm 3人に1人レイプ認める 南ア男性、性暴力が蔓延] [[産経新聞]] 2010年11月27日</ref>。
 
 
 
警察当局では治安改善を図るため、警察官の大量採用や防犯カメラの設置などの対策を実施しているが、依然として治安の悪い状態が続いている。近年では、強姦件数はわずかに減少傾向にあり、[[2011年]]の強姦報告件数は6万件強で、[[2008年]]の7万件よりは減った<ref>{{cite news |title=若者が少女を集団レイプ、携帯で映した動画出回る 南ア |newspaper=[[CNN]] |date=2013-4-19 |url=http://www.cnn.co.jp/world/30006304.html|accessdate=2013-5-1}}</ref>。
 
 
 
過激派による組織犯罪・テロも懸念されている。
 
 
 
; アザニア人民機構: [[極左]]過激派組織
 
; パンアフリカニスト会議: 極左過激派組織
 
; インカタ自由党: [[ズールー人]]の政治組織。[[コサ人]]と対立し、武力抗争を続ける。
 
; [[アフリカーナー抵抗運動]] (AWB): [[極右]]の[[白人至上主義]]者組織。1995年4月に[[ヤン・スマッツ]]国際空港([[ヨハネスブルグ国際空港]])で[[車爆弾]]を爆発させた。2010年4月3日、党首[[ユージン・テレブランシュ]] (Eugene Terre'blanche) が襲撃・殺害されている。
 
; ボーア・アーンバルス部隊: アフリカーナー過激派組織。1997年1月、[[ルステンブルグ]]のイスラム寺院を爆破した。
 
; [[パガド]]: イスラム過激派組織。[[ケープタウン]]を本拠地とする。パガド (PAGAD) は「ギャングとドラッグに反対する市民」の意であり、1996年より麻薬業者、乱用者の処刑を始めた。Gフォースと呼ばれる処刑部隊を持つ。[[ハマス]]や[[ヒズボラ]]との関連が疑われている。
 
===  白人への攻撃激化 ===
 
2017年11月時点には72人の白人の農民が殺害されている。2011年から毎年増加し始めているこの問題への対策を求めて、南アフリカ政府に数百人がデモを行っている<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3153041]南アで白人農民の殺害相次ぐ、今年に入って72人 抗議のデモ 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News</ref>。2017年12月には与党アフリカ民族会議(ANC)の新議長に就任したシリル・ラマポーザ副大統領が国民の8割を占める黒人のために、[[ベネズエラ]]で農地を荒廃させて経済も崩壊させた「白人の土地の取り上げ」をすることを表明した。<ref>[https://www.jomo-news.co.jp/news/domestic/international/22915 南アフリカ、白人の土地収用へ 与党議長が表明、反発必至|国際|上毛新聞ニュース</ref>。1998年から2016年末までに農家1187人、その家族490人、農場従業員147人、農場にいた24人、合計1848人が殺害されている。2010年に有名なANCのジュリアス・マレマ(Julius Malema)は、「一度革命的な歌だが、今は大量虐殺を宣告する」と、「農民を殺す」と謳っている。南アフリカが白人農家がすべて追い出されたもう一つのジンバブエになることが危惧されていている<ref>‘Bury them alive!’: White South Africans fear for their future as horrific farm attacks escalate [http://www.news.com.au/finance/economy/world-economy/bury-them-alive-white-south-africans-fear-for-their-future-as-horrific-farm-attacks-escalate/news-story/3a63389a1b0066b6b0b77522c06d6476]</ref>。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の文化|en|Culture of South Africa}}}}
 
 
 
=== 音楽 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の音楽|en|Music of South Africa}}}}
 
{{節stub}}
 
[[ポピュラー音楽]]においては、1930年代に[[アフリカ系アメリカ人]]の音楽の影響を受け、[[マロンボ]]と呼ばれるダンス音楽が成立した。
 
 
 
現代[[ポピュラー音楽]]の[[ミュージシャン]]としては、男性のみによる[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]グループの[[レディスミス・ブラック・マンバーゾ]]、女性シンガーであり、「パタ・パタ」で知られる[[ミリアム・マケバ]]、[[ブレンダ・ファッシー]] ([[:en:Brenda Fassie|Brenda Fassie]])、[[イヴォンヌ・チャカ・チャカ]] ([[:en:Yvonne Chaka Chaka|Yvonne Chaka Chaka]]) などが世界的にもよく知られている。
 
 
 
[[シクスト・ロドリゲス]]([[:en:Sixto Rodriguez]])が人気である。
 
 
 
=== 文学 ===
 
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ文学|en|Literature of South Africa}}}}
 
{{See also|アフリカ文学}}
 
[[ファイル:J.M. Coetzee.JPG|thumb|180px|[[ノーベル文学賞]]受賞作家、[[J・M・クッツェー]]。]]
 
南アフリカは[[ナイジェリア]]と同様に、ブラックアフリカでは例外的に出版業の生産、流通システムが確立しており、自国内に文学市場が存在する国である<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]] 2002/12</ref>。
 
 
 
文字による南アフリカ文学は、南アフリカの強固なアパルトヘイトの影響により、白人文学と黒人文学に分離したものとして考えられている<ref>小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]] 2002/12</ref>。20世紀半ばごろから都市黒人によってアパルトヘイトを描いた文学が文字によって生み出されるようになり、1970年代の[[黒人意識運動]]([[スティーヴ・ビコ]])以降もこの潮流は基本的には途絶えることはなかった。代表的な黒人作家としては『我が苦悩の二番通り』(1959) の[[エスキア・ムパシェーレ]]、『[[アマンドラ]]』(1980) で[[ソウェト蜂起]]を描いた女性作家の[[ミリアム・トラーディ]]、『愚者たち』(1983) の[[ジャブロ・ンデベレ]]、[[マジシ・クネーネ]]、ANCの活動家であり、アパルトヘイト政権によって処刑された詩人の[[モロイセ]]が、白人作家としては『[[ツォツィ]]』の[[アソル・フガード]]、女性作家の[[メナン・デュ・プレシス]]などの名が挙げられる。また、[[ノーベル文学賞]]受賞作家として『保護管理人』(1974) の[[ナディン・ゴーディマー]]と『マイケル・K』(1983) や『恥辱』(1999) の[[J・M・クッツェー]]の名が挙げられる。
 
 
 
=== 映画 ===
 
{{See also|アフリカ映画}}
 
南アフリカ出身の特に著名な映像作家として『[[ツォツィ]]』(2005) の[[ギャヴィン・フッド]]の名が挙げられる。また南アフリカを舞台にしたSF映画『[[第9地区]]』は2009年度の[[アカデミー賞]]の各部門にノミネートされた。
 
 
 
その他に国外の映像作家によって南アフリカを描いた映画として、
 
* [[リチャード・アッテンボロー]]の『[[遠い夜明け]]』(1987)
 
* [[ジョン・ブアマン]]の『[[イン・マイ・カントリー]]』(2004)
 
* [[ビレ・アウグスト]]の『[[マンデラの名もなき看守]]』(2007)
 
* [[トム・ホッパー]]の『[[ヒラリー・スワンク IN レッド・ダスト]]』(2007)
 
* [[クリント・イーストウッド]]の『[[インビクタス/負けざる者たち]]』(2009)
 
  
などが主に挙げられる。
+
[[ファイル:Boercamp1.jpg|thumb|left|260px|[[第二次ボーア戦争]]([[1899年]] - [[1902年]])に際してのイギリスの[[強制収容所]]に送られたボーア人の女性と子供]]
  
=== 世界遺産 ===
+
[[ファイル:Capetownparlament.jpg|200px|left|thumb|議会議事堂(ケープタウン)]]
南アフリカ共和国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が4件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が3件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。詳細は、[[南アフリカ共和国の世界遺産]]を参照。
 
  
<gallery>
+
[[ファイル:Cape Town Waterfront.jpg|left|thumb|250px|[[ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロント]]はテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まる[[ケープタウン]]の新しい観光スポット]]
ファイル:St Lucia Estuary ISS006-E-38182.jpg|[[イシマンガリソ湿地公園]] - (1999年、自然遺産)
 
ファイル:SterkfonteinCave.jpg|[[南アフリカの人類化石遺跡群]] - (1999年、文化遺産)
 
ファイル:Robben island from table mountain.jpg|[[ロベン島]] - (1999年、文化遺産)
 
ファイル:Drakensburgmountains.jpg|[[マロティ=ドラケンスバーグ公園]] - (2000年・2013年、複合遺産)
 
ファイル:MapungubweHill.jpg|[[マプングブエ]]の文化的景観 - (2003年、文化遺産)
 
ファイル:Fynbos.jpg|[[フィンボス|ケープ植物区系地方の保護地区群]] - (2004年、自然遺産)
 
ファイル:Vredefort Dome STS51I-33-56AA.jpg|[[フレデフォート・ドーム]] - (2005年、自然遺産)
 
ファイル:Tylecodon paniculatus-PICT2534.jpg|[[リフタスフェルト]]の文化的・植物的景観 - (2007年、文化遺産)
 
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=== 祝祭日 ===
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アフリカ大陸の南端部を占める国。[[西ケープ州]][[東ケープ州]][[クワズールー・ナタール州]][[北ケープ州]][[自由州]][[北西州]][[ハウテン州]][[ムプマランガ州]][[リンポポ州]]の 9州からなり,首都は行政府があるプレトリアで,[[ケープタウン]][[ブルームフォンテーン]]にそれぞれ立法府,司法府がある。国土の大部分を標高 1000m前後の[[サバナ]]の高原や台地が占め,東部には標高 3000mをこえる[[ドラケンスベルク山脈]]が連なり,北西部には[[カラハリ砂漠]]が広がる。全般に[[乾燥気候]]を示すが,南部は[[温帯冬雨気候]](地中海式気候)を呈する。
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! colspan="7" style="font-weight:bold; font-size:120%;" | 祝祭日
 
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| style="background:#efefef;" | 日付
 
| style="background:#efefef;" | 日本語表記
 
| style="background:#efefef;" | 現地語表記
 
| style="background:#efefef;" | 備考
 
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|[[1月1日]]||元日||New Year's Day||
 
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|[[3月21日]]||人権の日||Human Rights Day||
 
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|[[移動祝日]]||[[聖金曜日]]||Good Friday||
 
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|移動祝日||[[復活祭]]月曜日||Easter Monday||
 
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|[[4月12日]]||家族の日||Family Day||
 
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|[[4月27日]]||[[自由の日 (南アフリカ)|自由の日]]||Freedom Day||
 
|-
 
|[[5月1日]]||[[メーデー]]||Workers' Day||
 
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|[[6月16日]]||青年の日||Youth Day||
 
|-
 
|[[8月9日]]||女性の日||National Women's Day||
 
|-
 
|[[9月24日]]||伝統文化継承の日||Heritage Day||
 
|-
 
|[[12月16日]]||和解の日||Day of Reconciliation||
 
|-
 
|[[12月25日]]||クリスマス||Christmas Day||
 
|-
 
|[[12月26日]]||親善の日||Day of Goodwill||
 
|}
 
  
== スポーツ ==
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1488年ポルトガル人バルトロメウ・[[ディアス]][[喜望峰]]に到達,1652年[[オランダ東インド会社]]がケープタウンに交易基地を建設,白人支配の端緒となった。1795年イギリスが進出,オランダ系の[[ボーア人]]は内陸に移住し,トランスバール共和国,オレンジ自由国を建設したが,[[南アフリカ戦争]]の結果,それらもイギリス領となった。1910年イギリス連邦内南アフリカ連邦が成立し,1961年連邦から離脱し共和国として独立。
{{Main|{{仮リンク|南アフリカのスポーツ|en|Sport in South Africa}}}}
 
イギリス統治時代にもたらされた[[ラグビー]][[サッカー]]に人気があり、ヨーロッパ系を中心に[[ゴルフ]][[テニス]][[クリケット]]の愛好者も多い。なかでもラグビーは[[1995年]]に[[ラグビーワールドカップ1995|ラグビーワールドカップ]]の開催国として開催国優勝を果たし、[[2007年]]の[[ラグビーワールドカップ2007|フランス大会]]でも優勝するなど、世界トップクラスの実力を持つ。ラグビー代表は[[スプリングボクス]]という愛称がつけられている。
 
  
=== サッカー ===
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住民の約 80%はバンツー系のアフリカ人で,白人と黒人の混血([[カラード]])が約 9%,オランダ,イギリス系の白人が約 9%,そのほかアジア人(おもにインド人)などが居住する。キリスト教徒が多く,全体の約 70%を占める。公用語は[[アフリカーンス語]],英語,ンデベレ語,ペディ語,ソト語,スワジ語,トンガ語,ツワナ語,ベンダ語,コーサ語,[[ズールー語]]。アフリカの先進工業国で,金,ダイヤモンドをはじめ,鉄鉱石,プラチナ,マンガンなどの鉱産資源も豊富。金は産出,輸出ともに世界第1位。農業も重要で,トウモロコシ,コムギ,サトウキビ,柑橘類,タバコなどを多産。中央高地では牧畜が行なわれ,羊毛,肉が生産されるほか,都市部の郊外ではバター,チーズ,卵などの酪農が行なわれる。製造業は食品加工,織物,金属,化学製品などで,生産物の 4分の1が輸出される。
サッカーは特に黒人層に人気が高い。[[サッカー南アフリカ共和国代表|南アフリカのサッカー代表チーム]]には「バファナ・バファナ」という愛称が付けられている。これはズールー語で「少年たち」を意味する。2010年にはアフリカ大陸初となる[[2010 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]が開催された。
 
 
 
=== モータースポーツ ===
 
かつては[[フォーミュラ1|F1]][[南アフリカグランプリ]]と[[ロードレース世界選手権|ロードレース]][[南アフリカグランプリ (ロードレース)|南アフリカグランプリ]]が開催されていた。特にF1は[[1962年]]から長きに渡り開催されていたが、アパルトヘイト政策への抗議もあり[[1985年]]のレースを最後に共に中断。後に復活したが現在はどちらも開催されていない。[[1979年]]のF1ワールドチャンピオン[[ジョディー・シェクター]]は南アフリカの出身であり[[1975年]]のレースを制している。また、[[カーデザイナー]]としてF1で一時代を築いた[[ロリー・バーン]]と[[ゴードン・マレー]]の両者も南アフリカの出身である。
 
 
 
[[2008年]]には、FIA([[国際自動車連盟]])公認の[[ソーラーカーレース]]である[[サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ]]が開催された。プレトリアをスタートし、ケープタウン、ダーバンを経てプレトリアに戻るルートで、4,000km以上の一般公道を走行する。大会は2年に一度開催され、[[2010年]]に第2回大会が開催された。
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
{{Main|南アフリカ人の一覧}}
 
  
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少数の白人が政権を握り,あらゆる面で多数の有色人種を差別,隔離する[[アパルトヘイト]]政策がとられ,国際世論の非難の的となっていたが,1986年以来の国際的経済制裁,[[ソウェト蜂起]](1976)など国内アフリカ人の粘り強い闘いの結果,1990年3月人種隔離法が撤廃され,1991年6月政府はアパルトヘイト体制の終結を宣言した。その後黒人への参政権付与などを盛り込んだ新憲法制定問題をめぐる,[[アフリカ民族会議]] ANCと政府の交渉が続けられ,1993年12月暫定憲法の制定,1994年4月には同国史上初めて黒人も参加した制憲議会選挙が行なわれ,ANCが圧勝,議長のネルソン・[[マンデラ]]が初めての黒人大統領に選ばれた。
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== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
* {{Cite book|和書|author=[[小林信次郎]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編 |others= |chapter=アフリカ文学――黒人作家を中心として |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=小林(2002)}}
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* {{Cite book|和書|author=[[砂野幸稔]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編 |others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}}
 
  
== 関連項目 ==
+
* [http://www.gov.za/ 南アフリカ共和国政府]  
* [[南アフリカ標準時]]
+
* [http://www.south-africa.jp/ 南アフリカ観光局 日本語サイト]  
* [[サッカー南アフリカ代表]]
 
* [[ラグビー南アフリカ代表]]
 
<!--
 
* [[南アフリカ共和国関係記事の一覧]]
 
* [[南アフリカの通信]]
 
* [[南アフリカの交通]]
 
* [[南アフリカの軍事]]
 
* [[南アフリカの国際関係]]
 
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== 外部リンク ==
 
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{{osm box|r|87565}}
 
* 政府
 
** [http://www.gov.za/ 南アフリカ共和国政府] {{en icon}}
 
** [http://www.rsatk.com/ja_index.html 駐日南アフリカ共和国大使館] {{ja icon}}
 
* 日本政府
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/ 日本外務省 - 南アフリカ共和国] {{ja icon}}
 
** [http://www.za.emb-japan.go.jp/index_jp.html 在南アフリカ共和国日本国大使館] {{ja icon}}
 
* 観光
 
** [http://www.south-africa.jp/ 南アフリカ観光局 日本語サイト] {{ja icon}}
 
** [http://www.southafrica.net/sat/content/ja/jp/japan-home 南アフリカ観光局 本局サイト] {{ja icon}}
 
** [http://www.southafrica.net/sat/content/en/za/home 南アフリカ観光局 本局サイト] {{en icon}}
 
** {{Twitter|GoToSAJP|南アフリカ観光局}}{{Ja icon}}
 
** {{Facebook|satourismjp|南アフリカ観光局}}{{Ja icon}}
 
* その他
 
** [http://www.jetro.go.jp/world/africa/za/ JETRO - 南アフリカ共和国] {{ja icon}}
 
** {{CIA World Factbook link|sf|South Africa}} {{en icon}}
 
** {{dmoz|Regional/Africa/South_Africa}} {{en icon}}
 
** {{wikiatlas|South_Africa}} {{en icon}}
 
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南アフリカ共和国

国の標語:!ke e: ǀxarra ǁke
カム語: 様々な人々が一致協力する)

公用語 アフリカーンス語英語バントゥー諸語9言語[注釈 1]
首都 プレトリア行政府)
ケープタウン立法府)
ブルームフォンテーン司法府)
最大の都市 ヨハネスブルグ(2011年)[2][注釈 2]

面積

総計 1,219,912km224位
水面積率 極僅か

人口

総計(2016年 55,653,654人(26位[2]
人口密度 41人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 3兆3,854億[3]ランド
GDP (MER)

合計(2013年 3,508億[3]ドル(33位
GDP (PPP)

合計(2013年6,626億[3]ドル(29位
1人あたり 12,507[3]ドル
建国

南アフリカ連邦成立1910年5月31日
ウェストミンスター憲章1931年12月11日
連邦地位法English版施行1934年8月22日
イギリス連邦脱退1961年5月31日
マンデラ政権樹立
イギリス連邦再加盟
1994年5月10日
通貨 ランド (ZAR)
時間帯 UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1 ZA / ZAF
ccTLD .za
国際電話番号 27

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく)、通称南アフリカ

第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)に際してのイギリスの強制収容所に送られたボーア人の女性と子供
議会議事堂(ケープタウン)
ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロントはテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まるケープタウンの新しい観光スポット

アフリカ大陸の南端部を占める国。西ケープ州東ケープ州クワズールー・ナタール州北ケープ州自由州北西州ハウテン州ムプマランガ州リンポポ州の 9州からなり,首都は行政府があるプレトリアで,ケープタウンブルームフォンテーンにそれぞれ立法府,司法府がある。国土の大部分を標高 1000m前後のサバナの高原や台地が占め,東部には標高 3000mをこえるドラケンスベルク山脈が連なり,北西部にはカラハリ砂漠が広がる。全般に乾燥気候を示すが,南部は温帯冬雨気候(地中海式気候)を呈する。

1488年ポルトガル人バルトロメウ・ディアス喜望峰に到達,1652年オランダ東インド会社がケープタウンに交易基地を建設,白人支配の端緒となった。1795年イギリスが進出,オランダ系のボーア人は内陸に移住し,トランスバール共和国,オレンジ自由国を建設したが,南アフリカ戦争の結果,それらもイギリス領となった。1910年イギリス連邦内南アフリカ連邦が成立し,1961年連邦から離脱し共和国として独立。

住民の約 80%はバンツー系のアフリカ人で,白人と黒人の混血(カラード)が約 9%,オランダ,イギリス系の白人が約 9%,そのほかアジア人(おもにインド人)などが居住する。キリスト教徒が多く,全体の約 70%を占める。公用語はアフリカーンス語,英語,ンデベレ語,ペディ語,ソト語,スワジ語,トンガ語,ツワナ語,ベンダ語,コーサ語,ズールー語。アフリカの先進工業国で,金,ダイヤモンドをはじめ,鉄鉱石,プラチナ,マンガンなどの鉱産資源も豊富。金は産出,輸出ともに世界第1位。農業も重要で,トウモロコシ,コムギ,サトウキビ,柑橘類,タバコなどを多産。中央高地では牧畜が行なわれ,羊毛,肉が生産されるほか,都市部の郊外ではバター,チーズ,卵などの酪農が行なわれる。製造業は食品加工,織物,金属,化学製品などで,生産物の 4分の1が輸出される。

少数の白人が政権を握り,あらゆる面で多数の有色人種を差別,隔離するアパルトヘイト政策がとられ,国際世論の非難の的となっていたが,1986年以来の国際的経済制裁,ソウェト蜂起(1976)など国内アフリカ人の粘り強い闘いの結果,1990年3月人種隔離法が撤廃され,1991年6月政府はアパルトヘイト体制の終結を宣言した。その後黒人への参政権付与などを盛り込んだ新憲法制定問題をめぐる,アフリカ民族会議 ANCと政府の交渉が続けられ,1993年12月暫定憲法の制定,1994年4月には同国史上初めて黒人も参加した制憲議会選挙が行なわれ,ANCが圧勝,議長のネルソン・マンデラが初めての黒人大統領に選ばれた。

脚注

注釈

  1. バントゥー諸語9言語とは、ズールー語コサ語スワジ語南ンデベレ語ソト語北ソト語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語をさす。
  2. 2000年以降の自治体再編によりそれまで最大都市であったダーバンの人口を超えたことから。

出典

  1. The Constitution”. Constitutional Court of South Africa. . 3 September 2009閲覧.
  2. 2.0 2.1 SOUTH AFRICA: Provinces and Major Urban Areas”. Citypopulation.de (2016年7月29日). . 2017閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.

外部リンク

座標: 東経25度南緯30度 東経25度-30; 25



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