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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 堀尾吉晴
 
| 画像 = Horio Yoshiharu.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明 = 堀尾吉晴像([[春龍玄済]]賛、[[春光院]]蔵)
 
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
 
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])
 
| 死没 = [[慶長]]16年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1611年]][[7月26日]])
 
| 改名 = 仁王丸、小太郎([[幼名]])→吉晴
 
| 別名 = 茂助([[仮名 (通称)|仮名]])、可晴、吉定、吉直、帯刀先生
 
| 戒名 = 法雲院殿前楓松庭世栢大居士<br />円成院高堅世肖居士
 
| 墓所 = [[京都市]][[右京区]][[花園]]の[[妙心寺]]塔頭[[春光院]]<br>[[島根県]][[安来市]]広瀬町の[[月山富田城#その他の施設|巌倉寺]]<br>[[和歌山県]]高野山奥の院
 
| 官位 = [[従四位]]下、[[帯刀]]先生
 
| 主君 = [[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]
 
| 氏族 = [[堀尾氏]]
 
| 父母 = 父:[[堀尾泰晴]]、母:不詳
 
| 兄弟 = '''吉晴'''、[[堀尾氏光|氏光]]
 
| 妻  = 正室:'''大方殿'''(津田氏)
 
| 子  = [[堀尾金助|金助]]、'''[[堀尾忠氏|忠氏]]'''、[[堀尾氏泰|氏泰]]、娘([[石川忠総]]室)、娘(堀尾因幡室)、娘(野々村河内室)、娘(池田備中守室)、娘(平井権左衛門室)、娘(蒲生弥五右衛門室)
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''堀尾 吉晴'''(ほりお よしはる)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]・[[大名]]。[[豊臣政権]][[三中老]]の1人。
 
  
== 生涯 ==
+
'''堀尾 吉晴'''(ほりお よしはる)
=== 織田信長の時代 ===
 
[[ファイル:Hakkensha.jpg|左|サムネイル|150x150ピクセル|堀尾吉晴の生誕地跡にある八剱社]]
 
[[ファイル:Hideyoshi and Horio Yoshiharu.jpg|thumb|left|150px|稲葉山城の間道に秀吉を案内する堀尾吉晴(『新撰太閤記』 [[歌川豊宣]]画)]]
 
  
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、[[尾張国]][[丹羽郡]][[御供所村]](現在の[[愛知県]]丹羽郡[[大口町]][[豊田 (大口町)|豊田]]、及び[[御供所 (大口町)|御供所]])の[[土豪]]である[[堀尾泰晴]](吉久、泰時)の長男として生まれた<ref name="石井20">『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P20</ref>。父は尾張上四郡の[[守護代]]・岩倉[[織田氏]](織田伊勢守家)の[[織田信安]]に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた[[山内盛豊]]([[山内一豊]]の父)とともに連署した文書が残っている。
+
安土桃山時代の武将。通称,茂助。吉定,吉直,可晴ともいった。泰晴の子。織田信長,豊臣秀吉に仕え,斎藤氏征討,近江攻めなどに功があり,若狭高浜,近江佐和山を領し,天正 18 (1590) 年遠江浜松 12万石を与えられ,慶長3 (98) 年中老,のち越前府中5万石を加封された。関ヶ原の戦いののち,家督を子忠氏に譲ったが,同5年出雲松江 24万石を受けた忠氏が同9年死去したので,孫忠晴を後見して,[[松江城]]築城などその治政にあずかった。
  
当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の[[織田信長]]に圧迫されており、吉晴は[[永禄]]2年([[1559年]])、初陣である[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため父と共に[[浪人]]となった<ref name="石井20" />。その後、尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣の木下秀吉([[豊臣秀吉]])に付属された<ref name="石井20" />。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
以降は秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年([[1567年]])の[[稲葉山城]]攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれている。[[天正]]元年([[1573年]])には、[[近江国]]長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、[[播磨国]]姫路において1,500石、後に[[丹波国]]黒江において3,500石に加増された。
 
 
 
=== 豊臣家の時代 ===
 
天正10年([[1582年]])の[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻めでは、敵将・[[清水宗治]]の検死役を務める。[[山崎の戦い]]では秀吉の命令で[[堀秀政]]や[[中村一氏]]とともに先手の鉄砲頭として参加。[[天王山]]争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ<ref name="石井20" /><ref name="石井21">『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P21</ref>、丹波国[[氷上郡]]内([[黒井城]])で6,284石となる。
 
 
 
天正11年([[1583年]])、[[若狭国]][[高浜町|高浜]]において1万7,000石に加増<ref name="石井21" />、天正12年([[1584年]])には2万石に加増された。天正13年([[1585年]])、[[佐々成政]]征伐に従軍。[[田中吉政]]・[[中村一氏]]・[[山内一豊]]・[[一柳直末]]らとともに[[豊臣秀次]]付の宿老に任命される。また所領も若狭国佐垣(佐柿、現在の[[福井県]][[三方郡]][[美浜町 (福井県)|美浜町]])2万石に移封され、わずか60日後の閏8月には近江国[[佐和山城|佐和山]]([[滋賀県]][[彦根市]]周辺)に4万石を与えられて移封された<ref name="石井21" />。ただしこのように頻繁に所領を移されているため、佐垣では実際の所務(徴税権)などは無かったとされている(『[[堀尾家記録]]』)。また近江の要衝に所領を移されているため、吉晴は秀吉の信任を得ていたようである<ref name="石井21" />。
 
 
 
天正15年([[1587年]])の[[九州平定|九州征伐]]にも従軍し、正五位下帯刀先生に叙任された。
 
 
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]にも従軍。秀次の下で[[山中城]]攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・[[堀尾金助|金助]]が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された[[徳川家康]]の旧領である[[遠江国]][[浜松城]]主12万石に封じられ<ref name="石井21"/>、豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]には連座していない。この後、[[九戸政実の乱]]にも従軍して功があったという。
 
 
 
秀吉の晩年、中村一氏や[[生駒親正]]らとともにいわゆる「[[三中老]]」に任命されたというが、現代の研究水準では、三中老は後世に作られた実在しない制度とされている<ref>[[宮本義己]]「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)</ref>。
 
 
 
=== 関ヶ原 ===
 
[[慶長]]3年([[1598年]])の秀吉死後は[[徳川家康]]に接近し、[[石田三成]]や[[前田利家]]ら反家康派との調整・周旋を務めた<ref name="石井22"/>。慶長4年(1599年)2月5日付で家康の重臣・[[井伊直政]]が吉晴に対して周旋に対する感謝状を贈っている<ref name="石井22"/>。
 
 
 
そして老齢を理由に慶長4年([[1599年]])10月1日、家督を次男の忠氏に譲って[[隠居]]した<ref name="石井22">『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P22</ref>。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている<ref name="石井22"/>。これは家康から知行を与えられた最初の例である<ref name="石井22"/>。
 
 
 
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与した。家康が[[会津征伐]]に赴く際に浜松において忠氏と共に歓待し、家康に従軍を求めた<ref name="石井22"/>。しかし従軍は忠氏のみでよいとして、吉晴には越前への帰国を命じられた<ref name="石井22"/>。
 
 
 
その帰国途上の7月、[[三河国|三河]][[刈谷城]]主・[[水野忠重]]、[[美濃国|美濃]][[加賀野井城]]主・[[加賀井重望]]らと三河国池鯉鮒(現在の[[愛知県]][[知立市]])において宴会中、重望が忠重を殺害した<ref name="石井22"/>。吉晴も17か所の槍傷を負ったが<ref name="楠戸227">楠戸義昭『戦国武将名言録』P227</ref>、重望を討った<ref name="石井23">『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P23</ref>。なお、吉晴の菩提寺である[[京都市]][[春光院]]に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫りこまれており、この際の傷ではないかと推測されている<ref name="石井23"/>。また、事件の際は殺害現場を見た忠重の家臣に殺害の主犯と勘違いされたという逸話も伝わる<ref name="石井23"/>。
 
 
 
このため9月の本戦には参加できずに越前に帰国した<ref name="石井23"/>。代わって出陣した忠氏が戦功を賞され[[出雲国]][[月山富田城|富田]]24万石に加増移封された<ref name="楠戸227"/>。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
慶長9年([[1604年]])、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜されている<ref>村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年</ref>。
 
 
 
同年、忠氏が早世する。家督は孫の[[堀尾忠晴|忠晴]]が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた<ref name="楠戸227"/>。また同年、隣国[[伯耆国]][[米子藩|米子]]の中村家における御家騒動([[横田騒動]]、または[[米子騒動]])においては、[[中村一忠]]の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧している。
 
 
 
慶長16年([[1611年]])、[[松江城]]を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年69。
 
 
 
== 子孫 ==
 
[[寛永]]10年([[1633年]])に死去した忠晴には嗣子が無く、[[堀尾氏]]嫡系は3代で[[改易]]となる。一族が[[松江藩]](堀尾但馬)、[[尼崎藩]](堀尾丹下)、[[熊本藩]](堀尾茂助四代)、他に仕えて名跡を存続させた。また、傍系や再仕官していない関係一族の子孫も存在している。[[前田玄長]]は[[公家]]の[[押小路家]]の出身であったが、[[前田玄以]]との所縁から前田を称して[[高家]][[旗本]]・前田家の初代当主となった。その際に、[[徳川綱吉]]から堀尾家の祭祀を継ぐことを命じられたという。前田家では、持槍(行列時に籠先に立てる長槍で一本道具。鞘形で誰の行列かを見分ける)の鞘の形を堀尾家の家紋・旗印である「分銅」を用いている。また、幕末期の前田家当主・長禮は、明治9年(1876年)3月31日に、次男の長興(ながおき。長善の弟)を分家させ、前田家の本姓である堀尾姓を名乗らせ、平民籍への編入を東京府庁に願い出、受理されている。
 
 
 
== 墓所 ==
 
[[ファイル:Horio Yoshiharu tomb.JPG|220px|thumb|堀尾吉晴の墓([[島根県]][[安来市]]広瀬町・巌倉寺)]]
 
*[[京都市]][[右京区]][[花園]]の[[臨済宗]]大本山正法山[[妙心寺]]の塔頭寺院である[[春光院]]。
 
*[[島根県]][[安来市]]広瀬町の[[月山富田城#その他の施設|睡虎山巌倉寺]]。
 
*[[愛知県]][[大口町]]堀尾跡の大香山[[桂林寺 (大口町)|桂林寺]]に供養塔がある。
 
*奉斎神社:[[松江市]]殿町鎮座の[[松江神社]]に主祭神として祀る。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
=== 性格 ===
 
戦場では勇猛さを見せつけたが、温和で誠実な性格で人望を得ていた。このため、「'''仏の茂助'''」と称された<ref name="楠戸226">楠戸義昭『戦国武将名言録』P226</ref>。温和な性格だけではなく、秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣であったことからその影響力も大きく、家康と[[石田三成]]の対立を仲介したこともあったという。
 
 
 
徳川時代に伏見に在住していた時、吉晴は浪人に対して他家への斡旋を行ない、同じ人間を3度も面倒見たことがあった。この行為に疑問を持った友人が尋ねると「上(家康)様に叛旗を翻す者があり、討伐を仰せつかった際、国許からすぐには人を呼べぬ。そんな時、彼らに頼めば3人5人と仲間を連れて馳せ参じてくれるではないか」と語った<ref name="楠戸227"/>。
 
 
 
出雲松江に鯉や鯰などが多く生息する[[佐陀江]]という湖があり、家臣の憩いの場となっていた。百姓はそこを灌漑に使いたいからと銀子20枚で堀尾家の奉行に願い出て、奉行も了承して吉晴の許可を得ようとした。しかし吉晴は「国が乱れた時、敵に飛び込んで戦う武士達の慰みの場を、銀子に換えるなど思いもよらぬ」と激怒して奉行を叱りつけ、他の場所を払い下げるように命じた<ref>『太閤記』</ref>。吉晴は武士の憩いの場所を金に換える事が許せなかった、金を賤しいものと信じる武将だったのである<ref name="楠戸227"/>。
 
 
 
=== その他 ===
 
吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い。
 
 
 
[[文禄・慶長の役|文禄の役]]の後、[[明]]の[[万暦帝]]が秀吉を「[[日本国王]]」に任命する誥命を送付したものの、秀吉はこれに激怒して吉晴に下げ渡した。吉晴は国書の見事さにそのまま持ち帰って家宝としていたが、後に娘が石川忠総に嫁いだ際に嫁入り道具として持たせた書画の中にこれを加えた。そのため、この国書はそのまま石川家に伝わり、後に[[重要文化財]]とされた。戦後、一時期民間に流出したものの、後に[[大阪市]]が買い取って[[大阪市立博物館]](後に[[大阪歴史博物館]]に移転)の所蔵品として現在も保管されている。従って、時代劇などで激怒した秀吉が国書を破り捨てるシーンは後世の創作によるもので史実ではない。
 
 
 
=== 武人として ===
 
信長が狩に出ていたとき、その目の前で吉晴は大きな猪と取っ組み合いをした末に討ち取った。これを見た信長は吉晴の勇を気に入り、足軽大将に取り立てたという(『[[藩翰譜]]』)。
 
 
 
温厚な人物と言われるが、小田原征伐における山中城攻めの時、[[中村一氏]]に陣地を奪われて一番乗りの功名まで奪われてしまった。このため戦後、秀次の前であるにも関わらず怒りを爆発させて自らの功を主張し、家臣が引き下がらせようとした際には一氏と刺し違えようとしたとまで伝わっている<ref name="楠戸226"/>。
 
 
 
== 関連作品 ==
 
; テレビドラマ
 
*[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]([[2006年]]、演:[[生瀬勝久]])
 
*[[質実剛健 生きざま]]([[2017年]]、演:[[佐野史郎]])
 
 
 
== 脚注 ==<!--
 
=== 註釈 ===
 
{{Reflist|group="註"}}-->
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
;書籍
 
* [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]
 
* [[石井悠]] 『シリーズ藩物語 ― 松江藩』([[現代書館]]、[[2012年]])
 
;史料
 
* 『太閤記』
 
* 『藩翰譜』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Horio Yoshiharu}}
 
*[[恵方巻]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/horio_k.html 堀尾氏系譜]
 
 
 
{{豊臣政権}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ほりお よしはる}}
 
{{DEFAULTSORT:ほりお よしはる}}
 
[[Category:堀尾氏|よしはる]]
 
[[Category:堀尾氏|よしはる]]

2019/5/1/ (水) 21:24時点における最新版

堀尾 吉晴(ほりお よしはる)

安土桃山時代の武将。通称,茂助。吉定,吉直,可晴ともいった。泰晴の子。織田信長,豊臣秀吉に仕え,斎藤氏征討,近江攻めなどに功があり,若狭高浜,近江佐和山を領し,天正 18 (1590) 年遠江浜松 12万石を与えられ,慶長3 (98) 年中老,のち越前府中5万石を加封された。関ヶ原の戦いののち,家督を子忠氏に譲ったが,同5年出雲松江 24万石を受けた忠氏が同9年死去したので,孫忠晴を後見して,松江城築城などその治政にあずかった。



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