「志賀直哉」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 作家
+
[[ファイル:志賀直哉.jpg|サムネイル]]
| name          = 志賀 直哉<br />(しが なおや)
+
'''志賀 直哉'''(しが なおや、[[1883年]]([[明治]]16年)[[2月20日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[10月21日]]
| image        = Shiga Naoya 1938.jpg
 
| caption      = [[諏訪町 (新宿区)|諏訪町]]の自宅にて(1938年)
 
| birth_date    = [[1883年]][[2月20日]]
 
| birth_place  = {{JPN}}・[[宮城県]][[牡鹿郡]]石巻町<br />(現・[[石巻市]]住吉町)
 
| death_date    = {{死亡年月日と没年齢|1883|2|20|1971|10|21}}
 
| death_place  = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]][[上用賀]]<br />[[関東中央病院]]
 
| resting_place = {{JPN}}・東京都[[港区 (東京都)|港区]][[南青山]]<br />[[青山霊園]]
 
| occupation    = [[小説家]]
 
| language      = [[日本語]]
 
| nationality  = {{JPN}}
 
| education    =
 
| alma_mater    = [[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]卒業<br />[[東京帝国大学]][[日本文学|国文]]科中退
 
| period        = 1908年 - 1971年
 
| genre        = [[小説]]
 
| subject      = 父との不和と和解<br />自我の形成
 
| movement      = [[白樺派]]<br />[[私小説]]<br />心境小説
 
| notable_works = 「網走まで」(1910年)<br />「大津順吉」(1912年)<br />「[[清兵衛と瓢箪]]」(1913年)<br />「[[城の崎にて]]」(1917年)<br />「[[赤西蠣太]]」(1917年)<br />「[[和解 (志賀直哉の小説)|和解]]」(1917年)<br />「[[小僧の神様]]」(1920年)<br />「[[暗夜行路]]」(1921–37年)<br />「[[灰色の月]]」(1946年)
 
| awards        = [[文化勲章]](1949年)
 
| debut_works  = 「網走まで」(1910年)<br />「或る朝」(1918年)<br />「菜の花と小娘」(1920年)
 
| spouse        = 志賀康子
 
| partner      =
 
| children      = 志賀慧子、土川留女子、志賀直康、中江寿々子、柳万亀子、志賀直吉、山田田鶴子、安場貴美子
 
| relations    =
 
| influences    = [[内村鑑三]]、[[武者小路実篤]]
 
| influenced    = [[広津和郎]]、[[芥川龍之介]]、[[瀧井孝作]]、[[横光利一]]、[[川端康成]]、[[尾崎一雄]]、[[網野菊]]、[[梶井基次郎]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[小林多喜二]]、[[小津安二郎]]、[[藤枝静男]]、[[島村利正]]、[[直井潔]]、[[安岡章太郎]]、[[阿川弘之]]
 
}}
 
'''志賀 直哉'''(しが なおや、[[1883年]]([[明治]]16年)[[2月20日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[10月21日]])は、[[明治]]から昭和にかけて活躍した[[日本]]の[[小説家]]。[[白樺派]]を代表する小説家のひとり。「'''小説の神様'''」と称せられ、多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「[[暗夜行路]]」「[[和解 (志賀直哉の小説)|和解]]」「[[小僧の神様]]」「[[城の崎にて]]」など。[[宮城県]][[石巻市|石巻]]生まれ、[[東京府]]育ち。
 
  
== 経歴 ==
+
小説家。学習院高等科を経て 1906年東京大学英文科,08年国文学科に進み,同年『或る朝』を書き,10年大学を中退して『[[白樺]]』の創刊に参加,『網走まで』を発表。その後,自己の生の確立を目指した『大津順吉』 (1912) ,『[[城の崎にて]]』,父との長い不和とその解消までを描いた『和解』 (17) ,『小僧の神様』 (20) などで文壇的地位を確立。格調の高い文体は感受性と描写力とを過不足なく兼備している。代表作は生の危機に直面する主人公の行動と心理,感情の動きを追った唯一の長編『[[暗夜行路]]』 (21~37) であるが,本質はむしろ短編作家としてすぐれ,『清兵衛と瓢箪』 (13) ,『山科の記憶』 (26) ,『邦子』 (27) ,『灰色の月』 (46) などの傑作を残した。芸術院会員。 49年文化勲章受章。
[[画像:Naoya Shiga cropped.jpg|thumb|left|若き日の志賀直哉|150px]]
 
=== 生い立ち ===
 
志賀直哉は[[1883年]][[明治]]16年)[[2月20日]]、宮城県[[牡鹿郡]]石巻町に、父・[[志賀直温]]と母・銀の次男として{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=4}}生まれた。父・直温は当時[[第一銀行]]石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、[[伊勢亀山藩]]の家臣・佐本源吾の娘であった{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=104}}。なお、直哉には兄・直行がいたが、直哉誕生の前年に早世していた<ref name="agawa1-26">阿川弘之『志賀直哉 上』p.26、岩波書店、1994年</ref>。
 
  
2歳の時、第一銀行を辞めた父とともに東京に移る。住居は[[東京府]][[麹町区]][[内幸町]]1丁目6番地の[[相馬氏|相馬家]]旧藩邸内にあったが、これは当時、祖父・直道が相馬家の[[家老|家令]]を務めていたからであった<ref>「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.461、筑摩書房、1968年</ref>。3歳の時、芝麻布有志共立幼稚園に入園。この幼稚園は東京で開設された2番目の幼稚園であった{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=6}}。次いで[[1889年]](明治22年)9月、[[学習院]]に入学し、予備科6級(現・初等科1年)に編入される<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.42、岩波書店、1994年</ref>。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
  
幼少期の直哉は祖父・直道と祖母・留女(るめ)に育てられた。直哉の兄・直行早世の責任は母・銀にあると考えた祖父母が、志賀家の家系を絶やさないように、今度は孫を自分の手元で育てることに決めたからであった。毎晩祖母に抱かれて寝る<ref name="agawa1-26"/>など、幼少期の直哉は祖父母に溺愛されて育った。
 
 
初等科を卒業した[[1895年]](明治28年)8月<ref name="iwanami-nenpu291">「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.291、岩波文庫、2004年</ref>、実母・銀が死去。同年秋<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.53、岩波書店、1994年</ref>、父・直温が漢学者・高橋元次の娘・浩と再婚する。直哉の「[[母の死と新しい母]]」という作品では、この実母の死と父の再婚の様子が描かれている。その中で直哉は実母の死を「初めて起った『取りかえしのつかぬ事』だった」と振り返っている<ref>「母の死と新しい母」(朱欒 1912年2月)。『小僧の神様・他十編』(岩波文庫、2002年)に所収</ref>。
 
 
=== 作家への道 ===
 
1895年(明治28年)9月、学習院中等科に入学する。翌[[1896年]](明治29年)、[[有島生馬]]らとともに「倹遊会」(後に「睦友会」に改名)を結成し、その会誌『倹遊会雑誌』を発行する。直哉は「半月楼主人」や「金波楼半月」といった筆名で同誌に和歌などを発表。これが直哉にとって初めての文筆活動であった。しかしこの頃の直哉はまだ小説家志望ではなく、海軍軍人や実業家を目指していた<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.77-78、岩波書店、1994年</ref>。また、スポーツに没頭しており<ref name="serai">「[https://serai.jp/hobby/222957 「歩く時この杖をつかうと志賀と一緒にいる気がする」(武者小路実篤)【漱石と明治人のことば212】]」、『[[サライ (雑誌)|サライ]]』公式サイト、2017年7月31日。2018年2月1日閲覧</ref>、特に自転車には「学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった」<ref>「自転車」(新潮 1951年11月1日)、『ちくま日本文学021 志賀直哉』(ちくま文庫、2008年)に所収</ref>というほど熱をあげた。
 
 
中等科在学中の[[1901年]](明治34年)7月<ref name="agawa1-97">阿川弘之『志賀直哉 上』p.97、岩波書店、1994年</ref>、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、[[新宿]][[角筈]]で行われていた[[内村鑑三]]の講習会に出席する。そこで直哉は、煽動的な調子のない、「真実さのこもった」、「胸のすく想いが」する内村の講義を聴く。「本統のおしえをきいたという感銘を受けた」直哉は、こうして内村の魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉は後に、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている<ref>「内村鑑三先生の憶い出」(婦人公論 1941年3月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。内村のもとへ通い始めてから5ヵ月が経った同年11月、直哉は[[足尾銅山鉱毒事件]]を批判する内村の演説<ref group="注">当時、[[田中正造]]が政府や議会に鉱毒問題を繰り返し訴えていたが、これに呼応し、[[東京キリスト教青年会会館]]などで田中を支援する演説会が度々開かれるようになり、主催者は鉱毒地の視察を呼びかけた。内村も演説会に登壇した{{Harv|阿川、上|1997|p=106-107}}。</ref>を聞いて衝撃を受け、現地視察を計画する。しかし、祖父・直道がかつて[[古河市兵衛]]と[[足尾銅山]]を共同経営していたという理由から父・直温に反対され、激しく衝突。長年にわたる不和のきっかけとなる。
 
 
中等科時代の直哉は真面目な学生だったとは言い難く、3年時と6年時に2回落第している。複数回の落第をしたことに対し直哉は「品行点が悪かった」ためであると説明している。授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようである<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.90-91、岩波書店、1994年</ref>。しかし落第の結果、2歳年下の[[武者小路実篤]]と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.155-157、岩波書店、1994年</ref>はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。
 
 
[[1903年]](明治36年)、[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]に入学。高等科の頃の直哉は[[女義太夫]]に熱中していたが、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。女義太夫の昇之助の公演を見て感動し、「(自分も昇之助と同じように)自分のやる何かで以て人を感動させたい」「自分の場合(それは)小説の創作」だと考えたと直哉は後に語っている<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.96-98、岩波書店、1994年</ref>。ちょうどその頃、[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話を愛読していた直哉はそれに影響され、「菜の花と小娘」という作品を執筆している<ref group="注">発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。</ref>。一般的に直哉の処女作は「或る朝」(後述)とされるが、後年、直哉はこの作品を「別の意味で処女作」だったと振り返っている<ref name="zokuyodan">「続創作余談」(改造 1938年6月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。なお[[1906年]](明治39年)1月<ref name="iwanami-nenpu291"/>、祖父・直道が死去している。
 
 
[[File:Shiga Naoya in Imperial Japanese Army.JPG|thumb|left|150px|市川の砲兵連隊に入営直後の志賀直哉(1910年)]]
 
1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業。卒業時の成績は武課が甲、それ以外はすべて乙、品行は中、席次は22人中16番目であった<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.99、岩波書店、1994年</ref>。同年9月、[[東京大学|東京帝国大学]][[英文学]]科に入学する。東京帝大では[[夏目漱石]]の講義には興味を持ったものの、授業にはほとんど出席しなかった{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=16}}<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.206、岩波書店、1994年</ref>。[[1908年]](明治41年)には[[日本文学|国文学]]科に転じたが、大学に籍を残したのは徴兵猶予のためだけで、大学からはますます足が遠のいた。[[1910年]](明治43年)、正式に東京帝国大学を中退する。そのため徴兵猶予が解かれ、[[徴兵検査]]を受ける。甲種合格となり、同年[[12月1日]]、[[千葉県]][[市川町 (千葉県)|市川]][[国府台 (市川市)|鴻之台]]の砲兵第16連隊に入営するが、耳の疾患を理由に8日後に除隊する<ref name="chikuma-nenpu462">「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.462、筑摩書房、1968年</ref>。
 
 
内村鑑三のところへ通い始めた後から<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.93、岩波書店、1994年</ref>大学の頃まで{{Sfn|栗林|2016|pp=34-35}}の直哉は、以下の文学に親しんでいる。近代日本文学では、[[尾崎紅葉]]、[[幸田露伴]]、[[泉鏡花]]といった[[硯友社]]に参加する作家の作品や、[[徳冨蘆花]]、夏目漱石、[[国木田独歩]]、[[二葉亭四迷]]、[[高浜虚子]]、[[永井荷風]]の作品を読んだ。また、[[平安時代|平安朝]]の文学や、[[近松門左衛門]]、[[井原西鶴]]、[[式亭三馬]]、[[十返舎一九]]の作品など、近代以前の日本文学も読んでいる。外国文学においては、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]、[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]、[[ゲアハルト・ハウプトマン|ハウプトマン]]、[[ヘルマン・ズーダーマン|ズーダーマン]]、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]、[[アナトール・フランス|フランス]]、[[小泉八雲]]といった作家の作品を愛読した<ref name="favorite">「愛読書回顧」(向日葵 1947年1月1日)、『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。
 
 
[[画像:Shirakaba_Gruppe_c.jpg|thumb|240px|白樺派のメンバー。前列左から2番目が志賀直哉]]
 
東京帝大在学中の[[1907年]](明治40年)4月、武者小路実篤、[[木下利玄]]、[[正親町公和]]と文学読み合わせ会「十四日会」を開く{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=18}}。翌1908年(明治41年)、「十四日会」の4人により同人誌『暴矢』(後に『望野』)が発行される{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=105}}。そしてこの年の1月<ref name="chikuma-nenpu462" />、直哉は「或る朝」を執筆している<ref group="注">発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。</ref>。これは祖父の三回忌の朝における、祖母とのやりとりについて書いた作品である。直哉は後にこの作品について、「多少ともものになった最初で、これをよく私は処女作として挙げている」と述べている<ref name="zokuyodan"/>。同年8月には「網走まで」を執筆して『帝国文学』に投稿するが、没にされた<ref name="chikuma-nenpu462" />。その後1910年(明治43年)、直哉は『望野』の他のメンバー、『麦』([[里見とん|里見弴]]らが所属)のメンバー、『桃園』([[柳宗悦]]らが所属)のメンバーとともに雑誌『[[白樺派|白樺]]』を創刊する{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=17}}。そしてその創刊号に「網走まで」を発表する<ref group="注">門下の[[阿川弘之]]は、これを処女作としている(阿川、下 1994, p.376)。</ref>。以後、直哉はこの雑誌に「[[范の犯罪]]」や「[[城の崎にて]]」、「[[小僧の神様]]」などの作品を発表していった。
 
 
=== 父との不和 ===
 
1907年(明治40年){{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=105}}、東京帝大に在学していた直哉は、志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが、父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。[[1912年]]([[大正]]元年)9月{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=105}}、直哉は「大津順吉」を『[[中央公論]]』に発表する。この「大津順吉」は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で、直哉は初めて原稿料100円を得る{{Sfn|貴田|2015|p=156}}。その頃、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。そこで直哉がその費用を父に求めにいったところ、父は、「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と、直哉の小説家としての将来を否定するような発言をした。言い争いになった結果、直哉は[[10月25日]]に家出をし、東京の[[銀座]][[木挽町]]の旅館に2週間ほど滞在した後、[[広島県]][[尾道]]に転居する<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.161-162、岩波書店、1994年</ref>。
 
 
[[画像:Naoya Shiga Onomichi02n3872.jpg|thumb|240px|[[おのみち文学の館|尾道市の志賀直哉旧居と暗夜行路石碑]]]]
 
尾道転居後の[[1913年]](大正2年)1月<ref name="iwanami-nenpu292">「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.292、岩波文庫、2004年</ref>、初の短編集となる『留女』を刊行。題名は祖母の名にちなむ。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.181、岩波書店、1994年</ref>。『留女』刊行の同月、[[読売新聞]]紙上に「[[清兵衛と瓢箪]]」を発表する。これは[[ヒョウタン|瓢箪]]を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話であるが、後年、直哉は「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」がこの作品を書く動機であったと語っている<ref name="yodan">「創作余談」(改造 1938年6月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。そして尾道において直哉は、自身初となる長編「時任謙作」の執筆に着手する。直哉自身がモデルである時任謙作を主人公とし、父との不和を題材とした作品だった。しかし思うように筆が進まず、執筆を中断する。長編執筆が進まなかったことも相まって直哉は1913年(大正2年)4月<ref name="iwanami-nenpu292"/>、尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。
 
 
1913年(大正2年)[[8月15日]]<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.182、岩波書店、1994年</ref>、東京に滞在していた直哉は、「出来事」という小説を書き上げた晩、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に<ref name="yodan"/>[[山手線]]の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・[[東京慈恵会医科大学附属病院]]){{Sfn|貴田|2015|p=164}}に入院する。同年10月<ref name="iwanami-nenpu292"/>、その養生のために[[兵庫県]]の[[城崎温泉]]に滞在する。城崎滞在中、直哉は[[ハチ|蜂]]・[[ネズミ|鼠]]・[[アカハライモリ|いもり]]という3つの小動物の死を目撃する。この体験が、後に短編「城の崎にて」の形で結実することになる。
 
 
城崎での養生後、[[11月8日]]、直哉は一度は尾道に戻ったものの、[[中耳炎]]を患い、その治療のため[[11月17日]]に帰京する<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.183、岩波書店、1994年</ref>。その後、東京の下[[大井町 (東京府)|大井町]]([[大森駅 (東京都)|大森駅]]の近く)に家を借りて一旦はそこに居住する。しかしその頃、武者小路実篤を介して夏目漱石から[[東京朝日新聞]]に小説を連載するよう依頼される。直哉は同紙に「時任謙作」を連載する心積もりで<ref name="zokuyodan"/>、腰を据えてその執筆に取り組むため<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.204-205、岩波書店、1994年</ref>、[[1914年]](大正3年)5月に東京を離れて里見弴とともに[[島根県]][[松江市]]へ転居する<ref name="iwanami-nenpu292-293">「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』pp.292-293、岩波文庫、2004年</ref>。[[1925年]](大正14年)に発表された「濠端の住まひ」は、松江での生活を描いたものである。
 
そして松江居住時、[[大山 (鳥取県)|大山]]に赴いた直哉は、その眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は、「[[暗夜行路]]」の結末の場面に採用されている。松江において後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかったため、上京して漱石宅を訪れ、その場で漱石に新聞小説連載辞退を申し出た<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.212、岩波書店、1994年</ref>。漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩んだ<ref name="zokuyodan"/>直哉は、結果的にこの年から3年間休筆をする。
 
 
1914年(大正3年)9月、直哉は[[京都]]へ転居する<ref name="iwanami-nenpu292-293"/>。同年12月<ref name="iwanami-nenpu292"/>、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。康子は華族女学校中退である上、再婚だったことなどから<ref>「[http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/120/tayori129.htm 「志賀直哉を育てた女性たち」 第三回企画展記念講演会 第52回面白白樺倶楽部開催報告]」、白樺文学館公式ホームページ、2018年1月4日閲覧</ref>、この結婚は父の望むものではなく、結果として直哉と父との対立は深まった。結婚の翌年<ref name="naragakuen">「[https://www.naragakuen.jp/sgnoy/introduction/ 志賀直哉について]」 奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居、2018年1月23日閲覧</ref>、直哉は父の家から自ら離籍している。[[結婚式]]は東京麹町元園町<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.223、岩波書店、1994年</ref>の武者小路宅で行われたが、列席者は武者小路・勘解由小路の両夫妻のみ、京都の料亭「左阿彌」で行われた[[結婚披露宴]]は友人数人のみの出席にとどまった{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=37}}。結婚後、神経衰弱になった康子のため、翌[[1915年]](大正4年)5月に[[鎌倉]][[雪ノ下]]へ転居する。しかしこの転居は康子の神経衰弱に良い影響を与えず、1週間程度で[[群馬県]]の[[赤城山]]に転居。[[猪谷六合雄]]の建築した山小屋に住む<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.228-230、岩波書店、1994年</ref>。この家に住んでから康子は神経衰弱から回復。直哉もこの家を気に入る<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.234-235、岩波書店、1994年</ref>。赤城山での生活は、[[1920年]](大正9年)に発表された「焚火」に描き出されている。
 
 
=== 父との「和解」 ===
 
[[画像:志賀直哉書斎 - panoramio (1).jpg|thumb|240px|我孫子市の志賀直哉邸跡]]
 
転居を繰り返していた直哉であったが、1915年(大正4年)9月<ref>「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.293、岩波文庫、2004年</ref>、柳宗悦の勧めで[[千葉県]][[我孫子市|我孫子]]の[[手賀沼]]の畔に移り住むと、この後[[1923年]](大正12年)まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤や[[バーナード・リーチ]]と親交を結んだ。我孫子に転居した翌[[1916年]](大正5年)、康子との間に長女・慧子が誕生するが夭折。この実子夭折の経験は、「[[和解 (志賀直哉の小説)|和解]]」や「暗夜行路」といった作品に描かれている。
 
 
1916年12月、夏目漱石が死去。漱石を慕ってきた直哉にとって漱石の死は悲しいものだった。しかし、「漱石への不義理を償うため、良い作品を書いて『朝日新聞』に掲載するまでは他の媒体への掲載は遠慮する」という心理的束縛からは開放された<ref name="zokuyodan"/>。武者小路実篤の後押しもあり<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.271-272、岩波書店、1994年</ref>、[[1917年]](大正6年)、直哉は執筆を再開する。5月{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}、『白樺』誌上に「城の崎にて」を発表。この作品は城崎での養生中の体験を基にし、小動物の死を通して自らの生と死を考察したものである。また、直哉の代表作となると同時に、いわゆる「[[心境小説]]」の代表作となる。続く6月{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}、武者小路の勧めで<ref name="yodan"/>「佐々木の場合」を雑誌『[[黒潮 (雑誌)|黒潮]]』に発表。この作品は漱石に捧げられた<ref name="zokuyodan"/>が、それは3年前の新聞小説連載辞退を漱石に詫びる気持ちからであった{{Sfn|栗林|2016|p=64}}。8月には「好人物の夫婦」、9月には「[[赤西蠣太]]」{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}を発表する。そして直哉はこの年、父との和解を実現する。その喜びも覚めやらぬ中、この経験を描いた「和解」を一気に書き上げ、同年10月、雑誌『黒潮』に発表した。直哉本人の述懐によると、直哉はこの作品を原稿用紙1日平均10枚15日間で書き上げたが、この執筆のペースは「後にも前にもないレコード」だったという<ref name="zokuyodan"/>。
 
 
この1917年(大正6年)から我孫子を離れる1923年(大正12年)までは、作家・志賀直哉にとって「充実期」といえる期間であった。生涯寡作であったにもかかわらず、直哉はこの期間に「小僧の神様」や「焚火」、「真鶴」といった代表作を次々と発表している。雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』における長編「暗夜行路」(「時任謙作」から題名を変更)の連載開始もこの頃である。また、『留女』以外になかった直哉の作品集が、この期間に9冊出版された<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.283、岩波書店、1994年</ref>。「大津順吉」や「清兵衛と瓢箪」を収めた『大津順吉』、「和解」や「城の崎にて」を収めた『夜の光』、「焚火」や「小僧の神様」を収めた『荒絹』、『暗夜行路・前篇』はその一部である。なお、『夜の光』の[[装幀]]はバーナード・リーチが担当している。
 
 
=== 京都・奈良時代 ===
 
我孫子において「充実期」を過ごしていた直哉であったが、[[1922年]](大正11年)の末になると、長編執筆の行き詰まりもあり、「自分は読む事も書く事も嫌いだ」「読みも書きもしたくない」と日記に書くほど、作家としての自信を失っていた。そうした状態から抜け出し気分転換を図る意味もあってか<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.304、岩波書店、1994年</ref>、直哉は1923年(大正12年)3月、我孫子を離れて[[京都市]][[上京区]]粟田口三条坊町に移り住む{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}。同年10月には京都郊外の[[宇治郡]][[山科区|山科村]]に転居。短編「雨蛙」を完成させ、翌[[1924年]](大正13年)1月、『中央公論』に発表する。直哉によると、「『暗夜行路』を書き上げたら書こうと思っていたのを、『暗夜行路』が何時までも埒あかないので、これを先に書いてしまった」という<ref name="yodan"/>。この作品は直哉の全作品中、仕上げるのに最も時間のかかった短編だとされる<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.337、岩波書店、1994年</ref>。ほぼ同時期に、直哉は[[祇園]][[花見小路通|花見小路]]の茶屋の仲居と浮気をする。このときの体験を基に、いわゆる「山科もの」四部作(「山科の記憶」「痴情」「些事」「晩秋」)をのちに残している{{Sfn|阿川、上|1997|p=403-407}}。
 
 
[[Image:Old House of Naoya Shiga.jpg|240px|thumb|[[志賀直哉旧居 (奈良市高畑)|高畑町の志賀直哉旧居]]]]
 
1925年(大正14年)4月、学習院初等科時代からの友人である[[九里四郎]]の誘いもあり、今度は[[奈良県]]幸町に転居<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』pp.362-363、岩波書店、1994年</ref>。幸町に住んでいた[[1926年]](大正15年)6月{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}、美術図鑑『座右宝』を刊行する。これは、尾道・松江時代から東洋の古美術に関心を持っていた直哉が、手元に置いて東洋の古美術をいつでも鑑賞できるような写真集を欲して刊行したものである<ref>『座右宝』序(1926年6月)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。その後、自ら設計した邸宅が奈良の上[[高畑町|高畑]]に完成したため、[[1929年]]([[昭和]]4年)4月{{Sfn|新潮アルバム11|1984|p=106}}、直哉はそこに引っ越した。この上高畑で直哉は多くの文化人と交流した。交流を持ったのは、直哉の後を追うように奈良に移り住んだ[[瀧井孝作]]や[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]<ref>「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.465、筑摩書房、1968年</ref>、直哉を慕って上高畑の邸宅を訪れた[[小林多喜二]]らの文化人である。こうした交流の結果、直哉の上高畑の邸宅はいつの頃からか「高畑サロン」と呼ばれるようになった<ref>「[http://www.jphistoryrd.com/tai/siga.html 志賀直哉]」 日本歴史巡り 大正時代、2018年1月19日閲覧</ref>。
 
 
一方で創作の方では、雑誌『改造』における「暗夜行路」の連載が[[1928年]](昭和3年)を最後に中断される<ref>阿川弘之「解説」、『暗夜行路 後篇』p.339、岩波文庫、2004年</ref>。さらに直哉は1929年(昭和4年)から[[1933年]](昭和8年)にかけ、「リズム」などの随筆を除き休筆をしている。当時の文壇における、[[プロレタリア文学]]を重んじる風潮への不満も休筆の一因とされる<ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.406、岩波書店、1994年</ref>。この休筆期間中、直哉は里見弴と一緒に[[満州]]・[[天津]]・[[北京]]を旅行している。直哉にとって初めての国外旅行であった。この旅行は[[南満州鉄道]]からの招きによって実現し、満鉄が旅費を負担するのと引き換えに直哉らが新聞か雑誌に満州を紹介する記事を書く約束がなされていた。しかし里見が詳細な紹介記事を執筆したこともあり、直哉は紹介記事を書かず、代わりに満州旅行をする動機となったエピソードを小説として執筆した。それが「万暦赤絵」であり、この作品で直哉は創作活動を再開した<ref name="zokuyodan"/><ref>阿川弘之『志賀直哉 上』p.416、岩波書店、1994年</ref>。[[1934年]](昭和9年)には「日曜日」「朝昼晩」「菰野」「颱風」といった作品を立て続けに発表した。[[1937年]](昭和12年)には中断していた「暗夜行路」を完結させた。
 
{{Main|暗夜行路}}
 
 
=== 再び東京 ===
 
[[1938年]](昭和13年)3月、東京の[[淀橋区]][[諏訪町 (新宿区)|諏訪町]]の貸家に引っ越す。奈良での生活を気に入っていた直哉だが、男の子の教育は東京で受けさせたいと2年前に直吉に学習院の編入試験を受けさせ、妹の実吉英子宅に預けて通わせていた。まず1937年(昭和12年)10月、康子夫人が留女子・田鶴子・貴美子を連れて上京し、直吉と貸家に入居、翌年3月、女学校を卒業した寿々子・万亀子と直哉が合流した。
 
 
1937年(昭和12年)9月、改造社から『志賀直哉全集』9巻の刊行が始まり、翌年6月完結する。直哉は最終回配本の月報に寄せた「全集完了」の短文で「私は此全集完了を機会に一ト先づ(ひとまず)文士を廃業し、こまこました書きものには縁を断りたいと思ふ」と作家活動からの廃業を宣言する{{Sfn|阿川、下|1997|pp=100-103}}。直哉は[[支那事変]]に始まる日本の優位な戦局報道に立腹しており<ref group="注">妹英子への手紙で、以下のように不満を漏らしている。「戦争初めはそれ程でもなかつたが、段々不愉快になり、京都の師団団員で近所のものが大分とられ三十越した知つてゐる人などがとられ出すと、非常に重苦しくなり閉口した…『[[石原莞爾]]』といふ本を買つて来て少し読んだが、人生といふものが戦争だけのものであるといふ印象で甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものだ」(阿川、下 1994, p. 87)</ref>、物を書こうとしても不満が文面に出そうで書けなかった。[[下落合]]に仕事用のアパートを借りた直哉は、油絵に熱中し、憂鬱な気分から救われる{{Sfn|阿川、下|1997|pp=104-108}}。[[1939年]](昭和14年)前後は[[胆石]]に苦しむ{{Sfn|阿川、下|1997|p=117}}。[[1940年]](昭和15年)5月、[[世田谷区]][[新町 (世田谷区)|新町]]に家を買い、引っ越す。奈良の家を売って引っ越した新居を直哉は大変気に入り、執筆活動を再開。[[1941年]](昭和16年)、直吉との京都・奈良・[[北陸地方|北陸]]旅行の経験を綴った「早春の旅」を発表する{{Sfn|阿川、下|1997|pp=119-120}}。
 
 
[[太平洋戦争]]中の[[1942年]](昭和17年)[[2月17日]]、直哉の「シンガポール陥落」がラジオで朗読放送され、『[[文藝]]』3月号にも再録される。[[シンガポールの戦い]]の勝利を称えた内容で、この頃の直哉は国内の戦争勝利報道に熱狂する世論に同調していたが、その後3年半沈黙する。[[鈴木貫太郎]]の「日本は勝っても負けても三等国に下る」という発言を鈴木家に出入りしていた門下の[[網野菊]]から聞かされたからとも言われる{{Sfn|阿川、下|1997|pp=125-131}}。戦後に発表した「鈴木貫太郎」などの随想では、戦争に対し内心反対であった旨のことを述べている<ref group="注">シンガポール陥落に関しては谷崎潤一郎も『シンガポール陥落に際して』という文でそれを讃美していたが、その後の谷崎は『[[細雪]]』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなった。同様に直哉もシンガポール陥落後はほとんど沈黙していたため、戦後の「鈴木さんが総理大臣になった時、これはきっと、この内閣で戦争は終るのだろうという風に私は思った」(「鈴木貫太郎」)という発言もそれほど不自然なものとは言えない。</ref>。
 
 
敗戦が近づくと直哉は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](当時)の[[重光葵]]の意向を汲み、[[安倍能成]]、[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]、[[田中耕太郎]]、[[谷川徹三]]、[[富塚清]]、武者小路実篤、[[山本有三]]、[[和辻哲郎]]とともに「三年会」を結成する。これは敗戦後の国内の混乱阻止を目的に話し合う会だった<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.113、岩波書店、1994年</ref>。この「三年会」は戦後「同心会」に発展するが、直哉も含めた「同心会」のメンバーは雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』の創刊に深く関わることになる<ref>中山昭彦、吉田司雄『機械=身体のポリティーク』pp.104-105、青弓社、2014年</ref>。
 
 
=== 晩年 ===
 
[[画像:Naoya Shiga 02.jpg|thumb|晩年の志賀直哉|180px]]
 
戦争が終わると直哉は作家としての活動を再開。世田谷新町の地から作品を次々と発表した。[[1946年]](昭和21年)、自ら立ち上げに関わった雑誌『世界』の創刊号に「[[灰色の月]]」を発表。敗戦直後の東京の風景を描いたこの作品は久々の話題作となった<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.144、岩波書店、1994年</ref>。また、「天皇制」や「鈴木貫太郎」、「国語問題」といった時事エッセイも残している。[[1947年]](昭和22年)には[[日本ペンクラブ]]の会長に就任。同クラブが主催した講演会にも、その挨拶文として時事エッセイ「若き世代に愬ふ」を提供。聴衆に強い感銘を残す。しかし、焼け野原の東京での暮らしに嫌気が差したこともあり、[[1948年]](昭和23年)、直哉はペンクラブ会長の任期途中で[[熱海市]]大洞台の山荘に移住。以後、東京に顔を出すことが少なくなる<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』pp.191-194、岩波書店、1994年</ref>。熱海の地で直哉は「山鳩」や「朝顔」といった作品を残した。[[1949年]](昭和24年)には、親交を深めていた[[谷崎潤一郎]]と共に[[文化勲章]]を受章する。
 
 
[[1952年]](昭和27年)、[[古希]]を迎えた直哉は、柳宗悦、[[濱田庄司]]と念願のヨーロッパ旅行に出発する。当初、[[毎日新聞社]]が「本社文化使節団」として旅費を負担する話を進めていたが、新聞社に口出しされることを嫌った直哉は自腹で旅費を工面した。[[ヴェネツィア|ヴェニス]]の国際美術祭に参加する[[梅原龍三郎]]も合流し、[[5月31日]]、[[羽田空港]]から出発し、[[ローマ]]に到着。[[イタリア]]各地の史跡や美術館を巡り、19日間滞在。その後、[[パリ]]、[[マドリード|マドリッド]]、[[リスボン]]と美術鑑賞の旅を続けるが、直哉は体調を崩し、[[ロンドン]]では寝たり起きたりの状態になる。[[北欧]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にも行く予定であったが、帰国する梅原に合わせて飛行機に乗り、[[8月12日]]帰国した。東京の直吉の家で4日間休み熱海に戻る。門人たちに語った旅の感想は「命からがら帰ってきたよ」だった{{Sfn|阿川、下|1997|pp=273-286}}。
 
 
[[1955年]](昭和30年)、[[渋谷]][[常磐松町|常盤松]]に居を移した。同年、[[岩波書店]]から『志賀直哉全集』の刊行が始まるが、常盤松時代の直哉は一層寡作となった<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』pp.329-330、岩波書店、1994年</ref>。そんな中でも、[[1958年]](昭和33年)には時事問題を扱った2本の文章を執筆。2月には[[紀元節]]復活の議論に関する自身の意見を朝日新聞に発表。11月には、[[松川事件|松川裁判]]を追っていた門下の[[広津和郎]]への信頼感から、『中央公論』緊急増刊『松川裁判特別号』にその「巻頭言」を寄せている。しかし以後、直哉は正月用の頼まれ原稿程度のものしか執筆しなくなる<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』pp.336-341、岩波書店、1994年</ref>。[[1969年]](昭和44年)の随筆「ナイルの水の一滴」(2月23日朝日新聞PR版)が最後の作家活動になった{{Sfn|阿川、下|1997|p=464-468}}。
 
 
[[1971年]](昭和46年)11月21日午前11時58分に[[肺炎]]と老衰により[[関東中央病院]]で没した<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』p.161、東京堂出版、1997年</ref>{{Sfn|阿川、下|1997|pp=505-506}}。23日、[[代々幡斎場]]で荼毘に付され{{Sfn|阿川、下|1997|p=516}}、26日、[[青山葬儀所]]での葬儀・告別式は本人の希望により無宗教式で執り行われた。[[国立音楽大学]]ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子(四女万亀子の娘)がピアノ演奏する中{{Sfn|阿川、下|1997|pp=499-501}}、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、東大寺の上司海雲と[[橋本聖準]]が読経、その後参列者の献花が行われた。また葬儀に駆けつけた86歳の武者小路実篤が、急遽原稿なしで遺影に語り掛けるように弔辞を述べたが細々とした声で聞き取れた者はいなかった{{Sfn|阿川、下|1997|pp=522-528}}。遺骨は濱田庄司制作の骨壺に納められ、[[青山霊園]]に葬られたが、[[1980年]](昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっている<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』p.108、原書房、2015年</ref>。
 
 
=== 死後 ===
 
[[1996年]]([[平成]]8年)、次男の直吉が多くの原稿類を[[日本近代文学館]]に寄贈<ref>{{Cite web|url=http://www.bungakukan.or.jp/collection_search/ |title=文庫・コレクション一覧 |publisher=日本近代文学館|accessdate=2017-01-31}}</ref> 、[[2016年]](平成28年)にも書簡や写真が寄贈された<ref>{{Cite web|date=2016-3-4 |url=http://www.sankei.com/life/news/160304/lif1603040024-n1.html |title=
 
志賀直哉の書簡など寄贈 約1万2千点が日本近代文学館に |publisher=産経ニュース |accessdate=2017-01-31<!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170131054110/http://www.sankei.com/life/news/160304/lif1603040024-n1.html |archivedate=2017-01-31-->}}</ref> 。一時期居住していた我孫子市にある白樺文学館では、直哉の原稿、[[書簡]]、ゆかりの品を公開している。なお遺族と弟子の申し合わせにより、[[芥川龍之介]]の「河童忌」、[[太宰治]]の「桜桃忌」のような命日に故人を偲ぶ集まりは行われていない{{Sfn|阿川、下|1997|p=531}}。
 
 
== 評価 ==
 
「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評がある<ref>高橋英夫「解説」、『志賀直哉随筆集』p.363、岩波文庫、1995年</ref>。無駄を省いた文章は、文体の理想のひとつと見なされ、高い評価を得ている<ref name="naragakuen"/>。そのため作品は文章練達のために、模写の題材にされることもある。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていた。
 
 
芥川龍之介は文学評論「[[文芸的な、余りに文芸的な]]」の中で、「通俗的興味のない」、「最も詩に近い」、「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉であると述べている。その上で、以下のように直哉を論じている。まず、「志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家」であり、作中には「道徳的口気(こうき)」、「道徳的魂の苦痛」が垣間見えるとしている。また、その写実的な文章を高く評価し、「リアリズムの細さいに入つてゐることは少しも前人の後に落ちない」「(細密な描写によりリアリズムを実現するという)効果を収めたものは…写生の妙を極めないものはない」と賞賛している。さらに、「焚火」や「真鶴」といった作品を挙げつつ、「リアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる」として、その東洋的詩精神をも賛美している<ref>芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」(改造 1927年4月号-8月号)。『侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫、2003年)に所収</ref>。
 
 
[[菊池寛]]は「志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている」と直哉を絶賛している。さらに、直哉をリアリストとした上で、「(志賀)氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬ」ものであると述べている。その理由として、「厳粛な表現の撰択」がなされていること、内容に「ヒューマニスチックな温味」があることを挙げている<ref>菊池寛「志賀直哉氏の作品」『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962962 文芸往来]』pp.151-159、[[アルス (出版社)|アルス]]、1920年</ref>。
 
 
[[辻邦生]]は直哉の散文を「その詩的完璧さと清澄度において…一つの頂点を形づくっている」と評価している。また、直哉の文章の根底には「物を正確に見る視線」があることを指摘している。文章を学ぶために直哉の作品を筆写した際、辻は、「物の形、色、動きを、純粋な視覚になったようにして追ってゆく志賀直哉の澄んだ眼差しに…生理的なよろこびを味わっていた」という<ref>紅野敏郎「解説」、『小僧の神様・他十篇』p.226、岩波文庫、2002年</ref>。
 
 
[[加賀乙彦]]は、「小僧の神様」や「清兵衛と瓢箪」、「網走まで」、「出来事」、「暗夜行路」といった作品を例に挙げ、直哉が子供の動作や表情を鮮やかに描写していることに感心している。また、直哉の文学を「共感の文学」と呼び、「他者への共感の強さが志賀直哉の小説を、それが一人の男の視点で書かれながらも広く深く他者の世界を描き出すもとい(=根幹)」であるとしている<ref>加賀乙彦「一枚の写真―遠い遠い親戚」{{Harv|新潮アルバム11|1984|pp=100-101}}</ref>。
 
 
一方で、戦時中「シンガポール陥落」等で戦争を讃美するかのような発言を残したことが、太宰治の「如是我聞」などによって攻撃された。ただ、シンガポール陥落の際は谷崎潤一郎など多くの文学者が祝意を表している上、同じ白樺派の武者小路実篤や[[高村光太郎]]らがかなり積極的な戦争協力の姿勢を示したのと比べると、特に目立つほどのものではなかった。実際、1946年(昭和21年)から[[小田切秀雄]]らによって文学者の戦争責任が追及されたとき、武者小路や高村はいち早く槍玉に上がったが、直哉は対象とされていない。
 
 
== 人物像・エピソード ==
 
=== 人物 ===
 
無宗教家で家には神棚も仏壇も置かなかった。柳宗悦からもらった[[木喰]]の薬師如来像を持っていたが、信仰の対象ではなかった。また迷信や祟りも一切信じなかった。赤城山にいた頃、散歩の途中、道端にあった石地蔵を蹴り倒したことがあった。我孫子に移ってから、慧子、直康が急逝、直哉も[[坐骨神経痛]]で寝込むなど不幸が続き、康子夫人が石地蔵を起こして供養してもらおうと提案した。だが直哉は、いずれ体は良くなる、供養して良くなったと思い込むと家の中にずるずるべったり曖昧なものが入り込むと拒否した{{Sfn|阿川、上|1997|pp=356-360}}。
 
 
挨拶代わりに「失敬」をよく使った。これは「こんにちは」「いらっしゃい」「初めまして」「失礼します」「さようなら」まですべて含んだ直哉独特の挨拶だった。ただし家族には使わなかった{{Sfn|阿川、上|1997|pp=370-371}}。
 
 
直哉本人は乱暴な言葉を使うこともあったが、娘たちへの言葉遣いへのしつけは厳しかった{{Sfn|阿川、上|1997|p=87}}。戦後、世田谷新町の家に高橋信之助(「[[新しき村]]」会員)一家が居候していた時、五女の田鶴子が妻の知子と話して戻ってきたあと、「知子さんてほんとうに滑稽な方ね」と言ったところ、直哉は激怒。「人の細君に対して滑稽な人という言い方は無いよ。失敬だ。すぐ行って謝ってこい。」と言われたため、田鶴子は知子の部屋に行き「大変に失礼なこと申しましてごめん遊ばせ」と謝った{{Sfn|阿川、上|1997|pp=303-304}}。
 
[[画像:Naoya Shiga photographed by Shigeru Tamura.jpg|thumb|熱海の志賀直哉|180px]]
 
[[写真家]]の[[田村茂]]が直哉を撮影するため熱海の自宅へ訪問したことがあった。直哉の家の周りは農家だったので、家の中にもハエが飛び回っていた。しかし直哉は撮影中にハエが頭に止まっても気にすることはなく、平然と煙草を吸っていた。田村は直哉の頭にハエが止まった瞬間を「これだ」と思って撮影して出版した。田村によると、この写真は直哉の些細なことでは動じない性格をよく表しており、見る人に対して直哉の悠揚たる物腰を伝えたかったという<ref>{{Cite book|和書|author=[[田村茂]]|title=田村茂の写真人生|edition=初版|date=1986|publisher=[[新日本出版社]]|isbn=4406013695|pages=116-117}}</ref>。
 
 
=== 趣味 ===
 
中等科6年生の頃、[[歌舞伎]]に夢中になり、[[歌舞伎座]]や[[明治座]]に通った。日曜日の朝、人力車で内村鑑三の家に乗りつけ、車を待たせて講義を聞いたあと、また人力車に乗って芝居小屋に行き、人を雇って取らせた良い席で一日観劇を楽しんだ。車代は義母の浩が父親の直温に見つからぬようこっそり支払っていたという{{Sfn|阿川、上|1997|p=113}}。
 
 
映画好きでもあった<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.299、岩波書店、1994年</ref>{{Sfn|貴田|2015|p=3}}。特に怪盗映画『[[ジゴマ]]』、[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム|シュトロハイム]]の大作『愚なる妻』、[[バレエ]]映画『[[赤い靴 (映画)|赤い靴]]』は何度も見るほど好きだった{{Sfn|貴田|2015|p=115}}。お気に入りの女優は[[マレーネ・ディートリヒ]]、[[グレタ・ガルボ]]、[[原節子]]、[[京マチ子]]、[[高峰秀子]]だった{{Sfn|貴田|2015|p=273}}。原節子との対談では[[ダニエル・ダリュー]]が好きだと語っている{{Sfn|貴田|2015|p=360}}。また、[[小津安二郎]]とは個人的に親交があったが、その戦後の映画はほとんど鑑賞していた{{Sfn|貴田|2015|p=395}}。小津作品を「非常に画面が美しい」と評価していた{{Sfn|貴田|2015|p=416}}。ただ、創作において直哉が映画から刺激や影響を受けることはなかったという<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.308、岩波書店、1994年</ref>。
 
 
[[囲碁]]は打たなかったが、[[将棋]]は指した。[[棋士]]の[[加藤一二三]]によれば、[[筋違い角]]を好んだという。
 
 
=== 交友関係 ===
 
学習院以来の友人である武者小路実篤、[[細川護立]]、柳宗悦、里見弴らの他、谷崎潤一郎、梅原龍三郎、安倍能成、和辻哲郎、[[安井曽太郎]]、谷川徹三、小林多喜二など多くの知識・文化人と交流があった。その動静は残された多くの日誌や書簡にみることができる。また、瀧井孝作、[[尾崎一雄]]、 広津和郎、網野菊、[[藤枝静男]]、[[島村利正]]、[[直井潔]]、[[阿川弘之]]らの作家が、直哉に師事し交流を持った([[志賀直哉#関連人物|関連人物]]も参照のこと)。
 
 
=== 引越し魔 ===
 
談話『転居二十三回』によれば生涯23回引っ越しをしたという。実際、直哉は以下のように住む場所を頻繁に変えている<ref group="注">以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる{{Harv|貴田|2015|pp=153-154}}。</ref>。
 
{|class="wikitable" style="text-align:left; float:left"
 
!居住開始年月||居住地
 
|-
 
|1883年{{0}}2月||[[宮城県]][[牡鹿郡]]石巻町
 
|-
 
|1885年{{0}}2月||[[東京府]][[東京市]][[麹町区]][[内幸町]]
 
|-
 
|1890年{{0}}4月||東京府東京市[[芝区]]芝公園地
 
|-
 
|1897年{{0}}7月||東京府東京市[[麻布区]][[三河台町]]
 
|-
 
|1912年11月||[[広島県]][[尾道市]]土堂町
 
|-
 
|1913年12月||東京府[[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]]
 
|-
 
|1914年{{0}}5月||[[島根県]][[松江市]]
 
|-
 
|1914年{{0}}9月||[[京都府]][[京都市]][[上京区]]南禅寺町
 
|-
 
|1915年{{0}}1月||京都府京都市上京区一条御前通
 
|-
 
|1915年{{0}}5月||[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]]
 
|}
 
{|class="wikitable" style="text-align:left; float:left"
 
!居住開始年月||居住地
 
|-
 
|1915年{{0}}5月||[[群馬県]][[勢多郡]][[富士見村 (群馬県)|富士見村]]
 
|-
 
|1915年{{0}}9月||[[千葉県]][[東葛飾郡]][[我孫子市|我孫子町]]
 
|-
 
|1923年{{0}}3月||京都府京都市上京区粟田口三条坊町
 
|-
 
|1923年10月||京都府[[宇治郡]][[山科区|山科村]]
 
|-
 
|1925年{{0}}4月||[[奈良県]][[奈良市]]幸町
 
|-
 
|1929年{{0}}4月||奈良県奈良市[[高畑町]]
 
|-
 
|1938年{{0}}4月||東京府東京市[[淀橋区]][[諏訪町 (新宿区)|諏訪町]]
 
|-
 
|1940年{{0}}5月||東京府東京市[[世田谷区]][[新町 (世田谷区)|新町]]
 
|-
 
|1948年{{0}}1月||[[静岡県]][[熱海市]]稲村大洞台
 
|-
 
|1955年{{0}}5月||[[東京都]][[渋谷区]][[常磐松町]]
 
|}
 
{{clear}}
 
 
=== フランス語国語論 ===
 
1946年(昭和21年)、直哉は『改造』4月号に「国語問題」というエッセイを発表する。直哉は40年近い文筆生活の中で、日本の国語が不完全であると痛感したとして「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」と提言する。直哉はフランス語が話せなかったが、「文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる」という根拠でフランス語を推した。日本語の文章においては随一の作家であると評価されていた直哉のこの意見に、読者は戸惑い、議論となった。直哉の門人である[[河盛好蔵]]や[[辰野隆]]は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。阿川弘之の調査によれば、エッセイ発表後、学者や文人が反論した文章はほとんど見つからないという。[[福田恆存]]・[[土屋道雄]]による『[[國語問題論爭史]]』(1962年、新潮社)では、直哉のフランス語国語論は世間の注目を浴びたが、真面目に受け取られることなく流されてしまったと書いている。[[大野晋]]は若い頃から志賀直哉の作品を愛読しており、「小説の神様」が日本語を見捨てようとしたことに大変ショックを受けたが、公に反論を書いてはいない。大野は『日本古典文学大系』の編集担当だった直哉の息子・直吉に直哉の発言の真意を問いただしたところ、直吉は、日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいで、フランス語のような国際語で書かれていればという考えがあったのではないかと答えたという{{Sfn|阿川、下|1997|pp=196-204}}。
 
 
批判者の代表として[[丸谷才一]]<ref group="注">丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『[[日本語のために]]』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。</ref>、[[三島由紀夫]]<ref group="注">三島由紀夫は「日本への信条」([[愛媛新聞]] 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。</ref>を挙げることができる。これに対して[[蓮實重彦]]は、『反=[[日本語]]論』や『表層批評宣言』などにおいて、直哉を擁護した。
 
 
戦後、直哉が閉口していたのは、原稿を[[当用漢字]]や[[現代仮名遣い]]に修正されることで、「原文のまま載せてくれない新聞雑誌には書かぬことにする」(展望、1950年3月号)と宣言している{{Sfn|阿川、下|1997|pp=216 -218}}。
 
 
== 年譜 ==
 
[[画像:Grave of Naoya Shiga, in the Aoyama Cemetery.jpg|thumb|志賀直哉の墓([[青山霊園]]内)|180px]]
 
* [[1883年]]([[明治]]16年)2月20日、陸前石巻(現在の石巻市住吉町)に、銀行員の父直温(なおはる)の次男として生まれる(長男・直行は夭折)。祖父直道は旧[[相馬中村藩]]士で、[[二宮尊徳]]の門人。母銀は[[伊勢亀山藩]]士の佐本源吾の4女。
 
* [[1885年]](明治18年)、両親と上京、祖父母と同居。
 
* [[1889年]](明治22年)、学習院の初等科へ入学。
 
* [[1895年]](明治28年)、学習院の中等科へ進学。
 
** 8月30日、母の銀が妊娠中病死。
 
** 秋、父の直温が、漢学者[[高橋元次]]の長女・浩(こう)と再婚。その後直哉に弟一人、妹5人が生まれる。
 
* [[1901年]](明治34年)
 
** 夏から内村鑑三の元に通う。
 
** [[足尾銅山鉱毒事件]]の見解について、父と衝突。以後の決定的な不和のきっかけとなる。
 
* [[1902年]](明治35年)、中等科2度目の落第。武者小路実篤と同級になる。
 
* [[1906年]](明治39年)、[[東京大学|東京帝国大学]]英文学科へ入学。
 
* [[1907年]](明治40年)、父と結婚についての問題で再度衝突。
 
* [[1908年]](明治41年)
 
** 処女作となる「或る朝」を執筆。
 
** 回覧雑誌『望野』を創刊。
 
** 英文学科から国文学科へ転科したものの、大学に登校しなくなる。
 
* [[1910年]](明治43年)
 
** 『白樺』を創刊、「網走まで」を発表。
 
** 東京帝国大学を中退。[[徴兵検査]]を受け甲種合格。[[市川町 (千葉県)|市川]]の砲兵連隊に入営するが、8日後に除隊。
 
* [[1911年]](明治44年)
 
**12月、武者小路実篤と衝突、『白樺』に絶縁状を出す。実篤の謝罪と説得で思いとどまるが、白樺同人とのつきあいに不愉快を感じるようになる{{Sfn|阿川、上|1997|p=180-185}}。
 
* [[1912年]]([[大正]]元年)、「大津順吉」「[[正義派]]」「[[母の死と新しい母]]」を発表。
 
** 10月、父との不和が原因で、東京を離れ[[広島県]][[尾道市]]に渡る。
 
* [[1913年]](大正2年)、「清兵衛と瓢箪」「[[范の犯罪]]」を発表。
 
** 8月15日、上京した際に山手線にはねられ重傷を負うも12日後退院。
 
** 10月、[[城崎温泉]]に3週間滞在。
 
** 11月、尾道に戻るが、中耳炎のため東京に戻る。
 
** 12月末日、武者小路実篤を介して、夏目漱石から東京朝日新聞の連載小説を依頼される。
 
* [[1914年]](大正3年)
 
**正月、夏目漱石を訪問。
 
**5月から松江に移り、小説を執筆するも断念。7月、上京して漱石に連載辞退を申し出る。以後休筆。
 
** 12月21日、父親の反対を押し切り、勘解由小路康子(武者小路実篤の[[従妹]])と結婚。武者小路家で結婚式を挙げる<ref name=takita>[http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/150/tayori151.htm 志賀直哉『和解』を読む第62回面白白樺倶楽部開催報告]白樺文学館、2006</ref>。
 
* [[1915年]](大正4年)、[[柳宗悦]]にすすめられて[[千葉県]][[我孫子市|我孫子町]]に移住。
 
* [[1916年]](大正5年)、長女慧子(さとこ)誕生するも夭折<ref name=takita/>。
 
* [[1917年]](大正6年)、次女留女子(るめこ)誕生<ref name=takita/>。
 
** 執筆活動再開。『白樺』5月号に「[[城の崎にて]]」を発表{{Sfn|阿川、上|1997|p=315-316}}。
 
** 8月、父との不和が解消される。「[[和解 (志賀直哉の小説)|和解]]」を執筆。
 
* [[1919年]](大正8年)、長男直康誕生するも夭折<ref name=takita/>
 
* [[1920年]](大正9年)、「小僧の神様」「焚火」を発表。三女寿々子誕生<ref name=takita/>
 
* [[1921年]](大正10年)、「暗夜行路」の前篇を発表。祖母留女死去<ref name=takita/>
 
* [[1922年]](大正11年)、「暗夜行路」後篇連載開始。四女万亀子誕生<ref name=takita/>
 
* [[1923年]](大正12年)
 
**3月、京都粟田口へ移住。尾崎一雄、網野菊らが訪問。
 
**10月、山科へ移住。「雨蛙」完成。
 
* [[1925年]](大正14年)、奈良市幸町に移住。次男直吉誕生。
 
* [[1929年]](昭和4年)、上高畑に自邸を新築、移住。五女田鶴子誕生。この年から休筆。
 
* [[1931年]]([[昭和]]6年)11月、訪ねて来た[[小林多喜二]]を宿泊させ懇談。
 
* [[1932年]](昭和7年)、六女貴美子誕生。
 
* [[1933年]](昭和8年)、5年ぶりの小説「万暦赤絵」を発表。
 
* [[1937年]](昭和12年)、「暗夜行路」の後篇を発表し、完結させる。
 
* [[1938年]](昭和13年)、東京の[[高田馬場]]に移住。改造社『志賀直哉全集』最後の月報で文士廃業宣言。
 
* [[1940年]](昭和15年)、[[新町 (世田谷区)|世田谷新町]]に引っ越し。
 
* [[1941年]](昭和16年)、「早春の旅」で文筆活動再開。
 
* [[1942年]](昭和17年)、「シンガポール陥落」「龍頭蛇尾」を最後に終戦まで休筆。
 
* [[1947年]](昭和22年)、[[日本ペンクラブ]]会長に就任。
 
* [[1948年]](昭和23年)、[[熱海市]]大洞台の山荘に移住。
 
* [[1949年]](昭和24年)、[[文化勲章]]を受章。
 
* [[1952年]](昭和27年)、[[柳宗悦]]、[[濱田庄司]]らとヨーロッパ周遊旅行。
 
* [[1955年]](昭和30年)、[[渋谷区]][[常盤松]]に自邸新築、移住。
 
* [[1971年]](昭和46年)10月21日、死去。
 
 
== 系譜 ==
 
志賀家に伝わる家系図によれば、[[近江国]]志賀城主の一万石の大名、志賀直為が一族の祖であるという。ただし直哉は「ほんとうかどうか、怪しいもんだよ」と言っている。直為の二代あとの志賀甚兵衛直久は[[上総国]]の[[土屋利直]]の家来となっており禄高二百石の侍に格下げされている。その跡継ぎの志賀三左衛門直之の代に土屋家から[[相馬中村藩]]に養子に入った[[相馬忠胤]]の側近として一家で相馬に移住。以後志賀家当主は代々三左衛門を名乗る。直之から七代あとの当主が直哉の祖父直道である{{Sfn|阿川、上|1997|p=77}}。
 
;祖父・[[志賀直道]]
 
:磐城国相馬中村の城下町に生まれる。明治維新後は[[福島県]]の[[大参事]]という役職についていたが、困窮していた[[相馬氏|相馬家]]から請われ、月給25円の家令(事務、会計)を勤める。[[二宮尊徳]]の弟子でもあり、相馬家立て直しのため、古河財閥創始者[[古河市兵衛]]と共に[[足尾銅山]]開発にも関わっている。気性の激しい留女と違い、無口で温厚な性格だった。[[相馬事件]]では、旧藩主を毒殺した疑いで告訴され、70余日拘留されたが、拘留中の出来事は一切話さなかったという。晩年は禅学に親しんだが、食道癌を発症し数え80歳で死去{{Sfn|阿川、上|1997|pp=121‐130}}。
 
;祖母・留女(るめ)
 
:相馬家の家臣・木村惣左衛重基の娘。直道に嫁いでからは、自家製の味噌やどぶろくを近所に売って家計を支えた。働き者で気性も激しかった。直哉の妹の英子によれば、文盲であったという{{Sfn|阿川、上|1997|pp=35‐37}}。
 
;父・[[志賀直温]]
 
:磐城国宇多郡中村(現在の福島県相馬市)に生まれる。16歳のとき[[山岡鉄舟]]の元に剣術修行に出たのを皮切りに各地の私塾を転々とし1876年(明治9年)6月、[[慶應義塾]]を卒業。[[1880年]](明治13年)、第一国立銀行に就職。[[1885年]](明治18年)、同行を退職、文部省会計局の下級役人となる。[[1890年]](明治23年)文部省を非職(休職)。[[1893年]](明治26年)、40歳で文部省を非職満期(正式に辞職)となると、相馬藩士の青田綱三と[[総武鉄道]]会社の創立に参加し、会計を担当。のちに、専務取締役を務める。[[朝日生命保険|帝国生命保険]]、[[武蔵電気鉄道]]、相模水力電気、札幌木材、豊前採炭、日本醋酸の7社に取締役として関与{{Sfn|阿川、上|1997|pp=63-67}}。実業家として成功しても無駄遣いはせず、蓄財に努め、志賀家を栄えさせようとした。晩年は[[交詢社]]に毎日通い、[[牧野伸顕]]や[[松方正作]]([[松方正義]]次男)と碁を打つという優雅な生活だった{{Sfn|阿川、上|1997|p=69}}。
 
;母・銀
 
:[[亀山藩]]の上屋敷があった江戸下谷の御成道に、6人兄弟の五女として生まれる。16歳で直温と結婚。姑の留女に息子の直哉を取り上げられるなど苦労する。1895年(明治28年)、13年ぶりに妊娠するが、悪性のつわりのため、8月30日、数え33歳で死去。
 
;養母・浩(こう)
 
:[[天童藩]][[織田氏|織田家]]に仕えた漢学者高橋元次の娘。23歳で直温の後妻として嫁ぎ、一男五女をもうける。仲たがいした直哉と直温を和解させようと気苦労を重ねた{{Sfn|阿川、上|1997|p=67}}。実子の直三によれば、「継母の継子いじめってことは世の中にあるけれど私の場合はそれが逆になってしまった」と嘆いていたという{{Sfn|阿川、上|1997|p=319}}。晩年、直哉の住む奈良に転居するが、直三の行状に悩まされ{{Sfn|阿川、上|1997|p=482}}、脳溢血で死去{{Sfn|阿川、上|1997|p=503}}。
 
;妹・英子(ふさこ)
 
:東京府立第三高女卒業後、海軍士官の実吉敏郎(海軍の軍医総監[[実吉安純]]の息子)と結婚。
 
;弟・直三
 
:幼稚舎から大学予科まで慶應義塾で学ぶ。学生時代から飲酒・夜遊びと不良行為が絶えず、留学させられる。アメリカで[[マサチューセッツ工科大学]]、イギリスで[[ケンブリッジ大学]]に入学するがどちらもすぐに退学し、競馬や女遊びに耽溺。6年後、義兄の実吉敏郎に連れ戻される。帰国後、[[副島道正]]の娘・順子(のぶこ)と結婚。文部省社会教育課で教育映画製作の仕事に就く。直温亡き後、相続を巡って直哉たちと反目、以後放蕩の限りを尽くし、奈良に引っ越した実母・浩の家に高利貸しや暴力団が押し掛け、直三は2年3か月収監される騒ぎとなる。出所前、浩が死去。その後直三は華道・慈草流の家元、茶道・[[宗偏流]]では志賀幽荃を名乗り、風雅の世界に生きる。自伝『阿保傳』(新制社、1958年)を出版している{{Sfn|阿川、上|1997|pp=490-508}}。
 
;妹・淑子(よしこ)
 
:英子と同じ第三高女卒業後、元[[会津若松藩]]の家臣・山際家出身の山際太郎と結婚。
 
;妹・隆子
 
:英子と同じ第三高女卒業後、第三代住友総理事の[[鈴木馬左也]]の長男愨太郎と結婚。
 
;妹・昌子
 
:[[学校法人聖心女子学院|聖心女子学院]]卒業後、鈴木馬左也の三男乾三と結婚。
 
;妹・禄子
 
:[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校]]卒業後、[[大倉商事]]の社員(のちに社長、会長)伊藤英次郎と結婚。結婚式では亡くなった直温の代わりに直哉が父親役を務めた。
 
;[[志賀直方]]
 
:直道の兄、志賀直員正斎の孫。直哉の作品にしばしば「叔父直方」として登場している。直哉にとっては4歳上の又従妹になるが、両親が病死し、直道の養子となったため、戸籍上は叔父である。直哉とは兄弟のように育ち、直哉と同時期に学習院に編入している。中等科卒業後は[[陸軍士官学校]]へ進み、[[日露戦争]]に出征、右目を失う重傷を負う。軍籍を離れたのちは[[大日本連合青年団]]理事として政治活動をしながら、志賀家のもめごとの仲裁にあたった{{Sfn|阿川、下|1997|p=112-114}}。
 
;妻・康子(さだこ)
 
:[[勘解由小路資承]]の長女で武者小路実篤の母方の従妹。10歳から[[華族女学校]]に学ぶ。中等科の同級生にのちに女優になる[[東山千栄子]]がいた。家の事情で卒業2年前に退学{{Sfn|阿川、上|1997|p=234}}。1908年(明治41年)、勘解由小路家の縁戚で男爵家の軍人川口武孝と結婚、娘・喜久子をもうけるが、夫が病死し未亡人となる{{Sfn|阿川、上|1997|p=233}}。武者小路夫妻の紹介で直哉と見合いし結婚。喜久子は武者小路夫妻が養女にしている{{Sfn|阿川、上|1997|pp=258-259}}。癇癪もちで時に暴力をふるう直哉を辛抱強く支えた。直哉の門人たちにも慕われており、河盛好蔵は「日本三名夫人の一人(二人は[[小泉信三]]夫人と[[辰野隆]]夫人)」と評した{{Sfn|阿川、上|1997|p=214}}。
 
;長女・慧子(さとこ)
 
:我孫子に移住してから一年後の1916年(大正6年)6月7日に東京の病院で生まれる。直哉と絶縁中の直温も初孫の誕生を喜び、病院に顔を見にいき、出産費用も出した。我孫子に帰ってからも祖母の留女にまた東京に連れてくるよう言われ、汽車で上京したが帰宅後、様子がおかしくなり、7月31日、腸捻転で急死した。直哉は赤ん坊を汽車に乗せたのが原因と思い込み、以後子供の扱いに厳しくなる{{Sfn|阿川、上|1997|pp=277-281}}。
 
;次女・留女子(るめこ)
 
:1917年(大正6年)7月23日我孫子で誕生。汽車に乗せずに済むよう、自宅出産で生まれた。直哉は祖母の留女に名付けを頼んだが、良い名を思いつかないので自分の名はどうかと言われたので、子の字をつけて留女子となった。直哉は今度こそ無事に育てようと外出や食べ物を制限し、その過保護ぶりは周囲でも有名だった。[[奈良女子高等師範学校]]附属高等女学校卒業後、1940年に結婚するが9か月で離婚し、柳宗悦の妻で声楽家の[[柳兼子]]の紹介で、ピアニストの土川正浩と再婚し、二人の娘をもうける{{Sfn|阿川、上|1997|pp=281-285}}<ref>{{PDFlink|[http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/67/1/02_04_18.pdf 池田小菊関連書簡]}}弦巻克・二吉川仁子、奈良女子大学『叙説』33号, 2006</ref>。
 
;長男・直康
 
:1919年(大正8年)6月2日に生まれ、36日後の7月8日[[丹毒]]で早逝{{Sfn|阿川、上|1997|p=285}}。
 
;三女・寿々子
 
:[[1920年]](大正9年)5月31日に生まれる。留女子と同じ奈良女高師附属女学校卒業。身長172センチの大柄な娘だった。康子夫人の同級生東山千栄子の甥で、身長186センチで[[ベルリンオリンピック]]に[[バスケットボール]]で出場し、農林省に勤務する中江孝男(祖父は鉱山開発などを行った[[中江種造]]、母親は料理研究家の中江百合子)と結婚。中江は農林省退官後、祖父が大阪に起こした中江産業の役員となり、寿々子も関西に移住した。息子二人をもうけた{{Sfn|阿川、上|1997|pp=286-289}}。
 
;四女・万亀子
 
:1922年(大正11年)1月19日に生まれる。奈良女高師の附属幼稚園から、附属小学校、附属女学校を卒業。柳宗悦の次男で美術史家の[[柳宗玄]]と結婚。娘一人、息子二人をもうける{{Sfn|阿川、上|1997|pp=289-294}}。
 
;次男・直吉
 
:1925年(大正14年)5月26日、奈良で誕生。奈良の小学校から5年生に進級する際、学習院に編入する。一人息子の将来に期待する直哉は、「今大学なんか出て一体何になるかね」と大学進学をさせず、高等科も中退させる。商人や月給取を嫌っていた直哉は、直吉に出版社をやらせることを考え、岩波書店の[[小林勇]]の口利きで岩波に入社させ出版人の修行をさせる。しかし、小林から出版社経営の難しさを理由に反対され、あきらめている。直吉は[[日劇ダンシングチーム]]のメンバーで[[台湾銀行]]初代ロンドン支店長の娘、佐藤福子と恋愛結婚。息子3人をもうける。岩波では、父親の志賀直哉全集編纂や[[日本古典文学大系]]の編集を担当、常務取締役まで勤め上げた{{Sfn|阿川、上|1997|pp=289-294}}。
 
;五女・田鶴子
 
:1929年(昭和4年)10月13日、奈良に生まれる。[[日本女子大学附属豊明小学校]]から[[日本女子大学附属中学校・高等学校|附属高等女学校]]に進学するが、直哉は「女の子が学校の勉強なんか大してする必要なし」という考えで、終戦前後の勤労奉仕も「馬鹿々々しい」と休ませ、出席日数不足で退学する。実吉安純の孫で三井化学の社員(のちに[[日揮|日本揮発油]]社長)山田伸雄と結婚。一男一女をもうける{{Sfn|阿川、上|1997|pp=300-305}}。
 
;六女・貴美子
 
:[[1932年]](昭和7年)11月19日、奈良に生まれる。香蘭女学校に進むが、病弱で欠席しがちだったため、熱海に引っ越したのを機に退学し、伸び伸びと育てられた。戦後派らしい物怖じしない性格で、周囲からは[[島津貴子]]になぞらえ「志賀家のおすたさん」と呼ばれていた。AP通信・朝日新聞社で電気通信関係の仕事をしていた安場保文と結婚、一男一女をもうけた{{Sfn|阿川、上|1997|pp=305-312}}。
 
<!--*''志賀氏''
 
<div style="font-size:80%">
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree|border=1| | | | |mormo|-|muman| | | | | | | | |mormo=[[毛利元徳]]|muman=万子}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|-|musam| | | | |musam=[[武者小路実光]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | |,|mukit| | | | | | | | |mukit=[[武者小路公共]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|-|mukih| | | | |mukih=[[武者小路公秀]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | |!|mufuj| |kiryu|,|kimas|mufuj=不二子|kiryu=木村龍蔵|kimas=木村雅世}}
 
{{familytree|border=1| | | | |musay|!| | | | | |}|-|(| | | |musay=武者小路実世}}
 
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|(| | | |,|kishi|`|kinis|kishi=新子|kinis=錦子}}
 
{{familytree|border=1| | | |,|muaki|!| | | |!|mukan|,|muatn|muaki=秋子|mukan=武者小路侃三郎|muatn=武者小路篤信}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | |!| | | |!| |}|-|+|munok|munok=武者小路信和}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|kamit|`|musaa|+|mutae|`|musae|kamit=烏丸光亨|musaa=[[武者小路実篤]]|mutae=妙子|musae=小絵}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |:| | | | | |!|mumin|,|motoy|mumin=[[武者小路穣]]|motoy=武者小路知行}}
 
{{familytree|border=1| | | |)|kaaya| | | | |!| |}|-|(|4naba|kaaya=操子|4naba=[[中村梅玉 (4代目)|4代目中村梅玉]]}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | |`|mutat|!| |:| |mutat=辰子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|kayos|,|kaosa|-|konse|`|kawyu|kayos=甘露寺義長|kaosa=[[甘露寺受長]]|konse=績子|kawyu=有紀子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |}|-|(| | | | | |:| | | | | }}
 
{{familytree|border=1|kasuy|+|katat|`|kamas| |konar| | | | |kasuy=[[勘解由小路資生]]|katat=立子|kamas=甘露寺方房|konar=[[近藤荒樹]]}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | |:| | | |}|-|-|konko|konko=近藤荒一郎}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|iwhis|,|kasum| |konik| | |:| |iwhis=[[岩崎久弥]]|kasum=澄子|konik=伊久子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |}|-|+|iwhik| | | | |,|konna|iwhik=[[岩崎彦弥太]]|konna=直子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|iwshi|)|iwtak| | | | |!|ikeyu|iwshi=寧子|iwtak=[[岩崎隆弥]]|ikeyu=[[池田行彦]]}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | |`|iwtsu| |ikeha|!| |:| |iwtsu=岩崎恒弥|ikeha=[[池田勇人]]}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | |}|-|+|ikeno|ikeno=紀子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | |ikemi|!|ishke|ikemi=満枝|ishke=石橋慶一}}
 
{{familytree|border=1| | | |`|kasuk| |yamuy|-|yamum|!| |:| |kasuk=[[勘解由小路資承]]|yamuy=[[柳宗悦]]|yamum=[[柳宗玄]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|-|shyas| | |:| |`|ishsa|shyas=康子|ishsa=祥子}}
 
{{familytree|border=1| | | |,|katoy| | |:| |,|yamak| | | | |katoy=豊子|yamak=万亀子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|shgin| | |}|-|(| | | | | | | |shgin=銀}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |:| | | |:| |`|shnak| | | | |shnak=志賀直吉}}
 
{{familytree|border=1|soeta|(| |}|-|-|shnay| | | | | | | | |soeta=[[副島種臣]]|shnay='''志賀直哉'''|boxstyle_shnay=background-color: #ffa;}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |:| | | | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1|shnam|*|shnah| | | | | | | | | | | | |shnam=志賀直道|shnah=[[志賀直温]]}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| |}|-|-|shnaz| | | | | | | | |shnaz=志賀直三}}
 
{{familytree|border=1| | | |!|shhir| | |:| | | | | | | | | |shhir=浩}}
 
{{familytree|border=1| | | |`|soemi|-|shiju| | | | | | | | |soemi=[[副島道正]]|shiju=順子}}
 
{{familytree/end}}
 
</div>
 
-->
 
 
== 主な作品 ==
 
カッコ内は発表年。参考文献内の記述・年譜などで言及されている作品が中心。発表後に改題された作品は改題後の題名を記載。
 
{{Columns-list|2|
 
* 網走まで(1910年4月)
 
* 箱根山(1910年5月)
 
* 剃刀(1910年6月)
 
* 孤児(1910年7月)
 
* 彼と六つ上の女(1910年9月)
 
* 速夫の妹(1910年10月)
 
* 鳥尾の病気(1911年1月)
 
* イヅク川(1911年2月)
 
* 無邪気な若い法学士(1911年3月)
 
* 濁つた頭(1911年4月)
 
* ある一頁(1911年6月)
 
* 不幸なる恋の話(1911年9月)
 
* 襖(1911年10月)
 
* 老人(1911年11月)
 
* 祖母の為に(1912年1月)
 
* 憶ひ出した事(1912年2月)
 
* [[母の死と新しい母]](1912年2月)
 
* [[大津順吉]](1912年9月)
 
* [[正義派]](1912年9月)
 
* クローディアスの日記(1912年9月)
 
* [[清兵衛と瓢箪]](1913年1月)
 
* モデルの不服(1913年7月)
 
* 興津─川村弘の憶ひ出─(1913年8月)
 
* 出来事(1913年9月)
 
* [[范の犯罪]](1913年10月)
 
* 児を盗む話(1914年4月)
 
* [[城の崎にて]](1917年5月)
 
* 佐々木の場合(1917年6月)
 
* 小品五つ(1917年7月)
 
* 好人物の夫婦(1917年8月)
 
* 或る親子(1917年8月)
 
* [[赤西蠣太]](1917年9月)
 
* [[和解 (志賀直哉の小説)|和解]](1917年10月)
 
* 鵠沼行(1917年10月)
 
* [[荒絹]](1917年11月)
 
* 或る朝(1918年3月)
 
* [[十一月三日午後の事]](1919年1月)
 
* 流行感冒(1919年4月)
 
* 断片(1919年11月)
 
* 或る男、其姉の死(1920年1月 - 3月)
 
* [[小僧の神様]](1920年1月)
 
* 或る一夜(1920年1月)
 
* 菜の花と小娘(1920年1月)
 
* 夢(1920年1月)
 
* 雪の日―我孫子日誌─(1920年2月)
 
* [[焚火 (志賀直哉の小説)|焚火]](1920年4月)
 
* 赤城にて或日(1920年7月)
 
* [[真鶴 (志賀直哉の小説)|真鶴]](1920年9月)
 
* [[暗夜行路]](1921年1月 - 1937年4月)
 
* 寓居(1921年1月)
 
* 挿話(1922年6月)
 
* 廿代一面(1923年1月)
 
* 旅(1923年7月)
 
* 雨蛙(1924年1月)
 
* 偶感(1924年1月)
 
* 震災見舞(1924年3月)
 
* 転生(1924年3月)
 
* 子供四題(1924年4月)
 
* 木下利玄(1924年4月)
 
* 中座の「[[仮名手本忠臣蔵|忠臣蔵]]」を観る(1924年4月)
 
* 郡虎彦君を憶ふ(1924年10月)
 
* 濠端の住まひ(1925年1月)
 
* 冬の往来(1925年1月)
 
* 梟(1925年1月)
 
* 黒犬(1925年1月)
 
* 矢島柳堂(1925年6月 - 1926年1月)
 
* 些事(1925年9月)
 
* 石榴(1925年9月)
 
* 山科の記憶(1926年1月)
 
* 弟の帰京(1926年1月)
 
* 革文函(1926年1月)
 
* 白銅(1926年1月)
 
* プラトニック・ラヴ(1926年4月)
 
* 痴情(1926年4月)
 
* 三条会の画家(1926年4月)
 
* 主我的な心持(1926年5月)
 
* 晩秋(1926年9月)
 
* 「光子」の著者(1926年9月)
 
* 過去(1926年10月)
 
* 死神(1926年10月)
 
* 山形(1927年1月)
 
* 親友(1927年1月)
 
* くもり日(1927年1月)
 
* 夢から憶ひ出す(1927年3月)
 
* 菊斎歿後(1927年4月)
 
* 沓掛にて─芥川君のこと─(1927年9月)
 
* 邦子(1927年10月 - 11月)
 
* 山鳥(1927年10月)
 
* 犬(1928年1月)
 
* 鳥取(1929年1月)
 
* 雪の遠足(1929年1月)
 
* 豊年虫(1929年1月)
 
* リズム(1931年1月)
 
* 大阪の役者(1931年3月)
 
* リーチのこと(1933年5月)
 
* 手帖から(1933年7月)
 
* 万暦赤絵(1933年9月)
 
* 『女の学校・ロベエル』を読む(1933年11月)
 
* 日曜日(1934年1月)
 
* 朝昼晩(1934年4月)
 
* 菰野(1934年4月)
 
* 颱風(1934年4月)
 
* [[竹内勝太郎]]君(1935年12月)
 
* 青嗅帖(1937年4月)
 
* 叔父直方(1938年2月)
 
* 池の縁(1938年6月)
 
* 無題(1939年4月)
 
* 鬼(1939年5月)
 
* 泉鏡花の憶ひ出(1939年10月)
 
* 病中夢(1939年10月)
 
* 虫と鳥(1940年8月)
 
* 早春の旅(1941年1月)
 
* 内村鑑三先生の憶ひ出(1941年3月)
 
* 馬と木賊(1941年5月)
 
* 淋しき生涯(1941年7月)
 
* シンガポール陥落(1942年3月)
 
* 竜頭蛇尾(1942年6月)
 
* 五月蠅(1945年12月)
 
* 貴美子の先生(1946年1月)
 
* 銅像(1946年1月)
 
* [[灰色の月]](1946年1月)
 
* 鈴木貫太郎(1946年3月)
 
* 国語問題(1946年4月)
 
* 天皇制(1946年4月)
 
* 随想(1946年4月)
 
* 梅原竜三郎への手紙(1946年6月)
 
* 一年目(1946年8月)
 
* 兎(1946年9月)
 
* 蝕まれた友情(1947年1月)
 
* 愛読書回顧(1947年1月)
 
* 唯々諾々(1947年1月)
 
* [[三浦環]]の死(1947年3月)
 
* 玄人素人(1947年3月)
 
* 若き世代に愬ふ(1947年8月)
 
* 猫(1947年10月)
 
* 牛の角(1948年1月)
 
* 奈良日記(1948年1月)
 
* 菊池寛の印象(1948年7月)
 
* 稲村雑談(1948年8月 - 1949年3月)
 
* 太宰治の死(1948年10月)
 
* 実母の手紙(1949年1月)
 
* 老夫婦(1949年1月)
 
* 動物小品(1949年3月)
 
* 楽屋見物(1949年7月)
 
* 秋風―戯曲―(1949年8月)
 
* 奇人脱哉(1949年9月)
 
* わが生活信条(1949年10月)
 
* 末つ子(1950年1月)
 
* 山鳩(1950年1月)
 
* 山荘雑話(1950年1月 - 5月)
 
* 目白と鵯と蝙蝠(1950年4月)
 
* 昨夜の夢(1950年6月)
 
* 閑人妄語(1950年10月)
 
* 美術の鑑賞について(1950年10月)
 
* 妙な夢(1951年1月)
 
* 朝の試写会(1951年3月)
 
* 自転車(1951年11月)
 
* 中野好夫君にした話(1952年1月)
 
* S君との雑談(1952年7月)
 
* 私と東洋美術(1952年7月)
 
* ヨーロッパの旅(1952年11月 - 12月)
 
* 朝顔(1954年1月)
 
* いたづら─[[野尻抱影]]君に─(1954年4月 - 6月)
 
* 鴉の子(1954年11月)
 
* 草津温泉(1955年6月)
 
* 夫婦(1955年7月)
 
* 祖父(1956年1月 - 3月)
 
* 白い線(1956年3月)
 
* 耄碌(1956年3月)
 
* 八手の花(1957年1月)
 
* 待合室(1957年1月)
 
* 東京散歩(1958年1月)
 
* 紀元節(1958年2月)
 
* 私の空想美術館(1958年4月 - 5月)
 
* 雀の話(1959年1月)
 
* オペラ・グラス(1959年1月)
 
* 少年の日の憶ひ出(1959年1月)
 
* 加賀の潜戸(1959年5月)
 
* 東宮御所の山菜(1962年8月)
 
* 盲亀浮木(1963年8月)
 
* 老廃の身(1964年1月)
 
* 蓮花話(1965年6月)
 
* 雪のおもいで(1967年3月)
 
* ナイルの水の一滴(1969年2月)
 
}}
 
 
== 刊行書籍 ==
 
=== 単行本 ===
 
{{Columns-list|2|
 
* 『留女』(洛陽堂、1913年1月)
 
* 『大津順吉』(新潮社、1917年6月)
 
* 『夜の光』(新潮社、1918年1月)
 
* 『或る朝』(春陽堂、1918年4月)
 
* 『和解』(新潮社、1919年4月)
 
* 『荒絹』(春陽堂、1921年2月)
 
* 『寿々』(改造社、1922年4月)
 
* 『暗夜行路 前篇』(新潮社、1922年7月)
 
* 『真鶴』(新しき村出版部、1924年3月)
 
* 『雨蛙』(改造社、1925年4月)
 
* 『網走まで』(新しき村出版部村の本、1926年2月)
 
* 『山科の記憶』(改造社、1927年5月)
 
* 『万暦赤絵』(中央公論社、1936年11月)
 
* 『映山紅』(草木屋出版部、1940年12月)
 
* 『早春』(小山書店、1942年7月)
 
* 『剃刀』(斎藤書店、1946年7月)
 
* 『豊年虫』(座右宝刊行会、1946年7月)
 
* 『矢島柳堂』(全国書房、1946年8月)
 
* 『革文函』(座右宝刊行会、1946年9月)
 
* 『蝕まれた友情』(全国書房、1947年7月)
 
* 『濁つた頭』(文芸春秋新社、1947年10月)
 
* 『好人物の夫婦』(太陽書院、1947年12月)
 
* 『灰色の月』(細川書店、1947年12月)
 
* 『奈良日誌』(天平出版部、1948年2月)
 
* 『蜻蛉』(スバル出版社、1948年3月)
 
* 『翌年』(小山書店、1948年3月)
 
* 『児を盗む話』(文芸春秋新社、1948年10月)
 
* 『雪の日』(新潮社、1948年11月)
 
* 『秋風』(創芸社、1950年1月)
 
* 『山鳩』(中央公論社、1951年2月)
 
* 『朝顔』(中央公論社、1954年8月)
 
* 『ポートレート』(朝日新聞社、1954年11月)
 
* 『八手の花』(新樹社、1958年6月)
 
* 『夕陽』(桜井書店、1960年9月)
 
* 『白い線』(大和書房、1966年2月)
 
* 『動物小品』(大雅洞、1966年5月)
 
* 『枇杷の花』(新潮社、1969年3月)
 
* 『玄人素人』(座右宝刊行会、1971年12月)
 
* 『白樺のころ』(ほるぷ出版、1972年12月)
 
}}
 
 
=== 全集 ===
 
* 志賀直哉全集〈全9巻〉(1937 - 1938)改造社 - 『暗夜行路』前後篇を初めて収録。
 
* 志賀直哉全集〈全17巻〉(1955 - 1956)[[岩波書店]] - 新書版サイズの全集。息子の直吉が編集、阿川弘之が編集同人で参加。
 
* 志賀直哉全集〈全14巻、別巻1〉(1973 - 1974)岩波書店 - 1984年に1巻増巻されて全15巻となる。
 
* 志賀直哉全集〈全22巻、補巻6〉(1998 - 2002)岩波書店
 
 
== 関連人物 ==
 
; [[阿川弘之]]
 
; [[芥川龍之介]]
 
: 1922年(大正11年)[[7月27日]]、[[小穴隆一]]と我孫子の志賀家を訪ねている。当時スランプだった芥川は、休筆から活動再開に至った直哉の話を聞きにきたが、直哉は「冬眠してゐるやうな気持ちで一年でも二年でも書かずにゐたら」再び書けるようになると答える。芥川は「さういふ結構なご身分ではないから」と返した{{Sfn|阿川、上|1997|p=350}}。その数年後、芥川は東京で直哉と会ったが、直哉から、芥川の作品には読者への隠し事で読者を釣る点や、描写に技巧が見え透ける点があると指摘される。その際、芥川は「芸術というものが本統に分っていないんです」と返答した。芥川の死後、直哉は「沓掛にて」の中で、「芥川君は始終自身の芸術に疑いを持っていた」と芥川を振り返りつつ、芥川の自殺については「(腹立たしく思えた[[乃木希典]]や[[有島武郎]]の自殺と異なり)芥川君の場合では何故か『仕方ない事だった』というような気持がした」「芥川君の死は芥川君の最後の主張だったというような感じを受けている」と述べている<ref>「沓掛にて―芥川君のこと―」(中央公論 1927年9月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。
 
; [[網野菊]]
 
; [[尾崎一雄]]
 
; [[小津安二郎]]
 
: 志賀文学のファンだった。[[日中戦争]]に従軍した際、岩波文庫版の『暗夜行路』を読み感銘を受ける{{Sfn|貴田|2015|pp=445-446}}。戦後、雑誌『映画春秋』の座談会で直哉と知り合う。映画『月は上りぬ』(監督:[[田中絹代]])のシナリオを執筆した際には、直哉からアドバイスを受けてその一部を書き直す{{Sfn|貴田|2015|pp=374-377}}。その後も親交は続き、里見弴も含めた3人で旅行をすることもあった{{Sfn|貴田|2015|p=381}}。[[笠智衆]]によると、小津は直哉に「心酔」しており、「志賀先生の前に出ると、子ネコみたいに」なっていたという<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.221、岩波書店、1994年</ref>。里見弴も、小津は「志賀の前ではコチコチになって」いたと語っている<ref>阿川弘之『志賀直哉 下』p.375、岩波書店、1994年</ref>。
 
; [[上司海雲]]
 
: [[東大寺]][[別当]]。直哉が奈良に住んでいた頃に知り合う。海雲は「あんなすぐれた人は仏教界にもどこにも見当たらない」と直哉を絶賛、直哉が亡くなるまでの40年間親しい関係が続いた。直哉も奈良を去り東京へ帰った後も、武者小路実篤や里見弴と同じ頻度で手紙を書いている{{Sfn|阿川、上|1997|pp=516-517}}。直哉のサロンの一部は上司海雲に引き継がれていった(観音院サロン)。
 
; [[小林多喜二]]
 
: 1931年(昭和6年)11月はじめ、上高畑の志賀家を訪問している。多喜二は直哉の作品に文学を学び、以前から手紙で交流していた。直哉はプロレタリア文学に批判的だったが、このときの邂逅はなごやかなもので、直哉の息子・直吉と3人であやめ池の遊園地に遊び、一晩泊めている{{Sfn|阿川、上|1997|p=468-471}}。多喜二の死後は、彼の実母に香典と弔文を贈っている<ref name=takiji>{{Cite web|date=|url=http://www.takiji-library.jp/takiji/history/|title=年譜|publisher=有限会社ゆとり・多喜二ライブラリー|accessdate=2018-1-22}}</ref>。
 
; [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]
 
; [[里見とん|里見弴]]
 
; [[太宰治]]
 
: 小説「[[津軽 (小説)|津軽]]」の中で「日本の或る五十年配の」「神様、といふ妙な呼び方をする」作家についての批判を書いている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html 津軽]青空文庫、2018年2月8日閲覧。</ref>。直哉は雑誌の座談会で、太宰の「[[斜陽]]」について、貴族の娘の言葉遣いに閉口したと発言。これを受けて太宰は「如是我聞」で「おまへの『うさぎ』には『おとうさまは、うさぎなどお殺せなさいますの?』とかいふ言葉があった筈」と反発した。これは随筆「兎」の中の末娘貴美子の「飼ってしまえばお父様屹度お殺せになれない」の不正確な引用で、直哉は「如是我聞」を読んだ貴美子を「お殺せにならないで少しも変じゃない」となぐさめた{{Sfn|阿川、上|1997|p=85-86}}。直哉は随筆「太宰治の死」の中で「私の言った事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。これは…太宰君にとっても、私にとっても不幸な事であった」と、太宰を批判したことに対する後悔の念を表している<ref>「太宰治の死」(文芸 1948年10月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収</ref>。
 
; [[谷崎潤一郎]]
 
; [[中野重治]]
 
: 世田谷新町の家を訪問したことがあり、直哉に畏敬の念を抱いていた。直哉も中野の人柄に好感を持っており、戦後、中野が「[[新日本文学会]]」を結成した際、賛助会員となっている。しかし、中野が皇室や直哉の友人の政治家(安倍能成)に批判的な文章を発表したことに「不純な印象」を持ち、脱会している{{Sfn|阿川、下|1997|p=181-187}}。
 
; [[広津和郎]]
 
; [[武者小路実篤]]
 
: 学習院中等科以来の友人。直哉らとともに『白樺』を創刊する。その後、直哉に続いて我孫子に住居を構える。2人の我孫子在住時を描いた「和解」の中で、直哉は武者小路<ref group="注">作中では武者小路は「M」として登場している。</ref>を「彼は実際相手の内にあるよきものを抽(ひ)き出す不思議な力を持っていた。又彼は心と心の直接に触れ合う妙味をよく理解していた」と評している<ref>『和解』(1917年10月)。『和解』(新潮文庫、1991年)に所収</ref>。武者小路が「新しき村」の建設のために我孫子を去った後も2人の交流は続いた。「暗夜行路」の冒頭には「武者小路実篤兄にささぐ」という献辞が記されている。晩年、直哉から手製の杖を贈られるが、そのとき武者小路は「歩く時この杖をつかうと志賀が一緒にいる気がすると思った」との言葉を残している<ref name="serai"/>。
 
; [[柳宗悦]]
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Citation |和書 |year=1984|title=新潮日本文学アルバム11 志賀直哉|publisher=新潮社|isbn= 4106206110|ref={{SfnRef|新潮アルバム11|1984}}}}
 
* {{Citation |和書 |last=阿川|first=弘之|year=1997|title= 志賀直哉 上|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=4101110158|ref={{SfnRef|阿川、上|1997}}}}
 
* {{Citation |和書 |last=阿川|first=弘之|year=1997|title= 志賀直哉 下|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=4101110166|ref={{SfnRef|阿川、下|1997}}}}
 
*{{Citation |和書 |last=貴田|first=庄|authorlink=貴田庄|year=2015|title=志賀直哉、映画に行く―エジソンから小津安二郎まで見た男|publisher=朝日新聞出版|series=朝日選書|isbn=9784022630292}}
 
*{{Citation |和書 |last=栗林|first=秀雄|authorlink=栗林秀雄|year=2016|title=志賀直哉|publisher=清水書院|series=人と作品|isbn=9784389401108}}
 
*早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 242-245頁<!--参照箇所不明-->
 
*[[末永航]]「白樺ヨーロッパ旅行団―志賀直哉と柳宗悦」『イタリア、旅する心―大正教養世代のみた都市と文化』青弓社、2005年。ISBN 9784787271969。<!--参照箇所不明-->
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Shiga_Naoya}}
 
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
 
* [[白樺派]]
 
* [[城崎町文芸館]]
 
* [[国語外国語化論]]
 
* [[真珠の小箱]]
 
* [[おのみち文学の館]] - 尾道時代の旧居が公開されている。
 
* [[志賀直哉旧居 (奈良市高畑)]] - 奈良県上高畑の旧居が保存されており見学を行うことができる。
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.shirakaba.ne.jp/ 白樺文学館]
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:しか なおや}}
 
{{デフォルトソート:しか なおや}}
 
[[Category:志賀直哉|*]]
 
[[Category:志賀直哉|*]]

2019/4/27/ (土) 19:27時点における最新版

志賀直哉.jpg

志賀 直哉(しが なおや、1883年明治16年)2月20日 - 1971年昭和46年)10月21日

小説家。学習院高等科を経て 1906年東京大学英文科,08年国文学科に進み,同年『或る朝』を書き,10年大学を中退して『白樺』の創刊に参加,『網走まで』を発表。その後,自己の生の確立を目指した『大津順吉』 (1912) ,『城の崎にて』,父との長い不和とその解消までを描いた『和解』 (17) ,『小僧の神様』 (20) などで文壇的地位を確立。格調の高い文体は感受性と描写力とを過不足なく兼備している。代表作は生の危機に直面する主人公の行動と心理,感情の動きを追った唯一の長編『暗夜行路』 (21~37) であるが,本質はむしろ短編作家としてすぐれ,『清兵衛と瓢箪』 (13) ,『山科の記憶』 (26) ,『邦子』 (27) ,『灰色の月』 (46) などの傑作を残した。芸術院会員。 49年文化勲章受章。



楽天市場検索: