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(内容を「 '''武士'''(ぶし) 武技専業者をさし,古くは「もののふ」と同義であったが,歴史的概念としては,10~11世紀頃,律令社会...」で置換)
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'''武士'''(ぶし)は、[[10世紀]]から[[19世紀]]にかけての[[日本]]に存在した、[[宗家]]の主人を頂点とした[[家族]][[共同体]]の成員である。{{要出典|「もののふ」(''cf.'' [[wikt:もののふ|wikt]]) とも読み倣わすが、その起源については[[大伴氏]]や[[物部氏]]の名に求める|date=2018年7月}}など諸説がある。
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'''武士'''(ぶし)
  
[[wikt:同義語|同義語]]として'''[[武者 (※本項へのリダイレクト暫定回避)|武者]]'''(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて[[戦闘員]]的もしくは[[修飾]]的ニュアンスが強い(用例:[[武者絵]]、武者[[修業]]、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、[[落武者]]など<ref group="*">さらには、「[[影武者]]」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。</ref>)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士<ref group="*">とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。</ref>はいるが、全ての武者は「武士」である。他に[[類義語]]として、'''[[侍]]'''、'''兵'''/'''兵者'''(つわもの)、'''武人'''(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は[[性別]]を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、[[女性]]の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って[[武者 (※本項へのリダイレクト暫定回避)#女武者|女武者]](おんなむしゃ)という呼び方をする<ref group="*">「女武士」や「[[]]武士」などという呼称は見られない。</ref>。
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武技専業者をさし,古くは「もののふ」と同義であったが,歴史的概念としては,10~11世紀頃,律令社会の弛緩によって自衛のため武装した地方豪族にその発生をみる。[[田堵]] (たと) [[名主]] (みょうしゅ) から成長した開発領主,[[国司]],在庁官人が土着して武士化した者などが主流をなしていた。初め家父長制的血縁関係で結ばれ,武士団を形成し,首長は[[棟梁]] (とうりょう) と呼ばれた。これらの地方武士は,次第に中央貴族の政治的勢力の維持強化や身辺警固に登用されるようになった。[[侍]] (さむらい) というのは貴族に伺候 (しこう) する者の意味であり,なかでも平氏と源氏が代表的なものであった。保元・平治の乱を経て,鎌倉時代には武家政権を樹立し,室町~安土桃山時代になると,その結合形態も血縁的結合から地縁的結合へと移行し,[[大名]]のもとに家臣団が形成されていった。江戸時代には[[士農工商]]の身分制度が確立し,武士階級は最上位にあった。明治維新後は士族に編入され,[[士族]][[平民]]との区別は第2次世界大戦終結まで存続した。
  
武士は[[平安時代]]に発生し、その[[軍事力]]をもって[[貴族#日本の貴族|貴族]]支配の社会を転覆せしめ、[[古代]]を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を[[傀儡政権|傀儡]]として維持したまま自らが実質的に主導する[[中世#日本|中世]]社会を構築した後は、[[近世#日本|近世]]の終わり([[幕末]])まで[[日本の歴史]]を牽引する中心的存在であり続けた。[[近代#アジア|近代]]に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府([[明治政府]])であった。
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{{テンプレート:20180815sk}}
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武士の概念は時代により微妙に変化しており、一言では言い表すには難しいが、各時代でも共通しているのは武装した私兵集団の構成員だという点である。ただし、武装した私兵集団が全て武士であるとは言えず、公的な[[軍事警察力]]の担い手としての社会的な公認がなければ武士と認められなかったこともまた、強調しなければならない。
 
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== 武士起源論 ==
 
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| caption1  = 侍の[[大鎧]]/[[東京国立博物館]]所蔵。
 
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| caption2  = 侍の[[変わり兜]]<br />17世紀、江戸時代の作。[[アメリカ合衆国|米国]]は[[ダラス]]にあるアン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館<ref group="*">Ann and Gabriel Barbier-Mueller Museum.[http://www.samuraicollection.org/Welcome.html].</ref>所蔵。
 
}}
 
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| header    = 描かれた武士
 
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| caption1  = 平安時代の武士、[[那須与一]]を描いた画/[[鳥取市]]の[[渡辺美術館]]所蔵。
 
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| caption2  = [[川中島の戦い]]([[天文 (日本)|天文]]22年[[[1553年]]])の様子が描かれた一図
 
}}
 
武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。
 
* 古典的な、[[開発領主]]に求める説(在地領主論)
 
* 近年提起された、[[職能]]に由来するという説(職能論)
 
* [[律令制]]下での[[国衙軍制]]に起源を求める説(国衙軍制論)
 
 
 
=== 在地領主論 ===
 
武士の起源に関する研究は[[中世]]の“発見”と密接に関わっている。[[明治]]時代の[[歴史学者]]・[[三浦周行]]らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米[[歴史学|史学]]では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ(当時)古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、[[ゲルマン民族の大移動]]によって辺境で発生した「武装した封建領主」である[[騎士]]によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」と、日本は近代化できると主張した。武士は[[私営田]]の[[開発領主]]であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」とする。
 
 
 
この学説は広く受け容れられ、戦後も学界の主流を占めることとなった。[[唯物史観]]の影響を受け、武士は古代支配階級である[[貴族]]や[[宗教]]勢力を排除し、中世をもたらした変革者として[[石母田正]]らによって位置づけられた。
 
 
 
=== 職能論 ===
 
しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、[[武士団]]の主要メンバーである[[源氏]]、[[平氏]]、[[藤原氏]]などを起源とする上級武士や[[朝廷]]、[[院]]など[[権門]]と密接に結びついた武士の起源を説明できない。
 
 
 
そこで、[[佐藤進一]]、[[上横手雅敬]]、[[戸田芳実]]、[[高橋昌明]]らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。
 
 
 
==== 武官と武士の違い ====
 
{{独自研究|section=1|date=2011年7月}}
 
武士は、一般に「家族共同体あるいは[[兵法家]]のこと」とされるが、これだけでは[[平安時代]]以前の[[律令制|律令]]体制下の「[[武官]]」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い[[征夷大将軍]]の[[坂上田村麻呂]]は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、[[中国]]や[[朝鮮]]の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は[[国風文化]]の成立期にあたる平安中期([[10世紀]])に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。
 
 
 
では、武官と武士の違いとは何か。
 
 
 
簡単に言えば、武官は「[[官人]]として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の[[公務員]]的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を[[朝廷]]や[[国府|国衙]]から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の[[家人#中世の家人|家人]]』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。
 
 
 
また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が[[歴史学]]において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する[[暴力団]]的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会では[[ヤクザ]]などの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。
 
 
 
[[軍事]](武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「[[家]]」に[[アウトソーシング]]していったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。
 
 
 
[[王朝国家]]体制では[[正四位|四位]]、[[正五位|五位]]どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を[[諸大夫]](しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える[[正六位|六位]]どまりの技能官人や家人を[[侍]](さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在[[京都|京]]の[[清和源氏]]や[[桓武平氏]]などの[[軍事貴族]]が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する[[受領]]が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る[[17世紀]]初頭の[[日葡辞書]]に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。
 
 
 
よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。
 
 
 
また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や[[郎党]]にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。
 
 
 
言わば、国家から[[免許]]を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。
 
 
 
なお、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を[[公卿]]クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、[[院政]]下で活躍した[[北面武士]]などもその名簿を参照すると、侍身分以外の[[僧侶]]・[[神官]]などが多数含まれていることでも分かる。
 
 
 
==== 「職能」武士の起源 ====
 
[[ファイル:Samurai with weapons - Kusakabe, Kimbei, 1841-1934.jpg|thumb|220px|[[武具]]を身に着けた侍<br />[[手彩色絵葉書|手彩色]]写真。元の写真は[[明治]]13年([[1880年]])頃の撮影。米国、[[スミソニアン協会本部|スミソニアン協会]]所蔵。]]
 
武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された[[地下人|下級貴族]](地下人)・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、[[清和源氏]]や[[桓武平氏]]のような[[皇室]]ゆかりの[[宗族]]出身の下級貴族が、武士団の上位にある[[武家の棟梁]]となった。
 
 
 
しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層の側であるとする見解が提唱されている。彼らが平安後期の[[荘園公領制]]成立期から、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったと見る説である。つまり武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったとする。そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、[[軍事貴族]](武家貴族)と呼ぶ。
 
 
 
平安時代、朝廷の地方支配が筆頭[[国司]]である[[受領]]に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪[[百姓]]層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領達は東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された[[蝦夷]]集団、すなわち[[俘囚]]を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。
 
 
 
それに替わって、俘囚を[[私兵]]として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも、[[宇多天皇]]と[[醍醐天皇]]が[[菅原道真]]や[[藤原時平]]らを登用して行った国政改革により、全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、[[大鎧]]と[[毛抜形太刀]]を身につけ[[長弓]]を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。
 
 
 
[[藤原秀郷]]・[[平高望]]・[[源経基]]らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層([[田堵]][[負名]])と同様に大規模な[[公田]]請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし、勲功への処遇の不満や、国衙側が彼らの新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、[[藤原純友]]や平高望の孫の[[平将門]]らによる反乱、[[承平天慶の乱]]であった。
 
 
 
この時点では、まだ、武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。しかし、[[11世紀]]半ばに[[荘園]]の一円化が進み、諸国の荘園[[公領]]間で武力紛争が頻発するようになると、荘園および公領である[[郡]]・[[郷]]・[[保]]の[[徴税]]、[[警察]]、[[裁判]]責任者としての荘園の[[荘官]]([[荘司]])や公領の[[郡司]]・[[郷司]]・[[保司]]に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。
 
 
 
==== 芸能の家としての武士 ====
 
[[ファイル:Samurai in 1880.jpg|thumb|220px|侍に[[変装|扮した]][[歌舞伎|歌舞伎役者]]<br />[[手彩色絵葉書|手彩色]]写真。元の写真は明治13年([[1880年]])頃の撮影。]]
 
武士は社会的[[身分]]であると同時に、武芸という[[芸能]]を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。つまり、[[ウマ|馬]]上の[[騎射|射術]]や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。
 
 
 
また、[[中世]]になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在した。「[[源氏]]」および「[[平氏]]」の諸流と[[藤原秀郷]]の子孫の「秀郷流」が特に有名である。これら以外では[[藤原利仁]]を始祖とする「利仁流」や、[[藤原道兼]]の後裔とする[[宇都宮氏]]が多く、他に[[嵯峨源氏]]の[[渡辺氏]]や[[大江広元]]が有名な[[大江氏]]などがあり、有力な[[武士団]]はこれらの家系のいずれかを起源としていた。[[先祖]]の武名によって自分の家が武士として認められていたため、彼らは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。ただし、この論は[[周防国|周防]]の有力武士、[[大内氏]]には当てはまらず、大内氏は[[百済王]]の子孫を自称している。
 
 
 
=== 国衙軍制論 ===
 
{{see also|国衙軍制}}
 
 
 
「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、[[下向井龍彦]]らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。(→[[国衙軍制]])
 
 
 
== 武士の身分 ==
 
[[ファイル:SaigoWithOfficers.jpg|thumb|220px|[[西南戦争]](明治10年[[[1877年]]])での武士の様子を描いた絵<!--絵の制作年との混同防ぐ--><br />[[フランス]]の絵入り[[週刊誌]]<ref>illustrated news magazine. cf. [[w:Newsmagazine|newsmagazine]].</ref>『ル・モンド・イリュストレ([[w:Le Monde Illustré|en]])』<ref>cf. 新聞([[夕刊紙]])『[[ル・モンド]]』</ref>の速報記事に「西南戦争における[[西郷隆盛]]とその将兵達」として掲載された[[挿絵]]。]]
 
「職能」起源論では、武士と見なされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」と見なされる階層が[[室町時代]]以降拡大していった。発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した[[郎党]]や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の格差が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の[[名主]]層から軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士としての[[地侍]]などが登場する。
 
 
 
このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。
 
 
 
江戸時代の武士の身分を以下に大雑把に分類する。細かく分ければきりが無く、[[大名]]家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。
 
 
 
武士の身分を「[[士分]]」といい、士分は、大きく「[[侍]]」と「[[徒士]](かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。
 
 
 
「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領([[知行]])を持ち、戦のときは馬に乗る者で「[[御目見え]]」の資格を持つ。江戸時代の記録には'''騎士'''と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。「徒士」は[[扶持]]米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。
 
 
 
「侍」の内、1000石程度以上の者は[[大身]](たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは[[備]]の[[侍大将]]となり、平時は[[奉行]]職等を歴任し、抜擢されて[[側用人]]や[[仕置き家老]]となることもある。それ以下の「侍」は[[平侍]](ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。
 
 
 
以下、特定の呼び名のものを挙げる。
 
[[ファイル:Samurai.jpg|thumb|right|220px|町を行く江戸時代の武士たち<br />左から2人目と4人目が武士。[[山東京伝]]の風俗書『四時交加』([[1798年]]刊)内の[[挿絵]]。]]
 
[[ファイル:FukuzawaYukichi.jpg|thumb|right|160px|[[福沢諭吉]]<br />[[文久]]2年([[1862年]])、フランスはパリの[[国立自然史博物館 (フランス)|国立自然史博物館]]にて撮影。[[東京大学史料編纂所]]所蔵。]]
 
[[ファイル:Dog - Hata Rokurozaemon with his dog.jpg|thumb|right|160px|[[歌川国芳]]『武勇見立十二支 畑六良左エ門』<br />[[薙刀]]を身に着けた[[畑時能]]と犬「犬獅子」『[[太平記]]』による<ref>[http://www.oidenense.net/stories/hata/ 勝山物語(畑時能物語)]</ref>。]]
 
{{Wikiquote|武士}}
 
 
 
* [[幕府]]の[[旗本]]は「侍」、[[御家人]]は「徒士」である。
 
* 幕府の役所の下役で一代限り雇用名目の者達のうち、[[与力]]は本来は寄騎、つまり戦のたびに臨時の主従関係を結ぶ武士に由来する騎馬戦士身分で「侍」、[[同心]]は「徒士」である。
 
* [[代官]]所の下役である手付は「侍」、手代は「徒士」である。
 
* [[郷士]]は郷に住む武士で、多くは「徒士」身分であるが、「侍」身分の者もいる。
 
* [[足軽]]は士分(武士)には入らない。「卒」と呼ぶ。発生期の武士の戦闘補助を行った従卒と同一の階層とみなされたわけである。但し、時代が下ると共に徒士と同じ下級武士として待遇されていった。
 
* [[武家奉公人]]の内、若党は士分で「徒士」身分である。
 
* お抱えは、一代限りの雇用の者だが、実際は世襲することも多く、軽輩の者が多いなかで、専門職で侍身分の者もいた。足軽、武家奉公人の他、江戸町奉行所の与力、同心、代官所の手代など。学者、医者等もお抱え雇用されることが多かった。
 
 
 
== 公権力の担い手 ==
 
武士は当初、「侍」に象徴されるように[[天皇]]・[[貴族]]の[[警護]]や紛争の鎮圧を任とする階層であったが、[[平清盛]]の[[平氏政権]]を経て[[鎌倉幕府]]の成立に至り、旧来の支配権力である[[朝廷]]・[[国司]]・[[荘園]]に対して全国の政治権力を担う公権力に発展した。また、個々人の武士が国司・荘園領主として地方の政務を担う局面も拡大していった。
 
 
 
== 文官としての武士 ==
 
初の武家政権である[[鎌倉幕府]]においては、[[大江広元]]に代表される下級貴族を、文官的存在として招聘した。
 
 
 
[[室町時代]]・[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]と、次第に武士が公権力を担う領域は拡大し続けた。貴族を武家政権が招聘する例は続いたものの、実務を担う立場から顧問的な立場へと権限は縮小していった。そして元来軍人・「武官」に相当する職務であった武士が「[[文官]]」として働くことが多くなった。
 
 
 
[[江戸時代]]以降は社会の全てを覆うようになり、幕府においても僧侶を顧問的立場として招聘する場合はあったが、貴族(公家)は政権から締め出された。これにより文官的な役目も全て武士が担うようになり、江戸時代以降の武士は、軍事から政治行政等へと活躍の場を移っていくことになる。また文芸や学問など、武芸とは関係無い才能を認められて新たに幕府や藩に登用された者も、武士としての身分が与えられた。このようなところにも、武士と武官の違いが現れているといえよう。[[江戸幕府]]においては文官及び行政担当に相当する武士を「役方」、武官に相当する武士を「番方」と呼んだ。
 
 
 
== 武士道 ==
 
{{main|武士道}}
 
戦国の武士の気風を受け継ぎ[[殉死]]などを行なう[[かぶき者|傾奇者]]を公秩序維持のため[[徳川家綱]]の代に禁止した。その後江戸時代では、義を重んじる武士としての思想が存在するようになる。このため、後世において[[武士道]]という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。
 
 
 
しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。そうした武士の一人、[[佐賀藩]]士・[[山本常朝]]が話した内容が『[[葉隠]]』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。
 
 
 
幕末の[[万延]]元年([[1860年]])、[[山岡鉄舟]]が『武士道』を著した。それによると「''神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ''」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。
 
 
 
=== 武士道と近代の意識 ===
 
[[明治]]になり、武士の多くは[[士族]]となり、旧武士の身分は消滅した。しかし後に[[武士道]]という概念が後の時代に引き継がれるようになった。また一方で、[[美学]]として[[文学]]や[[芸能]]の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。
 
 
 
== 武者に関する用語 ==
 
=== 武者に関する言葉など ===
 
* [[武者絵]] :武者の姿や合戦を描いた[[浮世絵]]。一般的な広義では、同様の伝統的様式に則った[[日本画]]全般。
 
* 武者押し :武者が隊列を組んで進んでいくこと。
 
* 武者返し :[[武家屋敷]]で、[[長屋|表長屋]]の外溝の縁に一歩置きに立てた石。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="*"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2012年6月}}
 
* 下向井龍彦 『武士の成長と院政』 [[講談社]]、2001年。ISBN 4062689073。
 
* 高橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 [[東京大学出版会]]。ISBN 4130201220。
 
* [[石井進 (歴史学者)|石井進]]著作集刊行会編 『石井進著作集 - 5鎌倉武士の実像』 [[岩波書店]]。ISBN 400092625X。
 
* 石井進 『鎌倉武士の実像』[[平凡社]]、2002年。ISBN 4582764495。
 
* 野口実 『武家の棟梁の条件―中世武士を見なおす』 [[中公新書]] [[中央公論社]] 1994年。ISBN 4121012178。
 
* 進士慶幹編 『江戸時代 武士の生活』生活史叢書1 [[雄山閣]]、1980年。
 
* [[笹間良彦]] 『下級武士足軽の生活』生活史叢書17 雄山閣 1991年。
 
* 武士生活研究会 『絵図でさぐる武士の生活』(全3巻)[[柏書房]]  ISBN 4760101705、ISBN 4760101713、ISBN 4760101721。
 
* 武士生活研究会 『図録 近世武士生活史入門事典』 柏書房、1991年。ISBN 4760106049。
 
* 柴田純 『江戸武士の日常生活―素顔・行動・精神』 講談社、2000年。ISBN 4062581965。
 
* 中江克己 『お江戸の武士の意外な生活事情―衣食住から趣味・仕事まで』 [[PHP研究所]]〈PHP文庫〉、2005年。ISBN 4569663966。
 
* [[八幡和郎]]、臼井喜法 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた 誰も知らないホントの姿』 [[ベストセラーズ]]〈ベスト新書 92〉、2005年。ISBN 4584120927。
 
* [[磯田道史]] 『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新』 [[新潮社]]〈[[新潮新書]]〉、2003年。ISBN 4106100053。
 
* [[石母田正]] 『中世的世界の形成』 岩波書店、1985年。ISBN 4003343611。
 
* [[竹内理三]] 『武士の登場』日本の歴史(6) 中央公論新社。ISBN 4122044383。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
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{{Commonscat|Samurai|武士および侍}}
 
* [[侍]] / [[軍事貴族]] / [[武士団]] / [[豪族]] これらは時期により呼称が異なっている。例として古代の豪族は中世以降には使われることが少ない。
 
* [[武蔵七党]]
 
* [[武家]] / [[武家の棟梁]] / [[武家政権]] / [[幕府]]
 
* [[鎮守府将軍]] / [[征夷大将軍]]
 
* [[鎌倉殿]] / [[室町殿]]
 
* [[守護大名]] / [[戦国大名]] / [[大名]]
 
* [[御家人]] / [[守護]] / [[地頭]]
 
* [[国人]] / [[地侍]]
 
* [[主君]] / [[家臣]]
 
* [[浪人]] / [[士族]]
 
* [[寺侍]]
 
* [[武士道]]
 
* [[見聞諸家紋]]
 
* [[源氏]] - [[嵯峨源氏]]、[[清和源氏]]([[摂津源氏]] - [[大和源氏]] - [[河内源氏]])
 
* [[平氏]] - [[桓武平氏]]([[板東平氏]] - [[伊勢平氏]])
 
* [[藤原秀郷|秀郷流藤原氏]] - 道兼流藤原氏([[宇都宮氏]])
 
* [[橘氏]]
 
* [[物部氏]]
 
* [[大伴氏]]
 
* [[大江氏]]
 
* [[国風文化]]
 
* [[王朝国家]]
 
* [[摂関政治]] / [[院政]]
 
* [[中世#日本|中世]]
 
* [[国衙軍制]]
 
* [[騎士]]
 
* [[騎士道]]
 
**西洋の騎士道は武士道と対比される。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_34.html 武士の発生と成立-下向井龍彦氏の「兵=武士」]
 
* [http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35.html 武士の発生と成立-髙橋昌明氏の「武士の成立 武士像の創出」]
 
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武士(ぶし)

武技専業者をさし,古くは「もののふ」と同義であったが,歴史的概念としては,10~11世紀頃,律令社会の弛緩によって自衛のため武装した地方豪族にその発生をみる。田堵 (たと) ,名主 (みょうしゅ) から成長した開発領主,国司,在庁官人が土着して武士化した者などが主流をなしていた。初め家父長制的血縁関係で結ばれ,武士団を形成し,首長は棟梁 (とうりょう) と呼ばれた。これらの地方武士は,次第に中央貴族の政治的勢力の維持強化や身辺警固に登用されるようになった。 (さむらい) というのは貴族に伺候 (しこう) する者の意味であり,なかでも平氏と源氏が代表的なものであった。保元・平治の乱を経て,鎌倉時代には武家政権を樹立し,室町~安土桃山時代になると,その結合形態も血縁的結合から地縁的結合へと移行し,大名のもとに家臣団が形成されていった。江戸時代には士農工商の身分制度が確立し,武士階級は最上位にあった。明治維新後は士族に編入され,士族平民との区別は第2次世界大戦終結まで存続した。



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