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{{日本の城郭概要表
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[[ファイル:犬山城.愛知県犬山市.jpg|サムネイル]]
|name = 犬山城
+
'''犬山城'''(いぬやまじょう)
|pref = 愛知県
 
|img = ファイル:Castle in Inuyama.JPG
 
|img_capt = 天守(国宝)
 
|img_width = 275px
 
|ar_called = 白帝城
 
|struct = [[平山城]]
 
|tower_struct = 複合式望楼型 3層4階地下2階(1620年改)
 
|builders = 織田広近
 
|build_y = [[1469年]](文明元年)
 
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|rulers = [[織田氏]]、[[豊臣氏]]、[[石川氏]]、[[平岩氏]]、[[成瀬氏]]
 
|reject_y = [[1871年]](明治4年)
 
|remains = [[現存天守]]、石垣、土塁
 
|cultural asset = 国宝(天守)<br>国の[[史跡]]
 
|rebuilding things = 櫓、門(模擬)
 
|location = {{coord|35|23|17.96|N|136|56|21.34|E|region:JP-23_type:landmark_scale:10000|display=inline,title}}
 
|地図 = Japan Aichi
 
|ラベル位置 = bottom
 
|ラベル=犬山城
 
|アイコン=日本の城跡
 
}}
 
[[File:Inuyamajo1.JPG|thumbnail|230px|[[花見]]の季節の犬山城]]
 
[[File:Inuyama Castle and Kiso River.JPG|thumbnail|230px|東側から望む犬山城遠景]]
 
[[File:Inuyamamatsuri1.jpg|thumbnail|230px|犬山城と[[山車]]]]
 
[[File:Inuyama Castle from Inuyama Bridge.JPG|thumbnail|230px|[[木曽川]]の犬山橋から望む犬山城]]
 
[[File:Daishouji2.JPG|thumbnail|230px|[[成田山名古屋別院大聖寺]]から望む犬山城遠景]]
 
  
'''犬山城'''(いぬやまじょう)は、[[愛知県]][[犬山市]]にあった[[日本の城]]である。現在は[[天守]]のみが現存し、[[江戸時代]]までに建造された「[[現存天守]]12城」のひとつである。また天守が[[国宝]]指定された5城のうちの一つである(他は[[姫路城]]、[[松本城]]、[[彦根城]]、[[松江城]])。[[城跡]]は「犬山城跡」として、国の[[史跡]]に指定されている<ref>[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1397922.html 史跡等の指定等について](文化庁報道発表、2017年11月17日)。</ref><ref>平成30年2月13日文部科学省告示第23号。</ref>。
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愛知県犬山市,木曾川南岸に屹立する[[平山城]]。白帝城ともいう。草創期のものは市の南方木下村にあり,木下城と称し,文明年間 (1469~87) 管領斯波義郷の家臣織田郷広が砦を設け,その子広近に守らせたが,[[斯波氏]]衰亡ののち,[[織田氏]]の支配下に入った。天文6 (1537) 年織田信康が城を現位置に移し,信長のとき柘植与一,次いで池田信輝に与えたが,天正 10 (1582) 年本能寺の変後その子[[織田信雄]]の領有となり,その家臣中川定成が城主として在城,[[小牧・長久手の戦い]]ののち,天正 13 (1585) 年武田清俊,次いで天正 15 (1587) 年土方勘兵衛に与えられた。信雄配流ののち,[[豊臣秀次]]の領有となり,天正 18 (1590) 年その実父長尾常閑が城主となる。文禄1 (1592) 年秀次の臣三輪出羽守の手に移り,文禄4 (1595) 年秀次自刃ののち城主は石川貞清 (光吉) に代わる。『金山記大成』には貞清が慶長4 (1599) 年森氏の居城金山城 (岐阜県可児市) の古材を木曾川の流れに乗せて運搬して天守を築いたとみえるが,1964年の解体修理の結果,天守下層は織田信康の頃,上層は慶長5 (1600) 年清洲城主松平忠吉の家臣小笠原吉次により増築されたもので,金山城の古材も石川氏でなく小笠原氏により運搬され,天守以外の櫓 (やぐら) や城門に用いられたことが明らかにされた。天守外観は3層であるが,内部は5階。高さは南側地上より 83尺 (25m) 余。唐破風,千鳥破風を備え,軽快,洒脱のふうがある。慶長 12 (1607) 年小笠原氏が佐倉へ移封後,清洲はのちの尾張藩主[[徳川義直]]に与えられ,犬山城にはその家臣[[平岩親吉]]が入ったが,慶長 16 (1611) 年平岩氏に嗣子がなく断絶。しばらくは城主がなく,元和2 (1616) 年以後尾張徳川家付家老成瀬正成とその子孫が在城して明治にいたる。現存天守建築のなかで最古の遺構で,1935年国宝指定,第2次世界大戦後も再指定。
 
 
== 概要 ==
 
[[尾張国]]と[[美濃国]]の境にあり、[[木曽川]]沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた[[平山城]]である。別名の'''白帝城'''は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを[[長江]]流域の丘上にある[[白帝城]]を詠った[[李白]]の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで[[荻生徂徠]]が命名したと伝えられる。
 
 
 
前身となる[[織田氏|岩倉織田氏]]の砦を[[織田信長]]の叔父・[[織田信康]]が改修して築いた城であり、その後、[[池田恒興]]や[[織田勝長]]が入城、[[豊臣政権]]の時に[[石川貞清]](光吉)が改修し現在のような形となった。また、[[小牧・長久手の戦い]]や[[関ヶ原の戦い]]における西軍の重要拠点となった。
 
 
 
[[江戸時代]]には[[尾張藩]]の[[付家老]]の[[平岩親吉]]が入城し、[[成瀬正成]]以来、成瀬氏9代が[[明治]]まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については[[天文 (元号)|天文]]期説、[[慶長]]期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)ごろである。[[2004年]]([[平成]]16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月1日付けで設立された[[財団法人]]犬山城白帝文庫(現在は[[公益財団法人]])に移管されている。[[2006年]](平成18年)4月6日には、[[日本100名城]](43番)に選定された。
 
 
 
== 歴史・年表 ==
 
=== 室町時代 ===
 
* [[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]]) - '''犬山城の[[築城]]'''/[[応仁の乱]]の最中に [[織田氏|岩倉織田氏当主]]の[[織田敏広]]の弟・[[織田広近]]がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
 
* 文明7年11月([[1475年]]12月<ref group="*">[[和暦]]の文明7年11月1日と11月29日(最終日)は、[[西暦]]([[ユリウス暦]])換算すると、1475年の11月29日と12月27日。</ref>) - 織田敏広は京都から西軍の[[斯波義廉]]と共に尾張に帰還し、東軍の斯波義敏、織田敏定([[織田氏|清洲織田氏]])との戦いを優勢に進めたが、[[1497年]](明応5年)に同盟関係にあった美濃守護代の[[斎藤妙純]]が近江で戦死したため、岩倉織田氏の勢力は衰退した。
 
* [[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]]) - [[清洲三奉行]]の[[織田信秀]]の弟・[[織田信康]]は居城の[[木ノ下城]]を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。
 
* 天文13年([[1544年]]) - 織田信康が[[斎藤道三]]との戦い([[加納口の戦い]])で戦死し、子の[[織田信清]]が城主となった。
 
* [[永禄]]7年([[1564年]]) - 織田信清は[[織田信長]]と対立して敗れ、甲斐に逃れた。
 
* 以後、[[池田恒興]]や[[織田勝長]]などが城主を務めた。
 
 
 
=== 安土桃山時代 ===
 
* [[天正]]10年([[1582年]]) - [[本能寺の変]]後、尾張国を領有した[[織田信雄]]配下の[[中川定成]]が城主となった。
 
* 天正12年([[1584年]]) - [[小牧・長久手の戦い]]では、信雄方と見られていた[[大垣城]]主・[[池田恒興]]が突如奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これにより、犬山城は尾張国における西軍の[[橋頭堡]]となり、さらに[[羽柴秀吉]]は本陣を敷いて[[小牧山城]]の[[徳川家康]]と対峙した。
 
* 天正15年([[1587年]]) - 織田信雄に返還された。
 
* 天正18年([[1590年]]) - 織田信雄が改易されると[[豊臣秀次]]の領地となり、その実父の[[三好吉房]]が城代を務めた。
 
* [[文禄]]4年([[1596年]]) - 豊臣秀次が切腹すると、[[石川貞清]]が城主となった。貞清は城の改築を行ない、この際の建築用材は美濃[[兼山城|金山城]]の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承があったが、[[1961年]]([[昭和]]36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定された。
 
* [[慶長]]5年([[1600年]]) - [[関ヶ原の戦い]]では[[岐阜城]]、[[竹鼻城]]などと共に西軍の拠点となり、[[稲葉貞通]]、[[稲葉方通]]、[[加藤貞泰]]、[[関一政]]、[[竹中重門]]らが附属されたが、岐阜城が落城すると石川貞清を残して東軍に移った。一方の石川貞清は犬山城を放棄し関ヶ原に参陣し敗北したが、東軍についた木曽衆の[[山村良候]]らを犬山城で解放したことが評価され助命された。
 
* 慶長6年([[1601年]]) - [[小笠原吉次]]が城主となる。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
* 慶長12年([[1607年]]) - [[平岩親吉]]が城主となる。
 
* [[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]]) - 親吉没後6年間親吉甥の吉範が城主を務めたのち、[[尾張藩]][[付家老]]の[[成瀬正成]]が城主になり、天守に[[破風|唐破風出窓]]が増築される。以後[[江戸時代]]を通じて[[成瀬氏|成瀬家]]9代の居城となった。
 
* 元和6年([[1620年]]) - [[天守]]の大改修。
 
 
 
=== 明治時代 ===
 
* [[明治元年]]([[新暦]]換算:[[1868年]]/[[1869年]]) - 犬山城の松ノ丸本丸門が、浄蓮寺([[一宮市]][[千秋町]]穂積塚本郷内に所在)に払い下げられ、移築されて[[山門]]として再利用される。''cf.'' 「[[#天守以外の遺構|天守以外の遺構]]」節
 
* [[明治4年]][[7月14日 (旧暦)|7月14日]](新暦換算:[[1871年]][[8月29日]]) - '''犬山城の[[廃城]]'''/この日、全国で[[廃藩置県]]が断行される。これに前後して全国各地の城郭の多くは廃城・破却処分となっていったが、犬山城も例外とはならず、[[天守]]を除いて[[櫓]]・[[城門]]などほとんどが取り壊されてゆく。
 
* [[1876年]](明治9年) - 犬山城から払い下げられた各所の城門が、複数箇所の寺院に移築され、山門などとして再利用される。
 
* [[1891年]](明治24年)[[10月28日]] - [[濃尾地方]]で[[濃尾地震]]が発生し、犬山城では天守の東南角の付櫓が壊れる。
 
* [[1895年]](明治28年) - 犬山城が、[[愛知県]]から旧[[犬山藩]]主・[[成瀬正肥]]へ、条件付き無償[[譲渡]]される/条件は修復等であった。
 
 
 
=== 大正時代 ===
 
* 特になし
 
 
 
=== 昭和時代 ===
 
[[File:Inuyamajo-kokuho.jpg|thumbnail|230px|犬山城の国宝指定書]]
 
* [[1935年]]([[昭和]]10年) - 犬山城天守が、当時の[[国宝保存法]]に基づき、当時の国宝([[旧国宝]]。現法制下では重要文化財に相当)に指定される。
 
* [[1940年]](昭和15年)[[5月3日]] - 「短刀 銘左安吉作 正平十二年二月日」が、国の[[重要文化財]]に指定。''cf.'' 「[[#犬山城白帝文庫歴史文化館の文化財|犬山城白帝文庫歴史文化館の文化財]]」節
 
* [[1952年]](昭和27年)[[3月29日]] - 犬山城天守が、[[文化財保護法]]に基づき、改めて[[国宝]](新国宝。現法制下の国宝)に指定される。※右列に関連画像あり。
 
* [[1959年]](昭和34年)[[9月27日]] - [[伊勢湾台風]]が当地を直撃し、犬山城も大きな被害を受ける。
 
* [[1961年]](昭和36年) - 犬山城の解体修理が始まる/[[1965年]](昭和40年)に完了。
 
 
 
=== 平成時代 ===
 
{{Double image stack|right|Inuyamajyou2014.jpg|犬山城修理.jpg|230|天守の部分修理(2014年)|天守の部分修理(2018年)/損壊した鯱を取り替えるために組まれた足場。}}
 
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]] - 犬山城の所有者が個人から法人に変わる/犬山城は[[成瀬氏|成瀬家]]([[犬山藩|犬山]]成瀬家)の[[当主]]が[[城主]]として[[個人]]所有する物件(現代的価値では[[文化財]])であったが、係る所有形態では保持に大変な困難を伴うことから、犬山成瀬家は個人所有を断念し、一族の中から城主に選ばれた成瀬淳子(犬山成瀬家第13代[[当主]]・[[成瀬正浩]]の妹)が、この日、[[財団法人]]犬山城白帝文庫を設立して[[理事長]]に就任し、この時をもって犬山城は[[法人]]所有となった<ref>「日本美術観光団」朝日新聞社、2004年</ref>。
 
* [[2006年]](平成18年)[[4月6日]] - 犬山城が、[[日本城郭協会]]主催の「[[日本100名城]]」に選定される。
 
* [[2014年]](平成26年) - 天守の部分修理が行われる/※右列に関連画像あり。
 
* [[2015年]](平成25年)4月1日 - [[財団法人]]犬山城白帝文庫が、[[公益財団法人]]犬山城白帝文庫へ移行。
 
* [[2017年]](平成29年)
 
** [[7月12日]] - 天守の[[鯱]]の損壊が判明/当日の[[落雷]]が原因と考えられる。明くる[[2018年]](平成30年)[[2月26日]]に完了。※「[[#天守|天守]]」節にて詳説する。※右列に関連画像あり。
 
* [[2018年]](平成30年)
 
** [[2月13日]] - 犬山[[城跡]]が国の[[史跡]]に指定される。<ref>平成30年文部科学省告示第23号</ref>
 
 
 
== 歴代城主 ==
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! style="width:2%; background-color:#d3a243" | 累代 !! style="width:8%; background-color:#f5e56b" | 人名 !! style="width:20%; background-color:#d3a243" | 在位期間 !! style="width:10%; background-color:#f5e56b" | 備考
 
|-
 
| <center>1 || <center>[[織田信康]] || [[天文 (日本)|天文]]6年 - 天文16年([[西暦]]換算:[[1537年]] - [[1547年]]) || <small>今に伝わる犬山城の[[築城]]主
 
|-
 
| <center>2 || <center>[[織田信清]] || 天文16年 - [[永禄]]7年(西暦換算:1547年 - [[1564年]])
 
|-
 
| <center>3 || <center>[[池田恒興]] || [[元亀]]元年 - [[天正]]9年(西暦換算:[[1570年]] - [[1581年]])
 
|-
 
| <center>4 || <center>[[織田勝長]] || 天正9年 - 天正10年(西暦換算:1581年 - [[1582年]])
 
|-
 
| <center>5 || <center>[[中川定成]] || 天正10年 - 天正12年(西暦換算:1582年 - [[1584年]])
 
|-
 
| <center>6 || <center>[[池田恒興]] || 天正12年(西暦換算:1584年)
 
|-
 
| <center>7 || <center>[[加藤泰景]] || 天正12年(西暦換算:1584年)
 
|-
 
| <center>8 || <center>[[武田清利]] || 天正12年 - 天正15年(西暦換算:1584年 - [[1587年]])
 
|-
 
| <center>- || <center>([[城代]])[[土方雄良]] || 天正15年 - 天正18年(西暦換算:1587年 - [[1590年]]) || <small>※累代に含む考えもあり
 
|-
 
| <center>- || <center>[[三好吉房]] || 天正18年 - [[文禄]]元年(西暦換算:1590年 - [[1592年]])|| <small>1591年から[[豊臣秀勝]]?
 
|-
 
| <center>9 || <center>(城代)[[三輪吉高]] || 文禄元年 - 文禄4年(西暦換算:1592年 - [[1595年]])
 
|-
 
| <center>10 || <center>[[石川貞清]] || 文禄4年 - [[慶長]]5年(西暦換算:1595年 - [[1600年]])
 
|-
 
| <center>11 || <center>[[小笠原吉次]] || 慶長5年 - 慶長12年(西暦換算:1600年 - [[1607年]])
 
|-
 
| <center>12 || <center>[[平岩親吉]] || 慶長12年 - 慶長17年(西暦換算:1607年 - [[1612年]]) || <small>末裔に[[大相撲]]元[[大関]]で7代目[[伊勢ヶ濱]]親方の[[清國勝雄]]の夫人がいる。
 
|-
 
| <center>13 || <center>[[成瀬正成]] || [[元和 (日本)|元和]]3年 - [[寛永]]2年(西暦換算:[[1617年]] - [[1625年]]) || <small>[[犬山藩|犬山]][[成瀬氏|成瀬家]] 初代[[当主]]。犬山藩初代藩主。
 
|-
 
| <center>14 || <center>[[成瀬正虎]] || 寛永2年 - [[万治]]2年(西暦換算:1625年 - [[1659年]]) || <small>犬山成瀬家 第2代当主
 
|-
 
| <center>15 || <center>[[成瀬正親]] || 万治2年 - [[元禄]]16年(西暦換算:1659年 - [[1703年]]) || <small>犬山成瀬家 第3代当主
 
|-
 
| <center>16 || <center>[[成瀬正幸]] || 元禄16年 - [[享保]]17年(西暦換算:1703年 - [[1732年]]) || <small>犬山成瀬家 第4代当主
 
|-
 
| <center>17 || <center>[[成瀬正泰]] || 享保17年 - [[明和]]5年(西暦換算:1732年 - [[1768年]]) || <small>犬山成瀬家 第5代当主
 
|-
 
| <center>18 || <center>[[成瀬正典]] || 明和5年 - [[文化 (元号)|文化]]6年(西暦換算:1768年 - [[1809年]]) || <small>犬山成瀬家 第6代当主
 
|-
 
| <center>19 || <center>[[成瀬正寿]] || 文化6年 - [[天保]]9年(西暦換算:1809年 - [[1838年]]) || <small>犬山成瀬家 第7代当主
 
|-
 
| <center>20 || <center>[[成瀬正住]] || 天保9年 - [[安政]]4年(西暦換算:1838年 - [[1857年]]) || <small>犬山成瀬家 第8代当主
 
|-
 
| <center>21 || <center>[[成瀬正肥]] || 安政4年 - [[明治2年]](西暦換算:1857年 - [[1869年]]/[[1870年]])<br /><br />[[明治]]28年 - 明治36年(西暦:[[1895年]] - [[1903年]]) || <small>犬山成瀬家 第9代当主。[[犬山藩]]最後の藩主。[[廃城]]処分によっていったん[[城主]]でなくなったが、廃城後の所有者であった[[県]]<ref group="*">廃城処分時の所有者は[[犬山藩]]であったが、間もなく犬山藩は犬山県に置き換えられ、犬山県はさらに[[名古屋県]]へと変わった。その後は名古屋県を前身とする[[愛知県]]が所有者であった。</ref>から無償譲渡されて再び城主となった。
 
|-
 
| <center>22 || <center>[[成瀬正雄]] || 明治36年 - [[昭和]]24年(西暦:1903年 - [[1949年]]) || <small>犬山成瀬家 第10代当主
 
|-
 
| <center>23 || <center>[[成瀬正勝]] || 昭和24年 - 昭和48年(西暦:1949年 - [[1973年]]) || <small>犬山成瀬家 第11代当主
 
|-
 
| <center>24 || <center>[[成瀬正俊]] || 昭和48年 - [[平成]]16年(西暦:1973年 - [[2004年]]) || <small>犬山成瀬家 第12代当主
 
|-
 
| <center>25 || <center>成瀬淳子 || 平成16年(西暦:2004年) || <small>犬山成瀬家 第13代当主・[[成瀬正浩]]の妹で、最後の城主となり、[[個人]]所有から[[法人]]所有への移管を行った。
 
|}
 
 
 
== 天守 ==
 
[[File:Inuyama Castle,犬山城 - panoramio - z tanuki (1).jpg|thumbnail|600px|<center>犬山城天守(正面)と周辺(パノラマ)]]
 
{{Double image aside|right|Inuyama castle 犬山城 (2200078690).jpg|210|Inuyama castle 犬山城 (2199284737).jpg|210|<center>犬山城天守}}
 
[[File:Inuyama-jo Castle - panoramio (2).jpg|thumbnail|170px|犬山城天守(東面)]]
 
 
 
犬山城の[[天守]]は、外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。窓は[[突上窓]]と[[火灯窓]]、両開き窓なと、地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。天守台[[石垣]]は[[石垣の積み方|野面積]]という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。
 
 
 
[[1935年]]([[昭和]]10年)[[5月13日]]、当時の[[国宝保存法]]に基づき旧国宝([[文化財保護法]]における[[重要文化財]]に相当)に指定<ref>昭和10年文部省告示第194号</ref>。[[1952年]](昭和27年)[[3月29日]]付けで文化財保護法に基づく[[国宝]](新国宝)に指定された。指定に係る告示は1952年(昭和27年)10月16日付けの官報に掲載され、指定名称は「犬山城天守 1棟」。構造・形式は「三重四階、地下二階付、本[[瓦葺]]、南面及び西面附櫓、各一重、本瓦葺」とある<ref>昭和27年文化財保護委員会告示第21号</ref>。所有者は[[公益財団法人]]犬山城白帝文庫。[[犬山市]]が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている<ref>昭和40年文化財保護委員会告示第48号</ref>。
 
 
 
* 1階:納戸の間、東西9間・南北8間。床面積は282.752平方メートル。
 
* 2階:武具の間、東西9間・南北8間。床面積は246.006平方メートル。
 
* 3階:破風の間、東西3間・南北4間。床面積は81.936平方メートル。
 
* 4階:高欄の間、東西3間・南北4間。床面積は49.835平方メートル。
 
 
 
[[1961年]](昭和36年)から[[1965年]](昭和40年)に行われた犬山城天守の解体修理と古文献等によって、この天守は下の2重2階の主屋が[[1537年]]([[天文 (元号)|天文]]6年)<ref>土屋純一 城戸久「尾張犬山城天守建築考」社団法人日本建築学会『建築学会大会論文集』昭和12年(1937年)3月 </ref> または、[[1601年]](慶長6年)に建てられ、[[1620年]]([[元和 (日本)|元和]]6年)頃に3、4階を増築。その後唐破風の付加などが行われて現在の姿になったと考えられている<ref>西和夫「犬山城天守の創建年代について」社団法人日本建築学会『日本建築学会論文報告集』第261号 昭和51年(1976年)11月</ref>。
 
成瀬家7代の当主正壽が[[カピタン|オランダ商館長]]と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現された。
 
 
 
[[2017年]]([[平成]]29年)[[7月12日]]16時過ぎ、[[鯱]]が胴体から尾にかけて大きく破損しているのが見つかった。天守の北側にある[[避雷針]]が曲がっており、この日は午後から[[雷雨]]が降っていたため、犬山市は[[落雷]]が原因とみている<ref>{{Cite news|title=国宝・犬山城の「しゃちほこ」が破損 落雷か|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170712/k10011056071000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002|newspaper=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会]]|date=2017-07-12|accessdate=2017-07-12|archiveurl=http://archive.is/kh8kG|archivedate=2017-07-12}}</ref>。鯱は[[瓦]]製で作り直されて、2018年2月26日に天守へ設置<ref>「しゃちほこ 帰ってきた 犬山城」『[[読売新聞]]』朝刊2018年2月27日(社会面)。</ref>。同年3月17日に記念式典が開かれた<ref>[http://www.sankei.com/west/news/180317/wst1803170044-n1.html 犬山城の新しゃちほこ、取り付け祝い式典 高さ1.3メートル 重さ62キロ]『産経新聞』ニュース(2018年3月17日)2018年3月17日閲覧。</ref>。
 
 
 
== 遺構・文化財 ==
 
=== 天守以外の遺構 ===
 
[[File:Tokurin-ji.jpg|thumbnail|left|190px|犬山城第一黒門が移築された[[徳林寺 (大口町)|徳林寺]]山門]]
 
 
 
犬山城を構成していた建造物の多くは、[[廃藩置県]]に伴う[[廃城]]処分が下る前後の時期に払い下げられて破却されたり移築されたりしたが、それらのいくつかは現存している。松ノ丸本丸門は、[[明治元年]]([[1868年]]/[[1869年]])、浄蓮寺([[一宮市]][[千秋村 (愛知県丹羽郡)|千秋町]][[青木村 (愛知県)|穂積塚]]本郷内に所在)に移築され、[[山門]]として再利用された。同年、どこの門であったかは不明ながら旧城門と伝わる門が運善寺([[一宮市]][[浅井町 (愛知県)|浅井町]]大日比野に所在)に移築され、山門として再利用された。この門は[[1891年]](明治24年)に発生した[[濃尾地震]]で倒壊した後、違った形に改修されてしまっていたが、[[1993年]](平成5年)に行われた修理で当初に近い姿で再改修されている。[[1876年]]([[明治]]9年)には、[[二の丸]]の矢来門が専修院([[丹羽郡]][[扶桑町]][[柏森村|柏森]][[字]]乙西屋敷に所在)へ移築されて東門として再利用された。同年、第一[[黒門]]が[[徳林寺 (大口町)|徳林寺]](丹羽郡[[大口町]]余野に所在)へ移築され、山門として再利用されたが、移築時に袖塀が併設されている。同年、内田御門(犬山城の[[搦手門]])と伝わる城門は[[瑞泉寺 (犬山市)|瑞泉寺]](犬山市犬山瑞泉寺に所在)に移築され、山門として再利用された。元々この門は[[美濃国|美濃]][[金山城 (美濃国)|金山城]]の[[大手門]]であったのを犬山城に移築したものであったとの伝承がある。また、どこの門であったかは不明ながら旧城門と伝わる門が個人宅に移築されている。なお、運善寺山門は一宮市の、専修院東門は扶桑町の、徳林寺山門は大口町の、指定[[文化財]]となっている。{{clear|left}}
 
 
 
=== 犬山城白帝文庫の文化財 ===
 
[[File:Inuyama Castle02.jpg|thumbnail|220px|犬山城古図]]
 
 
 
[[公益財団法人]][[犬山城白帝文庫]]が所有・管理する[[文化財]]は、[[犬山市文化史料館]](所在地:[[大字]]犬山[[字]]北古券8)本館の主要施設である犬山城白帝文庫歴史文化館に収蔵されている。当施設は、[[美術工芸品]]、[[刀剣]]類、[[古文書]]、絵[[地図]]などを収蔵している。
 
 
 
; 重要文化財(国指定)
 
短刀 銘左安吉作/正平十二年二月日(たんとう めいさやすよし さく しょうへいじゅうにねんにがつひ)
 
* 1940年(昭和15年)5月3日付けで重要文化財に指定<ref>昭和15年文部省告示第448号</ref>。[[正平 (日本)|正平]]12年([[1357年]])の作<!--刀剣の銘は「二月日」「八月日」とするのが慣例で、「二月日」を西暦換算する意味合いは薄い。-->。差表に「左安吉作」、差裏に「正平十二年二月 日」の銘がある<!--裏銘は指定名称では「正平十二年二月 日」。文化庁DBに「正平十□年二月 日」とあるが、「十□年」とする理由は不明。-->。作者の左安吉は筑前の刀工[[左文字源慶|左文字]]の子とされる。刃長29.4cm、元幅2.7cm。
 
* 犬山城白帝文庫の公式サイトには本作を「[[脇差]]」としているが、本項では、重要文化財指定名称に準じて「[[短刀]]」とする。「短刀」と「脇差」の違いについては諸説あるが、一般的には刃長一[[尺]]以下のものを短刀、一尺以上のものを脇差と称する。
 
 
 
; その他
 
長篠小牧長久手合戦図屏風
 
* 六曲一双。[[長篠の戦い|長篠合戦]]図(左隻)と[[小牧・長久手の戦い|小牧長久手合戦]]図(右隻)の一双で構成される[[合戦]][[屏風]]であり、左隻には、[[犬山藩]]初代藩主・[[成瀬正成]]の父である[[戦国時代 (日本)|戦国]][[武将]]・[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]が、右隻には、[[初陣]]を飾る正成の勇姿が2箇所にわたって描き込まれている。
 
 
 
== 現地情報 ==
 
* 所在地 - 〒484-0082 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
 
* 交通アクセス - [[名古屋鉄道|名鉄]][[犬山駅]]または[[犬山遊園駅]]より徒歩15分
 
 
 
== 料金 ==
 
* 大人:550円
 
* 小人:110円
 
 
 
== その他 ==
 
高知県の[[中村城 (土佐国)|中村城跡]]に建設された四万十市立郷土資料館の建物は、犬山城をモデルにして建設された<ref>[http://www.city.shimanto.lg.jp/kanko/i-menu04-3.html 四万十市観光情報(学習施設)]</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=*}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Inuyama Castle}}
 
* [[国宝]]
 
* [[現存天守]]
 
* [[日本100名城]]
 
* [[日本の城一覧]]
 
* [[金山城 (美濃国)]]
 
* [[犬山祭]]
 
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]
 
* [[田村淳]]([[ロンドンブーツ1号2号]])- 日本の城で犬山城が一番好きだと公言していた事がきっかけで、「犬山観光特使」となった。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://inuyama-castle.jp/ 公式サイト]
 
* [http://www.inuyamajohb.org/ 犬山城白帝文庫]
 
* [http://www.google.co.jp/maps?q=%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E&layer=c&sll=35.387794,136.939675&cid=3643876982911589198&cbp=12,318.58,,0,-9.32&cbll=35.387979,136.939656&hl=ja&brcurrent=3,0x60030ef4585f565f:0xf2cd479c7187e3ab,0&ie=UTF8&hq=%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E&hnear=&panoid=owefGI7U5TTkQujETdxmtg&ll=35.387887,136.939808&spn=0.001043,0.002084&z=19&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 犬山城ストリートビュー]
 
* [http://kojodan.jp/castle/3/#section-castle-memo 犬山城の観光ガイド] - 攻城団
 
* [https://www.aichi-now.jp/spots/detail/20/ 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 国宝 犬山城]
 
 
 
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[[Category:愛知県の城]]
 
[[Category:愛知県の城]]

2019/5/7/ (火) 22:57時点における最新版

犬山城.愛知県犬山市.jpg

犬山城(いぬやまじょう)

愛知県犬山市,木曾川南岸に屹立する平山城。白帝城ともいう。草創期のものは市の南方木下村にあり,木下城と称し,文明年間 (1469~87) 管領斯波義郷の家臣織田郷広が砦を設け,その子広近に守らせたが,斯波氏衰亡ののち,織田氏の支配下に入った。天文6 (1537) 年織田信康が城を現位置に移し,信長のとき柘植与一,次いで池田信輝に与えたが,天正 10 (1582) 年本能寺の変後その子織田信雄の領有となり,その家臣中川定成が城主として在城,小牧・長久手の戦いののち,天正 13 (1585) 年武田清俊,次いで天正 15 (1587) 年土方勘兵衛に与えられた。信雄配流ののち,豊臣秀次の領有となり,天正 18 (1590) 年その実父長尾常閑が城主となる。文禄1 (1592) 年秀次の臣三輪出羽守の手に移り,文禄4 (1595) 年秀次自刃ののち城主は石川貞清 (光吉) に代わる。『金山記大成』には貞清が慶長4 (1599) 年森氏の居城金山城 (岐阜県可児市) の古材を木曾川の流れに乗せて運搬して天守を築いたとみえるが,1964年の解体修理の結果,天守下層は織田信康の頃,上層は慶長5 (1600) 年清洲城主松平忠吉の家臣小笠原吉次により増築されたもので,金山城の古材も石川氏でなく小笠原氏により運搬され,天守以外の櫓 (やぐら) や城門に用いられたことが明らかにされた。天守外観は3層であるが,内部は5階。高さは南側地上より 83尺 (25m) 余。唐破風,千鳥破風を備え,軽快,洒脱のふうがある。慶長 12 (1607) 年小笠原氏が佐倉へ移封後,清洲はのちの尾張藩主徳川義直に与えられ,犬山城にはその家臣平岩親吉が入ったが,慶長 16 (1611) 年平岩氏に嗣子がなく断絶。しばらくは城主がなく,元和2 (1616) 年以後尾張徳川家付家老成瀬正成とその子孫が在城して明治にいたる。現存天守建築のなかで最古の遺構で,1935年国宝指定,第2次世界大戦後も再指定。



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